一章 伏見稲荷、あるいは不十分な結界

「……帰るわ!」

「ダメです」

 ミーナがくるりと踵を返して改札に走ろうとするので、咄嗟にその腕を掴む。

 京都駅構内に響き渡った甲高い声に、人混みの中の数人がこちらを振り返っていた。これではルディがミーナに乱暴をしているようだ。

 眉間に皺を寄せて歯を食いしばるミーナの頭から麦わら帽子がずり落ちるので、もう片方の手で被せ直す。困った表情を若干大袈裟に浮かべてルディが周りに会釈を送ると、どうやら誤解は解けたようで、また元の人の流れに戻った。

 一体周りの人間がどう解釈したのか想像もつかないが、誤解が解けて良かったとルディはホッと胸を撫でおろす。こんな時は日本人の淡白さがありがたい。

 ルディとミーナは兄妹というには似てなさすぎるし、友人としては見た目の歳の差が離れすぎている。かといって親子にも、ましてや仕事仲間にも見えない。拉致の二文字がふわりと道行く彼らの頭に浮かんでもおかしくない。

 ホッと息を吐いたのも束の間、ミーナがまだ腕の中で暴れていた。

「聞いてないもの! ルディ言ってたわよね、京都は歴史ある町だからきっと和食メニューとか内装とかの参考になるって! こんなに今風の駅だなんて聞いてないわ! 何がコトキョートよ嘘つき!」

「いや、本当なんですって。和と言ったら京都、京都と言ったら和ですって。ここまで来て横浜に帰れるわけないでしょう」

「だって日本人すら少ないじゃない! ほら、あそこもあそこも!」

 ミーナが指差す先には碧眼のマダムやドレッドヘアのアフリカ系の兄さんなど、多種多様な人々が歩いている。

 かくいうミーナも白髪交じりの明るいブラウンの長髪と赤い瞳を持っていて、京都駅に異国感を与えるのに一役買っているし、ルディだって日本人というには堀が深すぎる。

「私はルディが『絶対に感動しますよ。雅な日本風景にね!』とかかっこつけて言うから仕方なく来たんだもん。こんなほとんどアメリカみたいな場所ならいる意味は無いわ! 帰る!」

 別にかっこつけていたわけではありません。そう聞いていただけです。断じてかっこつけていたわけではありません。

 一瞬拳から力が抜けたルディの隙をついたつもりか、ミーナは再びくるりと体を回転させて改札に向かい始めた。この吸血鬼は些か自由過ぎる。ミーナの腕を掴んで持ち上げ、とりあえず彼女の足を地面に付けないようにそのままの状態をキープする。こうすると釣られた鰹の様だ。

 わがままな鰹はぶらぶらと空中で暴れながら怒りの眼差しをルディに向けた。

「か~え~る~!」

「観光客全員が一度ここに降りるんですから、色々な人が居て当たり前でしょう。アメリカみたいなんて大袈裟ですよ。ほらこっち見てください」

 ルディはミーナをぶら下げた腕を左側にぐいと移動させた。向けた方向にあるのは月毎に和菓子が変わるおしゃれな抹茶屋。今月は寒天の中に花火が咲いている水菓子が可愛くディスプレイされている。

「こんなのミーナの居酒屋に無いでしょう?」

「…………」

 ミーナはルディの問いかけには答えずに、抹茶の隣に咲く小さな花火をじぃと見つめていた。

 段々と逆立ったミーナの髪が落ち着いて行くのを見る限り、一難は去ったようだ。

 何かと難癖をつけて帰ろうとするのは予想通りと言えば予想通りの展開だったが、まさか京都に降り立って五分と経たないうちに帰ろうとするとは流石のルディでも思い至らなかった。

「ねぇルディ。凄いわここ、色々な味がある」

 振り向いたミーナの赤い瞳がチロチロ輝いているのを見て、一旦彼女を地面に下ろした。しばらくは大丈夫そうだ。

「へぇ、凄いですね」

 ルディもそのディスプレイを見て素直に感心した。

 ミーナの指差すメニューには粒あんやこしあんの他にも旅行魔向けの鹿肉味やらツツジの蜜味などきわどい味も取り揃えられていて、さすがは世界でも有数の観光都市といったところだ。最先端を押さえているのだとは思うが、どの種族向けの味なのかはパッとわからないけれど。

「血の味もありますね」

「うん、初めて見たわ」

 今やミーナはディスプレイのガラスに手と額を押し付けてそれらを食い入るように見ている。そのまま放っておいたらディスプレイを食べ始めるかもしれない。

 ひとまずは彼女の頭から帰宅の二文字は消えたらしい事はわかりました。

 ルディはポケットにある大量のメモの感触を確かめながら、これが無駄にならずに済んでよかったと密かに思う。

 そのメモには旅行マニアの居酒屋店長、野島さんから教えてもらった情報が細々と書かれているのだ。

『旅行なら京都がいいよ』

 そう言ってくれた野島店長の言葉が思い出される。


 ルディ達が日本に来たのは二年と少し前の事。船に揺られて流れ流れて、最後にたどり着いた地が横浜だった。

 初めこそ、家の確保、仕事の確保、日本語の勉強にご近所付き合いと忙しかったが、町の人々は優しく、今ではすっかりご近所に大根おろしを借りに行く仲になっている。

 恐る恐る探し始めたバイト先もあっさり見つかり、ルディは引っ越し、ミーナは居酒屋でそれぞれ身銭を稼ぐ日々。

 それなりに順風満帆な生活と言えた。

 言えていると思っていた。

 ルディが店長に相談を持ち掛けたのは先週の月曜日の事だ。

「え、ミーナちゃん休んでないの?」

 居酒屋”三段腹”の野島店長は、相談をしに行った時に心底驚いていた。

 そうなのだ。

 ミーナはルディに内緒で、その日一日限りのバイト募集に申し込み、休みの日も別の居酒屋でバイトをしていたのだ。

 彼女は元来夜に強いので、ルディが寝ている深夜にどこぞの居酒屋のホールを大車輪の如く回していたのだった。

 順風を自ら受けに行き過ぎて、ミーナの帆ははち切れる寸前。いくら丈夫な吸血鬼でも動き回っていれば疲れも溜まる。

 それなのにバイトが無い日中も、家事もそこそこに居酒屋の新メニューを考えたり、手作りおすすめメニュー表を作ったりと常に何かをしている毎日。

『たまには休んだらどうですか?』

『嫌よ! だって私が居た方が助かるってみんな言うもの!』

 そう言って心底嬉しそうに夕方頃に家を出て、明け方帰って来るミーナ。

 けれど、決定的だったのは二週間前の事。

 目にクマを作りながら満足そうに笑っている姿を見た時だった。

 フラフラとした足取りで鼻歌を歌いながらシャワーを浴びに行くミーナを見て、これは流石にいかんと思ったのだ。


 店長はミーナが他の店で働いている事を全く知らなかった。

「凄いな……さすが吸血鬼だね……僕だったらそんな事したら死んじゃうよ」

「……やっぱり良くないですよね」

 店長はミーナのシフト表を見ながら苦笑いしていた。ルディも同じ表情をしていた。

 ミーナたっての願いで、可能な限り赤く塗りつぶされたタイムシフトと、ルディの表情とを店長はしばらく交互に見つめてた。

「ワーカホリックってやつだね……参ったな、僕はしっかりメンバーが休めるようにシフト組んでるのに」

「マッチアプリはやめるように言ったんですが……」

「だからか、三日前にシフト増やせないかミーナちゃんに聞かれたよ。今で目一杯入れているんだけどね」

 これ以上増やしたらそれこそ週七だよ、と店長はぼやきました。

「お休みの日に遊びに行ったりしないの?」

「バイトが無い時もバイトの事やってるので……」

 楽しくても限度があるよなぁ、と店長はポリポリと頭を掻いて、シフト表としばらくにらめっこをしていた。ルディには返す言葉も無い。

「……でもルディ君はタイミングがいいよね」

 シフト表から目を上げずに、店長は唸るように言う。

「何がですか?」

 店長は懐からごそごそと二枚のチケットを取り出した。

「町内の福引で当たったんだけどね、僕は用事があっていけなくなっちゃったんだ。その日を逃すと嫁と予定が合う事も無くなるから、金券屋に今日売ろうと思ってた」

 宿付きの京都行チケットをプラプラと振りながら、店長は笑った。

「ミーナちゃんには助けられてるからね、休めって店長が言ってたと伝えてよ。それで羽根を伸ばして来な。吸血鬼だけにね」

 冗談のクオリティはそれとして、ルディは店長の後ろに後光が差しているのを確かに見た。ミーナはもちろんですが、ルディも休みに何をしていいやらわからなかったところにこの提案。迷える子羊に行先も、宿も移動手段もいっぺんにくれる店長。この人を祀った教会があったら三時間は跪いて手を合わせていただろう。

「……ありがとうございます!」

 バイト中毒者と化した日本に来てからのミーナを休ませるには、普通の休みでは到底力不足なのは明らかだ。目を離した隙に売れ筋メニューの分析を始め、オリジナルのチラシをねじ込んだティッシュを量産しますし、挙句には伝家の宝刀、日雇いバイトがある。

 それを防ぐには何かでミーナのバイト脳を上書きするしかない。初めての旅行、それも日本屈指の観光地である京都に連れて行けばミーナも観念するに違いない。まったく持って店長はナイスアイディアを持っている。さすが変なメニューを思い付きで常連に振舞って怒られている人情派店長は考える事が違う。

 店長のご厚意を最大限活かすべく、ルディは面白そうな場所を全て調べ上げました。元々ルディはジンジャにもオテラにも興味があった。その最大のメッカと言えば京都。

 ミーナの目の下が真っ黒になるならないに関わらず、一度は行ってみたい場所第一位なのだった。

 旅行好きで知識があり過ぎて、もはや若干の気持ち悪さを感じる店長のアドバイスの元、きっとミーナが興味を惹かれるであろう場所、店長がいつも行くおすすめの場所、単純に行ってみたい場所、各名所の豆知識や、おすすめのご飯処に――調査しすぎてもはや京都に行かなくても別にいいのではと思い始めたが、本末をスッ転がしている場合ではないと思い改め、万端も万端に準備をする。

 それに、調べても調べても調べることは尽きないし、そのガイドブックを見ても最後は『実際に行って確かめてみろ』というようなニュアンスで締めくくられている。きっと本の知識だけでは到底想像し得ない事が無数にあるのだろう。それか書くのが途中で面倒くさくなったか。

 どちらでも構わなかった。

 旅行までの日数を数えているだけで楽しくなってくる。

 きっと楽しい旅行にしてみせるとルディは心に決めていた。


「――よし、帰るわ」

「ダメです」

 それがこの様である。

 二度目の脱走に今度はミーナの首根っこを掴んで持ち上げた。何故か猫のようにおとなしく力を抜くミーナ。

 こんな体たらくで素敵な旅行プランもくそもない。

「まだ店に入ってもないでしょう! どんなことしたって帰るわけ無いんですから諦めてくださいよ」

「どうしてよ! ここのお店を見て私、ピンと来たわ! 私たちの居酒屋もこうやって旅行魔層を狙ってメニューを組み立てるべきなのよ。だから私は一刻も早くこの事を店長に伝えないと」

「そんな一刻の猶予を争うような話じゃないでしょう。ただでさえ僕たちが住んでるところなんて観光名所の一つも無いんですから」

「そうやって胡坐を掻いてるうちに他の居酒屋にお客さんを持ってかれるんだわ! そうなったらルディ責任とってくれるの!? 路頭に迷うのよ、ろ、と、う、に! 私じゃなくて店長がね!」

 なるほど、そういうことを言いますか。

「わかりました。じゃあ電話掛けます」

「え……」

「店長に本当に路頭に迷うか聞いてみましょう。明日ミーナが横浜に帰って、三段腹の新メニューを作らなければ店は潰れてしまうんですよね?」

「いや、そ、そうじゃないかなって思っただけよ。だってルディ? 技術も流行りも日進月歩って店長が言ってたことあるのよ……だからほら……その……」

 声がデクレッシェンドしていくミーナを尻目に、ルディは人の流れの邪魔にならない角の方へ移動して、野島店長に電話を掛ける。

『もしもし、ルディ君? どうしたの?』

「ミーナが帰るって言っていてですね。何でも新メニューを考え付いたとかで、それがなきゃ三段腹は潰れるらしいんですよ」

『……どんなメニュー?』

「ミーナ、どんなメニューか聞かれてますよ」

 スピーカーモードにしたスマホをミーナに差し出す。

「……あの……凄く、美味しいお肉みたいな……」

 雑踏に紛れそうな小さい声。

 そして沈黙。雑踏以外聞こえるものは無くなる。

 スマホの画面に映る通話時間の秒数だけが淡々と気まずい時間を数えていた。

『ミーナちゃん?』

「……ハイ」

『僕はお店を休んでください、って言ったよね?』

「……ハイ」

『休むって意味わかってる? 英語とかドイツ語とかの方が良いのかな? 僕はミーナちゃんの日本語、凄く上手だと思うけど』

「……はい。……ありがとうございる。……わかります」

『じゃあ僕が言いたいこと、わかるよね?』

「……わかります」

『うん、じゃあ楽しんで来てね。お土産楽しみにしてるよ~』

 プチッという音と共に通話の終了音が虚しく響き始めた。

 しばらく魂が抜けたように何も映っていないスマホの画面を見ていたミーナが、力なくルディの顔を見上げて来る。

 京都旅行を楽しんでおいでと言われてこれほど絶望の表情を浮かべる生き物は、この吸血鬼をおいて他にいないと思った。

 そんな態度で寺社仏閣を回ったらきっと罰が当たる。

「店長との約束破るからそういう事になるんですよ」

「……ずるいわ! 店長は反則でしょう?」

「そんな事無いですよ。むしろこのまま帰ったらどうなるかわかったでしょう? クビになる前に止めた僕に感謝して欲しいくらいですよ」

 下唇を噛んで睨みつけるミーナの荷物を抱え、ルディはサッサと荷物を入れるコインロッカーを見つける事にした。

 ミーナはしばらく恨めしそうにルディを見つめてその場に留まっていたが、やがて観念したのか、いつの間にかルディの後ろを歩き始めていた。

 まだ朝の早い時間帯、駅を行き来する人たちはこれから出会う名所の数々に思いを馳せて、皆キラキラと顔を輝かせている。一人旅の物静かな男性も、四人組で来ている女子大生グループも、ベビーカーを押す家族連れも、ワクワクとした温かい何かが体の内から溢れて来ているように見えた。

 それはきっとルディも変わらない。

 清掃員に真っ先に始末されそうなどす黒い汁みたいなオーラを垂れ流しているのは、ミーナくらいのものだった。



        ☆



 京都駅からJR奈良線で二駅、稲荷駅に降り立ったルディたちは、そこから徒歩五秒の場所にある伏見稲荷にやってきた。想像を絶する近さ。

「で、ここの何処が凄いのかしら」

 ミーナは、腕を組んで顎をツンと上げている。

「いや、わかるでしょ。そこの鳥居見て『おっきー』て今言ってたじゃないですか」

 ミーナが腕を組んで顎を上げた状態のまま、目を閉じた。聞いてないフリが下手過ぎる。

「大きい鳥居くらい何処にでもあるわ。……別のところは思いつかないけれど」

「誰に見栄張ってるんですか。早くいきますよ」

「だって不意打ちはずるいもん。駅降りてすぐに鳥居はずるいわ」

「それだったらここに駅を作った会社に文句を言う事ですね」

 鳥居から先は、修学旅行生が何組もすれ違う事が出来るような広い幅の参道が一直線に続いてた。進行方向正面にある太陽に照らされて、道は淡いクリーム色が滲むように光っている。

「ここは千本鳥居と狐が有名ですね。何処までも並んでいる鳥居は今や日本以外でも有名ですし、お稲荷さんのお使いをしてるのが狐ってのも可愛いですね」

「お使いねぇ。焼きそばパンとか買う感じかしら」

「大体そんな感じですよたぶん。後は神託を人に伝えたりとか」

「神託って?」

「神様のお告げですよ。狐はその伝言係ですね」

「ふ~ん。キッチンにいる店長の指示をホールに伝える感じかしら」

「大体そんな感じですよたぶん」

 楼門に辿り着くと、両脇に何かを咥えた狐が二匹鎮座してた。狛犬ならぬ狛狐。稲荷と言えばこの動物だ。

 隣を見ると、ミーナが狛狐の視線の先を追ったり、また視線を戻して狐の顔をしげしげ見つめたりと、忙しくしていた。

「確かに神様の声も聞けそうね」

 伏見稲荷大社の中は朱色が溢れている。本殿も社務所も眩しいくらいに鮮やかで、白く細かな砂利道とのコントラストが何ともめでたい。浮島の様に一段高い場所にある本殿にお参りをしする時に、ミーナが「お邪魔します」と小さく呟いていた。

 あれほどやんややんや、帰る帰ると五月蠅く、どうなる事やらと思ったが、ルディの心配をよそになかなかの好感触。

 ミーナを横目にルディも頭を下げて「ありがとうございます」と神様にお礼をした。

 本殿の左脇を抜けて、広々とした石段を上り、踊り場に鎮座する末社や分社を眺めながら尚も上を目指していると、ミーナがルディのシャツの袖を引っ張って来た。

「お参り終わったでしょ? 帰るんじゃないの?」

 来ましたね、とルディは思う。

 その言葉待ってました。帰巣本能の塊みたいな人です。

 ミーナは尚もルディの袖を引っ張りながら「狐のお守りがあったからみんなに買って帰ろうかしら」などと呟いている。

「ミーナは鳥ですか。きっと鳥ですね。巣へ帰りたがるし、三歩歩いてきっちり忘れてますしね。さっき言ったばかりでしょう。ここからですよ、伏見稲荷の本番は」

「鳥鳥うるさいわね! だから何だって……あ、鳥居か」

 ルディがさっき言った千本鳥居が、何とかミーナの頭の中に戻って来たようだ。ポンと手で作った鼓を叩いたミーナは、その形のままゆっくりルディを見る。

 これはたまにミーナがやる動作で、こうしてルディの表情を伺い、少しでも付け入る隙があれば誤魔化そうとするのだ。

 ルディは特に何も言わずにミーナを眺める。

「……だ、大体ね! 何だってこんなに奥に鳥居が並んでるっていうのよ」

「奥の院がありますし、他にも山の頂上まで参拝する場所はいっぱいあります。まだまだここは入り口ですよ」

「でもでも、普段から見てる鳥居をいっぺんに見るだけの事でしょう? 簡単に予想出来るのに、わざわざ時間なんて使いたくないわ。……そうだ、これを――」

「ちょっとちょっと、何やってるんですか」

 ミーナはポシェットからティッシュを取り出した。そのティッシュには居酒屋三段腹のチラシが入っている。

 隙あらば宣伝をする為に、ミーナはいつもいくつか持ち合わせているのだ。

「ふふふ、今なら人がいっぱいいるから配り放題よね。神社から出たらすぐ配れるように値引き率を今決めちゃうわ」

「何で今……」

 そのチラシは割引率が空欄の為、ミーナの裁量でクーポンが作れるようになっていた。ミーナはそこに楽しそうにボールペンを当てている。

「馬鹿チンですね。神様のいる場所でそんなことしたら罰が当たりますよ」

「そんなことないわ。神様は頑張ってる人を応援してくれるって聞いたもの」

 時間と場所を弁えた上での頑張りだと思いますけどね。

 ルディは止めようと手を伸ばしたが、ちょうどいいのでそのまま好きにさせておくことにした。普段から見ている鳥居をいっぺんに見るだけ、そんな程度だと考えているミーナには鳥居の目の前まで下を向いていてもらおう。

 やがて、鬱蒼とした茂みの中に、朱色が並ぶ一角が現れる。

「ミーナ、ここですよ」

 これがかの千本鳥居。見上げるような大きさに、予習をしていたルディですら息を飲む威圧感がある。

 みんながパシャパシャと写真を撮っている中、よく集中してボールペンなんて走らせるような無駄な行為が出来るものだ。ルディは関心すらしてしまう。

「帰ってきてください」

 ルディはミーナのこめかみ辺りを掴んで左右に振った。

「な、何よ!」

「だから、これが千本鳥居ですよって」

 顔を上げたミーナは、ひ、と小さく悲鳴を上げ、持っていたペンを、ポロリと地面に落とした。肩を竦めて立ち尽くす様は、さながら蛇に睨まれた兎の様だ。

 擦っている腕には鳥肌が総立ちになっているのが見える。先ほど鳥頭を散々露呈していて、それに続いて肌すらも鳥になる。ルディはもう鳥と一緒に旅行していると言っても過言ではない。

「ほら、チラシ作っている場合じゃないでしょう?」

 満足しながらミーナに話しかけますが、ミーナからの返事は無い。

 返事をする代わりに、錆びついたロボットの様にゆっくりと鳥居を見渡している。

 言葉を失わせる魔力は、確かにあった。

 千本鳥居は稲荷山の入り口にあり、名所らしくないひっそりとした林の側にいきなり現れる様に建っている。なので晴れているはずなのに鳥居は湿り気を帯びて少し暗く感じる。浮かれて観光に来るお客さんに一旦冷や水をぶっかける様に、冷たくて重い何か見えないもので、本殿の賑やかな空気とくっきり分けられているように感じるのだ。

 その区切られた空間に、合わせ鏡の様に連なる鳥居。目で追っても途中でどの鳥居を見ていたかわからなくなってしまい、クラクラとしてくる。

 ただ鳥居がいっぱい並んでいるだけ。

 言葉で説明するのは簡単で、事実それ以外に特別な事は何も無い。

 しかし、その場に立ってみないとわからない、連なる鳥居の魔力の様なものをルディは確かに感じた。

 それはミーナも同じ様だった。

 息を忘れたかの様に、無音でゆっくり首を動かすだけだったミーナは、ぐらりと前につんのめり、ハッとした様にルディの服の裾を掴んだ。

「ルディ……鳥居が。鳥居がいっぱいあるわ」

「だから言ったでしょう」

 やはり最初に伏見稲荷に連れてきてよかった。ミーナを驚かすと大抵その反撃として蹴りやら掌底やらが飛んでくるが、今回は暴れる事も忘れて圧倒された様子。

 かくいうルディも実際に見て驚いていた。写真で見るのと、ここまで違うとは、と。少し反省する。

 ミーナは大きく息を吸って、その場の空気に体を馴染ませた後、いそいそとポシェットにティッシュとボールペンをしまい、代わりにカメラを取り出し、パチリと一枚写真を撮った。

「気に入りました?」

 ルディが聞くと、むくれ面をしている。むくれながらも、きょろきょろと景色から目が離れない。

「そうでしょうそうでしょう?」

 ルディが満足して鳥居を潜り始めると、後ろからパタパタと走る音と共に、ミーナの声が聞こえて来た。

「ちょっと、何も言ってないじゃないのよ!」

 目は口ほどに物をいう事をミーナは知らないようだった。



        ☆



 見上げるように大きな鳥居の下を歩くと、やがて鳥居が二手に分かた。今までの鳥居とは違い、手を伸ばせば天辺を撫でられそうなくらいの大きさの鳥居が、双子のように並んでいる。今潜り抜けてきた鳥居と比べて随分と小さい。

 その鳥居の前で観光客がこぞって写真を撮っていて、人だかりが出来ていた。連なる鳥居が続くのは変わりないが、このスポットが人々を惹き付けてやまないのは何となくルディにもわかった。それまで歩いて来た鳥居の並びとは比べ物にならない程、ぎっしりと鳥居が密集していて壮観だ。

 その上、朱く鮮やかな発色が何処か非現実的で、これまでと違って鳥居がはっきりと景色から浮いている。木々に囲まれた静謐な自然空間に、その閃くような朱色の鳥居は異様な存在感を放っていた。

「ミーナ?」

「……うん」

 生返事しながらもミーナは目を離さない。

 そういえば鳥居に入った時から、時折フンフンと鼻を鳴らすだけで、ほとんど喋りもしていない事に気付く。

「多すぎじゃない? ほとんどトンネルよ」

「目を離したら知らないうちにどんどん増えていきそうですね」

 写真を撮り終わった人々は何かに誘われるように、何も喋らずに右手の鳥居をくぐって薄暗い朱色のトンネルの中へと消えていく。

 反対に左側の鳥居からは参拝を終えた人が次々と出て来ているので、まるで鳥居が呼吸をしているかのようだ。

 中に入ると遠近感が上手くわからずにつまずきそうになった。

 入り口で写真を撮っている分、中は人が分散されていたので、思ったよりも歩きやすいのが幸いか。逆に外からの木漏れ日も吹き抜ける風も際立つようで、不思議と心が落ち着いて来る気がした。道は途中で曲がっていて奥が見えず、ともすれば無限に続いているのではないかと錯覚する。

 セミの声と葉が擦れる音がルディたちの周りで反響していて、耳を心地よくくすぐる。ミーナも「うん」と伸びをした拍子に小さな声を漏らしていた。

「見てくださいよこれ」

 鳥居のトンネルの中頃、上からぶら下がるランタンを見つけたので、ミーナに指さしてみせた。

「ここは鳥居と鳥居の間が狭すぎますからね。今も薄暗いくらいですから、日が落ちると何も見えなくなるんでしょうね」

 提灯じゃないのね、とミーナは小首を傾げた。

 確かに神社といえばお祭り、お祭りといえば提灯というイメージがある。

 和から連想される柔らかいイメージとは対照の硬質的な雰囲気を持つランタンは、どちらかというと場違いなようにも思えた。

 しかし、心地よい不協和音とでもいうのだろうか、おそらくこれが正解なのだろうとルディは思った。

「ハイカラですねぇ」

 思わず呟くと、ミーナが「そうね」と素直に返した。

 珍しい。

 どのくらい歩いただろうか。距離はそれほどでもないように思えたが、歩いても歩いても同じように頭上を赤い色で塗られている光景が続くので、ルディは距離感を見失っていた。落ち着かないふわふわとした感覚の中でやがて視界が開け、奥の院が現れる。

「ここがゴール?」

「ゴール……といえばゴールですかね。大体の人はここの奥の院で手を合わせて帰るみたいですよ。ここから先は半分山登り、一番上まで行くと一時間以上掛かるらしいですからね」

 奥の院を少し離れて見守るように社務所と売店が右手側に立っている。左手側は最初に千本鳥居の入り口で見たような大きな鳥居が復活し、山登りへの道しるべとなっていた。鳥居同士の間隔は先ほどの小さな鳥居よりも広くなっていて、陽光が漏れ出る石畳の道がずっと奥まで続いている。

 正面の奥の院は本殿に比べるとかなりこぢんまりとしていて可愛らしい。その可愛らしさを引き立てる様に、狐の顔が描かれた絵馬がずらりと引っ掛けられていた。

「あれ……? いいのよね、入っても」

 賽銭箱を見つけて、がま口を取り出しながら近づいていたミーナが、ピタリと立ち止まる。隣できょとんとしているミーナが何でそんな事を言っているのかわからず「何でですか?」と聞き返してすぐ、その理由がルディにもわかった。

 ミーナとルディの他に、この広場に立ち入る者がいなかったのだ。

 ルディたちが振り返ると、他の観光客はぞろぞろと出口に直行していて、誰一人こちらを見ようともしていない。左の鳥居トンネルから出て来た人は、すぐに右の鳥居トンネルに消えてしまう。誰もかれもが、鳥居に見惚れて奥の院に気付いていないのだった。

 入ってはいけない? いやそんなはずはない。

「入っちゃいけない所はちゃんと看板があるでしょう。そして何より、ここは伏見稲荷の名所の一つ。入り口の地図にもガイドブックにも描かれていましたよ」

「じゃあ何でみんなこっちに来ないのよ」

 念のためルディはメモを見返してみたが、ここが奥ノ院で間違いない。

 先ほどまでの人いきれに若干辟易していたのは確かだが、いざこうしてポツンと二人になってみるとそれはそれで不安になる。迷子になった感覚に近い。

「すいませ~ん」

 首を捻っているだけではわからないので、目の前を流れる人の群れから、中年の女性を釣り上げてみた。いきなり声を掛けたのでその女性は明らかに警戒の眼差しをルディに向けている。

「……何か?」

「いえ、せっかくここまで来たのにお参りしていかないのかな、と思いまして」

「ここまで? 何かあるんですか?」

「目の前のこれ。奥の院ですよ」

「目の前……」

 会話が噛み合わない。

 その女性はルディが指差す方をじっと見ていたが、やがて無言で立ち去ってしまった。警戒の色は解かれる事なく、むしろ去り際にはあと少しで通報する顔をしていた。

 その後もめげずに何人かに声を掛けたが、ほとんど同じ反応が返って来る。

「どうやら奥の院に気付いていないようですね」

「嘘でしょ!? だって見なさいよ、みんなわざわざUターンしてるのよ? ほら、今もこっち見てる人いるし。そもそも気付く気付かないの問題じゃないでしょう!」

「でもそれ以外考えられませんよ。誰もこっちまで来ないじゃないですか。彼らにはずーっと鳥居が続いている様にしか見えてないんですよ」

「えー……何が起こってるのよ……」

 何が起こっているか、ルディが知りたいくらいだ。

 しかしわからない物はわからないと。こういう時は考えたら負けなだ。考えている暇があったら配られたカードで遊べばいいという事をルディは経験上わかっていた。

「ラッキーじゃないですか。人が居ない方がのんびり見れますし、来ないなら来ないでいいですよ」

 そう、考えようによっては、これは貸し切りパーティー。押し寿司のような人混みの中お参りするのと、誰もいなくて清々しい空気が流れる中お参りするかを選べと言われたら、後者を選ぶに決まっている。

「ちょっと、のんき過ぎない?」

「そんな事ありません」

 尻込みしているミーナに構わず、五円を賽銭箱に放り込み二拝二拍手一拝をして、無病息災を祈る。自分一人しかお参りしていないのだとしたら、結構願いは叶うのではないではないか。そんな事を思った。

 ついでにもう二三個頼んでもいいかしらん。そうだ、手始めにミーナのワーカホリックが治るようにお願いしてみましょう。せっかく来たのですから、他の名所を回る時にお店の事を思い出さないように……。

 コツリと石畳を踏む音が隣から聞こえてきて、ミーナも観念してお参りをし始めたのがルディにもわかった。

 何故自分たちだけがここにお参り出来るのか、それはひとまず置いておくことにする。

「はれぇ。どうしてやろか」

 置いたおいた矢先に、後ろから声が聞こえた。

 ルディが反応するよりもだいぶ早く、ミーナが飛びのくように振り返り、お賽銭箱に踵をぶつけた。

 声がしたそこには箒を持った巫女さんが立っている。ルディたちを見ながら右へ左へ不思議そうに首を捻っていた。

「お二人さん、何でここにいますのん?」

 何故と言われても、鳥居を潜って着いた場所がここだっただけで、他に理由はない。強いて言うなら、観光の為にここにいる、でしょうか? とルディは首を傾げた。

 ミーナの顔に答えが書いてあるか確認してみるが、彼女もやはり目を白黒させてる。何かいい言い回しは無いかとルディは少し探したが見つからない。巫女さんは答えを待たずにミーナにゆっくり近づき、づいっと顔を近づけてきた。

「う~ん……、ようわからんね。人間やないのはわかるんやけど」

 その瞬間、冷やした小石みたいなものがルディの胃に一つ落ちた。

 ――いやいや、見抜くのが早すぎますって。

「あなたも、ですよね?」

 人間には吸血鬼と人間を見分ける事はほとんど不可能だから。

 しかし、巫女さんはにっこりと笑っただけでした。

「私はただの小間使いです」

 箒で地面をわざとらしく掃く度に、彼女の長い髪の毛が揺れた。おどけて見せる彼女の視線はルディとミーナを交互に移動していて、どうやら質問の答えを待っている様子。

 ミーナがちらりと視線を外した先には、いまだに入り口付近を流れる人の行列が見て取れた。誰もここで起こっている事には気付いていない。

「魔女さん……やないね。最近多いから気を付けてますし」

「吸血鬼よ」

 ミーナが仕方なさそうに答えると、巫女さんはあらあら、と口を押えた。

「はぁ、吸血鬼。えらい国際化も進んだもんやね。ウチ、見るの初めてや。何処から来たん? あ、来はりました?」

 横浜、と答えると巫女さんは感心したように溜息を吐く。

「横浜は進んではりますね。港町やもんね」

「別に吸血鬼なんて何処にでもいるわ。それより、これはどういう事なのよ? あなたはわかるんでしょう? 私達以外ここに入って来ないじゃない」

「いえいえなんも。私はただの小間使い。通りすがりの巫女さんですから」

 おどけたようにステップを踏み、巫女さんはサッと足元の葉を掃いた。どうにも何かを隠しているようだが、それが何なのかルディにはわからない。

 ミーナが不満そうに視線を送って来るが、そんな目をされてもルディも困る。

「落ち着いてくださいよ、別に何かされてるわけでもなし……」

 ミーナは巫女さんに向き直った。

「ねぇ、いつもこうなの? ここ。ガイドブックにも載ってるなら別に秘密の社ってわけでもないと思うけれど」

「お二人ともせっかちさんですねぇ。横浜からはるばる旅行に来たのでしょう? そう答えを急がずに、こうして巫女さんとお話しするのもまた一興やないですか? 旅とは素敵な無駄遣いやないといけません。お金も時間も、くだらない事に使いましょうよって。そだそだ、旅の記念に一枚いかがですかね?」

 巫女さんが差し出した手にミーナがカメラを置くと、彼女は嬉しそうにパチリと一枚写真を撮った。続いてルディとミーナに近づき、目一杯腕を伸ばして自分を含めてもう一枚パチリ。

「ルディ。巫女ってのはみんなこんなに呑気なの?」

「さあ。僕も巫女さんと話すのは初めてですから。力抜けますね」

「もっと上品なのかと思ってたわ。だって神様に仕えているんでしょう?」

 何となくリズムに乗るように、巫女さんは右へフラフラ、左へフラフラ、思うがままに地面を掃き進んでいる。その後ろを二人でついて行くと、彼女は奥ノ院の裏手に回り込んだ。奥ノ院から少し離れて、雨避けの屋根の下に灯篭が二つ並んでいるのが見えた。

 そこまで着くと巫女さんはくるりとルディたちの方へ向き直り、空中に漂う何かを掴むような動作を二度行う。

「今日から向こう三日は大事な日ですよって。だからこうして人払いをしてるんです。最近――二十年くらいやろか――は外国の人もよぅ来るんでこっちも結界を工夫してたんやけど、何や吸血鬼向けってのを忘れてたみたいです」

 巫女さんが箒を持っていない方の手を勢いよく振ると、いつの間にか白い紙が二枚彼女の手に握られていた。その紙をルディたちの手に押し付ける様に渡して来る。

「結界を作ったのはウチやないですけどね。後で報告ですわ。それでもせっかく来てもらったんやから、これをどうぞ」

「じくみお……?」

「右から読むんですよ。おみくじです、おみくじ。星詠みに近いですね」

「日本では紙を読むのね。でも何処の日を詠んでるか書いてないわ」

 といってもルディも実物を見るのは初めて。何処にも日付らしきものは書いておらず、それどころか何の絵も描かれていない。ひっくり返して裏を確認してもそこにあるのは白ばかり。ルディたちの国の星詠みとはだいぶ勝手が違うようだ。

「ここから一年間を総括して、どのくらい良い運勢かを教えてくれるんです。吸血鬼さんは大吉、ルディさんは末吉ですねぇ。ウチに言わせればどちらも大当たりです」

「私の大吉ってのが一番良いやつね。ルディのは末って書いてあるからきっと最後の方だわ。末席には下っ端が座るって店長に教えてもらったもの」

 大吉を嬉しそうに揺らすミーナ。

「一番か言われたら大大吉いうのがあります」

「なんだ……それは残念ね」

「ウチはどっちも一緒やと思いますよ。吉兆あればそこから先は本人次第。それに上手く乗れるかどうかです。そういう意味では大吉も末吉もみんな一番言うてええと思います」

「何だか曖昧ね。日本では競走でも手を繋いでゴールすると聞いたことがあるし、そんなに一位を決めたくないのかしら」

「それとは違いる。平等を履き違えているとおみくじなんて作れませんよって」

 だからこそ、と言いながらおみくじをそっと触って巫女さんは続けます。

「吉という字を見ると、少し嬉しくなるんです。……さて、せっかくお二人さんに渡すんやから、少し『さあびす』しますよって」

 そういって巫女さんはニコニコしながらふむ、としばしおみくじを見つていた。

「まち人、来ず」

 あまりに快活な宣告に、力が抜けて少しよろけるルディ。

 来ないの!? とミーナの悲鳴が耳に響いた。

「吉なのに! さ、サービスしてよ!」

「万事が上手く行くなんて話はなかなかありませんね。さあびす言うのはここから。ウチはこのおみくじの内容がもう少し詳しくわかるんです。何や、お二人さんは次に行く場所も決めてないみたいやし、いい所を教えますよって」

「詳しくって言っても……」

 これ以上どうやって詳しくするというのだろう。おみくじは『勝負事』『病気』など色々な項目に分かれているが、その評価はどれも一言のみ。『勝負事、かつ』だけで、これから他に何を詳しく出来るというのだろうか。何をして誰に勝つのだか。

「『失せ物』ですが……お、これはもう見つかってるみたいやねぇ。お姉さんは歯磨きが好きなんですかね?」

 これはミーナが出発前に探し回っていた歯ブラシの事だろう。一年の総括に登場してしまう程ミーナは必死だったようだ。謎のこだわり。ミーナを見ると口を尖らせている。

「それにお次はここ見てください。『方がく』、北西と出てます。ですのでこれは……なるほど」

 終始笑顔だった巫女さんが、おみくじを見つめたまま真顔になった。

「はぁ、そうですか。お二人さんがそうやったんやね……」

 巫女さんは彼女に似つかわしくない、不思議な笑みを浮かべた。先ほどまでの心底生きているのが楽しいというような笑顔から、半ば諦めているような、寂しくて笑うような……。

「ど、どうしたの? 何か悪い事書いてある?」

 ミーナが聞くと、巫女さんは再び先ほどまでの笑顔に戻った。

「……やっぱり吸血鬼さん相手やと勝手が違うみたいですよって。お二人にはごめんなさいやけど、ちょっとこれは教えられません」

 そう言って巫女さんは何処からともなく紙をもう一枚取り出し、さらにいつの間にか握っていた筆でサラサラと何かを書き込み始める。それを丁寧に折りたたんで、ミーナに差し出した。

「ウチから教えることはできませんが、お姉さんとお兄さんが見たいと思ったら見てもええです。見なければいけないわけやないですし、むしろ見たくなかったら見ない方がええものです。見たくないのに見たら、もはやここに書いてある内容は逆効果になってしまいます」

「いや、そんなこと言われたら気になってしょうがないじゃない。見ないで捨てる奴なんていないわよ。もう中身見るわよ? いいわよね?」

「ダメです」

「何でよ!」

「渡した紙を直接そのまま見られたら、ウチが喋ったことと同じになってしまいますからねぇ。そうしたらもうその紙の効力は無くなってしまいます。せめて伏見の町から出るまでは懐にしまっておいてくださいな」

「同じ事が書いてあるんでしょう? いつ見ても一緒じゃない」

 まぁまぁ、と巫女さんはミーナの襟元から手紙をぐいぐいと中にしまい込んでしまった。ニコニコした顔をして強引な人だ。何が書いてあるのかルディも気になったが、効力が無くなるなら仕方がない。

 ぐっと我慢です。

 ルディは懐から早速手紙を取り出そうとするミーナの手をはたいた。

「気になるわねぇ……もう、変なルール!」

「外国魔さんだけですよって。うちもこんな事ほとんどしたことありませんから。――あ、別のやつは教えられますよ。えっと『あきない』ですが、これは良いようですね。おみやげをいっぱい買おうとしているでしょう? その中の一つがお店に並ぶようになりそうです。それで客足も去年より増えるそうです」

「え! そ、それは本当!? そうしたら気合入れて選ばなきゃ……予算はどれくらいがいいかしら!? やっぱり店長が好きそうなものを中心に片っ端から買うべき……?」

 この巫女さんは余計な事を言う。せっかく千本鳥居の雰囲気と胡散臭い巫女さんのおみくじとでバイトの事なんて忘れていた厄介なバイト魔人が復活してしまった。

 目がギラギラと輝かせて辺りを見渡しているところを見る限り、何か店の役に立ちそうなものを片っ端から買うつもりだろう。

「まずはあそこの……」

「それは逆効果ですよって」

 巫女さんはクスクスと笑って、ミーナの事をつんつんと突いた。

「自然体で流れに身を任せればよいのです。このゆるゆる流れる世界に上手く浮かべば自ずといい方向に辿り着きますよって」

「う~……そんな事言ったってねぇ! 売上アップっていうのが目の前にぶら下がってたら走りたくもなるでしょう!」

 何処へ。

「お仕事好きなんですねぇ。うちとは大違い。……そうや。それならうちの言うてる事が本当やってことを教えてくれるものがあるんです。それ試してみてくださいな。そうすればお姉さんも、無理に動いたりせんで忠告通りゆるりとしたくなる思います」

 巫女さんに連れられて、小さな屋根の下に並ぶ二つの灯篭の前まで来ると、その上には小玉スイカ程の大きさの石が乗っかっていた。巫女さんは二人をその前に立たせ「どーぞ」と手を広げる。

「……何が?」

 ルディとミーナは揃って首を傾げる。

 エスコートをされたは良いが、何をすればいいのかさっぱり。伏見稲荷で石に何かする、予習した中に何かあったか――。

 ありましたね。

 ルディはふむ、と鼻息を一つ吐く。

「『おもかる石』ですか?」

 彼のパッと頭に浮かんできたガイドブックの一ページを読みながら尋ねると、巫女さんは頷いた。

「ええ。昔っからある物ですが、ここ最近は来る人皆、この石を持ち上げて帰りますね。行列が出来て導線引かなきゃいけない程でして、まぁこの石も喜んでる思いる。元々触られるのが好きですから。ルディさんはよく知ってはりましたね」

 そりゃあここに来た時に持ち上げたい物ランキング一位ですからね。別に二位は無いのですけれど。

 何でも、この石は重いか軽いかでその願いが叶うかどうかがわかるとか。ちなみにルディが聞いたところによると、店長は何回持ち上げても重く感じたという。

 しょぼしょぼと溜め息を吐いた店長の姿を少し思い出し、笑いが込み上げて来る。

 謂れがあっているか確認すると、巫女さんは小さく拍手をしてくれた。

「あくまで目安ですけれど。軽く感じれば感じる程、その願いは近くにある言う事ですね。もちろん願いを唱えて持ち上げるのもいいでしょう。だけど、こんな使い方はどうでしょうか。『お土産はお店の売り上げの為に手当たり次第に買ってみるのが願いでございます』……なんて」

 手を合わせて巫女さんが台詞染みた口調で喋り、自分の喋り方が面白かったのか、クスクスと笑い出した。この巫女さんにかかれば世界のすべてが面白可笑しく見えるのだろうなとルディは思う。

「それで重ければそういうお土産の買い方はしない方がいい、ということですか?」

 尋ねると、巫女さんはこくりと頷いた。

「そういうことですね。お願い事と同じようなものですから、きっとこの子達の重さも変わりますよって」

「本当にそんな使い方出来るの?」

「もしかしたら、ですかねぇ。なにぶん今考えたものですから」

「適当ね、もう!」

 ぷんすかしてるミーナを宥めながら、確かに適当だなぁとルディも思った。

 言動だけでなく、存在そのものが適当だ。さっきから地面を掃いているが、それだって砂利を右に左に散らしているだけでちっとも綺麗になっている気がしないし、そもそもちりとりが何処にも見当たらない。その挙句に気まぐれな思いつきを自分の仕えてる神社で試してみたり。

「そんな使い方して怒られませんか?」

 ルディが聞くと巫女さんはきょとんとして首を傾げた。

「怒らないですよ? そうやって使えるって信じるのは、持ち上げる人ですから。おもかる石はそこにあるだけ。この子達はなぁんにも変わりはしません」

 巫女さんが石を撫でながら言う。

 おどけていたと思ったら、こうして何もかもわかっている風な事も言ってみせるのだから、調子は終始あちらのペース。巫女さんは黒髪を揺らしながら楽しんでいるが、その瞳は湖のように澄んで綺麗である。そこに何の特別な感情も見えず、当たり前のことを当たり前に言っているだけらしい。

「そこまで言うならやってやろうじゃない」

 ミーナは石が置かれた二つの灯篭の間にある、小さなお賽銭箱に五円を放り投げて外し、何食わぬ顔で五円を拾ってお賽銭箱に入れた。

 かっこつけるからそういう事になるのです。

「私は『三段腹』の売り上げに繋がる物があるなら絶対買っていきたいわ。だって私の選んだものがお店のメニューになるってことでしょう? そんなことになったら嬉しいったらないもの。店長も褒めてくれるわ」

 吸血鬼と書いて煩悩と読むようである。

 ルディは心の辞書に一つページを追加する。

「それがダメだって言ってますのに」

 巫女さんが困ったように首を傾げる姿を尻目に、ミーナは「ふん」と顔を逸らした。自分が正しいと信じて疑わないミーナの長所にして短所だ。今日は短さが悪目立ちしているが。

 ミーナは手を合わせてむにゃむにゃと何かを真剣に祈った後、物々しくおもかる石を持ち上げた。

「……おりゃ! 重っ!」

「重いって言っちゃいましたよ」

 一秒と掛からず願い事が叶わない事が決定したミーナ。重いどころか、持ち上がらないようである。軽く両手に収まるサイズなのに、ミーナが全体重を後ろに掛けて引っ張ってもびくともしない。まるで接着剤で固定されているようだった。

 その様子を見てルディもさすがに首を傾げる。

 僕が聞いた店長の話では、持ち上げられないほどの重さではなかったと思うのですが……。

「ねぇ! 何か細工したでしょう!? こんなの持ち上がるはずないわ!」

 ミーナが振り返って少し遠くに下がっていた巫女さんにの服の裾を掴む。

 細工なんてまさか。

 仮にも神聖なる場所でそんな事をしてまで観光客の願いを妨害するなんて、さすがにあの素っ頓狂な巫女さんでもありえないことだろう。

 いやでも、とルディは思い直す。

 この巫女さんならそれくらいの悪戯はやってもおかしくないかもしれません……。

 ルディはミーナの持ち上げられなかった石を前に、試しに今日の晩御飯に美味しいものを食べられるように祈ってみた。

「細工なんてしたらそれこそ怒られますよって。そんな事ウチはしません。その証拠にほら……」

 後ろから巫女さんの声が聞こえ、ミーナの「何でよ!」という声もルディの耳に届いた。

 ルディも何でよ、と言いたい気分だった。

 ミーナが散々こめかみに青筋を立てても持ち上がらなかった石は、発泡スチロールで出来ているのかと思う程軽かったのだから。

「ルディずるいわ!」

「いや、ずるいって言われてもですね……」

 本当にミーナはこんなの持ち上げられなかったのだろうか。

 もう一度台座に戻して、ミーナに持ち上げさせてみるが、やっぱりミーナには持ち上げられない。「きゅぅ」と変な声が漏れているのを見る限り、演技をしているわけではなさそうだ。

「ルディに持ち上げられて、私に持ち上げられないなんて……そんなものがこの世に存在するなんて……!」

「いや結構あるでしょう。先週家に送られてきたお米セットも僕が運んだじゃないですか」

「あんなの本気出せば運べたわ!」

 じゃあ、いつも本気出しなさいよ。

 巫女さんが楽しそうにミーナの肩を撫でながらルディとの間に割って入って来る。

「まぁまぁ。……ルディさんはなんて願って持ち上げたんですか?」

「僕は今日の夜に美味しい物が食べられますようにって」

「馬鹿みたいにどうでもいいわね! 絶対今のタイミングじゃないわ! ……ちょっと待って。本当に願い事で重くなったり軽くなったりするの?」

「初めからそう言うてますよ」

 同じ石を持ってピクリとも動かなかったミーナ。軽々持ち上げるルディ。

「……いやいや」

 ミーナとルディは同時に呟いた。

 おもかる石はただの目安。重く感じたら、軽く感じたら、と大前提は持ち上げる人の気持ち一つ。石が実際に重くなったり軽くなったりするわけではないはずだ。

 しかし現に、こんなにも石の重さは変わってしまっている。

「納得いかないならもう一度やってみてくださいな。次はそうですね、ミーナさんがビビッと来たお土産を適当に買ってみる、って考えにしてみたり」

 巫女さんがそう言うと、ミーナはルディとおもかる石を交互に見比べてから頷いた。

「……そうしてみる。ルディは横にいると気が散るから後ろで見てて」

 青筋が切れないか観察しようと思っていたルディだったが、凄みに負けて後ろに控える。ミーナはまた何事かをもそもそ唱えて「ふー」と深く息を吐き出した。これから世界記録に挑むアスリートの呼吸法だ。

「何て祈ったんですか?」

「お店の為にお土産は買わないで私の気に入った物を買うって。それで、そういうお土産が偶然お店の役に立ちますようにってね。……いくわよ、せーの」

 次の瞬間、きゃーという悲鳴と共にミーナがルディの元へ吹っ飛んできた。

 余りの勢いにミーナの後頭部がルディの鳩尾にヒットし、そのまま真後ろにぶっ倒れる。勢い止まらず後頭部をしこたま打ち付けたルディだったが、敷き詰められた小砂利のおかげで何とかかち割れずに済んだようだ。

「み……水の……あれ、水の入ってないやかんの……」

 ミーナがルディのお腹の上で絶句している。

 なるほど、重いものだと思ったら案外軽かった時に勢い余ってしまうやつですね。全身全霊でやり過ぎです。余り過ぎです。

「……死ぬかと思った」

「いや、僕も死ぬかと思いましたよ……急に誰かに狙撃されたみたいな吹っ飛び方でしたよ……」

 ミーナは放心状態でそのまましばらく青空を見つめていたが、やがてのそのそと立ち上がった。ルディも起き上がり、やられた鳩尾を擦りながら呼吸を整える。頭は痛いし息は出来ないし、泣きそうだった。新幹線の中で食べたカツサンドがもう少しで全て出てしまうところだ。

 巫女さんがルディのズボンに付いた砂を払ってくれたのが唯一の癒しだった。

「軽かったでしょう? おみくじはなかなかどうして当たりますし、そのおみくじに書いてある事は、ゆるりと流れる運命の脇道に転がってるものなのです。なるようになりますので、どうかそれまでは忘れてお楽しみにしてください」

 お腹に抱えた石を灯篭の上に戻しながら、ミーナは不服そうに頷いた。戻した後にもう一度持ち上げて、その軽さにまた驚いている。

「むぅ……。じゃあお店に良さそうなものとか買っちゃいけないのね?」

「ええ、上手くいかないと思いますよ。ミーナさんがこれいいな、と思ったものを買わなければお店の為にもなりません。今年一年は総じてそんな感じですよって」

「う~ん。じゃあさっき見た雀の丸焼きもメニューに加えない方がよさそうね。結構売れると思うんだけど」

 吸血鬼のトンチキなアイディアにルディは耳を疑った。

「普通の居酒屋で食べるメニューじゃないでしょう。この巫女さんの言うこと当たってますよ。ミーナがお店の為に考えると碌な事なさそうです。頭空っぽの方がマシですね」

「ねぇ、二言くらい多いわ! 何でいつもアンタはそう癪に障る言い方をねぇ!」

 ペシペシと地味に痛いビンタを腹に何度か喰らう。鳩尾アタックでだいぶ内臓やられている身としてはこれ以上は止めて欲しかった。

「まぁいいわ。これだけ石の重さが変わるんだから、信じる事にするわよ。今日の晩御飯美味しくなかったら承知しないからね!」

 はいな、と巫女さんはクスクス笑って頷いていた。

「じゃあ次は何処に行くのかしら。私としてはなるべくこう、ビビッと来る食べ物があるところだといいのだけれど」

「わかってますか? お店の為に選んじゃいけないんですからね?」

「……わかってるわよ。私が欲しい物、でしょ」

 よぉし、とミーナが帰り道に揚々と歩きだすので、ルディは慌てて止めえう。

「まだですよ! ミーナ、この先にもまだ鳥居は続いています!」

 ルディはこの伏見山の頂上まで登ると決めていた。ガイドブックを見て旅行プランを立て始めてだいぶ早い段階でこれは決めていた事だ

 頂上までずっとこの鳥居が続いている光景。しかも一周二時間弱もあるコースなので数えきれないくらいの、ジャポニカスポットがあるはず。ここはおそらくまだ山の二合目辺り。

 まだまだ僕は鳥居のトンネルを潜り続ける所存です。

 ルディは鼻息荒く、ミーナの腕を引く。

 しかし巫女さんが、困ったように眉尻を下げているのに気づいた。

「先ほども言いましたが、向こう三日は大事な日なんです。良ければ別の日にしてもらってもええですか。手前勝手やけれども、こればっかりはどうしても……」

 巫女さんが手を合わせて拝むので、ルディは自分が神様にでもなった気分だった。

「ん~……一の峰とか四ツ辻とか、楽しみにしてたんですけど」

「ほんまに申し訳ないです」

 巫女さんは笑顔でしたが、目を悲しく潤ませてる。今まで真面目さを感じられなかった分、これは本気なんだろうな、と思った。普段不真面目な人が真面目になる時ほど、わかりやすいこともない。

「わかりました。……て言っても一泊二日だからもう今回は来れませんね」

 残念ですが仕方がない。大切な儀式があるのだとしたら、それを邪魔してまで立ち入る事に何の意味があるというのだ。

「これは仕方ないわよ。代わりに巫女さんが面白かったからいいじゃない」

「そうですね」

 まったくもって、残念だ。

「おおきにぃ。それではまた近いうちにお会い致しましょうね」

 巫女さんは袂から一枚の葉っぱを取り出して、それを空中に置いた。ルディ達と巫女さんとの間に浮かんでいる葉っぱはその場でくるくる回り、どんどんと速くなっていく。その回転に巻き込まれるように風がどんどんと強くなってきて、やがて目を開けていられない程になった。

「…………」

 ルディたちが思わず顔を腕で覆うと同時、風はピタリと吹き止み、気付くと巫女さんもいなくなっていた。

 相変わらず、観光客は鳥居の手前で引き返していた。


        ☆


 ルディは伏見稲荷駅のホームで電車を待ちながら、貰ったおみくじを眺める。

 ミーナもぴらぴらとおみくじをいじりながら、書いてあることをぶつぶつ読んでいた。

 稲荷駅はJRだが、伏見稲荷駅は京阪線だ。伏見稲荷大社から徒歩五分程の場所にある駅で、支柱が赤く塗られていたりと、こちらの駅はこちらの駅で趣がある。

 人々は周りを見回しながら、思い思いの事をして電車を待っていた。

「何だったんだろ、あの巫女さん」

 ミーナが独り言のように尋ねて来たが、何と返していいやらルディにはわからなかった。腕を組んで考えてみても、出るのは唸り声ばかり。

 巫女さんが消えてしばらく呆気に取られていたルディたちだったが、気を取り直して鳥居を潜るとまたすっかり元の光景、つまりは観光客で溢れた賑やかな光景に戻されていた。皆が思い思いに写真を撮り、熱心にお祈りをし、紅白で彩られた伏見稲荷を楽しんでいる光景。

 何だか奥ノ院での事がルディには遠い夢の様に思えた。

 どうやらミーナも同じようで、奥から戻って来た三人組のお姉さんに奥ノ院はどうだったかと聞いていた。

『奥の院? ああ、行った行った。え~っとね……あれ?』

『そこで何したんだっけ?』

『お参りして、そのあと頂上まで登ったのよ。それで頂上から景色を眺めた……と思ってるんだけど……』

『確かにそんな気がするわ。……行ったわよね? 私たち? あれ?』

 そのお姉さんが話す事に思わずルディとミーナは首を傾げた。この三人組の彼女達は奥の院にも行って頂上にも行ったらしいのだが、その時に何をしたのかを一切覚えていなかった。後にわかった事だが、頂上に景色を一望出来る場所など何処にも無かった。

『巫女さん? 箒? ……いや、たぶんいなかったけど――』

 不思議そうな顔をしたお姉さんたちの顔を思い出しながら、駅のホームで電車が来るまでぼんやりと過ごす。

 伏見稲荷駅からは神社は見えない。

 結局、僕たちは奥の院に行ったのでしょうか。それとも別の場所に行っていたのでしょうか。

 首を左右に捻りながら唸るルディの手元にあるおみくじが、少なくともあれが夢では無い事を語っている。

 ミーナは神社があるであろう方角を、変な顔をしながらじっと見ていた。

「ミーナ?」

「わぁ、何よ」

「凄い顔してましたよ。何とも言えない変な顔」

「変な顔って失礼ね」

 ミーナがむくれると同時に、パラパラと雨が降って来る。おや、と思い空を見上げたが、そこには雲一つない青空が広がっていた。

「大事な日、ねぇ……」

 ミーナが巫女さんの言葉を反芻する。

 その言葉につられて、目に残る無限に続くような鳥居、そこを抜けた場所で一人笑う巫女さんの姿がルディの瞼の裏に浮かんでくるようだった。それらを思い返す度に、なんだかむずむずと心が跳ねる。

 やがてホームに電車が滑り込んで来て、雨が弾かれて太陽の光を浴びてキラキラと光ったた。

 ルディたちは立ち上がり、電車が止まるのを待つ。

「あ、ミーナ。さっきの変な顔にぴったりの表現がありました」

「また碌でもないに決まってるわ。ルディの事だもの」

「いえ、そんなことありません」

 ルディは半額のもやしをスーパーで見つけた時のように自慢げな表情を浮かべる。

「狐につままれた表情、です」

 ミーナは「ほらね」と言って電車にさっさか乗ってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る