第一幕 第三話「ひな鳥の産声」

 少年と少女が出会ってから三日目の夜。少年は言われた通りにあお松葉まつばの袴を穿いて、手燭てしょくを片手に少女の待つあの場所へと向かう。昨日までと何ら変わりない道を、少年は軽やかに抜けていく。

 ただこれまでと違うのは、山道の途中で摘んだ花をふところに携えているということだ。

 日が暮れてまださほども経っていない時分じぶんに、少年は辿たどり着く。見慣れたと言えば、嘘になる、いまだそこに立っているだけで胸のざわつきはとどまるところを知らなかったが、それ以上に、少女と相対すると息切れすら覚えるほどに鼓動が高まって、そんな些細ささいなざわつきなどはすぐに少年の感覚の外に投げやられ、少女に向かう意識だけが延々とほとばしり続けるのである。

「来たよ」

 少年が言う。

「うん、待ってた」

 少女が返す。

 簡素な会話に始まるが、二人にとっては十分なのだろう。示し合わせたように見つめ合い、瞳の奥を見通さんとする。結局その奥に眠るものへと辿り着くことは叶わなかったが、互いの心のきぬがほつれ、その糸が絡まり合っていくような感覚が、二人の内側のまだ手の届きそうなところに生じる。

 二人は並んで座り、少年は持ってきた花を少女に見せる。少女はまた見たことのない花を前に目を輝かせる。

 少年はその花の葉を崩れないようにそっと取り、折り返して抜き口をくわえて息を吹き通す。フーと吐いた息はしかし、その草笛を通り抜けるとピーという甲高い音を鳴らし、静まり返った夜の山に響く。

 また別の葉を優しくもいで、同じように草笛にすると、それを少女に手渡した。

 もう一度手本を見せるように吹いて見せると、少女も口元に葉をあてた。胸いっぱいに空気を吸い込んで、吹く。風の抜ける乾いた音だけが鳴る。「もう少し優しく息を吐くんだよ」と少年が言う。少女は今度こそはと、吸い込む空気を喉のところくらいまでに抑えて、そっと息を吹きかける。

 するとか弱い音ではあったが、たしかに少女の草笛は、ピィとひな鳥の産声を鳴らす。

 風に吹かれて二人の草笛は飛んで行ってしまったが、花弁と、少女の鳴らしたその音色は耳に残り続けた。

 草笛の行く末をながめていると、それはやがて森の向こうのどこかへと飛んで行くのが見える。

 林を通り抜けてたどり着いたところが、このようにひらけた場所になっている。消えゆく草笛を目で追いながら「そういえば」と、少年は思う。

「少し気になったんだけど、この場所っていったい何なの?」

 不意に少年が聞く。

「ああ、ここね……」

 やはり自分の事となるとどこか、あずかり知るところではないとでも言うような少女である。打って変わって遠い目をするようになる。その目線の先は森の切れ目か、はたまた知らぬ外の世界か。いや、その瞳は何も映していないのではないかとさえ思われるほどのくもまなこだ。

「ここはとりかごのようなもの。私を外に出さないためのね」

「鳥籠……」

「そう。森の切れ目が見えるでしょう。そこには目には見えない結界が張られていてね、それには太陽の力が込められているから私は通れないの」

 淡々と説明する彼女だが、それはとても容易なことではない。幾度いくどもこの現実を思案したことの裏返しである。

「この前、私は次の太陽に成るって言ったわね。太陽が死んだらどうなると思う?」

「ずっと夜になる、とか」

「それくらいならいいんだけどね」

 少女は立ち上がりながら言う。

「太陽が死ぬとね、灰が降るの。それもただの灰じゃない。地上を腐敗ふはいさせる死の灰。その昔、縄文じょうもんのころに太陽が死んだときは、九州一帯の文明が壊滅ほうかいしたそうよ」

 何を思ったか、少女は自身の小袖こそでを脱ぎ始める。帯を少し緩め、小袖のえりがするすると肩を流れて、ちょうどうなじがはっきり見える所まで降りようかという時、我に返ったように止まる。

「灰、見たい?」

「う、うん……」

 小袖の襟を肩から下に降ろして肘のところに掛けて持つ。長い黒髪を右手で右肩の前にかかるように持っていくと、きらめく黒髪に隠れていた少女の背中があらわになる。

 とても人間の肌とは思えない灰色の背中。何かにかれたようにげついた跡が残っているそれは、まるで生命活動を停止しているようで、触れたらボロボロと崩れてしまいそうな見た目だ。

 その昔、少女が小さい頃に誤って日に当たってしまった時に生じたのだという。その頃はすでにこの鳥籠の中で暮らすことを余儀よぎなくされていたのだが、背中から災厄の灰が生じたことが原因であろう、その一件以降、神主たちのやってくる頻度は目に見えて減ったという。一日に一食の簡素とも言えないような粗悪そあくな食事も、いつの間にか少女の知らない内に置かれるようになった。年端としはもいかない少女であったというのに——。

 ただ一言「次に日の光を受けるようなことがあれば、そなたの身体は灰へとちる前に、我がほこをもってつらぬかれるであろう」と吐き捨てられ、少女はこの小屋のある森の切れ目の鳥籠に、たった一人で残されたのである。これは、少女が五つの時である。

 少年は言葉を発することができない。これが少女の現実なのだと、これを背負せおっているのだと、そう突きつけられているようで、その場から逃げ出してしまいたいとさえ思った。

 あまつさえ少年は、あの時神主が言ったという言葉の、本当の意味を理解してしまった。太陽が死んで降る、地上に厄災をもたらす灰。それをしずめる巫女であるのにも関わらず、なぜと呼ばれるのか。それは少女自身がその灰と表裏一体の存在だからである。

 思えば単純な話だ。太陽が死ぬと灰が降るのならば、新たな太陽に成ることができる少女も、灰を生み出してしまうというのであり、まだ完全な太陽ではない少女は、日を受けることでその力を少しづつ吸収してしまい、一部が灰へと変わってしまうということなのだろう。

「まだ害は無いわ。まだ私が生きている間はね。ただ身体がちかけているだけ」

 顔の見えぬ少年に身体を見られているという状況であるのにも関わらず、うつむく少女はすずしい顔をしている。

みたいなものよね」

 ただ少年は只人ただびとではなかった。の本当の意味を理解するとともに、少女のそのうつむきがちな横顔を見て、目の前の少女は一人の「少女」に変わりないのだと理解した。ただ想像を絶するものを背負っているだけの、いたいけな少女なのだと。どんな姿をしていようと、たとえその身が朽ちようと、どこまでちようとも、ただの「ヒナタ」という少女であるのだと、そう理解した。少なくとも、完全に太陽と成ってしまうまでは。

 少女ははだけた着物を元に戻すが、後ろに振り返って少年の方を向くのには多少の時間を要した。ある種の気の迷いでもあったのだろうし、少年を試すような名目でもあったのだろう。他の神主と同じなのか違うのか。無知であるが故の少年の言動であるのかそうでないのか、少女は確かめたくなってしまったのであろう。しかし今になって、発せられるであろう少年の返事を聞くための勇気を、少女は持てずにいた。

 ——いや、思い上がりもいい所だわ。何が「発せられるであろう」よ。振り返ってがいるなんてことすら分からないのに。あの神主たちみたいにさ。

 たとえどうであっても元の生活に戻るだけだ、と少女は心の中で受け止め、振り返ることへの踏ん切りをつける。

 髪がなびかないほどにゆっくりと少女は振り返り、座ろうとしたところで、なぜか立ち上がっていた少年と目が合う。

「君は、ヒナタだ」

 少年は、心に浮かんだままの言葉を発した。それは何の脈絡もない、何の意味も持たない言葉のはずであった。しかし他のどんな言葉よりも強い意志が、間違いようのない大質量を持って空気中をつたっては、少女の鼓膜こまくをゆすった。

 少女は、初めて本当に名前を呼ばれた気がした。忌避きひされ、皮肉のこもった名ではなく、本当に「ヒナタ」としてこの世に生まれ落ちた気がした。目の前の少年こそが自分を真に照らす光なのだと知った。そして少女の心に光と影が生まれた。「ヒナタ」は少年の光を浴び、太陽の巫女としての「ヒナタ」はその裏で影となった。

「ありがとう」

 それは何に向けられたのだろうか。名前を呼んでくれたことだろうか、それとも単に、少女の前からいなくならずに返事をしてくれたことだろうか。

 ただ口をついて出た言葉は、少女にとって初めてのものだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る