8

 守護兵団本部、自室にて。

 僕はベッドに腰掛け、足をふらふらとさせながらぼんやりと辺りを眺めていた。

 窓から見える空は暗澹とした雲に覆われ、その青を隠されていた。降り注ぐ雨は激しく、地面を穿つ音と風に窓が震えている。時折遠くで雷が鳴っているようだ。すっかり見えなくなった日が落ちるまで、あと一時間程度といったところか。そろそろここを離れて、ダリアさんの方へ行く時間だ。

 だけど、まだ向こうには行けない。クラウディアさんに言わなきゃいけないことが、聞かなきゃいけないことがある。

 それにしても疲れた。ぐっと大きく伸びをして、背筋を伸ばす。この部屋に戻る前、本部の人たちから親玉のこと含め色々なことを聞かれた。ほとんど全部リアンナさんが答えてくれたけど、尋問みたいでいい気はしなかったけ。とりあえず普通に帰ってきたこと、僕が特に怪我してもいなかったことに副本部長は明らかにほっとしているようだった。それが心配よりも、どちらかといえば商品価値に傾いているように見えて気分が悪かった。穿った見方かもしれないが、あんな話を聞いた後だから仕方ない。

 ビルスはベッドの枕の上で体を丸くしている。リラックス体勢かと思いきや、その表情は固く張り詰めている。リアンナさんの飛行魔法で本部まで戻ってきてからずっとこうだ。言葉数は少なく纏う空気もいつもと違った。

 やっぱりビルスもショックだったのか、そりゃあそうだよな。ここが、クラウディアさんが所属している守護兵団がまさか元凶だったなんて。貴族からは聖神水と引き換えに経済的な支援をしてもらい、庶民を騙し物で釣って兵力を増やす。そうして戦争へと突き進んでいく。

 なんて最悪なんだろう。喫茶店の店主とその息子とのやり取りを思い出して胸が痛くなる。クラウディアさんを客寄せパンダとして利用していることも含めると、そのあまりの邪悪さに吐き気すら覚えるほどだ。

 部屋に帰ってから一度クラウディアさんと通話しようとしたが、後で連絡し直すと言われて切られてしまった。

 それからずっと折り返しを待っているが、一向に来ない。どうしたんだろう、忙しいんだろうか。連絡し直すって言った時の声、ちょっと焦ってるようだったし。

 もしかして、いよいよ風の間に到達したんだろうか。かなり近いところまで来てるって話だったもんな。

(ごめん、待たせたね)

「!」

「クラウディア!」

 天井に映るクラウディアさんの顔。だけど随分テンションが低いというか、顔色が良くないというか。声も弱々しく聞こえたのは、気のせいだろうか。ビルスが枕から起き上がり、目を見開く。

「どうだ! 見つかったか!」

(うん。風の音が鳴ってる場所には辿り着いたよ。だけど……)

 クラウディアさんはそれ以上何も言わない。ただ俯いて、悲しそうな顔をしている。

「おいクラウディア? どうしたんだよ?」

(………………った)

「えっ? 何だって?」

(…………違った。風の間じゃなかったの)

「え!? そんな!」

 思わず大きい声を出してしまって、はっとして口を押さえた。でも嘘だろ、そんな、まさか。

「なっ! う、嘘だ、なんで……だってオイラの魔法で、風の音が聞こえたはずだろ!?」

 ビルスは信じられないといった様子で言う。クラウディアさんは目を閉じて、ふるふると首を振った。

(確かに、部屋から風の音は聞こえてた。だけど……肝心の風そのものは、全く吹いてなかったの)

「何だって……!?」

 詳しく聞いてみると、クラウディアさんが辿り着いたのは小さな部屋で、辺りには何もなく、ただ風の音が鳴っているだけだったらしい。周辺を隈無く探してはみたが、聖神の石はなかったという。

(……もしかしたら、風の間にもダミーがあったのかもしれない。今回辿り着いたのはそこだったのかも)

 ダミーの部屋か。確かに、ダンジョンってそういうのあるよな。攻略難易度が高い場所ほど意地悪な仕様になっている気がする。

 でもまさか、聖神の迷宮にそんなのがあるなんて。ダミーがあるなら事前に言ってくれよ神様。酷いじゃないか。

「そんな……! クソッ……!」

 ビルスは悔しげな声を漏らし、尻尾をベッドに叩きつけている。クラウディアさんは今にも泣きそうな表情で項垂れていた。

 一気に辺りの空気が重くなる。掛ける言葉が見つからないとはこのことか。クラウディアさんも、ビルスも何も言わなかった。長い沈黙が場を支配する。

(……ごめんね、翼。上手くいけば二日三日で終わるかもって言ってたけど、無理そう)

 重々しく口を開いたクラウディアさんによって沈黙が破られる。

 ああそうか、聖神水が見つからなかったってことは、まだ迷宮探索が必要なわけで。その間は僕が影武者をやらなければいけないから、いつ元の世界に帰れるかわからなくなったということだ。

 確かにそれはとても困る。だけど今、僕の頭を支配していたのは別なことだった。

「……あの、クラウディアさんに伝えなくちゃいけないことがあるんです」

(私に? どうしたの?)

 ビルスがはっとして僕を見つめる。何か言おうとして口を開いたが、僕が発言する方が早かった。

「守護兵団が戦争を引き起こそうとしてるんです。クラウディアさんのことも利用してるって。リアンナさんが教えてくれたんです。あと、リアンナさんは戦争反対派で間違いないです!」

 緊張して、必要最低限のことしか言えなかった。もっと詳しい説明をしなければと思ったけれど、伝えたいことが多すぎてそれ以上言葉を続けられない。心臓がバクバクする。少しでも落ち着こうと胸に手を当てた。

(そっか。黄金魔導師様、本当に戦争反対派だったんだ……しかも守護兵団のことまで詳しく知ってるなんて、流石だね)

「クラウディア……」

(いいよ、ビルス。翼を元の世界に帰すのも今は無理だし、ここまで知られちゃったんだ。もう隠せないよ。ごめんね、口止めしてて)

「……え?」

 口止めって何のことだろうと思った矢先、ビルスがふるふると頭を振って息を吐いた。手から光の球を出し、宙へ浮かべる。転移魔法を起動しているようだった。

(詳しいことはそっちで話すから、ちょっと待ってて)

 脳内の声が途切れたと同時に、ビルスの出した光の球の輝きが大きくなっていく。あまりの眩しさに目を瞑ってしまった。少しの間を置いて靴音が聞こえ、瞼の裏まで届いていた光が弱まっていく。

 ゆっくりと目を開けば、クラウディアさんが目の前に立っていた。少し乱れた金髪のポニーテール。銀の甲冑が部屋の明かりに照らされて淡く光っている。兜は外れていて、自分と似ている顔がよく見えた。見るからに悲しげで、辛そうで、だけどその緑の目は真っ直ぐ僕を見据えていて。どこか覚悟を決めているような、そんな様子だった。

「こうやってちゃんと向かい合って話すのは、最初の時以来かな?」

「……そう、ですね」

「あ、誰かいるって兵士にバレるといけないから、声は抑えめでお願いね。今の時間なら兵士も少ないしきっと大丈夫だとは思うけど、一応」

「……わかりました。でもどうしたんですか? 探索してたんじゃないんですか?」

「うん。そうだけど、翼にちゃんと伝えないといけないことだから」

 クラウディアさんはちらりとビルスを見やる。ビルスは苦しげな表情を浮かべていたが、クラウディアさんの目を見て、小さく頷いた。クラウディアさんは口角を少しだけ上げた後、僕へ向き直る。そして、

「全部知ってたんだ、私」

 僕の両の目を見つめて、迷いない口調でそう言った。全部? 全部ってどういうことだと混乱する僕に、彼女は続ける。

「守護兵団が裏で何をしてるのかも。私のことを利用してるのも。全部全部知ってて、それでも守護兵団に協力してたの」

 頭が真っ白になった。視界が歪んだ。クラウディアさんの、彼女の顔が、声が、上手く認識できない。それほどのショックだった。信じられなかった。何かの間違いだろう。そんな訳がない。だって、だってクラウディアさんは、戦争を防ぐため、真に人々を守るために聖神水を探し求める、『勇者』じゃないか!

「そん、な……なんで、どうして」

 ぽろぽろと溢れ出る言葉はそれ以上続かず、室内の重たい空気に漂っていく。外の天気は一層悪くなっており、聞こえる雨音はどんどん大きくなっていた。

「…………長くなるけど、いいかな。面白くもない、私の……昔の話だけど」

 ゆっくりと頷いた。雷鳴が轟く室内で、ベッド脇に立ったまま、目を細めてクラウディアさんは語り出す。

「私にはたった一人の家族がいるんだ。がんこな鍛治職人のおじいさんでね、エドワードっていうの。エディって呼んでたんだけどね。捨て子だった私のことをずっと育ててくれた。貧しい田舎村の端っこにある工房で、二人で暮らしてたんだ」

 エドワードという名前を口に出した瞬間、クラウディアさんの表情が少し和らいだ。けれどそれも少しの間だけで、また思い詰めたような表情に戻る。

「……私が召喚魔法の魔法陣を出せるようになったのは、六歳の時だったの。最初に出せた時はびっくりしたけれど、とっても嬉しかった。私も勇者アルベルト様の伝説は好きだったし、憧れてたもの。いつか勇者様になりたいって、夢が現実になったって、そう思った。でもね、そんなに甘くなかったよ」

 クラウディアさんは苦笑いして、首を振る。

「私の召喚魔法は勇者様と違って、すっごく弱いものだったの。魔法陣は出るけど、全然何かを召喚するなんてできなかった。色んな願いを込めて魔法を起動してみたけど、何も起こらなかった。同じ魔法でも、伝説の勇者様とは全然比べ物にならなかったんだ」

 クラウディアさんは自分の手のひらを見つめて、懐かしむような様子を見せる。

「あの召喚魔法が……? まさか……」

 クラウディアさんの召喚魔法が、そんなに弱いだって!? 僕は信じられなくて、目を瞬かせるばかりだった。

「そうだよ。もしそうじゃなかったら、もっと楽なはずじゃない? 聖神水が天から大量に降ってきますようにって願って、それが叶えば……無理して迷宮へ行く必要だってなくなる」

「そ、それは……確かに……」

「私の召喚魔法は、贅沢な願いは叶えられないんだ。聖神水もそうだし、働かずともお金が降ってくるとか、病気が簡単に治るとか……そういう、自分が苦労しなくてもよくなるような願いは、全然聞き届けられない」

 思っているほど都合の良いものじゃないのはわかっていたけど、ここまでとは。僕は絶句する。

「……私は、勇者に相応しくなかった。そうわかって、凄く残念だった。泣いたし、しばらく不貞腐れてたなぁ、あの時は。せっかくエディに我儘言って、おしゃれな仮面だって作ってもらったのに」

「仮面って……もしかして」

「そう、翼に借してたあれだよ」

 親玉退治の時に持たされたあの仮面のことか。エドワードさんに作ってもらったものなんだな、あれ。

「もし勇者になったら、きっといずれ社交界にも顔を出すことになると思ってね。いつ舞踏会に行っても良いように仮面作って! って駄々こねたの。流石に気が早すぎたけどね」

「なるほど……そんなことが」

 バカだよね、私。なんてクラウディアさんは呟いて、笑う。

「……そうして夢破れた私は、普通の女の子として、今までの日常に戻った。家の周りの芋畑を耕して、エディの鍛治の仕事を手伝って。日課の剣技の稽古をして……田舎村でも時々モンスターは出てきたから、それをエディと一緒に倒したりしてたっけ。そんな日々が、十二年ずっと続いた。召喚魔法を起動することなんて全然なかったな」

 まただ。おじいさんの名前を呼ぶたびに表情が柔らかく、明るくなっている。きっと無意識なんだろう。

「だけど最近になって、私たちの生活も変化した。エディの持病が悪化したの。今から四ヶ月くらい前にね」

 クラウディアさんの表情が暗くなる。また外で雷鳴が轟いた。今度は少し近い場所に落ちたらしく、結構な音が聞こえる。

「エディの持病は未だ有効な治療法が見つかっていない病気でね。悪化の影響か普通の薬も効かなくなって……それで、聖神水に頼るしかなくなった。けれどそんなものが買えるお金なんてなかったし、もし買えたとしてもごくごく僅かだろうから、それでエディの病気が治る保証はなくて」

 思い詰めたような表情で、クラウディアさんは俯き気味に話し続ける。

「……そんな時あの神話の、迷宮の話を思い出した。だから願ったの。ずっと使い物にならなかった召喚魔法を起動させて、聖神水が欲しいって。浴びるくらい、毎日飲み続けられるくらい、エディの病気が完治するくらい、たくさん欲しい。またエディと笑顔で、穏やかに日常を過ごせるなら。そのためなら、迷宮だって踏破してみせるからって」

 クラウディアさんの表情が歪む。言葉尻には悲痛さが滲み出ており、拳をぎゅっと握って小さく震えていた。

「何日願ったかわからないくらい、ずっと願ってた。エディは気にするなって強がってたけど苦しそうで、見てられなかった。家の中でやると止められるから、工房から少し離れたところにある森の中で、毎日こっそり召喚魔法を起動してた。今まで成功したことなんてなかったし、望みは薄かったけど、それでも縋った。そんなことを続けたある日——」

「……オイラが来たんだろ」

 ビルスが言った。ちょっと強めの口調で、表情は引き締まっている。

「召喚されて、初めて見たクラウディアの顔ときたら。忘れられねぇよ」

「そう? そんなに酷い顔だったかな」

「……酷かったぞ。目は腫れぼったくて、頬には涙の跡があって。鼻水ぐちゅぐちゅさせながら、涎もちょっと出てた」

「そこまでだった? 恥ずかしいな」

 クラウディアさんは笑って言っているが、明らかに辛そうだった。ビルスの顔はどんどん険しくなっていく。クラウディアさんに向ける視線はどこか苦しそうだ。

「……そう、ビルスが来てくれたの。よく晴れた森の中で、魔法陣が光って、一匹のドラゴンが私の前に現れてくれた。最初は信じられなくて、しばらく時間置いて、本当に成功したってわかったら……涙が止まらなくて」

「全く。ただでさえひでぇ顔だったのに、もっと酷くなってたぞ」

「仕方ないじゃん。だって奇跡だと思ったんだもの」

 顔を顰めるビルスに、クラウディアさんは小さく笑いながら言う。だけどすぐに顔色を曇らせ、口を開いた。

「ビルスの力を使えばきっと風の間に辿り着けるって、そう思った。だから色々用意して、迷宮に出発しようと思ってた。だけど——」

「やめろ、クラウディア!」

 話は遮られる。驚いて目を向ければ、苦しげに顔を歪ませるビルスがいた。口調は怒っているように聞こえるけれど、クラウディアさんに向ける表情、目。その全てには、心配が混じっているように見えた。

「無理するな。辛いだろ。話さなくていい。オイラが言ってやる」

「ありがとう、ビルス。だけど大丈夫。ちゃんと自分で言うから」

 クラウディアさんは首を振ってビルスの申し出を断った。僕に向き直って、話し始める。

「……出発しようと思ってた日の朝のことだった。ドアを開けたら守護兵団の兵士たちが目の前にいて、私たちの住む工房を取り囲んでいたの。そのまま無理やり工房に入られて、エディを取り押さえられた」

「なっ……! 守護兵団がですか!?」

 守護兵団がクラウディアさんの家に押し入ったなんて。何でそんなことを。僕は驚きで目を丸くさせる。

「そう。少しして、守護兵団本部長を名乗る人が現れたの。そして私と、肩に乗せてたビルスに向かって言ったわ。貴女が召喚魔法でそれを呼び出したのをたまたま見ていた、伝説の勇者と同じ力の持ち主がいたなんてといたく感激した、ぜひ守護兵団に入団してほしい。そう言って、スカウトしてきたの。エディを兵士に取り押さえさせたままね」

「そ、そんなのスカウトじゃありませんよ! まるで人質、いや脅迫じゃないですか……!」

「……モンスターについての調査のために田舎村の近くまで来てたらしくて、その時に見たんだって。私たちのこと色々調べられたみたいで、エディが病気なことも、魔族とのハーフだってこともバレてた」

「えっ! エドワードさんってハーフだったんですか」

「そう。魔人戦争が起きてからというもの、ハーフに対する風当たりは強くてね。村の人たちからは煙たがられてたんだ。だから他の人たちとは離れたところに住んでたの。医療も普通の人間に比べたら受けにくい立場だった」

「っ、まさか……!」

 最悪の想像が思い浮かんで、顔を顰める。嫌な予感しかしなかった。

「本部長は私が守護兵団に入団して本部に住むのなら、エディを守護兵団関係の病院に入れてくれると言ってきた。治療のための聖神水も融通してくれるともね。エディはやめろと叫んでいたけど…………私は、断れなかった」

 クラウディアさんは俯き、声が少し震えている。雷鳴がまた近くで轟き、窓がガタガタと音を立てていた。

「それからはずっとここに住んでた。戦闘や会議に参加することもなく、ほぼ軟禁状態。時々外に出ては、知らない間に付けられていた二代目勇者の称号を引っ提げて、守護兵団の兵士に囲まれて色んな街を練り歩いた」

「……召喚魔法を、パフォーマンスで使っていたんでしたっけ」

「そこら辺の話も知ってたんだね。そうだよ、人々から信用してもらうために、人気を獲得するために召喚魔法を使ってたんだ。魔法陣は出せるけど、私の場合まず成功しないから、守護兵団の方でダミーが用意された。小型のモンスターを捕まえて、見た目を変えて毒薬で動きを鈍くしたものだったかな。それを使って召喚成功したように見せかけてたの」

「そんなものまで用意されたんですか!?」

「守護兵団は私、二代目勇者の名を広めるためなら手段を選ばなかったからね。男装するよう言ってきたのも守護兵団だった。伝説の勇者アルベルト様と同じ性別の方が良いだろうからって」

「そんな理由で……!」

「勇者アルベルト様の人気は凄いからね。歴史的大逆転を決めたカノンの戦い以外にも、相棒である最強の大魔女様と共に戦場を駆け抜け、いくつもの勝利を収めた魔人戦争の大英雄だもの。二代目を名乗らせるなら、少しでもそれに近い形にしたかったんだと思う」

 クラウディアさんは呆れた様子で頭を大きく振る。顔には自嘲気味の笑顔を浮かべていた。

「よくやるよね、本当。私はただ、召喚魔法が使えるってだけの、普通の女の子なのに」

 クラウディアさんの俯きが更に酷くなる。嗚咽のような音は落雷に掻き消され、よく聞こえなかった。しばらくの沈黙の後に、また口を開く。

「……ここに来て最初の頃は、毎日絶望してた。

 二代目勇者なんて称号を勝手に与えられて、人々の前に立って、仕組まれた戦争へと導いて。召喚魔法を起動した時の歓声と、割れんばかりの喝采がずっと頭の中で響いてた。勇者様と呼ばれるのに耐えられなかった」

「クラウディア!」

 ビルスが強く、彼女の名を呼んだ。もういいと、静止するかのような声だった。

「罪悪感が酷くて、辛くて、苦しくて。部屋に閉じこもって毎晩毎晩ベッドの上で泣いてた。子どもの頃の夢は叶ったけれど、だけど。私がなりたかった勇者は……ぜったい、こんなんじゃなかった」

「クラウディア、もういい。それ以上何も言うな!」

「私は勇者に相応しくない。こんなの間違ってる。私のせいで、勇者の称号が汚れてる。そんなことばかり考えてた。だけどエディのことが心配で、守護兵団に逆らえなかった。エディ……私のせいで」

「違うだろ! オマエのせいじゃない! 守護兵団が来たのはオイラが……!」

「召喚の時の話でしょ、仕方ないよ。まさか誰かに見られてるなんて思いもしなかった。外で召喚魔法を使った私の責任で、ビルスは何にも悪くない」

「やめろって!」

「むしろありがとうだよ。未熟な召喚魔法で、それでも私の元に来てくれた。奇跡を見せてくれた。あの時、私がビルスの存在にどれだけ救われたか。今だってずっとそう」

 紡ぐ言葉は小さく震えていて、その表情は笑いながら、けれど今にも泣いてしまいそうで。緑の目は潤んでいた。

「どうしたらいいのかわからなくて、抜け殻みたいに日々を過ごしてた。もしビルスが一緒にいてくれなかったら、頭がおかしくなってたかもしれない」

「っ! クラウディア……!」

「ペットが欲しくて呼び出したんです、で何とか突き通せたのは本当に良かった。ビルスもありがとね、演技してくれて」

 ビルスは無言でクラウディアさんの笑顔から目を逸らす。僕も直視はできなかった。だってあまりにも痛々しくて、辛い記憶の数々が滲み出ているようで。

 声が止まった。誰も話さなくなった。クラウディアさんもビルスも似たような表情で、俯いて、ぴたりと口を閉じている。僕だってそうだ。言葉が出ない。息もしにくい。喉の奥が塞がれたようだ。胸が締め付けられる感覚と共に、体がズンと重くなる。更に激しくなっていく雨が窓を打ち付ける音だけが、耳の奥で長らく響いていた。

「…………だけどね、出会ったの。ある街を訪問した時、男の子が私に声を掛けてきた。お父さんがつい最近守護兵団に入ったんですって」

「それは……」

「こんな小さい子の家族をって、胸が痛んだよ」

「っ……!」

「そうしたら、言われたの」

 俯きがちだった顔を上げる。クラウディアさんの目はまだ潤んだままだったけど、向ける眼差しは強かった。

「その子、大病を抱えてるんですって。しかも家が貧乏で、普通の薬を買うのも大変なほどだって。普段は家で寝ていることがほとんどみたいだけど、私が来るからって無理を押して外に出てきたみたい」

「クラウディアさんを見に……」

「お父さんはね、その子の病気の治療と家計のために守護兵団に入ったみたい。家を離れちゃうからって泣くその子に、お父さんは言ったそうよ。守護兵団には勇者様がいるから大丈夫って、ちゃんと帰って来れるって」

 脳裏に浮かぶのは喫茶店での光景。発作を起こした店主に向かって息子の男性も似たようなことを言っていた。魔族相手に逆転した、あの伝説の勇者と同じ召喚魔法を使う人が守護兵団にいるのなら、きっと大丈夫だと。

「お父さんをよろしくお願いしますって、涙ぐみながら言われたの。それ以上は兵士に止められて話せなかった」

「そんなことが……」

「私、その時初めて気づいたんだ。苦しいのは私だけじゃない、みんなそうだって。だけど大切な誰かのために立ち上がって、諦めずに手を伸ばしてる」

 語気に力が入った。歯を食いしばり、握り拳に力を込めている。

「戦争に行くなんて怖いし、できることなら嫌に決まってる。けれど、大切な誰かと過ごす穏やかな日常、それが欲しくて。歯を食いしばって、震える足を無理やり動かして。苦しみながらも、頑張って自分を奮い立たせてるんだよ」

 雨音が少し、ほんの少しだけ弱くなったように聞こえた。けれど濡れた窓から見える暗雲は動いていない。

「……勇者アルベルト様。召喚魔法を駆使して戦争を逆転させた、魔人戦争の英雄。戦争後も各地で人々を助け、モンスターから守り続けたと伝わる、偉大な救世主。けれど彼はもうこの世にいない」

 クラウディアさんは俯き、首を振る。そうか、もう初代勇者は亡くなってしまっていたのか。

「戦争へ行く人々にとっても、その帰りを待つ人々にとっても、『勇者』っていうのは希望の星なの。そこにあるだけで安心する、それを見ているだけで頑張れる。そういう存在なの」

「希望の、星……」

 ふっと空を見れば、暗雲を裂いて僅かな青がそこにあった。時間が時間なのもあって茜色を帯びたそれは、分厚い雲にまた呑まれそうになりながらも、変わらず降り続ける雨の中でも、淡く光ってその存在を主張していた。

「怖いし、苦しいし、辛いし、気が狂いそうになる時もある。こんな私は勇者になんて相応しくないって、今も思っちゃう時がある。だけど、それでも」

 握り拳に更に力を込め、クラウディアさんはゆっくりと顔を上げていく。

「大切な誰かと笑顔で暮らす、穏やかな日常を求める人たちにとって『勇者』が必要で、それになれるのが私しかいないというのなら……どんなに勇者としての力が未熟だとしても、同じものを求める一人の人間として、黙っているわけにはいかない。私は、今、私にできることを精一杯やる」

 クラウディアさんは背筋をぴんと伸ばし、僕を見据える。けれどその視線は僕と個人だけではなく、もっと多くのものを捉えている気がした。体も声も少し震えているけれど、その表情は覚悟を決めたように張り詰めていた。

「私クラウディアは『勇者』だ。貧弱な召喚魔法しか使えなくても、利用されていても。今この時は、間違いなくこの星条界、人間たちにおける勇者だ!」

 普段とは打って変わった強い口調。他人に、世界に、自分自身にさえも宣言するような。雨音を裂いて、部屋中に声が響いている。ポニーテールを揺らし、興奮で顔を赤らめ、荒い息を吐いて。覚悟を決めた顔つきに、がっちりと固めた拳。エメラルドを思わせる瞳の奥には熱が渦巻いているように見えた。

 静かながらも、熱く、素早く燃え上がる。その様は青い炎のようで。そんなクラウディアさんの様子に、覚悟を決めた凛々しい表情に、僕の視線は、意識は吸い寄せられていく。

「……たとえ憧れに遠く及ばなくても、私は諦めずに手を伸ばし続ける。最後まで人々に寄り添い、人々の平和な日常を守るために戦ってみせる」

 ぐっと拳を固めて、遠くを見つめる。宝石のような瞳が、一層強く輝いた。

「そして、いつか私が夢見た——アルベルト様のような。誰かにとっての希望になれるような本物の勇者になってみせる。そう決めたんだ」

 ふっと表情を緩める。そしてビルスの方を見ながら、

「守護兵団の監視下にあっても、私にできることはまだある。だって私には、ビルスがいるんだから」

 険しい顔のビルスは、クラウディアさんに笑いかけられて驚いたのか目を丸くした。最初こそ呆れた様子だったが、やがて表情がほぐれていく。

「エディのことも、人々のことも諦めたくない。いや、諦めない。みんなが笑顔で穏やかに暮らせるようなってほしい。だから手遅れになる前に戦争を防ぐ。それはきっと、私にしかできないことだから。そう思って、聖神水を求めて迷宮へ入った」

 いつのまにか雨音は聞こえなくなっていた。暗雲を押し退け、茜色混じりの空が姿を現している。雲と拮抗、いや僅かに勝っているかもしれない。

「今からちょうど三ヶ月前だったかな? 本部の人たちが寝静まった頃にこっそり抜け出して、ついに初めての迷宮探索に繰り出したんだよね」

「早速入っていったら、数は少ないけどモンスターがいてよ。仲間割れ起こしてたのか、どいつもこいつも死にかけだったからよかったけどな」

 ビルスが深いため息をつく。心底大変だったという様子だ。そうだね、大変だったよねとクラウディアさんは同意する。

「死にかけのモンスターを倒しながら、風の音を聞き逃さないよう耳を澄ませて、歩いて、歩いて——そうしていたら、ダリアに出会ったの」

「ダリアさんと!? 初めて会ったの迷宮だったんですか!?」

「そうなんだよ! いやー、びっくりした。あの大迷宮に私たち以外が来てたなんて。しかも私そっくりの魔族! おまけに話してたら魔王だって言い出すから、冗談かと思った。でも本当だったんだよね」

「それは信じられませんよね……」

「ほんとそう。でもそれで魔王が……ダリアが戦争を止めたくて、そのために聖神水を探そうとしてたってわかった。目的も目標も全く一緒だったから、協力することにしたの」

 それで一緒に迷宮探索するようになって、今に至る訳だ。本当に奇跡みたいな出会いだったんだな。

「隠しててごめんね、翼。あまり知られたくないことだったし、影武者やってて辛くなるかもしれないと思ってたから」

「いえ、大丈夫です」

 確かにこの話を最初に聞いていたら、自分の置かれた状況の恐ろしさにビクビクしていただろう。じゃあ今聞いて大丈夫なのかと言われればそんなことはない。家族を人質に取って脅すような組織に属し、利用されているというのはやはり恐ろしい。

 けれど、クラウディアさんの覚悟を決めた表情が。相応しくないとわかっていても、自分は今、勇者なのだと言い切った姿が今も目に、耳に焼き付いている。その様の前では、あの輝きの前では、恐ろしさも何もかもが些事のようにすら思えた。

「ありがとう。翼にはお礼しかないよ」

「そんな、僕は大したことしてませんよ」

「大したことだよ。だって星条界に来てくれた」

 それはたまたま二人と同じ顔だったから、召喚魔法で呼び出されただけだと。それだけのことだと言おうとした。

 けれど言えなかった。だってクラウディアさんが笑っていたから。糸のように細くなった目から、ぽろりと涙が零れ落ちて頬を伝っていた。

「ビルスだけでも奇跡だと思ってたのに。私の弱い召喚魔法で、また一人この世界に来てくれた。私とそっくりな顔で、同じ人間で、同じくらいの歳の、優しい男の子」

 僕を映すその目はエメラルドのように輝いていて。堰を切ったように溢れ出す涙すら、淡く光っているように見えた。

「…………私ね、ずっと辛かったんだ。いくら勇者の立場にいても、いつか憧れた人のようになると誓っても……今の私は決して、表立って勇者らしく人を助けることも、誰かを守ることもできなかったから。守護兵団の活動は、その真逆だったし」

 ビルスには守られてばかりだったしねと付け加えて、クラウディアさんは目を擦る。

「……でも、翼が来てくれて。モンスターから翼を助けられた時——私、凄く嬉しかった。だって、初めて勇者らしいことができたから」

 頭の中で、クラウディアさんとの出会いの記憶が再生される。剣を振り翳し、僕を守ってくれた彼女。あの甲冑の下で、そんなことを思っていたのか。

 クラウディアさんは僕を真っ直ぐに見つめる。エメラルドの瞳が、僕だけを映している。零れる涙をまた拭いながら、

「こんな至らない私だけど、君を守れる。君の前でなら、私は、少しは——誰かを助け、誰かを守る、理想の『勇者』でいられるんだ。そう考えたら、凄く力が湧いてきた。私、まだ頑張れるって。そう思えた。ありがとう、翼」

 ふわりとした、花の咲くような笑顔を浮かべて。クラウディアさんは僕に、また礼を言った。

「…………助けたようで、本当に助けられたのは私の方だね、これじゃ」

 小さくそう呟いて、彼女はえへへと歯を見せて笑った。

「……ビルスにも、翼にも……ダリアやクローネさんにも……エディにも。みんなに助けられてばかりだな、私」

「……全く、オマエはおっちょこちょいで、すーぐ怪我するからな。危なっかしいったらありゃしねぇ。仕方ねぇから、何度だって助けてやるさ」

「もう、今おっちょこちょいとか言わないでよ……でもありがとう、ビルス」

 クラウディアさんはそう言いながら、赤くなった目を擦っている。鼻を啜る小さな音だけが部屋に響いていた。

 そのまましばらく経って、彼女の涙が完全に止まった頃。

「……長いこと話し込んじゃった。そろそろ交代の時間だね。ダリアが待ってるよ」

「あ……そ、そうですね」

 窓の外は茜色に染まっている。未だ分厚い暗雲は完全には晴れていないものの、夕日はしっかりとその顔を覗かせていた。

「目処も外れちゃったし、また探索に戻らないと」

「そうだな。んじゃオイラは転移魔法の準備するか。起動したらツバサは向こうに行くから、用があるんなら早めにな」

「わかってるよ。翼、行く前にちょっといいかな」

「へ……あっ、は、はい!」

「まだこの世界にいてもらうことになるから、改めてお願いしなくちゃいけないと思って」

 お願い? となる僕の前で、クラウディアさんが深々と頭を下げた。召喚されて間もなかった頃を思い出し、はっとなる。

「まずは謝罪から。二日三日では終わりそうにないです、ごめんなさい。そしてこれからするお願いも凄く勝手だから、それについてもごめんなさい」

 そんなことしか言えないけどと続けながら、クラウディアさんは、勇者は頭を下げ続ける。

「……これからも、翼が一刻も早く元の世界に帰れるよう努力するし、もし翼の身に何かあったらすぐに駆けつけられるようにする。絶対に私が守るから。約束するよ。だから、本物の風の間を見つけるまでは、私に代わって——」

 転移魔法が起動した。視界を光が覆い、その眩しさに反射的に目を瞑る。姿は見えないけれど、その声ははっきりと僕の耳へ届いていた。

「——『勇者』に、なってくれませんか」

 僕が何か言うよりも先に意識が落ちた。光の底へと沈んでいく。

 星条界での生活二日目、勇者の時間はこうして終わったのだった。

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