六章 あるいは存在しなかった物語

 明らかに道交法に違反している。

 もしかしたら航空法に抵触しているかもしれない。

 しかしそれは些細な事。

 ミーナが漕ぐ自転車はジェット機のような速さで北大路通を横断する。


 ミーナが立ち漕ぎし、遠野はサドルに座り、ルディは荷台に乗っていて、遠野が落ちないようにルディが前二人にがっしりと抱き着く形。

 ミーナが漕ぐ自転車はスタート直後からタイヤのゴムが焦げる臭いを撒き散らし、北大路通を走る車をあれよと言う間に追い越して行った。

 信号待ちに差し掛かれば慣性をほぼ無視した九十度直角カーブでその道を抜け出し、その勢いのまま建物の壁に乗り上げて地面と体を平行にしたまま走り、速度を落とさずUターンをやってのける。すれ違いもままならない狭い道で対向車が来た時は、そのままジャンプして屋根伝いに後輪を上手く操り、そのままミーナ自身の羽根も使って大通りにロングジャンプ。

 持っていたA型の血を全て飲み干したミーナは、文字通り人間離れの動きをしている。

「嬢ちゃん! スピード出し過ぎ! ていうかこれもう自転車じゃない! 飛行機!」

「私が漕いでるんだから自転車よ! こうしないとすぐに追い付けないもの! 追い付かないと輝夜ちゃんがお嫁に行っちゃうんでしょ!?」

「……そうじゃな」

「だったらもっと飛ばすわ! 舌噛むから黙ってた方がいいわよ!」

 段差で少し自転車が浮くたびに、着地までの時間が長くなった。速くなるにつれて、自転車が浮いている時間が増えていっているのだ。

 リニアモーターカーの様に地面すれすれを浮いたまま、東西を切り裂く三人乗りのママチャリ。ハンドルなど利くはずもないので、電信柱にドロップキックをするような形で着地して方向転換を行い、階段をそのまま飛んで何事もなかったように着地し、さらに東へどんどんと。

 息を吸うように破られていく物理法則に、しがみついているルディの腕も悲鳴を上げている。しかしここで離そうものならルディと遠野は空の彼方へ。手放すわけにはいかない。そもそも輝夜ちゃんに会う為には空の彼方へ飛んでいる暇なんてないのだ。

 そう思っているのはミーナも一緒。自転車はさらに速く、速く。

 しかしこんなに速く走っているというのにまだ狐二人を乗せた人力車は見えて来なかった。人力車自体は何台も抜いて、その度に乗っている人たちの顔を覗き込むのだが、一向にお目当ての狐顔が拝めない。

「結構長話しちゃったかしら。もう追い付けると思ってたんだけど」

「う~ん、僕ももう追い付いていいと思ってるんですけどねぇ……あの人力車が異常に速いとかですかね。でもこの自転車が追い付けないほどなんてそんなのありえな……あ」

 ありました。常識の外にいる人力車が。

「あの狐達が乗った人力車、『あぶら屋』の人力車ね」

「それしか考えられませんね。この速さといい、あの時お兄さんが『一般の観光客はなかなか乗せない』と言っていたことといい」

「『あぶら屋』って油揚げのことじゃないでしょうね」

 彼らの人力車と違ってこの自転車は三次元移動しか出来ないが、それを補って余りある速さを誇っている。積んでいるエンジンが違うのだから、きっと追い付くことは出来るはずだ。

 あまりの速さにルディらの周りの気圧が下がり始め、耳がキンとしてきたので唾を飲み込もうとしたが、上手く飲み込めない。ルディの口の中がカラカラに乾いている。

 そうこうしているうちにあっという間に鴨川まで辿り着き、加茂大橋に差し掛かった。すると、ミーナは大きく自転車を振って鴨川の岸へと降りていく。

「どうしたんですか?」

「車が詰まってたの! だからそこの飛び石を使うわよ! 掴まって!」

 鴨川デルタと川の両岸を繋ぐ飛び石まで速度を落とさずに突撃し、自転車はそのまま宙を舞う。

「おぎゃああああ!」

 遠野のひと際大きな悲鳴が虹のように空をなぞった。自転車は一度も飛び石に乗る事無く、そのまま対岸に着地する。

 着地の衝撃で何度かバウンドし、弾む勢いそのままに、自転車はほぼ垂直の土手を駆け上る。土手を発射台として再び宙を舞った自転車は川端通りを南北に走る車の上を飛んでさらに東南へ。

「ミーナ! 道はあってますか?」

「大丈夫! 巫女さんが言ってたじゃない! 私が決めた道を行けばいいのよ!」

 丸太町通りを東に進むと、かの有名な京都帝国大学が見えて来た。そこでは日夜冴えない大学生と冴えまくり過ぎて浮世離れした大学生とが怪しい実験を行っているという噂だ。噂の真偽はわからないが、少なくとも京都でも随一の学生通りとなっているのは確かで、観光客が他と比べて少ない気がする。

「だいぶ見通し良くなりましたね」

「チャンスだわ!」

 ミーナはより一層力強くペダルを踏みつけて思い切り加速する。緩やかな坂を駆け上がり、途中の進路を塞いでいた金髪と変な布を巻き付けた男性の二人組を飛び越えた時に「あ、爺さんやん」と声が聞こえた。

 そのまま百万遍交差点を飛び越え、尚も東へ東へと進んでいくと、正面の山に見えていた大文字がどんどんと大きくなって来る。

 銀閣寺に近づきまた人通りが増え始める。その間を縫いながら、上を飛びながら、鵜と鷹になりきってルディたちは人力車を探した。

 最初に見つけたのはルディだった。

「あ! いました! あそこ!」

 白川通りを抜けて銀閣寺が近づいて来た辺りで、思わずルディは叫んだ。前を行く人力車が、道行く観光客などいないかのようにすり抜けているのを見たのだ。あの不思議な動きは間違いない。ルディの声に反応してミーナは早めに急ブレーキを掛け、脇を流れる小川のそばに止まった。軽く白い煙が上がり、ゴムの焦げる据えた匂いが鼻につく。

 人力車はルディたちがなかなか追いつかなかったのが嘘のようにゆっくりと進んでいた。ただの観光客の様に街の景色を楽しむくらいの速度だ。

 飛び出すタイミングを伺いながら、ルディ達もそこからはゆるゆると人力車の後を追う。

 何しろあの人力車は四次元軸を持っているのだ。捕まえる前に気づかれては、きっと体をすり抜けられてしまうに違いない。

「……あと何分くらい残ってるかしら?」

「そうですね……三十分くらいでしょうか」

 もうA型の血液は残っていない為、効いている間に決着を付けなければならない。

 銀閣寺へと続く土産物屋が連なる通りの入り口、夏の日差しから逃げるようにひっそりと建てられている蕎麦屋の前に人力車は止まった。

 そこから降りた多治と些治はすぐに店の中へと消えてしまう。

 どうやら彼らはここで一度降りるが為に人力車の速度を落としたらしい。

 暴走自転車の余韻を残してふらふらしていた遠野も、その姿を見てシャキリとアロハの着崩れを直していた。

 こっそりと近づいて蕎麦屋の中を覗いてみると、多治が中にいる女性二人と何やら話をしているのが見えた。

「あのお餅みたいに、またここで何かもらうのかしらね」

「どうでしょう……どちらにせよ、ここに寄る時間があったのは助かりましたね」

 ミーナの予想はあたり、店員と見られる女性二人は店の奥から地球儀のようなものを取り出して来た。地球の代わりに蕎麦がランダムな方向に動いて球体を作っているというか、何とも言い表しがたい物体だ。

 彼らはそれを受け取ると袂から風呂敷を取り出してそれを包み込んだ。

「あれも凄いわね。何に使うのかしら」

「あんなもの使う儀式なんて聞いたことありませんね。遠野さん、わかったリしますか?」

「いやわしもわからん。少なくとも食べたくはならんのう」

 その後、束の間出来た時間で、店から出て来たところを押さえる作戦を立てた。

 あとは飛びつくタイミングだけを気にしていればいい。

「お爺さんたち、何してはるんですか? そこは今貸し切りですけど」

 ガラス戸へばりつくように覗いていたルディたち三人の後ろから、声がした。

 口から飛び出た心臓を元に戻して振り返ると、人力車を押していた若いお兄さんがそこに立っている。

「わ、べ、別に違うわ! え~と美味しそうな匂いがしたからちょっとね!」

「料理はしていない時間帯なんですけど」

「あ~この子アレなんです! 鼻が異常にいいから食材があるだけで匂いに惹かれちゃうんです。ほぼ犬なんです。節操無くてすみません」

 踵を死角から蹴られる。

「何よそれ!」

 小声でミーナが怒っている。

「咄嗟になんだから仕方ないでしょう! ミーナが出まかせ言うから!」

 ルディはお兄さんに聞こえないように口を動かさずに囁いて反論した。

「何をするわけでもない。蕎麦を食うか食わんかを決めてるところじゃ。腹が減ったから開いてる店を探していただけじゃが、ここは休みか」

 遠野がのらりとルディ達とお兄さんの間に割って入り、心底残念そうな表情を浮かべて溜息を吐いた。

「休みなら仕方ないのう。そうしたら別の店に行くかのう? ミーナ、ルディ?」

 遠野はこれまでの観光案内からもわかるように本当にすっとぼけ上手で、ルディ達が溢れさせる寸前だったお兄さんの不審者メーターを簡単に押し下げた。

 人力車のお兄さんはすっかり狼狽えている。

「あれれ、違いましたか」などと恐縮し、頭を下げている始末。

「失礼した。いや、忘れて下さい。いえ、今僕が乗せているのがお得意様なものでして、少し神経質になってました。気分を悪くされたら申し訳ないです」

「……い、いいのよいいのよ。気にしないわ。ねぇ、ルディ?」

「はい。こちらも紛らわしい事をしてしまいました。僕の祖国に蕎麦などという食べ物は無いものですから、どんなものなのか気になってしまって」

「なるほど……でしたら一度食べたらいいと思いますよ。今日は入れませんがこのお店は数ある蕎麦屋の中でも個人的におすすめでして――」

 それから彼おすすめの店や名所が、立てた板に水が流れるようにペラペラスルスルと口を突いて出てきた。考えてみれば人力車は乗ってもらっている時だけでなく、乗ってもらうまでのセールストークも仕事の一つ。さすがに慣れている。

 ミーナなんて完全に魅了されて、うんうんと頷くだけになってしまっていた。

 そして勢い余って「でもお蕎麦食べるならあの狐さん達が選んだここがいいんでしょう?」とお兄さんに聞いてしまったのだった。

「あの狐さん……?」

 楽しそうに蕎麦の話をしていたお兄さんがピタリと固まる。その顔に先ほどまでの笑顔は無く、代わりにあるのは猛禽のような、鋭く射抜く眼光。

「ど、どうしたのよ」

「あの方たちが狐などと、僕は一度も言っていないです」

 ミーナのこめかみに、つつと汗が流れるのが見えた。

 ルディはというと、背中にびっしょりと汗が噴き出しているが、気合で顔には汗を流さないようにしている。

「き、きき狐ってなんの事でしょう」

 嗚呼、それなのに。

 ルディは自分を殴りたかった。

 あれこれと誤魔化し方が纏まらないまま口を開いてしまうと碌なことがない。せっかく取り繕った表情とは裏腹に盛大に挙動不審な噛み方をしてしまった。

「お兄さんは黙っててください。僕はこのお姉さんに聞いています」

 お兄さんのナイフのような返しにルディはそれ以上口を挟む事が出来なくなる。

 彼は完全にミーナにロックオンしていて、ルディたちの方を見向きもしない。ミーナが次に何を言うのか、ハンターのように目を光らせて待っているのだった。

 ルディはおろか、遠野も助け船を出せない、そんな空気。

 祈るような気持ちでミーナの次の一言を待つ。

 ミーナはおろおろと周りを見渡したり、右上や左上に視線を泳がせたあと、凄くわざとらしい笑顔を作った。

「そんなこと言っていないわよ? お兄さんの聞き間違い、聞き間違い」

 ミーナはそう言って笑いながらじりじりと蕎麦屋の扉に近づき、勢いよく引き戸を開けた。

「突撃ぃ!」

 ミーナは叫ぶと同時に蕎麦屋に飛び込んでいく。誤魔化しきれないとわかるや否やのパワープレー! その思い切りのよさ嫌いではないです! ただ事前に何か合図を送っておいてください!

 ミーナに一瞬遅れてルディと遠野も飛び込むと、ギョッとした表情を浮かべている些治と多治の二人が目に飛び込んできた。

 テーブル席の間を縫って二人を捕まえんとするミーナ。

 やにわに騒がしくなる店内で、備え付けられたテレビから流れるワイドショーの笑い声が、妙に現実感無くその場の空気を震わせていた。

 と、その時、ルディたちの体の中を何かが通り過ぎた。自分の目の前に急に物が現れる奇妙な感覚。その正体は人力車だ。

 ルディ達、テーブル、扉、すべてを無視して人力車は蕎麦屋の中を風の様に駆け抜け、あっという間に二人の狐を乗せてそのまま壁の向こう側へと消えていく。

 すんでのところで狐を捕まえそこなったミーナの腕が宙を切り、そのまま勢い余ってべちゃりと床に倒れた。

「惜しい! 行くわよ!」

「いや自転車! 急に活き活きしすぎじゃ!」

 ねずみ花火のようにバタバタと裏口から飛び出るミーナを追いながら、遠野が叫んでいる。

「僕たちに小芝居なんて無理なんですよ。自転車取ってきます」

 蕎麦屋の裏手から道なき道を進む人力車の影を追うと、哲学の道に出た。

 獣道と人の道を混ぜ込んだような細い道が川沿いに長く続いていて、物思いに更けるには最適の散歩道だ。流れによってはここを散歩するプランもあったのを思い出す。

 まさかママチャリをかっ飛ばす事になろうとは夢にも思わなかった。

 ここから人間の足で一時間ほど歩くと南禅寺が見え、そこからさらに南へ何キロも下ると伏見稲荷だ。

 散歩道は乗り物禁止だが、問題ない。

 人力車は川の中を走っているし、ルディたちの自転車は川の上を飛んでいるのだから。

 川幅は人力車の為に用意されたのでは? と思う程ぴったりのサイズだった。

「待てぇぇぇぇぇ!」

 顔を赤く染めながら、ミーナがペダルを漕いでいる。もはや車輪は何処にも接地していないのですが、漕がないと走らないようだった。背中に生えた羽根の力で、水面が作るわずかな空気圧の差を掴んで水面すれすれを走っている。一定の間隔で迫りくる小橋は、スタントマンのように、自転車をほぼ真横にして潜り抜けていった。

 川すれすれを飛んでいる謎の虫が口に入るのでぺっぺと吐き出す。

 しかしそうまでしても全てをすり抜けて走る人力車にはなかなか追いつけない。

「ルディ! 交代ね!」

 哲学の道を六割ほど進んだ時、ミーナがそう叫んだと思うと、自転車は川の脇に植えられている桜の木よりも高く飛び上がった。

 いっぺんに高くなる景色。眼下では汗だくのルディ達とは対照的にのんびりとお散歩をする観光客の人々。

 空中遊泳でふわふわと綿飴を食べているような気持になったのも束の間、ミーナはそのまま急転直下、川目がけてダイブしてしまった。

 せめて準備をさせてください!

 ルディは唐突過ぎてくるくると回るハンドルを必死で掴む。あと一歩で握り損ねる所だった。掴んだ手のひらにも背中にも、嫌な汗がどっと噴き出てくる。

 一瞬がくりと高度を落としたが、何とか引き継ぎに成功した。

 ルディはミーナみたいに空気を掴んで飛ぶというような芸当は出来ないので、ミーナの残滓を利用して少しだけ誤魔化してゆっくりふわりと着地させる。あとは壁を伝って曲乗りするしかない。

「ルディ君もこういう事出来るんか!」

「ミーナの力が残ってる間だけです。着地だけは何とかできました。ここからはとりあえず頑張ります」

 そのままにしていると自転車はずるずると川へ落ちていってしまうので、落ちそうになったら逆の水路の壁へ飛び移り、それを繰り返して何とか人力車の後を追った。パワーもさることながら、バランス感覚も必要で、二人乗りだとさらにきつく、体中の筋肉が悲鳴を上げているのがわかった。三人乗りでも軽々とこの自転車を操るミーナはやはり吸血鬼離れしたセンスを持っているようだ。

 ルディの運転では到底ミーナのようなスピードは出ないが、代わりに人力車もミーナが飛び移った事でスピードががくりと落ちたのでどっこいといったところだろうか。人力車の庇に鯉のぼりのようにしがみついているミーナの大声がルディたちの耳にまで聞こえて来る。

「ねぇ! 輝夜ちゃんとお爺さんを会わせてあげてよ!」

「降りなさい! 輝夜ではない! 穂乃姫様だ!」

 甲高い些治の言い返す声も聞こえて来た。

「別にあんたたちの邪魔をしようってわけじゃないの! 輝夜ちゃんに話を聞くだけ! 輝夜ちゃんはお爺さんの事、どう思ってるのかを! それくらい許してくれないで、何が神様よ!」

「私達に言われても困ります。それが古くは千年以上続くしきたりなんです。嫁入り前の狐に会う会わないの話ではなく、そもそもその選ばれた狐と人間が会うなんて事が間違いです。おわかりですか。そのお爺さんはもう充分に禁忌を犯しているんですよ」

「じゃあ今更もう一つ破るくらいいいじゃないのよ!」

「一つ許すともう一つ、それも許すともう一つ。しきたりというのは些細な事を許すことで崩壊していくんですよ。あなたの理屈は最も愚かで堕落した考え方です」

「しきたりしきたり……そういうものは大切な物を守るために決められたことだわ! そのしきたりが大切な物を忘れてどうするのよ! そんなしきたり守るくらいなら愚かな方がまだマシだわ!」

「貴方達とは分かり合えませんね。文化の違いです、仕方ない。……些治!」

「はいな!」という返事と共に、人力車の座席から一つの影が飛び出て来ました。

 その影はとくるりと身を翻して人力車の庇へと上り、ミーナを掴むとそのまま自分の身もろとも川へと落ちる。

 一瞬何が起きたかわからず、ルディにはミーナと些治が落ちるのがモノクロに見えた。

「ミーナ!」

 ルディの叫びも虚しく、体が水面を打つ派手な音。舞う水しぶき。一瞬二人は水の壁の中へと隠れた。

 水しぶきが収まる頃には狐の影は無く、うつ伏せに川に倒れたミーナだけが残っていた。

「大丈夫ですか!」

 自転車を遠野に任せてミーナを慌てて抱き起すと、ミーナは口の中から水をピュゥと噴き出した。

「何なのあいつら……! レディを投げっぱなしにするなんて!」

「良かった、大丈夫そうですね」

「大丈夫じゃないわ! 服がびしょびしょ!」

「大丈夫ですね」

 日は傾いてきましたが、まだすぐ乾くくらいの日差しはある。

「もう濡れるのも慣れっこですね」

「ぜぇったい追い付くわよ! 背中見てよ! あの些治とかいう狐、起き上がる時に私の背中踏みつけたのよ! きっと足跡付いてるわ!」

 ミーナの背中には確かに草履の足跡が付いていた。びしょ濡れと足跡とで散々な出で立ちのままミーナは岸に停めてある自転車に飛び乗る。

「早く乗って!」

 ミーナの真っ赤なオーラが見えるようだ。知恩院の狐の男の子が見たらきっとミーナは赤く塗られ過ぎて見えないのではないだろうか。今にも火を噴きそうである。

「凄い勢いじゃのう……!」

「ああなったミーナはほぼ火の玉ですね」

 何してるの! と声が掛かり、返事をしながらミーナの元へ向かう。

 遠野の手を取って、再び三人乗りだ。

「お返しに私も踏みつけてやる!」

 猛獣の様に唸るミーナ。

「目的変わって来ちゃってますから、落ち着いて」


        ☆


 親指ほどの大きさに見える人力車を何とか見失わないようにしながら、そのまま南へ下りに下り、とうとう伏見稲荷へと辿り着いた。

 稲荷駅前で降りた二人の狐が、境内へ走っていくのが見える。

 ルディたちは三人乗りのまま参道を突っ走り、楼門の手前にある駐輪場に滑り込んだ。

 狐の陰は既にごった返す観光客に紛れてしまっている。

「ルディお願いね!」

「え、ちょっと!」

 自転車を指差して、ミーナは先に行ってしまった。手を繋いでいた遠野が凧のように空中に浮いていたが果たして大丈夫だろうか。

 ルディは鍵を掛けて指差し確認をした後、一度大きく息を吐き出した。

 ミーナに置いていかれた時点で追いつくのは諦めていた。引っ張ってもらわなければ、A型を飲んだミーナのスピードに走ってついて行くのは不可能だ。

 それでもとにかく稲荷山へ入ろう。ミーナはあの勢いだから、この人ごみに紛れてしまった狐たちを見逃す可能性だってある。ルディはせめてその取りこぼしが無いようにすることに決めた。

「すみません、すみません」

 謝りながら人の間をすり抜けるが、狐の二人の姿はない。

 巫女さんが言っていた、大切な日。奥ノ院からさらに登った何処かで行われる事はわかっている。もう彼らはそこについているのだろうか。それならば少しでも早く山へ。ミーナを探して山に入れば結界も破って辿り着けるだろう。

 賑やかな本殿周りの人々の間を縫い、走って千本鳥居を抜ける。ミーナと別れてからまだ三分程しか経っていないが、もうだいぶ遠くまで行ってしまっているはずだ。

 奥ノ院を抜けてさらに奥へとルディは走った。

 どのくらいの時間が掛かるのだろうか。

 刻一刻と赤くなっていく太陽に照らされて、オレンジ色の参道が長く長く続いていた。

「……なんでアンタここにいるのよ」

 鳥居を十本ほど潜ったところで、声を掛けられた。

「へ?」

 声のした方を見ると、小さな祠の隣にミーナと遠野が座っていた。

「あれ、何でまだこんな所にいるんですか?」

 ルディは一瞬頭の中が真っ白になった。

 早く合流したいとは思っていましたが、こんなに早く見つかるなんて思ってもみなかった。何でしょうか、途中で急に諦め……ているわけではなさそうだ。

 ミーナは肩で息をしていて、顔色も悪い。顎まで伝って滴り落ちる汗が、ミーナの運動量を物語っていた。

「どんな手品を使ったの?」

 ミーナが焦点あまり合っていない目でルディを見ながら絶句している。

「いや、何もしてないですよ。まだ千本鳥居の入り口じゃないですか」

「はぁ? 何言ってるの?」

「それはこっちの台詞ですよ」

「いや、ルディ君がおかしいぞ。何せ嬢ちゃんは今までずっと全力疾走で鳥居を潜り続けてたんじゃ」

 遠野からの思わぬ言葉。遠野の目を観察しますが、夢遊病のような光は見受けられない。正気の様だ。

 状況が上手く飲み込めなかった。自分が瞬間移動でもしたというのだろうか。

「ルディ、あなたどうかしちゃったんじゃない? 見てみなさいよ後ろ。ぜんっぜん入り口でも何でもないじゃない!」

 ミーナが指を差す方へと顔を向けると、そこには無数の鳥居が連なって、奥がぼんやりと青黒く霞んでいた。どれだけの数を並べれば、霞んで見えなくなるほどの長さになるのだろうか。そもそもこんなにも長い道が稲荷山に作れるのだろうか。

 もちろんこんな道を歩いてきた記憶などは無い。

「ね?」

 ミーナの問いかけに頷くしかなかった。

 ここは何処なのだろう。

「伏見稲荷には初めて入ってんですが、いつもこんな感じなんですかね?」

「んなわけないじゃろ」

「ですよねぇ……」

 それならば、もう一度引き返したらどうなるのだろうか。ほんの少ししかルディは歩いていないし、案外戻ったら別の道が見つかるかもしれない。

 ミーナはまだ立てない様子。少し調べる時間はありそうだ。

 少し待っているように頼み、ルディは再び鳥居を潜る。

 歩き出して何歩も歩かないうちに、すぐにルディは自分の眉間にしわが寄っていくのが分かった。

 奥ノ院に戻るはずが、何本鳥居を潜っても同じ光景が続くのだ。鳥居の向こうはまた次の鳥居が続き、この道の周りに広がるのは深い森の緑。森もまた、奥が霞む程に木が延々と連なっている。

 今度はいくら歩いても何も見えて来ず、後ろを振り返ると正面と同じように暗く霞む何処までも続く道が延びていた。

 夢の中に迷い込んだような気分。いや、夢の中に閉じ込められた、の方が近い表現か。

 引き返しても同じ道。それならばとしばらく歩く。そしてすぐに自分がどれだけ歩いていたかわからなくなる。

 目の前にある鳥居がさっきもあった気がする。同じところに傷がついていなかっただろうか。あの手形は自分が触ったものではないだろうか。そこの小石はさっき蹴った……そこの石畳にさっきも躓いた……はて、何処を目指して歩いていたんだっけ……。

 一度座って休んでしまおうかとルディが思い始めてすぐ、ミーナと遠野が現れた。

「あれ? 何でそっちからルディが来るのよ?」

 先ほどとは反対側から出て来たルディを見て、二人は鳥居とルディを交互に見ては首を傾げている。

 風に揺れた木々が夕立のようにざわめいていた。

「ルディ、また何か変な事した?」

「いえ、僕は何もしてないです。……これたぶん、結界です……」

「結界? 私には効かないんでしょう? 巫女さんがそう言ってたじゃない」

「吸血鬼にも効くように作り直したんでしょうね。炙り餅での結界も、些治さんが間違えなければそうなっていたはずです」

 ルディは頭を押さえて軽く振り、さっきまでの悪夢のような状態を頭の中から振り払った。

 そして道の脇から小石を拾い、鳥居の向こうに思い切り投げてみた。一直線に飛んで行った小石はやがて見えなくなり、すぐにルディのお尻に痛みが走る。

「あたっ!」

 思わず声が出た。

「勢いよく投げすぎました……」

 ルディの様子を見てミーナも合点がいったようだった。遠野も同じようで、頭を抱えて唸っている。

 入口と出口がメビウスの輪の様に繋がっているのだった。

「閉じ込められたってことね……」

 試しに鳥居と鳥居の間を曲がり、道を外れて林の中へと突き進んでみたりもしたが、それもダメだった。反対側の森から出て来てしまうだけなのだ。上も試して見たかったのが、ミーナの力ももう時間切れ。飛ぶ手段が無いとそれも出来ない。試しにジャンプしてみたが、化かされてるとか関係なく全然届かない。

「こんな大事な時に……」

 ミーナが爪を噛みながら唸っている。もうすぐ犬か狼か見分けがつかなくなる、昼と夜の狭間が来る。タイムリミットはいつなのだろう。

「これは幻術の類でいいのかしら?」

「ええ、おそらく。昨日見たものだと思います」

 今度こそ吸血鬼完全対応版だ。きっとルディたちの目には輝夜の元へと続く道が映っているはずなのだ。

 しかし巫女さんに会った時の観光客が、そこに奥ノ院があるにも拘わらず素通りしていたように、あぶり餅屋さんで見た家族連れがそこから動かなくなったように、今度はルディたちが籠の中に閉じ込められているのだった。

「こんなに早く吸血鬼対策する事ないじゃないのよ……」

「とにかく、急がないといけませんね。昨日の結界のようにそこに在るにも拘わらず目に見えないだけだとしたら、こうして続いている様に見える鳥居の何処かに見えない入り口があるはずです」

「わかったわ!」

 そういったきり、ミーナは走って鳥居の向こうへと消えていきました。

 何がわかったのかはわからないが、ミーナはミーナのやり方で探してもらう事にする。ルディはルディで何か変な所は無いかと鳥居を隈なく調べ始める。

 触った鳥居はひんやりと冷たく、夏場だというのに少しも熱を持っていなかった。そんな鳥居が千など優に超える程並んでいて、それを一本一本調べなければならないのだ。

 この中から何処にあるか、本当にあるか、わからない入り口を探し出す。

 自分で言った言葉にも拘わらず、ルディは自分が正気か問いただしたい気分だった。

 もし儀式が日没に終わるとしたら、もう間に合わない。

 奇跡を信じて次の鳥居が結界のほつれである事を祈るくらいしか方法がない。

 鳥居に触れ、伏見の空気に触れ、そうして触れば触るほど、何も手の施しようがないことがわかってくる。

 思わず見上げた空にかかっている木立の葉が、憎いくらいに優しく揺れていた。

 五感を研ぎ澄ませ、何か気になることは無いか、何か引っ掛かる点は無いか、ルディの焦りと反比例して、鳥居は何処までも静かだった。

 こめかみ辺りに血が流れる音を振り切るように顔を振ると、遠野が笑っているのが目に入った。好々爺然とした、いつもパワフルな彼に似つかわしくない優しい笑顔。

「ここまで、かのう」

 ドキリとした。

 遠野はルディを見て何を感じたのだろう。

 諦めるしかないと悟らせる程、情けない後姿をしていたのだろうか。

「ルディ君にも嬢ちゃんにもどうにも出来ないんじゃろ?」

「いや、諦めずに調べますよ。何か手掛かりがあるかもしれません」

「……ありがとう。わしも手伝おう」

 遠野はギュッと口を結んで、鳥居をぺたぺたと触り始める。匂いを嗅いでみたり、軽く叩いてみたり、何が正解かわからないまま、思い思いの調べ方をしている。

「おもかる石、軽けりゃよかったんじゃがな」

 それはきっと、独り言だった。

 その証拠に遠野は手を止めないし、こちらを向くこともしない。

 耳がいいルディに辛うじて届いてしまった声。

 無意識にルディが思っていたことを当てられたようで、何と言っていいかわからなかった。

 しばらくルディたちは無言で鳥居を調べていた。

「ルディぃぃぃ!」

 鳥居の奥からミーナがやって来る。

 飲んだ血の力は全て使い果たしたのか、ミーナにしては随分と重い足取りだった。膝に手を突いて息を整えた後、ミーナはルディの方へ顔を上げる。

「見つからないわ! 伏見って凄いのね……真静みたいに結界張れない狐ばかりだったらよかったのに!」

 あーもう! とミーナは悔しそうに叫んでいる。

 A型の血を飲んであれだけ体に負担を掛けて尚、目は爛々と輝いている。自分が正しいと信じて疑わない、力強い瞳だ。

「嬢ちゃん大丈夫か? さっき疲れて吐きそうだったじゃろ。少し休んだらどうじゃ」

「はぁ? お爺さん何言ってんのよ。もうすぐなのよ、輝夜ちゃんまで! 休んでる暇なんてないったら!」

 猪突猛進で短絡思考だ。聞く耳なんてまるで持たない。

 太陽の光がミーナの明るい髪に反射して湯たんぽみたいに光っていた。

 少し眩しいです。

 ルディは目を逸らしたくなった。

「だからルディ。何とかしてよ」

「へ?」

「私じゃどうにもならないもの。どうしたらいいかわかんない」

「……それだったらルディだってどうにも」

「何言ってんのよ。大丈夫でしょ、ルディなら」

 何を根拠にそんな事を。

 ミーナはルディの返事を待たずに「もう一周してくるわ」と走り去ってしまった。

 ――そうでした。

 日本に来る前も、日本に来てからも、いつだってミーナは、僕の事などお構いなしに進むのです。人の気も知らずに、まったく。まったくもって、仕方がない吸血鬼です。

 やがてミーナは鳥居の向こうへと消えていった。

 視界には薄ぼけた青い闇が残るばかり。

 サァと彼女を追うように、風が鳥居のトンネルを吹き抜けていく。夏の赴くまま、何処へと行く風だ。

 諦めてる場合ではなかった。

 ミーナが大丈夫というならば、きっと大丈夫なはずなのだ。

 何せ、ミーナの引いたおみくじは大吉なのだから。

 ――よし。

 さっきまでが嘘のようにルディはあっさり閃いた。

「……遠野さん、少し待っててください」

 わかった、という返事をした遠野を残して、ルディはミーナの消えた方と反対側の鳥居に走る。

 次々と後ろに飛んでいく鳥居の下をひたすら前へ。

 しばらくして正面からミーナが右手で鳥居を触りながら走ってきた。己の右手に集中しているようで前は見ておらず、ルディの事にも気づいていない。

「ミーナ!」

 ルディがミーナを掴むと「ぎゃあ!」と悲鳴を上げて一メートルくらい飛び上がった。集中しすぎだ。

「びっくりした! 何よ急に、どうしたの?」

「いえ、少しでも早く伝えた方が良いと思いまして。戻りながら話しましょう」

 ミーナと一緒に走りながら、ルディは説明する。

「この類の結界がどういう種類かはわかりませんが、わかっている事が二つ。一つは結界の中からだったら外の人間に干渉出来る、という事です。昨日の奥ノ院で僕は鳥居をぞろぞろ歩く人の中からお姉さんに声を掛けたり肩を叩いたり出来ています」

「ああ、確かにそうだったわね」

「そしてもう一つは、結界の外からでも中に音は伝わる、という事です。あぶり餅屋では、結界の外にいるはずの家族連れの笑い声とかが聞こえて来ましたから」

「それも確かにそうね」

「この二つを利用しましょう」

 鳥居の奥に、遠野が待っている祠のある場所が見えて来た。ルディは足により一層力を込める。

「血を使うんです。A型ではなくB型の」

「B型を?」

「はい。こちらからの音は結界の中に届くのですから、エコーロケーションの為の音波も当然届きます。そして、結界の中の物に反射した音であればミーナには聞こえるはずです。中から外へでしたらどんな形でも干渉出来るのですから」

 ミーナはポカンとした顔をしてルディの話を聞いていた。

「とにかくB型で何とかなるって事ね!」

「うん、そうですね。それさえわかってればいいです」

「わかったわ!」

 話しに夢中になっていて遠野の前を通り過ぎそうになり急ブレーキを掛けた結果、ルディとミーナは見事にスッ転ぶ。「なんじゃなんじゃ!」と遠野がびっくりしているが、説明している時間は無い。

「遠野さん、諦めるのはまだ早いです」

「どうしたんじゃ急に元気になって!?」

「ん? 僕は最初から元気ですよ」

 遠野がルディの顔を見て「ふはは」と笑った。

「ルディ」

 隣でポシェットの中をごそごそしていたミーナに声を掛けられる。

「どうしたんですか?」

「どうしよ。もうB型の血が無いわ」

「……えぇ。予備も含めて結構な量持ってきたんじゃないでしたっけ……」

「知恩院でいっぱいのにょろにょろに追いかけられたじゃない? それでその後全部捕まえたじゃない? あの時に勢いで全部飲んじゃったみたい……」

「全部!? そんなに必要無かったでしょう?」

「追いかけられたからびっくりして……私もよく覚えてないわ」

 ポシェットからミーナが取り出した小瓶は、確かにすっかり空だった。

 ルディはいいアイディアだと思っていたのだが、必要な物がなければ絵に描いた餅。いつまで見ててもお腹いっぱいにはならない。

 残るのはO型、AB型。それも使えそうにない。A型も空。

 自分もミーナみたいに凄い力の一つや二つ持っていればいいのに、とルディは無駄な事を考えてしまう。何故僕はスーパーマンではないのでしょうか。

 逸れた思考に慌ててルディは首を振る。

 現実逃避をしている時間は無い。考えろ、考えろ。

「ルディ君」

 遠野がルディに声を掛けた。

「大丈夫です。少しだけ待ってください。まだとっておきがあるんですよ。……それをどうやって伝えればいいか考えてるだけなので。安心して下さい」

 ルディは胸を叩いて笑いました。

「本当に嘘つくの下手じゃのう。いや、そうじゃなくてな。わしB型」

「へ?」

「使えるなら使っとくれぃ!」

 アロハシャツの袖を肩まで引きあげて遠野はミーナに腕を差し出した。

「嬢ちゃんのおかげであと一歩じゃ。もうここまで来たら、出来る事は何でもするぞい。何リットルでも使ってくれ!」

 ミーナはちらちらとルディの顔を伺いながら、お爺さんの顔色をじっと見極めている。さながら献血ルームの看護師だ。

「大丈夫? そんなアホみたいな量はいらないけれど、それでも血抜くのよ?」

「むしろ血を使ってくれなけりゃ死ぬかもしれないのう」

 チラリと見た空は、先ほどよりも確実に赤くなってきている。

「よし、お爺さんの血を使いますか」

「大丈夫よね? ほんと、頼むわよルディ」

 そう言って心配そうにしながらミーナは鳥居の陰に隠れた。

「嬢ちゃんが血を飲むんじゃよな?」

「そうです。でもミーナは人から血が流れている所を見るのが苦手なので、代わりに僕がお爺さんを切ります」

「吸血鬼なのに血が嫌いなのか」

 血は好きよ、と鳥居の陰から声が響いて来る。

 ルディは鞄からジャックナイフを取り出して、遠野の腕を切った。

「一回ざっくりいきましたが、すぐに治しますので」

「ん? うお、もう切られとる」

 遠野は自分の腕を珍しそうに見つめていた。

「何ともない。……これは麻酔か何かがナイフに塗られてたりするのか?」

「上手にいい感じに切れば痛みは無いんですよ」

「適当な説明じゃのう」

 指先まで伝って流れ始める血を小瓶の半分程まで溜めた後、ルディは切り傷専用の軟膏を使って遠野の腕をなぞる。

「これも凄いな。傷が跡形も無いぞ!」

「いい薬ですからね」

 自分の顔を手で覆っていたミーナを呼び戻し、小瓶に入った血を渡した。

「嬢ちゃんは血が怖いってわけじゃないんじゃよな?」

「うん。他の人が怪我してるところ見るとクラッと来るだけ……」

「なかなか難儀しとるのう」

 ミーナは小瓶の血を一息に飲んだ後、ステップを踏むようにタタンと道の真ん中に進み出た。そのままくるりと回って指を天に差す知恩院の時と同じポーズをとったかと思うと、金属を引っ掻くような音が微かに聞こえ、葉っぱが数十枚ザザザとと木から落ちて来た。

「何したんじゃ?」

「しっ。しばらく静かにしててください。音の反射を聞いてるんです」

 そんな事も出来るのか! と遠野は驚いている。

「凄いのう!」

 ルディは微笑みながら頷き「静かにしてください」と口に指を当てた。次喋ったら口を塞ごうと心に決める。

 天に指を翳しながら目を瞑るミーナは、いつもよりも長い事そのままの姿で固まっていた。いったいどこまでを視ているのかルディにはわからない。

 ただ、いつもと違い、ルディにも感じられるほどの波が幾度となく、あちらこちらへ反射していた。右から来た見えない何かに奥歯が鳴り、左から来た何かにまつげが震えてくすぐったい。

 そして葉が全て地面に落ち切ったのとほぼ同時くらいに、ミーナは手を下ろした。

「ここを一番目として」

 ミーナが自分の隣の鳥居を指差す。

「三十七個目の鳥居と三十八個目の鳥居の間、異常に広いわ。ここら辺の間隔は全部人一人分くらいの隙間だけれど、そこだけ十メートルは離れてるわね……。それでその中に建物。狛犬……いや狐ね。狛狐が両方に立ってるから多分お社だわ」

 ミーナは目を閉じたままそこまで言い切り、自分の言葉に頷いた後目を開けた。

 まだ音は乱反射を続けていて、耳が時折キーンとなる。

 三十七、八番目の鳥居は他の鳥居と比べても何の変わりもなかった。隈なく触っておかしなところを探したが、均等に置かれた鳥居に人一人が滑り込める程度の隙間といい、少し塗料に剥げがある支柱といい、他の鳥居と同じだ。

 ルディも遠野も、ミーナでさえ、そこの間の空間に何も感じず首を捻った。

「本当にここなんですか? うんともすんとも言わないですけど、ここが鳥居の出口なんですよね?」

「うん……そのはずなんだけど」

 二つの鳥居をぐるりと調べてみるが、やはり怪しい所は見当たらない。ミーナの表情にも焦りの色が浮かんできているし、太陽は刻々とその身を地平線に近づけている。

「何も無いのう……」

「ここにあるはずってわかっていても見つからないなんて。しらみつぶしに一本一本探していたら絶対間に合いませんでしたね」

 ただ、今のこの状況も間に合うとは言い難い。ルディは祈るような心境で鳥居を触り、なんの収穫も無い事に焦った。お願いですから、と神頼みをしたい気分だ。

 何故、通してくれないのだろうか。

 遠野の思いはそれほど神様にとって邪なものに見えるのだろうか。

「もう! ここにあるはずなのに! この! この!」

 ミーナがとうとう怒って、鳥居と鳥居の空間に指を何度も振り始めました。ミーナが指を振り下ろすたびにパシン、パシン、と空気が弾ける音がして、ルディと遠野の鼓膜を襲う。葉が震え歯も震え、思わず耳を塞ぎ、ミーナに止めるよう言おうと一歩近寄った時、ルディの入ったその正面の空間だけが、音を吸い込んで何も聞こえない事に気付いた。

 そこに入った時だけ、ミーナの起こす空気の壁が耳に届かないのだ。

 ルディは何の手応えも感じられないまま、その空間に向かって引き戸を開けるように手を引っ掛けて横に動かしてみた。

「ルディ君! 何じゃそれ!」

 遠野の声が弾んでいる。

「わかりません!」

 ルディの声も思わず大きくなる。

 三十七番目の鳥居と三十八番目の鳥居の間が空間ごと押し広げられていた。ルディがこの世界全体を左右に分けているのだった。

 目の前には鳥居が続く景色とは全く違う光景が現れている。

 何も無い空中に巨大な壁紙が貼られているような異様な光景。長方形にきっちりと区切られた別世界がルディの前に広がっている。

 その光景はルディが開く手の動きに合わせてどんどん大きくなっていった。

「あ、ありましたね」

「……こんなのありなの?」

 それ以上開かなくなるところまで広げると、三人が優に通ることが出来る入り口が現れた。見上げる程の山肌をそのまま掘り返して作ったような社が鳥居の奥に見え、その両隣には狛狐が鎮座している。伏見稲荷大社の楼門近くにあった狛狐の像と似ていたが、彼らが咥えている稲穂も鉤も、本物だった。さらに言えば、それを咥えている狐も本物だった。

 社からは電線のようにしめ縄がそこかしこに張り巡らされていて、様々な長さの紙垂が漂うように飾りつけられている。まるで蜘蛛の巣のようで、一度入ったら出られなくなるような気がした。

 社は奥まで続いているせいか、暗くて中が見えない。代わりに狛狐の目を妖しく照らしている蝋燭の火が異様に明るく見えた。その蝋燭が明るいというよりも、狛狐の周り一帯が暗くなっているのだろうか。

 人影は無く、多治、些治の姿もない。ルディ達三人の姿を見ているのは、台座に座る狛狐のみ。その狐も何をするでもなく、鋭い眼光を入り口に向け続けているだけだった。

 ちりちりと蝋燭が燃える微かな音が、嫌にはっきり耳に届く。

「稲荷の縁の者か」

 何処からともなく声が聞こえた。鉤と稲穂を咥えている狛狐が発している声のようだ。口が動いていなかろうと、彼らが喋りかけているのが直感的にわかる。

「そうよ」

 ノータイムでミーナが答えるが、狐は微動だにしない。

「根が見えぬ。葉も見えぬ。何を以って縁とするか」

「どういう意味?」

「本当かわからないから証拠を見せろって言われているようです」

「そんなの無いわよ……」

 そもそも稲荷に縁があるかと言われると無いのだ。

 どうしようかと迷っていると、目の前の地面が波打ち、小さな水たまり程の鏡が現れた。

「そこに手を」

 また何処かから声がしたので、ミーナが手を付ける。

 そこに現れたのは、昨日狐の男の子と白いにょろにょろを追ったり、真静とへそ石に振り回されている光景。

『むかつく!』とミーナが咆哮している声もぼんやりと響いて来る。

 昨日の狐たちを手伝った出来事が、鏡に映されているのだった。

 鏡の水面が揺れる度に、ルディたちが走ったり吹き飛ばされたりする姿が切り替わった。

 駒狐は微動だにせず、目だけを水面に向けている。

 それは秒針が一周する間もない、ほんの短い出来事だった。

 映像が流れている間に、鏡の水面から榊の枝が三本生えて来て、ルディらそれぞれの目の高さまで成長して止まった。

「それを。奥へ」

 また声が聞こえると、ルディたちのそばの灯篭から順に、ぽわぽわ灯が灯り、奥へと伸びていく。ルディたちは榊の枝を手に取ってから社の奥へと進んでいく。

「嬢ちゃんたち、昨日何をしてたんじゃ?」

「そりゃあ観光よ」

「僕たちの思うままに、京都を見てました」

 そうか、と遠野は鏡を見つめていた。

「……吸血鬼のまにまに、か」

 社に入ると光源は足元の蝋燭だけとなり、天井の見えない薄暗い畳敷の空間をしばらく歩く。

 そして、やがて行き止まりとなった。

 廊下は途切れ、ルディたちの目の前には金箔で飾り付けられた豪奢な襖が現れる。そこ以外に道はない。振り返ると元来た道の蝋燭も消えている。外の光も一切入り込まず、気を抜けば自分の手が何処にあるか見失っていまいそうな闇。その中にぽつりと立つ蝋燭。それに照らされた襖と遠野。

 その他にはきっと、何もなかった。

「お爺さん?」

 ミーナが遠野に声を掛ける。

「私はね、ほんの少しの不安もないわ」

 遠野は何も答えなかった。

 その代わり、ミーナの手を両手でしっかり握った。

 遠野の手は酷く震えていて、何故震えているのか、ルディにはわからなかった。


 襖が開く。


        ☆


 頭に一瞬過ぎったのは、二条城で見たで見た息を飲むような広さの謁見の間。しかしそれすらもちっぽけに見える、何百畳もある広い和室がそこにあった。

 行燈が何の規則性も無く並べられていて、天井からは提灯やランタンが無秩序にぶら下げられている。部屋を照らすそれらは、一つ一つの明かりこそ控えめで遠くまでは照らすことが出来ていないが、近くにいると眩しいくらいの光を湛えていた。上から下からじんわりした光が広間を満たしている。

 足元を慎重に確認し、行燈を蹴り飛ばさないようにしながら襖を閉めると、トン、と襖が柱を叩く音が、やけに大きく響き渡った。

 不規則に並べられた提灯の近くには御膳が置かれていて、その上には豆腐と油揚げのお味噌汁と冷ややっこと油揚げが並べられている。豆ばかりだ。お味噌汁とおかずが駄々被りしている。

 その前に座っているのは人間の姿に化けていない、普通の狐だ。

 ルディ達が入って来た事を気に留める事もなく、静かに自分の目の前にある御膳を見つめていた。大広間はその狐と提灯と御膳で埋め尽くされていて、それがずっと遠くまで続いている。全国の狐が全てこの場に集まっているようだ。きっと知恩院の瓜生石を使ってはるばる遠くから来たのだろう。

「面白い所で結婚するのね。ねぇ、おじい――」

 ミーナが話し終わる前に、遠野は駆けだしてた。

「お、え? ちょっと! 危ないわよ!」

 行燈を器用に避けながら尚も奥へと進んでいく遠野の後を追いながら、ミーナが必死で声を掛ける。急にどうしたのだろうか。

 と、ミーナのスカートの裾が行燈に引っかかって倒れてしまった。咄嗟に受け止めて二人で慎重に立て直す。行燈の中はあぶらで燃える炎だ。燃えてしまったら大変である。しかし行燈を直しているうちに、遠野との距離は開いてしまう。

「待っとくれ! そこの……待っとくれ!」

「お爺さん、きっと輝夜ちゃんを追ってるわ。奥に見えるわよね?」

 ミーナに言われてルディが目を凝らすと、遠野の向かう先には白無垢と黒袴の二つの人影が在り、さらに奥の部屋へと消えようとしているのが見えた。この部屋は広いし暗いし、ルディでも辛うじて見える程度。それにも拘わらず遠野は二人を見る時だけは目が良いのだった。

 遠野は自分の足元も気にせず、どんどん奥へと走っていく。今も行燈が倒れないのが不思議で仕方が無い。

 微動だにしなかった周りの狐が、遠野が通ると驚き飛び退き、クゥクゥと鳴いていた。

「ミーナは先に行ってください! このままではお爺さんが他の狐に返り討ちにされかねませんよ!」

「え? どういうこと!?」

「神様を巻き込む大事な儀式で、火事を起こしそうな老人が主役に襲い掛かっている。それが今の光景です」

「おおお……やばいわね」

 ミーナは呟くや否や風のように広間を駆け抜ける。火事を起こしそうな乱入者が一人増えた。

 ルディは二人の後ろで倒れそうな行燈を片っ端から直していく。

「お爺さん! 落ち着いて! まだ大丈夫だから!」

「でも、今追い付かねば!」

「ダメ! ストップ!」

 ミーナが若干裏返った声で叫んだ。

 そしてそのまま遠野の前にミーナが躍り出る。

 間一髪、止まらなければそこに居たであろう空間に、天井から人に化けた狐が一匹降り立っていた。手には薙刀を持っていて、正中に構えてミーナの目の前に突き付けている。そのまま走っていれば遠野は自ら刃へ突っ込んでいたかも知れない。

「神の御前にて何の故あって暴れるか」

「……はい? 難しい日本語使わないでよ!」

 ミーナが相対しているのは人間の子供の姿に、同じくらい大きなしっぽがふさふさと生えている狐。見たところまだ子狐のようで、若干舌足らずで妙に格式ばった喋り方をしているので、ミーナには聞き取れないようだ。ルディにもよくわからない。

 見たところ護衛のようで、ミーナと遠野を睨みつつ牽制していた。その間にルディも追いついたが、相対する子狐はあどけない容姿とは裏腹に隙が無く、三人いても出し抜く方法が浮かばなかった。

「暴れてないわ、急いでるだけ。だってもうすぐ狐の結婚式終わっちゃうんでしょ?」

「何故急いでいるのか。ここから先は多治様と神に仕える事になる夫婦以外は入っては行けない事になっている」

「入ってはいけない所なんて百も承知よ! ダメだダメだって逃げられて邪魔されてここまで来たんだから。鳥居に入り口隠されたり大変だったのよ!」

「鳥居……お前、伏見の者ですらないのか! どうやってここまで来た!」

「耳をすませたのよ。アンタたちが聞こうとしないものまで全部にね! ……お爺さん、ここはもう大丈夫だから行って」

 もう奥へ続く襖は目の前まで来ている。この狐の子の他に、遠野を邪魔する気配もなさそうだった。

 さてどうするか、ルディがそう考えているうちに、ミーナがゆっくりと狐の子に歩み寄り、薙刀の柄を掴んで無造作に横に除けた。大胆にも程があり、逆に狐の子もポカンとした顔をして何も抵抗しなかった。突拍子も無い事をする事に掛けて、ミーナの右に出る者はいないのだ。

「な、何をしている! 無礼な!」

「無礼がなんぼのもんよ! ここを通してくれるなら丁寧に挨拶でも何でもしてあげるわ!」

「それは出来ないと言っているだろう!」

「だから力尽くなのよ!」

 振り回される薙刀をミーナは押さえつけて、逆にその小さな狐を振り回す。体格は互角だが、地力が違ったらしい。A型の血がまだわずかに残っていたのか、ミーナはとうとう薙刀を奪い取った。

 近くにいた狐が不安そうにクークーと鳴き始め、その鳴き声は伝搬して、広間をこだまする大合唱となり始める。何事かと野次馬の様に遠くからこちらへやって来る狐も出て来て、段々とその場が収集できなくなってきた。押し寄せる狐の波に埋もれそうになる。

 ルディはその狐の群れから抜け出し、奥の襖からは反対側の離れた場所に逃げた。

 ミーナのあの様子、A型の血がまだ残っているならたぶん……。

 ルディの元に狐がポーンと飛んできた。

 予想ぴしゃりです――。

 狐の群れに埋もれてルディにはちらちらとしか見えないが、ミーナが寄って来る狐を片っ端からぶん投げている。ルディはアメリカンフットボールのように、すべての狐をキャッチして、広間の隅へと運ぶ。

 投げられた狐は鳴くことも忘れて、震えて丸くなったり、怒ってまた突撃したりしていた。

 それらを容赦なくぶん投げ続けるミーナ。

 行燈を避けながらキャッチするのはルディにとっても大変なのだが。

「信じられない! 大事な大事なお客様だぞ! 今投げたのは王子稲荷の、さっき投げたのは最上の方だぞ! お前なんかが触れるようなお使い様じゃないんだ! 宇迦様が黙っちゃいないぞ!」

「言い合いならいつでもしてやるからその宇迦ってやつを呼んできなさい! そいつもぶん投げてやるわ!」

「ううう……私は護衛だぞ! 私の前で暴れるな!」

「護衛なら侵入者を止めてみなさいったら!」

 いよいよ広間は戦場の様相を呈してきて、狐の鳴き声と狐の護衛の泣き声と、ミーナの怒号が襖や畳を揺らしている。

 そんな中、遠野が狐の山から抜け出して奥へと向かうのが見えた。

 もっと早く、もっと速く、バレないうちに。

「ミーナ! こっちは大丈夫ですよ! じゃんじゃん投げてください!」

 ルディがミーナに向かって叫ぶと、狐たちの唸り声はさらに大きくなった。


        ☆


 襖の奥は急な上り坂になっていた。

 遠野は一人、その道を進む。

 空間自体にグラデーションが掛かっている様に、一歩ごとに闇が光へと変わっていく。闇を照らしていた微かな蝋燭の火は太陽光へと取って変わり、やがて遠野はいつの間にか見覚えのある場所にいる事に気付いた。

 稲荷山山頂にある、一ノ峰だ。

 何度かこの場所で手を合わせ、空に昇る時に再び連れ合いに会えるようにと願った事を彼は思い出す。誰に向かって願っていたのかは彼自身もわからない。彼は都合のいい時や気が向いた時にしか祈りを捧げないし、信じる神も居なかった。しかし山頂で願えばその願いは届く気がしていた。

 山を登った分だけ、ここは天国に近いのだから。

「こんなとこに入れたんじゃのう……」

 その記憶で彼が祈った祠の周りは、柵で囲われて当然入れないようになっていたはずだ。しかし今、その祠の目の前に遠野は立っていた。

 空は茜色に染まり、快晴。何処からともなくパラパラと雨が降る。

「お爺ちゃん?」

 わけもわからず祠をぼんやりと眺めていた遠野は、後ろからの声に振り向く。

 山の頂上からさらに天へと続く石段が、わずかに上下に揺れながら空中に浮いている。きっと八咫烏の連中が言っていた通り、タカマガハラに続いているのだろう。石段の先は遠野の目には見えない。

 白無垢と黒袴の二人は、その石段の途中に居た。

 振り返った遠野の顔を見た穂乃姫の顔は凍り付いたように固まり、手に持っていた榊の枝もポトリと石段に落ちる。

「似合っとるのう」

 遠野の言葉に、穂乃姫は肩を竦めて顔を下に向けた。

 白無垢を着る為か、今は人の姿。彼女の全身の輪郭は淡く光っているように見え、この世界と別の世界の境界にでもいるようだった。

 ――会えた、会えた。

 遠野の頭には、その言葉しか浮かばなかった。

 自分のしていた事は間違いだったかもしれない。あの神官姿をした狐の言ってた通り、おもかる石が静かに伝えていた通り、遠野の信じていた事は嘘だったのかも知れない。

 不安がずっと胸にあった。

 しかし、ほら、どうだ! 間違っていなかったではないか!

 輝夜の耳と尻尾を見ろ! あれは酷く沈んでいるに違いない。やはり輝夜は自分の意思でここに来たのではなく、攫われたのだ! 望まずにここまで来てしまったのだ!

 今、そこから解放してやる。義務が何だ、生まれがなんだ。

 輝夜の生きたいようにさせてやるのだ。

 輝夜は、本当は何を選びたいのか、聞いてあげよう。もう、長い間会っていなかった気がする。一人の時間がこんなに長く感じたのはいつ以来だ。

 本当に、わしの愛しい娘が、やりたいことは――。

「お爺ちゃん」

 穂乃姫が陽炎の様に頼りなく遠野に声を振り絞る。消えてしまいそうなその手を婿の鉤彦がそっと握って支えている。

 遠野も穂乃姫を支えてやろうと、足を踏み出す。あんなに震えて可哀想ではないか。自分の使命とやらを全うする為に、酷く無理をしているに違いない。そんな我慢をする必要なんて、無いではないか。

「ありがとう」

 穂乃姫は、それだけ言って頭を下げた。

 遠野の歩みは止まった。

「ここまで来てくれてありがとう。……似合ってるでしょう?」

 潤んだ瞳に白無垢を、おどけて振る袖の艶やかさ。遠野へ向けていた穂乃姫の微笑みがくしゃりと潰れた。

 穂乃姫は嗚咽を漏らしながら、遠野の胸に飛び込む。

「後悔してました。それで、ずっとその後悔と生きていくんだと思ってました。うち、自分の穢れが全部消えたのわかってて、でも次の日に言おうと思ってたら、そんな時間は無い事を知らされて……。お爺ちゃんに何も言えないと思ってました」

「いい……いいんじゃよ」

「何も言えずに家を出てしまってごめんなさい。また会えて嬉しいです。喋れてよかった。来てくれて、うちのお着物見てもらえてよかった。今までうちに良くしてくれて本当にありがとうございました。うちも出来る事なら、お爺ちゃんと一緒に居たいです。……でもね……でも」

 でも。

 遠野はその瞬間に理解した。

 理解してしまった。

「……か、………………」

 嗚呼、と遠野は空を見上げた。

 空は何処までも遠く高く、きっと無限に彼方にあった。

「――――」

 もう、声なんて出なかった。

 義務だ、使命だ、色々と並べ立てたが、つまりはそういう事なのだ。

 ――わしは間違っていなかったのう。

 輝夜は遠野と過ごした日々を、大切に体中に留めていてくれた。

 かけがえのない時間は、遠野にだけ流れていたわけではなかったのだ。遠野は間違っていなかった。

 しかし彼の大切な狐は、やはり自分の意思でここにいる。

 遠野ではなく鉤彦を選び今ここにいる。穂乃姫として、ここにいる。

 遠野はこれが初めての経験だった。きっと娘が生きていれば、何十年も前に経験していた事なのだろう。

 そのもっと昔。――妻とのささやかな祝言の時に、わしはどうしていた。あやつの父は、わしに何と言ってくれた。愛する娘を攫うわしに、何と声を掛けてくれた。ここまで来て、遠野はようやくそれを思い出した。

 穂乃姫を胸から離して、そっと肩を叩く。

 そして、石段をゆっくりと上がり、遠野は鉤彦の目の前まで来た。

 鉤彦は恭しく頭を下げるが、その途中で遠野は鉤彦の手を両手で握り、両膝をついた。鉤彦は驚いたように顔を上げる。

「輝夜を、お願いします。……お願いします」

 声は掠れて上手く出ない。それでも唱えるように遠野は頭を下げ続けた。たった一年間の出来事をいつまでも覚えていられるように、刷り込むように、自分に言い聞かせるように。

「はい」

 鉤彦は遠野の手を握り返し、力強く頷いた。

「約束致します……お義父さん」


        ☆


 狐の子曰く大事なお客様である狐を丁重に部屋に並べてからルディも奥へ向かうと、光が差し込む出口近くでミーナが陰に身を寄せていた。

「何やってるんですか? 早く追わないと」

「……いや、もう良さそうよ」

 小声でそう言ったミーナは、外を顎で指す。

 よくわからないままその先に視線を移すと、狐の夫婦と遠野が石段の途中で三人しゃがみ込んでいるのが見えた。何をしているのかはわからなかったが、三人が身を寄せ合っていてぽかぽかと睦まじいのが見えるようだった。

「……確かに、もう良さそうですね」

 天へと繋がる石段の途中で寄り添っている三人を眺めながら、ミーナが寄りかかっている壁にルディも寄りかかる。視線の先には遠野と、綺麗な白無垢を着た狐――おそらく輝夜さん――と旦那さん。

 彼らは何事かを喋りながら、何度も何度も頷いては笑っていた。

「何かね、きっとお爺さんは最初から輝夜ちゃんを取り返す気なんて無かったんじゃないかなって思うの。だからおもかる石も持ち上がらなかったのよ」

「ええ? でも輝夜さんを取り返す為にお爺さんは頑張ったんでしょう?」

「うん……。……えっとね、夢を見たいの。すぐに醒めちゃうってわかってても、起きた時に温かくなって、それで……。……それでね、いい夢だったって。夢ってわかっても、見てよかったなって思うのよ。……きっとね」

 遠くを見るように目を細めながら、ミーナはそう言って口を噤んだ。

 太陽が傾いて、紫色のグラデーションが混じる空の下。

 連れ戻すでもなく、神と対峙するわけでもなく、ただ贈る言葉を掛けては受ける。それだけの事が難しかったのだ。それだけの事が大切なのだった。

 全てを染めてしまいそうな赤い夕焼け、雲一つない紅の空。何処からともなく降って来た細雨がサラサラと三人に降り注いで光っている。

 ルディがミーナを見ると、彼女は笑って頷いた。

 二人はその場をそっと後にする。

 これ以上その場にいる必要は無かったし、ルディたちはもう十分に贈り物を受け取っていた。

 洞窟の様に光が少ない通路を抜けて、畳張りの広間まで戻って来る。

「やっぱりミーナさんでしたねぇ」

 人の気配がしないそこに、フワリと蝋燭の火が灯った。明るくなった広間の真ん中。ちょっこりと正座した女性が嬉しそうにニコニコしている。煌びやかな冠を頭に乗せ、少し体を動かすだけでしゃらしゃらと、聞けば浄化されそうな音。

 昨日奥の院を適当に掃除していた巫女さんその人だった。

「何でこんな所にいるのよ」

「うちが居ないと儀式が進みませんから。もう随分と待たせてしまってますね」

 参りました、と爪をいじりながらちっとも巫女さんは困った様子を見せていない。

 その様子を見て、ルディは笑ってしまいそうになった。

「もしかして、あなたが神様ですか?」

「はてさて、どうやら」

 昨日と同じようにしらばっくれるが、さすがに状況証拠が揃い過ぎて真っ黒だ。ミーナが精いっぱいの冷たい視線を送っているが、そんなのお構いなしに巫女さんは笑っているのだった。

「賊が侵入した、なんて木ノ葉に言われたものですから何事かと思ったのですが、なんて事無いお別れの挨拶の様でしたので、少し待ってました」

 木ノ葉とはあの薙刀を持ったあの狐の事だろうか。

「本当は私達は入っちゃいけなかったんでしょう? 止めなくてよかったの?」

「既に止めてましたからね~。どんなことをしても本来ここへは来れませんから、ここに来られたって事はそういう運命だったって事です。うちが何してもそれは変わりませんし、少し待てばいいだけですので」

「呑気ね、本当に。私達が本当に賊だったらどうするのよ」

「本当の賊だったらここには来られませんから。凄いんですよ、神様の結界は。それでも理を超えてミーナさん達はここに来ちゃいました」

 巫女さんはそう言うとゆっくりと立ち上がる。

「遠野さんはラッキーでしたねぇ。ミーナさんとルディさんに会えてなかったらここまで来られなかったんですから。吸血鬼パワーですね」

 参りました、と巫女さんは笑う。

「本当はあなたがこうなるように仕向けたんじゃないですか?」

 先斗町公園に行けと手紙に書いたのは他でもない、この巫女さんだ。待ち人は遠野ではなく、ルディたちの方だったのではないだろうか。

「いいえ、ミーナさんとルディさんがこうしたいと思ったから、今があるんです。私はそのきっかけを伝えただけ。私自身も運命の流れを変える力なんて無いんです」

「あのお爺さんの為に特別にそうしたの?」

「私は何も出来ません。ミーナさん達が踏み倒す理の中に、たまたま私も居ただけです」

 あくまで飄々としている巫女さんは、そういってやっぱり愉快そうに笑うのだった。

「……もしあなた達がいなかったら、遠野さnは無茶して酒に溺れて、そのまま……。うちのお使いさんがお世話になったのに、それが良くない結果になるなんて嫌でしょう? どうせなら、出会って良かったと思ってもらいたいなと」

「……今、遠野さんの運命は変わったのでしょうか」

 運命、その言葉が気になって聞いてみました。きっとこの巫女さんならわかるのではないかと思う。

 巫女さんは人差し指を口に当てて天井に目線を移した。何をしているかわからなかったが、どうやら遠野の未来を見ていたようだ。それがルディにもわかったのは、巫女さんが不意に噴き出したからだった。

「新しいお祭りが出来るようです」

 巫女さんは笑いながら奥へと進んでいく。

「一年に一度、稲荷の山から神の使いを呼び出す儀式。作るのは彼です。無茶苦茶ですね、遠野さんは」

 楽しそうにくるりと袖を振り、巫女さんはそのまま暗闇へと消えて行った。

 後に残ったのは、しゃらりと涼やかな音だけだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る