第二幕 第二十一話「咲けよ江戸の華 中編」
カンカンカンと半鐘の音がさらに強くなる。昼間よりも乱れた江戸の喧騒を切り裂くように、
立ち尽くす少女たちには目もくれず、人々は
「ヒナタ、行こう!」
少年は少女の手を引いてその場から離れようとするが、少女は足がすくんで動くことができない。
少女の瞳に映るもの。
それは、焼けて
それは、風に吹かれて舞い上がる呉服の数々であった。色とりどりの着物が宙に浮いては、すべてが燃える火の朱に染まっていく。しかしそれらが着地することはなく、空中で燃え尽きてはパラパラと
風が吹いてより一層火が大きくなり、天高く昇り、また町屋が一つ大きな音を立てて崩れる。
人という人が脇目も振らず、一心不乱に駆けている。背に子を負う者、年寄りに肩を貸す者、若い女までもが火のない広小路へと逃げている。
人々が自分の背の後ろの方へ
——何なの、これは。
少女の心の中にある何かが崩れていく。
かつて夢にまで見た江戸が火に包まれ、見知ったものが壊れていく。少女の歩いた道が、見かけた店蔵が、想いを馳せた着物が、無残に散っていく。
少女にとって江戸とは、ある種の理想のようなものであった。未知なる外の世界を象徴する存在、そして少女の心の支柱とも言えた。
その理想が、あるいは外の世界で知ったすべてが消えていくような、そんな感覚が少女の内側で巻き起こっている。
「ヒナタ!」
先ほどよりも強く、少年が叫ぶ。今度は両手でがっしり肩を掴んで。
いまだ茫然自失である少女に、少年は言う。もう時間がないのだと。このままではいけないのだと。
「逃げよう」
少年は無理矢理少女の手を引いて広小路へ駆けだす。引かれる少女はそのギリギリまで燃えていく大通り沿いの町屋を見て、その瞳はどこか潤んでいたような気もするが、火の熱で蒸発してしまって、泪を流す暇などありはしない。
広小路は人で埋め尽くされていた。火元から離れているために薄暗くはなっているが、それでも燭台の灯よりは幾分か明るかった。
走り疲れたのだろう、人々の多くは地面にへたり込み、そのせいで余計に空間を占めてしまっている。
少女たちは道の端の空いているところを見つけ、町屋の壁に背中を預けて座り込む。
「ああ、あなたたち、無事だったのね!」
声がして顔を上げると、トモノリの漢方屋の女店員がいた。頬は少し黒く汚れていて、衣服が少し乱れている。右足を引きずるように歩いていて、見ると足首に大きな
「ここまで子供二人でよく頑張って走ったわね。偉いわ」
不安を少しでも和らげようと、彼女は二人の頭を撫でる。
そのおかげか、少女の浅かった呼吸は落ち着きを取り戻す。ただ少年は、どこか
彼女自身も特別落ち着いているわけではないのだが、余裕のない時ほど他人に気を配るというのは心得ていた。
少年の表情を見て、まだこの子の方は大丈夫だろう、と少女の隣に座る。
少女は差し掛け傘を抱きかかえるようにしている。
「トモノリさんとヤスさんは?」
不意に少年が問う。
「シュウ……、いえトモノリさんは火事を止めに行ったわ。ヤスさんもその手伝いに行っているはずよ」
この子たちの前では「トモノリ」と言おうと言いなおす彼女だが、その名を呼ぶ声色にはただの店主と女店員以上の感情が含まれているようにも感じられる。
「そっか」
あっさりとした返事をする少年はしかし、硬く拳を握りしめている。自分の隣に座らなくて本当に良かった、と少年は内心思う。これは少年なりの見栄なのであろう。
しかしそんなことはお見通しなのだろう。彼女は独り言のように呟く。
「そんなに気負わなくてもいいのよ」
少年は知らんふりをするが、拳は解いている。その表情に滲む感情には、焦りというものが一番近いのだろう。
「私も同じだもの」
少年はハッと顔を上げて声の出元を見る。
「できることなら私も火事場に行きたかった。行って自分の手で守りたかった。でも女だから……。こうして待つことしかできないの」
少年は返事をすることもなくただ聞き入る。
「でもね、人には役割があるの。トモノリさんたちが店を守るように、今の私はあなたたち二人を守るの。そしてあなたは、この子を守るの。そうやって少しずつ、自分の手が届く範囲を守っていくのが、大人の世界なんだって、私は思うの」
まだ私も分からないことばかりだけどね、と笑う。
少年はかつておばさんに言われた「自分が先に倒れちゃ本末転倒じゃないか」という言葉の意味を真に理解した気がした。
子供は自分の身を守ることだけを考えていればいい。他人を守るのは大人の役割だ。大人の役割をしようとして子供の役割ができなくなるなんて、本末転倒じゃないかと。そう言いたかったのだろうと、少年はそう受け止めた。
しかし今、トモノリの店の女店員は、少年の役割として少女を守ることを告げた。これは少なからず少年を大人の端くれとして認めていることと同義ではないのか。それに気づいてか気づかないでか、少年はストンと胸に落ちるものを感じ、「今はこれでいい。今は」と納得することにした。
結局、女店員の独り言のような形で終わった自分を挟んで行われる会話に耳を傾けていた少女は、慌ただしい音にふと顔を上げる。
数人の男が広小路に走りこんでくる。声を荒げながら割って入ってくる。ドサと何かが置かれると、その男たちはまた元来た方へ戻っていく。
少女は置き残されたものに目を向ける。するとそれは、一人の男であった。身体を黒く焦がし、所々に赤く血の垂れた跡が見えるが、それさえも焼かれて固まっている。血の焦げた香りが漂っている。
かろうじて息をしているその男はしかし、ふるふると身体を小刻みに震わしながら匍匐をして男たちの去っていった方へ向かおうとしている。
「あの人は……」
少女は問う。あの人はなぜ満身創痍になっているのか、と。
「ああ、きっと火事場に行っていた人ね」
少女はぼうっと男を見る。
すると崩れ去ったはずの心に、一滴の雫が垂れたようにさざ波が立った。全身の毛が逆立つほどの強い異物感が胸に生じた。何か、新しいものが芽吹こうとしているのを、少女は感じている。
少女は虚ろな瞳で短い吐息を漏らす。
少女は瞳を閉じて鋭く空気を吸い込む。
少女は瞼を上げ目を開く。スッと見据えるその先は、遠くで燃ゆる火。唇をきつく閉じる。
そして少女は立ち上がる。
——行かなくちゃ。
今ここで行かなければ、この目で見なければ、きっと二度と手に入らない気がして。何が、というのは分からないけれど、それでも行かなくちゃいけない気がして。
少女は思うままに足を動かす。
遅れて少年も立ち上がる。「行って」と女店員が言うと、少年は何も返さず走り出す。彼女は自身の右足に視線を落とした後、少女たちの走ってゆく先を見る。きっとあの子たちは知らず知らずのうちに開花の時を迎えているのだろう、と。
差し掛け傘を片手に走る少女の緋袴の朱が、江戸に映しだされる火の赤よりも鮮やかな一筋の光を描く。
本当に知らなかったことを、外の世界で本当に知らなければならなかったことを知るために、少女は行く。
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