第二幕 第八話「火の誓い、東へ」

 廻廊かいろうに囲まれた中央の少女の手前、羽虫の音すらしないほどに静まった中、宮司が一歩拝殿の方に踏み出す。そのまま石畳に拳をつきながら正座をし、拝殿へ正対する。

 廻廊に控える神主のすべて、少女までもがこうべを垂らしている。

 宮司はふところから出したしちれ半の分厚い紙を胸の前に広げ、静寂を切り裂くように口を開く。

「掛けまくもかしこ伊邪那美大神いざなみのおおみかみ、甲斐のの八海をもってうぶ湯とさせ給ひし時にせるほむらばな大輪たいりん、諸々の禍事まがごと・罪・けがれ有らむをばはらへ給ひ清め給へともうすことを、聞こしせとかしこみ恐みももうす」

 祝詞のりとを上げるその声は低く、間違いのない一定の音色だ。非常にゆったりとしていたが、声が途切れることも揺らぐこともない。

 日継ぎに先立って行われる修祓しゅばつの儀だ。

 神主たちがゆるやかに頭を上げる中、少女だけは頭を垂らしたままで、何への祈りか、身体の前で手を組んでただ屹立きつりつしている。そばには差し掛け傘が転がっている。

 その少女の元へ宮司がやってくる。その手には大麻おおぬさがある。さかきの枝の先に紙垂しでがつけられている。それを揺らさぬように両手で抱え、足音すら聞こえない。

 少女の頭の上から大麻おおぬさを垂らし、決して音を立てることなく、撫でるように触れさせる。これによってけがれが大麻おおぬさに移るというのだが、大麻おおぬさは少女に触れたところからたちまち火がついて、終いには紙垂しでのすべてを灰にしてしまった。

 廻廊の一部から、ガタッと音がする。神主の内の一人が取り乱してしまったようだ。を間近で見たのである。否応いやおうなしに少女がそれであると知らされる。

 さかきの枝のみとなってしまったものを手に、宮司は眉を寄せて少女を見る。その目は酷く冷たい。

 廻廊に控える神主たちも同様だ。静寂とはまた違う、冷ややかな視線が少女に集まっている。

 宮司は大麻おおぬさの成れの果てを拝殿の前に捧げると、右手の方へはけていく。

 様子を見ていた少年だったが、ちょうど自分のいる廻廊の方へ宮司が来てしまったために、その姿が視認できなくなってしまう。


 取り残された少女は一人うつむきがちに立ち尽くしている。上空では空気が逆巻いているが、隙間なく締め切られた門のせいで少女にそれは届くことはない。

 少女は膝を折ってもう少しかがむ形になり、そこらに転がりほうけていた差し掛け傘を拾う。その閉ざされた姿は一本の竹のようにも見える。

 月の光すらもさえぎってしまおうとでも言うのか、少女はその差し掛け傘を開くと、たけのところをぽんと右の肩に置く。すると傘に閉じ込められていたものが飛び出てくるように、花のような淡い香りが少女の鼻腔をくすぐる。

 光が遮られ、少女の姿が闇に溶け込んで見えなくなると、境内けいだいに白くまばゆい一輪の花が咲いた。

 白の花弁が宙を揺蕩たゆたうように傘を振り、少女は顔を上げる。

 ぎの神楽かぐらである。

 差し掛け傘の軒紙のきがみをつまんで回し、首を斜めにかしげる。穏やかに細まった瞳が何とも言い難い夢想的な雰囲気を演出し、視線は傘の先端の方を捉えて離れない。石の大地に擦らせながらゆるりと素足を運ぶ。

 その滑らかな身のこなしはどこを取っても可憐で、見るものすべてを魅了する。身体やその仕草で曲線を現し、水が上から下へと流れ落ちるような、必然性を孕んだ予定調和がそこには確かに存在している。

 かの菱川ひしかわがこの神楽を見たのならば、その生涯のすべてを捧げてこの少女を描くのだろう。

 いや、たとえかの菱川がその生涯を懸けてさえ、今の少女を表現することなど到底できないだろう。

 穢れた親殺しの火を神の炎によって浄火し、新たな太陽を創生する日継ぎ。そのがする神楽だというのに、こんなにも美しい。

 しかし、宮司を含む他の神主たちは皆、この閑雅かんがな神楽でさえ、太陽の神への供え物としか思ってはいないのだろう。依然として一切動じることなく、ただ一点のみを見つめている。


 少年は廻廊の床下から、少女の神楽を見ていた。

 白い光を放つ差し掛け傘に遮られて顔を見ることは叶わなかったが、緋袴のしゅが夜の差し色となって照らし出す、黒髪の流れる様子にを垣間見た。それに目を奪われほうけていた少年だったが、抱えていたまりの感触に我を思い出す。

 神楽の瞬間は少女が一人になる。合図を出したら一緒に逃げよう。

 少年はクッと口を閉めると、鋭い眼光に変わる。機会は一度だけ。少女を救うには、失敗は決して許されない。

 そっと音を立てぬように膝をつき、床下から出るギリギリのところまで行く。

 少女の舞っている位置を確認して毬を投げて転がす。松葉色の毬はやがて少女の視界に入り、少女もだと分かる。

 すると廻廊のあちこちに仕掛けていた少女の髪や、少年の持つ髪がたちまち燃え上がり、拝殿が廻廊の火によって囲まれる。突然の火に神主たちが戸惑い慌てる中、少年は少女の元に駆けていき、そのまま燃えてもろくなった門を蹴破けやぶると、少女を連れて火の中に飛び込んで、遠くへと逃げていく。

 ……はずだったのだが。実際は火が出るどころか、少女の神楽は一切止まる気配が無く、松葉色の毬も滑稽こっけいに転がっているだけだ。

 少年は頭が真っ白になり、たまらず飛び出してしまう。

「ヒナタ!」

 燦然さんぜんとした月明かりが、焦りに染まったその表情をさらし上げる。



 神楽の最中、少女は身体の内側から熱がこみあげてくるのを感じていた。けつくほどの熱に、汗が噴き出てはすぐに空気へ溶けていく中、視界の端からころころと松葉色の毬が転がってきた。

 身体はのぼせ上がっていたが、むしろ頭は鋭く冴え渡っていた。周りがよく見え、もちろんそれが少年からの合図だとすぐに気が付いた。

 合図をしたら髪を燃やす。少女は少年との計画の通りに実行しようとする。

 しかし身体は動かない。否、止めることができない。

 自分ではない何者かの意志によって身体が勝手に舞い上がってしまう。いくら少女が「動いて!」と思っても、身体が言うことを聞いてくれない。太陽の巫女としての運命だとでも言うのか、まるで身体が支配されてしまったようだ。

 じんわりと朱の色に染まった髪先は、着々とへ変質していっていることを示している。

「ヒナタ!」

 少年の叫声が聞こえてくる。

 ——ミヅキ!

 少女の耳は確かに少年の声を捉える。

 心が叫ぶ。声を出してと願う。運命に負けてなるものかと抗う。

 されど神楽は止まらない。

 こぶしを握りしめることすら許されず、その意志とは関係なく少女は純潔の日継ぎの神楽を、太陽の神に捧げるばかりである。

 最初は糸に吊るされて操られるようで嫌悪していたが、次第にその感覚が心地よくなっているのを少女は感じる。母の胎内のような、このまま身をゆだねてしまいたくなるような、そんな感覚に変わっていく。

 どうせ結果が同じならば気持ちよくなってしまえという、防衛本能なのかもしれない。または、太陽の巫女として生まれながらに仕組まれていたのかもしれない。

 止まらぬ神楽の動作の中で、くるりと回った時、視界の端に少年が神主たちに捕らえられたのが映る。少年は抵抗しているが、大勢の大人の力には及ばず、腹に蹴りが入れられて取り押さえられてしまう。

 その姿を火がおおって隠す。その火の出どころは自分の身体なのだと少女は気づく。

 手の甲から火が出ている。火はどんどん勢いを強め、腕の方にも昇ろうとしている。

 やがて火は身体のすべてを包んでしまい、このまま燃えて太陽になってしまうのだろう。

 少女は悟る。

 肉体という呪縛の器から解き放たれ、精神のみが独立していくのを感じる。

 少年の声が遠くに聞こえる。やがて聞こえなくなると身体が熱をも受け付けなくなる。

 灼けるほどの熱から解放されると、四肢の感覚が無くなってくる。浮いていくような、沈んでいくような倒錯的な感覚におちいっていく。

 ちていく身体とは反対に思考は加速していた。歯止めのかからない頭で思う。

 すべては無駄なのだと。知れば知るほど押し付けられる真実の雁字搦がんじがらめに、考えれば考えるほど迷い込む現実の袋小路ふくろこうじに、少女ははまっていってしまう。

 甘い退廃的な感覚が少女を支配する。

 快楽物質で汚染された脳が、恐怖を遮断してしまい、嫌悪すら依存させるほどの中毒になる。

 燃えてゆく、消えてゆく——。

 頭ではそれを理解していながらも、しまいにはそれをすべて受け入れてしまう。

 思考すら消えかけたその時、少女の胸から一枚の紙が飛び出てくる。

 少年の渡した形代かたしろである。

 人の形を摸したそれは少女の火を吸い込んで炎を纏い始め、やがて一つの燃える玉となった。

 小さな太陽にも見えるその火の玉が天高く昇っていくと、あたりが昼のように明るくなる。

 しかし雲を突き抜けようかというところで消えて無くなってしまう。火の粉が散り落ちてくる内はまだ明るかったが、それも終わると再び月の光だけが夜を照らすようになる。

 身体から火が消えて茫然ぼうぜん自失じしつとしていた少女だったが、手の甲に鋭い痛みを覚えると目を開く。見ると少しだけ灰に朽ちている。

 いつの間にやら神楽は止まっていて、少女はその場に座り込んでいた。身体の熱は静まり、髪先もいつものあでやかな黒に戻っていた。

 おぼろげな頭で思う、きっと少年の形代かたしろが守ってくれたのだろうと。

 廻廊に控えていた神主たちもざわつき始めていた。

 不意に宮司は何かに気が付いた。異常な剣幕である。それは焦りにもとれた。

 だがそれは少年の行いや、少女が神楽を止めたことに対してではない。

 より大きなものに対してだ。

こうべを垂れよ!」

 聞いた神主たちはすぐさま膝をつきひたいを地にこすり付ける。叫んだ宮司も同様だ。

 しかし紫袴の一人は少年を捕えていたために反応が遅れてしまう。

 その神主の身体からたちまち炎が噴き出す。それはすぐにその者全体を包み、ついには灰へと変わってしまった。

 何が起こったというのか。いや、何もだ。何一つとして起こってはいない。

 そこには必然しか無かった。

 ただ、本殿の奥のさらに奥でうごめく得体のしれないの存在を、明確にその肌で感じ取る。そこにいたすべての者は、生命活動の仕方を忘れてしまったかのようにぴたりと動きを止める。

 空気が自我を持ったようにその奥の方へと吹きすさび、紫袴の神主の燃えた灰を本殿の向こうへと運ぶ。

 それを見て宮司が額を地に付けたままに叫ぶ。

「神がいかっている……。ああ、神よ!どうかその怒りをお鎮めください。我らあなたさまの眷属けんぞくにして地上の使徒でございます。あなた様への次なる太陽のにえが神楽を止めてしまったのです。あなた様のその怒りは地上を思う慈愛じあいの心によってもたらすものなのでしょう。ただいま儀式を再度執り行い、贄に神楽を舞わせます。ですのでどうか怒りをお鎮めください!」

 言うや否や、宮司の身体からも炎があふれてくる。

「ああ、神よ。よ!これこそがあなた様の炎。清純で崇高なる炎。ようやく私はへとこの身を還すことができるのですね」

 人の身でありながら神を推し量った罰なのだろうか、白紋の白袴が朱に染まり、黒になり、そのまま鈍色の灰に変わり、宮司はその言葉とは裏腹に大地にその身を還した。

 かたわらで見ていた者たちは次々に合掌し、に祈りを捧げる。

 辺りに漂う空気感が弱くなると、紫袴に白紋のある一人が少女に近づいていく。

「さあ、日継ぎの神楽を再開しましょう。我らが神もお告げだ」

 と少女の腕に触れたところからたちまちが出る。

 咄嗟に手を引き、憎悪のこもった視線を少女に向ける。

「この、穢れたを浄火しようというのだ。人の身で神の真似事とは、何とも愚かな。今ここで舞いなさい。さあ、早く」

「嫌っ、違う、私じゃない。いいから私から離れて!」

 拒絶する少女に、さらに近づいていく。が出たところを押さえ、決して触れないように迫る。

 その声を聞くやすぐに少年が駆けていく。どこに潜ませていたのか一尺三寸の脇差わきざしを抜き放ち、その間に割って入る。

 切っ先は震えているが確かにその男の喉元を捉えていた。少年の背丈にはやや大きく釣り合わない脇差の刃がぎらりと光る。

「離れてくれ、でないと斬らなきゃならない」

「おぬしは白袴の見習いか、今はなぜか松葉色のを穿いて私に立ち塞がっているが」

 男はずいと前に出る。伴って少年は一歩後退する。

 少女は少年の背中に隠れ、緊迫した状況にも関わらず、安堵を覚えていた。それは先ほどまでの倒錯的なものではない。

 大きいとは言えない少年の背が、少女には何よりも大きく見える。

 少年からするほのかな土の匂いが混ざったそれを確かめる。もう見失わないようにと、少年の背に手を当てる。

 ——もう大丈夫。ミヅキが私を守ってくれるから。

「よいか、これは大事な日継ぎの儀式なのだ。新たな太陽を創生して死の灰を防ぐためだ。我らが太陽の神のお告げなのだ、分かったら、そこをどきなさい」

 そのままずんと距離を詰めると男の喉に刃の先が触れ、ツツと血が垂れる。

 ジリと下がる少年だが、このままではらちが明かない。

 少年がちらっと後ろを見ると、空気が意志を伝導し、互いの考えが手に取るように分かる。

「ヒナタ、お願い!」

「うん」

 少女は傘を持っていない右手を胸に当て、瞳を閉じる。

 わずかに髪の先が朱に染まり、ふわりと浮く。

 するとたちまち廻廊のあちこちから火が出てくる。拝殿の周りを囲うように火を纏った華が咲く。うなるようなその勢いは空気すらも焦げつくほどだ。

 また、少年の胸の内にあった少女の髪が外に飛び出ては同様に火を纏う。それが地に落ちると、紫袴の神主と二人をを隔てる火のふすまへと姿を変える。

 少年は脇差をさやに納めて周囲を見渡す。

 どこに逃げようか。空を見上げると、東の方に薄明かりが見える。

 ——どうせすぐに朝が来る。なら、少しでも早く夜が来る方へ逃げよう。

 少年は少女の手を引いて東の門へ、つまり日の昇る方へと駆け出していく。

 火で脆くなった門に肩をぶつけると、ちょうど子供が通り抜けられるほどの隙間ができる。そして二人の姿は火にまぎれて見えなくなる。

「追いなさい!巫女は生きて連れ戻し、見習いは——野に捨てても構わない」

 10人ほどの神主が門を出て森へ入っていく。

 少年たちは森の中を行き、道とも呼べないような獣道を走る。

 動きにくい千早ちはやなど少女はとうに脱ぎ捨てて、ただ差し掛け傘だけはしっかりとたずさえて。

 すねが擦れて切れようとも草葉をかき分け、とても人が通ることのできないような道無き道を行く。

 地表に浮き出た石や木の根につまずいて転びそうになるのを耐えながら、ただひたすらに脚を動かす。

 とにかく遠くへ、どこか遠くへと逃げていく。

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