第二幕 第十六話「夢は栄えど 前編」

 ただいまの時の名はにして、人を数えることおよそ100万に及ぶとか及ばないとか。

 かつて太田道灌おおたどうかんが築いた江戸城のふもとに栄える城下町。町人の文化が花開き、人の手によって創り出され、世界で最も人で溢れた巨大都市、それが江戸である。

 気を取り直して進んでいくと、少女はその大きさに圧倒される。山の大きさとはまた違う、気圧けおされるような、暴力的な大きさだ。

 人が創り、人が息づくその都市は、それ自体に意志が宿っているかのように、今にも少女を飲み込まんとしている。

 坂を上り、一つ橋を越えるとまた坂だ。逆に転がり落ちてしまいそうになりながらも、荷車をやっとの思いで運び上げ、どれほど進んだことだろうか。膝についていた手をどけ、背を伸ばす。

 少年は被り笠を、少女は差し掛け傘の位置を整えてあたりを見る。

 気が付けばそこは、江戸の町の中だった。

 見渡す限りの人。どこまでも続くような町屋の数々。少女らが10人、腕を広げて横に並ぶことができるほどに広い道。

 意識が引き込まれそうなほどの喧騒に、少女の耳が覆われる。雑多な足音や、にぎやかになりすぎて半ば怒号のようになっている会話。慌ただしく走る黒の着物の男たち。

 まったくの落ち着きを持たない、山とはまるで正反対の環境であったが、少女はどこか安堵を覚えていた。

 すべてが異なる世界に辿り着いたことで、運命からも離れたように感じられたのだろうか。しかし少女は思う。

 ——なんて美しいところなんだろう。

 その訳を、少女はまだ知ることはできない。

 今まで外の世界で見てきた景色など、五感で感じられるそのすべてに対しても、感動を覚えた少女だったが、この江戸に来てからは何か違うものが感じられるようだった。

 ——きっと私が本当に知らなかったものが、ここにはある。

 少女はそう思うようになる。

 遠くにはひと際大きな建物が見える。日継ぎの時に見た拝殿も大きかったが、それの何倍も大きなものがそびえ立っている。

「あれは城ってもんでして、あそこにはとっても偉い人が住んでるんです」

「あんなところに人が住んでるの」

 落っこちてしまいそう、などと少女は呑気に思う。

「ええ、時の将軍様が住んでいまして、なんでもだとか」

「へえ、優しい人なのね」

 この二人にとって、特に少女にとって江戸とは、あのから逃げ出すための理由の一つでもあった。

 かつて「夢は栄」などと詠んだ少女も、今やうつつに栄える江戸に目を輝かせ、期待で膨らんだ胸にも入らないほどに大きな外の世界を満喫している。

 隣の少年はそんな少女を見て、本当に笑顔が増えたなあなどと、こちらも呑気ではあるが、胸が熱くなり、なにかが込みあがってくるのを感じている。

 少年はその感情の名前をまだ知らないが、少女に由来するものだということは、はっきりと分かっていた。

 太陽もまだ昇りきっておらず、昼時までは時間がある。おばさんの薬を買いに来たというのはもちろん忘れていないが、二人の目指した江戸である。年甲斐に楽しんでもいいだろう。

 こういう時、ヤスは非常に気の利く男である。

 人の顔をうかがって生きてきた、というのも影響しているのだろう。

「お二方、このヤスに江戸を案内させてくだせえ。薬は、お昼下がりにでも買いに行きましょう」


 てくてくと歩いていくと、ヤスはとある呉服屋の前で止まる。

 こけらきの屋根で、薄い青の暖簾のれんが垂れている。二階は横長の窓が開かれ、中から人の話し声が漏れ聞こえてくる。奥の方からはちょろちょろと水の流れる音がして、店とはいえ、ここで人が生活をしているのだという実感を与えるものとなっている。

「お二方、ずっと同じようなお召し物を着ていらっしゃるでしょう。おいらの懐具合では、まるっきり買うことはできませんが、どうです?少し気休めというのも」

 ヤスの言葉に二人はぽかんとしていたが、次第に言われていることを理解し始めてきたようだ。

 思えば、少年も少女もずっと同じ衣服を着ている。松葉色の袴に緋色の袴。一目見れば誰だかわかるのは良いのだが、いい加減飽きてはいたのだろう。店先に並ぶ見たことのない衣服の数々に、二人の目は釘付けだ。

 ただ、今までは逃げることやその日を生きることに必死で気が付かなかったのである。

 それは、ようやく少女たちも生きる以外に目向けることが許されるくらいにはなったということの裏付けでもあるのだが。

 色とりどりの着物が並んでいる。少女は自分の緋袴と一つずつ見比べながら店の奥へ奥へと進んでいく。

 自分がそれを着た姿を想像しているのだろう。

 艶やかな黒を纏った髪と、それをより映えさせる白の小袖。少女の火を象徴するかのような緋袴。黒と白と朱の見事な三つの色合いももちろん限りなく美しいのだが、少年は店に並ぶ数々を少女に重ねて見る。

 藍染のものはどうだろうか。きっと今よりも引き締まった印象になり、少女の雅な雰囲気も増し、その魔性が存分に現れることだろう。

 白と黄金色の散った振袖はどうだろうか。こちらはまた綺麗な印象になるだろう。少女の奥ゆかしい艶麗さよりかは、純粋な美しさが際立つだろう。小袖から振袖になったことにより、動作そのものにも色が付き、まるで光の粒が彼女に追随しているようにも見えるだろう。

 柄物はどうだろうか。幼さの残る彼女が着ればたちまち可愛らしく映るだろう。しかしその着こなしは、大人にしか出せない色気を孕んでいるともとれるだろう。

 平安ながらの十二単なども捨てがたい。

 そんな夢を膨らませる二人の様子に、ヤスは男気を見せて何かを買ってあげたくなった。

 こっそり店の人に値を聞くと、背筋が凍った。

 少女がその着物の類が欲しいなどと言ってはこないかと、ヤスがビクビクしている。

 それとは裏腹に、少女の目をひと際引いていたのは、あるかんざしだった。

 花や鳥などの装飾があるというのが一般的なのであろうが、少女の視線の先のかんざしは至って単純な造りで、無駄の削がれた機能的なものとも言える。

 薄い黄金色に染まり、火の光を受けてチラチラと光るそれを手に取ると、少女はヤスの元へ持っていく。

「ねえヤスさん、これ買ってもいい?」

 ビクッと背筋が伸びるヤスだったが、少女の掌の上のかんざしを見て、いつもの猫背に戻る。

「ええ、もちろん。あねさんのためならばこのヤス、どんなに腹が冷えても大丈夫ですんで!」

 かんざしを一つ買い、三人はまた歩き出す。

 差し掛け傘の影の中で、少女の髪に埋もれたかんざしがチラと光る。


 次に入ったのは、見事な黒漆喰くろしっくいの店蔵だった。板葺きのひさしに深い青の暖簾が垂れている。

 中に入るとほんのり温かい。冬の冷たい風も入らずぬくぬくといった具合だ。

 売られていたのは、箸やまな板などの小物類だった。少女はおばさんへのお土産と言って茶碗を。少年は店の隅にあった草刈り用の小さな鎌を、ヤスに頼んで買うことになった。

 店を出ようと戸の外を見る。すると、人の流れができているのが分かる。

 雑多な人々ではあるが、その多くが同じ方向に歩いているのだ。

 外に出て、その向かう先を見てみると、これまた人だかりができている。なんだろうと、気になって近づいてみると、そこは講釈場だった。

 群がる人々が押したり引いたりする中、するすると中の方まで入っていく。

 高座に座った男が、張り扇で釈台の机を叩いては、調子を取りながら話を聞かせていた。あれだけざわざわとしていた人々も、たちまち講釈師が話し始めれば静かになる。

 張り扇の音がバシリと木に響き、よく通る声があたりを包む。

 聞いてみると、二本の刀を持った武士の話らしい。扇を刀に見立て、ばったばったと斬り倒していく様を全身で表現していた。

 引き込まれるその話術に、少年は食い入るように聞いた。まるでその話を実際に体験しているかのような感覚に陥り、刀も無ければ敵もいないのに、真剣同士の緊張感や、凄まじい戦闘が本当に存在しているかのようにも感じられた。

 少女は話自体にはあまり興味がなかったのか、髪をいじくっては講釈場の内装などを見物していたが、四半時のそれが終わるころには少女も講釈師の話に目を輝かせていた。

 少年は熱にあてられてか、冬の寒さも忘れて汗ばみ、興奮冷めやらぬといった様子であった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る