第一幕 第四話「月夜鴉は秋の空に詠う」

 少年は来る日も来る日も、夜になるたびに少女の元を訪れるようになった。

 昼の神主見習いとしての務めを果たすなり、あお松葉まつばはかまを穿き、手燭てしょくを片手にたずさえてえず会いに行った。

 手燭の心許こころもとないが、毎晩同じ時間に闇に包まれた山の一角いっかくをぼんやりと照らしながら彷徨さまよい、やがて止まったかと思うと燃えるように明るくなって、地上から星空を照らし返すようになった。

 まれにそのあまりの明るさに、朝だと勘違かんちがいした小鳥たちがちらほら鳴き始めるような、そんな夜もあった。

 少年が毎晩少女のもとに通う様子は、平安の世であればつまいなどと言うものでもあろうが、二人が知ったことではない。



 その日は、月の美しい日だった。

 まったく欠けた所のない望月もちづきが夜空に浮かんでいた。それは皓々こうこうたる月光で地上を照らしていて、まわりの星々がかすんで見えた。まぶたの裏からでもまぶしさを感じるほどの満ちたる月は、二人の影をくっきりと地面に落とさせていた。

 少女が「きれいな月ね」と言うと、少年は「そうだね」と言った。しかし少年の瞳には月の姿は映っておらず、少女の姿をただじっととらえ続けていた。月明かりに照らし出された少女の横顔から、少年の視線は離れることを知らなかったが、少女が横を向くと少年は慌てて夜空を見上げた。

 少女の輝かしい光に目をやられた少年は、瞳にこびりついた少女の残像を夜空に再度えがき、満月すら見劣りするほどのきらめきに瞳をき続けた。

 ついにまぶたの裏に映るでは満足できなくなってしまった少年の視線は、吸い寄せられるように少女の方を向いた。り切れた飴色あめいろの残像と、目の前の少女の姿がぴたりと重なった時、少年は胸の奥から形にもならないような、言いようのない熱が込み上がってくるのを感じた。それは身体の内側をつたって昇り、やがて外へと放り出され、白い息となって長月ながつきの空をほのかに染めた。

 月の模様を地面に描き、「月にはウサギがいるんだ」と少年は言った。しかし少女はウサギを知らなかったため、少年は自分の知るいろいろな動物の話をした。身振り手振りでそれらの動きを真似して少女に見せた。二人の身長よりも大きい動物もいるのだと、少年は嬉々として語った。

 別段少年は動物や植物の事が好きだったわけではないが、少なからず少女の興味を引くそれらについて詳しくなれば、きっと少女も喜ぶはずだと、少年は次の日から森に入るたびによく観察してみようと心に決めたのだった。

 少年の話の中でも、自分の暮らすこの空間の事をとりかごと言うだけあって、鳥の話に少女は強く興味を示した。

 少年は次の日に、鳥の羽を一つ拾って持っていった。その白い羽は少女の色の黒髪に良くえた。



 その日は、大粒の雨が降りしきる日だった。

 風も強く吹き、滝のような夜雨よさめ

 少年は自分の部屋の中に傘を見つけたが、油の加工ががれていることに気が付いた。これでは竹の骨組みに和紙が張られているだけであった。雨粒をさえぎる役目はたせそうになかった。

 仕方がないので、少年は大きなはすの葉を代わりにして行った。の部分をしゃんと立たせることができないので、両手で支えながら歩いた。手燭てしょくはすの傘のを一緒につかむように持って、いっそう闇の深まった道程どうていを行った。

 蓮の葉のおかげで頭こそ濡れなかったものの、かえって地面に跳ね返った雨が松葉色の袴の裾を濡らすとともに、泥を跳ねさせて汚した。湿気のこもったような匂いが鼻についた。

 少女のところへ辿たどり着くと、不思議と雨が降っていなかった。そういえばここでは、完全に月が雲に隠れてしまうことがほとんどなかったことに少年は気が付いた。

 これも結界に込められた太陽の力が水を拒み、月に反射した日のわずかな光でさえ受け入れているのだろうと少女は言った。そのため、結界の外へ出られない少女は雨を知らなかった。少年は「空からたくさん水が降ってくるんだ」と説明した。しかし少女が知っているのは井戸からめる水だけであったために、少女は水は地面の下からやってくるものとばかり思っていたので、空から大量に水が降ってくるという少年の話には驚きを隠せないでいた。さらにこのような水がどこまでも広がっている「海」という場所があるのだと聞いて、少女は呼吸すら忘れてぽかんとしていた。間の抜けた表情に少年が吹き出すと、少女は唇を尖らせた。

 そうだ、と言って少年は持ってきた蓮の葉の上に溜まって残っていた雨水を使って、少女と水をかけあって遊んだ。少年の指先から離れたしずくが少女のほおに当たると、それはかえって熱を生み出した。

 少女は雨を知らなかったが、傘のことは知っていた。しかし雨をけるための傘ではなかった。なんでも、儀式で使うのだとかなんとか。太陽の光の下に出られない少女は、儀式の際はまじないが込められたその差し掛け傘の下でしか生きられないのだと言った。

 少年は自身の持ってきた蓮の葉を少女に渡して、いつか雨を防ぐための傘だと言った。

 少女はおずおずと蓮の傘を差した。月の光から少女をおおい隠して、地面に楕円だえんの影を落とさせた。その傘はとても快適と呼べる代物しろものではなかったが、柄の部分にわずかに残った心地ここちよい熱に、少女は少年の温もりを感じていた。

 少年は少女の顔を見るために蓮の傘の下をのぞこうとするが、少女が蓮の傘を少年の方へかたむけたため、その小さな期待が叶えられることはなかった。

 少年の見ることのできなかった少女の顔は、紅葉もみじを散らしたようにしゅに染まっていた。



 少年と少女が出会って一月ひとつきが過ぎようとしていた。

 その日は、特に風も無ければ雨も降っていない、かといって晴れ渡っていたかと言われればそうでもない、いたって穏やかな日だった。

 ゆるやかに雲が流れ、星月もよく見える。季節柄に夜はよく冷えて、山では吐く息もさらに白くなってきていた。

 あと二日もすれば神無月かんなづきということだったが、太陽の神も出雲いずもへ出向いたのだろうか。

 この日少年は、江戸の町の話を少女に語って聞かせた。少年自身も一度しか行ったことがないというのだが、その時見たことや、人伝ひとづてに聞いたことを語った。

 山などは無く遠くに見えるだけで、少女の暮らす小屋よりもずっと大きな家がたくさんつらなる町なのだと、少年は言った。数え切れぬほどの人であふれて休まることを知らず、活気でみなぎっているのだと、少年は言った。

 広い道をはさむように連続する町屋まちやは様々な物を売る店ばかりで、江戸の周辺のものから、ずっと遠くの場所から運ばれてきたものもあるのだと、誰かのけ売りのような口ぶりではあったが、少年は得意げに語った。

 今でこそ大きな町である江戸だが、かつては更地さらちのように何も無い場所であったのだという。そこを人々が切りひらいてきずいていった過去もあるのだと、少年は言った。

 その話に少女は瞳を輝かせる。ぼんやりと少年の語る江戸の町が少女の頭の中に形成されていったが、きっと想像もできないような場所なのだろうと、のような木々に囲まれた自然などではなく、人が作り出し人が動かす、息づいた町なのだろうと、胸を膨らませる。


 ないものねだりのその幻想は、日々を重ねていくごとに、少年と語らうごとに、少女の中で確固たる一つの想いとして、少しづつ形をしていった。

 初めは知らないことに対して、驚きというほどの興味しか無かったのであろうが、しだいにそれは単なる興味という言葉では言い表せないほどに、少女の心の中で大きくふくれ上がっていった。

 いつしかそれは少女の中で一種の憧れのようなものになっていた。おぼろに浮かぶ江戸の町の中を歩く想像がえなかった。「いつかこの目で江戸の町を見てみたい」と少女は叶わぬ夢と知りながらも思いをめぐらせる。

 少女は届くはずもない夢物語に祈りを込めてつづった。

可惜あたらに 夢はさか 覚めにけり』



 少女は明かりに吸い寄せられる虫たちのように、少年がはなつ光に身をがしていった。日を増すたびに少女の受ける光は強くなっていった。少女はそれが無性むしょうに心地よかった。

 しかし光というものは、強くなればなるほど、純粋に照らすものであればあるほど、その裏に濃く深く、決して相容あいいれることのできない境界線を顕現けんげんさせたような、主人から離れることの無い従順じゅうじゅん魔窟まくつのような、漆黒しっこくの影を作り出すのである。

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