10
次の日も天気は悪かった。
降り注ぐ雨の音に、薄暗い部屋の中。貰った朝食はトレーに白い布をかけたまま、手をつけずにテーブルに置いている。ベッドに寝転びながら、僕は白い天井をぼんやりと眺めていた。
ダリアさんと別れた後、僕はクローネさんに連れられて以前同様の豪華な食事を頂いた。今回は事前に聖神の泉の見回りは終わらせていたので、特に何かすることもなく食後は部屋で過ごし、そのうち寝ることになった。少し拍子抜けだったけれど、本来言われていた魔王の影武者としての仕事はこうだったなと思い出して天蓋ベッドに入った。あまり自覚はなかったが疲れていたらしく、程なくして泥のように眠ってしまった。
魔王の時間が終わり、クローネさんに起こされて勇者側に転移する時になっても、まだ疲れは取れなかった。頭の働かない、ふらふらの状態になりながらも何とか転移し、星条界での生活はついに三日目に突入する。
クラウディアさんが僕と入れ替わりで迷宮へ行き、一息ついたところで僕はベッドに倒れ込んだ。そうして今に至る。
「お~いツバサ、オマエほんとに大丈夫か?」
ふわふわと飛んで目の前にやってきたビルスはとても心配そうだ。僕は首を振って、
「……ちょっと眠いだけだから大丈夫。ごめんよ、心配かけて」
ビルスだけではない、クローネさんやクラウディアさんも僕を心配していた。気を遣わせて悪かったな。
「わりぃな、無理させて」
「大丈夫、気にしないで」
笑顔を作って言えば、ビルスは気になる様子ではあったものの大人しく引き下がり、窓の方へと飛んでいった。ふうと息をつき、瞬きする。
この疲れの原因が、重い体が、身体的なものというよりも精神の方に偏っていることは自覚していた。頭の中を渦巻く記憶の数々は、クラウディアさんとダリアさんのことばかりで。
この世界、星条界で、彼女たちが一体どういう立場にいて。その背景に何が起こっていて。それでいて何を考え、行動しているのか。それがわかって。そして彼女たちから、改めて頼まれたのだ。
——勇者に、なってくれませんか。
——魔王に、なってくれないか。
その言葉を思い出すたびに心が、体が、ズンと重くなる。この星条界において、その二つの立場がどれだけの意味を持つものなのか。ゲーム内の用語ではなく、確かなものとして知ることとなった今、僕はずっと考えている。
二人の頼みに、何と答えるべきなのか。
召喚魔法の性質上、選択肢などあってないようなものではある。けれど、強い決意と覚悟を持って勇者、そして魔王になっている彼女たちに、中途半端な感情では答えられない。答えたくない。
どうしよう、どうするべきだろう。様々な感情の渦巻く中で、僕は考え続ける。そんな時だった。
「ああああああああああああっ!」
悲鳴のような、叫びのような。甲高い大声と共にガチャーンと何かが床に落ちた音が聞こえて、僕はベッドから反射的に跳ね起きる。窓枠に腰掛けていたビルスも跳ねたらしく、床に落っこちて頭を打っていた。
「いででででで!」
「だ、大丈夫!?」
ベッドから降り、うずくまるビルスに駆け寄った。介抱しながら声がした方を見つめる。おそらくこれは隣から、リアンナさんが泊まっている部屋からの音だ。
「今の声、アイツだよな……?」
頭を両手で押さえながらビルスは言う。僕も同じことを言おうとしていた。
「リアンナさん、部屋にいたんだね。やっぱり寝てたのかな」
ちょうど今日、交代する直前にクラウディアさんが言っていたのだ。黄金魔導師であり戦争反対派であるリアンナさんと、自分も直接喋ってみたい。その思いで昨夜部屋を訪問したが、いなかったらしい。その後も隙を見て何度かドアをノックしたものの、一度も顔を見ることはなかったという。出かけていたのか、それとも眠っていたのかもと残念そうにしていた。
「やっと起きたのか。にしてもどうしたんだろうな」
「見に行ってみようか」
「……そうだな、行ってみっか」
ビルスは頷き、まだ痛そうに頭をさすっていた。僕はビルスを手に乗せ、部屋を出る。朝食の時間だからか、廊下に兵士たちの姿はあまり見えない。少し歩いて隣の部屋の前まで行き、ドアをノックする。
「……あの、すみません。おはようございます。大きい声が聞こえたんですが、大丈夫ですか?」
返事はない。再度ノックして声を掛けるも、ドアの向こうからは何の音もしなかった。
まさか、倒れたとか!? そんな悪い想像が頭に浮かぶ。ビルスも似たようなことを考えたのか、目を大きく見開いていた。ドアノブに手をかけ、回転させる。どうやら鍵はかかっていないようだった。僕とビルスは顔を見合わせ、同時に頷く。
「——すみません、リアンナさん! 入らせてもらいます!」
ドアを開き、中へ入っていく。置かれている家具も部屋の構造も、こちらと全く一緒だ。しかしその床には、大量に何がが散らばっている。それがリアンナさんが身につけていた勲章の数々だと気づくまで、そう時間はかからなかった。
リアンナさんは部屋の真ん中に立っていた。こちらに背を向けて、散乱した勲章の中で俯いている。肩を上下させ、荒い呼吸音を響かせていた。何かを踏んづけたのか、欠けた破片が足元にあった。
「あ、あの…………」
おずおずと声をかけてみるも、彼女は無言を貫いている。触れれば怪我しそうな、抜き身のナイフのようなオーラを漂わせていた。
「~~~~~~~~~っ!」
声にならない声を上げながら、彼女は床を勢いよく踏み付ける。大きな足音に、僕とビルスは揃ってその場で飛び上がった。
リアンナさんはつかつかと窓へ近寄ると、レースのカーテンを勢いよく開いた。大雨が降り、朝とは思えない程に薄暗い外をじっと見つめた後、彼女は窓を全開にする。冷たい風が吹き込み、雨粒が部屋の床へ落ちていく。
まさか、と思って駆け寄ったが遅かった。彼女は窓に足を掛け——そのまま飛び降りる。
「リアンナさん!」
全開の窓から顔を出す。雨粒が頭に当たっていたが、気にならなかった。
いつのまにか出していた魔法陣に乗り、彼女は空を飛ぶ。以前僕を乗せた時とは違い、ふらふらと蛇行し、スピードも安定していないそれは雨の中でも関係なく突き進んで行く。鮮やかなピンクの頭がどんどん小さくなっていくのを、僕とビルスは口を開けて見つめていた。
「ど、どうしちまったんだよアイツ……」
「わからない……」
飛んで行った方向は親玉退治に行った時と一緒だった。ただ、何か用があって行ったようには見えない。
こんな雨の中で、傘もささずに飛んで行くなんて。リアンナさんなら雨の一つや二つ防げるのかもしれないが、それでも心配だった。
けれどもうどうしようもない。とりあえず窓を閉め、雨がこれ以上部屋に入らないようにする。
これも拾っておくべきかな。床に落ちた勲章を一つ一つ集めて行く。欠けた黄金魔導師の勲章も見つけた。さっき彼女が踏みつけていたのはこれか。
大事なものだと思うんだけれど、それを踏みつけるなんて。本当にどうしたんだろう? 首を傾げていると、ベッドの下に何かが落ちているのに気づいた。
「あれ、これ……」
拾い上げると、杖だった。普段リアンナさんが魔法を使う時に振るっているものだ。強い魔法を使う際は、この杖がなければコントロールできないと説明を受けたのを思い出す。
「アイツ、忘れてったのかー?」
「そうみたいだね。大丈夫かな」
ふわふわと飛びながら、ビルスがやってくる。窓の外を見るが、もうそこに彼女らしき姿はない。更に酷くなっていく雨と、強風で震える窓。杖に目を落とし、再度外を見た瞬間のことだった。
僕たちが昨日飛んでいった方向、マルシャンの街の付近にあった山の頂上。そこから、何かが突き出ていた。
木ではない。あんな建物もなかった。細く長く、柱のようなものだ。一体何だろうと、窓に駆け寄って目を凝らす。
一本の柱のように見えるそれだったが、よくよく見ると二本、いや三本ある。あれ、四本目もある? 増えてないか? しかも何か、ちょっと動いているような——
「大変だ! 精鋭部隊から緊急連絡が入ったぞ!」
廊下をバタバタと駆けていく足音に、兵士の大声。閉め忘れていたドアからその姿がよく見える。目を大きく見開き、顔色は真っ青だった。
「先日、精鋭部隊が派遣され倒された巨大モンスター! あれは子どもの個体だ!」
精鋭部隊が派遣されたモンスターって、ヤマタノオロチみたいなやつのことか? 近年稀に見る被害が出てる、とんでもないモンスターって話の。
「親の個体は現在逃走中! 調査の結果、マルシャンの方向へ行ったことが判明!」
マルシャンの方向? それってまさか——
「動ける奴は今すぐ準備しろ! 精鋭部隊が急いで向かっているが、間に合うかどうかわからんそうだ!」
建物内の空気が一変する。瞬時に飛び交う野太い声の数々。
「まずいぞ! 早くしろ!」
「朝から何だよ、クソッ!」
「大変だ! 大変だ!」
「既に子どもを産んだ後だったって、そんなのありかよ!」
「まだ一匹だけしか生んでないそうだが、それでも……!」
金属音と地鳴りのような足音が響き渡り、廊下を大量の兵士たちが脇目も振らずに駆けていく。
「た、隊長! あ、あれ! 窓の外! や、ややや山の上です!」
悲鳴に近い声が聞こえたと同時に、僕は窓の方へと向き直って——見てしまった。
山頂から飛び出すもの。細く、長く、うねうねと動くものは、いつのまにか八本に増えている。遠くにいてもはっきりと見えるそれがどれだけ巨大なのか、否が応でも理解できた。
「ひっ……!」
僕も、ビルスも、きっと兵士たちも。みな同じ顔をしていた。目を限界まで開き、口も開きっぱなし。口からは声にならない悲鳴と、震える吐息が出て行く。体は凍りついたように動かなかった。
——恐れ、おののいている。
へたへたとその場に座り込む。腰が抜けてしまった。背中を滝のような汗が流れていく。頭の中は真っ白で、何も考えられなくて。どうしようもない恐怖に打ち震える。
何だあれ、何だあれ。あんなものが出てくるなんて。信じられない。怖い、怖い、気持ちが悪い。見ていたくない。見ていられない! ギュッと目を瞑った瞬間だった。
「隊長! あれを!」
兵士の声に、目を開く。見えた光景に、僕は思わず息を呑んだ。
——八本の頭、山の頂上から突き出すその全てより、更に上。灰色の空ごと巨大を覆う、紫があった。
大量に集まった魔法陣が、モンスターの周囲に張り巡らされている。そう気づいた瞬間、脳裏に蘇るのは少し前の記憶。本部がモンスターの襲撃を受けた時も、似たような光景を見た。
あんなことができる人を、僕は一人しか知らない。
「黄金魔導師! 黄金魔導師の魔法だ!」
兵士の大声が響く。その刹那——守護兵団本部を覆っていた恐怖が、緊張感が、一気に解けたのを感じ取れた。
「…………なーんだ、じゃあ大丈夫だな」
兵士の一人が言ったらしいその言葉に、みな同意するかのように笑った。
「あの黄金魔導師が戦ってるんだもんな」
「死体処理隊に連絡だ! 精鋭部隊にも急がなくていいと伝えろ!」
「あの娘が行ってんなら、俺たち行かなくてもいいだろ」
「手助けいらねぇってうるせーしな」
「いつも仕事奪われるからあれだけどよ、今回はよかったぜ」
「流石にあんな危ねぇのは無理だもんな。精鋭部隊ならまだしもオレたちじゃ」
「朝メシまだ食ってなかったんだよなー」
先刻とは一転、兵士たちが廊下を談笑しながら歩いていく。その顔にはもう恐れは浮かんでいない。さっきまでの反応が嘘みたいに、みな日常へと戻っていく。
とんでもないモンスターがすぐ側に出現している中で、武器を手に取って向かう者はいないようだった。リアンナさんが相手をしている、その一点のみで。
僕は呆然としていた。視線は廊下と、窓の外と、そして手元の杖を行ったり来たりしている。何度目かの視線を窓に向けた時、気づいた。
紫の魔法陣で囲った空間の中で、火柱が立っている。モンスターは苦しんでいるかのように体を大きく揺らし、時折攻撃しているのか八つの頭の内いくつかを地面に突撃させている。
交戦はもう始まっている。モンスターにダメージを与えられている。火柱は何本も上がっていき、激しく燃えていた。確かに大丈夫そうに見える。けれども、
——この胸騒ぎは、何だ?
杖を握る手に力が入る。胸を押さえ、荒い息を吐く。杖がなければ、強力な魔法のコントロールができない。その言葉ばかりが頭の中を駆け巡っている。
リアンナさんは強い。圧倒的に強い。彼女が戦うのを見てきて、それは理解している。今もそうだ。巨大だろうが、とんでもなく強いモンスターだろうが関係なく、彼女は不敵に笑って対峙するのだろう。手助けはいらない、私がやる、黙って見てなさい、そんなことを言いながら、瞬く間に倒してしまうのだ。
「…………ツバサ、部屋に戻るか? 疲れてるんだし、休んでた方がいいぞ」
ビルスの問いかけに、僕は答えられなかった。ただ杖をじっと見続けていた。
「アイツ、つえーし。大丈夫だと思うぞ……多分」
繰り広げられる戦いの様と、僕の顔を交互に見ながらビルスは言う。魔法陣で囲った空間には火柱どころか風すら吹き荒んでおり、様々な魔法を駆使している様が伝わってくる。
リアンナさんは戦える。たとえ杖がなくても。それはきっと、間違いのない事実だ。
——けれど。
目を閉じて、大きく息を吐き、吸う。震える足に力を込め、床に手を付いて、立ち上がる。目はしっかり開いたまま、窓の外を見据える。
頭に浮かぶのは、マルシャンの街での思い出。喫茶店でビルスにプリンアラモードを分けてあげていた時の、リアンナさんの笑顔だ。
誰かに望まれたわけではない。頼まれたことでもない。危険だって伴う。だけど、それでも。
——彼女を、一人で戦わせたくなかった。
「…………ビルス」
「ん? 何だ?」
「転移魔法、お願いしてもいいかな」
「!? オマエ……!」
「この杖を、リアンナさんに届けに行きたい。行かせて、ほしい」
熱く、速く、駆け巡っていく血潮。今にも皮膚を突き破り噴き上がらんとする。心臓は激しく鼓動し、内側から破裂してしまいそうだ。
恐怖よりも、何よりも、もっと強い感情が。胸の奥底から立ち込める炎が、僕を突き動かしている。
「正気か!? あんな戦ってるんだぞ! 危ねぇに決まってる!」
「わかってる」
「アイツだっていらねぇって言うかもしれないぞ!」
「それもわかってる。でも、お願いします」
その場で深々と頭を下げる。顔は見えないが、ビルスが息を呑むのがわかった。
「…………なんで、そこまでするんだよ」
ビルスの問いかけに、僕は頭を下げたまま答える。
「——『勇者』だったら、そうすると思うから」
しばしの沈黙。僕は頭を上げることなく、ビルスの答えを待ち続ける。やがて、大きくため息をついてビルスは口を開いた。
「あのな、そもそもリアンナのところまで行くのに転移魔法は使えねぇんだよ」
「……ええっ!?」
思わず顔を上げた。ビルスは目を閉じ、首を振っている。
「そんな! どうして!」
「転移魔法で転移できる場所は、オイラが出す特別な風を漂わせているところに限られるんだ。この星条界でいうなら、クラウディアの部屋とダリアの部屋、そして迷宮の内部だけだな」
「そん、な……」
辺りを見回すが、ここがクラウディアさんの部屋ではないことを思い出してやめた。いや、向こうの部屋にだって特にそんな風はなかったから、おそらくビルスにしか見えていないものなんだろう。
窓に駆け寄り、魔法陣の広がる山の頂上を見つめる。転移魔法なしで移動できるような距離ではないし、リアンナさんのような飛行魔法も使えない。
そんな、どうにもならないのか。杖をぐっと握りしめ、唇を噛む。僕に魔力があれば。その名前のように、あそこまで飛んでいける翼があれば。窓に両手をつき、顔をガラスに押し当てる。
また、何もできずに終わるのか——そう思った瞬間だった。
「——だから、奥の手を使ってやるぜ」
振り返ると、ニヤリと笑うビルスがいた。クラウディアさんと同じ色の目に強い光を宿している。手から光の球を出し、宙へ浮かべる。転移魔法を起動する時にいつもやっている動きだけれど、放つ光の色が違っていた。淡い水色の光はビルスと僕の全身を包み込んだ後に一層強く光って、やがて消えていく。
「ふぅ、準備完了だな。ツバサ、窓を開いてくれ」
「何を……?」
「魔法だよ。透明化のな。オイラの加護を受けてるヤツには見えちまうけど、他のヤツらには見えねぇよ」
「透明化? 何で?」
「いいから、窓開けろって!」
ビルスに言われ、僕は目を瞬かせながら窓を開く。相変わらず雨脚は強く、風も強い。レースのカーテンがバサバサと揺れている。開いた窓からビルスは飛んで行き、外に出た状態で僕に向き直る。意図がわからず首を傾げる僕に、ビルスは笑って、
「特別だぜ、よーく見てろよ?」
両の手を天に向け、目を閉じる。するとビルスの体が淡く光り始めた。その光はどんどん強く、大きくなっていく。最初は野球のボールほどだったはずの光が僕の身長ほどに、更にその倍、それ以上へと巨大化していく。
「わっ……!」
僕が呆けた声を上げる間にも更に大きくなっていく。やがて完全に拡大が止まった瞬間、パッと弾けて光は消えた。
代わりに現れたのは、ドラゴンだった。
透き通るような水色の体、臀部に生えた長い尻尾。そのどれもが巨大化し、びっしりと鱗が生えている。頭には長く立派な角が生え、手足の爪は万物を切り裂けそうなほどに尖っている。何より目を引いたのは、その翼だ。天に向かって大きく開かれた両翼は、上下を繰り返して風を起こしている。
見上げれば、ドラゴンの顔がよく見える。キリリと引き締まった表情、大きな口から見え隠れする鋭い牙。瞳孔が細い緑の目は、真っ直ぐ僕へと向けられている。
開いた口が塞がらない、とはこのことだろう。
灰色の空の下、降り注ぐ雨をものともせずに現れた大きなドラゴンに、僕は圧倒されていた。窓枠に手をかけたまま、限界まで首を上げながら、僕はその目を見つめ続ける。信じられない。まさか、そんな、これが——
「どうだ? オイラの真の姿。カッケェだろ?」
その口調は間違いなくビルスだ。つまり目の前の巨大なドラゴンは、本当に、本当にビルスなのか。
「どう、して」
震える声で、問いかける。目立つから小さくなっているとは確かに言っていた。けれどこうして、本当の姿を僕に見せてくれるとは思わなかった。
「ツバサが言ったんだろ? 勇者ならこうするってさ」
目を大きく見開く。真の姿になったビルスは表情がわかりにくいが、笑っているのだとなんとなくわかった。
「——実はな、オイラ。元の世界じゃ出来損ないってバカにされてたんだぜ。攻撃魔法が一切使えねぇからって」
「え……!?」
意外な発言に、僕は目を丸くする。あんなに凄い魔法を使えるのに。
「オイラが元いた世界は、そこかしこで戦争が起きて、武力こそが正義みたいな世界だった。だから戦力外のオイラは相手にされなかったのさ。だけど……オイラの妹は違った」
「ビルス、妹いたんだ」
「そうさ。オイラと違って、攻撃魔法が得意な強いヤツさ。戦争で何度も戦果を上げたから、『英雄』って呼ばれて崇められてた。そんな立場にいながら、こんなオイラのことも慕ってくれた、良い妹だったぜ」
「英雄……クラウディアさんみたいだね」
「ああ。実際、扱いとしては似たようなもんだ。性格もよく似てるぜ。アイツもおっちょこちょいだったし……自分が英雄だなんて相応しくないって、毎日泣いてた」
ビルスの発言に、僕は目を見開く。
「力があるからと祭り上げられたはいいが、その責任に精神が耐えられなかったのさ。もう戦争なんか行くなって言ったが、アイツは立場を捨てられなくて、結局また行った。そして——二度と帰って来なかった」
「…………そんな」
「ずっと後悔してたさ。オイラがもっと強ければ、アイツを助けられたのかって」
ビルスが項垂れる。僕は何も言えなかった。
「——だがそんな時、この星条界に呼び出されて、クラウディアに出会った。オイラを頼り、オイラを慕ってくれるヤツ。泣き顔まで妹とよく似てたよ」
ビルスは顔を上げ、遠くに目を向ける。聖神の迷宮がある方向だ。
「クラウディアを勇者にしちまったのは、オイラの責任でもある。だからそれを果たすためにも、オイラはこの星条界にいる限り、クラウディアを——勇者を、全力で助けるって決めたんだ。今度は、死なせねぇよ」
確かな決意と、強い覚悟を秘めた声。瞳孔の細い目が僕に向けられる。
「だから翼、オマエが自分を勇者だと言うのなら。オイラだって本気を出してやるってことさ」
「ビルス……!」
ビルスの目が、僕を真っ直ぐに捉えている。両翼を一層大きく動かして、ビルスは体をぐるりと回転させ、僕へ背を向けた。
「ほら、オイラの背中に乗れ! 透明化の魔法は長くはもたねぇ。行くなら早く行くぞ!」
「……わかった、ちょっと待って!」
僕は駆け出し、自室へ戻る。ドアに内側から鍵をかけ、クローゼットを開く。お手製手榴弾が詰まったウエストポーチ、スペアの剣。二つを素早く身につける。レースのカーテンを勢いよく開き、窓を全開にする。雨粒に加えて風が吹き込んできたが、今はそんなことどうでもよかった。
窓に足を掛け、身を乗り出し——ビルスの背中に向かって、思いっきりジャンプした。
目を大きくかっぴらき、口も開けたまま、重力の働くままに落ちていく。眼前に水色の体躯が、龍の鱗がくっきりと広がっていく。衝撃は予想より柔かった背中に吸収された。流れてくる雨水が大きく跳ね、口の中に入ってしまった。
「ごほっ、ごほっ!」
(大丈夫か? ツバサ! ちゃんと乗れたか?)
「……大丈夫だよ! ちょっと雨が口の中に入っただけ」
雷こそ鳴っていないものの、降り注ぐ雨は激しくなる一方だ。青の一つも見えない空、吹いている風は冷たく突き刺すようで。クラウディアさんから借りた服はもうべちょべちょだ。後で謝らなければいけないな。
でも今は、目の前のことに集中だ。見据えるのはただ一点。マルシャンの街近くの山、その頂上。紫の魔法陣が張り巡らされ、今も交戦中の場所だ。手元の杖を見つめ、強く握りしめる。ビルスの背中に跨り、ごつごつとした部分に手をかけた。
「——行って、ビルス!」
(ああ! 行くぜ!)
両翼を大きく広げ、風を巻き起こしながら、勢いよく空を駆けていく。雨粒が顔面を直撃する。ウィッグが吹き飛ばされそうだ。顔を伏せつつ、それでも目は開いたまま。辺りの景色を見る余裕はなく、喋ると舌を噛みそうだ。全身を濡らし体は冷えるばかり。指の感覚はもう大分なくなっている。
——けれど、心に灯した炎は消えていない。
上下を繰り返し旋回しながら、強風に逆らって飛び回る。速く、速く、流れる空気を裂き、雨粒が落ちるよりも速く。更に向こうへ、どこまでも行けそうな、ほとばしる衝動のままに突き進んでいく。
(見えてきたぞ!)
ビルスの声と共に、爆発音が耳に飛び込んだ。もはや目と鼻の先となった山頂から響くその音からは、激戦の模様が伝わってくる。モンスターを山の頂上ごと取り囲むように展開された大量の魔法陣は、近くで見ると節々に綻びがあった。新たに生成されたらしき魔法陣が穴を埋めようと飛び回るが、モンスターによる攻撃で壊れるスピードの方が早い。
(リアンナはどこだ!?)
「わからないけど、この辺にいるはず……!」
ビルスの背中から身を乗り出し、落ちないよう注意しながら目を凝らす。大量の魔法陣に邪魔され、地上の様子は非常に見えにくい。そこかしこで火柱が立ち上っているから余計にだ。けれど諦めない。諦めてたまるものか。リアンナさんを見つけるんだ!
モンスターが雄叫びを上げ、頭の一つで魔法陣を突き破る。一瞬大穴が開いたそこで、地面の様子が映し出された。
——視界の端の端、燃え盛る火の中で、鮮やかなピンクのサイドテールが風に靡いていた。
「あそこだ!」
(了解! 突入するぞ!)
空いた大穴が塞がる前に、ビルスの透明化が解ける前に。天から放たれた銃弾のごとく、雨粒を引き連れて急降下していく。背中にがっしりと捕まり、手には杖を持ったまま。墜ちて、墜ちて、墜ちていく。
真っ白な頭に浮かび上がるのは、現世の記憶。
他のことをほとんど捨てて勉強を頑張り、時には一人称すら変えた。しかし無惨にも挫折し、天才の称号は自分には相応しくないと諦めてしまった。自分を形作る何もかもを失って、時間が止まったまま。自分が何者なのか、自分の存在価値すらもわからなくなって、嘆いていた。
けれど、この星条界にやってきて——彼女たちに出会った。
僕とよく似た顔をしながら、僕よりもずっと過酷な環境に身を投じる彼女たちに。絶望しても立ち上がり、為すべきことを為さんとする彼女たちに。
——誰かを守るため、今も戦い続ける彼女たちに。
勇者と魔王。かつての僕が憧れた、誰かに必ず必要とされる存在。決して誰にも侵されず、奪われることのない特別な称号。
けれどそれはゲームの中の話で、この星条界は全然違う。勇者は立場を侵され、魔王は地位を奪われそうになっている。双方の存在はか細く小さな灯のようだった。
——けれど、その火は簡単には消えない。
僕は決して諦めず、進み続ける彼女たちに憧れた。自分も彼女たちのようになりたいと思った。
僕は魔法が使えない。剣も使えない。この世界の人間でもない。自分でも笑ってしまうくらい役立たずで弱い、ただの高校二年生。彼女たちと似ている部分といえば、この顔くらいだ。
だけど、それでも。そんな僕を、彼女たちは必要としてくれた。
目を閉じれば、彼女たちの言葉が聞こえる。
——勇者に、なってくれませんか。
——魔王に、なってくれないか。
本物とは程遠くても。相応しくないとわかっていても。それでも、彼女たちの願いを叶えることができるのが、僕しかいないというのなら。僕はその期待に応えたい。自分の憧れに向かって、諦めずに手を伸ばしたい。
ダリアさんの言葉を思い出す。自分が何者になるか、それを決めるのは自分自身だというのなら。
僕は、僕は、いいや——俺は!
勇者にだって、魔王にだってなってみせる!
「行っけええええええええ!!!!!!」
新たな魔法陣が穴を修繕する前に。モンスターに気づかれ襲われる前に。
渾身の叫びと共に、俺は地上へと墜ちていった。
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