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「おせーぞ、ツバサ! 早くしねぇとアイツに怒られるって!」

「わかってるよ! ごめんってば!」

 早朝、守護兵団本部にて。僕はビルスに急かされながら廊下を駆け出していた。

「全く、何なんだよアイツよー! いきなり来てよー!」

 僕の肩に止まりながら、小声で愚痴をこぼすビルス。僕は苦笑いを浮かべることしかできなかった。

 遡ること数分前。クラウディアさんと入れ替わり、格好を整え終えた僕は風の通話をしながら朝食をとっていた。前と同様に兵士さんから受け取ったそれを、クラウディアさんが僕のために丸々残しておいてくれたらしい。じゃあクラウディアさんは何を食べたのかと聞くと、芋とだけ返ってきた。ビルスが言うには、自家製の畑から持ってきた芋をクローゼットに隠してあるらしく、僕と交代する前に食べていたから大丈夫とのことらしい。スペアの剣だのお手製手榴弾だの入っていただけでも驚きなのに、芋まで隠していたのか。あのクローゼットにはどれだけのものが詰まっているんだ?

 本日の朝食は焼きたてのトーストにサラダ、スープ、ベーコンエッグ。シンプルながらに美味しいそれは、魔王側の豪華な食事に若干疲れていた僕にはとてもありがたかった。しかし朝食を譲ってもらうなんて何だか申し訳ないなとビルスにこぼしたら、大丈夫だとと言われた。クラウディアもダリアも気にしねーから! それも影武者の仕事のうちだし! とビルスは朗らかに笑って言う。

 確かに仕事のうちかもしれないけれど、戦争を止めるため、人間と魔族双方のために動く彼女たちこそちゃんとした食事をとるべきじゃないかと考えてしまう。特にダリアさんなんて、いつもあんな凄い食事をとっているというのに。僕なんかがあんなものを食べるなんて、身の丈に合ってないというか。いやまあそれを言い出したら全部そうなんだけれど。

 トーストの耳を齧り、サクサクと小気味良い音を立てながら咀嚼する。この部屋にキッチンがあれば自炊するんだけどな。あの一件以降、母が家事をしないことも多くなったので、そこら辺のスキルは一通り身につけている。食品庫の一つも置かれていない部屋を見渡し、溜息まじりにスープのカップに口をつけた。そうしていたら、

「おっそいわよ、クラウス様! 何タラタラご飯食べてんのよ!」

 ぶっと音を立てて、カップの中に口に含んだスープをぶち撒けた。カップがあって本当に良かったと思う。一部飲み込んだ分は気管に入ったらしくしばらく咳き込む羽目になり、鼻に逆流したのか痛みすらあった。

「ま、窓から…………ピューイッ! ピューイ!」

 目を丸くしたビルスが思わず喋りそうになったが、自分のペット設定を思い出したのか大きな鳴き声を上げてごまかした。

 窓の外、魔法陣をいくつも展開させながら宙に浮いているのは、もちろんリアンナさんだ。両手を腰に当て、少し怒りを滲ませた顔で僕たちをじっと見つめている。声は刺々しい上に大きく、閉まっている窓を貫通して聞こえてきた。

「…………あ、あの、すみません……どうしたんでしょうか……」

 咳が落ち着いたところで、窓を開いてそっと聞く。胃液が迫り上がったのか、口の奥が少し酸っぱかった。

「何って、言ったでしょ? モンスターの親玉退治しに行くって 忘れたわけ?」

「いや、わかってますけど……!」

 確かに明日の朝だとは言っていたけど、こんなに早く来てるとは思わないじゃないか!しかも玄関で待ち合わせだったはずなのに、魔法で空飛んで窓から来るなんて反則すぎる!

「そう、ならいいわ。あたしを待たせるなんていい度胸だけど、クラウス様だから許してあげる。感謝して、さっさと来なさいよね。下で待ってるわ」

 リアンナさんはサイドテールをかき上げ、下へと降りていく。小さくなっていく背中を見つめながら、僕とビルスは無言で顔を見合わせた。

 そうして今に至る。朝食を掻き込み、服を着替え、荷物を持って廊下を駆けていく。早い時間だけど兵士さんは既に起きていて、何人もとすれ違った。みんな挨拶してくれるけど、その目にはどこか同情というか、憐れみというか、そんな色が浮かんでいた。

 廊下の突き当たりにある階段を駆け下りて、玄関まで走る。その間に用意していたものを顔に付けた。玄関に置かれたベンチに足を組んで座るリアンナさんが見えてきて、ぺこりと頭を下げる。

「はあ、ぜえ、はあ……お、お待たせしました……」

 肩で息をし、両膝に手をつく。いくら全速力で来たからとはいえ、この程度の距離でも息が切れるとは。日頃の運動不足が恨めしい。夏休みだからと家に引きこもってばかりはよくなかったな。

「へぇ、今日は変わった格好なのね」

「えっ、あっ、いや……その……」

 物珍しそうな顔で僕を上から下まで見つめるリアンナさん。確かに今日の僕はいつもと、いやクラウディアさんが普段している格好とは違っている。フリルが付いた白ブラウスに黒のスキニージーンズ。腰にはウエストポーチ、そして剣を差している。普段は全身を銀の甲冑に包んでいる勇者の姿とは一転して、シンプルかつお洒落な私服になっている。髪型もいつもの高い位置のポニーテールから、下で緩く結んだ形に変わった。だが何より彼女の注目を集めているのは、間違いなく顔に付いている仮面だろう。

「舞踏会にでも行く気なのかしら?」

 ふっと鼻で笑うリアンナさん。顔が赤くなっていくのを自分でも感じる。ビルスは申し訳ないといったように僕の肩の上で小さく鳴いた。

 転移魔法でこちらへ戻ってきた時、一番最初に目に付いたのはテーブルの上に畳んで置かれていた服だった。聞けば、クラウディアさんが今日僕が出かける時の服を用意してくれたとのことだった。それはとてもありがたかったのだけれど、傍に置かれた銀の仮面も一緒に付けろというのはさすがに僕も絶句してしまった。

 聞けば、勇者が出歩くと騒ぎになるし、一応男装をしている関係上、外で顔を出すのは避けているらしい。かといって甲冑を着て歩くのは経験のない僕では難しいだろうし、頭だけ付けては悪目立ちしてしまう。顔をある程度隠せて僕でも扱いやすいもの、といったらこれくらいしかなかったらしい。

 僕への気遣いだったのか、ありがたいという感謝の気持ちと、漫画でしか見たことのないようなデザインの仮面を付けてリアンナさんの前に出なければいけないという羞恥心が天秤の上でグラグラする。他の兵士たちには見られたくなかったので、ギリギリまで付けなかった。

 顔を隠さなきゃいけない理屈はわかるし、クラウディアさんの思いもわかる。仮面だって落ち着いた雰囲気の装飾に加えて、曇り一つなく輝いている素敵なものだ。だけど、だけど!

「クラウス様って冗談がお好きなのね。このあたしと歩くのにそんな格好する気?」

「い、いやぁ……その……」

 ベンチに肘をついて、リアンナさんはジト目でこちらを見てくる。僕はタジタジになって少しずつ後ずさりするしかなかった。

 翼ってスレンダーだし、こういう格好似合うと思ってさー! なんて風の通話で元気に言うクラウディアさんを思い出し、遠い目になってしまう。本当はこの髪型もゆるふわ三つ編みの方が可愛いと思うんだよね、とも言ってたな。僕をコーディネートするのちょっと楽しみ始めてないか? 僕はスレンダーじゃなくてただの痩せ型の男だ。というか、よく考えたらこの仮面だって相当目立つのでは!?

「……まあいいわ。大方、勇者様が顔出して歩くと騒ぎになるからでしょう? よく知られた甲冑姿じゃなくて、私服なのもそういうことよね?」

「えっ、あ、は、はい!」

 的確にこちらの事情を言い当てられ、僕は高速で頷く。何でわかったんだと思ったけれど、リアンナさんも新聞に載るくらいの有名人だもんな。似たような立場だから察せるってことか。

「それは心配ないわ」

 リアンナさんは笑い、僕の腕をがっと掴んで引き寄せる。危うく転びそうになったけれど、ベンチの手すりに捕まってなんとか耐えた。

「魔法陣展開、飛行魔法起動」

 ぼうっと水色の魔法陣が地面に浮き出てきて、妖しく光り始める。僕たちを囲うように現れたそれを、リアンナさんは杖を取り出して操作する。

「飛ぶわよ? 魔法陣から落ちないことね」

 瞬間、体が宙に浮いた。突然の感覚に驚くのも束の間、猛スピードで前方の玄関へ、そして外へ向かって進み始めた。

「ひええええ!?!?!?!?」

 どんどんスピードど高度が上がっていき、周囲の景色が目まぐるしく変わってゆく。新幹線に乗ってるのかと錯覚するほどだ。最早何か考える余裕など一ミリもなく、口から甲高い悲鳴が漏れ出ているのも気にしていられなかった。どんどん遠ざかっていく地面、近づいていく青い空と白い雲。これ落ちたら死ぬんじゃないかと思ったけれど、リアンナさんがしっかりと腕を掴んでくれているから何とか大丈夫そうだ。何というか、勝手なのにちょこちょこ優しいというか。

 ビルスは何とか振り落とされないよう僕の肩に爪を立てて捕まっている。ちょっと痛いけどこれは仕方ない。耳元には細い悲鳴が聞こえている。ドラゴンもこんな声出すんだな。

「そろそろ着くわよ」

 リアンナさんの声色は特にいつもと変わらない。飛行魔法って言ってたけど、いつもこんなスピードで移動してるんだろうか。魔法凄すぎないか!?

 空を駆ける体が一転、重力に従って急降下していく。急な変化に舌を噛みそうになった。声にならない悲鳴を上げながら、固く目を瞑りながら僕は落ちていく。ビルスが肩の上でガタガタと震えているのがよくわかった。

 速度がだんだんと下がっていき、限界のところで魔法陣が消えた。僕たちは地面に降り立つ。息は荒く、心臓は爆音を鳴らしていた。

「ほーら、こうして飛んで行けば人目なんて関係なかったでしょう?」

 飛行魔法が使える魔法使いなんて中々いないのよ? とリアンナさんは得意げに言う。仮面を付け直し、乱れた髪を整え、僕は乾いた笑い声で応対する。確かに凄い魔法だし、人目にもつきにくいかもしれないけど。というかあのスピードじゃ見えたとしても誰だかわからなそうだけど。でも少しは同乗者のことも考えてほしいかな! クローネさんの飛行で多少慣れてなかったら、今すぐ吐いてもおかしくなかった。

「ピュピュピュ……」

 ビルスは情けない鳴き声を上げて僕の肩からふらふらと飛び立ったが、すぐに限界が来たのか地面にぺしゃりと伏せた。口から舌がはみ出ている。

「あら、クラウス様のペットは高いところが苦手なのかしら?」

 リアンナさんはつかつかとビルスに近づき、その場でしゃがんでビルスの顔を覗き込む。ビルスはペットらしく小さく鳴いていた。

「はい、これあげるわ」

 懐から何かを取り出すと、手に乗せてビルスに差し出した。食べられる? と聞きながらビルスに与えたそれは、ひまわりの種に似た見た目をしていた。

「ピュ!」

 ビルスの鮮やかな緑の目が爛々と輝いて、地面に伏せていたはずの体がガバッと起き上がる。リアンナさんの手の上、種を目掛けて一目散だ。

「え、そ、それ何ですか?」

「何って、ナッツよ。最高級のやつ」

 リアンナさんの手に口をつけ、もっきゅもっきゅとナッツを食べているビルスに目を白黒させる。確かにビルスはずっとご飯の時ピーナッツを食べてだから、こういうものが好きなのかとは思っていたけど。でもまさかここまで元気になるなんて。

「す、すみません。ありがとうございます」

「いいわよ。どうせ今日会ったらあげようと思ってたし」

 リアンナさんは美味しそうにナッツを食べるビルスを見て、嬉しそうだった。最初からビルスにあげるつもりだったのか。リアンナさんって動物好きなのかな。ビルスはドラゴンなんだけど……って、それも一応動物か。動物でいいんだよな?

 周囲を見渡すと、見覚えのない森の中だった。辺りは木々が生い茂り、葉が空を覆い隠さんとするほどだ。地面には伸び放題の草にその隙間から顔を出す花々、虫も飛んでいる。

「あの、ここはどこなんでしょうか……?」

「ああ、言い忘れてたわね。モンスターの親玉がいるところよ、多分」

「モッ!?」

 そうさらりと言ってのけるリアンナさん。思わず変な声が出てしまった。ビルスもさすがに驚いたのか、目を丸くしている。ただし種を食べる口は全く止まっていない。むしろ限界まで詰め込んでいるから、ほっぺがハムスターみたいになっている。

「昨日クラウス様と別れてから、守護兵団本部の周辺一帯を調査してたのよ。あの蜘蛛に目玉付いたモンスターの大群はどこから来たのかね。そうして割り出したのが、ここなのよ」

 調査なんてしていたのか。でもよく考えたら、本部の兵士さんたちもそんな感じのことを調べていると言っていたし、会議も行っているようだった。また僕こと勇者は呼ばれず部屋にいるだけだったから、詳しいことはよくわからないんだけど。何か毎回呼ばれないんだよな、勇者のはずなのに。何でなんだろう? かといって呼ばれたら呼ばれたで困るから構わないんだけど。

 しかし、この辺りに蜘蛛の親玉とやらがいるのか。あのグロテスクな見た目を思い出してちょっと気分が悪くなる。親玉ってことはあの見た目で、もっと大きくなるって感じなんだろうか。あまり想像したくないな。

「クラウス様、今凄いモンスターが出てるって話はもう聞いてるのかしら?」

「へっ? いや…………あ、はい! 聞いてます」

 何のことか迷ったけど、思い出した。ビルスが影武者生活の一日目、始めに言っていたことだ。ヤマタノオロチみたいな見た目の巨大なモンスターが出てきて、牧場の牛がやられたって。近年稀に見る被害で、守護兵団本部の精鋭部隊まで緊急招集されたという話だったはずだ。

「そのモンスターの体にも大きな目玉がついてたみたいよ。全く、迷惑な話よね。周辺調査の結果、まだ子どもは産まれてないみたいだけど」

 そんなことになってたのか。うわ、怖すぎる! そりゃあ守護兵団本部の人たちも動員されるわけだ。

「今のうちに倒しておけば被害が最小限に抑えられる。守護兵団の評判も上げられるだろうし、あの本部長がわざわざ出向くわけね」

 リアンナさんがふうっと息を吐いて立ち上がる。手の中にあった種は綺麗になくなっていて、僅かに残ったカスを払っていた。ビルスの頬袋は風船みたいになっていて、見るからに幸せそうな顔をしている。

「ま、そっちは置いておいて、あたしたちは昨日の蜘蛛の親玉退治に戻りましょ。守護兵団の世話は必要ない、討伐も調査もあたし一人いれば十分よ」

「えっ、調査もですか?」

「もちろん。あたしなら魔法をいくつも展開して、広範囲を一気に調べられるわ。今回はあれだけの大群だし、痕跡が見つかるのも早かったわね」

 魔法でそんなこともできるのか、ってまさかこの言い方、守護兵団本部の周辺一帯を調査してたってのもリアンナさん一人でやったのか。あまりにもチートすぎないか!?

「あの、魔力とかって大丈夫なんですか?」

 この世界の魔法を使うためには魔力が必要だったはずだ。ビルスの話によれば一つの魔法を使うにつき一つの魔法陣を出すのが基本だった。リアンナさんはいつもたくさんの魔法陣を展開して魔法を連発しているようだし、使える魔法の種類も攻撃から飛行から調査までと豊富だ。一体どれだけ魔力があったらそうなれるんだろう。

「誰の心配をしているの、クラウス様。あたしは『金色魔導師』、この星条界で最も優れた魔法使いよ?」

「で、ですよね」

 ハッと息を吐いて首を振るリアンナさんは、手に持った杖をくるくると回していた。黒色で、持ち手から先端にかけて細くなっていくそれはちょっと警棒に似ている。

「使った魔力は時間経過で回復する。この回復スピードは魔力量と一緒で、生まれつき決まってるわ」

 まあ聖神水を飲んで回復するって手もあるけど、とリアンナさんは続ける。クローネさんが言っていた、魔族が魔人戦争の時にやっていたドーピングのことか。あの話を聞くとあまり使いたくないな。僕に魔力はないだろうから、関係ない話なんだけど。それにしても魔力が時間経過で回復とは、ゲームで宿屋に泊まったら体力と魔力が全回復できるのと似たような感じか。

「だけど、あたしにはどちらも必要ない」

 聖神水はじゃあエリクサーみたいなものか? なんて考えていたら、リアンナさんの声がぐっと大きくなった。

「あたしの生まれつきの魔力量、その回復スピードはこの星条界で一番よ。ちゃんと大会で優勝もしたしね」

 視線を少し落とせば、ケープについている幾多の勲章が見える。金色のそれらは木漏れ日を反射して淡く光っていた。

「ここに付いてる勲章のほとんどは、あたしが今までモンスターの大量討伐を表彰された時に貰ったものよ」

「えっ、こんなにですか!?」

 ケープの地の色である紺を隠さんばかりに付けられている勲章は、ぱっと見ではとても数え切れないほどで。どれもこれもキラキラ光っている。

「ふん、当然でしょ? この一番大きいのは、金色魔導師になった時のものよ」

 サイドテールをかき上げ、鼻を鳴らすリアンナさん。指差された方を見れば、確かに一際大きい、豪華な装飾を施された勲章があった。

「クラウス様、あたしのこと守護兵団の連中から聞いた?」

「……え? いえ、何も」

「へぇ、悪口の一つや二つ聞いてると思ってたのに。ざーんねん」

 リアンナさんはケラケラと笑っている。訳がわからず、僕は目を瞬かせるばかりだ。悪口って、何でそんな? いやまあ、あの副本部長さんとかは言いようにされてイライラしてたけど。

「あたしが一人でどんどんモンスターを倒していくから、最近あいつらの仕事が少なくなってるのよ。いい気味だわ」

 あの時、モンスターの集団をリアンナさんが一人で倒したことを思い出す。確かにあんな調子でモンスターを倒されていったら、守護兵団の仕事がなくなるのも無理はない。

「あいつら今活発に動いてるから、邪魔されたくないんでしょうね。モンスターを倒して名を上げて、更に守護兵団への加入者を増やそうって魂胆なんだろうし」

 兵士さんを増やそうっていうのか。守護兵団って人足りないのかな? あんまりそうは見えなかったけど。だけどモンスターに襲われることを考えたら、人が多いのに越したことはないか。

「全く、反吐が出るわ。だって——」

 最後まで続かなかった。突如地面が揺れ始め、僕とリアンナさんはバランスを崩す。僕はその場で見事にすっ転んだが、リアンナさんは普通に立っていた。恥ずかしくて顔が赤くなったけれど、リアンナさんは僕の方を見てはいなかった。伸びきった雑草の生い茂る草むらの奥、地割れのような音が響く方向を睨みつけている。

「おいおい! 急にどうしたんだよこれぇ!」

 ビルスが転がってきて僕の足にぶつかり、小声で囁いた。そのほっぺたはまだ少し膨らんでいる。

「ち、ちょっと! まだ食べてるの!?」

「この種スゲー高級でウメーんだよ! クラウディアんちで一回だけ食べたけど、また食べれるなんて! 飲み込むのもったいねーんだよぉー!」

 マイペースすぎるだろ、ビルスのやつ! 今どう考えてもそんな状況じゃないって! そうは思ったが言える余裕はない。震える地に、耳に飛び込む轟音は一定の間隔で響いている。それが少しずつこちらに近づいてくるのに気づいた瞬間、体を冷たい汗が流れていくのを感じた。

 ——モンスターだ。それも大型の。

 姿は見えないけど、ひしひしと伝わってくる気配、そしてこの地鳴りのような足音。それだけで僕でも理解できた。

「も、もう出てきたのかよ? 早くねぇか!?」

 状況に気づいたのか、ビルスは口の中のものを飲み込み周囲を見渡す。その顔は焦っていたが、お腹に収めた種への名残惜しさも僅かに滲んでいた。

 地面に伏せた体を何とか起こし、リアンナさんの方へ目を向ける。彼女は視線を草むらへ固定したまま、杖を構えていた。

 思えば、飛行魔法の起動を終えてからもリアンナさんは杖を仕舞うことなく手に持ったままだった。ずっと警戒していたんだろう。

 この場所に着いてそんなに時間も経ってないのに、すぐに出てくるとは。この辺がモンスターの親玉がいる場所だろうとは言ってたけれど、ここまで近いとは思わなかった。それだけリアンナさんの調査の質が良いってことか。

 自分の腰に目を落とす。甲冑は着れなくても、勇者として武器の携帯は避けては通れない。ウエストポーチには貰った手作り手榴弾が詰まっているし、使えはしないけど剣だってある。初めて持った本物の剣は細身だけど想像よりずっと重くて、腰に差すと歩きにくかった。

「来るわよ、クラウス様」

「は、はい……!」

 轟音に、地面の揺れ。木は折れ、散った葉が風に乗ってこちらへ流れてくる。舞い上がる土埃が目に入りそうで、片手で顔を覆った。もう片方の手は開いたウエストポーチへ。使い方は行く前、朝食を食べながらの通話でクラウディアさんにレクチャーされている。

「紐を引いて……当たりをつけて、思いっきり……」

 思い出しながら呟く。頭に浮かぶのはあの目玉のついた蜘蛛の姿。あれを更に大きくしたものがこれから現れるなんて、想像するだけで鳥肌が立つ。

 だけど、今度は逃げない。逃げたくない。

 たとえ影武者に相応しくないとわかっていても、今は自分がやると言ったことの責任を取らなければ。もう震えて何もできないなんて、情けない姿を見せるわけにはいかない。リアンナさんの前なら尚更だ。

 立ち上がり、両頬をばちんと叩く。砂塵を吸い込まないよう息をしながら、しっかりと目を開き、前を見据える。足が震えているのは、恐怖か、それとも地面の揺れによるものか。

 一層激しい轟音が響き、辺りへ勢いよく土と小石が飛び散った。見れば、黒く細い脚が僕たちの目の前の草むらを掻き分け、地面へ突き刺さっている。その足が蜘蛛のものだと気付いた頃、急に辺りが暗くなった。いや、違う。暗いのは僕たちの周りだけだ。はっとして顔を上げ、僕は息を呑む。

「げ……!」

 僕の肩の上へと移動していたビルスが、同じように息を呑むのがわかった。ビルスから漏れ出た声は木の枝が折れるバキバキという音にかき消される。

 ——デカい。

 あまりにも大きい。想像していたものの倍、いやもっとあるかもしれない。見た目こそ蜘蛛そのものだけど、虫なんて生優しいものじゃない。怪獣映画に出てきそうなそれは、僕たちを覆うようにその影を落とし、上から見下ろしていた。蜘蛛本来の赤黒い目からは何の感情も見えず、ただ静かに僕たちを見ていた。

 それがとんでもない生き物だと、本能で理解した。頭の中で警鐘が鳴っている。全身の毛が逆立ち、呼吸が細くなる。ウエストポーチへ手を伸ばし、手榴弾を握った。足が、手が、指が、全身がガタガタと震えている。せっかく握った手榴弾を今にも落としそうだ。

 蜘蛛はしゅるりと口から白いものを出す。糸だ。体に比べ決して大きいとは言い難い口から出てくる何本もの糸は、守護兵団を襲った小蜘蛛たちが出したものよりもずっと太い。うねうねと触手のごとき動きをするそれらの先端が、僕ではなくリアンナさんの方へ向けられているのに気づいた。

「っ!」

 まずい、リアンナさんが——! 手榴弾を握る手に力が戻る。そこからはほぼ反射だった。眉間に皺を寄せて、頬を伝う汗を払って。歯を食い縛り、手榴弾を構え、その紐を引いた。

「~~~~~~っ!」

 声にならない声を上げ、目を瞑りながら。上へ、僕たちを見下ろす親玉に向けて、思いっきり投げつけた。あまりにも勢いをつけすぎたせいか、バランスを崩し僕はその場に膝を付く。

「ツ、ツバサ! 大丈夫か!?」

「だ、大丈夫…………」

 ビルスが耳元で焦りながら声を掛けてくる。僕は立ち上がれなかった。体に力が入らない。腰が抜けてしまった。頭の中は真っ白で、思考回路は働かない。荒い呼吸と心臓の爆音だけが聞こえていた。

 轟く爆音。爆風で舞い上がる土埃。白紙の思考に色が戻り、手榴弾が爆発したと気づいて頭を上げる。

 だが、親玉は先程と変わらぬ様子で僕を見下ろしていた。黒光りする体には傷らしいものは見当たらず、爆発で舞い上がった葉が転々と張り付いているだけだった。

 全く効いていない。そう気づいた瞬間、自分の顔が青く染まるのを感じた。強い目眩に、体の震えが、寒気が止まらない。呼吸も忘れ、目を限界まで開きながら、僕はその場で固まっていた。

 親玉は糸の先端を僕へ向ける。さっきよりも数が増えているかもしれない。それらは僕の体を捉えんと、一斉に襲いかかってきた。

 終わった——空から降ってくる白い糸の大群。湧き上がる絶望感は僕を入念に地面に縫い付ける。段々と視界が暗くなっていく。暗く、重く、苦しく。意識が朧げになっていく。

 全てが闇に落ちる、その手前。鮮やかなピンク色が暗黒を遮った。

「陽動ありがと、クラウス様。おかげでいつもよりたくさんの魔法が起動できたわ」

 風を受けて靡くサイドテール。ケープに光る勲章と、手に持った杖。その先端は紫の光を帯び、地面に落ちる影をものともせずに輝いていた。

「だけど、もう手出しはいらないわ。言ったでしょ? あたしが全部やるって」

 紫の魔法陣が親玉の影を覆っていく。僕とビルスを取り囲むようにして浮かび上がったそれは淡い光の膜を出し、僕たちを包み込む。まだ震えの収まらない手を紫の膜へ伸ばすと、硬い感触があった。

「防御魔法よ。これでアイツの攻撃は当たらない」

 顔を見なくてもわかった。リアンナさんは不敵な笑みを浮かべ、空に似た色の瞳を輝かせて親玉を見据えている。声には恐怖など微塵も滲んでおらず、むしろ余裕、愉悦すら感じるほどだった。

 はっと意識を取り戻せば、ぐんと地面が励起する感覚がして、僕は前のめりになる。ビルスが肩から転げ落ち、地面に頭から落ちて蛙が潰れたみたいな声を出す。どうしたのかと辺りを見渡せば、僕たちが浮いているのがわかった。いつのまにか膝をついていたはずの土は魔法陣へと変わり、飛行魔法の時と同じ色の光を纏っていた。

「ショータイムよ。特等席で見てなさい?」

 少し僕の方へと首を向け、リアンナさんが口の端を吊り上げた瞬間、僕とビルスを乗せた魔法陣は更に上昇し、親玉を見下ろせる位置まできた。

「おいおい、何なんだよコレぇ!」

「わかんないよ……!」

 僕たちを乗せて空に浮かび上がる魔法陣。上空から見る親玉はやはり常軌を逸する大きさで、言葉が出てこなかった。あの時見た蜘蛛の何十匹分だろうか。背中についた大きな目玉がぎょろぎょろと動いているのは気持ちが悪く、初見ではないとはいえやはり身震いしてしまう。

 けれど巨大な瞳が映そうとしているのは、上空にいる僕たちではない。八本ある足のうちの一本、その傍で腕を組んで立っているリアンナさんだ。背中の目では位置的に難しいのだろうが、頭と思われる部分に付いている本来の蜘蛛の目ははっきりとリアンナさんに向けられている。

 僕よりも一回り小さい身長。年齢だって、十三歳と四つも下のはずだ。だけど彼女は怯むことなく、地面に展開した幾多の魔法陣の上で杖を構えている。魔法陣の色は緑で、形は通常の丸型ではなく渦を巻いたようになっている。一体何の魔法なんだろうか、そんな僕の疑問はすぐに解消することとなる。

 地に、一陣の風。

 突如として緑の陣から吹き上がり、辺りの小石を巻き上げ宙へ浮かす。一つ一つはとても小さく、その辺に落ちてるものだ。けれどそれらが少しずつ、少しずつ、数えきれないほどに増えていく。森の空気を、緑を覆わんばかりに灰色の小石たちが親玉の周囲を取り囲んだ。

 しかし親玉も黙ってはいない。足の一本を振り上げ、リアンナさん目掛けて振り下ろした。

「危ない!」

 思わず声が出てしまった。地雷の爆発を思わせる音と、舞い上がる土埃。だがそこに彼女の姿はとうになく、大きく凹み亀裂の入った地面があるだけだった。

 ——上だ。

 水色の魔法陣を展開させ、リアンナさんは宙を舞う。蜘蛛の背中の目玉がぎょろりと動き、彼女の姿を捉えた。刹那、蜘蛛は口から糸を吐く。細いそれらは瞬時に束となり、縄のような太さに変化した。彼女を目掛けて猛スピードで迫っていく。

 だが届かない。彼女は杖を振り上げ、振り下ろす。瞬間、浮き上がった小石たちが一斉に親玉を目掛けて飛んでいった。吐いた糸は銃弾ごとき速さの石に散らされ、ばらばらになって地面に落ちていく。攻撃の手を払われた親玉の巨体を目掛け、無数の石が空から降ってくる。

 機関銃を乱射したような音。立ち上る土煙が風に煽られ、周囲を覆っていく。煙の濃さに思わず目を瞑った。ビルスは嫌そうに体を縮めている。なるべく息をしないように手で口を抑え、もう片方の手は目を覆う。指の隙間を僅かに開き、目を細めてリアンナさん、そして親玉の姿を探す。煙を吸ってしまったのか、ビルスの大きな咳が響いた。

 土煙が晴れていき、巨体が姿を表す。しかしそれは見るも無惨な姿に変わっていた。装甲のような黒色の体は至る所が割れ、穴が開き、骨と内側の肉のようなものが表に露出している。青い血やどろどろの体液が噴き出し、辺りに独特の匂いを漂わせていた。地面に突き刺さった柱のような長い足も傷つき欠け、今にも折れそうにガタガタと震えている。蜘蛛本来の赤黒い目は双方が落ち、青く染まった地面の上に原型も残らぬ姿であった。残った背中の目玉はぎょろぎょろと動いているが、充血しており黒い瞳孔には無数の石が突き刺さっている。

「ヒェッ……」

 ビルスのドン引きと恐怖の混じり合った声。僕は何も言えなかった。僕が手榴弾を投げても傷一つ付けられていなかったあの体を、こうも破壊できるとは。しかも小石を銃弾代わりにするなんて。

「あら、まだ死んでないのね。腐っても親玉じゃない」

 魔法陣に乗ったまま、サイドテールをかき上げ笑うリアンナさんが見えた。自分の体に跳ねた土を払いながら、それでいて杖の先端は親玉に向けたままだ。

「でもそろそろ終わりよ」

 杖を振り上げ、一回転させる。辺り一帯の地面が緑の光を放ち始める。親玉の立つ場所、それ血と体液でドロドロになった地面を覆うように魔法陣が敷かれていく。

「風魔法展開。来なさい、竜巻!」

 魔法陣から風が突き上がり、渦を巻いていく。彼女が杖を回転させるたびに渦は速く、激しく回転し、巨大化していく。最早風は刃のごとく、周囲の木々も地面も親玉の体も、全てを切り裂き巻き上げていった。骨が折れる音、肉が裂ける音、独特の匂いは一層強くなり、深青の液体と臓器の残骸、肉片が風から零れ落ち、辺りに撒き散らされていく。最後に残った背中の眼球を大きく見開きながら、親玉の体は竜巻の中に消えていった。

 少しの間を置いて彼女が杖の回転をやめ手を下ろすと、竜巻も地面の魔法陣もぽつぽつと消えていった。バラバラになった黒い塊が葉や土に塗れて落ちていく。僕とビルスの乗っている魔法陣も降下していき、地面に着いてすぐに消えた。

 上空よりも更にキツくなった匂い。地面に広がる青は草むらを染め上げ、肉塊には虫が集っていた。湧き上がる不快感に胸を抑える。モンスターだから何とか耐えられるけれど、これが人間だったら確実に吐いている。

「終わったわよー、クラウス様。楽しんでいただけたかしら?」

 魔法陣から降りて、大きく伸びをしながらリアンナさんは声を掛けてくる。口を押さえて欠伸していたが、僕の様子を見ると目を見開いて、

「あら、顔色が悪いわね。どうしたの?」

「……えっ、あ、いや……!」

「もしかしてこういうの見たことなかった? まあ守護兵団の連中じゃできないものね。こうやってバラバラにした方が死体処理が楽なのよ。ああいう大きい奴はほっといたら邪魔になるし」

「な、なるほどです……」

 言われてみれば確かに、あれだけ大きい死体だと邪魔になりそうだよな。それにしたってあんな、子どものサイズどころか原型の欠片も残らない姿にしてしまうとは。凄いというか、恐ろしいというか。退治というよりは、蹂躙という言葉が似合う所業だ。

 ——これが、圧倒的な力というやつか。

「はー、これで終わったわね。あたしも汚いもの見て気分悪いし、どこかでお茶でもしていかない?」

「お、お茶ですか……」

「いいでしょ? 行きましょ」

 戦闘から一転してお茶の誘いとは。まだ僕は心の切り替えが追いつかないというのに。けれどリアンナさんに話を聞くチャンスだ。戦争反対派なのかどうか、そして大事な話とやらも聞かないと。

 気を引き締め、背筋を伸ばす。迫り上がっていた酸っぱいものはぐっと飲み込んだ。

「わかりました、行きます」

「決まりね。この森を抜けてすぐのところに街があるから、そこで」

 リアンナさんはくるりと僕に背中を向け、鼻歌交じりに歩き出す。これはアレか、着いてこいってことかな。静けさを取り戻した森の中、枝葉がすっかり落ちた木々の中を彼女は歩いていく。日の光に照らされ、柔らかな風がサイドテールを揺らしている。背中しか見えないけれど、機嫌が良さそうなのは見てとれた。

 きっと真っ直ぐな目をして、口元には笑みが溢れているんだろう。昔、学校の廊下で見た景色とよく似たそれを想像すると、自然と目が細まった。

 ——リアンナさんは、彼と少し似ているな。

「もう疲れたぞぉ……」

「そうだね、お疲れ様。お茶するみたいだし、そこで何か食べようか」

 肩の上でくってりしているビルスを労いの言葉をかけながら、ウエストポーチの中を確認する。手榴弾の他に一応クラウディアさんから貰ったお金も入ってたはずだけど。どこいったかな。

 手探りではよくわからなかったので、腰に視線を落とす。すると視界の端に黒いものが映った。見れば木の根元に黒い破片が転がっており、火薬らしき粉が撒かれていた。

 これ、僕が投げた手榴弾の破片じゃないか? 何でこんな場所に落ちてるんだ。投げた方向とは反対な気がするんだけど。

 少し考えて気づいた。まさか僕、目を瞑っていたから見当違いの方向に投げていたんじゃないか。親玉の体に傷一つ付けられなかったのは、そもそも当たっていなかったからでは?

「…………っ、はっ……はは」

 乾いた笑い声が口から漏れる。ああそうか、だからリアンナさんは陽動って言ってたのか。ビルスが突然笑い出した僕を見て目を瞬かせていたが、何も言う気になれなかった。情けないやら、呆れるやら。色々通り越して笑えてくる。

「ちょっとー! クラウス様ー! はーやーくー!」

 リアンナさんが手を振り、大声で呼びかけてくる。先行していた彼女と僕の距離はかなり離れていて、ここから見える彼女の姿はだいぶ小さくなってしまっていた。

 ——遠いな、本当に。勇者も魔王も、何もかも。

 目を細め、深くため息をついて。鮮やかなピンクのサイドテールが風にゆらめく様を眺めながら、僕は小走りで彼女の元へと駆けていった。

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