御空と緋紅の交わる先は

結び羽

紫苑と緋紅の交わる先は



 いつからだろう_____ピアノを好きじゃなくなったのは。


 もともと、それほどピアノは好きだったわけはないと思う。母に、ピアノの方が向いていると言われたから、それを選んだだけ。


 母のように、誰かの心を惹きつけるような演奏は出来ないし、ヴァイオリンで軽やかな音色を響かせることも出来ない。


 紫苑が唯一出来たのは、正しい音を、より正確に弾くことだけだった。



「冷泉紫苑さん、出番です」



 そう促されて、舞台に踏み出す。目が眩むような照明の下、その熱量に頭痛がした。ふらつく足取りで、前方へ緩やかに頭を下げる。



「_____『紫の公爵』だ」



 さほど大きくない会場の中、そう誰かが呟く声が聞こえた。


 毎月行われる、芸術大学主催の定期演奏会。今日もそのほとんどの席が、観客で埋まっている。いつもと変わらない配席の中、珍しく母の姿はなかった。後方へ目を向けると、友人である立花千草がこちらへ小さく手を振っているのが見えた。


 薄暗くて表情は見えないが、きっとその顔に心配の色を滲ませながら微笑んでいるのだろう。彼は、いつもそうだから。


 ふと、こちらを見ていた視線が逸れる。どうやら、隣の席に座る女性へ話しかけているらしい。今日は一人ではなく、誰かと一緒に聴きに来てくれたようだ。恋人だろうか。それはともかく、交友関係が広いのは、彼の長所だった。


 思い通りに動かない足を慎重に進めながら、ピアノの前に座る。脳を揺さぶるようなこの耐え難い目眩も、はっきりとしない曖昧な意識も。すべて、普段通りだった。



「音楽学科ピアノ専攻二年、冷泉紫苑さん。曲名は……」



 アナウンスに混じる雑音すらも酷く不快に聞こえる。力を抜くように浅く息を吐き出し、丁寧に手入れされた鍵盤に指を重ねた。


 音楽に必要なのは、『最適解』だけだ。正しい音を、正しい速度で奏でる。音を弱めるべきところ、音を強めるべきところ。それは変化してはいけないものだし、正解は常に唯一でなければならない。


 指の動きは、身体に染み付いている。次は、少し強く弾く。音を緩め、速度を落とす。滞りなく、すべて、決められた通りに。


 何度演奏を繰り返したとしても、紫苑の音は永遠に狂わない。そして逆に、最適解を上回ることも、きっとないだろう。


 演奏が終わると同時に、割れんばかりの拍手が響く。ゆったりとした動作で立ち上がり、再び客席の方へ頭を下げた。



「ふむ、『紫の公爵』と呼ばれるに相応しい演奏だな」


「ご子息をここまで立派に育て上げるなんて、桔梗先生も流石ね」


「彼ならば、冷泉の名に恥じない優秀なピアニストになるだろう」



 拍手と拍手、その僅かな音の隙間に賛辞の言葉が飛び交う。だが、そのどれもが紫苑にとっては価値のあるものではないのだ。


 別に、賞賛の言葉が、悲しいわけでも、腹立たしいわけでもない。けれど、どうしても、嬉しさも喜びも感じられなかった。


 いつからこんなにも、自分の心臓は空虚になってしまったのだろうか。自主性はない、感情もない、意思もない。誰もそれを求めていないし、紫苑自身も必要に感じたことはない。


 けれど、この虚しさを突きつけられるたびに、なぜか……、



「つまらない音」



 未だに拍手と歓声が鳴り止まない中、その言葉だけは確かに聞き取ることができた。強い嫌悪感が浮き出た女の声に、思わず顔を上げる。不明瞭だった輪郭が、一瞬で明確なものに変わった。



「ちょっと、天羽ちゃん!」



 千草が慌てたように、隣の人を諌めている。なるほど、先程の声は、彼の同伴者だったらしい。聴衆は二人の声に気が付いていない。拍手を続けながら、舞台上で呆然と立ち尽くしている紫苑を、疑惑の表情で見つめていた。



「すみません、千草さん。私はもう帰ります」


「ええ!?ちょっと待ってよ、そもそも天羽ちゃんが……」



 千草の制止も聞かず、彼女は立ち上がった。少し前屈みになっている丸い背中が、出入口の方へと一直線に歩いて行く。



「冷泉さん、そろそろ次の人の演奏がありますので……」



 刹那、彼女がこちらを振り返る。鋭い眼光と、一瞬目が合ったような気がした。扉が開き、漏れた白い光が紫苑の視界を焦がす。


 頭が働かない。舞台袖から出てきたスタッフに、重い体をそっと押されたことは覚えている。しかし、その後の記憶が定かではなかった。



「やっと見つけた!」

「……千草?」



 忙しなく誰かが駆けてくる音がして、瞼を開けた。いつの間にか、少し眠ってしまっていたらしい。


 周囲を見渡すと、校内のベンチに座っていた。いつも講義のないときに来る、静かな場所。地面に広がった木陰が揺れる。



「ここに居たんだね。今日は、誘ってくれてどうもありがとう」


「いや、こちらこそ。来てくれてありがとな」



 そう言うと、千草は「綺麗な音だったよ、お疲れ様」と紫苑の隣に腰を下ろした。その声は明らかに元気がなく、いつも溌剌としているだけに、その姿が痛々しく思えてしまう。



「あのさ、俺の連れが言った言葉、聞こえてたり……した?」



 紫苑は耳が良いから、もしかしたらと思って。その声に小さく頷くと、千草は悲鳴に近い呻き声を上げ、ぱちん、と大きな音を手から鳴らした。



「本当にごめん!悪い子じゃないんだけど……あんなこと言われたら、誰でも怒るよね」


「別に気にしてねえよ。それに……」



 拍手と賛辞の中に聞こえたあの言葉は、確かに心の芯まで凍るほど冷ややかな物言いだった。だからこそ、紫苑の耳にはっきりと届いたとも言える。


 けれど、彼女の言葉に傷付いたわけじゃないし、機嫌を損ねたわけでもない。ただ、紫苑の心を蝕み続けるこの空虚さを、初めて自分以外から突きつけられたような、そんな気がしたのだ。



「悪いって言うなら、それは何も持っていない俺自身だろ」



 だから、席を立った彼女も、もちろん千草も、何も悪くない。


 そう言うと、千草はじっとこちらを見つめた。真意を探るような視線に、紫苑は首を傾げる。怒っていないという意図が伝わらなかったのだろうか。


 今日の出来事は少し衝撃的ではあったが、千草が言うような感情は湧かなかった。それに、この心優しい友人の厚意に、ずっと甘えてしまっていることも事実だ。



「千草、ちょっと聞きたいことがあるんだが」


「全然いいよ!俺に分かることなら、出来るだけ答えるし」



 なんでも、とは言わないところが千草らしい。そう思いながら、紫苑の視線が宙を彷徨う。紫苑の唇が、躊躇いがちに少し開いて、また閉じてを何度も繰り返した後、意を決したように言葉を紡いだ。



「今日、お前と来てたあいつの名前、教えてほしいんだけど」

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