緋紅と言葉の交わる先は


 ふと、意識が浮上する。


 辺りは薄闇に包まれていて、見覚えのない天井が目に入った。回らない頭でぼんやりと見つめていれば、物音がして、誰かが近づいてくる気配を感じる。


 うっすらと目を開けて、音の方を確認する。光を反射する綺麗な瞳と目が合った。それはすぐに大きく見開かれて、何かが落ちる音がする。


「緋紅っ!」


 駆け寄ってくる紫苑。何か言っているけれど、よく分からない。頭を撫でてくれた。そのまま、彼は慌てたように部屋を出ていく。


 少しずつ明瞭になっていく視界に、段々状況を理解し始めた。


 そして、頭に声が響く。


『一人だけ幸せになるなんて、そんなことしないわよね?』


『愛していたのに。ずっと、俺を利用してたんだな』


 ああ、駄目だ。ここに居てはいけない。紫苑に触れてはいけない。幸せになったら、救われたら駄目なんだ。


 緋紅は、重い体を引き摺るようにして、窓から外に出る。


 あんなにも雨が降っていたというのに、今夜は月の綺麗な夜だった。暗い夜道を彷徨い続けて、やがて開けた場所に出る。一気に広がった視界に、美しい星空が飛び込んできた。


 このままここに居れば、死ねるだろうか。寂しくて、寒くて、苦しくて、仕方がないだろうけど、それこそお似合いだ。


「……緋紅」


「……冷泉、くん?」


 誰かの足音に後ろを振り返れば、紫苑の姿が見えた。もしかして、緋紅を迎えに来たのだろうか。もう、放っておいてほしいのに。


「緋紅、帰るぞ。そのままだと風邪を引く」


 こちらへ伸ばされた手を弾き、拒絶の言葉を口にする。


「触らないで、くれるかしら」


 我ながら、情けないほど震えた声。俯きながら、紫苑から一歩ずつ距離を取る。ふらつく足取りのせいで、転びそうになってしまう。それを見た紫苑が慌ててこちらへ駆け寄ってきた。


「来ないでよ……!」


 怒号にも似たその叫び声に、紫苑の足が止まる。紫苑をここまで拒絶したのは初めてで、彼は驚きに目を見張っている。緋紅は、自分で握りしめた拳に爪が食い込んでいるのが分かった。


「もう、私なんかに構わないで……!」


 そう呟いた言葉は小さく、聞き取るのもやっとだろう。しかしそれは、痛いほどの苦しみを乗せて、辺りに響いた。


「緋紅。俺の話を、聞いてほしい」


 悲しいほどに澄んだ美しい声が、夜空に優しく響く。その言葉に、緋紅は小さく頷いた。


「ありがとう。……幼い頃から俺は、ずっとあのまま暗闇の中で生きていくんだって、そう思ってたんだ」


 紫苑は優しい声色で言葉を紡いでいく。


 紫苑の音をつまらないと言った緋紅のことが気になり始めて『紅焔の死域』を訪れたこと。緋紅の絵で、紫苑の空っぽだった心臓が満たされたこと。緋紅の隣はなぜか心地良くて、息がしやすいということ。いつか緋紅に紫苑が自分の意志で鳴らした音を聞いてほしいと思うようになって、何かにつけて構い始めたこと。


「水族館でピアノを弾いたとき、すげえ嬉しかったんだよ。いつの間にか忘れてたクラシックの楽しさを思い出すことが出来て、緋紅が俺の演奏を褒めてくれて、俺の音が好きだって言ってくれて」


 紫苑がゆっくりと手を伸ばし、緋紅を抱き寄せる。誰かの温もりは随分と久しぶりなもので、その懐かしさに涙が零れた。


「緋紅のおかげで、俺は俺になれた。……本当にありがとう」


 ああ、嫌だ。その言葉の先は、聞きたくない。もう、取り返しがつかなくなる。紫苑から、離れられなくなってしまう。


「ありがとう、緋紅。産まれてきてくれて、俺と出会ってくれて、ありがとう。俺を救ってくれて、ありがとう」


 紫苑の肩に、ぽつりと涙が落ちた。どんどん広がっていくそれに、紫苑は抱きしめる腕の力を強くする。緋紅の嗚咽が鼓膜を揺らして、強く掴まれた服に皺が寄った。


「冷泉くん。……今度こそ、話を聞いて欲しいの」


 涙で震えている声は、悲しみによるものではない。


 紅涙に染まった呪いのキャンバスに、哀しみを照らす太陽の光が届いたのだ。

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