紫苑と連絡の交わる先は


 よく考えてみれば、これまでも少しの違和感はあったのだ。


 彼女が普段身に着けている服や装飾品、先程の車でさえも。どことなく、素人目から見ても質の良いものだという感想を抱いた。


 紫苑だって世界中で活躍するピアニスト・冷泉桔梗の息子だという自覚はあり、紫苑が幼い頃に病気で他界した父の影響もあってか、二人で暮らすには十分すぎるほど広い家に住んでいるのだが。


「まじかよ……?」


 嘆息に乗せて深く抜きこぼす感想が、我が耳にもどこか空々しく遠い。緋紅の先導で通ってきたエントランスから部屋の前に至るまで、辿った道中を思い返して眩暈が起きそうになる。


 度を越したセレブリティは善良な価値観をぶち壊す凶器となり得ることを、紫苑は初めて知った。全身を七割ぐらいまで映す大きな鏡から見返してくる紫苑が、今度は浅めの嘆息を重ねている。


 髪はいくつかの不揃いな塊になってだらりと垂れ下がり、服に至っては完全に肌に張りついている。


 これで熱を出すとは考えすぎだろうが、この服が今もなお紫苑の体温を奪い続けているのは確かだ。彼女に聞き咎められでもしたら、いよいよ強制的に湯船へぶち込まれかねない。


「冷泉くん」


「あっ、はい」


 まさに身構えたところへのノック音と呼び声で、咄嗟に若干畏まった返事が出た。緋紅はそんな言葉も気に留めず、閉まったままの扉越しに言葉を続ける。


「着替えを用意してきたの。バスタオルと一緒に、棚のところに置いておくから」


 今、渡してくれてもいいのだが、彼女なりの礼儀に基づく規則が何かしらあるのだろう。まあ、確かに紫苑が服を脱いでいる途中などであれば、気まずいどころの空気ではなくなるのだろうが。


「脱いだ服は、後で洗濯と乾燥にかけておくから……ああ、もちろん、冷泉くんが嫌じゃなければ、だけど」


「いや、助かる。悪いな、手間かけてばっかりで」


「この程度、手間のうちにも入らないわ。……どうしても気になると言うのなら、一刻も早くお風呂で温まってきてほしいわね」


 顔が見えないせいか、普段は抑揚に乏しく微妙に読みづらくもある声色が、少しだけ分かりやすいような気がする。


「あるものは全て好きに使ってもらって構わないわ。ごゆっくりどうぞ」


 その言葉を最後に、スリッパの擦れる音が段々と遠ざかっていった。






「おかえりなさい、冷泉くん」


「おう、ただいま」


 風呂上がりの相手を迎えるのに適切な言葉かはさておき、返すべき言葉が決まっている、という意味では助かったことになるかもしれない。


 リビングに踏み入っての第一声、実はちょっと悩むところでもあったので。温度も湿度も共に完璧、広々と開放的な寛ぎ空間。 随分と出来すぎた景色の中、紫苑にとっては唯一の現実たる緋紅が、ゆったりと腰かけるソファから微笑みを向けてくる。


「着心地は問題ないかしら?」


「まあ、そうだけど……」


 ここまでの流れからして、世界的高級ブランドのバスローブなんて代物をしれっと出されかねない危惧はあったのだが、用意されていたのは我が家でも常用している国内アパレルメーカーの無地スウェット一式。


 こういうものも着るのかと安心しつつも意外には感じ、ありがたくお借りしてはみたものの。


「少し……大きい、かも」


 踏みつけて転ぶよりは、と何重か折り返した裾。ささやかな抵抗感を残したせいで、手首から肘あたりまでもったり余って弛みがちの袖。


 どうにも誤魔化しようがなく肩幅が足りずに、いかにもだるっと緩そうにだぼついた首周り。みっともない箇所を一つずつ、確かめるように追う視線が居た堪れない。


「ごめんなさい。以前、千草さんが泊まったときに、予備で置いていったものをお借りしたの。……また今度、私の方からお礼の品でも贈っておくわ」


「ああ、あいつのサイズなのか……千草よりも小さくて、悪かったな」


「そ、そんなことは」


 ぶすくれた自嘲は半分くらい軽口程度のものだったのに、気分を害したと捉えたのか、真面目な緋紅は珍しく焦ったように視線を泳がせる。


「似合っているから、いいんじゃないかしら」


「お気遣いどうも。俺のことはいいから、緋紅も風呂行ってこいよ。お前も濡れてるんだから、風邪引くだろ」


 紫苑がシャワーを借りている間に、緋紅は見慣れたラフな私服に着替えているが、彼女だって、もちろん早めに身体を温めるべきだろう。


「それもそうね。珈琲を淹れたから、苦手じゃなければどうぞ。行ってきます」


「おう、ごゆっくり」


 家主に言うのも何だか変な気がするが、先程と同じ言葉を返して送り出した。


 大量の水を吸ったカバンは、服と一緒に乾かしてもらうため預けてあるが、救出された中身はタオルの上に並べられている。


 スマホの画面ロックを解除し、どうやら水没は免れたらしいことに安堵しつつもメッセージアプリを開く。


「……なんだこれ」


 アイコンの上角に引っかかっている数字、通知を知らせるバッジは58と表示されていた。内訳は母親と千草から、安否を問うものがひとつずつ。その他の送り主はもちろん。


「いや、荒ぶりすぎだろ」


 まずは二人に何事もなかったことを送信してから、意を決して問題のトークルームを開いてみた。最初はまだ大人しく、紫苑の送ったメッセージへの返事から始まる。


『分かったわ。少し残念だけれど、仕方がないわね』


『これから、こちらに来るの?こんな雨の中だし、まだ家に居るのなら、少し待っていてもらえれば迎えに行くわよ』


 こちらからの返信を待っていると思しき間が約15分。


『移動中かしら?もう出た後なら、さっきの提案は気にしないで』


『落ち着いたら、一言でもいいから連絡してほしいわ』


 冷静そうなのはここまでで、以降は文面が明らかに余裕がなくなっている。返事どころか既読すらつかないことに、じわじわ不安が募り始めたらしい。


『もう駅には着いた?』


『まだ雨は降ってないようなら、良いのだけど』


『しつこくして悪いけれど、なんでもないなら連絡がほしい』


『今から向かうわ、これを見たらその場を動かずに連絡しなさい』


『いまどこ』


 その後はテキストを打つ間すら惜しんだのか、音声着信の通知が一分と置かずに何件も続いている。その頃こちらはまさに嵐の真っ只中、もちろんスマホなど取り出せるわけもなく、繋がらないままのアラートだけがいくつも並ぶ画面には如実な焦燥が満ち満ちていて。


「……すっげえ必死じゃん」


 一歩間違えれば引かれてもおかしくない重めの出来事に、申し訳なく思いつつも少し笑ってしまって。すぐにもっと強く押し寄せてきた感情で、胸の奥が詰まって酷く苦しくなった。


 指先で辿るそれは無機質なフォントの文字列でしかなくて、けれど確かに切実な想いが込められているのが分かる。そう、いつも素っ気ない言葉を返す彼女とは思えないくらいの。


「冷泉くん、ただいま。待たせてしまってごめんなさい」


 さほど時間をかけずに戻ってきた緋紅はキッチンのほうへ向かったらしい。紫苑は顔を上げられないまま音だけ聞いてぼんやり待つ。


「……なあ、緋紅」


「なにかしら?」


 届かないならそれでいいと小さく忍ばせた声だったのに、彼女はなんでもないようにきちんと受け取ってくれる。


「なんで……わざわざ来たんだよ」


 溢れそうになる熱を無理に押し込めたせいで、意図せず非難するような響きになったが、その気持ちも全くないわけでもない。自身は嵐の中を生身で突っ走っておきながら、言えた義理ではないが、だからといって、車であったら絶対に安全なんてこともないのだ。


「こんな天候じゃ、冷泉くんは来れないかもしれないって思ってたのよ。珍しく筆が進まなかったからスマートフォンを開いてみれば、電車が動いてるから来るって貴方が言うし。なのに、こちらが連絡しても一向に既読にならないし、杞憂で済めばそれでいいと思って」


 もしかしたらの予感だけで、大学や駅の道を辿っていって、そして。


「酷い雨の中、ずぶ濡れの冷泉くんを、見つけた、ときは……」


 語るほど苦しげに掠れていく声は、末尾まで紡ぎきることなく、かすかに震える余韻だけを残してそのまま消えた。


 そんなのこっちだってもう聞けない、とても聞いていられない。視界も呼吸も、容赦なく奪わんと荒れ狂う豪雨と暴風の中。掻き消されず、押し流されず、一音たりとも欠けることなく、紫苑へ真っ直ぐと届いた声。


 深いところに刺さったままのその想いを、罪悪感に痛むばかりではない胸の奥で、強く噛み締める。


「……緋紅」


 返したい、と、思った。怜悧で、冷静で、理知的で、そんな見た目の印象よりずっと、穏和で、寛容で、ちょっと天然で。意外に心配性で世話焼き屋で情深くて、あと高所恐怖症で、不意に泣かされそうになるくらい優しい、こいつに。


「心配かけて、不安にさせて、本当にごめん。……まさか、来てくれるなんて、思ってなくて」

 驚いたのは本当。助かったのも嘘じゃない。だけどもっと、素直な心は。


「迎えに来てくれて、嬉しかった」


 あの瞬間だけは、雨とか風とか、どうでもよくて。ああ、会えたって……それだけだったから。


「そんなふうに思ってもらえたのなら、私の方こそ嬉しいわ」


「そうか。……なんか、新鮮だな」


 脈絡のない言葉に小首を傾げる緋紅は、自分と同じシンプルなスウェット姿。紫苑はライトベージュ、緋紅はダークグレー、全体的にルーズなシルエットは共通している。


「俺、初めてかも。こういう……お揃い、みたいなの」


「……!?」


 そんな、音がしそうなくらい息を飲んで目まで見開かれるほど、衝撃的な発言ではなかったはずだ。緋紅は動揺も露わに、早まった瞬きで長い睫毛を震わせる。


「友人同士で、夜間誰かの部屋に集まるようなことを、パジャマパーティー、と言うのでしょう? そういうときには、お揃いやお気に入りの寝間着を用意して、気楽に寛いで過ごすものだと……」


 どこからどういった経緯で仕入れてきたのか知らないが、それは。


「……ふ」


「私はあまり、誰かを家に招くというような経験がなくて」


「……ふはっ、ははは!」


「えっ、れ、冷泉くん……?」


 なんかワタワタしてる。ものすごくオロオロしてる。混乱も困惑もさせまくっているのはとてもよく分かる。分かるけれど、ツボに入った笑いは止まらない。


「あははは!なんだよそれ、色違いのお揃いでパジャマパーティー!?ははは……!」


 なにがそれほど笑われているのか、確実に何一つ理解できていない張本人の途方に暮れた顔がまた、より一層追加効果を誘発してくる。


「そういうとこ、お前って」


 おかしい、面白い、飽きない、全部正解なのにどれもなんだかしっくりこなくて。今このタイミングで一番ぴったりなのは。


「可愛いよな」


「……ふぇ」


 人が赤面していく過程を秒単位で見守るというのも、人生でなかなか味わえない体験ではないだろうか。もういくつ見つけたことになるんだろう、こいつの思いがけない一面を。


「いいぜ。じゃあ、やるか」


「え、な、なにを」


「パジャマパーティー、したいんだろ? 食べ物とかをたくさん並べてさ、適当にだらだらと喋ったりするんだよ」


 車のシートを散々濡らして、部屋にも上げてもらって、お風呂を使わせてもらって、着替えも貸してもらって、おまけにホットドリンクのサービスまで。


 いくらなんでもこれ以上の迷惑はかけられない。服の乾燥が終わ

り次第、速やかにタクシーでも何でも使ってお暇するつもり、だったのだが。


「泊まっていって、いいんだよな?」


 予定変更。ここまでかけてしまった迷惑なら、下手な遠慮はすっぱり抜いて、いっそのことかけ尽くしてしまえ。何よりも、緋紅が、そうしてほしいと望んでくれているのなら。


「ええ、もちろん。たくさんお話しましょうね」


 まだ朱の散る頬を指先で擦って、とても嬉しそうに、彼女は笑った。

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