紫苑と洋琴の交わる先は
「冷泉くん、ごめんなさい。止まってしまってばかりで……」
「いや、気にすんな。次のコーナー、行くか?」
人が絶え間なく行き交う休日の土曜日、紫苑と緋紅は都内のある水族館に来ていた。そう尋ねた紫苑の言葉に、緋紅は小さく頷く。
館内が家族連れやカップルで溢れかえる中、どうしてこんなところに紫苑達がいるのかというと、それの話は先週まで遡る。
「来週の土曜日、空いてるか?」
紫苑が『紅焔の死域』に居着くようになってから、数ヶ月が過ぎた。緋紅は、まだ乾いていない絵に触れないこと以外、紫苑に何かを強いたことはない。紫苑がピアノを弾くことについて、『紅焔の死域』に出入りすることについても、彼女は何も言わなかった。
「水族館のチケット、持ってるんだよ。緋紅さえ良ければ、一緒に……」
「これまで何度か誘ってくれているけれど、私はそんなに暇じゃないわ」
普段は口数が少ないことで有名な緋紅だが、紫苑と話すときはそうでもないため、少しずつ心を開いてくれていたりするのではないかと思っている。
「俺とのデートよりも大事な用があんのか?」
「貴方の恋人になった覚えはないのだけれど。どちらかが相手を完全な友人として認識している場合は、デートではないということをご存知かしら?」
紫苑のくだらない冗談にも、無視することなく付き合ってくれる。まあ、戯けて言った言葉なのに、こんなに真面目に返されては、紫苑自身も呆れるしかないが。
「一緒に行く予定だった千草が、急に体調崩したんだよ。キャンセルするわけにもいかないだろ?」
「冷泉くんが他のご友人を誘えばいい話じゃない」
どこか冷たい感じのする澄んだ声。彼女の言葉は正論だと思うが、残念ながら、紫苑には友人と呼べるほどの存在がほとんどいない。
「生憎、俺には千草ほど人脈が広くないんだよ。そもそも、千草がお前を誘えって言ったから……」
「空いてるわよ」
「……は?」
「来週の土曜日よね?特に予定はないわ」
「いや、お前さっき、暇じゃないって」
「たった今、暇になったわ」
千草の名前を出した途端に行く気を見せた緋紅に、紫苑は疑問の表情を浮かべる。
そういえば、紫苑が彼女を知るきっかけとなったあの定期演奏会に緋紅を連れてきたのは、千草だったはずだ。千草とは高校時代からの付き合いだが、彼女の話は聞いたことがない。
千草と緋紅は、いったいどんな関係なのだろうか。
「……どういう風の吹き回しだよ?」
「千草さんが私を誘うように言ったのでしょう?なら、行くわ」
この時のことを思い出し、紫苑は小さなため息をついた。
水族館に入館してから、かれこれ一時間が経つ。そこまで小さい水族館というわけでもないが、それでも、驚くほどゆったりとした歩調で紫苑達は進んでいた。
原因は、今、なにやら薄っぺらい魚が悠々と泳いでいるのをじっくりと見つめている緋紅である。水槽の一つ一つをじっくり見るのは勿論、壁や表示に書かれた解説を全て読んで回っているのだ。
普段ならやきもきしてしまうところなのだが、まるで宝物でも見るように瞳を輝かせている彼女を見ると、先を急ごうとしている自分が馬鹿馬鹿しく思えた。
薄暗く、青い道を歩く。館内は、生き物のためなのか少し肌寒いくらいで、その冷たさが余計に海の中を思わせた。
「これは……」
天井に揺れる水の影をぼんやり眺めながら歩いていると、そんな呟きが聞こえてくる。隣を見れば、既に緋紅はそこにおらず、紫苑の歩いている道の奥にある大きな水槽に張り付いている様子が見られた。
紫苑は軽く息をつき、後ろに目を滑らせる。設置されているベンチが視界に入り、そこに腰掛けた。ずっと立ちっぱなしで、流石に少し疲れたのだ。
後ろに背を預けながら、目の前に広がる大きな水槽を見遣る。
そこでは、色とりどりの熱帯魚が不規則に泳ぎ回っていた。大きなものから小さいものまで、名前の分からない魚達が縦横無尽に飛び交っている。
紫苑は何だかんだ群れになって、眩しく光を反射するイワシたちが一番綺麗だと思った。
思えば水族館なんて、思い出せないほど昔に行ったっきりだ。千草がチケットを取ってくれなければ、そのまま遠い経験となっていたのだろう。
柄にも無くはしゃいでいる緋紅を見て、何となく深海が似合う奴だと思った。この表現が合っているのかは分からないが。涼しげな照明や静かな魚達、特にクラゲなんかがしっくりくる。絵になるというやつだ。艷やかに揺れる黒髪のせいだろうか。
一方、その深海の似合う彼女は、少し屈んで水槽を凝視し、何やら固まっている所だった。まさか体調でも優れないのだろうかと思い、紫苑はベンチから腰を上げる。
「……緋紅?」
そう呼びかけつつ、そこから動かない彼女に近付く。
足元から胸の辺りまで、壁を丸く切り抜いたように設置されている水槽。そのガラスは半球を描いて水中に突き出す形になっていた。まるで、遮蔽物がそこに存在しないかのように錯覚させるような、水族館でよく見る構造だ。
もしかすると、彼女はそれを知らないのだろうか。どうやら、真後ろにいる紫苑にも気付いていないようだ。この状況に少しの悪戯心が芽生えた紫苑は、中腰になっている緋紅の背中を軽く押す。
「……っ!」
途端、彼女は慌てたように踏み止まり、その反動で後方によろめいてしまっていた。紫苑はその背中を支える。危うく頭をぶつけてしまうところだったが、緋紅の反応からして怪我はないようだ。
「ちょっと、冷泉くん!」
焦ったように、もしくは怒ったように、彼女は物凄い勢いでこちらを振り返ってくる。その様子が可笑しくて、つい笑いを零してしまう。すると、緋紅は無言で軽く肩を叩いてくる。伏せ気味の横顔からも相当焦っているのが窺えた。
「悪かったって。ほら、触ってみろよ」
彼女の目の前でしゃがみこみ、右手をガラスに触れさせてみせる。緋紅は恐る恐る手を伸ばし、綺麗に磨かれたガラスに触れた。彼女の口からそっと息が吐き出されるのを見て、紫苑も心なしか安堵する。
そのままふっと水槽を覗き込んで、もしかして、と考える。
「お前って、高所恐怖症なの?」
「……え、ええ。まあ、そうね」
例の如く種類の分からない、様々な魚が泳いでいるその水槽は、かなり底が深いものだった。恐らく下の階からも覗けるようになっているのだろう。
透明な水に、よく見渡せる眼下。触れられないガラス。
緋紅にとってそれは、高い所にいるのと同じような感覚だったのかもしれない。だとしたら、悪いことをしてしまった。
「行きましょう」
そんなことを思い、少し反省していると、彼女は立ち上がり、普段の調子で言葉を紡いだ。まだ怒っているわけではないようだ。
「ああ、そうだな。次はどこに……」
「冷泉くん」
そう口を開いた紫苑の声を、緋紅が遮った。どうしたのかと彼女を振り返れば、視界の隅にピアノが入る。弾いてほしい、ということなのだろうかと思案していると、彼女はその後ろにある水槽を指差した。
「私はあの水槽を見ているから、疲れたのならしばらく座っていたら?」
促されるまま、ピアノ椅子に腰を下ろす。そっと鍵盤蓋を開けると、時代を感じる匂いがした。
「なにか、演奏した方がいいか?」
「弾きたいのなら、弾けばいいわ」
そう言いながら、緋紅は水槽を眺めている。
「誰かが聴くかもしれない。誰も聴かないかもしれない。けれど、別に発表会でもコンクールでもないのよ。貴方の好きにして」
好きに、とは何だろう。ピアノは好きではないのだ。そして、嫌いでもない。ピアノ以外も、そうだ。彼女の描く絵以外、これといって好きなものはなく、嫌いなものも存在しない。
水槽に向けられていた視線が、こちらへ向けられる。まるで睨まれているかのような鋭い眼光に捕らわれるたび、心臓に紅が流れ込み、じんわりとした痛みを増長させていく。
「……ああ」
紫苑に、自主性はなかった。個としての意思も感情も、必要なかった。求められなかった。……そもそも、存在していなかった。
鍵盤に指を置き、澄んだ音を重ねていく。
あの日、緋紅の絵に出会ってから、動き出した心臓。紅に染まったそこが、ドクドクと大きな音を立てた。攪拌された感情の欠片が、紅によって形を取り戻し、音で溢れていく。
紫苑は、この曲を人前で演奏したことはなかった。ただこの曲は母がよく弾いていた曲で、昔はそれを録音し、何度も何度も聞いていた。
「そうだ」
幼い頃の紫苑は母の奏でるこの曲が好きだった。好きだったから、何度も聞いた。好きだったから、母に向いていないと言われても、こっそり練習を重ねていた。
だから、紫苑は曲名を知らない。この曲の、『最適解』でさえも。それでも、弾き続ける。この心臓を動かした紅、それに揺り起こされた感情を込めて。
「そうだったんだな」
誰に弾けと言われたわけでもない。緋紅以外、誰が聞いているわけでもない。それなのに、それを理解しているのに、紫苑は音を鳴らし続ける。本能のままに、音楽を奏で続ける。
「俺は、ピアノが……クラシックが、好きだった」
ああ……ピアノを弾くことは、こんなにも楽しかったのか。
クラシックから逃げ出す直前にこの曲を弾いたときと、同じ幸福感が全身を満たしていく。すべて弾き終えると同時に、大きな歓声が湧き上がった。
いつの間にか乱れていた呼吸を整えながら、顔を上げる。緋紅以外誰もいなかったはずの演奏会に、ピアノを囲むように人が集まっていた。
「冷泉くん」
ハッとしたように後ろを向き、彼女の姿を捉える。水槽を眺めていた緋紅はゆったりとした動きでこちらを振り返った。彼女は、嬉しそうな笑みを浮かべている。
「悪くない音だったわ」
未だに続く拍手の中、緋紅の声が鼓膜を掠めた。ずっと静かだった心臓が、走ったばかりのようにドクドクと音を鳴らしている。
「ほ、本当か!?つまらなく……もなかったか!?」
「ええ。私は好きよ、貴方の今の音」
そう言って微笑む彼女の姿に、紫苑は安堵のため息をついた。興奮のあまり呂律が回らない口で、そのまま言葉を紡ごうとしたが、それはやけに甲高い声に遮られる。
「冷泉くん!」
その音の発生源へ視線を投げかけると、そこには数人の女性が立っていた。その顔に見覚えはなく、紫苑は困惑の表情を浮かべる。緋紅の知り合いかもしれないと彼女の方を見るが、紫苑と同じような表情を浮かべているため、そういうわけでもなさそうだ。
「やっぱり冷泉くんだ!ピアノの音が聞こえたから来てみたら、知り合いだったからびっくりしちゃった。私のこと、覚えてる?同じ大学の音楽学科なんだけど。高校生のときも、同じクラスだったよね。ほら、こっちの子も!」
「こんにちは、冷泉くん!久しぶりにお話したいなって思ってたんだ〜。そうだ、このあと一緒にご飯でも……って、あれ?もしかして、天羽さん?」
捲し立てるように話していた彼女達は、ようやく緋紅の存在に気がついたらしい。緋紅へにこやかに笑いかける彼女たちの瞳は、その表情とは裏腹にギラギラと燃えている。
「悪い、今は緋紅と話がしたいから……また今度でもいいか?」
「ああ……へえ、二人ってそういう関係なんだ」
「また話そうね、冷泉くん。じゃあ、ばいばい!」
警戒しているように微笑む紫苑に対して、それを悟ったのかは分からないが、彼女達はあっさりと食い下がった。
「おう。緋紅、向こうでペンギンのパレードが始まるらしいぜ」
彼女の言った、『そういう関係』というものに見られているのだとしても紫苑は構わないが、緋紅は気にしてしまうかもしれない。
「あら、そうなの。……じゃあ、行きましょうか」
こっそりと緋紅を盗み見ると、彼女は複雑そうな表情を浮かべていた。
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