紫苑と不穏の交わる先は

 夜気を縫いわけるように、静穏に、溶け切ることなく清澄に。


 やがて夜そのものになっていくみたいに、柔らかな彩りの余韻を残す紅。生温い微睡みの心地よさを振り切ってでも、それを追いかけたくて。仄かに灯る温もりの光に引かれて、導かれるままに意識が浮上する。


「ようやく起きたのね、冷泉くん」


 突然、視界に映る緋紅の瞳。たった今置いてきたばかりの夢よりも現実味がない。


 曖昧な境界から抜け出すべく、閉じ直した瞼の裏で思考を整える。ここは緋紅の住居たるマンションの一室で、もう少し具体的な現在地はリビングルームのソファセットの一角。


「……緋紅、近い。顔が近い」


「あら、そう?」


 紫苑の指摘に少し首を捻った冬弥が、屈めていた身体を起こしてソファの隣に座り直す。


「ちょうど起こそうと思って、声を掛けるところだったの。自力で起きてくれたのなら良かったわ」


 適切な距離を開けることができて、これでやっとまともに挨拶を返せるようになった。


「おはよ、緋紅」


「ええ、おはよう。よく眠っていたわね」


「……おう」


 律儀に返事を重ねる緋紅の言葉に、他意や皮肉、非難があるわけがないことは分かる。頭では理解していても、よく眠っていたつもりなどなかった紫苑は、顔にも声にも起き抜けの色が滲んでしまう。


「寝落ちとか、マジかよ……」


 しかも、うたた寝レベルでもなく、妙に軽く感じる頭と体の具合から想像するに、どうやらだいぶ気持ちよく爆睡できたらしい。


「あー……ったく……」


「気にしなくていいわよ。疲れが溜まっていたんでしょうし」


 最近は、それほど忙しかったというわけではないのだが、朝から急に講義が入っていたせいで、活動時間が長めの日だったかもしれない。それにしたってこれはない、あんまりだ。


「冷泉くんがそれだけ寛いでくれているなら、私としては喜んでもいいことなのかもしれないわね」


 他所の家にお邪魔して早々、家主を放って寝こけるのは、常識的に考えてさすがにマナー違反だろう。親しき仲にも礼儀あり、だ。


「もう、結構遅い時間か?」


「ええ、もうお昼時ね。一度帰宅してから講義に出るのなら、少し急いだほうがいいわ」


 身体に掛けられていたブランケットを畳みながら、視線を少し巡らせただけなのに、ソファの端まで滑っていたスマホを拾い上げて差し出してくれる。この察しの良さが十秒前にも欲しかった。


「服ももう乾いているから、支度は向こうの部屋を使って」


「おう、分かった」


 そう言いながら、ふと見たテーブルの上には、並んで置かれた緋紅のスマホと車の鍵。確かに、運転手の準備が完了しているのであれば、送られる方だって速やかに支度を整えるべきではある。


「……また今度、お礼の品でも持ってく」


「いえ、私も昨日は楽しかったわ。また、良かったら泊まりに来てちょうだい。お菓子と珈琲ならたくさんあるわ」


 『紅焔の死域』に居るときの緋紅は、普段の彼女と比べると口数が少ない。紫苑が話しているときも全く興味のなさそうな相槌を打つのだが、甘いものが好きだと覚えていてくれたことには少し驚いた。……まあ、昨日の紫苑は目の前のお菓子に夢中でそんな素振りは一切見せなかったのだが。


「あと……冷泉くん」


「ん?」


 支度をしようと立ち上がった紫苑は、隣の緋紅に目を向ける。どこか神妙そうな顔をしていた彼女だが、目が合うとすぐに柔らかな笑みを浮かべる。


「今日の講義が終わったら、旧校舎に来てもらえるかしら。私が二人分の出入りの許可を取っておくわ……昨日のことについて、話があるの」


「……ああ、いいぜ。ちゃんと、聞く」


 紫苑は緋紅の目を見て、しっかりと頷く。彼女の微笑みの中に混ざっている不安を掻き消すかのように、優しい声色を混ぜて。






 講義が終わり、紫苑はすぐさま旧校舎へと向かう。緋紅の口から何が語られるのか皆目見当もつかないけれど、それでもとても大事な話なのだろうということだけは分かっていた。


「緋紅」


 旧校舎の入口へ辿り着くと、鍵を片手に佇む緋紅の姿が見えた。どうやら、今から『紅焔の死域』へ行くところだったようだ。そう声を掛けると、ビクリと肩を震わせた緋紅が周りを見渡した後、ようやくこちらの姿を捉える。


「冷泉くん」


 だが、次の瞬間に紡がれた声は、緋紅のものではなかった。高めでどこか甘えるような色が滲んだそれは、ここ最近どこかで聞いたことのあるような声。振り返りたくはないが、呼ばれた紫苑は律儀に振り返る。


「えっと………誰?」


「あはは、面白い冗談だね!……ほら、この前水族館で会ったでしょ。お昼も誘ったし、最近よく話してたじゃん!」


「ああ、あのときの……俺に、なにか用か?」


「うん。ねえ、天羽さん。冷泉くんと少しお話したいんだけど、いいかな」


 そう言って細められた目は、全く笑っていない。それが不気味に思えて、何となく緋紅に近づけるべきではないと思った。押し黙ったままの緋紅を見て、彼女の上がっていた口角がひくりと動く。


「緋紅、悪いけど先に行っててくれねえか?」


「……え?」


「話が終わったら『紅焔の死域』に行くから、待っててくれ」


 紫苑は、緋紅をちらりと見る。鍵を持つ手が小さく震えているのが視界に入り、顔色を伺うと、珍しく怯えたような表情を露わにしていた。


「……分かったわ。冷泉くんが、そう言うのなら」


「冷泉くん、ありがとう!」


 やったあ!と無邪気に笑う彼女を一瞥して、緋紅は背を向ける。それを見送った後に、雨が降り出しそうに沈んだ空を紫苑は見上げた。

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