5
雲へ沈んでいくような、ふわふわとした感覚の中で目が覚める。
僕は誰もいない学校の教室に立っていた。陽光差し込む教室の中。少しガタついた机の並びに教卓、黒板に備え付けのテレビ。時計は放課後を指し示している。耳を澄ませばグラウンドで練習を行う野球部の掛け声と、吹奏楽部の演奏が聞こえてくる。
ああ、これは夢だ。すぐに確信できる。目が覚めたなんて大間違い、僕は眠ったままだ。だって僕が今いるのは異世界なんだから。
ええと、さっきまで何をしていたんだったか。そうだ、クローネさんに連れられて、見回りから帰ってきたんだ。ビルスは起きていて、悪りぃ寝ちまったと謝ってきた。ビルスに無事に見回りが終わったのとクローネさんから色々聞いたことを報告して、その後ダリアさんにも同じように報告した。ダリアさんはほっとした様子で、お礼を言われた。ゴスロリ服の感想を聞かれたけれどノーコメントを貫いた。あの股下の開いた感覚にはまだ慣れないし、あまり慣れたくはない。
それからは夕食を食べた。クローネさんに大きなホールへ案内されて、赤いクロスの敷かれた縦長のテーブルのお誕生日席に座って。両側にはずらっと給仕の人が並んでいた。エルフっぽい耳の人や、オークといった色々な外見の人がいて、魔族の多様さに驚いたっけ。次々と運ばれてくる食事はどれも豪華で、見たことのないものも多かったけれど味はとても美味しかった。料理といい、周りの人たちといい、部屋の雰囲気といい、何もかもがキラキラしていて目が回りそうだった。傍にクローネさんがいてくれたから何とか耐えられたものの、あの光景にはスカート以上に慣れないかもしれない。
夕食を終えると、夜も遅いし疲れているだろうから、寝たらどうだとクローネさんに言われた。元より睡眠も影武者の仕事のうちだったし、ありがたくベッドを使わせていただいた。初めての天蓋ベッドは思っていた数倍ふかふかで、思わずテンションが上がってしまったっけ。布団に染み付いた女の子の香りにちょっとドキドキしながら、眠りに落ちる。
そうして今に至る。あまりにも身近だった、だが今となってはありえない景色の中で、僕は深く溜息をつく。何でこんな時にこんな夢を見てしまうんだろう。ホームシックとか、そういう類のものなんだろうか。それにしたってこの場所じゃ、この夢じゃなくてもいいだろうに。
この教室は、僕の高校一年生の時のものだ。僕は時折この頃のことを夢に見る。それくらい去年のことは記憶に深く残っているのだ。
——ただしそれは、悪い意味も含まれているのだけれど。
僕は教室を出る。地面の感覚は薄く、踏み締めても踏み締めても体が浮き上がるようで。頭の中では昔の記憶がずっと再生されていた。
遡るは小学生の頃。低学年の頃からずっとテストというテストで満点を取り続け、勉強に関しては誰にも負けなかった。周囲からは尊敬され、教員たちからよく褒められていた。
そんな僕を、母はいつも自慢の息子だと言っていた。母方の祖父母は勉強に厳しく、母が大学受験に失敗したのをことあるごとに言い続けるような人たちだった。母はずっとそのことを気にして暗い性格になっていたが、僕がいつしか天才と言われるようになってからは、見違えるように明るくなった。
僕のような出来の良い子が自分の息子であることが何より幸せだと言う母は、僕の成績を更に上げようと様々な手を尽くしてくれた。山ほどの参考書も、ノートも、勉強に使うものならどんなものだって与えてくれた。
中学に入ってもなお、僕がテストで学年一位から落ちることはただの一度もなかった。一日のほとんどを勉強に費やす生活をつまらなく感じることはあったし、仲の良い友達がいないことを寂しく思う時もあった。けれど良い成績をとって母が喜ぶ姿を見ていると、自分も嬉しくて。だから勉強し続けていた。天才であり続けようと、ずっと努力していた。
そうして三年があっという間に経ち、受験期に入る。母が僕へ弾けるような笑顔で薦めてきたのは全国でもトップクラスの偏差値の高校で、僕はそれを志望校にした。模試の結果は良好で、先生方からも大丈夫だろうと言われるほどだった。そして春を迎える頃、多くの人が集まる会場の中で、僕は確かな手応えを感じながら高校受験を終えた。これが中学の記憶。そして僕が天才だった、最後の時期の記憶だ。
僕は第一志望に落ちた。春一番と共に届いたその結果は、模試の判定も教師の言葉も母の希望も何もかもをひっくり返した。守り通してきた天才の称号にも、僕の心にも、全てに消えない傷をつけて、風は吹き抜けていった。
母は荒れた。荒れに荒れた。最初こそ部屋に引きこもって泣くだけだったが、だんだんとヒステリックに泣き叫んだり、物に当たったりするようになった。少し時間が経っても精神は不安定なままで、僕を見るたびに涙が止まらなかったり、怒りのままに暴れ出すこともあった。胸ぐらを掴まれたこともある。物を投げつけられたこともあったな、当たりはしなかったけれども。
信じてたのに、期待してたのに。裏切りやがって。母は口を開くたびにそんなことを言っていた。その言葉を聞くたびに、怒りと涙でぐちゃぐちゃになった顔を見るたびに、叫び続けたせいでがらがらになった声を聞くたびに、もう母にとって自分は自慢の息子ではなくなってしまったと強く実感した。僕は母の期待を、信頼を裏切ってしまった。その事実が重くのしかかるたび、突き破るような胸の痛みと無力感に襲われ、僕は俯いて謝ることしかできなかった。
ごめんなさい、ごめんなさいと機械のように繰り返していたことを思い出す。涙なんて枯れるほど流したし、食事もほとんど取らずにベッドで横になり続けることもあった。窓の外から聞こえる車の音や、時計の針の音、母の啜り泣きや暴れて家の床を踏み鳴らす音を聞きながら、ひたすら天井の虚空を眺める日々を過ごしていた。
辛くて、苦しくて、この世界から消えてしまいたくて。深い悲しみに混じったどうしようもない怒りが胸に渦巻いていた。僕が今までやってきたことは、自分の人生は一体何だったのかと、ずっと自問していた。
けれど時間は残酷に過ぎ去っていくわけで、いつしか僕は第二志望の学校の入学式に出席し、高校一年生となっていた。その頃には僕も少し落ち着いていて、高校生活をどう過ごそうかと考えられるくらいにはなっていた。最終学歴である大学では良い結果を残せるよう、今のうちから頑張ろうと毎日新しい教科書を広げ、勉強に励んでいた。
そんな僕に母は何も言わなかった。中学生の頃のような応援と称賛はなく、必要最低限の関わりしか持たなくなっていた。頻度は下がったものの未だ泣いたり、ヒステリーを起こすこともあった。発作のようなそれをなるべく起こさないよう、あまり刺激しないように常に母の様子を伺いながら日々を過ごしていた。けれどそれは仕方ない。一度失った信頼を取り戻すのには時間がかかる、至極当然のことだと思っていた。
そうこうしているうちに、高校生になって初めての定期テストの時期がやってきた。まずはここで一位を取ろうと思い、僕は勉強し続けた。また結果を出せれば、天才と呼ばれるようになれば、きっと母も笑顔を取り戻してくれるだろう。そう考えていた。
けれど、僕の淡い希望は見事に崩れ去った。
僕の高校では定期テストの成績上位者を掲示板に張り出すことになっている。それを知った僕は成績発表の日の昼休み、いの一番に職員室の隣にある掲示板へと走った。手応えはあった。自信のある解答も多かった。だが、結果は残酷だった。
——僕は、学年二位だった。
張り出された紙の一番上には、前科目で満点を取った人の名前が記されていた。小野と書かれたその彼は、確か隣のクラスの人で。ツーブロックの精悍な顔立ちが思い浮かんだ。よく朝の会に遅刻してて、先生に怒られてるのを見たことがある。
また小野君一位なの? と、掲示板の前で呆然とする僕の横で女の子たちが噂話をしていた。聞こえてきた話によれば、彼は中学の時からずっとテストで学年一位を取り続けていたらしい。
そしてなんと彼は、高校受験で僕が落ちた高校にも受かっていた。受かったはいいが、家から近い方がいいからとこちらの学校を選んだとのことだった。しかしそれが逆に油断を呼び、遅刻魔になっているようだと笑っている。
——でも本当小野君って、『天才』だよね。
彼女たちはそう話しながら去っていった。僕はその場から動けなかった。昼休みの終わりが刻一刻と迫る中、廊下を通る人たちから不審な目を向けられても、石のように固まったままだった。
あれ、小野また一位じゃん。そんな声が聞こえて、振り返った。制服を着崩した男子の集団は、短い昼休みでもバスケをしてきたらしく汗をかいている。その中心にいる彼こそが小野君だった。
大したことないと言う彼に、周りの男は野次を飛ばす。バスケットボールを頭にぐりぐりと押し付けられながら、小野君は楽しそうに笑っていた。
スポーツは苦手だった。仲の良い友達もいなかった。それでいて使える時間のほとんどを勉強に費やしていた。それが僕だった。勉強こそが、僕を構成するほぼ全てと言っても過言ではなかった。
けれど彼は、小野君は。僕を悠々と超えた相手は、決してそれだけなんかじゃなくて、もっと色々なものを持っているんだと、気づいてしまった。その様を見てしまった。
絶望はあった。嫉妬もあった。心の中で産み出され、渦巻いていく黒い闇があった。けれど、それ以上に——
キーン、コーン、カーン、コーン。
チャイムが昼休みの終わりを告げ、男たちの集団は慌て始める。やべぇ、次の授業なんだっけ、そんな声が聞こえてきた。英語だと小野君が答えていた。彼らは、小野君は陽の光が差し込む廊下を、脇目も振らずに小走りで駆け抜けていく。その目は真っ直ぐで、口元には笑みが溢れていた。
あの日、僕は知った。圧倒的な力を持つ者の輝かしさを。
そして僕に、それがないことも。
——僕は、天才に相応しくなかったのだ。
程なくして成績通知を見た母は、泣くことも怒ることもなかった。一つ溜息をついて、失望しきった目で僕を見て。成績通知を破り捨てた。
心が折れる音がした。
僕の十六年間、『天才』だった日々は、僕にとっての当たり前の日常は、この瞬間をもって完全に崩壊したのだ。
記憶の再生が止まり、大きく息を吐いて伸びをする。誰もいない廊下は窓から差し込む光に照らされ、あの時と同じように明るく輝いていた。
あれから約一年経って、十七歳を迎えた。けれど僕の時計はあの日から止まったままらしい。針の音はずっと聞こえているのに、先に進まなくちゃいけないのに、手足を、全身を、心を囚われている。それは現世だろうが異世界だろうが変わらなくて、だからこんな状況でも夢に見てしまうんだろう。
母はどうしているんだろう。父は仕事で忙しいから家には帰っていないだろうし、僕がいなくなっていることに気づくのは母くらいしかいない。けれど無理かもな。僕と母の関係性は修復されることのないまま、最低限の関わりのみ。最近は一人で出かけたまま帰ってこないことも増えてきたし、最後にまともに会話したのもいつだったか覚えていない。
あの頃の、僕が天才だと呼ばれていた頃の明るい母の姿はとうになく、僕へ向けられていた笑顔や数々の言葉もない。無言、無関心、無感動。薬を飲むようになってヒステリーや暴れる頻度は減り、感情が薄れているのか無表情でいることが増えた。感情が出なくなった時は心配したけれど、稀に僕へ向けられる視線に怨嗟が含まれているのに気づいて、悲しいやら嬉しいやら複雑になったっけ。
天才じゃない僕は、母にとって必要ではない。そう理解した時から、現世で僕の居場所は無いも同然だった。ずっと勉強一筋だったから友達はいなかったし、教室でいつも一人だった。一度部活に入ってみようかと思ったけれど、母が許可してくれるとは思えなくて、断念した。
廊下の端で止まり、その場に座り込む。窓からの光が届かない日陰で、壁に背中を預けて天井を見上げた。
そういえば、一人称を『僕』に変えたのも中学の頃だったっけ。最初は多くのクラスメイト同様、ずっと『俺』を使っていた。けれど母に、俺は乱暴な言い方だから、やめてほしいと言われたのだ。なので『僕』に変えたら、笑って頭を撫でてくれた。それが嬉しくて、今もずっと僕を使っている。
明るい母が、その笑顔が好きだった。だから母が喜んでくれるように、母の言うことを聞いて、勉強を頑張って、『天才』を維持し続けていた。でもそれはもう無理で。天才という称号が剥がれた僕の中身は空っぽで、誰にも必要とされなくなった。生きる希望も、新たな夢もなく、屍のように日々を過ごしている。
今の僕は一体、何者なんだろう。自分を形作る何もかもを失って、時間が止まったまま動けなくなっている僕の、存在価値は何だろう?
「……誰か、教えてくれよ」
膝を抱えて、頭を突っ伏して。夢の中、誰にも届かない願いを呟く。答えなんてないってわかってるし、答えてくれる人だっていない。
目を閉じれば、浮かんでくるのはゲームの画面だった。高校生二年性になって一人で過ごすことが多くなってからは、気晴らしにゲームをやることが増えた。最新のゲーム機なんて買ってもらえるわけがないし、お金もない。だから父親が昔使ってたらしい古いゲーム機で、古いRPGをやっていた。モンスターを従えて世界を支配しようとする魔王を、勇者が倒しに行く。単純明快なストーリーに、単調なバトルシステム。だけど楽しかったし、レベルが上がってどんどん強くなっていくのを実感するたびに心の奥底がじわりと熱くなるのを感じた。
勇者と魔王、双方に僕が淡い憧憬を抱き始めたのはこの頃だ。多くの者に求められ、その価値を認められた存在。決して誰にも侵されず、奪われることのない、特別な地位にいる存在。それを一言で表したのが、『勇者』と『魔王』だった。そんな称号を持てる彼らの何と輝かしいことか。ゲームをやっていて、そう感じることが増えていった。
——まさか、自分が異世界に転移して、影武者という形で憧れの勇者と魔王になれるなんて、この頃は思いもしてなかったけど。
そして今、影武者生活の一日目が終わろうとしている。あっという間だったし、とっても疲れた。この星条界についての情報が増えて頭がパンクしそうだった。戸惑うことも多かったし、モンスターは凄く怖かった。
それでも、楽しかった。色んな感情や記憶と混ぜこぜになってはいるけれど、僕の中に確かにある気持ちだ。
だけど同時に、こうも思った。
——僕は、影武者に相応しくない。
星条界で今、何が起きているのか。人間側と魔族側の事情、その背景。クラウディアさんとダリアさんが一体、どんな状況にあるのか。
味方がいなくても、反発されたとしても、過去の自分を捨ててでも、人間と魔族双方の平和を願い、戦争を防ぎ民を守るために、神話の迷宮に立ち向かう彼女たち。勇敢さに溢れ、覚悟の決まった二人は、間違いなく勇者と魔王、その唯一無二の称号を持つに相応しい人たちだった。
全てを知った今、僕の心はバキバキに折れていた。
彼女たちと僕なんて到底比べものにならない。なるわけがない。僕とは文字通り住む世界も、立っている場所も、一人称を変えた経緯だって。何もかもが違っていた。
僕はただ、顔が勇者と魔王によく似ているだけの、何の力もないただの高校二年生。それが僕、八雲翼だ。自分でも笑ってしまうくらい役立たずで、弱くて、勇敢さも覚悟もない。自分が何者なのかもわからない、そんな人間だ。
——そんな僕が、影武者とはいえど、彼女たちと同じ勇者と魔王の立場にいるなんて、心底恥ずかしかった。
勇者と魔王になれて嬉しいと、少しでも思ったかつての自分を殴りたい。穴があったら入りたい。自己嫌悪で押し潰されそうだった。
——けれど彼女たちは、そんな僕を必要だと言ってくれた。
召喚された身だからこそ、必要とされてるなんてことはわかってる。それでも優しくしてくれて。いつぶりかわからない言葉をかけてくれて。僕は心底嬉しかった。
彼女たちだけじゃない、クローネさんだってそうだ。ビルスもずっと僕のサポートをしてくれている。僕が勝手な意地で言い出した、リアンナさんとの接触にだって協力すると言ってくれた。
結局僕は、必要とされたところで、その期待に応えられる人間ではない。『天才』だった時も、今回の影武者もずっとそうだ。
だとしても、こんな僕にそこまで良くしてくれる皆を、放っておくことなどできなかった。
クローネさんに言われたことを思い出す。あの二人の味方になってほしいと、僕の存在こそが彼女たちにとっての支えなのだと。
こんな僕でも、できることがあるなら。それで修羅の道を進む彼女たちの、支えになれるというのなら。この世界にいる、ほんの少しの間だけは。
——勇者と魔王の味方として、できる限りのことをしよう。
そう思った瞬間のこと。体がぐっと上に引っ張られる感覚と共に、周囲の世界がだんだんぼやけていく。地面を踏み締める感覚が無くなっていく。夢から覚めていく。
ああ、もう時間なのか。体内時計は正確な方だ。月は沈み、日が昇り、空が白んでいく。雲雀の鳴き声と共に朝がやってくる。
僕の星条界での生活、二日目の始まりだ。
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