幕間 一幕
天気雨が降る中、一人の老人が伏見稲荷駅へと降り立った。
雲一つない青空だというのに、その雨足は段々と強くなって来る。
老人は降り立つと同時に走り出し、観光客の誰よりも早く、改札を抜ける。
そのまま老体に鞭打ち、伏見稲荷大社までやって来た。
手を膝に突き、ぜいぜいと何かが絡まるような不穏な呼吸をしていたが、やがて落ち着いたのか、顔を上げて鳥居を潜った。
老人の目に映るのは、誰も彼も楽しそうに写真を撮ったり指を差したりしている人間ばかり。
ちらほらいる異人も観光地だとほとんどがキョンシーである。
日本の妖怪は人が多いところにはあまり姿を現さない。
しかし、それでも。
老人は鵜の目鷹の目で狐を探した。
必ずいるはずだ。
稲荷の総本山、使い狐の住む処。
老人が昨日まで一緒に過ごしていた狐の娘も、きっとここにいるはずなのだ。
「輝夜……」
老人の呟きに反応する者はもちろんいない。絢爛な楼門や、連なる幻妖的な鳥居に感嘆の声を上げているだけで、そこに老人が居る事すら気付かない観光客が大半である。
老人は境内から隅々まで、その狐を探した。鳥居の一本一本を数える様に、狐の影があったら見逃すまいと、逸る心を押さえ付け、丁寧に丁寧に、朱色のトンネルを潜り、そして気が付くと稲荷駅の改札にいた。
「……?」
確かに老人は稲荷山の頂上まで登ったはずだ。
隅々まで探して、狐が一匹もいなかった記憶もある。その記憶だけは残っている。
しかし、その記憶が感情の奥底で何故か受け入れられない。登ったはず、しかし、いつの間にか駅まで戻って来てしまった感覚がある。
記憶がしっかりあるのに、記憶喪失になってしまったようでもあり、誰かに記憶を書き換えられているようでもあり、初めての感覚に老人は戸惑った。
もう一度登ってみるか、いやあの山には狐はいない。そういう確信がある。
何故そんな確信があるのか、それは自分のこの目で見たからだ。見たはずだ。
老人は時計を見上げる。
伏見稲荷駅に着いてから三十分しか経っていない。若者でも一周一時間半かかる道のりを三十分で登り切れるわけがない。
老人は狐はいないという確信を振り払い、再び伏見稲荷の鳥居を潜る。
そして、今度は本当に隈なく狐を探しながら稲荷山の頂上まで登り、帰って来た。
「やっぱりいないのう……」
老人は諦めて伏見稲荷駅から電車に乗り込む。
彼は二回稲荷山を登り、諦めたことになる。
そういう記憶になっているのだ。
まだ一時間しか経っていないことに、違和感を持つことすらなくなっていた。
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