紫苑と台風の交わる先は


 そんなことがあった次の日。その横断歩道の信号が変わるのを待つ間、現在の時刻を確認しようと紫苑が取り出したスマホの画面に、雨がぽつりと一滴落ちてきた。間に合わなかったか、せめて駅までは待って欲しかった。


 気楽な願いがそう簡単に通じるわけもないのだが、自然現象にとって、ちっぽけな人間ごときの些末な気持ちなど、解する義務も価値もないらしい。


「あー、もう、邪魔……!」


 荒れ狂う暴風雨によって折れて曲がった傘を、びしょ濡れのカバンと一緒に抱え込んだ。


 水を吸った布を通り越して、もはや水そのものを無理やり着せられているような感覚。じっとりと肌にへばりつく服が重たくて冷たくて、悪寒と不快感に身震いする。


 ただ目を開けていることすら苦行になる劣悪な視界の中、なんとか見留めた次の信号の色は、無情なる赤。なんとなく裏切られたような気分になって、足を止めた。


 少しでも早く屋根と壁のあるところへと、ここまで走ってきたが、現時点でこれだけの惨状を晒してしまっているのだ。駅への到着が少しばかり早まろうが遅れようが、どちらにしても大した意味はないだろう。


 こちらが白旗を上げたところで手心を加えてくれるわけもなく、変わらず容赦ない雨風を開き直りの無抵抗で全身に浴びる。


 車も人も、少なくとも見渡せる範囲内に、自分以外の動くものはなにもない。甚大な規模の台風が直撃すると警告が出ていたのだから、危機感があればこんな豪雨の中を出歩いたりしないだろう。


 例外があるとするなら、緊急要件に携わる職種か、傍迷惑な命知らずか、よっぽど譲りがたい個人的な事情、とか。


「……電車、止まってなかったらいいんだけどな」


 家を出る段階で運休の路線はなかったはずだが、まさに暴風域内と思われる今となってはどうなっているか分からない。確認しようにも、いくら防水仕様とはいえ、この場でスマホを取り出すのは無謀だった。


『悪い、もしかしたら今日は台風で行けないかもしれねえ』


『電車は動いてるみたいだから、今からそっちに向かう』


 数分前に自宅から送ったそのたった二行が形作る言葉はどこまでも素っ気なくて、断ち切れずにいる未練の欠片も乗せられなかった。


「……たぶん、楽しみにしてくれてたんだよな」


 昨日の帰りに、緋紅が何気なく口にした今日の予定。もしかしたら、紫苑が来るかもしれない、と期待してくれていたのだろうか。紫苑が『紅焔の死域』を訪れることが当たり前になってきて、彼女もまた、当たり前に紫苑を待ってくれているのだとしたら。


 ほんの一瞬でも身のうちが温まったような気がして、気合いを入れ直す。ひとまずどうにか帰宅して、真っ先に風呂場に飛び込もう。時間的に問題がなければ、すぐに着替えて、車で大学まで行ってみよう。


 様々な代案を検討しつつも、少しは前向きになった気分で足を踏み出し……最初の一歩で止めた。


「冷泉くん!」


「………は?」


 ほんの数秒前、自分の声さえも掻き消されるほどの豪雨の中、彼女の声をこんなにはっきり聞き取れるわけがない。いや、そもそもの大前提として、ここにいるはずがない……のに。


「冷泉くん! よかった、無事で」


 路肩に停まる見慣れない車から、緋紅が飛び出してくる。視界も体温も即座に奪おうとする嵐の中へ、何の躊躇もなく。


「……ひ、緋紅?どうしてここに……?」


「どうしてって、それはこっちの台詞なのだけど!」


 一帯を埋める水溜まりさえも踏み分けずに紫苑のもとへ駆け寄り、酷く切迫した様子で腕を掴まれた。雨水に晒されて冷えた肌に、温もりが染みていく。


「こんな状況で外に出るなんて、いったいなにを……!いえ、話はあとね。とにかくまずは、雨風を凌げる場所に行くわよ。早く、車に乗ってちょうだい」


「いったいどこに……って、いやいや、それは駄目だろ!」


 突然の状況についていけなくて竦んでいた意識が、助手席の前まで引き摺られたことで、ようやくもとに戻る。


 もしかしなくとも、濡れていないところが残っていないほどに見るも無惨なこの有様で、緋紅は彼女の車に乗れと言っているのか。


「絶対に無理だからな!?こんな状態で乗れば、お前の車が……」


「そんなこと気にしている場合じゃないでしょう!?そもそも、私がもう既に同じような状態なのに、その遠慮に意味はあるの!?」


「それは……」


 極めて的確な指摘を食らってしまい、早くも敗色を悟って言葉が詰まる。たった短時間だったとしても、確かに緋紅も無事とは言えない。


「納得できたなら行きましょう。これ以上の長居は無用よ」


「いや、何も出来てねえよ!緋紅は持ち主だからいいとして、俺がそこまで迷惑かけるとか、そんなの……」


「……迷惑?……私が、貴方を?」


 あらゆる音が発するそばから吸われる中、低く耳元を這い撫でるようなその呟きが近い。引き倒さんばかりの力で反対側の腕も捕らわれて、重く垂れた前髪越しの双眸に縛られる。


「仮にこのままここで別れるとして、嵐の中送り出した貴方が無事に自宅まで辿り着けるのか、運良く無事に帰宅できたとしてもこんな状態で体調を崩したりしていないか、そういった心配を延々と繰り返して私は夜も眠れないほど心身共に負荷をかけることになるわけなのだけれど、その辺りは冷泉くんの言うところの迷惑には入らないのね?」


 この威圧に、抗う術があるだろうか。

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