幕間 四幕

 その狐には穂乃姫という名前があった。

 伏見稲荷大社の宇迦御魂に仕える狐が代々継いでいく名前である。自分がそう呼ばれることに疑問は持たなかったし、自分がやがて神様の元へ行くと聞かされた時も、特に驚きは無かった。というよりも、それが普通なのだから驚くも何もなかったのである。

 そのまま何も知らなければ、伏見の山の外で倒れたりなどしなかっただろう。

 こんな事をするつもりなど無かった。

 ただ少しだけ、興味があっただけなのだ。

 何処からかやって来る人間が、どうしてあんなに楽しそうな顔をしているのか。自分たちが住む山を眺めるだけで何故目を輝かせるのか。

 今まで遠くから眺めるだけだったのに、川の水を追ってつい人間が歩く参道に近づいてしまったのは少し前の事。

 そこで人間同士の会話を聞いた穂乃姫は衝撃を受けた。

 どうやら、山の外はとんでもなく広く、そこでは人間も動物も一緒になって暮らしているらしいのだ。

 伏見の山など、世界のほんの一部でしかないらしい。

「たまにはこういう所もいいよね」

 人間の雌が言っていたその言葉が、穂乃姫の頭にこびりついて離れなかった。

 たまにはこんなのも。自分が一生を過ごすこの山は、人間の気分をほんのちょっぴり変えるくらいのものらしい。

「次は何処行こうか」

 次とは何だろう。何処の事だろう。

 あの人間たちは穂乃姫が知らない場所でまた同じように目を輝かせているに違いないのだ。何があるんだろう。何を見るんだろう。きっと、初めて見る物ばかりなのだ。それはきっと、穂乃姫が一生見る事が無い物なのだ。

 食べ物も喉を通らない程にその考えに取りつかれ、そうやって思考の海に溺れかける度にハッと我に返るのだった。

 私は神様に仕えるのだから、そんな事を知らなくてもいいのだと。

 それに、神様に仕えるのは自分一匹ではない。

 穂乃姫の許嫁である鉤彦と一緒にその役目を果たすのだ。それどころか、二人でないと神に仕える事が出来ない。そういう理。

 しかしそれを穂乃姫は、むしろ楽しみにしていた。鉤彦と毎日会えるようになるのだから、早くその日が来ればいいと毎晩その日が来ることを願って床に就いていた。

 それでも穂乃姫は、今は伏見の外にいるのだった。

 出鱈目に歩いて帰る場所が分からなくなり、何処とも知らぬ民家の生垣の下で、動かぬ体を横にして。

 ただ、知りたかっただけなのだ。


        ☆


 運が悪かったのはその民家に住む老人に見つけてもらうのが遅かった事で、運が良かった事はそれでも手遅れにはならなかった事である。

 衰弱した穂乃姫は化ける力がほとんど無くなっており、体力を戻すために半年以上の時間を要した。普通の狐なら死んでいたその状況を、持って生まれた力を使う事で無意識に延命した結果だった。

「輝夜、起きてるか?」

 まだ薄手の毛布を被っている穂乃姫の耳にそんな声が届いた。

 声の主の老人は、どこぞの獣かわからない野良狐を勝手に輝夜と名付けて大切にしてくれていた。

 初めの二ヵ月などは流動食ですら飲み込むのが億劫だったのに、その老人は穂乃姫を膝に乗せて慎重に口に食べ物を口に入れる。

 穂乃姫はどうしてお爺さんが自分の為に何もかもしてくれるのか、不思議で仕方なかった。穂乃姫が道に迷って何処の道ともわからない所を歩いていた時、人間は好奇の目で彼女を見ているだけだった。そして、半分以上の人間は一瞬顔をしかめていた。

「病気が――」

 違う人間から、何度か同じような単語を聞いた。

 うずくまる度に追い払われる事から、どうやら人間にも縄張りのようなものがあるらしい事も知った。そんな事を繰り返すうちに穂乃姫は自分の抱いていた幻想がどんどん蒸発してしまっている事にも気付いていた。

 それでも帰る事が出来なかった。空腹で前も後ろもわからず、休むこともままならない。そんな状態でもどうする事も出来ず、やがて歩く事も出来なくなり――。

「ありゃ、まだ寒いのかのう。今日は割とポカポカしてるんじゃが」

 震える穂乃姫にもう一枚毛布が掛けられた。

 穂乃姫が薄目を開けると、彼女を覗き込む老人の顔が映る。

 ゆっくりと撫でられていると、不思議と体の震えが収まって来る。すっかり弱った穂乃姫に、その老人だけが優しかった。

 体力が戻るまでは、少しだけ、お世話になろう。

 そう思って穂乃姫は目を閉じるのだった。

 しかし動けるようになっても、穂乃姫は稲荷山へ帰れなかった。それどころか、下鴨以南へ近づく事さえ出来なくなってしまったのである。

 穂乃姫が無意識に行った延命行為は、死んだ生き物を生き返らせる行為に等しい。普通ならば消えてしまう命の灯を、別の新たな燭台へ無理矢理移すような行為だったのだ。

 死は穢れであり、新しく産まれる事もまた穢れである。その為、再び目を覚ました穂乃姫は穢れをその身に満たしてしまった。本来同時に存在し得ない二つの穢れは複雑に絡み合い、穂乃姫を縛ったのだ。

 それを理由に、老人の布団に今日も穂乃姫は潜り込む。

 禊をして穢れを取り払わぬうちは、山に帰る事は出来ない。

 だから、これは仕方がないことなのだ。

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