紫苑と絵画の交わる先は

「……絵?」


 あの日、紫苑の心臓に紅を宿した鳥の絵と全く同じ絵だった。絵画に近付き、細部までじっくり観察する。


「何かが、足りないような気がする」


「……何が足りないの?」


 紅の絵で覆われている、という意味では、この部屋も、あのアトリエと何ら違いはない。けれど、『紅焔の死域』とは何かが違う。


 それまで静かに紫苑の後ろに佇んでいた緋紅が口を開いた。


「分かんねえ。けど、決定的な何かが違う」


 そう、あの絵はもっと紅に溢れていた。紫苑の心臓に流れ込んでも、それでも決して途絶えないような、紅が。


「……ああ、そうか」


 不意に、言葉がストンと胸の中に落ちてくる。この絵から感じる、拭えない違和感。


「この絵には、心がないんだ」


 緋紅の描く絵には全て心が宿されている。ルーズリーフの紅葉やスケッチブックの柘榴、画用紙の薔薇も例外ではない。彼女の絵は、いつも感情で溢れかえった絵ばかりだった。


 『紅焔の死域』に通い始めてから、紫苑は何度も緋紅が絵を描いている様子を目撃している。キャンバスに向き合う彼女をそっと見つめながら、気付いたことがあるのだ。


 緋紅がキャンバスに筆を乗せるとき、いつも違う表情を浮かべている。楽しさが伝わってくるような絵を描くときは、楽しそうな顔をするし、悲しさが伝わってくるような絵を描くときは、悲しそうな顔をする。まるで、緋紅の感情が絵画に吸い取られているように見えるのだ。


 だからこそ紫苑は、あの鳥の絵が生きているかのような錯覚を覚えたのだろう。緋紅から生という感情を注がれ、空虚だった心臓が再び動き出した。


 けれどこの絵は、恐ろしいほど何の感情も宿っていない。更に具体的に言うと、以前の紫苑のようだった。まるで、喜怒哀楽すべての感情を置いてきたまま、空っぽで何も残っていないかのような。


 この絵を描いているときの彼女は、いったいどんな表情で筆を動かしていたのだろう。いったいどんな想いで、この絵を完成させたのだろう。


 家族というわけでもない。友人というのも、少し違和感がある。恋人なんてものは、何よりも彼女が否定するだろう。


 だが、それでも、彼女の絵は……天羽緋紅という存在は、紫苑の心臓を動かし続ける。あれだけ苛烈な憎悪を紫苑へぶつけたというのに、緋紅は……それなのに緋紅は、冷泉紫苑を生かし続ける。


「……緋紅」


 名前を呼ぶ。自らが描いた紅に囲まれた場所で、彼女は紫苑を見ていた。あの日、憎悪で燃えていた瞳が、瞼の裏にひっそりと隠される。


 紅く染まった緋紅の指へ手を伸ばし、無理やり掴んだ。自分のものではない熱が紫苑の皮膚を焦がす。


 ビクリ、と緋紅の肩が大きく跳ねた。振り解かれてしまわないように、指先へ力を込める。


「俺は救われたんだ。お前の絵に、天羽緋紅という人自身に」


 彼女の瞳の奥が、揺れている。紫苑に感じている憎悪も好意も、ありとあらゆる紅の中で緋紅の感情が揺れていた。


「分からない。どうして緋紅が、自分の絵を嫌うのか。どうして緋紅が、俺の音を憎んでるのか。どうして緋紅が、俺にここまで付き合ってくれるのか。あの日の言葉の意味でさえ、きっと……一生、俺は分からないままだ」


 それでも、手は離さない。その熱、その形、その硬さ。そこに滲んだ紅も、それ以外の色も。何一つ逃してしまうことがないよう、半ば縋るように指先を絡める。


「けど、分からなくてもいい」


「……え?」


 仮に、彼女の口から全てが語られたとして、全てを紫苑が理解できるとは限らないのだ。なぜならば、緋紅の経験も、緋紅の感情も、それは彼女だけのものであるから。


 紫苑の経験も、紫苑の感情も、全て紫苑だけのものであるように、他者の全てを理解しようとするのは、あまりにも不躾だ。


『弾きたいのなら、弾けばいいわ』


『誰かが聴くかもしれない。誰も聴かないかもしれない。けれど、別に発表会でもコンクールでもないのよ』


『貴方の好きにして』


 彼女に宿る紫苑への憎悪だって、何かを強制させようとする意思は感じられない。


「なあ、緋紅。もっと、俺を頼って欲しいんだ。緋紅が助けを望んでいないなら、それはそれでいい。けど、お前の葛藤を、軋轢を、なかったことにだけはしたくない」


 だから、紫苑も緋紅へ何かを強いることは出来ない。出来ないけれど、それでももし、叶うのなら。


「今度は、俺がお前を救ってみせる。緋紅が蘇らせてくれた、この心臓に誓って」


 嵐で吹き荒れる夜。リビングから差し込む光の下、静かで意志を宿した紫苑の声だけが響いていた。

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