緋紅と独白の交わる先は
___髪を、切られた。別に、髪に思い入れはない。短くなっていても、どうせ伸びる。手を怪我した。人間の見た目に関する美醜感覚は人よりも疎いが、確かに絵を描く上では支障が出るかもしれない。
けれど、そんなことよりも、この姿を見たら、紫苑と千草は悲しむだろうと思った。それだけはなぜか、少し嫌だと思った。
傷をつけられた手がじりりと痛む。あの女子生徒達は、きっともう扉の前にすらいない。憎しみをぶつけて、逃げて、こんなことで、何になるのか、緋紅には分からない。
ただ目障りで、だから脅して、紫苑の隣から消えて欲しかった。始まりは、きっとそんなところなのだろう。深く考えてもいない。浅はかな、感情に全てを任せた行為だ。
しかし、先程まで対峙していた四人は、もはや別の女子生徒への怒りを緋紅にぶつけているようだった。脅されて発散できない怒りを、憎しみを、理由をつけて緋紅にぶつけていた。
緋紅への嫉妬はあったとしても、彼女たちが本当に傷つけたかった相手は、自分ではなかったように見えた。
「でも……私で、良かったなぁ………」
紫苑や千草じゃなくて良かった。緋紅は、心からそう思った。
あの女子生徒達の内輪揉めは知らない。心底、どうでもいい。結局、彼女たちは何をしたかったのだろうという気持ちしか、緋紅は持てなかった。きっと彼女たちは、ただ追い詰められて苦しかったのだろう。その気持ちは、痛いほどによく分かる。
「はっ、くしゅ……」
くしゃみと共に、ふるりと身体が震える。濡れた洋服も冷たい床も、緋紅の体温を下げていく。なにか暖を取るものを探した方がいい、そもそもここから出た方がいい。鍵が掛かる音はしなかったから、紫苑に連絡をすれば来てくれるかもしれない。
けれど、呼んでしまえば、もう誤魔化せない。濡れた服も、短くなった髪も、血が流れる手も、全て目に見えてしまうものだ。何があったのかと問われれば、緋紅は答えざるを得ないだろう。
「もう……どうでもいい」
なんだか酷く疲れた。ずっと重かった体が、更に重くなってもう動かない。寂しくて暗くて、冷たい。
まさに、孤独だった。孤独はそこまで悪いものではないけれど、そこに一度でも身を置いてしまえば、もう二度と戻れないとも思う。
「ちぐさ、さん」
緋紅が暗闇の中を彷徨っていた間、千草は緋紅のことをずっと心配してくれていた。それは、彼にとって義務的なものなのかもしれないけれど、それでも千草が傍に居ると、息がしやすかった。
昔に比べて随分と笑顔が増えた彼の周りには、たくさんの人が集まるようになった。緋紅自身も、友人として、千草に何かあったとき、悩んでいるときに、少しでも彼の力になりたい。
くしゅ。緋紅はまたひとつくしゃみをした。寒い、冷たい。
このまま外が暗くなって夜になれば、きっとこの部屋もさらに温度が下がるだろう。それでも、真冬じゃないから死ぬこともそうそうない。
大学自体が閉まれば、警備の人が通り掛かるかもしれないし、鍵が空いていれば部屋の確認をするかもしれない。
「……っ、……れいぜい、くん」
紫苑だって、話が終われば探しに来てくれるかもしれない。雨が降っているし、余計に彼は心配してくれそうだ。助かる可能性は十分にある。今すぐには無理でも、長い時間待てば助かるのだろう。
最悪、誰も来ず上手くいかなくても、このまま体調が落ち着くのを待って外に出れば済む話だ。その後のことは考えていないが、大学が閉まっても、警備室には警備員ぐらい居るだろう。
なんら難しいことはない。ただ、それだけのことだ。
「………ふ、ふふ……ふふふっ……」
いつの間にか頬を滑る涙に、緋紅は笑った。床も体も服も心も冷たいというのに、涙だけは異様に熱くて、どうしようもない。
「……………れいぜい、くん……たす、けて……」
喉の奥が熱い。あちこちが熱くて苦しい、それなのに寒い。紫苑、紫苑に会いたい。ぐちゃぐちゃの身体と、思考の先に思い浮かぶのはどうしても彼で、そんな自分が恨めしかった。
「……れいぜ、……げほっ!げほ……ぅっ」
冷泉くん、助けて。もう一度声に出そうとしたそれは、埃を吸い込んだ肺からの咳に押し潰された。そうは言ったって、何度呼んだって、もう今更ここまで来てしまったら意味が無いことは緋紅にも分かっている。それでも、求めずにはいられなかった。
「……げほ、げほっ」
咳をすれば酸素が足りなくて、必死に息を吸えば、埃がまた舞ってしまう。そろそろ掃除をしようと思っていたところだから、かなり汚れているだろう。
「…………れいぜい、くん……」
緋紅は外から聞こえる雨の音に耳を澄ませる。どうやら、まだ雨は止まないようだ。どうか、心優しい彼が、この雨に濡れていませんように。
真っ暗な部屋の中、寒さに震える身体を小さく丸め、緋紅は静かに意識を落とした。
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