紫苑と菓子の交わる先は
「ときに、冷泉くん。開催にあたって、必要なものは何かしら?」
「うーん、そうだな……」
おそらく、意味合い的には少し洒落こんだ飲み会、のような認識で間違ってはいないはずだ。
やはり、パジャマパーティーと称されるくらいだから、パジャマだろうか。これはまあ、今の状態でも問題はないだろう。寝間着よりは部屋着と言うのが正しいのかもしれないが、リラックスウェアとしてならば充分に条件は達成出来ている。
仲の良い人という点においては、むしろ親睦を深めることこそ、今回の目標だろう。現時点では、少なくとも彼女の家での宿泊が認められるくらいの信頼値はあると見ていいだろう。
服装とメンバーの要件は問題ない。ならば、その他は……。
「なあ、なんか軽く摘めるようなのってあるか? お菓子とか、ちょっとしたもんでいいんだけど……って、緋紅?」
あまり頼りにはならない記憶を呼び戻している間、そんなにも待たせてしまっていただろうか。
「……え、ええ。食べ物ね、どうだったかしら」
「なんだよ、寝落ちには早いぞ?」
二人しかいないお泊まり会で、家主が早々に眠りに落ちてしまったら、初めて訪れる家に一人取り残された方はどうしろと?
「眠くなっているような暇はないわ、大丈夫よ」
「お、おう……?」
どうにも引っかからざるを得ないような言い回しなのだが。
「なにか摘めるもの、だったかしら?そうね、何かあると思うのだけど……少し待っていてちょうだい」
「……おう」
ソファから離れる背中を見送りながらも、持ち上げたカップに口をつける。何度息を吹きかけてみても、真夏の温かい珈琲は冷めきらずに苦い。
「お待たせ。ついでに珈琲のおかわりを持ってきたのだけど、冷泉くんもどう?」
「ああ。ありがたく貰っとく」
まだ少し残っていた中身を一気に飲み干し、澄ました顔で空のカップを突き出す。出来るだけ平静を装ったのに、どこかに滲むものがあったのかして、受け取った緋紅がくすりと声音を緩ませた。
「ごめんなさい、珈琲は苦手だったかしら」
「いや、珈琲は好き……なんだが、ブラックは苦手で」
「言ってくれれば、持ってきたのに。……そういえば、そんな甘いもの好きな冷泉くんのお気に召しそうなものを見つけたわよ」
緋紅は、七分目あたりまで注いだカップを差し戻し、サイフォンと入れ替わりでカウンターから取り上げた平たい紙箱を、胸の前で掲げてみせる。
「おそらく、冷泉くんが想像していたようなものとは少し系統が違うだろうと思うのだけど……」
彼女はサプライズのプレゼントでもお披露目するように、ゆっくりと恭しい手つきで蓋を開け……いや、ちょっと待て。そのロゴは、まさか。
「……うわ」
思わず間の抜けた声が出てしまったし、ソファから身を乗り出した。そのせいで、危うく受け取った珈琲が大きく波打つ。
まるで宝石のように色とりどりの包みがずらりと並ぶそれは、開店前から並んでも買えるかどうか分からないと言われている老舗高級ブランド『ハニー・ベア』の蜂蜜ショコラアソートである。
白砂糖を使わずに仕上げられたこのチョコレートは、甘味としてハンガリー産アカシアハニーのみが使用されているのが特徴的だ。
「この間、絵の依頼を受けたときに手土産として頂いたの。本来はお断りすべきなのだろうけど、せっかくのご厚意を無下にするのも気が引けてしまって」
「……」
「甘いものは嫌いではないのだけれど、あまり好んで食べることはないの。今日までなかなか開封する機会がなかったから、結果的に取っておいて正解だったかもしれないわね」
「……」
「気軽に摘めるという対象からは外れてしまうかしら?冷泉くんは、よく流行のスイーツの話をしてくれるし、こういうものもきっと好きだと思ったのだけど……」
「……」
「……とても大好きなのだな、ということはよく分かったわ」
まったく、どんなにきらきら夢中の目で見入っていたんだか。
「いいだろ、別に。好きなんだから」
しばし我を忘れてしまったのは不覚だったが、そうお目にかかれるものでもないのだから、この程度の反応は見逃してほしい。
「ええ、お眼鏡に叶ったようで良かったと思って。けれど、数と種類はあまり多くないようね。どうしましょう?」
「いや、俺はそれで十分……」
「あら?なぜかあんなところに、『bon appétit』のフォンダンフロマージュが……」
「……は?」
「あらあら、こっちには『暁月堂』の抹茶ティラミス……」
「おい」
とぼけたような口調で会員制カフェ限定商品を目の前に置いてきた緋紅に、思わず低い声を出してしまった紫苑は悪くない。こいつ、挙げ句の果てに予約一年待ちの超入手困難スイーツまで出してきやがった。
「……この家、甘いもんしかないのかよ?」
「いえ、そうでもないわ。これも貰い物になるけれど、もし必要ならこの機会に」
そう言って、無造作にひょいと出してこられたボトルワイン。ラベルを見ているだけで料金を請求されそうな畏怖に駆られたため、一部のお菓子と共に丁重かつ速やかに戻していただいた。
「緋紅が淹れてくれた美味い珈琲があるから十分だ。ありがとな」
「大したことはしてないわ。こんなにあっても全部は食べきれないし、ほとんどは千草さんに渡して、ご友人に配ってもらってるの」
「ああ……なるほどな」
大学内にて、そういった希少なお菓子を配る千草は、もはや芸術大学の常識とまでなっている。彼の馴染みやすい人柄も理由の一つなのだろうが、あのお菓子の発生源は緋紅だったのか。
なにはともあれ、これで最低限の体裁は整ったことになるのではないか。あとは、進行次第で思いつきを取り入れてもいいし、追加修正は後から加えていくとして。
ゆったりと寛げる空間に、だらりと伸ばす身を程よい弾力で受けとめてくれるソファ。至高の風味を誇るショコラスイーツや、芳醇な芳香で魅せる珈琲。
のんびりと穏やかに安らいで過ごす、至福のひととき。
「なんていうか……すげえ贅沢だな」
「そう、かしら?」
どうやら、家主にはいまいち実感がわかないらしい。こてんと軽く首を傾けて、むしろ少し気がかりそうに表情を曇らせる。
「なにしろ、急なことだったから。あまりもてなすことも出来なくて、私としては心苦しいのだけど……」
すでに充分すぎるこの至れり尽くせりも、恐るべきことに緋紅にとっては納得出来ていないようだ。
「そういえばさ、あの扉の奥って何かあるのか?」
もともと座っていた位置からだと見えなかったリビングの奥側。カーテンがかかっているので、バルコニーか何かに通じているのかと思ったが、覆われきれていない端から覗くのは、扉のようなものだった。
「ああ、あの扉のことね。あれは……」
緋紅はグラスをテーブルに置き、紫苑が示す方へ歩み寄った。彼女にとっては特に隠すようなものでもないらしく、勿体ぶるでもなくカーテンを引き、ドアを開け放つ。
「見て面白いものでもないと思うけど。気になるのなら、どうぞ」
手招かれるままソファを降り、ぱすんとスリッパの音を鳴らしながら謎の別室の入り口に立つ。そこにはあったのは、嵐の夜景……なんてことはなく。
「……絵?」
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