5ー1

 それから凡そ一時間程。福松は女妖会に加わって茶飲み話をしていた。すると一階の戸が開いて誰かが入ってきた気配が伝わってきた。階段を上がりひょっこりとドリさんが顔を覗かせた。


「お早うございます」

「おう、ドリさん。講義お疲れ様」

「お疲れ様です」

「いやあ、待たせて悪かったな」

「全然です。色々と妖怪の話を聞かせてもらってましたんで」

「早く使えるようにしてやんないとドリさんも困るだろう?」


 老婆たちは愉快そうに言った。それにはドリさんも頷き返していた。


「まあね。だから、これから床山で色々教えてやろうと思ってね」

「あら、いいじゃないか」

「床山?」


 福松はその言葉に聞き覚えがあった。しかしついど忘れしてしまい、床山が何だったか分からなくなって実にもやもやとした状態になってしまう。


 ドリさんはそんな彼をお構いなしに連れ出して事務所のある本館へと引っ張ってきた。


 一階の試写室や事業部のデスクのあるスペースは見慣れているが、実を言うと福松はこの四階建ての建物の二階以上に上がった事がなかった。上の階は役付きの人の楽屋や編集部があると漠然には聞いていたが、実際に入るのはこれが初めての事だった。


 エレベーターに乗るとドリさんは4階のボタンを押した。一番最初に説明されたっきりだったので四階が何のスペースになっているかは福松にはまるで分からない。


 そうしていざ最上階に辿り着くと廊下にズラリと並べられた段ボールの山に福松は気圧された。消防法とか大丈夫なのか? と疑問も浮かんだがそれを口にすることはない。


 福松はエレベーターを降りるとまず左側に目が行った。開けっ放しの扉の横には『衣裳部』という札がかかっている。中を見ればその名の通り、男女問わず様々な色の着物や帯などが揃っていた。ひょっとすると廊下の段ボールにはごっそりと衣装が入っているのかも知れない。


「こっちだ」


 すっかり衣裳部屋に気を取られていた福松はドリさんにそう声かけれた。見ればエレベーターを降りたドリさんは反対側に進み、別の部屋を指さして待っていてくれた。やはり開けっ放しにされた戸の横には掲示板があり、撮影所そのものやここで活躍した役者の新聞や雑誌の記事の切り抜きだとか、恐らくは今後の撮影の予定表のような者が張り付けてあった。


 その横にはこの部屋の名称たる「床山」という時代掛かった札がぶら下がっていた。


 ドリさんに先導されながら福松は部屋に入る。


 衣裳部屋には所狭しと衣装が並べられていたが、こちらの部屋は負けず劣らずの数のカツラが所狭しと並べられていた。


「いるかい?」

「あ、ドリさん。待ってたよ」

「おおきに。言ってた新人連れてきたよ」

「はいはい。聞いてる聞いてる」


 そんな声と一緒に四角いメガネを掛け、口ひげを蓄えた中年の男性がのっそりと現れた。ツバ付き帽子を反対に被り、濃い緑色のエプロンをしている。エプロンには機能的なポケットとがいくつも散りばめられており、ハサミや櫛が顔を覗かせている。出で立ちだけならちょっとふざけた理容師のようだった。


「初めまして、床山の吉成です。よろしく」

「こちらこそよろしくお願いします。福松です」

「そんじゃ、早速お願いするわ。俺はまだ仕事残ってるから部屋に戻るけど」

「了解~」


 などと福松の与り知らぬところでまとまっていた話がどんどんと進んでいく。未だにちんぷんかんぷんな福松にとってこの状況は恐怖以外の何者でもなかった。


「えッと…何をするんですか?」

「あ、言うてなかった。今から『羽二重はぶたえ』の特訓をしてもらう」

「羽二重…ですか?」

「せや。何とか羽二重を一人で付けられるようにな。頑張ってくれ」


 そう聞いて福松の頭に思い起こされた記憶があった。


 羽二重というのは役者がかつらをつける時に下地として頭に巻く布の事だったはず。日本舞踊の先生が大きな舞台のあるときに楽屋にかつら屋を呼んでいた事を思い出したのだ。そもそも聞き覚えのあった床山という単語はその時に聞いていたような気がした。


 しかし、その記憶が確かであればとても一人で付けられるようなものではなかったように思える。付ける側と付けられる側が協力していたような…。


「一人で出来るものなんですか?」

「ああ。俳優部の役者はみんな一人で付ける。外部からくるのはどうしたってできない奴の方が多いから、床山の負担は減らしたいだろ? それに羽二重は時代劇に出る役者は絶対に通る道だ。できる事が増えりゃ、現場に呼んでもらいやすくもなる」

「まあ…そりゃそうですね」


 けど…何故このタイミングで?


 と、福松は思った。


 すると心の声に返事をするかの調子でドリさんが聞いてくる。


「ところで、そもそもなんだが明日は暇か?」

「え? はい。特に予定はなかったです」


 だから事務所探しに専念しようと思っていたところだった。大阪に直接行く手もあるが、まずはインターネットで情報を集めるつもりでいた。そんな福松に対して、ドリさんは今日一番、彼に気合いを入れる言葉を囁いた。


「なら良かった。もしも今日中に一人で羽二重が付けられたら…明日の撮影現場に連れてってやるよ。役は今日やった中間で」

「え!?」

「少しはやる気も出るだろう」


 バカを言うなと福松は奮起した。少しどころかこれ以上やる気の出るご褒美が今の自分にあるかどうかというレベルのご褒美だ。


 声に出さなくても福松のやる気は伝わったようで、ドリさんは愉快そうに笑って床山部屋を後にした。


 残された福松は改まって吉成に向き直り、頭を下げる。


「頑張って覚えます。よろしくお願いします」

「うん、よろしくね。とは言っても、教えるの僕じゃないんだけど」

「え?」

「君、お化けが見えるんだろ?」

「あ、はい…」

「ならお化けが見える奴担当がいるから、そっちに教えてもらってくれ」


 と言って吉成は戸棚の向こう側に声を飛ばした。


「おーい、クチナシ。いるよな? 頼むよー」

「あーはいはい」


 何とも面倒くさそうな返事が聞こえてきた。そしてにゅうっと戸棚の影から出てきた妖怪を見ると、福松は「ピっ」と変な呼吸音を出した。そこに現れた彼には顔がなかった。目も鼻も口も。広く世間に知られた名前で『のっぺらぼう』というお化けである。


 よれよれのTシャツにダメージジーンズを履いていた。シューズもかなり年季が入っている。肩掛けのバックには吉成と同じく床山で使うようなハサミや櫛などが詰まっていた。それにしてもTシャツにプリントされている『男は顔じゃない』って…のっぺらぼうが着ているとギャグなのか何なのか判断に困った。


「オレ、クチナシ。よろしく」

「福松と言います。よろしくお願いします」

「そんじゃ、頼んだよ」

「へい」


 何とも熟年のスタッフよろしく淡々としたやり取りで二人の会話は終わってしまった。クチナシはそそくさと部屋の一番隅っこの鏡前に進む。


「ホラ。何、ぼさっとしてんの。羽二重やんだろ?」

「あ、はい」


 少しぶっきらぼうな態度に福松は僅かに心で二の足を踏んだ。こういう人間もいるんだから、こういう妖怪もいるんだろうなと自分で自分を納得させて指定された席に腰を掛けた。


「羽二重は完全に初めて?」

「はい。見たこともないです…」


 福松は少しだけウソをついた。こうなったら完全に素人を装った方が得だと思ったからだ。


「ん。じゃあ道具の説明から。前の引き出し開けて」


 言われるがままに引き出しを開ける。するとそこには見たことも使い方も分からない道具や化粧品が入っていた。クチナシは横から手を突っ込んで、鏡台の前にそれらを並べ始める。


「基本的に使うのは右から順番に竹櫛、鬢付け油、タタキ、ツブシ、ベンジン、マステ、ドーランの七つかな。これを使って羽二重を固定しつつ、肌になじませると」

「はい」

「で、実際に付けるのがコレ」


 クチナシは一度裏に引っ込んでから、白濁色の布を二枚持ってきた。二角に黒いテープが二本ずつくっ付いており、片方は半分近くが青茶色い塗料か何かで汚れている。お世辞にも清潔感は微塵にも感じられなかった。


 日本舞踊の先生が付けていたのはもう少しきれいな布だったはず、と福松は自分の記憶とソレとを照らし合わせていた。


「これが羽二重。更に言うと上ハブと下ハブに別れるから。名前の通り下ハブが下、つまり頭に直接つける。その上に上ハブを乗せるって訳。ここまではOK?」

「はい。大丈夫です」

「じゃあ実際に巻いてみるから。まずは前髪の生え際を鬢付け油で固める」

「鬢付け油ってのが…これですね」


 福松は今しがた説明されたものを手に取った。見た目と感触的には強く固めたういろうとか羊羹のようなだった。早い話が齧ってみたら美味しそうという感想を持ったのだ。


「なんか食べられそうですね」

「ああ。人によっちゃおやつにしてるよ」

「マジっすか?」

「嘘に決まってんだろ。アホか?」

「えぇ…」


 …なるほど。こういう感じでコミュニケーションを取ってくるタイプね、と福松は一つ壁を作った。


「ほら。時間もないんだろ? 一回目はやってやるからさっさと覚えるんだな」

「…はい。頑張ります」

「はい、じゃあ前髪を掻き上げて」

「こうですか?」

「そう。そのまんまな」


 クチナシはそう言って福松の後頭部を押さえると、手に持った鬢付け油をこれでもかという強さで押し付け始めた。柔らかいとは言え無理から押し付けられると流石に皮膚が抉れそうだった。


「イデデデっ!」

「我慢我慢。この油が馴染まないと羽二重が滑ってかつらどころじゃならなくなる。痛いくらいに塗り込んで丁度いい」

「にしても…イテテテ」

「コツとしてはとにかく上に鬢付けをつけて伸ばすこと。髪の毛のラインを揃えて土台にするから、向きは極力そろえる。ばらけていると羽二重が決まんないからズレまくる」


 毛が抜けるし、頭皮が削られる。後には文字通り油で塗り固められた不快感とヒリヒリとした痛みが残る。そんな感覚が前髪の生え際ともみ上げを覆うまで続いた。


「こんなもんかな? とりあえずこの頭の油の感覚だけ覚えて。次から一人でやる時も最低限、このくらいは塗り固めること。OK?」

「わ、分かりました…」

「じゃあ、次。下ハブをつけるから、さっきみたいに髪を押さえて。鬢付け塗ったところはなるべく触らないように」

「こうですかね?」

「そう。そのままね」  


 クチナシはふわりと下ハブを福松の頭の上に乗せた。そして布の端を生え際の少し上に合わせてピッタリとくっ付けた。それにタイミングを見計らい、福松も手をすっとずらす。するとコメカミと眉間を指で押さえるように指示を出された。


 羽二重についていた黒いテープを巻き付け、羽二重を固定する。テープの部分には鬢付け油が染みこんでいるようで、糊がなくても簡単に張り付いてしまう。


「後頭部に首の付け根が少々窪んでるだろ? そこにひっかけるイメージでテープを止める。きつさは…少し痛いくらいがいい。多少緩んでも平気だから」

「はい」

「そんで次は羽二重を小さく畳んでいく。羽二重で頭にもう一個皮膚を作る感覚だね。引っ張るから押さえてろよ? ずれたらぶっとばす」

「へい」


 福松は思わず指に力を込めた。そうすると首ごと動かされる様な力が加わった。鏡越しに下ハブを見ると見る見るうちに皺が取れ、平らに慣らされていく。大方が終わると、余分な盛り上がりを潰したり、補強の意味でマスキングテープを数カ所に張る。モノの数分で頭に張り付くように下ハブが付けられた。

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