幕間 三幕

「うわ、どしたんや爺さん」

 研究室でカップ麺を啜っていた金髪の京大院生は、老人の姿を見るや否や箸を置いて救急箱を取り出した。

 爺さんは何処ではしゃいで来たんだ、と院生は思った。土に塗れた甚平と所々に滲む擦り傷。小学生が朝から晩まで遊んだ時にしかつかない様な傷と汚れだ。

「急にすまんのう」

 老人はそう言って入り口近くにあった段ボール箱にどさりと座った。

 若者はその様子を見て、薬缶に水を入れて火を点け、封の空いていない安売りカップ麺を老人に投げる。

「……それマジ?」

「マジじゃ」

 カップ麺を食べながら、老人が話す内容に逐一驚く若者。

「それで、狐に詳しい研究者はいないかって?」

「もうわしじゃどうにもならなくてのう……」

「いや、俺らでもどうにもならんやろ……聞いてみるけど」

 院生はそう言ってスマホを取り出し、悩みながら画面とにらめっこしていたが、やがて電話を掛け始める。

「あ、もしもし? なんか遠野の爺さんがさ、世話してた狐を攫われたって……うん、なんか一年くらい前かららしい……そうそう。それでな……え? ああ、喋るってさ。女の子やって。……え? う~ん……爺さん」

 スマホのスピーカーを押さえて院生が遠野老人に訊く。

「その輝夜ちゃん? は、穂乃姫って呼ばれてたんやな?」

「そうじゃ」

「あ、もしもし? そうやって。うん、うん……は? マジかお前キモイな。オッケー俺の研究室にいるから」

 若者はスマホを切ってポケットにしまうと、遠野に親指を立てた。

「全部わかるって。あいつやべぇ。今から来てくれるってさ」


        ☆


 すぐに登場した青年は、布切れを適当に巻いたような、どの民族とも似ていない奇妙な服を着ていた。そしてその出で立ち通りの変人であった。

 院生曰く、この青年は民俗学をこじらせ過ぎてそのうち血を吐いて死ぬらしい。

 彼のいきなりの登場にカップ麺のつゆを噴き出した院生と老人を尻目に、青年はそのまま座る間も惜しんで話し始める。

「遠野羨ましい!」

 開口一番そう言い放った。

「俺の予想が正しけりゃ、遠野が一緒に暮らしてたその狐――輝夜さんはね、宇迦の御霊の使いだったんだよ」

「……宇迦の神……やはり伏見のか……?」

「そうだね。あそこの神社が狐を使いに使ってるのは有名だと思う。でもその狐の使いのトップの名前が鉤彦と穂乃姫って事はほとんどの人間が知らない事だよ。遠野の狐を攫った誘拐犯が穂乃姫の名前を知ってたんだとしたら、それはおそらく伏見稲荷に関係のある狐だからだと思う」

「なんでそんな秘密の名前、お前が知っとんねん」

「暇だったから」

 院生の横槍にさらりと答える青年の纏っている変な布が揺れた。

「キモイなぁ」

「色々知ってるだけだよ。無駄な事を中心にね」

 若者は肩を竦める。

「でもわしが見かけた狐は伏見に向かってるわけじゃなかったぞ……。あの狐たちが無関係とも思えんが……」

「これも色々な書物が残ってるね。天界に向かう為には京都の色んな所にある経穴を一時的に塞がなきゃいけないってさ」

「経穴?」

「簡単に言うとツボだね。下鴨や愛宕みたいな神社、六角堂やダブル本願寺とかの寺だったり、二条城みたいな城も。あちこちにある京都のツボを押して、龍脈の流れを変えて集める。その力を使って天までの道を作る」

 青年は天井を指差して、くるくると回した。

「神様の使いの中でも、重要なポストは天界で暮らすんだよ」

 遠野はそれを聞いて、目を細める。目尻の皺が深く、濃くなる。

 天界で暮らす。

 昨日まで笑っていたあの狐が。輝夜が。

「その狐を、輝夜を取り返したい」

「取り返すって言ってもな……。それが彼女の使命だと思うんだよね。天界で神様に仕える事が」

「何が使命じゃ。輝夜とは一年も暮らしてたんじゃ。それが何の挨拶も無しに、知らない男二人に脇を固められて家を出て行った。あやつは、無理矢理連れて行かれたんじゃ。嫌々ついて行くしか無かったんじゃよ。……輝夜を助けてやらにゃならん」

 メラリと火のついた遠野の目を見て、青年は初めて困ったような顔をした。

「う~ん……そうは言ってもなぁ……。お爺さんがやろうとしてるのは神様を騙くらかすようなもんだし……」

 青年は困ったように頭を掻く。

「神を欺くってのは難しいんだよね。ましてや日本の水と土で育った俺たちが八百万の神の一柱を相手にってのは……たぶん無理」

 気まずそうに視線を逸らす青年を、遠野は縋るように見つめる。

 部屋の隅でシュンシュンと沸騰する水が、ビーカーから溢れて勢いよく蒸発する音を立てた。知ってるだけじゃなぁ、と青年は残念そうに呟いた。

 遠野はゆっくりと立ち上がり、出口へと向かう。

「急に押しかけてすまなかった。また飲もう。いい酒持ってくるわい」

 呵々と笑った遠野は扉を開けて、廊下へ出た。

 廊下は夏だというのに日が当たらず、ひんやりと冷たかった。

「爺さん、ちょっと待った」

 遠野の背中に掛かる声。

「何とかなるかも知れんで」

 金髪の院生は、手招きしながら言った。


        ☆


 少年漫画のキャラがプリントされた安物のトランプを混ぜながら、院生は遠野の生年月日やら住所やらを訪ねてはメモに起こす。

「どうにか出来るの?」

「上手くいけばな」

 青年の質問にぶっきらぼうに答えながら、院生はトランプを捲っては、カップ麺の器や研究資料が散乱した机に雑に並べていく。

「占いが出来るなんて知らなかったのう」

「暇だったからなぁ」

 適当に並べたトランプを見て、何かを書き留めては混ぜ直し、また何かを書き起こす。何度かやっているうちに、院生は「いけるかもな」と呟いた。

「ほ、本当か!?」

「先斗町公園あるやろ。あそこの山の上で立っとけ。万歳しながらな」

「は? 何でそんな事しなきゃならんのじゃ」

「そうせんと、もうどうにもならん。いいか、誰かに話し掛けられるまで絶対下ろしちゃいけんからな」

「だから何故じゃ」

 ええか、と院生は遠野の顔に指を差す。

「こいつも言っとったやろ、日本の水と土で育った俺らに、神様相手にどうこうするのは無理なんやって。自然の摂理、理や。せやから、その理の外におる奴らが必要になるんや」

 院生はトランプを片付けながら、自分のメモした紙を眺めた。

「爺さんに話し掛けて来る奴らは、その理から外れた奴らや。その奴らの思うがままに遊ばせてそいつらの後を着いて行く。そうすれば日本の神はそれに干渉出来ん。したらもしかしたら道は拓けるかもしれん」

「その誰かに取り戻すのを頼むという事か……」

「いや、頼むのはアカン。頼んだらその時点で爺さんの意思が入り込む。日本で育った人間の意思が入り込んだ時点で、また理の中や。あくまでそいつらと楽しまなきゃいけん。むしろ爺さんもこの事を忘れて楽しめ」

「楽しむ……この状況で……?」

「得意やろ。いつも俺らの飲み会で一番うるさいやないかい。そうすれば運が良けりゃまたその輝夜ちゃんと会えるやろ」

 その時、不意に扉が開き、太い縁の眼鏡を掛けた初老の男が現れた。その男の顔を見た瞬間、院生と青年の顔が歪む。

「教授……」

「何をやってるのかね? 今日の夜には実験結果をまとめると言っていたよな?」

 慌てて机を片付け始める二人。

 ぼんやりと座っていた遠野に早く出ていけとジェスチャーを送る。

「上手くいったら、ええ酒奢ってくれや」

 小声でそういって、院生は遠野を押し出して扉を閉めた。

 目の前で閉まった扉をしばし見つめていた遠野だったが、息を大きく吐いて、片手で手刀を切るような動作を行った。

「楽しむのは得意じゃよ。……ありがとの」

 遠野はコキコキと首を鳴らして京都帝国大学を後にする。

 門を潜る頃には、先ほどまでとはうってかわって不敵な笑みを浮かべていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る