二章 知恩院、あるいはエコーロケーション

 京都の中心は京都駅ではありません、とルディは人差し指を立てて説明する。

「じゃあ何処なのよ」と威嚇するようなミーナの声が返ってくる。

 どうやら目の前に広がる光景が理解できていない様子。

 事前に禄に調べず旅行に来たのだから仕方ないですね、とルディはしばしの優越感に浸る。

「何でそんな半笑いなのよ気持ち悪い」

「京都の中心はここですね、ここ四条河原町」

 四条大橋に寄りかかってルディは鴨川を見渡した。京都を両断するように流れるこの澄んだ川は南北に伸びていて、両端は遊歩道となっている。サンバイザーをしてウォーキングしているマダムや、鴨を眺めて何事かを話している家族連れ、自転車で川を下って行く少年。長閑な空気が流れている。

 はて、土手に座るカップルがまだいませんね。

 ルディは顎を撫でながら土手を一望する。

 京都の鴨川には一定の磁場が流れていてカップルは必ず均等の間隔で鴨川に座ると聞いた。それを見てみたかったのだがまだ時間が早いのだろうか。

「ねぇねぇルディ。聞いてる? ここが京都の中心なの? 何で?」

「京都に行ったことある人とか、住んでたことある人とか、そういった人たちに聞いたら大体ここだって言ってました。デパートも飲食店も多くて、普段遊ぶ時はここら辺に集まる事が多いらしいです。僕たちみたいな観光客もここは大抵訪れるらしいですね。川のこちら側は祇園ですし、向こうには先斗町の飲み屋通りがありますし」

「飲み屋! ……あれかしらね。京都オリジナルメニューみたいなのが」

「いっぱいあるでしょうね」

「行くわよ! そうだわ! 私はこの為に京都に来たんだわ!」

 ポシェットからメモとペンを取り出したミーナが小走りで橋を渡り出すので、ルディは慌てて首根っこを掴んだ。

「まだやってませんよ! 先斗町のお店は大体五時からです」

「何でまだ昼前なのよ! 何ですぐに五時にならないわけ!?」

「自然の摂理に文句を言う人初めて見ましたよ」

 まったく仕方ないわね、とミーナは怒っている。時空に喧嘩売っている。ルディには彼女の思考回路がよくわからなくなる時がままある。今とか。

「それで、ルディは何見てるわけ?」

「鴨川の風景ですよ。ほらここから見ると川の周りだけ時間がゆっくり流れているみたいに見えませんか?」

 ミーナを隣に引っ張って川を見せてみると「う~ん」と何やら煮え切らない様子。

「何か嫌な物でもありました?」

「無いわよ。でも、こうする意味も無いわ。こんなの眺めていたら何もしないうちに時間が経っちゃう気がするもの。こんなんならお店のお掃除してた方が」

「本当にわかってないですね! あの素っ頓狂な巫女さんも言ってたじゃないですか、旅とは素敵な無駄遣い、って。その何もしないうちに時間が経つようなぼんやりした時間がいいんじゃないですか。ミーナは本当に旅行下手クソなんですから」

「だぁぁぁ! うるさいわね! 隣でやんやん言われたらのんびり出来るものも出来ないでしょうが! のんびりすればいいんでしょうのんびりすれば!」」

「あ! ほらあそこ! 鴨が潜りましたよ!」

「え、ちょ、何処よ?」

 ミーナが身を乗り出して危うく橋から落ちそうなところをキャッチした。自分が川に潜ってどうするつもりか。

「旅行って危ないわね」

「普通そんな事にならないんですけどね」

 川を渡らずに、東西に伸びる河原町通りを東へと向かう。

 祇園を抜けた先には八坂神社があるし、少し歩くが清水寺もある。清水寺に向かう途中に花小路通りを通れば、旧き良き木造家屋に囲まれた風情ある眺めを堪能する事も出来る。しかもその建物には伝説の『イチゲンサンオコトワリ』という選ばれし者しか入る事の許されない店も多くあるというではないか。歴史とミステリーが同居する濃密な匂いにルディの鼻もひくひく動く。そこではどんな物が振舞われるのだろうか。

「何でさっきからそんなににやにや笑ってるのよ。気持ち悪いわよ?」

「……京都だからですかね」

「京都になると変態になるって事?」

「当たらずとも遠からず、ですね」

「遠くありなさいよ」

 日も高くなり街並みは矢庭に活気づいていて人通りも多くなってきている。

 食べ歩ける団子やお饅頭が売っている店からあまじょっぱい香りが漂って来て鼻をくすぐり、お土産屋には和の小物がコロコロと並んでいて可愛らしい。

「ルディ、このお団子美味しそう」

「買いましょう」

「こっちのおせんべも美味しそう」

「食べましょう」

「このキーホルダー」

「それはやめましょう」

 ミーナが持ってきた『日本』と描かれた手のひら大の大きさの扇子がくっついているキーホルダー。ルディがアルバイトで神奈川の温泉地辺りに行った時に、同じものを見かけたのを思い出す。その時は一体誰が買うのだろうと思っていたのだが、なるほど、こういう人が買うわけか、と合点がいった。

「な、なによ。可愛いじゃないの」

「ミーナ、絶望的ですよね」

「何がよ」

 ミーナはお土産にかなりご執心なようで、あれやこれやと色々な物を触っている。

 楽しんでいるのであればそれはそれでいいのだが、どうしてもアルバイトとの関係を切れないのがルディにとっては歯がゆいところ。お店の為ではなく、ミーナ自身が楽しまなければ旅行した意味も半減してしまう。野島店長もこんなつもりでチケットを渡してくれたわけではないと思うのだが。

「どうもどうも。お二人さんはどちらまで行かれるんですか」

 ルディがどうすればいいかと悩んでいるところに、張りのある声が飛び込んで来た。振り向くと、頭にタオルを巻いた日焼けの男性が一人立っている。手には何やら大き目の冊子を持っていて、そこには『あぶら屋』と書いてあった。

「どうですか、人力車でのんびり目的地まで、ってのは。何処に行くのか決まっていないようなら俺が案内だって出来ますよ!」

 そういって白い歯を見せて力こぶを見せてくる。

 これです! これこそ僕を理想に旅立たせてくれる救世主に違いありません。

 ルディは確信する。

 足袋を履いた足と浅黒く焼けた肌に頼もしさと色気すら感じた。彼の後ろには黒塗りの人力車が止まっていて、人が持つ部分が丁寧に木箱の上に載せてある。

 普段タクシーすら乗る機会の無いルディとしては、それだけでテンションが上がってくる。座る場所は朱塗りになっていて、席を覆うように日よけの庇が設えられている。ジリジリと日光が元気を出し始めてきた今、このお兄さんの提案はなかなか魅力的ではないだろうか。

 ミーナもさぞや気に入っているだろうと思い隣を見てみると、苦虫を咀嚼しまくったような顔をしていた。

「何ですかその顔」

「ルディ、一人で乗っていいわよ」

「何でですか! 二人分席あるし乗りましょうよ!」

「いや、だってあの荷台に乗るのよね? 私たちの国でもいたじゃない。あそこに牛糞いっぱい積んで歩いているお爺さん。あのイメージがね」

 こんな立派な席になんてことを。ルディはくらくらと眩暈がするのを感じた。

 脳みその代わりに牛糞が詰まっているのではないでしょうか。

「いいですか、そもそも人力車の起源は荷車ではありません。馬車です! 馬車が人を送迎するために使われていたのを見た日本人が発明した、れっきとした移動手段なんですよ!? 昔はタクシー代わりに使われていたのを電車や車に取って代わられて、それでも観光用として復活した由緒正しい移動手段なんですよ! ねぇ!」

「お客さん詳しいですね~」

「ほら、わかったらとっとと乗りますよ!」

 ルディはミーナをお兄さんに押し付ける。

「お兄さんのおすすめの場所に連れてってください!」

「え~……私もう少しお土産を……」

「ダメです!」

 ルディがミーナをぐいぐい押すのを尻目に、お兄さんはテキパキと準備を始め、ミーナを席へとエスコートしてくれた。ルディも続けて朱色の席に座ると、日陰にはほんのりと涼しさが湛えられていた。

 思っていたよりも目線が上に上がり、他の観光客もルディたちを見て何かを囁いたり、手を振ってきたりしている。何だかステージに立った気分だ。

「高いわね、案外」

 荷台とは違うわね、とミーナは膝に掛けられた布をいじっていた。

「よし、俺のおすすめでいいってことなら知恩院に案内しますね。近いですし。なかなかどうして見どころ多いです。ほいなら行きますよ~」

 グン、とほんの少し後ろに体重が掛かったかと思うと、お兄さんは音もなくスムーズに歩き出した。そしてそのまま雑談をしつつ車道に繰り出して、尚もゆっくりと歩いていく。

 揺れは少なく、柔らかい風が頬をくすぐった。

 先ほどまでと同じ場所を移動しているのに、景色が全然違う。

「ほら、ミーナ」

 ルディが声を掛けるまでもなく、ミーナはカメラを取り出してパチリパチリと周りの景色を撮っていました。

「いやぁ~俺が言うのもなんですが、お客さんは運がいいですよ。俺たちの車はほとんど観光客は乗せないんですよ」

 お兄さんが、陽気に話し掛けて来る。

「観光客を乗せないなら誰を乗せるんですか?」

「ああ、それはですね」

「ちょっとちょっと! お兄さん! ストップストップ!」

 ミーナがルディたちの会話を遮って叫んだ。

「前見て! ……見てるわよね!? 見えてるわよね!?」

 何をそんなに焦っているのかとルディが目線を上げてみると、正面からは市営バスが走って来てた。話に夢中だったからか、いつの間にか車道を逆走しているのだ。

「わ!」と自分の声を聞くと同時に、ルディは咄嗟にミーナに覆いかぶさっていた。二人で団子状態になって、数瞬あとに来る衝撃に備えて身を固くすることしか出来ない。

「…………」

 しかしいくら待てども衝撃はやって来なかった。

 恐る恐る目を開けたルディの前に広がるのは何とも不思議な光景。

「……何これ。どうなってるの」

 ミーナが絶句するのも当然だ。

 ルディたちが乗る人力車などそこに存在しないかのように、バスがするりと体の中を通り抜けるのだ。飛び出るアニメを見ているような光景。正面衝突を繰り返しているはずなのに、何にもぶつからずに人力車は進んでいく。

「この車やバスは……幻ですか?」

「違いますよ。俺たちが別の場所にいるだけです。三次元的には同じ場所にいますが、別の次元軸がいくつかずれているのでぶつからないんですね」

 よく見ると周りの人たちはルディ達が車道を逆走しているというのに、驚きもしないどころか一瞥すらくれない。

 周りが蜃気楼のようにも、自分たちが蜃気楼のようにも感じる。

「うちは京都で長い事続けてますからね。この人力車の作り方は代々口伝で伝わっているらしいので、なかなか他の店では真似出来ないと思いますね」

 そのお兄さんの話によると、この人力車の製造方法を知っているのは現社長と、一線を退いた会長のみ。有名になり過ぎるとすぐに廃れてしまう、という社長の理念に則ってできる限り宣伝はしない、全国への展開はしない、それを徹底することで伝統を守り続けているらしい。

「凄いわね。こんなのうちの国じゃ見たことないわ」

「う~ん、僕も色々な乗り物に乗ってはいますが、これは初めて見ました」

 お兄さんは得意げにへへっと笑った。

「そう驚いて貰えると、俺もこの車引いてる甲斐があるってものです」

 京都の魅力はまだまだありますよう! とお兄さんの引く人力車のスピードが少し上がった。


        ☆


 祇園の北東、徒歩十五分ほどの場所にある知恩院は巨大な三門が有名である。緩やかな長い坂を上り、さらに石段を上った先にその三門は屹立していて、遠目から見ても存在感が有り余っている。空を覆っていると言って差し支えない。曇り空だと思ったらこの三門だったというケースも何度もあるだろう。

 そんな三門が見下ろす坂を駆け上がる人力車は、上り坂だというのにむしろ速くなっているようだった。

「ちょっと! お兄さん速すぎない!?」

「ここの道は広いですからね! スピード出すと気持ちいいんですよ!」

「それはいいんだけど、速すぎよ!」

 人間二人を引っ張っているとは思えないスピードで進んでいる。このお兄さんはきっとスポーツドリンク代わりにハイオクを飲む。

 豆粒の様だった三門を潜る人影もあっという間に大きくなったかと思うと、人力車は知恩院の目の前にスルリと停止した。

 急停車に見えるのに、体に何の負担もかからない。これがプロの成す技なのかとルディは舌を巻いた。

「またのご利用お待ちしています! これ、夏カードあげます。春夏秋冬全部の季節のカードを集めると、僕が今着てるTシャツプレゼント!」

「ハードル高っ」

 そう言いつつミーナはいそいそとそのカードを自分の財布の中にしまい込んだのを、ルディは見逃さなかった。

「何よ」

「いえ? 何でも。冬は湯たんぽ完備らしいですよ」

「……そう」

 ミーナは財布の中からカードを取り出し、電話番号と本部の地図を眺めていた。

「うちの店でも取り入れようかしら。駅から人力車でお店まで送り迎えするの」

 ルディの思っていた感想と違う。

「……ミーナの店駅から徒歩一分しかないじゃないですか」


 石段を上る前に目の前の三門を見上げると、首が痛くなって来る気がした。

 大きすぎてほぼ真上を向いているので、空の青さもよく見える。どちらを見ているのだかよくわからなくなる。

 三門の目の前を通る車道を挟み、だいぶ向こう側にカメラを構えた人が集まっているのを見る限り、やはりある程度下がらないと画角に収まらないらしい。

 門を潜ってみると、そこにはまたスケールが少しおかしい階段が高く伸びている。一段一段が普通の階段よりも二回り程大きく、足を上げるだけでも一苦労だった。段が大きい分、階段の角度も急なので、目の前に壁が聳えている錯覚に陥る。

「なんだか背が縮んだ気になるわ。なんかいちいち大きくない? 昔の日本人は今よりも大きかったのかしら」

 そんな話は聞いた事がない。むしろ栄養の偏りだとか遺伝だとかで今よりも小さかったと何処かでルディは聞いたことがあった。

「鬼がよく出入りしてたとか、たぶんそんなんですよ。彼らは人間よりだいぶ大きいって言いますし」

「お寺って鬼とか寄せ付けないんじゃなかったかしら」

「じゃあ良い鬼もいたんですよたぶん」

「面倒くさがってないで最後まで考えなさいよ」

「そんな事より早く上りませんか」

「なんなのこいつ!」

 一段一段がさりげなく高い階段を上がっていくのは思ったよりも大変だった。

 ルディですら少し足を上げるのが億劫なのに、ミーナは小さいのでこの高さの段差になるとどうしても全身運動になっていて更に辛そうだ。もはやエクササイズだ。本当はこの石段を上らなくてももう少し緩やかな階段が脇にあるのだが、ルディは黙っていた。この石段の途中から見る景色がいいと店長に聞いて試さずにはいられなかったのだ。ミーナに行ってしまったらどうせそちらの道に引きずられるに決まっている。

 振り向くと先ほどまでいた場所がほぼ真下に見えて、少し眩暈がした。階段が急すぎて崖を見下ろしている気分になる。

 崖の下に三門が見えるという、なかなか無い光景は、言うまでもなく絶景かな。

「思ったより急なのね……」

 振り向いた景色をカメラでパチパチ撮っていたルディ達だったが、八割程を過ぎると段々と息も切れてきて、一旦休みたくなってきた。しかし頂上はもうすぐそこ。あえて楽な道を避けて来た手前、もうひと踏ん張りくらいは頑張りたいものである。

 そう思いルディが足を踏み出した瞬間、同時に足を上げたミーナがそのまま後ろにひっくり返った。

「えっ?」

 小さく声を発したミーナがそのまま真後ろに倒れていく。ちょうどオーバーヘッドキックのような体勢になり、そのままふわりと体が浮いた。ミーナの後ろに見える葉がいやにゆっくり揺れている。ルディには何もかもがスローモーションに見えた。

 自分でも驚くほど俊敏に、ルディはミーナの後ろに入り、抱き止めた。何が何だかわからないまま、勝手に動いた体にホッとする。

「どうしたんですか急に。張り切り過ぎて階段無い場所を上りでもしましたか?」

「あれ? ……え?」

「僕がいなかったら割と洒落にならない高さでしたよ……。気を付けてくださいよ」

 浮かれ過ぎたのか、それとも疲れて足がおぼつかなかったのか。どちらにせよ、間一髪。いくら吸血鬼とはいえ、ここから落ちたら大怪我は免れない。

「……ち、違うのよ。誰かに押されたの。上ろうとしたら足をぐいって押されて……」

 ルディの腕の中でミーナは目を白黒させている。

 ――押された?

 目を細めて階段の先を見やったが、そこには何もない。いつもよりも集中して辺りを見回してみるが、やはり怪しい影も形も見えなかった。

 人っ子一人いない階段が、ただ上へと続いているだけの光景。

「誰に押されたんですか?」

「……わからないわ」

 何が起こっているのかルディにはわからなかったが、とりあえずミーナの手をしっかり握っておく。そのまますり足を駆使して、そろりそろりと階段を上った。

 風の流れ、何かの気配、最新の注意を払って、一段一段慎重に――。

「いったぁ!」

 今度は横から何者かに足払いをされてミーナがスッ転んだ。空中に浮いたミーナの腕をそのままルディは上に上げ、その隙にミーナがバランスを取り戻す。

「何なのよ! これじゃ危なっかしくて観光どころじゃないわ!」

「何でしょうね。僕はなんともないし……。また伏見みたいな結界ですかね? 今度は吸血鬼にだけ効くやつとか……」

「そんなピンポイントで張る結界ってある!? 吸血鬼が何したっていうのよ!」

 それはルディにもわからない。しかしそうでもないとミーナだけがスッ転ぶ理由が思いつかない。

「……血とか吸ったんじゃないですかね」

「面倒くさがらないでよ! 帰るわよ!」

「ダメですよ! 人力車のお兄さんが言ってたでしょう! 知恩院には七不思議があるって! これを見ない事にはここまで来た意味がありませんって!」

 ルディが手をがっちりと掴んでいるので、ミーナが逃げ出そうとしてもそれは叶わなかった。確かに危ないがルディが腕を掴んでいる限り心配ない。何かにつけて隙あらば帰ろうとするミーナの思い通りにはさせない。

 その後も何度かミーナは転んだが、ルディが全てを責任もって捌いて登り切った。

 上り切ったルディたちの目に飛び込んだのは、野球場がすっぽり入りそうな広い場所、そのど真ん中に建っている御影堂だ。山が一つ聳えているかのような存在感を放っている。

「ほらあれを見てください!」

 ルディが指差してミーナの方を見ると、ちょうどミーナの体が横にくの字に折れて吹っ飛ぶところだった。そのままよろめいて砂利の上に膝を付くミーナ。

「……帰る!」

「ダメですって! じ、じゃあこうしましょう。こいつらです。この透明な何かを捕まえればいいんですよね?」

 せっかく知恩院に来たのに何も見ずに帰るなんて!

「……じゃあ捕まえてぶっ飛ばしたるわ! ほら行くわよ!」

 何とも頼もしいミーナの咆哮にルディは冷や汗を拭うが、同時に疑問もぽやんと浮かんで来た。

 誰をですかね……?

「……ちょっと休んでから行きます?」

「いいわ! こんなよくわからないものに邪魔されるの悔しいもの! その七不思議ってやつ全部見るわよ!」

 気合い半分、怒り半分で敷き詰められた砂利を踏みしめながら御影堂の軒下を目指すミーナ。気迫に満ちた後ろ姿。理由は何にせよ七不思議を見ようとしてくれるのはいいことだ。お店の事は常に忘れさせるように、忘れさせるように。こうなると得体の知れない何かに感謝の気持ちも

 ミーナがヘッドスライディングをかました。今度は後ろから押されたようだ。

 感謝している場合ではなさそうだった。

「大丈夫ですか?」

「何の事かしら!」

 まさか気付かないフリで乗り切ろうとするとは思わなかった。手のひらに沢山の泥がついているというのに。

 その後も二度転んだが、ミーナも段々慣れてきたようで、倒れる寸前にルディのシャツを掴むことで倒れずに済むようになった。素晴らしい成長と引き換えに、ルディのシャツは片側だけロンティーと化した。

 やっとこさ辿り着いた御影堂の軒下。そこから上を見上げると、知恩院の七不思議の一つ、忘れ傘がある。軒を支えている梁の上に何故か傘が置いてあって、誰が置いたのか、何のために置いたのか全てがぼんやりとわかっていない、おそらく日本で一番有名な傘だ。ルディがよく盗まれる透明のビニール傘とは訳が違う。

「何であんなところに傘があるの?」

「色々説はありますね。魔除けの為にわざと大工さんが置いていったとか、ここら辺に住んでいた白狐が自分の家を作ってくれたお礼にこの傘を置いたとか」

「忘れ傘って言うわりにがっつり理由があるのね」

「もちろん、ただ単に忘れただけって説もあります」

 ふ~ん、と傘を見上げたまま声を漏らしたミーナ。カメラをごそごそと取り出す辺りだいぶ楽しんでいるのだろうか。少なくともバイトの事を一瞬でも忘れさせてくれればいいのだが。

 旅行がバイトに負けてなるものですか!

「ルディ!」

 ルディが意気込みを胸に唱えていると、カメラが目の前に飛んできた。どうやらミーナが投げたようだ。

 わけもわからずカメラをキャッチした瞬間、ミーナが吹っ飛ぶ。

 しかし今回のミーナの表情は驚きではなく、むしろしてやったりという顔をしていた。

「やあああ!」

 甲高い悲鳴が辺りに響き渡る。

「やっと捕まえたわよこんのすっとこどこどっこい!」

 一個多い。

「まったく、何の罪もない観光客転ばせてぇ! 絶対許さないんだから!」

 ミーナの腕でじたばたと動いているのはまだ小さな男の子だった。しかし頭髪は真っ白な上、その身なりは旧く、平安貴族のようなもったりとした袖の和服を着ている。ミーナに捕まえられたことでパニックに陥っているらしく、何かを叫びながらただただもがいていた。

「ミーナ、ちょっと落ち着いて」

 ルディはミーナの肩を叩くが、ミーナの逆立った毛は元通りに戻らない。今までに転倒した数だけミーナの血圧は上昇中。仏の顔も三度まで、もうすぐ二桁に突入する地面を転がった記憶がミーナの目を轟轟と燃やしていた。普通の吸血鬼だったらもうそのまま噛みついているところだろう。ミーナは血が流れるところを見るのが苦手なので、噛みつかないのではなく噛みつけないのだが。

 この少年は命拾いしましたね。

 ぎゃんぎゃん暴れる二人を眺めながらルディはそんな事を思った。

 しかしそれでも、こんないたいけな子供の耳元で「どう料理してやろうかしら……」などと低音で囁いているのは、さすが悪魔と言ったところか。

 さんざ悪戯した少年にはいいお灸だろう。ルディはミーナが落ち着くまでほっておくことに決める。

 ほとんど涙目になりながら、少年はミーナの腕の中で何やらわめき始めた。

「違うんです! 僕やないんです!」

 それを聞いてもミーナは手を緩めない。

「現行犯が何言ってるのよ!」

 きっと銀行強盗でももっとマシな言い訳をする。

「僕やないですってば! 僕はむしろお姉ちゃんの味方ですよ! お姉ちゃんを里芋みたいにコロコロ転がしてる奴を僕も捕まえようとしてるんですっ! ……あ、ほら!」

 少年が明後日の方向を指差すと同時にミーナの体がまた何かに衝突して倒れた。

 少年はミーナにがっちりと掴まれているので、悪戯など出来るはずがないのに。

「いったぁ……」

「ほら、僕やないでしょう!」

 ルディは再び辺りを見回すが、それらしき影は見当たらない。

 この少年以外に犯人はいないように見えるのに、それすらも違うというのだから頭を抱えたくなる。

「ミーナ……本当に違うようですよ」

「じゃあ、これは何なのよ……

 腕を解いたミーナから抜け出した少年は「ありがとうございます」とルディにぺこりと頭を下げました。

「アンタ何か知ってるんでしょう。というか誰?」

「僕はこの辺りを治めてる白狐です。……偉いんですからね!」

 思い出したように胸を張る自称狐の男の子は、先ほどミーナに植え付けられた恐怖によりぷるぷると震えていた。

「毛の一つも生えてないクセに何が狐よ。お父さんとお母さんは何処?」

「信じてくださいよ! ほらぁ!」

 ピョンと飛んで宙返りをして白狐になった男の子は、そのまま二本足で立って前足を広げてアピールして来る。確かに狐だ。

 日本の狐は妖力を溜める事が出来る器官があるとルディは聞いたことがあったが、実際に変化するのを見るのは初めてだった。

 小さいうちからこんなに華麗に変化するものなのだろうか。息をするように変化をする域に達するには、ヨーロッパだとそれなりの年月が必要なのだが……。

「小さいのに凄いですね」

「いや、僕小さくないですからね。もう何百歳にもなりますからね! ほら、あの傘なら知ってるでしょ! あれルディがあそこの梁を作った時に置き忘れた……もとい置いたやつ!」

 噂の主が登場と来た。

「じゃあ誰かが置き忘れたとか白狐が置いたとか大工さんが置いたとか色々説があったのは……?」

「大工さんに化けた僕が置き忘れただけです!」

 狐君は宙返りをして元の男の子に戻り、何故か得意げな顔をする。

「それで何でその偉い白狐様が私に体当たりしたわけ?」

「体当たりしたくてしてるわけやないんです! 逆ですよ、僕はあいつらを捕まえているんです。お姉ちゃんもわかるでしょう? 僕やない何かがここにいるのが」

 ミーナが渋々頷く前に、さらに一撃脇腹に喰らった。

「もう! 何で私ばっかり!」

「たぶんお姉ちゃんの気の匂いに反応してるのでしょう。鼻のいい僕が集中しないとわからないくらいの微かな匂いですけれど」

「気?」

「お姉ちゃん吸血鬼ですよね。纏ってる気の匂いが……え~と深紅っぽいです」

 ルディは驚いた。あっさり吸血鬼と見抜くとは。

 吸血鬼というのは外見的特徴がほとんど人間と変わらないので、黙っていればバレる事はほとんどないのだ。それを利用して吸血鬼詐欺などがちらほら発生したもするくらいなのだから本当に違いはわからない。

 この少年の言っている意味はさっぱりだが、伏見稲荷でも何となく人間ではない事が巫女さんにもすぐバレたし、きっと日本にはそういう特別なものを感じ取れる種族が少なからずいるのだろう。

 吸血鬼の中ではあまり血を飲む方ではないミーナでも、何かしらの吸血鬼的特徴が『気』なるものに出ている、と。

「他にも殺気やら攻撃的な気にも反応しますね。僕が捕まえようとした時に別の奴に体当たりされたりもしてますし」

「ふ~む気、ですか」

 そうこうしている間にも、ミーナの顔がパンチを食らったように跳ねる。

 一瞬クラリとたたらを踏んだミーナが踏ん張って再び戻って来た時、その表情は般若そのものに変わっていた。

「白狐! アンタはこの正体を知ってるのね? 教えなさい。ぶっ飛ばしてやるわ」

「え、手伝ってくれるんですか?」

「違うわ」

 ミーナががっしりと狐君の両肩を掴み、睨みつけるように眉間にしわを寄せる。

「アンタが私を手伝うの」

 相当頭に血が昇っているようだ。


 狐の男の子はルディたちについてくるように言った後に、そのまま小走りで何処かへと向かい始めた。御影堂を抜けて法然上人御堂を横切り、裏手の門から表とは比べ物にならない程緩い階段を降りると、知恩院のもう一つの出入り口である黒門が見えて来る。そのままさっさと敷地を出てしまった男の子は、正面にある横断歩道までテコテコ歩いて行くのだった。

「ちょっと、お寺出ちゃったじゃない」

「いいんです。見て欲しいのはここですから」

 男の子はそのまま門の正面にある真四角の小さな敷地で尻尾を揺らして止まる。彼の膝くらいの小さな石の支柱が、小さな芝生の敷地を四辺四方囲んでいた。

 男の子に指差された敷地の真ん中を覗いてみると、ぽっかりと穴が空いていた。

 アスファルトで整地された車道のど真ん中にポツンと取り残されたようなそのスペースは、周りから不自然に浮いている。

 瓜生石。こんなはずれにあったのですね。

「瓜生石?」

 ルディが名前を教えると、ミーナは首を捻った。

「知恩院の七不思議の一つです。ほら、ここに書いてありますよ」

 ガイドブックを取り出して写真が載っているページを見せる。

「あ、本当だ……。だ?」

 ミーナが首を傾げるのでどうしたことかとルディも写真を見比べてみると、確かに同じ場所だが、様子が違う。写真では芝生に深く埋まっている石が見て取れるが、今目の前に広がる芝生には、石などは無く代わりに大きな穴が空いている。

「何処に石なんてあるのよ」

 ミーナが狐の子に訊くと、彼は穴の上でくるくると指を回した。

「今は穴の下に押し込んでる感じですね。暗くて見えないと思いますけど……」

 ミーナとルディは柵から身を乗り出して、穴を真上からもう一度覗いてみる。穴はペンキで塗られたような漆黒を湛えていて、もちろん底など見えない。

「何か見えますか?」

「何も見えないわよ。……暗すぎるわね」

 ルディよりも夜目が利くミーナでも何も見えないようだった。

「大体、何でこんな事するのよ?」

「この穴を通るためです」

「穴を通る?」

 穴を通る、と聞いて、ルディはピンときました。

 瓜生石の伝説にそれと似たような事が書いてあったのを思い出したのだ。確か持ってきたメモの何処かに……。

 メモを何枚か捲ると、ぴしゃりその内容が載っていた。面白半分でしたメモがまさかここで役立つだなんてさすがのルディも思いもしなかった

「瓜生石の下には二条城まで続く道が伸びていると言われている、って書いてありますね」

「は?」

 このミーナの鳩に豆鉄砲を食らったような表情を見る為にルディは雑学をしこたまメモしてきたと言っても過言ではない。しかし、本当にその穴が目の前に現われるとは予想だにしていなかったが。

「この穴を通ったら二条城に行けるんですか?」

 尋ねると狐はこくこくと少し嬉しそうに頷いた。

「二条城だけやなくて、色々な所に繋がってるんですよ! 例えば東京の王子稲荷とかですね。凄く便利なんです。沢山の狐が全国からここへやって来ますよ。それを見た人間達には狐生(きつねうみ)の石って呼ばれてたんですけど、伝わっていくうちに何処かで間違って瓜生って呼ばれるようになってました」

 男の子が説明をしている間にも、穴の中からぴょこんと他の狐が一匹出てきて、黒門を通って知恩院へと消えていった。休む間も無くもう一匹。穴の中に全自動狐製造機があるかのごとく、狐は次々と穴から出てくる。

「なんかいっぱいいるわね」

「ええ、もうすぐ大事な日ですからね」

 それを聞いてルディとミーナが思い出したのは先ほど伏見で出会った巫女の姿。伏見稲荷大社、狐の使いを祭る社の総本山。

「もしかして、この狐達ってみんな伏見稲荷に行くの?」

「おお、よく知ってますね。そうですよ」

 巫女さんの言う『向こう三日』の為だろうか。もう少し聞けば何かわかるかもしれない。……あわよくば稲荷山の頂上に登る許可をもらったり出来ないだろうか。

「何こいつ!」

 ルディが悩んだ末に口を開きかけた時、隣で大声が挙がった。

 見るとミーナが何かを指差して口をパクパクさせている。何事かと視線の先を追うと、瓜生石の穴から、狐ではなく白くて大きい何かが、うねうねと出て来ていた。ルディよりも大きく、全身真っ白で顔も腕も、何も無い。見えない誰かに引き伸ばされている餅のように、ぷにぷにと長くて気持ち悪く、その体はまだ穴の中にほとんど隠れているようだった。

「ん? ……あ! これ! こいつです! お姉ちゃんに体当たりする犯人!」

「え、気持ち悪っ! こんなやつが知恩院にうじゃうじゃいるわけ!? しかも私にぶつかりまくってるの!?」

「そうです!」

 狐の男の子が力強く答える。

 ミーナが黙ってルディの腿を引っ叩いた。そんな事をされなくてもわかっている。白くて長い謎の生物は表面つるつる光っていてグロテスクさし、動きがくねくね落ち着きなくて見ていると不安になってくる――。

「こんなやつが私の足に……」

 ミーナが右足で左足のふくらはぎを擦っていた。

「どうすればいいんですかね。捕まえられるんですかこれ?」

「こんなのが出てくるくらいなら普通に陸路で来なさいよ! 今は新幹線でも何でもあるじゃないの!」

「いやぁ、新幹線なんてまどろっこしいの使ってられないですよ。これなら何処でも十秒ですからね。それに、いつもはこんなの出ないんです」

「じゃあどうして今出てるの?」

「いやぁ、それがですね。全国の狐が集まるのって久しぶりでして。もう日本の穴という穴に繋げてやろうと頑張ったんですよ。僕が管理人ですので」

 白髪の調子に乗りがちな狐はその先を言おうと口を開き、そしてもごもごと再び閉じた。彼の隣では白長い餅が揺れている。止まっていれば少しはましなのだが……。ルディは吐き気が込み上げてくるのを感じた。

「頑張り過ぎて、根の国まで繋がってしまいました」

 はりきり狐は気色悪いうねうねと動く塊から目を逸らさずに言う。ルディはそれを聞いて少しこめかみが痛くなった。

 なんてことを……こっちを向きなさいこの狐。

「ねぇ、根の国って何処?」

 ミーナが聞いてくる。

「黄泉の国とこの世との間にある国ですね。存在するかどうかさえあやふやだったのですが、この狐君が嘘を吐いていないなら、本当にあるようですね」

「黄泉とこの世の間!? 死後の世界に片足突っ込んでるじゃない!

 その通り。

 改めてグロ餅を見ると体のほとんどは穴から出たようで、見上げる程の高さになっている。

「根の国に繋がったら、こいつが出てきたってこと?」

 男の子は肩を竦めて、はにかみながら首を縦に振った。

「原因アンタじゃないの! この馬鹿チン!」

 烈火の如く怒るミーナに、これ以上謝ってももはや焼け石に水とでも思ったか、うやむやに誤魔化そうとしている愛くるしい笑顔を浮かべる狐。

 ルディは、お、と思った。

 その顔、僕も日本の友人に教えてもらって、たまにミーナに実行しています。

 『てへぺろ』ですね。

 持てる愛嬌を全て投入し、全身全霊ですっとぼける事で、怒りの業火の中心にいる人への消火剤とする、日本の伝統芸能の一つ。

 これを実行すると怒っている人間はすべからく笑うしかなくなり「まったく、次は気を付けろよ」と赦しを与えたくなるのだとかなんとか。

 ルディはそれを聞いた時になんて素晴らしい文化だと思い、感動した事を思い出す。さすが非武装国ニッポン、笑顔で怒りを鎮めようだなんて並大抵の民族には出来る事ではないだろう。

 しかしそれをミーナに試した所、沈静化どころかさらに火に油を注ぐ行為だという事がルディの長年の実験で分かっている。ルディが実行した時は必ずと言っていいほどレバーブローが飛んでくる。再現性は高い。

 それをこの場でやる狐の男の子の度胸にはさすがのルディも敬服するしかなかった。

 そして案の定ミーナに首を両手で締め上げられた狐は「助けてぇ!」と声を上げている。助けようにもさすがにちょっと怖い。てへぺろなんかするものではないのだ。

「何がてへぺろよ、このすっとこい!」

 興奮しすぎて雑言すらままならない様子。狐君の足がプラプラと宙を浮いている。

 血も飲んでいないのにこのパワー。これはぶっちぎりにぶち切れている。

 沸騰した鍋を掴むくらいの慎重さでルディはミーナと狐を引きはがした。

 息を整えた狐の男の子は、説明を続ける。

「こいつは本来実態を持たない化け物のようです。なのでこの穴から出ると、ほとんどの人はこいつが見えなくなってしまいます。お姉ちゃんもお兄ちゃんも、御影堂ではこいつが見えませんでしたよね?」

「見えないわよ……」

 唸りながらミーナが答えた。ほぼほぼ猛獣である。

「お姉ちゃんっ。ちょっと真剣に説明してるので唸らないで」

 男の子は人差し指を口の前に当て、眉間にこれでもかと皺を寄せる。何故この狐は火に油を注ぎたがるのだろうか。

「基本的に僕にも見えないんですけれど、こいつが血や穢れを求めて動き出す瞬間。その時だけは僕にも見ることが出来ます。おそらく気の変化に僕が敏感だからですね。だからこいつを捕まえるチャンスはお姉ちゃんを襲う瞬間、ということになります」

「だからさっき、体当たりされた瞬間にアンタも体当たりしてきたのね?」

 勢い余りました、と白狐は舌を出して二回目のてへぺろ。

「次やったら舌抜くわ」

「お姉ちゃんたちにこれを見せたのは、存在を認識してもらう為です。こういうやつがいる、ってお姉ちゃん達が理解すれば、たぶん僕と同じように見えるようになるんじゃないかって思ってます。何てったってお姉ちゃんは僕を捕まえたくらいですから」

 見えるようになったら、これを一緒に捕まえて欲しいです、と狐は両手を合わせた。

「つまりこいつらは今も知恩院にうじゃうじゃいるけど、誰かを襲う時以外は見えないから何処にいるかわからない、ってことね」

「そうです。だから動き出してから捕まえることになるんですが、結構こいつら速いですからね。僕が朝から捕まえてますが、三回に一回は逃げられます」

 いつの間にか穴から出て来たうねうねの化け物は何処かへ消えていた。全身が出た瞬間、ルディ達には見えなくなったのだろう。

「僕が気付いた時には穴を空けてからだいぶ時間が経っていましたので、全部捕まえ終わるのはいつになることやら……」

「……いや、そんなに時間掛からずに捕まえられるわよ。目に見えなくても実体はあるんでしょう?」

「そうですね。何処かで動かずに固まっているはずです」

「だったら私に考えがあるわ」

 ミーナはそう言って笑う。その目は獲物を見つけた鷹のように爛々と光っている。

 まさかターゲットが狐君ではなければいいのですが。

 ルディはそんな事を思った。


        ☆


 御影堂の前に戻ってきたルディたちはどうにか白いにょろにょろが見えないかと、何もない空間に目を凝らした。

 しかしそこには雀がちゅんちゅんと地面を砂利を突く光景と、観光客がのどかに写真を撮っている光景が広がるのみ。やはり何処にも先ほどの白い影は見えず、家族旅行に来ていたチビッ子に指を差される始末。

 ミーナのお腹がくの字に曲がるもはや見慣れた光景。男の子とルディが飛びつくが、何の手応えも無くそのまま地面に倒れ込む。

「いたた……やっぱり私にゃ見えないじゃないの! ルディ見えた?」

「見えたような見えないような……」

 手をすり抜ける白い何かが一瞬だけ。プラシーボ効果かもしれないけれど。

「えぇ、二人とも見えませんでした? う~ん……やっぱり嗅覚も必要なんですかね……気の匂いが視覚にも影響してる……?」

 狐の男の子自身もも自分が何故あの根の国の化け物が見えているかが完全にわかっていないので、これで見えなくてもおかしくはないのだが、相当自信があったようである。

「となるとやっぱり僕一人でやるしか……」

 狐君は困ったようにしゅんと力を抜いて下を見つめた。

「別にいいわよ見えなくっても。ここの何処かにいるんでしょ? 形はもうわかったからそれで十分」

 ミーナはしょげてる男の子の頭をポンと叩くと立ち上がり、ポシェットから小瓶を一つ取り出した。香水を入れるような小さなガラスの瓶には赤い液体が詰められており、お洒落に綺麗でキラキラしている。

 しかしそれは血液だった。

 何かあった時の為にミーナは四種類の血を持ち歩いているのだ。

 しかし、血を使って何をしようというのだろうか。ルディは首を傾げる。

「何か出来そうな事ありましたっけ? A型……じゃないですよね」

「B型よ」

 B型の力は……。なるほどその手がありましたか。

「確かにいけそうですね」

 しょぼんとした狐がきょとんとした顔で聞いて来る。

「お姉ちゃん、血飲むと何か出来るんですか? 吸血鬼ってよく知りませんが、血はお姉ちゃん達にとってただの食事ですよね?」

「違うわね。私あんまり血飲まないし、お肉の方が好きだわ」

 血を飲み干したミーナは、しばしその口にした血液が体を巡るのを待った。手を下にだらりと伸ばし、しっくり来る(その感覚はルディにはわからないが)まで待つのだ。

 表現が曖昧すぎてどういう事なのか聞いた事はあったが「しっくりはしっくりよ! ジャスト!」と返されたのでルディはその感覚の正体を掴むことを諦めている。B型の血はそういうものらしい。

「久しぶりに飲んだわ」

「普段飲まないですしね」

 ミーナは吸血鬼の割にあまり血を必要としない。

 ミーナ自身も他の吸血鬼の事についてを全て知っているわけではなく、むしろルディの方が吸血鬼について詳しい有様。そのルディだって僅かな文献を紐解けたくらいのものでしかない。

 何でも、吸血鬼にとって血が必要かは個人個人の体質に依存するのだそうだ。

 三食血が必要な吸血鬼もいれば、全く飲まないままで一生を過ごす吸血鬼もいるとの事。……一生血を飲まずに吸血鬼を名乗れるのかはルディには甚だ疑問だが、実際に存在するのは確かだ。

 ルディはミーナにとっての血はサプリメントのようなものなのではないかと思っている。

 常に必要なわけではないが、長く血を飲まないと体調を崩しやすくなったりするからだ。

 日光を浴びて焦げやすくなるのも、血を長く飲んでいない時だ。体調が悪くなると血を飲むのでその先どうなるかはわかっていない。そのまま飲まないと死んでしまうのか、あるいはその状況に慣れたら血が必要無くなるのか。

 血が故郷の街から送られ続けている間は知る術は無さそうだ。

 そして多くの吸血鬼がそうであるように、ミーナもまた、血を飲むことによって一部の物理法則を無視出来るようになる。

 飲む血液型によりその無視できる法則は異なり、B型は空気中を伝わる波動の物理法則を無視出来る。

「よし、もうそろそろいいわね」

 ミーナは手を二、三度握って開いた後、タンと一歩前に足を踏み直した。

 空気の波、つまりは音を操る為に、ミーナは体全体を使う。

 タタンとリズムを刻んでスキップの様な仕草を取ったと思うと、ミーナはその場でくるくると二周回転した。そして回転を終えた後に腕を真っ直ぐ上に伸ばし、人差し指をピンと立てる。足を前後に揃えてスマートなシルエットを保つその姿は往年のキングオブポップを彷彿させた。

「痛っ!」

 ポカンと口を開けて呆けていた白髪の狐は耳をふさいで声を漏らした。

 同時に、知恩院中に敷き詰められた砂利がカタカタと微かに震え始める。

 ミーナが高く掲げた人差し指から生まれた衝撃波が、細かく空気を震わせる超音波となって辺り一帯を包み込んだのだ。生まれた波は複数の周波数が複雑に絡み合い、その中の一つが狐の男の子の鼓膜と共鳴してしまったのだろう。

 物理法則を無視した結果だ。B型の血を飲んだミーナは軽く舞うだけで指先に纏う空気が音速を超え、生まれた衝撃波は本来の波長とは違う高周波数を含んで広がっていくのだった。

「何!? 何したんですか?」

「静かにして」

 ミーナは耳に手を当てて目を瞑り、ぶつぶつと呟いている。

 ミーナが集中出来るように背中を向けて、狐の子にはなるべく小声でルディから教えてあげた。

「反射して来る音を聞いてるらしいですよ。その音が何処からどんな風に返って来るかで、そこにある物がどういう形をしているのかが分かるらしいです。エコーロケーションっていう技術ですね」

「エコ……エコロー……とにかくそこにあるものがわかるって事ですね!」

「そういうことです」

 ミーナはしばらく耳に手を添えた形のまま固まっていたが、やがてハッとした様で目を見開きました。

「白狐! アンタの真後ろ! ……ていうか私たちの真後ろに一匹ずついる!」

「ええ!?」

 狐は驚きながらもさすがの素早さだった。

 振り返って背中側に手を引っ掛けたかと思うと、そのまま体を回転させて、地面に何かを叩きつける。そのまま袂から縄を取り出したかと思うと、ルディたちの背後を一周して何かを縛りつけた。

 ルディにはやはり見えないままだったが、縄の中で化け物が暴れている様子は見て取れる。空中に浮かぶ縄の輪が激しく動いていた。

「おおお、本当にいましたよ! 止まってる姿は僕にも見えないっていうのに、お姉ちゃんはすごいですね」

 跳ねる縄を押さえ付けながら、狐の少年の顔は晴れやかです。

「攻撃してこない時はずっと私の後ろついて来てたのかしら……気持ち悪っ」

 身震いしながらもミーナは、聞き耳を立てるのをやめない。ミーナが放った音の波は物理法則に縛られることなく乱反射し、長くその場に留まり続けているからだ。

 もう一度ルディたちは静かにして、ミーナが見つけるのを待ったが、もうそれ以上化け物はいないようだった。

「案外少ないわね。その三匹で全部だわ」

「狐君が長い事穴を空けっぱなしにしてたと言っていたのでもっといるもんだと思ってましたが……よかったですね」

 狐君が瓜生の穴に化け物を押し込めに行っている間に御影堂をゆっくり一周して、少し離れた大鐘楼辺りまでプラプラと散歩してみたが、ミーナに体当たりしてくる鬱陶しい存在はもういなかった。

「根の国だかムの国だか知らないけれど、とっとと捕まえられてよかったわ。これで心置きなく帰れるわね!」

「いや、目的変わっちゃってますから。七不思議、七不思議」

 そうだったそうだった、とミーナはスキップしている。血を飲むと調子が良くなるからなのか、それとも邪魔者がいなくなったからなのか、とにかくご機嫌だ。

 ルディたちは内観料を払って知恩院の中に入った。

 知恩院の七不思議の一つに、鴬張りの廊下があるのでそれを見ようと思ったのだ。鴬張りといえば二条城が有名だが、知恩院にも同じように鴬の鳴く床がある。

 歩くたびに床板が微妙に沈み込み、きゅっちぴよぴよと音がして楽しい。どんなに忍び足で歩こうがその音が鳴ってしまうので、侵入者が居ようものなら瞬く間に気付かれてしまう。それ故、別名忍び返しとも呼ばれているのだとかなんとか。

 ルディがそう説明したのにミーナは「静かに!」とうるさく叫び、床を踏み踏み遊んでいる。

 ……もう楽しければいいです。ルディは溜息を吐く。

 しかしなかなかいい音がする。二条城では偶然音が鳴るようになったと説明されているが、知恩院ではセキュリティの為に名工が技術の粋をかき集めて作ったと伝えられている。真相は時に流されてしまって迷宮入りとなっているが、歩く度にどの床板も精確に音を奏でるこの仕組み、ルディにはただの偶然では片づけられない気がした。それにその方が浪漫を感じる。

 ルディたち観光客が実際に踏む事が出来る部分は短かったが、試しにその短い廊下を何度慎重に歩いても、音を鳴らさずに歩くことは不可能だった。抜き足、差し足、忍び足、とつま先から慎重に歩くのだが、抜きぴよ、差しぴよ、ぴよぴよぴよと、ミーナとルディに踏んづけられた鴬が悲鳴の如く鳴いている。

 やはりこれは偶然ではありませんね。そうに違いありません。

 しばらく他の観光客と鴬の合唱を開催していたが、どんな名所でも人の流れは刻々と変わるもので、ルディ達が遊んでいるうちに、ふと鴬張りに人が誰もいない時間が訪れた。

 外の光がぼんやり薄暗く堂の中を照らして、静謐な空気がルディたちを包み込むようだ。

「ラッキーね。独り占めよ」

 むふん、と鼻息を吐いたミーナは嬉しそうに瞳を光らせる。

 きゅっち。

 そんな中、誰もいないのに、床の音が鳴った。

 ハッとし、ルディたちは二人とも息を潜め、動かないで耳をそばだてる。

 ぴよきゅっち。

 やはり誰もいない空間から、音が。

「……何かいますね」

 ミーナが頷く。頭に過ぎるのは、先ほどの白いくねくね。

「ちょうどいいわ……さっきは白狐が全部捕まえちゃったからね。一匹くらい私が捕まえてやるわよ。こんなところに隠れていたのね」

 ミーナは鋭い眼光で虚空を見つめ、にやりと笑った。ポシェットから血の小瓶を取り出し、ちびっと舐めてステップを踏む。

 高々と掲げられた指からパン、と切れのいい音がして周囲の障子や戸が小刻みに揺れた。不敵な笑いを浮かべたままミーナは目を瞑り、返ってくる波を見始める。

「いたわ。そこに一匹……」

 ミーナが斜め右前を指差した。……やはりいた。

 じりじりと気付かれないようにルディは近づく。きゅっちとルディの足元から音が鳴った。

「その左隣にもう一匹」

 ルディの後ろから、ミーナの声が聞こえます。

「二匹もいたんですか。……じゃあ順番に――」

「そこにも、そこにも……三、四……」

 ミーナが更に指を差していきます。腕まくりをしていたルディはそのまま動く事が出来なかった。

 それでもミーナのカウントは止まらず、彼女自身の顔はみるみる青ざめていく。

 いや、彼女の顔だけでなく、ルディの顔もサァと冷たくなっていくのを感じた。

「畳のお部屋にも八……九……十……十一……ちょっとこれ、ルディ! あの白狐呼んできなさい!」

「外で捕まえた時、少ないなって思ったんですよ!」

 その時一斉に床が鳴り響き始めた。お堂の中に膨れ上がるように、床板の擦れる甲高い音がミーナとルディに向かって押し寄せて来る。目には見えないが、一斉に襲ってくる白いにょろにょろの姿がありありと想像できた。

 ミーナを肩に抱え、一目散にお堂から逃げ出すルディ。そしてルディたちを追うようにぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよぴよ音が付いてきます。

「白狐! ちょっと白狐ぉぉ!」

 ミーナの叫び声が知恩院の空にこだました。

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