紫苑と悪意の交わる先は
少し移動しようか、と女子生徒に促されて、彼女の後をついていく。あまり遠くへは行きたくなかったが、仕方がない。彼女には申し訳ないと思いつつも、早く緋紅の元へ向かいたいと思った。
「ここでもいい?」
「ああ。別に、どこでも」
弾んだ声が降り掛かる。紫苑を誘導していた彼女は、隅に置かれたベンチを指さしていた。緋紅のことに支配されていた思考を引き戻し頷けば、彼女はベンチに座った。思いの外、旧校舎から離れてしまったなと思いつつ、紫苑も距離を空けてベンチへと腰を下ろす。
「冷泉くん。ごめんね、急に」
「いや、別に。それより、話ってなに?」
紫苑は、腹の底に隠してきた怒りを乗せて目の前の女子生徒に尋ねた。唸るような声に女子生徒の顔が引き攣る。人を無闇に傷つけるのは紫苑の本意ではない。
だが、彼女は緋紅をわざと傷つけようとしているように見えた。緋紅と彼女の関係性はわからないが、それでも大切な人を故意に傷つけようとする人間に優しくできるほど紫苑は器用ではない。
一瞬の間があったあと、彼女はまた笑顔を浮かべて胸の前で手を組んだ。
「ずっと、お話をしてみたかったの」
「……そうか」
「覚えてる?高校のとき、体育の途中で怪我した私を冷泉くんが保健室まで連れていってくれたこと。まるで、王子様みたいって思ったんだよ!」
「……へえ」
紫苑は、紫の公爵でも、同級生でも、ましてや彼女を助けた王子様でもない。今ここに居るのは、大切な存在を傷つけられて苛立つ紫苑しかいないのだ。肩書きが無くとも、一緒に笑っていたいと思える緋紅のことを目の前で傷つけられて、黙っているつもりは毛頭ない。
「……それで?」
「……え?」
「話したいことがあるんだろ。もう終わりでいいか?」
「れ、冷泉くん?もしかして、 怒ってるの?」
「怒ってるように見えるなら、そうなんじゃねえの」
彼女の胸の前で、組まれた手に力が入る。焦っているのだろうか。それならばさっさと突きつけて終わらせてしまおう。紫苑は驚きと恐怖で揺れている彼女の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「緋紅のことを好ましく思わないのはお前の勝手だが、俺は緋紅のことが好きだ。だから、あいつを傷つけようとするのだけはやめろ」
「っ!?」
彼女は体を震わせて、泣きそうに顔を歪める。そうしてそのまま、力をなくしたように俯いてしまった。さらりと揺れた髪が彼女の顔を隠して、何も見えない。けれどややあってから微かに聴こえる声に紫苑は息を飲む。
「なんで知って、いったい誰が……あいつら?それとも、天羽緋紅?いや、そんなこと。ううん、冷泉くんは……好きって、誰を?まさか……」
彼女の微かなそれは紫苑には半分ほどしか聞き取れなかった。ぶつぶつと呟き続ける彼女。若干の恐怖を覚えるが、それでもこのままでは埒が明かない。おい、と紫苑が声をかける。途端、彼女はかばりと顔をあげた。
「冷泉くんは、天羽さんのことが好きなの?」
ぎしり、とベンチが音をたてた。彼女がベンチに手を添え、紫苑を覗き込む。目を大きく見開いた彼女に、紫苑は今度こそ言い知れぬ恐怖をはっきりと抱く。恐らく彼女は話が通じない、理解ができない存在だ。優しさも温かみも無い。それこそまさに、狂気を感じた。
「あははっ、やっぱり、何もかも無駄だったかあ。……まあでも、逆に、今日来てよかったかも。天羽さんってほんと……許せないなあ。あの子たち、上手くやってるといいけど。ね、冷泉くん?」
「……は?」
天羽さん。許せない。あの子たち。上手くやってる。その言葉の数々から、紫苑は状況を察して咄嗟に尋ねるも、彼女は紫苑の目を見つめたまま笑っていた。逃さないために彼女のその手を紫苑は掴む。
「緋紅に何をした!吐け!」
「……そんな顔、初めて見た。本当に天羽さんのことが好きなんだね……悔しいなあ、どうして?」
「いいから!答えろ!」
大きくなる声が抑えられない。人通りは少なめなものの、周りを通る人々にこちらを見られていることが分かった。しかし、紫苑は止まらない。もしも彼女との関係で緋紅が危険な状況なのだとしたら、それは彼女に聞くしかないのだ。
「あはは、冷泉くんが私の手を握ってる。嬉しいなあ。でも、天羽さんには勝てないんだよね。脅そうとしたのに、三年の千草センパイのガードが固くてさ。天羽さんって、本当に馬鹿だよね。人に興味ないみたいな顔して、私達と同じ気持ちだって気付いてから、目に見えて言い返せなくなってさ。頭良いから脳がショートしたって感じ?天才って大変だね〜!」
瞬きもせずに口を動かす彼女はそれでも紫苑を見つめていた。彼女が口走ったことが本当だとすれば、一体いつから。確かに緋紅はここ最近どこか疲れていたようには見えた。それでも、紫苑と一緒にいる時は心から楽しそうで、いつも通りだった。
「私ね、冷泉くんのことが好きなの」
「…………………は?」
「昔から、ずっと好きなの!でも、冷泉くんは天羽さんが好きなんでしょ?でもね、天羽さんは私達に仕返しもせずに体調崩してたんだよ。講義も欠席してるのに、相変わらず『紅焔の死域』には通ってる。教授に聞いたら、教えてくれたんだ。きっと、冷泉くんに悟られないようにしてたんだね。ねえ、そんな馬鹿のどこがいいの?」
突然の告白に、ぽかんと口を開ける。怒ればいいのか呆れたらいいのか、悲しめばいいのか悔やめばいいのか。きっと全てだ。
緋紅を脅そうとしていたこと、緋紅を傷つけていたこと、それに気付けなかったこと。彼女の話しぶりからして彼女がそんな行動をとった原因は自分だということ。
しかし、恋という可愛らしいものにしては極端すぎる行動に出ていること。感じることも、思うことも沢山あるはずなのにそのどれにも感情が追いつかないほど彼女は言葉を次々と重ねていく。
「天羽さんはきっと、私達に同情しちゃったの。同情っていうか、共感って感じかな?同じ気持ちだって分かって、自分を責めたのかな?あの子はとっても面倒だから、勝手に自滅してくれて助かったけど。まあ、冷泉くんが天羽さんを好きなら、それも全部無駄なわけなんだけど」
「……同じ、気持ち?」
彼女は、紫苑のことが好きだと言った。それならば、緋紅も自分のことを好きだということなのだろうか。いや、そんなはずはない。どう足掻いても緋紅が好いていてくれるのは分かるが、それは恋愛的なものではない。
緋紅との間に目に見えてあるのは、確かな信頼だった。そこへいつの間にか混ぜ込んでいたのは紫苑から緋紅への恋情だったが、緋紅から向けられる信頼は、紫苑や目の前の彼女が持つものとは違うと思っていたのに。
「そうだよ、天羽さんは冷泉くんのことが大好きなの。なのに、私が言うまで自覚してなかったみたいだし。あははっ、あんなに分かりやすいことってある?」
ぽつり。ぽつり。頭を冷やせというように雨粒が紫苑を濡らし始めた。彼女も雨に気付いたのか、一度辺りを見回す。つられて紫苑も視線を彼女から外せば、コンクリートの地面が少しずつ色濃くなっていっていた。
「雨だね、冷泉くん」
濡れちゃうな、と彼女は微笑み、また紫苑を見た。その声に、紫苑も視線を彼女へと戻す。目を三日月の形にした彼女は乾ききっていた自分の唇を舐める。その仕草はまるで、獣のようだった。
「雨、かあ。……天羽さんは画家だよね。『紅焔の死域』にある絵、全部あの子が描いたんでしょ?」
「……それが、どうした」
さして強くもない風が吹き、雨粒が彼女の頬を濡らす。白い頬に雨粒が浮いた。少しずつ、けれど確かに雨は強くなっていた。地面を打つ雨の音が微かに聞こえ始める。
目の前の彼女が、楽しそうに歌うように話す様子が、どうにも恐ろしくて。紫苑は掴んでいた手を離した。
「絵に、雨は天敵だね。天羽さんは、もう濡れて破けちゃったんじゃないかな?」
紫苑はベンチ横に置いていた鞄を急いで抱え込む。後ろから縋るように名前を呼ばれた気がしたが、もう構ってはいられなかった。紫苑は『紅焔の死域』へ駆け出した。
緋紅が自分を好きだとか、緋紅が脅されていただとか、たくさん聞きたいことも言いたいこともあって、整理したいことだらけだ。
だが、それでも今は……、
『私は好きよ、貴方の今の音』
あの心からの言葉と笑顔を、失いたくなかった。
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