紫苑と真意の交わる先は


 あまり多くない体力を振り絞って、紫苑は全速力で螺旋階段を登っていく。もしも何かあったときのために、母親へ迎えに来てほしいという連絡もした。


 何もないのなら、いつもの場所で笑っていてくれるのなら、それでいい。むしろ、そうであってほしい。


「緋紅、無事か!?」


 最上階に着き、荒々しく扉を開くと、中に光が差し込んでいく。紫苑は部屋の暗さに目を細め、呼び慣れた彼女の名前を呟いた。心臓が大きく脈打って、頬に汗が伝う。そこには、小さく体を丸めて横たわる緋紅の姿があった。


「……っ!緋紅!!」


 紫苑の喉が、引き攣った嫌な音を立てる。しかし、それすらも消し去るように、紫苑は緋紅の名前を呼んで駆け寄った。


 外の人工的な明かりに照らされた緋紅の顔色は真っ青で、唇にも頬にも血の気がない。何かから体を守るように丸めた四肢にも力はなく、苦しげに眉は顰められていた。


 ひぐれ、と声を零して膝を着き、その体に手を伸ばせば、彼女の服は何故か水浸しになっていて、氷のように冷たかった。


  そう長くもないが、あまりにも濃い時間を過ごした緋紅の、見たことも無い姿だった。


「起きてくれ、緋紅!そうじゃないと……そうじゃないと、俺は……!」


 紫苑は、自分の体から血の気が引いていくのを感じた。


 ただ単純に、怖かったのだ。緋紅がいなくなることなんて、紫苑は考えたこともなかったから。当たり前のように優しく微笑む彼女が傍にいて、それが紫苑の大切な日々になったから。


 大切な人が自分の傍に居る確証なんて、絶対に得られるわけではないと分かっていたはずだった。それでも、いつの間にか当たり前だと、いなくなることなんてないと、そう信じていたかったほどに、紫苑は緋紅のことを、確かに愛していたのだ。


「駄目だ、緋紅がいなくなるなんて、そんなことは絶対に……!絶対に、俺が許さない……!」


 紫苑は緋紅に手を伸ばした。無闇矢鱈に揺すってはいけないのは分かる。けれどそれでも、緋

紅という存在がここにある事を確かめていないと、生きた心地がしないのだ。


「緋紅……!」


  揺すっても声を掛けても、緋紅は動かないままだ。肩から首へ手を滑らせ、顔の半分を覆っていた彼女の髪を除けた。血の気の失せた真っ青な顔、色のない唇。紫苑は、静かに唇を噛み締めた。


「俺が、もう少し早く来ていたら……俺が、あの女と話さなければ」


 誰に聞かせるわけでもなく、紫苑は呟いた。けれど、今更何を言ったところで、全てが過ぎたことだ。紫苑は緋紅の髪を撫でる。


 髪も、服と同様に濡れていた。窓も閉められているし、雨でここまで濡れているわけが無い。緋紅は、絵を描くのにこれほどの量の水は使わない。なぜ、と考えて、彼女の腕に手を伸ばす。ふと、緋紅の手に、紫苑の爪が引っかかった。


「これは……血?」


 恐らく、もう既に固まりかけている赤黒いそれは血で、彼女の手には無数の切り傷があった。しかも、今の今まで気付かなかったが、腰ぐらいまで伸びていたはずの緋紅の髪が随分と短くなっているような気がする。目を覆い隠すほど長かった前髪も、こんな長さではなかったはずだ。随分と濡れていて乱れているので、気の所為だろうか。


「ひ、緋紅……?」


 ふと、緋紅が小さく呻いた。紫苑は驚いて声が震え、祈るように彼女の顔を凝視する。乾いた唇が微かに震えて、それから閉じられる。意識が戻りかけているのかもしれない、そう思った紫苑は緋紅を抱える手に力を入れた。


「起きろ、緋紅……!」


「っ…………う、ぁ」


 苦しげに呻く緋紅は、どうやら魘されているようだった。いつもは綺麗に輝いている彼女の瞳は開かず、唇からは苦しげな呻き声が漏れている。紫苑は泣き出しそうになりながらも、彼女の名前を呼び続けた。


「ひぐれ、ひぐれ……!悪い、俺のせいで……」


「ぅ……」


 緋紅の身体が、紫苑の腕の中で身じろぎ、彼女の睫毛がふるりと震える。ゆっくりと緋紅の瞼が開いて、焦点の合わないぼんやりとした瞳が露になる。


「………れいぜい…………くん……」


 小さく掠れた声は、雨音の中でも紫苑の耳に確かに届いた。涙が紫苑の両目から溢れる。しかし、それを拭うよりも先に紫苑は緋紅をさらに強く抱き寄せた。


「やっと起きたか、緋紅……!ああそうだ、俺だ……!」


「………れいぜい、くん」


 紫苑の声が届いているのか、いないのか。緋紅は紫苑の呼び掛けには答えず、へにゃりと笑った。紫苑の名前を呼ぶ彼女の声は、こちらが悲しくなるほどに柔らかなもので、穏やかな波を保ったまま部屋の四隅に溶け出していく。


「緋紅、大丈夫だ!俺はここにいる!」


「ごめ、んね……れいぜい……く……ん」


「何のことだよ、お前が謝る必要なんて……!」


「……あめ……ぬれて、る」


 緋紅が手を伸ばし、紫苑の頬を伝う涙を拭った。その様子に目を見開いた紫苑は、胸の奥を針で刺されたような痛みを覚える。普段は紫苑が雨に濡れていても気遣う素振りすら見せないというのに、どうしてこういう時に限って優しさを見せるのだろうか。


「そんなこと、今はどうでも__」


「れいぜいくんが、くるしいのも……それで、ちぐささんに、しんぱいかけるのも……いや、だから」


 緋紅は、ぼんやりと呟くようにそう言った。


 以前、寒くなるにつれて普段よりも体調管理に気を使っていると、緋紅に話したことがあった。それは人前で演奏する立場としては当然のことだし、何よりも紅焔の死域に行くことが出来なくなってしまう。緋紅に会えなくなってしまう。


 けれどそれは、今にも消え入りそうな彼女を、大切な存在を目の前にしている以上、守り通せることではない。苦しんでいる愛する人を放って置けるほど、紫苑は非情な人間ではなかった。


 多少濡れてしまっても、彼女の手を離さないことの方が、今ここにいる紫苑にとっては大切なことだったのだ。


「緋紅は……本当に馬鹿だな」


 止まりかけていた涙がまた零れて、そのまま緋紅の頬に落ちた。それに驚いたのか、緋紅はびくりと小さく震える。そして、頼りなさげに開かれた瞳が、ようやく紫苑の姿を映した。


 紫苑は苦笑する。腕の中の、頭が良いくせにどこか的外れで、あんなにも美しい絵を生み出せるほど器用なのに、こんなにも不器用な彼女が、愛おしくて堪らない。


「俺だって、緋紅が苦しかったら嫌に決まってんだろ」


 情けないほど涙に染まった言葉を零して、紫苑は緋紅を目一杯抱きしめた。冷たさを掻き消すように、もう二度と離さないように。


 ポケットに閉まったままだったスマホから、到着を知らせる母親からの着信音が聞こえてくるまで、紫苑はずっと緋紅を離さなかった。

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