紫苑と朱雀の交わる先は
その翌日、紫苑は大学の旧校舎に来ていた。新校舎より古い造りではあるし、ところどころ時代を感じさせる部分はある。しかし、旧校舎という言葉の割には綺麗な建物だと思った。
『天羽緋紅?……ああ、『紅玉の姫君』のことね』
『コンクールでは最優秀賞が当たり前。最近は落ち着いてきたけど、一時期はコンクール荒らしって呼よばれてた』
『絵画専攻の二年なんだけど、その親も有名な画家でさ。やっぱり、血は争えないよね〜』
『あの子が学内でアトリエとして使ってる場所、それが『紅焔の死域』。理由は知らないけど、紅い絵ばっかり描いてるからね。勝手に占領してるけど、その分結果出してるから大学側も黙認してるって感じ』
『人当たりは悪くないんだけど、なんか避けられてるっていうか。あんまり人付き合いが得意じゃないのかもね』
千草が口にした、天羽緋紅という名前。大学の他の生徒たちにも尋ねてみたが、どうやら美術学科の間では有名な話のようだった。
天羽緋紅は今、父親の才能を受け継いだ若き天才画家と呼ばれている。彼女は高校生三年生の時に絵を描き始め、それから僅か一年という短さで、紫苑も通うこの有名大学に合格した。
それは、誰の目から見ても異例の早さだった。その後も彼女の成長は止まらず、大学入学以降、学校内外問わずに数多のコンクールや美術展で入賞を果たしているらしい。
当初、美大の教授や同学年の生徒達から見て、異例の早さで世間から認められていく天羽緋紅は嫉妬の対象だった。大学に入学したばかりの頃は、嫌がらせのようなものをかなり受けていたようだ。
しかし、彼女の実父である天羽蒼雲が、数年前に亡くなったかなり有名な画家であることが分かった途端、そんな嫌がらせはピタリと止み、代わりに生温い目と同情が集まることが増えたという。
『まさか、あの『紫の公爵』から『紅玉の姫君』のことを聞かれるなんて』
どうしても、あの天羽緋紅に会ってみたくて。どうしても、あのときの言葉の真意を知りたくて。
千草から彼女の名前を聞き出し、そんな衝動に突き動かされるまま『紅焔の死域』について聞き回る紫苑に対して、美術学科の生徒たちは皆一様に口を揃えてそう言った。
自分が『紫の公爵』という大層な名前で呼ばれているのは知っていた。きっと、今もクラシック界で名を馳せる母の影響だろう。冷泉桔梗の息子・紫苑だから、『紫の公爵』。安直で気恥ずかしいとは思うが、的確ではある。
静まり返った旧校舎を、ひとり歩く。出入り口の扉には、関係者以外立入禁止という張り紙が貼ってあった。紫苑は大学の許可を取っているが、普段この場所は閉鎖されているらしい。
この建物のほとんどが美術学科の倉庫になっているからだろうか、人影を見ないどころか、気配すら感じなかった。
窓から差し込まれた眩しい光の下で、細かな埃がきらきらと煌めいている。紫苑はふと足を止めて、開けられた窓の外を眺めた。
「俺も、ここでなら――」
あの日の熱に浮かされているのか、それとも天気が良いからか。
開けた窓から入ってきた風も、遠くの喧騒も、古めかしい造りも、なぜだか呼吸がしやすい気がした。
再び、ゆっくりと足を動かす。しばらく歩くと、時代を感じさせる意匠が施された螺旋階段が見えてきた。
『紅焔の死域』に行きたいと言うと、困惑しながらも美術学科の人たちは親切に教えてくれた。その道順どおりに螺旋階段を上っていくと、足を進める度に高い音が建物に響く。一つ一つの段差が高かったせいか、最上階に着く頃には随分と息が乱れてしまっていた。
呼吸を整えながら、外の明るさとは対照的に暗闇に包まれた廊下を進む。その最奥、美術室と掠れた文字のプレートを見つける。
「ここが、『紅焔の死域』か」
二、三回、扉を叩いてみるが、いくら待ってみても反応はなかった。
そっと扉を開け、足を踏み入れる。どうやら、鍵は掛かっていなかったようだ。一歩進むたび、絵の具の独特な匂いが鼻を突き抜けた。薄暗い部屋、そこに人の気配はない。ただ、自分の唾を飲み込むことさえ慎重になるほど、あまりにも静かな部屋だった。
本当にここなのだろうか___そんな疑問が脳裏をよぎった次の瞬間。
静寂を切り裂くような強い風が、外との世界を遮断していたカーテンを大きくはためかせ、その隙間から白い光が差し込む。
「あ……」
途端、紫苑の瞼の裏に、鮮やかな紅が焼きついた。全てを覆い隠すかのように燃え盛る炎よりも、何もかもを染め尽くしてしまうかのように眩しく差し込む夕陽よりも。目に沁みるほど、狂おしい紅。
床に散りばめられたルーズリーフには、晩秋の紅く色づく紅葉。風で捲られるスケッチブックには、明るく渋い色をした柘榴。丁寧に並べられた作業台の上にある画用紙には、深く紅みを帯びた薔薇。紅、紅、紅……、紅のみで満たされたその空間に息を飲む。
「……うわ」
中でも、最も紫苑の目を惹き付けたのは、部屋の奥のイーゼルに立て掛けられた、一つのキャンバスだった。
心臓が、やけに大きく跳ね上がる。途端に音を速め始めたそれに、紫苑は思わず自分の胸を押さえつけた。
「なんだよ、この絵……」
紫苑の背丈よりも大きいキャンバスに描かれているのは、一羽の鳥。濃く明るい紅でありながらも、僅かに蒼みを含んでおり、微かに紫がかってもいるような、美しい紅で彩られている。
今、この瞬間、紫苑の心臓を動かしているのは、確かにこの紅だった。
「は、はは……」
思わず、乾いた笑い声が口元から零れる。隅々まで絵を目で辿る度に、空虚だったはずの心臓から、ドクドクと血の流れる音がした。
こんな感覚、初めてだ。こんなにも感情が揺れ動き、生きていると実感したのは、随分と久しぶりのことだった。
「俺の心臓___まだ、死んでなかったんだな」
また、心臓が音を鳴らす。鳥についてあまり詳しくない紫苑にとって、描かれているものは不思議で不可思議なのに、やはり目を離すことは出来なかった。無意識に、キャンバスへと手が伸びる。
「……誰?」
唐突に鼓膜を揺らした低い声に、ハッと顔を向ける。
『つまらない音』
聞き覚えのある声に、見覚えのある鋭い眼光。息を飲み込むと、ヒュッという音がやけに大きく響いた。
「まだ乾いてない絵には、触らないでちょうだい」
その声は、確かにあの女の声だった。
再び風が吹き始め、光が差し込む。煩わしそうに細められた瞳は長い前髪に覆い隠されていて、あまり鮮明には見えなかったけれど、紅がよく映えそうだと思った。
紫苑の心臓を動かした、この絵。あの紅。その向こう側にいるのは、きっと彼女だ。
「天羽、緋紅……」
目一杯の期待を膨らませた声で、何度も聞いた彼女の名前を呼ぶ。すると彼女は、不愉快だと言わんばかりに顔を顰めた。
「どうして呼び捨てにするのよ……って、え?」
初めて二人の視線が交わる。ようやくこちらの姿を認識した彼女は、驚いたように大きく目を見開いた。重たい前髪から見え隠れする紅い瞳には、紫苑の姿だけが映し出されている。
「もしかして、貴方……冷泉紫苑?」
これが冷泉紫苑と、天羽緋紅の出会いだった。
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