緋紅と千草の交わる先は


「……ちぐ、さ…さん……」


 緋紅は、縋るように彼の名前を呼ぶ。その様子を見て瞬時に全てを理解した千草は、すぐさま彼女のもとへと駆け寄る。


「…こ、れ…。…おね、え…ちゃん…が、かいた……え」


「うん、そうだね。……これは、緋紅が描いた絵だよ」


 千草が緋紅の背中を擦りながら、柔らかな口調で彼女にそう言い聞かせた。その言葉に、緋紅の泣き声がより一層激しいものになる。


 先程、紫苑が車で向かった場所は千草の自宅だ。頑なに絵を描くことだけを優先させる緋紅を『紅焔の死域』以外に連れ回すことの出来る、唯一の人物。二人がいったいどういう関係かは分からないが、ひとまず紫苑の判断は間違っていなかったらしい。


「……そろそろ、落ち着いた?」


「ん……手」


「そうだね、繋ごっか」


 よく振り返ってみると、緋紅が誰かに甘える姿も、辛いときに助けを求めている所も、そもそも辛そうな姿すら見たことがない。それは、彼女が強い人だと、そう思ってしまっているからなのだろうか。


 あんなにも息苦しい場所で、自分を追い詰めながらも苦しそうに絵を描き続ける理由は何なのだろう。何が、緋紅をそこまでさせるのだろう。


「さて、どこから話そうか。言うか言わないかは、君次第だよ」


 緋紅を支えながら、千草は悲しそうに彼女に語りかける。


「話せそうかな、大丈夫?」


「……ちょっとなら」


「分かった。……もう、演じなくてもいいんだからね」


 千草が緋紅と繋いでいない方の手で彼女の頭を撫でる。緋紅は数度、何かを言おうとして辞めるを繰り返したあと、大きく息を吸い込んだ。


「実は、私に家族と呼べる存在はもういないんだ」






 ずっと、罪を償いたかった。


 かつて暮らした、温もりで満たされていた私達の家。


 けれどある日、幸せは突然終わりを告げる。


 父のような画家になるために、幼い頃からずっと頑張っていた姉。お前は才能がないから、画家になんてなれないと、まだ幼い彼女の夢さえも切り捨てた冷酷な父。


 まだ小学生だった私がその状況をどうにかできるわけでもなく、姉の投げた物に当たらないよう、自室に引き籠もっているしかなかった。


 だが、それでもまだ、かろうじて円満な家庭を築くことが出来ていたのだ。だんだんと崩れそうになっていく天羽家が、ついに崩壊してしまったのは、私が中学生だった頃の話。


 パチパチパチ、と。耳に反響するのは、乾いた手の叩く音。


「全国TOP、おめでとうございます!」


「今の心境はどうですか!?」


「コンクールの中で最年少だったということですが…かなりレベルが高い中での競り合いでしたね!おめでとうございます!!」


「は、はは……ありがとう、ございます」


 ____何故、私はここに立っているんだろう。


 全国一位?私が?本当に、笑えない。


 周りの作品には、私よりもっと良い絵画がたくさんあった。なのに、どうしてこんな……私の絵みたいな、まったく心のこもってない汚い絵なんかが、選ばれたんだ。大人達は、こんな子供騙しの絵に、どんな価値を見出したのだろうか。


 周りの人達はみんな、必死に描いてきたはずだ。


 このコンクールに寝る間も惜しんで、全力で取り組んでいた姉を知ってる。何ヶ月も前から、構造を練って、試行錯誤して、これじゃないって苦しんで。やっと出来た、全てを懸けた絵を、全国に出していたのに。


 私の絵みたいな、何も苦しまず何も感じないで何となくで描いた絵が全国で選ばれてしまうなんて、それじゃあまりにも姉が報われないじゃないか。


 自分の手にある最優秀賞のトロフィーを見て、現実を確信する。特に何もしてないのに、こんなにもすごい賞を取って、私は羞恥で消えたくなった。


 怖い。自分の才能が怖い。絵を描く度に、私が私じゃなくなるような気がして目眩がする。この絵の何が面白い?何が凄い?私には、全く分からない。


「凄いですね、天羽蒼雲先生のご息女は!いつか、先生を越える画家になるんじゃないですか?」


 そう言って周りの人は笑うが、私にはちっとも笑えない。お父さんを越える?冗談はやめてほしい。私は追いつきたくもないし、越えたいわけでもない。そんなこと、最初から興味が無い。


「ふふっ、越えられるように頑張ります」


 いつものように、笑顔の仮面をつけてやり過ごす。最近、笑顔を作ることが多くなってきて疲れるし、自分がなんなのかも分からなくなる。本当に、私は何がしたいんだろう。


「お前なら、すぐに超えるだろうな」


 こちらを見て微笑む父親を見ると、心が軋むような音が鳴った。


 どうして、その言葉を姉に掛けてあげないのだろうか。どうして、夢見る彼女の希望を潰してしまうのだろうか。


「うん。……いつか、越えてみせるよ」


 そのうち家庭はどんどん腐っていって、最初は必死に姉と父の仲を保とうとしていた母が、二人の間を取り持つことをしなくなったし、四人で食卓を囲むこともなくなった。


 姉はずっと努力していたのだ。何を言われても真っ直ぐに、誰かに否定されようとも泣きながら這い上がっていた。私はそれをただ見ているだけだった。姉に私の絵を見せた時、彼女は目を見開き、困ったように笑った。


「わたしよりも、上手」


 普段の姉なら言うはずも無い言葉。その言葉は、私を暗闇の中へ引き摺り込んだ。


「最近ね、絵を描くのが怖くて、筆を持てなくなっちゃったの」


「え?」


 衝撃が走る。姉がそんな事で苦しんでいたなんて知らなかった。


「お父さんから散々言われたのを思い出したら、手が動かなくて……知ってた?わたし、昔から〇〇と比べられてたのよ」


「もう……絵、描けないなぁ」


 姉は泣きながら崩れ落ちる。


 その時、私の何かが壊れた音がした。私の絵は、スランプで弱っていた彼女には十分な追い討ちだったのだ。自分が、彼女の夢を、努力を潰してしまった。


「でも、やっぱり諦めきれないから……〇〇に、私の夢を託すわ」


 音を立てて落ちたスケッチブックと胸の痛みが、この悪夢のような現実を、嫌というほど実感させる。指先が震えて、姉の顔が見れなかった。見る資格も、なかった。


「〇〇は、わたしの分まで、ずっと描き続けるのよ」


 その日以来、私は姉が絵を描いているところを見たことがない。彼女の部屋にたくさんあった画材は全て私の部屋へ運ばれ、絵を描かなくなった姉は父との関係も修復し、すっかり仲の良い家族に戻ったのだ。

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