第二幕 第九話「雲を霞と」

 走りながら見上げると、あかつきの空はわずかにしらんでいる。

 日が出てしまっては少女は自由に動けない。少年は自分の影に少女を隠して行こうかとも考えたが、後ろからは追手の足音が聞こえてきている。少女に殿しんがりをさせるわけにはいかない。

 横に並んで走るのが妥協であった。

「なるべく木の陰になるところを走ろう」

 さらに茂みの深い方へ進もうとした時、突如として空を黒い雲がおおった。

 僥倖ぎょうこうとはまさにこのことである。

 雲が月の光すらも遮り、まったくの闇を作り出し、二人の行方ゆくえを眩ませる。

 サーっと雨が降り始めると、地に打ち付ける雨音が足音をかき消し、足跡すらも消し去って流れていく。

 少女の身体に降り注ぐ初めての雨は、恵みそのものだった。

 東の向こうの空では雲の隙間から太陽の光が漏れ出ている。長く暗い闇の中、その光の出口を目指して、なおも走る。


 どのくらい走ってきたのだろう。両の脚がじんわりと痺れている。

 ちょうどよいくらいの木陰を見つけたので、二人はそこで一旦休むことにした。幸いにも追手が来ている気配はない。

 おそらくうまの刻を過ぎた頃だろうが、いまだに雨は止まない。

 いくら昼とはいえ、日が差さなければ気温は低いままだ。ましてや師走しわす朔日ついたち、冬の山である。肩を震わせて小さくうずくまり、身を寄せなければならなくなるのは明々白々である。二人の吐く息は白く、それは空の境界線さかいめの色をしている。

 本来ならばまきの代わりになるような落ち葉やら木の枝やらを燃やして暖を取るのだろうが、生憎あいにくこの雨の中では乾いたものなどは落ちているはずもない。

 そこで少女は髪の先一寸程を、少年に脇差で切らせ、それらを束にして下に置いた。

 指を絡めて手を胸の前で組むと、髪の束に火がついた。夜明け前をぼうっと照らすその火は、降りしきる雨の中でさえ、消える気配は全く無い。

 ほの暗い木陰で少年と少女が二人、互いの鼓動が聞こえる距離で身を寄せながら、手を火に当てている。

「ねえ、これからどうするの?」

「うん、ここから東にもう少し行ったところに小さな集落があるはずなんだ。そこまで行けばきっと大丈夫だよ」

 火と少年の温もりに安心したのか、少女はあくびをする。

「なんか眠くなっちゃった。ちょっと肩借りるね」

 緊張の糸がぷつりと切れたように少女は少年の肩に頭を預ける。

 火の力を酷使したというのもあるのだろう、雨で体力が奪われていたというのもあるのだろう、いつもは寝ている時間というのもあるのだろう。

 何はともあれ、少女はやんわりとした表情で瞳を閉じて寝息を立てている。

 はねた髪が頬に当たってこそばゆい。少女の髪をいてみると花の香りがする。

 ——僕も眠ろうかな。なんだか疲れちゃった。

 少年もまた瞳を閉じる。




 夢の中だろうか、少年は不思議な空間に居た。辺り一面に白いきりのような幕が張られていて、目の前にぽつんと火があるだけだ。

 その小さな種火がやがて少年の背丈せたけを超え、大人の男くらいの大きさになると、その火の中に何やらぼんやりと人影のようなものが見えるようになる。

 その人影がだんだんと近づいてくるように大きくなると、音を発して少年に語り掛け始める。

『我は、そなたらが神と呼ぶもの、太陽の使いである。今は人の言葉で直接語り掛けている。そなたらがどこへ逃げ隠れようと、例の巫女の少女はまた自ら戻ってくるのであろう——』

 嫌味でも言いに来たのか。否、必然の運命を伝えに来たのだろう。

 夢の中で少年は思う。

 だが聞き終わらぬうちに少年は目を覚ましてしまう。

 肩で少女の頭の重みを感じる。その確かな感覚が、ここが現実であることを告げる。

 目を擦って周囲を見渡す。

 眼前の火は、大きくなることもなければ、その中に人影が映ることもない。

 依然として降る雨の音で、夢でのこともおぼろげになっていく。

 さっき見たものはいったい何なのだろうか。おそらくは太陽の神とやらだろうと少年は思う。

 神の言う運命なんてくそくらえだ、とは思う。だが、今はただ隣の少女を感じていたい。今日太陽の神に捧げられて死ぬはずだった少女が、こうして息をしているということを噛みしめたい。

 ——ヒナタが生きている。今はただそれでいい。これからのことは、またこれから一緒に考えよう。

 今度は安らかな夢が見れますようにとまた眠りにつく。

 一つ屋根の下、と言うにはあまりにも心許こころもとない木陰で少年と少女が二人。

 そこには互いを拒むものも、遮るものも、何も無い。




「よし、行こう」

 ぐっすりと寝て元気十分といった具合だ。二人は快調に歩き出す。

 雨のおかげで、おそらくもうしばらくは追手は来ないだろうが、どちらにせよこのままでは二人して野垂れ死ぬだけだ。少しでも早く集落の方に着いておきたい。

 雨は寝ている間に上がったのだろう、西の空の低いところで日が照っている。

 日に当たることのできない少女は差し掛け傘を広げて、少年は手を取り少女の転ばぬ先の杖となって、西日を背に受け歩いていく。


 ほんのり暗くなってきたくらいに手燭を灯す。ここでもやはり少女の火を使う。

 火を自在に操る少女を見てか、獣たちも黙りこくっているのだろう。静かな森だ。

 二人の先行く道を指し示すかのように影が長く伸びていく。

 やがて日が沈み、二人の影と夜の闇の境界線が溶けて無くなると、今度は東の空に昇っていく星々が二人を導こうというのである。


 歩き疲れたところでまた一休みだ。

 太い木の根に腰掛けては、道すがら採っていた木の実を少女の髪の火で焼いて食べる。肉のたぐいは獣が寄り付かないので断念だ。ただ、寄り付いたとて、という話なのだが。

 初めて食べる味に「なにこれおいしい!」と少女は零れ落ちそうな頬を押さえて言う。

 それもそうだろう。何せ変わらぬ景色に変わらぬ食事と、色の無い毎日だったのだ。

 しかし今はどうだ。初めて見る草花、初めて嗅ぐ香り。昨日の雨もそうだ。野に咲く雑草にさえ目を輝かせる。

 目で見、鼻で嗅ぎ、耳で聞き、手で触れ、舌で味わう。その身に持ち得る五感のすべてを駆使して外の世界を存分に堪能している。

 こんなにも世界は広かったのかと、こんないもむねおどるものだったのかと、普段は凛としている少女も年頃の反応を見せる。

 その様子をみて嬉しくなったのか、少年は得意げに語る。

 少女は初めての外を感じ、少年は少女の初めて見せる表情を眺めている。


 歩いては休み、休んでは歩くを繰り返して小さな山を二つほど越え、逃げ始めてから三度目の夜も越えようとしていた師走しわすの三日。

 一度目の夜と同じく雨が降っている。風はその時よりも少しだけ強く、北から吹く風が冷たい空気とともに雨粒を二人の元へ運ぶ。

 土から足を離してできるくぼみに水が溜まる。

「……集落まで、もうすぐだよ」

 息を切らしながら少年は言う。

「もう一度休んでいかない?ミヅキ、ちょっと疲れてるんじゃない?」

「うん、大丈夫。このくらいへっちゃらさ」

 ニッと白い歯を見せる。

 しかしその口の端が痙攣けいれんしていることには、少年自身も気づかない。

 前に続く道は木の根が浮き出ていて、自然が作り出す階段のようになっている。

 行こう、と言って足を踏み出したその時、湿った根に足を滑らせたのだろう、少年は体勢を崩してしまう。

 視界がぐらとゆがんで回る。間一髪、少年は手を傍の樹に添えて身体を支える。

 アハハと笑って姿勢を直そうとする。

 しかしその少年の意志とは裏腹に、だんだんと手の力が弱まっていってしまう。

 樹に触れるところが手から肘に、肘から肩へと移り変わっていく。

 やがて肩が触れるものも、樹から地に変わる。少年の身体は地に倒れこみ、泥水で白衣が滲む。

 するとたゆまった袖の中からぽとりと焼けた木の実が落ちてくる。一つや二つではない、両手に溢れるほどの木の実が転がる。

 自分は食わず、少女のために取っておいたとでも言うのだろうか、落ちた木の実が小さく積もる。

「ヒナタ……」

 瞳が閉じられると、少女の悲痛な呼び声を最後に、少年の意識は途絶える。

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