紅焔と紫苑の交わる先は
「わざわざこんなところまで、いったい何しに来たの?」
華奢で綺麗な彼女の爪には、紅が染み付いている。細い指先が、繊細な動きで器用にナイフを動かしていた。鋭利な鉛筆の先を滑るたび、微かに木の香りが滲む。
大きな作業机の向かい側に座る彼女は、こちらに視線も寄越さないまま、そう口にした。
「『紅玉の姫君』と、話をしに来た」
「……あら、そう」
私から話すことは何もないのだけれど、と。淡々としていて、こちらに興味などなさそうな呟き声が聞こえてきた。紫苑が返す言葉を探しているうちに、音もなく会話は途切れてしまい、室内は再び静寂で満たされてしまう。
「『紅焔の死域』とやらに、来てみたかったっていうのもある」
「ただ、絵画と画材が散らばっているだけのアトリエよ」
「そうか?絵のことは詳しくねえけど……なんか、優しく首絞められてるみたいな、緩やかに死んでいくような感じがする」
そう言って、紫苑は壁に立て掛けられた緋紅の絵を眺めた。
紅玉の姫君。その才能はあまりに絶大だ。見るものを圧倒させるような力を持っているからこそ、ここに満ちる紅に殺されてしまいそうな錯覚を起こす。
「首に、枷が嵌められてるっつーか」
大きく骨張った紫苑の手が、自身の首元を撫でる。
彼女の絵が展覧会に並べば、きっと、瞬く間にその場にいた人すべての視線を奪い、他の絵が霞んでしまうほど、何もかもを捻じ伏せてしまうような輝きを放つのだろう。
クラシックの道を歩んでいる自分でさえも彼女の才能には畏怖の念を持つものがあるのだから、この瞭然たる実力の差を目の当たりにした美術学科の生徒たちはどう思うのだろうか。
「お前は、苦しくならねえの?」
紅と静謐の中、そこに存在ごと溶け込んでいくかのような感覚。いったい誰が言い出したのか分からないが、『紅焔の死域』という言葉は言い得て妙だと思った。
「……別に、苦しくなんてないわよ」
緋紅の声が、感情の波に揺れる。
「私は、私の絵が嫌い。_____冷泉くんの音もね」
いつの間にか紫苑へ背を向けていた彼女は、パレットから紅を掬い取った。そして、嫌いだ、と口にしたばかりだというのに。
「でも、才能があるから、私は絵を描き続けなくちゃいけない。誰かが必死に積み上げてきた努力を、才能という言葉一つで覆せるというのなら、その才能を駆使することはその者の務めなの」
筆を握った指先は一瞬の迷いすらなく、キャンバスに紅を重ねる。緋紅の瞳には、果ての無い暗闇が、まるで深海の様に揺れていた。
「ははっ!もしかして、お前も呪われてんのか?」
言いようのない笑いが込み上げてきて、再び乾いた笑みをこぼす。仮にもそうなのであれば、先ほどの感覚にも納得がいく。彼女もまた、芸術の道に囚われているのだとしたら。
「美術学科の奴らに聞いたぜ、有名画家の娘さんなんだってな。その様子だと、父親に首輪をつけられて自由にさせてもらえなかったのか?」
「……何が言いたいのかよく分からないけれど、残念ながら、私は冷泉くんとは違うわよ。つまらない音しか鳴らせない、貴方とはね」
だが、そんな紫苑の思考を遮るかのように、緋紅は無愛想に言い捨てる。これ以上ないほどの冷ややかな声だった。
「むしろ、枷を嵌められて自由にさせてもらえなかったのは、貴方の方なんじゃないの?観客に『紫の公爵』を偶像として崇められて、冷泉桔梗の息子としてしか見てもらえなかった。違う?」
「否定はしねえよ。自分のことなんて、もうどうでもいい」
鍵盤の上でただ淡々と『最適解』だけを追い求める日々。
まるで、自分が透明になったかのようだった。身体が、段々と溶け出していく。少しずつ、少しずつ、爪の先からゆっくりと。紫苑の存在ごと……紫苑の心臓ごと、溶かされていく。
最初から何もなかったと、最初から何も持っていなかったと、そう紫苑に突きつけるかのように、色調も、輪郭も、感性も、紫苑の中から溶け出して、消えていく。
「俺が死んでも、残るものなんてどうせ何もない」
紫苑が持っているものは、クラシックくらいだ。それがなければ、もう何も残らない……けど、クラシックはそうじゃない。
紫苑が消えたとしても、死んだとしても、たとえ元から存在しなかったとしても。過去は唯一であって、クラシックの価値が損なわれることはない。楽曲の背景も、演奏の最適解も、永遠に変わることはないのだ。
「ずっと、そう思ってたんだ」
死んでしまいたいと願ったことはない。かといって、生きていたいという強い意志もない。だから、自死という選択肢は浮かんだことはなかった。けれど、もしも自分がある日事故的に死んでしまったとしても、特に思い残すことはないし、後悔も憎悪も何も湧くことはないだろう。
「お前の絵を見るまでは、な」
空っぽだった心臓へ、突如溢れんばかりに注ぎこまれた紅。その色が紫苑の鼓動を加速させ、静寂を掻き消した。
どれだけ息を吐き出しても、その紅は吐き出すことができない。息を吸おうとしても、その紅しか飲み込むことができない。それが、息苦しくて、息苦しくて。
生きたいなんて、今までそんな意志を持ったことはなかった。それは今も変わらない。変わらないはずなのに、紅の中で必死に藻掻いてしまう。往生際悪く、何度も何度も、まるで死にたくないと言わんばかりに。
「惚れたんだ。緋紅の絵にも、それを描く緋紅自身にも」
キャンバスの紅を映した緋紅の瞳が、大きく見開かれる。
藻掻いて、藻掻いて、吐き出す息もなくなり、全身が紅で満ちる。彼女の色を、優しいとは思わなかった。だが、かといって、厳しいと感じたわけでもなかった。
「お前がどれだけ自分の絵を嫌っていたとしても、お前の絵が俺を生かしてくれたことだけは忘れんな」
挑むような鋭い光を眼に宿した紫苑は、一気に緋紅との距離を詰める。後退りする彼女の背後の壁に手をつき、その顔を覗き込んだ。
「もう二度と、つまらない音だなんて言わせねえよ」
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