幕間 五幕

 遠野は家が嫌いだった。

 家に帰ると一人になってしまうからだ。どうしようもない孤独と向き合う時間が、彼は大嫌いだった。叡山電鉄で北へ北へと進んだところにあるその家は、土地を贅沢に使った平屋。遠野には広すぎる家。妻と子供と暮らす為に建てた家なのだから、広くて当たり前だったのだ。そして、その広さが彼をさらに苛んだ。

 彼にはかつて、子供がいた。

 彼にはかつて、妻がいた。

 遠い記憶の彼方で、その映像は未だ動き続けている。広い広い部屋で一人になると、その光景が彼の周りに独りでに浮かんでくるのだ。

 そういう時、彼は写真が沢山入った箱を抱えて眠る。

 中身は決して見ずに、ただただ、大事に抱えるのだった。

 それが故に遠野は、限界まで外で遊んだ。大学生と楽しく酒を飲んでいれば、少なくともその時は、楽しかった。

 しかし、その生活が少し変わる。

 一年前の春の事。

 遠野の家の庭先に一匹の狐が倒れていた。

 何処を歩き回るとそんなになるのか、体は泥でひどく汚れていて、美しい毛並みが台無しだった。

 遠野は何も考えなかった。

 気付いたら狐の薬と飼育本と餌が家にあった。

 その日から、仏間と遠野の部屋の他に、輝夜と名付けた狐の部屋が出来た。

 好きな物が何かを調べ、櫛で毛を梳き、ゴム鞠で遊ぶ。出会った時は今にも死んでしまいそうだった狐はどんどんと元気になっていく。

 段々と、外で遊ぶ事も減って来た。

 一人で震える事も少なくなった。

 遠野が孤独に苛まれる時、輝夜は必ず遠野の傍にいた。遠野の胡坐の上に座り、布団の中に潜り、ある時は我儘を言い、ある時は障子を破る。

 怒りつつ笑いつつ、家での生活が忙しくなる。

 その合間に、遠野は写真を眺める事が出来るようになっていた。家にいる時間が、苦痛ではなくなった。

 輝夜はころころと姿を変え、人の姿と狐の姿を行ったり来たりしていた。どちらの姿でも変わらず遠野の傍に寄り添い、いつしか遠野は輝夜が本当に自分の子なのではないかという錯覚にすら襲われた。

 それを彼女に問うと、その狐も嬉しそうに笑った。

「ええ、うちも時々そう思います」

 庭で倒れていた狐を腕に抱えた日から、一年と少し経っていた。

 その日も遠野はいつもの様に布団に横になり、タオルケットを一枚腹に乗せて寝た。狐の輝夜も隣で眠る。

 眠る前にはその日あった事でどれが一番面白かったか、楽しかったかを二人で思い出しながら喋るのが日課だった。


 しかし、その日は少し違った。

 輝夜は二、三言葉を交わして、それだけで寝てしまった。

 遠野は少し不思議に思いながらも、眠りについた。こんな日もあるだろうと。

 そして目が覚めた時には一年間連れ添った狐の姿は無かった。

 慌てて外に出ると、曲がり角を今まさに曲がらんとする輝夜と、彼女を連行するように両脇を固める、二人の男が目に入った。

 こちらを振り返った輝夜の目が縋るように揺れた気がした。

 走って曲がり角に辿りついた時にはもう輝夜の姿は無く、先ほど見かけた男の一人が遠野を待っていた。

「穂乃姫様に憑いた穢れが、全て落ちたのです」

 輝夜の行方を尋ねる遠野に、男はそう答える。

「あの方は鉤彦様と結婚し、伏見と天とを繋ぐ使いとなるお方。我々はずっと穂乃姫様を探していました。祝言の予定は遥か前の事、期は既に熟し過ぎているのです」

「何を言ってるんじゃ……輝夜が、結婚? 天界?」

「もうあなたが穂乃姫様に会うことは無いでしょう」

「なんじゃそれ……ちょっと待て……ちょっとだけ待ってくれ」

「私たちは待つ時間など持ち合わせていないのです」

 遠野の手は空中を切り、男は踵を返して道を歩いて行ってしまう。遠野は必死に走るが、いくら走ってもその男には追いつけなかった。

 車が一台通り過ぎ、遠野と男の間を一瞬断つ。

 その一瞬で、男はいなくなっていた。


『お爺さん』

 遠野は昨日の輝夜との会話を思い出す。

『お爺さんはずっと一人だったんですよね』

 ここ何十年かはな、と答える遠野に、輝夜は『そうですよね』とだけ相槌したのだった。

 ただ、それだけの会話だった。

 他愛のない、何の変哲もない、普通の会話。

 その続きが遠野に訪れる事はもうないのだ。

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