五章 金閣寺、あるいは不十分な結界

 ルディの務めている引っ越しのアルバイトでは、段ボール箱を三つほど同時に運ぶ事もざらにある。

 しかし今持っている箱はかなり重く、さすがに三個いっぺんに運ぶのは厳しかったかもしれない。バランスを取ろうとするのだが、力を入れ過ぎてコントロールがままならず、段ボールが自分の顔に迫って来る。咄嗟に横っ面でそれを押さえると何とか安定する。

 早く何処かに置かなければお客様の荷物を台無しにしてしまう。しかし辺りを見回しても置けそうな場所は何処にもない。

 そうこうしているうちに、頬を押し付けた段ボールから何やらコンコンコン、と叩く音がしてきた。

 聞き間違いかと思い、耳を澄ませてみると、やはり叩く音がする。

 その叩く音はどんどんと早くなって来て、やがて「ルディ!」と呼ぶ声も聞こえて来るようになった。一体何が起こっているのだろうか――。

 気が付くと段ボールの山は何処かに消え失せ、目に映るのは一筋の光に照らされているいつもと違う天井だった。

 唯一、何かを叩く音だけが、夢から覚めても続いていた。

「ルディィィ!」

 叫び声も続いている。

「…………なぜ」

 ルディは思わず呟いて、しばしぼんやりと天井を見つめていた。

 このままもうひと眠りしてしまいましょうか……。

 しかし、扉を叩く音は段々大きくなって来ている気がした。

「何やってるんですか」

 観念して扉を開けると、ミーナがパジャマ姿で立っていた。

「喉乾いたから外に何か売ってる所あるかなって思って。結局無かったんだけど、今度はドアが開かなくなって。……ルディが寝ぼけて閉めたんでしょう! 私が部屋にいない事なんてすぐわかるのに!」

「いやいや、今起きたところですって。オートロックって言って、鍵を持って外に出ないとダメなんですよ。勝手に鍵が掛かるんです」

「勝手に……そしたらこうやって入れない人が出て来るじゃない! もう出発する人がここをいっぱい通ったのよ! すっごい恥ずかしかったんだから!」

 そういえば顔が真っ赤だ。確かにこの部屋はエレベータから近い場所にあるので、このフロアで寝泊まりしている人はほぼ全員ここを通る事になる。

「そんな事言われても、アホがいない前提で作られてますから仕方がないんですよ」

 納得はしたが同情の余地はない。

「誰がアホよ!」

 朝だというのに吸血鬼にあるまじき元気さ。


        ☆


 昨夜遠野と待ち合わせの約束をした京都駅の噴水は、すぐに見つかった。

 バスロータリーに隣接する形で水がピュンピュンと舞っている場所があり、何人かの観光客が写真を撮っている。近くによると飛沫が空気を冷やしていてより一層涼しい。バス停はバス停でミストシャワーを振りまいてくれているので、気温が上昇しつつある今日の天候にはとてもありがたかった。

「お、なんじゃお洒落さんじゃな」

 ミーナが被っている帽子を指差しながら遠野が何処からともなく登場した。そういう遠野もアロハシャツにサングラスでバシッと決めている。お洒落かどうかについてはルディには何とも言えないが、遠野らしさは出ていると思った。

 昨日行くと決めた金閣寺は『何気にめんどい』場所にあるらしく、電車を乗り継ぐよりもバスで直接行ってしまった方が手っ取り早いとのこと。

 バスはぎゅうぎゅうで一体他の人はいつ降りるのかと耐えていたが、何のことはない、みんな金閣寺前で降りるのだった。

「さあ行くぞルディ君! 嬢ちゃん!」

「え、なになに?」

 バスから降りるや否や、遠野は昨日一升近く飲んだとは思えないエネルギッシュな動きで金閣寺までの道を駆け抜け、そして途中で警備員に捕まりむやみに走らないように注意されていた。もちろん一緒に走っていたミーナも隣でしゅんと頭を下げている。まだ若干お酒の残るルディには色々とついて行けなかった。

「ねぇ! すっごい綺麗ね! すぐそこにあるのに、遠くにあるみたい! 何かしら、写真で見るより遠いのに大きく感じる……のかしら?」

 金閣寺を一望出来る池の前の小スペースで、ミーナは池に飛び込まんばかりに柵に乗り出した。

「お爺さん! 案内してくれるんでしょ? じゃああの金閣寺について何か面白い事知ってる? 金箔貼っただけって本当? 柱の一本が実は全部金で出来ている、とかないかしら。京都の人だけしか知らないけど本当は中では有名な人が寝泊まりしてるとかあったら面白いわね」

「当たり前じゃ! この金閣はすべて金で出来ていて、夜な夜な泥棒が入らないように金で出来たガードロボットを中に待機させているんじゃ。ほらここから見ると人影が見えるじゃろう」

 そんな馬鹿な、と思ってルディも金閣寺の中を見ると確かにそこには何かがいる。

「……さすが日本ね。ロボットの技術はそこまで来てるの……」

 感心しているミーナを尻目にルディは隣の観光客から双眼鏡を借りて中を覗く。

 明らかに仏像だ。ミーナに双眼鏡をそっと渡す。

「さらにあそこに寝泊まりも出来る。一泊五千五百円じゃ」

「お爺さん」

「……何じゃ?」

「全部嘘よね? 私は本当の事が知りたいんだけれど」

 双眼鏡を返してお礼を言った後、ミーナがニコリと遠野に笑い掛けた。今のミーナならたとえあの仏像が本当にガードロボットだったとしても、二秒と経たずに制圧出来そうだ。

「あー……そうじゃな。本当の事を言うと、この金閣寺は……え~と、凄く建物が金色に光る」

「急に案内のクオリティが下がったわ」

「嬢ちゃんはもう少し幻想を楽しむことを覚えた方がええと思うがの。夢の無い吸血鬼さんじゃな」

 その後も遠野の半分適当で半分真実の案内をされながら順路に沿って二人は進む。昨日と引き続きやかましくも愉快でブレーメンの音楽隊にでも入ったような気分だった。

 順路の途中にあったお地蔵さんの前にあるお椀にお賽銭を投げ入れる所があったのだが、それに白熱しすぎて入った時には見知らぬ他の観光客とハイタッチすらしてしまう始末。遠野といると本当に我を忘れてしまいそうになる。

 しかし、時折ふと遠野の視線がここではない何処かに泳ぐ瞬間があるのにルディは気付いていた。。

 初めは気のせいかと思っていたが、金閣寺の見物も終わりに差し掛かった休憩所で、遠野がこっそりと茶店の外を見渡しているのを見つけてそれは確信に変わる。

「どうしたんですか? 何か探し物でも?」

「わぁびっくりした! 急に話し掛けて何じゃ! ルディ君は嬢ちゃんとまだそっちで茶菓子でも食っとれ! 上手いじゃろ? ここにしか売ってないおすすめじゃ!」

「いや確かに美味しいですけど。お爺さんはそれどころじゃなさそうですね。何やってるんですか?」

「何もしてないぞ! 何かをした事なんて一度もない!」

「いや嘘が下手過ぎて縮尺おかしくなってますから……」

「何やってんのよ」

 口の周りに白い粉を付けたミーナが、ルディたちに割って入ってきました。

 かくかくしかじか密告すると、ミーナは首を捻る。

「私たち順路回り終わったし、何か見たいものがあるならついてくわよ? お爺さんが見たいものがあるってんならそれはそれで気になるし」

「ダメじゃダメじゃ! わしについてくるな! 絶対に何があっても嬢ちゃんが思う道を進めい! 嬢ちゃんが行きたいと思うなら順路じゃなくても構わんぞ! 何しろ吸血鬼じゃからな!」

「いや、お爺さんアンタ吸血鬼を決定的に勘違いしてるわ……」

 吸血鬼だから破ってもいいルールなど一つもない。むしろ吸血鬼だから守らなければならないルールが多い分人間よりも不自由だろう。

 話していても埒が明かず、仕方がないので茶菓子に舌鼓を打つ作業に戻る。

「確かに美味しいですよね、ここの茶菓子。金閣っていうらしいですよ。この抹茶と合いますね」

 金閣寺が描かれた謎の白いシャクシャクとした結晶に包まれた餡子は、その結晶のほのかな塩味と混ざり合って口の中で優しく溶けだす。

「お爺さんのおすすめだからね。あのお爺さん何でも知ってるわ。伊達に遊び回ってないわね」

 ルディたちが甘味を食べ終わったのを見計らったかの様に、遠野が戻って来て隣に座った。

「もういいのか? 他に回りたいところは無いか?」

 とにかくここではない何処かへ行きたいらしい。J-POPの青春ソングみたいな人である。

「そんなに急いで何処に行くのよ。旅は素敵な無駄遣い、時間を気にする時点で旅行じゃないわよお爺さん」

 ミーナが得意げに言う。

「まぁ別に二人がそうやって時間を使いたいなら止めはせんがの。色々回りたいところがあるなら効率的に案内してやるぞってだけじゃ」

「あ、じゃあさ、美味しいおやつを教えてよ。ここのお茶菓子も美味しいけれど、何か他にも京都でしか食べられない物とかない?」

「……おやつを食べながらおやつの話ですか。ミーナは食い意地張り過ぎですよ」

「いいのよ、せっかく美味しいものがいっぱいあるんだったら、食べれるだけ食べた方が良いに決まってるじゃない。だって昨日のお店も全部美味しかったのに、今日のこのお店もまた美味しいのよ? まだあるなら食べれるうちに食べとかないとでしょ」

 茶菓子を食べ終わってすぐにお腹を鳴らしているミーナ。

 本当は吸血鬼ではなくて餓鬼か何かなのでは。


        ☆


 地図では近くに見えるけれど、実際に歩いてみると思っていたより遠い。

 そんな経験は誰しもする事で、それが今ルディ達に起こっていても何ら不思議な事ではない。少し状況が違うとすれば、遠野が「五分くらいじゃよ」と言ってから既に二十分が経過しているので、普通に歩くよりも精神的に辛いという事だろうか。

「ねぇ、本当にあるのよね? 道間違えたなんて言ったら流石に噛むわよ」

「ミーナ怖くて噛めないじゃないですか」

「いいのよそんな事はどうでも。それくらい我慢ならないって事!」

 なんだか炎天下に居すぎて、体が餅みたいに溶けてしまっている気がした。さりげなくルディは自分の腕をつねって確認してみたが、まだ辛うじて大丈夫なようである。

 ミーナは体調が悪い時に太陽の下にいると焦げてしまうが、今日は幸い体調が良いようで、帽子のツバの陰からはみ出た肩も黒くなっていない。

 しかしそれでもかなりの日差し。帽子を脱いだら頭くらいは焦げるかも知れない。

「あ、あそこかな」

 ミーナが指差す方向には、ぴょんぴょんと跳びながら手を振っている遠野が遠くに見えた。ついさっきまで目の前にいたのにいつの間にあんなところまで。

 あの老体の何処にあれだけのエンジンを積んでいるのだろうか。

「ここがあぶり餅のお店じゃ!」

 遠野が「じゃん」と効果音を口ずさんで広げた腕の先には、広い木造家屋が石畳を挟んで一軒ずつ建っていた。

「……どっちがあぶり餅のお店?」

「どっちもじゃ」

 二つの平屋からはそれぞれ煙が上がっており、その煙の出どころは店先にある囲炉裏である。真剣な眼差しで手元から目を離さないおばちゃんもといお姉さんが、淀みない動きで串をくるくるひっくり返していた。

「いらっしゃい、『かざりや』でお休みなされてはどうですか」

 左側の平屋にいるおばちゃんが朗らかに声を掛けて来る。

「いらっしゃい、あぶり餅なら『一和』に」

 右側の平屋にいるおばちゃんが陽気に声を掛けて来る。

 ミーナは左右交互に首を振り、やがて困ったように遠野の方を向いた。

「ど、どっちに行けばいいの?」

「嬢ちゃんのフィーリングじゃ」

 ミーナが左に進むと、一和のおばちゃんが悲しそうな視線を彼女に送り、その視線につられて右へ進むと、次はかざりやのおばちゃんが「また次お願いしますね」と悲しそうに声を掛ける。右へ左へうろうろしながら、ミーナはその場でくるくる回転している。よく回転する吸血鬼だ。

「わかった、わかったわ。こうしましょう。値段の安い方に行く。私情を挟まないで機械的にね」

「どっちも同じ値段の様ですね」

 もう! と足を踏み鳴らしたミーナはそれからしばらく迷っていた。そして一本の枝をとうとう見つけ、その棒が倒れた『かざりや』に決めたようだった。

「あ、ちょっとストップ」

 棒倒しをする時の注意点を忘れていた。

「その枝、ケヤキじゃないですよね?」

「ん? わからないけれど、はい」

 ミーナから渡された枝を見ると、どうやらここいらに生えているクスノキの様だった。

「ケヤキではないですね、大丈夫です。かざりやに行きましょう」

「何よ。ケヤキだと何かまずいの?」

「ケヤキで棒倒しする時は逆に進まなければならないんですよ。以前何処かの町で教えられた事がありましてね。ケヤキは嘘吐きなのだそうです」

 眉唾ものの噂ではあれど、棒倒しの時はそれを守るようにしている。なかなかどうしてこれが当たり、ケヤキの時に倒れた方へ一度向かった時にルディはひどい目に遭っている。

「まあいいわ。とにかくこっちでいいのよね」

 ルディたちはかざりやのお座敷に入って、三人前のあぶり餅を頼んだ。そして待っている間、足を伸ばしてだらりと座る。

 何だかんだここまで三十分くらい歩いているし、金閣寺の中を見て回るだけでも追加で三十分は歩いているので、今日も今までだけで結構な量を歩いていると思われる。

「ここは風通しが良いわね。お茶も冷たいわ……」

 ちゃぶ台に突っ伏したミーナがぼそぼそとそんな事を言っていたかと思うと、そのまま動かなくなった

「寝てる……寝つき良すぎじゃろ」

「不規則な生活してますからね、ミーナは。ずっと起きてる事もあるし、こうして隙あらば気絶したりします」

「気絶なんかこれ! 大丈夫じゃろうか」

「餅が来れば起きますよ」

 おやつの時間にはまだ早いからだろうか、お店は幸運にも空いていた。家族連れとカップルが一組ずつ座っている。店内はのんびりとしていて居心地がいい。

 味噌が焼ける香ばしい匂いが漂って来て、ミーナの真似をするようにルディのお腹も鳴ってしまった。

「お爺さんはいつもこうやって観光客のガイドをやってるんですか?」

 餅が来るまでの間、何となしに聞いてみる。さっきの金閣寺での事が少し気掛かりでもあった。

「………………そうじゃよ。京都にある物を見て喜んでたりする姿を見ると身内が褒められたみたいな感覚になるからのう。ただの趣味じゃ」

「その割にはたまに上の空ですよね。何か別の物を探しているみたいに見えます」

「穿ち過ぎじゃ。ルディ君は純粋に旅行を楽しむタイプだと思ったんじゃがのう」

「楽しんでますよ、もちろん今も」

「それならそのまま楽しんでくれるといい」

 あぶり餅が来たのでそのまま話は終わってしまった。何かを隠している事は確かなようだが、なかなか口が固い。

 悪巧みをしているわけではなさそうなので、一旦置いておきましょう……。

「いい匂い……ちっさ! なにこれ!」

 寝起きで早速やかましいミーナが、目の前のお皿を見て驚いている。

 置かれた皿には、親指大の餅が刺さっている二又の竹串が積まれていた。その数一人前十三本。一本一本一口で食べられるのがいい。

「美味しっ」

 ミーナがすぐさま三本ほど食べて目を輝かせた。ルディも一本口に運んだ瞬間、その味に魅了されてしまう。白味噌がベースになっているのだろうか、この何ともあまじょっぱいたれはみたらし団子よりもさらりと口の中に広がる。微妙に焦げを感じる優しい香りもいい……。

 これはどんどん食べたくなりますね。気を付けないと両手で持つことになりそうです。

 そんなはしたない真似は出来けれど。

「何なのこれ……初めて食べたわ。無限にいけちゃうやつじゃない」

 両手にお餅を持ったミーナが恍惚の表情で息を漏らしていた。

「百年以上続く、超老舗じゃからの。隣り合わせで熾烈な客の奪い合いを繰り広げてっていうのにどっちの店も残っているんじゃから大したもんじゃ」

 ほうじ茶のおかわりを貰いながら遠野が食べ終わった餅の串を指揮棒の様に振りながら説明してくれた。

 ほうじ茶を飲みながらまだちびちびと餅を食べているミーナはふんふんと頷いている。

「ここに住んでもいいわ」

「極端ですね、随分」

 食べ終わった後も少しの間、座敷でゆっくりとしていた。

 遠野に騙されて沢山歩いたので、食休みがてら休憩するくらいで罰は当たらないだろう、という判断である。

 幸い店は混んでいないので、邪魔にもならなそうだった。ほうじ茶をもう一度おかわりすると、お店のおばちゃんは快く注いでくれる。

 時計を見ると二時を少し過ぎたくらい。帰りの新幹線は夜なので、まだもう一ヵ所くらいは何処かに行けそうだ。胡坐の上に開いたガイドブックと、秘伝のメモを取り出して、何処に行こうかルディは候補をいくつか考える。最終的にはミーナが行きたいところか遠野のおすすめの場所を選んでもらおう。

 ふと見ると、斜向かいのちゃぶ台に座っているカップルも、ガイドブックを広げていた。

 はて、僕達が入った頃にはもう食べ終わりそうだったはずなんですが……。

 胡坐のままずりずりと移動して他の様子も確認すると、襖の陰に隠れていた家族連れの姿も見えて来た。やっぱりあの人達もルディ達が入る頃には食べ終わりそうだったはずなのだが、席から立とうとする様子はない。テーブルの上のほうじ茶も空になっているのに、誰も動こうとしていないのだ。

「随分とのんびり出来るお店なんですね……」

「混まない時はのう」

 そう言って遠野は自分のふくらはぎを揉んでいる。

「……そろそろ行きますか?」

「いや、まだいいじゃろう。もう少し休んでから行こう」

 遠野がゆっくりと首を振る。

 さっきまでルディたちの行くところなら何処へでも好きな時に、と言っていたのにどうしたことだろうか。

 蚊に食われたようなむずむずとした違和感。

 時計の秒針が振れる音と、扇風機の羽根の回る音が、しばらくルディたちの周りに響いていた。

「……おトイレどこかしら」

 お腹が膨れてうとうとしていたミーナが不意に顔を上げて、誰の返事も待たずに席を立った。ふらふらと危うい足取りで外に出て行ってしまったが、変なところに行きそうだったらお店の人が案内してくれるだろう。まさかミーナも道端で用を足すつもりはないはずだ。

 みんながぼんやりと休憩する中で、唯一ミーナだけがのそのそ動いている光景。それをルディもぼんやりと見ていた。

 そしてしばらくすると、外からミーナが何やら喋っている声が聞こえて来た。どうしたのだろうか。ルディが外に出て行こうとすると、他のお客さんが不思議そうな目をしてこちらを見て来る。まるで、今席を立つのが信じられないとでもいった表情。

 この視線、見たことがありますね。何処だったか――。

「多治さん! 何でここに人がいるん! 人払い掛けたて言うたやないですか!」

「少し黙りなさい。見られたくらいで儀式に支障が出るわけではありません」

 ルディが外に出ると、会話の中身も聞こえて来た。

 甲高い声とそれに応える男性の落ち着いた声が何やら言い合いをしている。

 辺りを見回すと、隣にある今宮神社の入り口で、ミーナが腰に手を当てて二人の男を眺めていた。時折その手が言い争っている男二人の方へ伸びかけ、結局また腰に戻る。

「どうしたんですか?」

「いや、なんかね、話し掛けたら怒り出した」

「またなんか余計な事言ったんですか?」

「違うわよ。おっきいあぶり餅を持ってたからね、どうやって作って貰うか聞いたの。常連さん限定とかかも知れないけれど、もしかしたら食べられるかなって」

 ミーナが指差す男の手には確かに大きなあぶり餅が握られていた。ルディはてっきり団扇かと思っていた。一口であれほど美味しいあぶり餅をこの大きさで口に頬張れたら、向こう一ヵ月はお菓子がいらないくらい幸せになれそうだな、などと思う。言い争う男性二人、一つずつそのあぶり餅を持っている。

 出で立ちから見るに、神職だろうか。

 甲高い声の方は浅黄色、落ち着いている方は朱色に近い赤色の装束を身に着け、頭には黒い冠を乗せている。勺の代わりにあぶり餅というのが少し間が抜けて見えた。

「せやったら早く行きましょ! 何か聞かれてうっかりボロが出ないとも限りません」

「もう少しの辛抱です。箱をまだ貰ってません」

 落ち着いている方の男性はそう言って小さく長く息を吐き、キッと虚空を睨みつける。

 どうやら最大限に畏まる事で「これ以上話し掛けるな」というオーラを全面に押し出す作戦に出ているようである。

「ねぇ、それって高いのかしら?」

 惜しむらくはミーナにそのオーラを感じ取る力が無い事だ。よだれが少し垂れているのに気付かない辺り、ミーナに今見えているのはあぶり餅ただ一つ。空気を読む前にその空気が見えていないのだ。いくら無視されようが、答えを待ってじぃと男性を見つめている。

「ミーナほら、困ってますから。見たところ神官さんの様ですし、何か大切な事に使うのかもしれません」

「え、食べないの?」

「もしかしたらですよ。恰好とかで何となくです」

 二人の男性の表情も心なしかホッとした様に見える。旅行で何でも興味を持つことはいいのだが、他の人に迷惑を掛けてはいけない。

「すみませんでした」

「いえ、お気遣いありがとうございます」

「何かのお祀りごとですか?」

「え……」

 ルディが興味半分、社交辞令半分で尋ねると、二人の男性は渋いお茶を飲んだように眉間と顎の下に皺を寄せてから後ろを向いた。

 何か悪い事でも言ったでしょうか……。

 聞き耳を立てていると、会話が聞こえて来る。

「些治、お前本当に結界張りなおしたか? 存在を認識されるどころか我々自身に興味を持たれるなんて相当重大な欠陥だぞ」

「は、張りなおしましたよ! 多治さんに言われてからすぐにやりましたから…………あ……でも最終確認はしてないかもです」

「……お前は……。ここまで入り込まれるのは異常だぞ。考えられるのは二つ。この人たちが新手の種族なのか、もしくはお前が結界を張りなおし忘れたおかげで吸血鬼の方が入って来ているのか、だ」

 ルディとミーナはそれを聞いて顔を見合わせた。

 些治と呼ばれていた若い方の男性がこちらを恐る恐る振り返る。

「お姉さんもお兄さんも、まさか吸血鬼なんて事は……?」

「私、吸血鬼だけど」

 ミーナが答えた時の些治の顔といったら、そのまま青ざめすぎて空に溶けていってしまいそうだった。絶望色があるとしたら今のこの些治という人の顔色の事だろう。

 何が何だかわからなかったが、とりあえず申し訳なくなってくる。

「お……怒られる……毛皮にされちゃう……」

 そんな事を呟きながらよろよろと後ずさりしている。

「些治。いいから。気を確かに持ちなさい、些治」

 隣の男性――多治と呼ばれていた方――の言う事も聞こえていないようだ。何歩か小さく後ずさり、膝の力が抜けたかの様にがくりと体を沈めて、多治にしがみついた。

 その拍子に、些治の頭からぴょこりと耳と尻尾が生えて来た。

「些治……」

 多治は終始落ち着いていたが、その些治の姿を見て、片手で目を覆った。

「ど、どうしようルディ」

「ルディも何が何だか……」

「えっと、やっぱり違うかも。私吸血鬼じゃなかったかもしれないわ。えっとそうね、えっと……」

「お気遣いありがとうございます。しかしもう過ぎた事」

 多治はため息を吐いて、隣にいる些治の耳を頭に押し込んでいる。

「……狐……ですか?」

「ええ」

「伏見の?」

 彼が再び頷くのを見て、ルディの頭にぽっかり空いていた穴に、パズルピースがハマった。

 ここには伏見稲荷で遭遇した結界と同じものが張られているのだろう。

 だからお店の人たちが一向に外に出たがらなかった――いや、出られなかったのだ。唯一その結界を破れるのはこの中でミーナただ一人。

 しかし本当はミーナすらも立ち入る事の出来ない結界が既にあった、それなのに些治がその結界を張り忘れていた。そういう事なのだろう。

「ううう……こんなことになるなんて……」

 それにしてもこの落ち込みっぷりだ。昨日同じ状況にいた巫女さんなど、終始ふわふわ笑っていたというのに、何がそんなにまずいのだろうか。

「え~と、僕たち何もしませんよ? 別に偶然通りがかっただけですので」

「違うのです。そう言っていただけるのは幸いですが、結界の中に入られたという事実がまずいのです。一度入られてしまうと、そこから孔が空きます。つまり、そこのお嬢さんが結界を破ってしまったのだとすると、本来結界に入れないような方々も、入る事が出来てしまうのです」

「……それはどうやって?」

「簡単な事です。結界に入ろうとするのではなく、結界に入ったお嬢さんに会おうとするのです。その意識の違いが結界の孔です」

 なるほど、確かにルディはミーナを追ってここに来た。だからこの結界の中に入れたのだ。

 そして、何故多治がこんな説明をルディたちにしているかも察しがついた。

「つまり、ミーナを連れて早く出ろ、という事ですね」

「手前勝手で申し訳ない」

 多治がルディに深々と頭を下げる。

『向こう三日は大切な日ですよって』という巫女さんの言葉が思い出される。

 その大切な事をわざわざ邪魔する理由は、ルディたちにはない。

 隣を見ると、ミーナも頷いている。

 一礼してその場を後にしようと、踵を返した。

「なんじゃ、トイレが外にあるわけないじゃろう」

 二人が振り返ったところに、遠野がいた。彼も本来は結界の中に入れないはずの人間。ミーナに話掛けようとしたために、この結界の中に入って来てしまっていた。

「ちょっと間違えて出てしまいました。取り込み中なので、中に入りましょう」

 ルディは遠野にそれ以上は何も伝えず、誘導する。あまり他の種族や神様の風習を吹聴することも無いだろう。

 しかしルディが手を差し出して中を案内しても遠野はその場から動かなかった。

 それどころか、ルディの方さえ見ていなかった。

「あ…………」

 遠野が、多治を指差す。

「いた……見つけた!」

 ……? どういう事だろうか。

 ルディは振り向いて多治の方を見る。彼はとても嫌そうな顔をしていた。

 遠野はつかつかと多治さんに近づいて行く。

「はて……誰ですかあなた」

「お主ら狐じゃな!? 輝夜を知っとるな!?」

 遠野の言葉に多治は一層眉間に皺を寄せ、些治はうなだれていた首をパッと上げた。

「穂乃姫様が居た家の者か!」

 パッと身を翻し、些治は多治の隣に立つ。その一瞬の間に、耳と尻尾は引っ込んでいた。

 一方の遠野は何も答えず、唾を呑み込んでいる。

 状況が全く呑み込めないが、毎度毎度ふざけて笑っている遠野が見た事の無い顔をしている事実だけがルディには理解出来た。昨日の様に適当で愉快な事ばかりを紡ぐ出す唇も今は真一文字に結ばれている。まるで別人だ。

「輝夜を返せ!」

 声が震えていた。

 遠野の目は鋭く、射抜くようで。

「あなたは勘違いしている」

 遠野の視線にさらされた多治は、ふぅと息を吐いて首を振る。その後ろで、些治はいつの間にか置かれていた木箱にお餅を入れて風呂敷に包んでいる。

 その布が擦れる音が大きく聞こえる程の静寂が辺りを包んだ。

 ルディたちはというと、呆気にとられてただポカンとその光景を見ていた。

 何故遠野がこの狐達を知っているのか、何故二人も遠野の事を知っているのか、何を言い争っているのか。全てがわからない。

「穂乃姫様は自分の意思でお帰りになった。あなたはさも私達が姫を攫ったかのように言うが、それは的外れだ」

「違う! 輝夜がわしに挨拶もせずに行くわけないじゃろう! 結婚だ、神の使いだ言っておるが、お前らが無理矢理連れて行ったに決まっとる!」

「挨拶する時間など無かったのです。……と、何を言っても無駄なようですね。――……自惚れもいい加減にしろ。貴様は神に歯向かっているのだぞ」

「神が怖くて娘が守れるか!」

 遠野は目の前の空気を掻き分ける様に、ずいと多治に詰め寄る。

「お主たちには予想外じゃろう? ええ? こうしてまたわしが現れるなんて思ってもみなかったじゃろう?」

「…………」

「主らはこれが予想できたか!? わしのことなどもう忘れていたじゃろう? ……これでわかるじゃろう。主たちの予定通りにものが進むと思ったら大間違いじゃ。だから輝夜もそうに決まってる。主らの予定に従うつもりなんて無いに決まってるんじゃ!」

「穂乃姫様は自らの足でこちらに来たのだ。無理矢理連れて来たわけではない」

「では輝夜が断ったら主らは引き下がったんだな!? よもや引き下がらなかったわけではあるまい。老い先短い老人を人質にして輝夜を従わせるなんてことはしなかったんじゃな!?」

「……私たちは手段を選んでいい立場ではないのだ」

「そうじゃろう。そうじゃろうの! だからじゃよ! だから輝夜は自らお主らについて行ったんじゃ! 優しい子じゃ。本当に優しい子なんじゃよ輝夜は。頭もいい。自分が従わなかったら何をされるかわかっていたんじゃ。なんと可哀想なんじゃ!」

 さあ返せ! と遠野はとうとう多治の襟を掴んで自分の元へと引き寄せた。遠野と多治の顔はくっつきそうな程近くなる。

 しかし目の前に遠野の鬼の形相があっても、多治は身じろぎ一つしなかった。冷静に、冷酷に、遠野の目を見つめ続けるだけだった。

「では逆に問う」

「何じゃ?」

「貴様は本当に穂乃姫様が、貴様の元へと戻ってくると思っているんだな?」

「……当り前じゃ。輝夜はわしの家に帰って来る」

「ほんの一年一緒にいただけで、穂乃姫様のすべてが分かったというんだな? 貴様がやったことは本当にあの方の為になっていたのか? 本当は迷惑だったのではないか? 貴様が怖くて施しを断れなかっただけではないのか? 本来人間に飼われる身などにいない穂乃姫様が屈辱を味わわなかったと本気で思っているのか? 本当に、貴様に心を開いたというのか?」

「……あ、ああ。そうじゃ。輝夜とわしはお互いを大切にしてた」

「本当か? 貴様が寂しかっただけではないか? 出会った時に穂乃姫様が逃げられなかっただけではないのか?」

「確かにあの時輝夜は弱っていたが……そんなはずはない!

「そう、穂乃姫様が言ったのだな?」

「…………」

「無理矢理に穂乃姫様を縛り付けていたのは、誰だ?」

「違う、無理矢理なんかじゃない。無理矢理なんかでは……」

 狐は遠野の腕を振り払い、天に手を翳す。

 すると何処からともなく遠野目がけて大きな石が飛んできました。

「危ない!」

 ルディは咄嗟に遠野の身体に突進し、間一髪、石は遠野の脇すれすれを通って地面に埋まった。

 ミーナが弾かれたように多治を突き飛ばし、その胸倉を掴んでいる。

「何すんのよアンタ!」

「貴方には関係ありませんよ、お嬢さん」

「たった今から関係あるのよ! お爺さんにケガさせたらただじゃおかないわよ!」

 ルディも頭に血が昇るのを感じたが、グッと堪えてミーナを羽交い絞めにした。抑えなければならない。吸血鬼は吸血鬼であって、悪魔ではないのだから。

 烈火の如く怒るミーナを前にしても、多治の顔はピクリとも動かなかった。

「どういうつもりですか? 多治さん」

「その者に当てるつもりなどない。それはこの地、今宮神社にあるおもかる石だ。名を『阿呆賢(あほかし)』という」

「おもかる石……」

「その石は真実をその重さに映す。その者が本当に穂乃姫様が戻って来ると思っているのならば、その石は軽々と持ち上がるはずだ。どちらの言い分が正しいか、試してみるがいい。穂乃姫様が本当に望んでいるなら、本当にその者と神をも超える親しき関係になっていたのだとしたら、きっとすぐに持ち上がるのだろうな」

 おもかる石は遠野のアロハシャツの裾を踏んで地面に埋まっている。

「……あ、当り前じゃ! こんなものすぐ持ち上がるわい!」

 遠野が石を抱えて持ち上げようとする。浮き出る血管に震える腕。遠野の力全てを注いでいるのがわかる。

 そして、その石がピクリとも動いていないのも、わかる。

「こんなもの……すぐに……」

「では我々はこれで。その石をどかすことが出来るのなら、また再び追ってくればいい。――追いつく頃には全て終わっていると思うが」

「ちょ、ちょっと待ちなさいよ」

 狐の二人はミーナの呼び掛けには振り向かなかった。

 踵を返してそのままあぶり餅屋の並ぶ一角から外に出ると、彼ら二人の前に人力車がやって来て、流れる様にその身を乗せて何処かへと行ってしまった。

 あとに残った遠野はまだ石を抱きかかえていた。唸り声をあげながら、石を持ち上げようとまだ頑張っているのだった。

「また一緒に住めるに決まってるだろう。輝夜がわしと離れて暮らしたいと思っているなんてそんな事あるはずないだろう……。だってそうじゃろう? あいつらが来るまでそんな素振りは無かった。脅されたに決まってる――」

 それでも石は動かない。

 遠野は顔を歪ませながら、がっくりと肩を落とす。

「……違うのか? わしは輝夜を閉じ込めていただけなのか? わしの勝手な思い込みだったのか?」

 そのまま呆然と地面に座り込んだまま、しばらく動かなかった。

 掛ける言葉が見つからない。

 きっと、遠野はこの為に自分たちと行動していたのだ。そして結果は、彼の小さくなった背中を見ればわかる。

 ルディは視線を外し、ぼんやりと狐の二人が消えた道を眺めていた。

「……お爺さんは狐を探してたのね」

 ミーナが座り込む遠野の隣にしゃがみ込んで尋ねた。

 遠野はため息を吐いて、小さく頷く。

「輝夜と呼んでてのう。ほんの昨日まで一緒に暮らしてたんじゃ」

 両側のあぶり餅屋から、楽しそうな笑い声が聞こえて来る。

 妙に遠くに聞こえた。

 顔を上げればお店で働いているお姉さんも、お餅をお代わりしているチビッ子も、すぐそばにいるのに、誰もルディらには気づかないのだ。

 誰もこのお爺さんには気づかないのだ。

「突然あの二人がやって来ての。輝夜は神の使いだからそこに嫁ぐ、もう会うこともない、と言われたんじゃ。……あやつらはわしの返事なぞ聞く耳を持ってなかった」

 ルディは、遠野の隣に座る。

 少し遠くなった空に漂う、やがて消えてしまうであろう雲を眺めた。

「友達に言われてのう。日本人や日本の妖怪じゃどうにも出来ないと言われたんじゃ。日本とは繋がっていない強い力を持った種族じゃないと、もうどうすることも出来ないと言われたんじゃ」

 騙して本当にすまなかった、と遠野は頭を下げてくる。

 はて、何に謝られているのだか。

 なんにも心当たりなんて、無いのだ。ただの一つだって。無いのだ。

「別に騙してないじゃない。ちゃんと金閣寺案内してもらったし、美味しいおやつも紹介してもらったし……。昨日もそうよ。私たちが食べたい物とか飲みたい物とか、全部案内してくれたし……ぐじ美味しかったし」

 それから……と言ったきりミーナから継ぎの句は出て来ず、視線がルディの方へと飛んできた。

「僕たちは楽しかったですよ、遠野さん。一緒に飲んで一緒に盛り上がって一緒に遊んで、あなたは思い詰めているはずなのに、僕たちはそれに全然気づきませんでした。遠野さんが何を思っていたかに関わらず、僕たちはいい旅行をしているんです。それは遠野さんが本当に僕たちに楽しんでもらおうとしてるからだと思っていますが、違いますかね?」

「……わしにもわからん。でも、楽しかったなら良かったよ。輝夜に嫌われていたとしても、輝夜に嫌な思いをさせていたんだとしても、ルディ君と嬢ちゃんが楽しかったなら、少しはわしも救われる」

「知ってます? ミーナ、京都に着くなり帰ろうって言ってたんですよ。京都なんて旅行したって意味ないって。考えられます?」

「ちょ、ルディ」

「……そうなのか?」

「ええ。昨日一緒に飲んだ先斗町だって、最初はただの偵察のつもりだったんですよ、ミーナは。……それがあの様です」

 ルディは昨日の事を思い出して込み上げて来た笑いを堪えられず、ククと変な声を出してしまう。

 お腹を抱える代わりに、おもかる石を軽くポンポンと叩いた。

「本当に逃げたんですかね? その狐……穂乃姫様? 輝夜さん? は本当に遠野から逃げ出したくてたまらなかったのでしょうか」

「わしはそんな事思っとらん。思っとらんが、それならこの石は持ち上がるはずなんじゃろう? もう一度輝夜が帰って来るなら、この石は軽く持ち上がっていいはずなんじゃろう?」

 悔しそうに石を撫でながら遠野は狐の二人が消えて行った道を、目を細めて見つめる。

「わしだけだったのかのう。楽しかったのは」

 もう一度石を持ち上げようとしてやっぱり持ち上がらず、遠野は手で自分の顔を覆った。たぶん、シャツを脱げばおもかる石を持ち上げなくても狐の二人を追うことは出来るのだ。そんな事関係ない、と怒る事も出来るのだ。

 しかし、遠野はシャツを脱ごうとしなかった。

「どいて」

 ミーナが突然、遠野の肩を押した。顔を覆っていた遠野は少しよろめいてルディの方に倒れ込んでくる。

 どうしたのかと少し驚いているうちに、ミーナはおもかる石を抱え込んで、そして一気に持ち上げた。

 すっぽ抜けたように勢い余った石は宙高く飛び、やがてミーナの手の中に戻って来る。受け止めたミーナはその石を片手に持ち替えた。

「私は! 私はそんな事無いと思う。お爺さんは鬱陶しいしうるさいけれど、一緒にいて楽しいとは思うわ。少なくともこんなに真剣なのに、その気持ちが一ミリも伝わっていないなんて、そんな事あるはずない」

 ミーナはおもかる石をまるでお手玉の様に片手でポンポン投げては捕っている。

「ほら、こんなに軽いもの。私の願い事は『お爺さんを手伝ってあげたい』よ。こんなに軽いんだから、手伝うのは正解って事じゃないかしら」

 矛盾したミーナと遠野の感じる石の重さ。

 矛盾、大歓迎です。

 ルディも笑う。

「諦めるの? その為に私たちを利用してたんでしょ? 最後まで利用しなくていいの? これを逃したらもう会えないかも知れないんでしょ?」

「…………でも、わしは間違ってるって、その石は」

「間違ってるからやらない理由にはならないわ。そんなの知らないわよ、何が正しいかなんて。いい? お爺さんは一年その狐の子と一緒に暮らしてたんでしょ? それで急にその子がいなくなったんでしょ? 神様だか何だか知らないけれど、そんな勝手な事して、もう会わせないだなんて、それがそもそも気に入らないわ。お爺さん、言ったわよね。日本の人間や妖怪だとダメだから私たちを利用したって。私たちが決めた事に付いて行くしか方法は無かったのよね?」

「……そうじゃ」

「じゃあ、今も私が決めるわ。追うわよ。絶対その輝夜ちゃんに会いに行く」

 ミーナはおもかる石をお店の人に渡して、座布団の上に置いてもらった。ミーナが歩く度に枯葉を踏むような音が微かに響き、その分だけ、お店の中と外を隔てていた結界が崩れていく。

「すみません」

 ルディが声を掛けると、お店の人は先ほどと変わらない笑顔で応えてくれた。

「少しお願いがありまして……自転車を一台お貸し頂きたいのですが」

 実をいうと、ルディはこの手の交渉は得意なのだ。


 ルディの隣で、ミーナは赤い小瓶を取り出した。

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