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地面を踏み締め、目を開く。静寂の中に僕の足音と、ビルスの羽音が響き渡った。
「ふ~、無事ダリアのところに着いたな」
「うん、ありがとうビルス」
僕に変身魔法をかけ、ダリアさんと入れ替わりでここまでワープさせてきたビルスは、ほっとした様子で息をつく。魔法の効果が出て、もう僕の瞳や髪型は変わっているようだ。声もダリアさんのものになっている。ショートカットなので、髪の違和感が少ないのはありがたい。何度か瞬きして、辺りをぐるりと見回した。
物凄く広い部屋だ。ずらりと左右に立ち並ぶ柱と、天井に吊り下げられた豪華なシャンデリア。床に一直線に敷かれた、鮮やかな赤の絨毯。直線の先にあるのは、一際目立つ大きな赤い椅子だ。
至るところを金で装飾され、少し離れた僕の目にもキラキラと輝いて映るそれが何か、僕はすぐにわかった。
——間違いない。あれは魔王が座る玉座だ。
「おお……!」
あるんじゃないかとは思っていたけど、本当にあった。興奮し、思わず声が漏れ出る。RPGのラスボス戦で見たものと似ている。本当に玉座ってこういう感じなんだな。凄いな、かっこいいな!
「おっと、玉座の間に出ちまったか。この時間帯なら閉まってるから、他のヤツらは入ってこれねぇけどよ」
「え? ここに出たらだめだったの?」
「本当はダリアの部屋に出ようと思ってたんだ。ちょっとズレちまったな、悪りぃ」
こっちだぜとビルスに案内され、玉座の間に通じているというダリアさんの部屋に入った。
こちらも随分と広い部屋だ。天蓋付きのベッド、豪華な装飾の施されたテーブルに椅子、ドレッサー。大きなソファに使われている革は見るからに上質そうで、淡い光沢を放っている。大きな棚には本がずらりと並んでいた。その横にあるサイドテーブルには水槽があり、カラフルな魚が泳いでいる。窓は大きく、ベランダへ繋がっていあ。極め付けは何と言っても天井だ。数えきれないほどの宝石があしらわれたシャンデリア! 玉座の天井にあったものよりも更に豪華かもしれない。間違いない。これは王様の、魔王の部屋だと心から確信する。
ビルスは魔法の使いすぎで疲れたのか、部屋に入ると速攻で天蓋ベッドに飛び込んでいった。
僕も豪華なベッドをもっと間近で見たい気持ちはあるが、まずは着替えが先だ。万が一誰か入って来たら大変なことになるからな。ダリアさんから服についての連絡は特に貰ってないけど、クローゼットから適当に選んでしまっていいのだろうか。にしても、クローゼットってどれなんだろう。あれかな?
クローゼットらしき家具の方を見やれば、その近くに置かれている写真立てが目に入った。
そこに写っていたのは、ダリアさんだ。金色の豪華な冠を被って、玉座に座っている。その表情、姿勢、どれをとっても堂々としていて威厳があり、写真越しにでもオーラをひしひしと感じた。絶対的な強者であると本能的に理解できる。
RPGでもそうだが、玉座に座る魔王というのはこうも凄まじいオーラを出すものなのか。出会った時、明るい笑顔でウインクしてきたダリアさんと、この写真の魔王が同一人物だなんてとても思えない。そんなことを考えていた時、
「お待ちしておりました、翼様」
「うわーっ!!!」
背後から突然声を掛けられ、飛び上がって悲鳴を上げてしまった。まずい、まだ着替えてもいないのに、大声を出したら誰か来てしまうかも……いや、既に誰かいるじゃないか!
「お静かにお願いします。騒ぎになると面倒ですので」
感情の読み取りにくい、一定の声。女性の声とはわかるが、あまりに抑揚がなさすぎて一瞬機械音声かと思うほどだった。
振り返れば部屋の隅、具体的に言うと大きな棚の横、影になっていて見えにくいところに女性が立っている。
深い緑の髪は肩を少し過ぎたくらいの長さ。黒い目は前髪で隠れ、片方しか見えていない。陶器のような白い肌に、目元の泣きぼくろ。とても美人だが、その表情からは声と同じく全く感情が見えない、まさしく無といった感じだ。
こんなところにいたのか。しかもノースリーブの黒いワンピースに白エプロンなんて出立ちなものだから、余計にわかりにくくなっている。これはもしかして、メイド服なんだろうか。大きく胸元の開いたデザインなものだから、谷間ががっつり見えている。かなりの巨乳だ。あまり見てはいけないと、慌てて視線を逸らした。
「あ、あの、どなたですか……?」
それにしてもこの人、初対面のはずなのになぜ僕の名前を知っているんだ。
「申し遅れました。私の名はクローネ。現在の魔族の王、通称『魔王』ことダリア・ヴァン・ローザリオン様に専属でお使えしております」
以後よろしくお願いします、と続けてクローネさんは直角の礼をする。僕もぺこりとお辞儀した。そうか、この人がダリアさんが言ってた頼れる侍女さんか。
すらすらと出てくる挨拶の言葉もずっと平坦な声だ。これがクローネさんの普通なんだろうか。それにしても専属のメイドとは、さすがは魔王様。しかもクローネさんの発言から考えるに、他にも使用人がいるようだし。
「おー! クローネ! 久しぶりだなー!」
「お久しぶりです、ビルス様」
天蓋ベッドに転がって寛ぐビルスに、クローネさんはまたも体を直角に曲げてお辞儀している。
「しっかし、相変わらずいいベッドだよな! さすが王宮だぜ!」
「お気に召したのなら何よりです」
常に無表情、平坦な声のクローネさんに対して、特にビルスは気にすることなく対応している。普段からこういう人ってことで合ってるみたいだ。
「翼様、ダリア様から話は聞いております。本日からどうぞよろしくお願いします」
「あっ、は、はい! よろしくお願いします!」
美しい九十度お辞儀。慌てて僕も深めのお辞儀を返す。顔を上げたクローネさんは、僕の頭から足の先まで眺めると、
「それにしても……想像以上ですね。ここまでダリア様と似ている方がいらっしゃるとは。しかも男性だなんて。驚きました」
「あはは……いやあ、僕もびっくりでした」
驚きだとクローネさんは言っているが、その表情に変化は見られない。けれどさっきより少しだけ早口になっている気がするんだよな。相変わらず声の抑揚はないけれど。
「では翼様、本日のお洋服はこちらに用意しております。着替えてください」
クローネさんは棚に付いた扉を開くと、そこから袋を取り出した。あの中に着替えが入っているのだろう。クローネさんもいることだし、どこか別な場所に移動して着替えるべきか。しかしどんな服なんだろう。なるべくさっきみたいなシンプルなものだといいんだけど。
「こちらです、どうぞ」
クローネさんが差し出してきた服を見て、僕は絶句した。
ふわっとしたデザインの、黒を基調としたワンピース。所々に赤が差し込まれており、リボンやフリルが多いのも目立つ。こういう服は見たことがある。確かゴスロリ服というんだっけ。
長い沈黙。僕はゴスロリ服と真顔のクローネさんを交互に見ながら、言葉に詰まっていた。
「………………えーっと、その。もしかしてこれを着ろというわけじゃ……」
(そうだぞ!)
喉奥から絞り出した言葉を恐る恐る紡げば、間髪入れず元気な声で答えが返ってきた。
——天井から。
「えっ!?」
驚いて見上げれば、天井にホログラム映像。ダリアさんが映っており、僕に向かって手を振っていた。風のテレビ電話、いつのまに繋がっていたのか。
「あ、ダリアさん。お疲れ様です」
(うむ。翼の方こそ、よく来てくれたな。余の城にようこそ、だ!)
ウインクし、弾けるような笑顔を向けるダリアさん。相変わらずの明るさというか、初対面の時よりもテンションが高い気がする。
(しかし、素晴らしい変装だな。余と瓜二つではないか)
「スゲェよな! 別人だなんて全然思えねぇぜ!」
ダリアさんは目を見開き、まじまじと僕を見つめる。ビルスもクローネさんも揃ってこちらを見ているものだから、恥ずかしくなって目を逸らした。
「……あ、あの! それよりも! もしかして今日着る服って本当にこれなんですか?」
(先程言ったではないか。もちろんそうだぞ!)
ダリアさんは笑顔で言う。けれど僕からしてみれば、死刑宣告にも等しい一言だった。
(余の持っている中でもトップクラスに可愛い服を選んだ。そなたも余と同じ顔、間違いなく似合うに決まっておる。しばらく着てなかったから、状態も良いしな)
ダリアさんの弾けるような笑顔とは反対に、僕は青い顔をしてその場で固まるばかりだ。
確かにとても可愛い服だ。ダリアさんに似合いそうではある。だけど、それを僕が着るというのは話が別だ!
いやまあ、女の人の影武者をするのだから、女装の覚悟をしていなかったわけではない。クラウディアさんの方の事情が特殊だっただけで、本来ならもっと女性っぽい格好をしてもおかしくなかった。
それにしても、だ。ゴスロリ服は流石に想定外だった! ダリアさんも初対面の時はそんなにザ・女の子って感じの服装ではなかったので、完全に油断していた。
(さあ、翼! ぜひ着てみてくれ! 絶対に似合う、余が保証するぞ!)
「あ、あの……! それなんですが!」
見るからにご機嫌な様子のダリアさんに、僕は必死で待ったをかける。
「その、もう少しシンプルな服はありませんか? 流石に男の僕にこれはちょっと……」
無理ですと言おうとして、僕は口を閉じる。だって、ダリアさんが——
(………………そうか。そうだったな、すまない、浮かれすぎたようだ。いくら余と似ているからとはいえ、男のそなたにこの服は苦か。余の配慮が足りなかったな)
少し長めの沈黙の後に、ダリアさんは笑顔でそう言った。
だけど、僕は見てしまった。僕が無理だと言おうとした瞬間の、彼女の表情を。顔から笑みが消え、今にも泣きそうな表情になった彼女を。すぐに笑顔に戻ったけれど、あの一瞬の表情は間違いなく悲しみに溢れていた。
明るいダリアさんが、あんな顔をするなんて。僕の胸がズキリと痛む。そんなにゴスロリ服を断られたのがショックだったのか? 何だか申し訳なくなってきた。
(すまないな、翼! 今クローネに替えの服を持ってきてもらうから、少し待って……)
「あ、あの!」
ダリアさんの笑顔が痛々しく見えて、思わず声が出る。僕の男としてのプライドよりも、申し訳なさの方が上回っていた。
「あ、あの、いいです。大丈夫です。着ますよ」
(…………ツバサ、無理しなくていいぞ? 嫌なんだろう?)
「い、いえ! 気が変わりました! 大丈夫ですから! どこで着替えたら良いですか?」
「あちらでどうぞ。クローゼットですが、中でそのまま着替えられますので」
僕の質問に答えたのはクローネさんだ。指差す先にあるのはドア。あれがクローゼットだって? 訝しげにドアを開けば、左右に服がずらりと並んでいる。そうか、これはウォークインクローゼットなんだ。
ダリアさんに何か言われる前に、ウォークインクローゼットに滑り込んだ。急いで着替えを始める。服の構造がよくわからず苦戦したが、しばらくしてやっと着ることができた。靴も履き替えて、鏡で己の姿を確認する。リボンとフリルの多い黒ワンピースに身を包む自分は、紛れもなく女の子だった。
「うわ……」
自分で言うのもなんだが、違和感がなさすぎる。しかもこの服、思っていたよりもスカートが短い。油断すると中身が見えそうで、慌てて押さえた。
この仕草がもう既に女の子っぽくないか。自分の性別が迷子になりそうだ。自分でやったことではあるのだが、既に恥ずかしさで顔が熱い。若干後悔の気持ちはあったが、それでもあのままでいたら、罪悪感がずっと残りそうだったので仕方がない。
「……す、すみません、着れました。これでいいですかね……?」
恐る恐るドアを開き、皆の元に帰る。おずおずとしながら出て行けば、ホログラム映像のダリアさんが大きく目を見開いた。
(おお……! なんと可愛らしい!)
初めて僕を見た時と同じような、興奮の滲み出た声。目はキラキラと輝いていて、頬は赤かった。
とても嬉しそうな笑顔なので、内心ホッとした。けれど恥ずかしいは恥ずかしいので、僕はその場でモジモジとしていることしかできない。
「素晴らしい。よくお似合いですよ」
クローネさんがパチパチと拍手してくれる。表情は無のままだけど、本当にそう思ってくれてるんだろうか。
「スゲェなー! ここまで似合うもんなんだな! クラウディアにも見せたいぜ!」
「それはやめて!」
全力でビルスを止める。こんな恥ずかしい姿、これ以上誰かに見られてたまるか。
(いやあ、ここまで素晴らしいとは! その服、翼にあげても良いかもしれんな!)
「遠慮しておきます!」
流石にそれは無理です。ただでさえ今でも恥ずかしさで死にそうなのに。真っ赤な顔を隠しながら、本棚の影に移動した。
(…………ああ、そういえば。話は変わるが翼よ、向こうで大変な目にあったらしいな。クラウディアから聞いたぞ)
唐突に話が変わって、ちょっとびっくりする。でも女装ばかりに注目されても困るので、ちょうど良い機会だ。
「ああ、聞いてたんですか。想定外の連続でしたが、まあなんとかなったので……」
(モンスターの問題は本当に大変だからな……魔族側にはあまりいないから大丈夫だとは思うが、何かあれば余に言うんだぞ)
「へぇ、魔族側ってモンスターが少ないんですか」
(…………まあな)
急にダリアさんの声が暗くなったように思えたけれど、気のせいだろうか。顔は笑ってるけど。
(余の父上、先代魔王が以前に大規模なモンスター狩りを行ってな。そのおかげだ)
モンスター狩りなんてやってたのか! しかもそれで数を減らせるなんて、凄い。
「凄いですね。流石魔王様、とっても強いんですね」
(…………そうだな。強いぞ、余の父は)
ダリアさんは目を細めて笑う。普通の笑顔だ。さっきのは気のせいだったんだろうか。
(魔族は人間と違って単一の種族で構成されているわけではない。多くの種族が、多種多様な見た目の者がいる。中には人間と似た姿の者もいるが、当然かけ離れている者もいる。最初は驚くかもしれんが、そのうち慣れると思うぞ)
「なるほど、見た目が……」
魔族ってそんな感じだったのか。確かに、ダリアさんも人間っぽい見た目だったけどおでこにツノ付いてるもんな。
(ああ、あとクローネには翼のことを伝えておいたし、クラウディアとビルスのこともちゃんと知ってる。色々と協力してくれてるし、味方だから安心していいぞ)
「わかりました」
そこら辺の事情も知ってるのか、よかった。クローネさんを見ると、彼女は綺麗な立ち姿で無言、無表情のまま僕とベッドに寝転ぶビルスをじっと見つめている。
相変わらず感情が読み取れない。そういえばクローネさんも魔族ってことは、どこか人間と違うところがあるんだろうか。見たところ角とかは生えてなさそうだけど。
(クローネは優秀で頼りになる奴だ。ビルスはそこまで魔族のことには詳しくないだろうから、何かわからないことがあったらクローネに聞いた方がいいと思うぞ)
「はい、そうします」
「ぐ~~~、ぷしるるるるるる…………」
急に変な音が聞こえてきた。見れば、天蓋ベッドの上でビルスが寝息を立てている。
「ね、寝てる……」
仰向けに寝転び、口元からは涎が垂れていた。いつのまに寝たんだ。さっきまで喋ってたのに。
(疲れていたのだろうな。転移魔法を何度も使ったり、風の音を届けてもらったり。ビルスにはいつも無理をさせてしまう)
そうか、そうだよな。ずっとビルスの魔法に頼りきりだったし、色々と僕のサポートにも付いていてくれてたもんな。そりゃあ疲れるし眠くもなるか。
クローネさんがビルスへ布団をかけた。窓から見える空はすっかり暗くなっていて、遠くには欠けた月がぼんやりと見える。
(さて、最初に言った通り、余の影武者とは言っても夜だし、基本は寝るだけだ。余はいつも夜から朝にかけて寝て、昼から本格的に活動するからな)
「結構長く寝るんですね」
影武者のスケジュールを聞いた時から、ダリアさん夜活動するならいつ寝る気なんだろうとは思ってたけど、朝に寝るのか。意外だけど、魔族だし人間とはきっと色々勝手が違うんだろう。
(そうだな。当然有事の時や、忙しい時なんかはまた変わってくるが)
「じゃあ今日は、僕もこのまま寝るってことでいいんですかね」
(…………一応、そのつもりだったんだが)
ダリアさんが少し言いにくそうな様子で、口をもごもごとさせている。
「何かあったんですか?」
(今日は外での業務があって忙しくてな。日課である巡回ができなかったのだ)
「巡回?」
(魔族側の領地にある、いくつかの泉を見て回っているんだ)
泉の見回りなんて、そんなことやってるのか。泉に何かあるんだろうか? 魔王がわざわざ見に行くくらいだから、相当重要なものなんだろうか。
「どんな泉なんです?」
(聖神の泉だな。その名の通り聖神水が湧く場所だ)
うわ、案の定じゃないか。人間側がその水を奪うため戦争を起こそうとしていると聞いた後では、その名前を聞くとちょっとたじろいでしまう。
「……歩いて行ってるんですか?」
(いや、それでは時間がかかりすぎるから、飛んで行ってるぞ)
「え、飛んで!? 空からですか!」
空から巡回って、凄いな! 何かに乗って行くんだろうか。
(余の代わりに泉の巡回に行ってきてはもらえないだろうか。時間はそんなにかからないし、一人じゃない。ちゃんとクローネが付いていく)
クローネは強いから何かあっても大丈夫だ、と続けるダリアさん。クローネさんは微動だにせず僕をじっと見つめている。あまり見られ続けるのはちょっと恥ずかしい。
空からの巡回か。魔族側全体を見て回るのはちょっと興味ある。クラウディアさんの部屋の地図でチラッとしか見てなかったからな。少しモンスターが怖い気持ちはあるけれど、魔族側では数が少ないみたいだし。
それに人間側が目的とする聖神水がどんなものなのか、この目でしっかりと見たい気持ちもあった。しかも明日はリアンナさんに付いて親玉退治にも行くんだ。これくらいで怖いなんて言っていられない。
「わかりました、行きます」
(疲れてる中すまないな。帰ってきたらゆっくり休んでくれ。まだもう少し風の通話も繋げられるから、何かあれば言ってくれ)
「はい、ありがとうございます」
ビルスは眠ったまま、全く起きる様子はない。
どうしようか、出かけるならビルスにも一緒に来てほしかったけど。あまりにもぐっすり寝ているので、起こすのは気が進まない。
「ビルス様はお休みのようですが、このまま私と二人で参りますか?」
「……その方がよさそうですね」
まあ、クローネさんがいるなら多分大丈夫だろう。もし万が一何かあっても、ビルスの加護があるから、どこにいても風の通話が使えるしな。
しかし、見回りってもっと魔王らしく部下とかぞろぞろ連れていくものなのかと思ってたけど、クローネさんだけなのか。ちょっと意外だな。でも夜だし、ちょっと見るだけならそこまでする必要ないか。
「わかりました、ではこちらへ」
クローネさんが僕をベランダへと誘導する。夜風は少し冷たく、ゴスロリのワンピースがふわりと靡いた。
「翼様、どうぞ」
「へっ?」
いきなりクローネさんが僕に背中を向け、その場にしゃがみ込む。まるでおんぶをする時のようなポーズだ。急にどうしたんだと目をぱちくりさせていると、
「私の首に捕まってください。足も体に絡ませて」
「え、えっと」
(しっかり捕まらないと振り落とされるぞ、翼!)
有無を言わせない様子のクローネさん。ダリアさんにもそう言われるものだから、僕は狼狽えながらも首に両手を掛ける。後ろから抱きつくような体制になった。クローネさんの体温と肌の柔らかさが伝わって、顔が熱くなっていくのを感じた。足も絡ませろと言ってたけど、いいんだろうか。
「では、飛びますよ」
僕がクローネさんの腰に両足を絡ませたその瞬間、彼女の両手が変化した。
腕の付け根から少しずつ、白い肌が黒く、途中からは深い緑へと染まっていく。指の先端まで変わった頃にはもうそこに人間らしい手はなかった。
羽だ。鳥の持つそれとよく似たもの。真っ直ぐに羽を広げる姿はまるで天使が飛び立とうとする様のようで、目が離せなかった。急に腕が変わるなんてという驚きと、クローネさんも魔族だもんなという納得の思い。ワンピースの下からはこれも変化したのか、金色の細い足に三本指、鋭い爪が覗いていた。
昔何かの本で見たことがある、人間の女性の頭を持つ鳥。そうだ、ハーピーだ。今のクローネさんの姿は、それによく似ていた。
クローネさんはベランダの手すりに足を掛ける。たんっ、と足を踏み切る音がして、クローネさんの体がふわりと宙へ浮いた。すぐさま重力に襲われ、僕たちの体は下に落ちる。その感覚が怖くなり思わずギュッと目を瞑った。クローネさんに捕まる腕と足に力が入る。
「大丈夫ですよ」
少しだけ優しく聞こえた、クローネさんの声。バサリと大きく羽を広げたのか、羽の一部が僕の顔を掠めていった。体がぐんっと上昇し、全身に夜風が当たるのを強く感じる。少しの間を置いて昇る感覚が弱まり、僕はゆっくりを目を開く。
「わあ…………!」
星を散りばめた夜空、黄金色に輝く欠けた月。そんな天もそうだが、何より僕の目を奪ったのは地の絶景だ。
そこには宮殿があった。白で統一された外観に、頂上に立つ幾多の尖塔。その窓には色とりどりのステンドグラスが用いられ、淡い光を放っている。建物の至る所に彫刻が施されており、その精巧さは離れたところからでもわかるほどだった。宮殿の周囲には庭園が広がっており、中央には円形の池がある。
美しい宮殿だ。感嘆の声が漏れ、溜息をついてしまう。ヨーロッパにあるような、豪華絢爛な宮殿そのものだ。歴史の教科書やテレビで見たことはあっても、生で見たことはなかった。こんなにも荘厳で、美しいものだったなんて。心臓が高鳴り、口元が綻ぶ。
「綺麗ですね! すっごい……!」
(ふっふっふ。美しいだろう? これが代々魔族の王を務めてきた、王族ローザリオン家の宮殿だ!)
語彙力を無くした僕に、上空からダリアさんが声を掛けてくる。場所を移動したら、ホログラム映像もちゃんとついてくるんだな。
しかし、本当に綺麗だ。これがダリアさんの、魔王の暮らす宮殿か。さっきまでこの内部にいたのかと思うと、胸が高鳴った。
「あちらに見えるのが、城下街です」
クローネさんが羽で指し示す方を見れば、街並みが見えた。小さな建物が連なり、その窓一つ一つから明かりが溢れている。暗い周囲の中で浮かび上がるそれは星のようで、ちょうど今宵の空に浮かぶものたちと同じ輝きをたたえていた。これが星条界、大陸の下半分を有する魔族たちの住む場所か。その夜景に、営みの光に見惚れる。
「そろそろ行きましょうか。急ぎますね」
(翼、しっかり掴まっておけ!)
「……あ、は、はい!」
慌ててクローネさんの首に回した手に力を込める。足も絡ませるとコアラみたいなポーズになってしまうので恥ずかしい。誰かに見られていないかと心配になったけれど、ここは上空だったと気づいてほっとした。
「まずは一つ目から行きますね」
クローネさんは羽をがばっと広げると、姿勢を低くし一気にスピードを上げた。突如顔を直撃する夜風と、スカートが激しく捲れ上がる感覚。ひょっとしなくても僕、今ボクサーパンツ丸見えじゃないか? 押さえたいが、こんなところで手を離したら一巻の終わりだ!
目を固く閉じたまま、声にならない悲鳴を上げて飛び回る。ジェットコースターのようにぐるぐる回転こそあまりしないけれど、怖さはその比じゃなかった。
(すまないな、翼! 最初は慣れんだろうが、耐えてくれ!)
ダリアさんはすまないといった様子で手を合わせている。返答できる余裕はなかった。
「目的地に着きました。着地します」
クローネさんの声でやっとスピードが落ち、少しずつ体が降下していく。やっと地面に降りてクローネさんから離れた僕は、ふらふらになりながら荒い呼吸をする。目が回るのに耐えられず、近くにあった大木に寄りかかった。
「ぜえ、はあ……」
(だ、大丈夫か?)
「申し訳ございません。少し速すぎましたか」
「い、いえ……大丈夫です。ちょっと、こういうの慣れてなかったんで……」
そう言ってクローネさんの方を向いた時、それは見えた。
泉だ。学校のプールくらいの大きさのもの。
その水は透き通っており、底の景色が闇の中でもくっきりと映し出されている。水面には木々と上空で輝く月が浮かんでいた。泉の周囲は石で囲まれており、時折咲いている花が風に揺れている。
「わぁ……」
なんて幻想的な光景だろう。静かな美しさというか、侘び寂びとでも言うんだろうか。
水面を覗き込む。水は透明だとは知っているけれど、この水のそれは今まで見たものの中でもダントツだった。爽やかで、香りも柔わらかで、透明感が凄い。辺りの空気を大きく吸い込めば、清涼さが全身に循環していく。これが聖神水の湧き出る泉か。
「ここの聖神の泉は、特に変わりないようですね。モンスターもいない」
「モンスター? モンスターって聖神水飲むんですか?」
「ええ、飲みますよ。効果は人間や魔族と変わりません」
「モ、モンスターも!? 確か体力とか諸々増幅するって話じゃ……!」
それってまずくないか。今でも相当だというのに、あのモンスターが傷ついて更に強くなるようなことがあれば、恐怖に他ならない。
「ええ。ですので、聖神の泉の管理は厳重に行われております。魔術による結界を始め、兵士の配属も」
言われてみれば、先程から木々の隙間、視界の端にちょろちょろと人の姿が見える。いや、人というより魔族か。尻尾が生えてたり、犬っぽい耳が付いていたり、ここからわかるだけでも様々な見た目の魔族がいた。みな武器を持っており、鎧を身に纏っている。あれがきっと兵士なんだろう。
「さて、では他の場所にも行きましょうか」
「あ、はい!」
大木から離れ、クローネさんの方へ駆け寄る。兵士と思われる人たちからの視線をちらちらと感じ、あまりゴスロリ服姿を見られたくなかったのでちょっと体を縮こまらせた。
先程同様にコアラ状態でしがみつき、クローネさんが空を飛ぶ。進むスピードが落ちていて、僕を気遣ってくれているんだとわかった。クローネさん、顔や声に出ないってだけで優しいんだな。
(次の泉は近いからな。もう少しで着くと思うぞ)
ダリアさんの言う通り、二箇所目の聖神の泉にはほどなくして着いた。澄んだ夜風を受けて僅かに揺れる水面に、僕とクローネさんの姿が映っている。周囲にはやはり兵士たちが配置されていて、僕たちを見て数名が敬礼してくれた。
こういうの、やっぱり魔王感あるな。ドキドキする僕に、クローネさんはここも変わりないですねと淡々と告げた。次へ行きましょうと言われて、僕たちはまた空を飛ぶ。
「次が最後の場所です。少し遠いので、しっかり捕まっていてください」
クローネさんに言われ、首に回した腕に力が入る。少し飛ぶのにも慣れてきたのか、周囲を見渡す余裕ができた。
王宮とその城下町が目立っていた景色は、いつのまにか一面の緑に変わっている。背の高い木々、色の付いた葉を茂らせる木々、枝が剥き出しになった木々。それらの合間を縫うようにして、ぽつぽつと家屋が点在していた。
「家が少なくなりましたね」
(魔族の多くは城下町や、その付近に住んでいるからな)
「人間と違って魔族は単一国家なので、魔王様の目の届きやすいところに住んだ方が安全なんです」
魔族って単一国家だったのか。ということはこの広い国を、大陸の下半分をダリアさんが治めているのか。やっぱり魔王様って凄いな。
「もう少しで着きます。しばしお待ちを」
「わかりました」
ふうっと息を吐いて前を見ると、建物があった。森を掻き分けるようにして存在するそれは非常に大きく、上空からでもどこが切れ目かわからないほどだ。
「あの大きな建物は何ですか?」
「あれは聖神の迷宮です」
(おお、今ちょうど余がいるところではないか)
「えっ、あれが!?」
ダリアさんたちが探索してる聖神の迷宮って、あんな大きいものだったのか!? 僕は驚きで目を丸くする。
「凄い大きさ……迷ったら出られなさそう」
「ええ。迷宮の踏破に挑戦して、帰らなかった者も多いようですよ」
クローネさんは淡々と言っているが、かなり怖い話じゃないか? ちょっと体が震えた。
(この迷宮は魔術障壁に跨って存在してるんだ。入り口も多いので、今も人間魔族問わず挑戦できるぞ)
「えっ! 魔術障壁を!」
そんな、人間と魔族を分断するそれを跨ぐくらい広い迷宮なんて。しかも人間側にも魔族側にも入り口があるから、誰でも入れるってわけか。
「外観もそうですが、あの迷宮は特に地下が広いですね。非常に入り組んでいる上、危険も多い」
(おかげで探索に時間がかかって仕方がない。モンスターも時々見かけるしな)
そうだ、地下迷宮って話だったな。モンスターに襲われかけたことは……あまり思い出したくない。
「迷宮に挑戦する人って、そんなにいるんですか?」
「ええ、昔からいます。個人で挑戦する者、魔族側や人間側の調査隊など。ですが、みな途中で諦めて帰ってくるか、そのまま帰ってこないかのどちらかです」
「調査隊もなんですか……」
個人ならまだしも、ちゃんとチーム組んで行っている人たちまで諦めるとは。やはりモンスターがいるからなんだろうか。
(仕方がない。あの迷宮では、この星条界の魔法が使えんからな)
「えっ! 魔法使えないんですか!」
(ああ。この迷宮……特にその地下では魔法が一切使用できない。もちろん魔法の力が関わった武器もだ。神がそのように造られたんだと)
神様のせいだったのか! 魔法が通じないように造るなんて、何でわざわざそんなことするんだろう。魔法に頼らず自分の足で迷宮を踏破してみろとか、そういう気持ちなのか。神というものはよくわからない。
「星条界ではモンスターの退治や周辺の調査は魔法を利用して行うのが常ですが、迷宮ではどちらも難しいでしょうね」
だから調査隊も諦めていたのか。広くて複雑な迷宮、モンスターたちが闊歩してる上に頼みの綱の魔法は一切使えないなんて。迷いに迷って餓死するか、モンスターに襲われて死ぬか。そりゃあ諦めてもおかしくない。神様の造った迷宮怖すぎる。
(魔族ならまだしも、ただの人間では魔法なしでモンスターを狩るのは難しいだろうな)
「魔族ならできるんですか?」
(もちろん全員ではないぞ? ただし人間と違って魔族は種類が多いから、素の戦闘能力が高い者もいるのだ)
確かにさっきの泉で見た魔族の兵士さんたちはとても屈強で、守護兵団本部で見た兵士さんとはまた違う雰囲気を纏っていた。あの人たちなら魔法を使わなくても、殴って倒せそうだ。
(余やクラウディアも、探索の時には必ず武器を持っていっている。まあ探索の方には、魔法を使っているのだがな)
「え? 魔法使えないって話じゃ……」
(それがな、ビルスの使う魔法は例外なんだ)
「ええっ!? れ、例外なんですか!?」
(余も使えた時は驚いたぞ。ビルスの使う魔法は、星条界の魔法と仕組みが違うからなのかもな。クラウディア様々だ)
「な、なるほど……」
聞けば、ビルスの風を迷宮全体に漂わせ、魔法を使って遠くの音を聞き、風の音らしきものが聞こえる方向に向かって歩いているらしい。
そういう調査方法だったのか。なんて便利なんだ、風魔法。転移魔法もあるから迷宮に挑戦しても普通に帰ってこれるし。素晴らしいな。
(今、風の音が強く聞こえる場所の近くまで迫っている状態だ。これが風の間であれば、念願の聖神の石が手に入るぞ)
ダリアさんが真剣な表情を浮かべる。僕もごくりと唾を飲み込んだ。どうかそうであってくれと、心の中で手を合わせる。
「……あれ。そういえば、魔術障壁ってあの迷宮でも機能してるんですか?」
ふっと思ったことを聞いてみれば、クローネさんが答えてくれた。
「ええ。迷宮は魔法を拒みますが、その効果が大きく発揮されるのは地下に入ってからで、奥へ行けば行くほど強くなっていきます。魔術障壁が造られたのは地上ですので、一応機能はしています。ただし妨害は受けているようで、他の場所よりも壁の強度は落ちるようですね」
「そうなんですか……でも凄いですね、魔法が妨害される場所でもちゃんと維持できてるなんて」
(あの壁は先先代の魔王……余の祖父が至高の魔術をもって築いたものだ。あれがある限り、人間はこちらには入ってこれん)
人間と魔族の初めての戦争、通称『魔人戦争』の時に人間たちの魔族側への侵攻を抑えるために魔術障壁が造られたとビルスは言っていた。その時に魔王だったのは、ダリアさんのお祖父さんだったのか。
「お待たせしました。前方に見えるあの泉が最後です」
「あ、はい!」
慌てて前をみれば、今まで見てきた二つの泉よりもずっと大きな泉が見える。水面は凪の状態で、月光を受けて僅かに煌めいていた。周囲の森にはいくつかの明かりと人影らしきものが確認できる。おそらく兵士たちだろう。
「ここいらは防衛兵も多いので、静かに行きましょう。話し声も小さめでお願いします」
「わかりました」
(そろそろ通話も終わりだな。余も探索に戻る。翼、見回り頼んだぞ。何かあれば連絡してくれ)
「はい、ダリアさん。ありがとうございます」
ぺこりとお辞儀すれば、ダリアさんは笑顔で手を振り、通話を切った。
高度がだんだんと下がり、クローネさんと僕は泉の傍へとゆっくり降りる。地面に足を付いた後はスカートを直して一つ深呼吸した。澄んだ空気と水の香り、どこかで焚き火でもやっているのか煙の匂いも感じ取れる。
「大きいですね……」
泉というより、湖と言われた方がしっくりくるレベルだ。ここまで大きいのを見たのは初めてかもしれない。家の周りにこんなものはなかったし、あまり旅行に行く機会もなかったもんな。
「この大陸で最も大きい泉ですからね。私たち魔族にとっては欠かせない聖神水の汲み場です」
「聖神水って毎日汲んでるんですか?」
「はい。ただし取り過ぎない程度にですが」
「ああ、一日に一定の量しか湧かないって話でしたもんね」
「ええ。ですので聖神水は貴重で高価なものとなっております。王族の身であっても安易には使えません……特に今は」
「今?」
何かあったんですかと続けようとして、視界に黒いものが映った。目を凝らせば、それが銅像だとわかる。背の高い屈強な男性の像、長い髪に立派な髭を蓄え、額には紋様のようなものが刻まれている。
知らない人だ。けれどその頭に生えた角の形は、マントを付けた服装は、僕も見たことがあった。
「…………先代の魔王、ルキウス様。ダリア様のお父上です」
僕の視線に気づいたクローネさんが言う。やっぱりそうだったのか。もう少し近くで見ようと銅像へと歩を進める。像は綺麗に手入れされていて、足元には多くの花が飾り付けられていた。花の中心にはプレートがあり、ルキウス・ヴァン・ローザリオンと名前が記されている。
この人がダリアさんのお父さんなのか。その表情は険しいながらに優しく、纏う空気は夜闇の中でもその存在を主張している。銅像となっても伝わる威厳に圧倒され、身震いした。
「ルキウス様は偉大な王でした」
クローネさんはどこか遠い目をしていた。まるでこの世界にないものを見ようとしているような、そんな様子だ。
「…………ルキウス様はお亡くなりになられました。今から三ヶ月と、少し前のことです」
「えっ」
「ダリア様から聞いておられませんでしたか?」
僕は首を振る。ダリアさんのお父さんが最近亡くなってたなんて、初耳にも程がある。彼女はいつも明るくて、とても親を亡くしたようには思えなかった。
「……そう、でしたか。では私の方から説明を」
クローネさんが顔を伏せて、そう言う。無表情のままだけど、その目はどこか悲しげだった。
「この星条界では……いえ魔族側に限った話ですが、ある病気が流行っておりまして。ルキウス様はその病に侵され、亡くなりました」
「流行り病だったんですね……あ、その、魔族側に限るというのは?」
「ええ、それは……ああ、申し訳ありません。先に確認なのですが、翼様は人間でお間違いありませんよね?」
「へ? え、あ、は、はい」
突然の質問にしどろもどろで答える。人間かどうかって、召喚された直後にもクラウディアさんに聞かれたな。何のための確認なのかよくわからなかったけど、クローネさんの言い方から考えると、もしや。
「その病気って、ひょっとして魔族にしかかからないんですか?」
「はい、その通りです」
当たりだった。なるほど、だから事前に聞かれたのか。ダリアさんの影武者するのに病気にかかったら大変だもんな。
「正確には血の色ですね。青い血の流れる者があの病、
「黒岩病ですか、凄い名前ですね……」
「かかると皮膚が黒くなり、体が岩のように重くなることからそう名づけられました。熱に加えて体の節々の痛みも酷く、死の危険もあります」
皮膚が黒くなるってペストみたいだな。あんな怖い病気と似たものがこちらの世界にもあるなんて。だからクラウディアさんは僕の血の色も確認してたのか。
「魔族の皆さんって血が青いんですか?」
「はい。人間は赤、魔族は青。人間と魔族の合いの子の場合は紫色になりますね」
魔族は青で、ハーフは紫か。ずいぶんカラフルなんだな。見た目だけじゃなくて、血の色でも人間か魔族かわかるんだ。
「この黒岩病は昔から魔族の中で流行を繰り返しておりまして、通常の薬では治りにくいのです。なので流行する度に予防薬の投与、感染者には聖神水を使った特殊な薬を使用して何とか抑えていたのですが……今の流行は以前よりも激しく、予防薬の効果も低い。聖神水の量が足りなくなりつつあります」
「聖神水の汲む量をもっと増やすことはできないんですか? いくら毎日一定しか湧かないとはいえ、病気が流行ってるなら多少は……」
「その案はありましたし、実際以前よりは増やしています。ですが、それにも限界があります。聖神水を必要とする民全てに行き渡らせようとすれば、この泉もすぐに枯渇するでしょう。事態はそれほど切迫しているのです」
クローネさんは目を伏せる。こんな大きな泉があっても枯渇しかねないなんて、そこまで酷い状況だったのか。
一陣の風が僕たちの間を吹き抜けていく。スカートの中を吹き抜ける風にぷるりと震え、足の間を閉じた。
「…………今、魔族側では戦争を起こそうという声が高まりつつあります。人間たちに思い知らせてやれ、聖神水を奪えと。民だけではなく、ダリア様の部下たちにもそのような意見の者が多くなっています」
「えっ!?」
聖神水が足りない、だから戦争を起こして相手から奪い取ろう。人間側と全く同じ考えじゃないかと戦慄する。あちらは突然の水の枯渇、こちらは流行り病のためという違いはあれど、結論は一緒だった。
「そんな……魔王は、ダリアさんは戦争反対派なんですよね?」
「ええ。ダリア様に、先代のルキウス様もです。戦争は望まず、人間との和解と共存の道を探っていました」
クローネさんはルキウスさんの銅像へ近寄ると、風で崩れた花を飾り直した。いつのまにか手は元の人間のように戻っていて、白くて長い指で花弁をつうとなぞっている。
「ダリアさんはお父さんの意思を継いだんですか」
「はい。ダリア様にとって、ルキウス様は目標ですから」
背の高い銅像を見上げる。先代魔王様で、父親で、目標。ヒールをかき鳴らし、マントを羽織るダリアさんが目に浮かんだ。
「もし戦争をするとなれば、当然魔法が中心の戦略が組まれます。戦い続けるためには魔力も体力も必要になりますから、兵士たちはみな聖神水を摂取することになるでしょうね」
「ドーピングみたいですね……」
人間とは違う聖神水の使い方だけど、魔族の兵士の姿を思い浮かべれば合点がいった。あのただでさえ強そうな兵士さんに聖神水が加わったら鬼に金棒だろうし、人間はひとたまりもないだろう。
「魔人戦争の時はその使い方で人間相手にいくつもの勝利を飾りました。ただし今は技術も進んで新たな魔法武器が開発されつつあるので、兵士たちが飲むよりそちらでの使用の方が多くなるでしょうね」
「魔法武器? こっちにもあるんですか」
「はい。実戦での使用はまだあまりされておりませんが、巨大かつ破壊力の高い魔法武器が製造されています。ただし当然、稼働には大量の聖神水が必要です。威力が上がった分、使う量は更に増えました」
「兵士さんたちが飲むのに加えて、魔法武器でも聖神水を使う気なんですか? 戦争のために使うから病気の民には配らないと?」
「端的に言えば、そういうことになりますね」
「そ、それじゃあ今黒岩病にかかってる人たちは……!」
「人間に勝って、人間側の聖神の泉を奪いとれば病気の民全てにも分配できる。戦争賛成派はそう主張してますね。間に合わず死んでしまう者を増やさないためにも、早急に戦争の支度を進めるべきだと。ダリア様も部下に、そう言われておりました」
「そんな……!」
「多少の犠牲は仕方ない、少数の死で多くを救おうという考えなんでしょうね。賛同は致しかねますが、この考えが魔族の中では主流になりつつあるのが現状です」
「でも戦争なんてしたら、そっちでも死者が出るじゃないですか。黒岩病のこともあるのにそんなことしたら……!」
「……結局のところ、黒岩病以前に、戦争をしたいという思いが根底にあるんでしょうね。二十年前から続く雪辱を晴らすために」
クローネさんは溜息をつき、頭をふるふると振るわせた。変わらずの無表情だが、その声はどこか悲しげに聞こえた。
戦争がしたいだけって、どういうことなんだ。そんなことあるのか? 僕は目を瞬かせ、怪訝な顔で首を傾げる。
「二十年前って……魔人戦争があった時でしたっけ」
ビルスの言っていたことを思い出す。人間と魔族の最初の戦いで、魔術障壁ができたきっかけだった。いやでも、戦争自体が起きたのは十八年前なんだっけ? 頭がこんがらがりそうだ。
「魔人戦争そのものが起きたのは十八年前です。二十年前に起こったのはそのきっかけですね」
「きっかけ?」
「ええ。モンスターの出現です」
「な!」
モンスターだって? そこでこの単語を聞くことになるとは思わなくて、少し大きめの声が出てしまった。クローネさんが唇にスッと人差し指を立て、僕は口を手で覆ってこくこくと頷いた。しいっとする仕草がちょっと色っぽいと思ってしまったのは内緒だ。
「……モンスターは二十年前、この星条界に突如として現れました。野生動物や家畜、果ては魔族や人間までもが無差別に襲われ、多大な被害が出ました」
クローネさんはざっと周囲を確認した後、僕の方へと近づいて囁くような声で話し始めた。
「何でモンスターが急に出てきたんですか?」
「わかりません。研究は進められておりますが、原因不明のままです」
「そんな……原因不明って」
あんな奴らが急に現れただけでも怖いのに、その原因が二十年経っても判明してないってあまりにも怖すぎないか。
「ですが、一つはっきりしていることがあります」
クローネさんはそう言うと、少し迷ったかのように視線を泳がせる。言いにくそうな、どこか苦しさを感じさせる様子だった。
「…………モンスターの血は、魔族と同じ青色です」
はっとした。そうだ、初めて会ったあの熊も、守護兵団を襲った蜘蛛も、みな血は青色だった。
「えっでも、モンスターって魔族のみなさんとは特に関係ないんですよね? 突然発生したんですもんね?」
「はい、もちろん。魔族と血の色こそ同じですが、何の関係もありません。ではなぜ同じ色なんだとお思いでしょうが、そちらも理由は不明です」
「そっちもわからないんですか……」
「情けない話ですが」
モンスター関連は不明が多いのか。でも仕方ないことなのかもしれない。ずっと研究しててもわからないことってあるもんな。
「ですが、人間は違いました。青い血が流れるモンスターを見て、私たち魔族がこれを作ったのではないかと言い出したのです」
「え……」
絶句し、目を見開いた。クローネさんが暗澹たる顔をしているように見えるのは、夜空の下だからなのか、それとも。
「えっ、いやでも、あんなの人工的に作れる技術あるんですか!?」
「いいえ。そんなもの、二十年経った今でもありませんよ」
「そうですよね、無理ですよね!」
「ですが、人間はそれを信じませんでした」
夜風が一瞬、強く吹き付けた。銅像に飾られた花がぶわりと飛び、地面を転がっていく。僕はスカートを押さえ、髪の毛を払う。クローネさんの髪が乱れて、顔に前髪がかかる。隙間から見える目はどこか虚だった。
「あの時代はまだ人間と魔族が共存していましたが、それでも互いへの差別は蔓延っていました。見た目や血の色、種族などその要因は多岐に渡ります」
「差別ですか……」
こちらの世界でもずっと問題になっているくらいだ。星条界にあってもなんらおかしくないし、むしろわかりやすい特徴がある分それはより酷くなりそうな気さえした。
「元々そんな状態だったところに、モンスターが突然現れて被害が出て、それを私たち魔族が原因なのではないかと噂を立てられた。瞬く間にそれは広まり、もはや噂を超えて真実のように扱われていきました」
「そ、れは……」
「もうおわかりでしょう。人間は魔族を迫害し始めました。同じ街、同じ村、同じ集落に住む魔族たちを追い出し、時には暴行を加えられたり、殺されることもありました。魔族なんて最悪だ、気持ち悪い、滅びろ……そんな言葉を浴びせられた者が多いと聞きます」
何も言えなかった。ずんと重い何かが背中に乗っていた。体は鉛のようで、喉がつかえた感覚に襲われる。思考回路は上手く働かなくて、瞬きを繰り返すばかりだった。
「……モンスターの被害を受けたのは人間だけではありません。黒岩病に感染したモンスターが媒介となったこともあるというのに」
そうか、同じ青い血だから、モンスターも黒岩病に感染するのか。そんな病気があるのに、モンスター側がわざわざ青い血の生物を作るわけがない。そう言いたげなクローネさんを見ると、ぐっと強く拳を握っていた。表情はなく、声も無機質なまま。けれど言葉の一つ一つに、隠しきれない悔しさが滲み出ていた。
「ですが、迫害を受けては魔族も黙ってはいられません。やがてそれは魔族と人間の大きな戦いへと発展しました。これが魔人戦争、今から十八年前の出来事です」
ビルスから聞いた話、クローネさんから聞いた話、その全てが頭の中でリフレインしていた。突然のモンスターの出現、誤解からの魔族の迫害、魔人戦争の勃発。先先代の魔王——ダリアさんの祖父が魔術障壁を作り、人間と魔族は完全に分断された。現在もその仲は最悪で、いつまた新たな戦争が起きてもおかしくない状況である。
見事に繋がった。これがこの星条界の歴史、人間と魔族を取り巻くものか。
「あれから二十年経ちましたが、魔族にとってあの出来事は忘れられません。屈辱と言ってもいいでしょう。しかもその後の戦争でも勝利はできなかったのですから」
「負けたんですか?」
「いいえ。最初こそ圧倒していたのですが、後から逆転されたのです。決着は明確にはつかず、魔術障壁で大陸が分断され、事実上の停戦状態で終わりました」
「停戦……」
「謂れもない誤解を受け迫害されたのに、戦争でも勝つことができなかった。おまけに魔族は人間よりも寿命が長い。ですから、その分屈辱は長く、色濃く残り続けます」
魔族って人間より寿命長いのか。色んな種族に分かれているようだし、それは納得だ。けれどだからこそ人間よりも戦争を、迫害の記憶を忘れにくいということなんだろう。
「黒岩病のことももちろんですが……あの時の怒りが、恨みが、憎しみが根底にあるからこそ、戦争賛成の声が高まるのでしょうね」
言っていることはわかる、けれど。何か言いたかったのに、口からはぬるりとした息が漏れるばかりだ。平和な国で暮らしていた自分の想像を遥かに超える、魔族側の現状。聞いているだけで頭がくらくらする。
魔王は、ダリアさんはこんな状況で即位したのか。いつも明るくて、屈託のない笑顔を浮かべる彼女だけれど、戦争を止めたいと語った時はとても真剣だったのを思い出す。
「しかし、戦争を起こしてしまえば間違いなく大量の死者が出ます。いくら黒岩病が蔓延している状況とはいえ、多くの民を犠牲にする道を容認するダリア様ではありません」
「そうですよね……」
だけどそれ以外に方法はあるんだろうか。聖神水を汲む量を増やして配ったとしても限界はあるわけで、それ以外の通常の薬は黒岩病には効きにくいときた。人間側から分けてもらうことなどもちろんできない。
「……戦争賛成派との溝は深まるばかりです。ルキウス様は既に死亡し、即位したダリア様はまだ若く経験に乏しい。黒岩病の感染状況も伴って、王族への不信感を募らせる者も出てきています」
クローネさんは銅像の下のプレートに手を伸ばす。ルキウスさんの名前が刻まれたそれは、汚れもなく綺麗な状態でそこにあった。
「…………ルキウス様は黒岩病にかかった際、自身に使う聖神水を限界まで減らしていました。自分は大丈夫だからと、民に使えと、何度言っていたことか」
「そんな……でも……!」
「ええ。当然私どもは止めましたが、聞く方ではありませんでした。魔族の危機だというのに王の自分が寝ているわけにはいかないと、最期まで動き続けていました」
「……凄い方、だったんですね」
「はい、それはもう。黒岩病感染対策の推進に加え、黒岩病そのものや予防薬の効果を上昇させるための研究事業など。そして感染媒介になりかねないモンスターの駆除を率先して行ったのもルキウス様でした」
「ダリアさんが言ってましたね……大規模なモンスター狩りを行ったのは、黒岩病の予防のためだったんですね」
「そうです。王族であるローザリオン家の者たちはみな魔力が高く、強力な魔法を使うことができます。兵の派遣も行ってはいましたが、自身でも相当な数を屠っていました。ルキウス様が訪れた場所には必ずモンスターの死骸が山のように積まれていたとの噂です」
「そんなにですか……」
強すぎないか、それ。正に魔王という感じのエピソードに圧倒される。考えてみれば、あの魔術障壁だってダリアさんのお祖父さんが造ったんだ。お父さんの方だってそれくらいできてもおかしくない。
「……こうして聖神の泉を見て回るのは、ダリア様の提案でした。ルキウス様のように、黒岩病対策の最前線に立つ王でありたいと。そのためには現場を見て、自身の目で様々な状況を確認したいとのことでした」
そういうことだったのか。城に篭るのではなく、民のために能動的に動き続ける。ダリアさんらしい気がした。
「……ダリア様は、幼い頃からルキウス様に憧れていました。もし自分が王になるとしたら、あんな立派な王になりたいといつも言っていました」
クローネさんはエプロンについているポケットから何かを取り出し、僕に見せた。懐中時計だ。中を開けば、蓋の裏側の部分に写真が入っている。
そこに写っていたのは、女の子。僕が今着ているものとよく似た、黒のゴスロリ服に身を包み、ふわふわとした赤い髪は腰まで伸びていた。人形のような格好で椅子に座る彼女は、心底幸せそうな笑みを浮かべている。
「…………まさか、これ」
ダリアさん、なのか。クローネさんは頷くと、
「少し前までの、王女だった頃のダリア様です。可愛らしいものが大好きで、自分で着るのは勿論、周囲の方を着飾らせるのも好んでおられました」
彼女は目を伏せて、
「即位することが決まってから、ダリア様は髪を切りました。大好きだった可愛らしいドレスも着なくなって、ルキウス様とよく似た格好をするようになりました。父のように美しくならねばならないと、化粧もするようになった。いつしか話し方も変わり、自分を呼ぶ時も『私』ではなく、ルキウス様と同じ『余』を使うようになりました」
僕は何も言えなくなった。玉座に座るダリアさんの写真を思い出す。あの写真の彼女と、この写真のかつての彼女。同じ人物なのに、雰囲気も表情も、纏うオーラも何もかもが違っていた。
「全ては、ルキウス様のような王になるために。一人称を変えたのも、その覚悟あってのことでしょう。ダリア様は変わりました。変わらざるを得なかった、という方が正しいでしょうが」
静寂が辺りを支配する。クローネさんは風で転がっていた花を拾い上げ、名前の彫られたプレートの横へと飾り付けた。顔にかかっていた緑髪は耳へとかけられ、黒曜石のような瞳は真っ直ぐに銅像へと向けられている。
「ああでも、これはルキウス様も思わなかったでしょうね、まさか——」
どこか独り言のような、怒りと悲しみが溶けて混じりあったような、そんな声が聞こえた矢先のことだった。
「だから! 離せって言ってんだよ!」
夜闇の静寂を打ち破る怒号。興奮と激しい憤りが溢れ出ているそれは、僕たちの背後から響いていた。
「……翼様、こちらへ!」
クローネさんの語気が僅かに強くなる。強めに腕を引っ張られ、僕は銅像の後ろへと移動させられた。その場でしゃがむよう指示され言う通りにしたが、状況がわからず僕は目を白黒させるばかりだ。
「申し訳ありません。ですが、あの者に翼様の姿を見られたくありませんので」
唇に人差し指を立てると、クローネさんは銅像から少しだけ顔を出して辺りの様子を窺っている。
「兵士に捕まったようですね。それならこちらには来ないでしょうが……泉の方も特に変わりないようですし、そろそろここを出た方がよいでしょうね」
「あ、あの……どうしたんですか? 誰か来たんですか?」
極力声を抑えてこっそりと聞くと、クローネさんは首を振って、
「時々いるのですよ、聖神水を盗みに来る者が。格好からして、この近くに住んでいる民でしょうが」
「民、ですか……」
銅像からちらりと顔を覗かせて見ると、赤いゴブリンのような男性が見える。あれが魔族の民なのか。
「ええ、そうです。さあ行きましょう」
クローネさんは僕へ背中に捕まるよう早口で指示する。いつのまにか人間のようだった腕はハーピーの羽に変わっており、夜風に吹かれて小さく揺れていた。
「申し訳ありません、少し急ぎます」
「えっ、あ……!」
僕が背中にしがみついた瞬間、ばっとクローネさんが飛び上がった。慌てて足も絡ませ、コアラのポーズになりながら空へと羽ばたいていく。
一体どうしたんだ。聖神水を盗みに来る人がいたからって、そんなに急いでこの場を離れる必要があるんだろうか。クローネさんの行動がよくわからなくて、戸惑うばかりだ。
けれどその原因は、すぐにわかった。
「俺が悪いんじゃねぇ! 俺の家族にさっさと水を寄越さねぇ奴らが! 戦争も起こそうとせずにタラタラしてる王が悪りぃんだよ!」
耳をつんざくような絶叫。泣き声混じりのそれは空中でも関係なく僕たちを襲った。
「水が足りねぇならもう人間から奪うしかねぇじゃねぇか! 和解だの共存だの言ってる場合じゃねぇ、今こそ恨みを晴らす時だろ! ダリア様はそこをわかってねぇ!」
突き刺すような言葉の矢が放たれる。今にも誰かを射殺さんばかりのそれは、煮えたぎる怒りの中にどうしようもない悲痛さを抱えていた。
「ああもう、やってられねぇよ! 大体、ダリア様はそもそも王に相応しくねぇんだよ! だって——」
その先は聞けなかった。その前にクローネさんが全速力で飛び去ったのだ。羽音と風圧に押され声も出せないまま、何も考えられないまま僕たちはどんどん泉から離れていく。激しい空の旅が落ち着く頃には眼下に広がる緑はとうに消え、明かりがほとんど消えた街が見えるだけだった。
「…………申し訳ありません、手荒な真似を」
背中越しにも伝わる心臓の音に、僅かな体の震え。謝罪は変わらず抑揚のない声だったけれど、それ以外の全てが彼女の考えを物語っていた。
「いいえ、すみません。その……聞かせたくなかったんですよね」
あの盗人の、民の、魔族の言葉を。戦争に賛成する様を。王であるダリアさんを真っ向から否定するのを、影武者の僕には見せたくも聞かせたくもなかったのだろう。その気持ちは僕にもわかる。
「……ダリア様は今、聖神の石を見つけて、大量の聖神水を確保しようと奔走しております。聖神水の問題を解決できれば黒岩病に苦しむ民を救えるでしょうし、戦争を起こそうとする動きも多少は鈍るでしょう」
クラウディアさんも言っていた、戦争を止めるための方法。確かにそれができれば、人間側の状況も魔族側の状況も変わるだろう。
「真に戦争を防ぐという意味では、聖神水を得ても根本的な問題の解決にはなりませんが……それでもまずは目の前の問題を解決しなけれなりません。そのためにダリア様は動いておられるのです」
だからダリアさんは今、モンスターが跋扈し、魔法を拒む複雑怪奇な地下迷宮へ潜っている。聖神水を手に入れるため、今もずっと奮闘しているのだ。
——一体どれだけの覚悟を持って、彼女は即位したのだろう。
黒岩病が流行り、人間への恨みつらみが蔓延るこの魔族側において。部下と意見が合わず、守るべき民からも罵声を浴びせられているというのに。
以前の自分を捨ててでも、自分が理想とする王となるために。戦争からも黒岩病からも民を救うために、彼女は今この時も動き続けているのだ。
——これが、この世界の『魔王』か。
「翼様が来られる前は、クラウディア様と交代交代で迷宮へ行っていました。時にはお二人で行かれることもありましたね。味方のいない中で、寝る間も惜しんで何ヶ月も探索をし続けていました」
味方がいない、時間もない。二人と、クローネさんと、僕と同じく召喚されたらしいビルスで動くしかなかった。彼女たちが迷宮探索にどれだけ気力と体力を使っていたのか、その苦労は計り知れない。
「失礼ですが、翼様はおいくつでしょうか?」
「えっ? 十七歳ですが……」
「クラウディア様よりおひとつ下でしたか。ダリア様も人間の年齢に直せばそれくらいですから、あまり変わらないですね」
クラウディアさん十八歳だったのか。ダリアさんも魔族の年齢でいえばそれくらいって、二人とも僕とほぼ変わらない歳だったとは。
「ダリア様は明るく振る舞ってはいますが、その精神は大きく摩耗しています。クラウディア様もそうでしょう。無理もありません。若いながらに勇者と魔王という地位に立ち、更には戦争を防ごうと足掻いている。味方もごく僅かだというのに」
淡々と言いながら、小さく首を振る。僕は何も言えず、ただじっとクローネさんを見つめていた。
「翼様に着せる服を選んでいるダリア様は、とても楽しそうでした。あんな風に笑う姿を見たのは久方ぶりです。きっと新たな味方が、しかも同年代の方が来てくれたのが余程嬉しかったのでしょう。無理をして、張り詰めていた心が少しだけ緩んで——魔王としてではなく、王女としてのダリア様が出てきた。いつかのように、誰かを可愛らしく着飾らせてみたかったのかもしれません」
ゴスロリ服に視線を落とす。風になびくスカートに、数々のリボンとフリル。いつかのダリアさんが好きだった、可愛い服そのものだ。持っている中でもトップクラスに可愛いものを選んだ、と言っていたのを思い出す。彼女がどんな思いだったのか、そう考えるだけで胸の奥が痛んだ。
「…………少々、喋りすぎてしまいましたね。翼様、どうかこの話は内密に」
「……はい。わかってます」
こくりと頷いて、クローネさんは飛ぶ速度を落とす。夜空の流れが鈍くなった。
「翼様は一刻も早く元の世界に帰りたがっていると聞いています。巻き込んで申し訳ございません……私が言っても、何にもなりませんが」
クローネさんは飛んだまま、顔を少しこちらへ向けて言った。そうだ、僕は元の世界に帰りたいし、影武者をやることへの恐怖や慣れなさも消えてはいない。さっきの怒鳴り声にだってビビってしまったし。
けれど、それ以上に魔族の悲痛な叫びが、そしてどれだけ批判されようと彼らを守ろうと動くダリアさんの顔が頭に染みついて離れなかった。
「厚かましい願いだとはわかっています。ですが、聞いていただけますか。貴方にしかできないことです」
貴方にしか、と言われてドキリとする。ああもう、この人たちは。異世界だから、召喚された身だから、そんなことはわかっている。だけど、そう言われるのは——どうしようもなく、嬉しかった。
「貴方の存在は、お二人の支えになっているのです。危険からもお守りしますし、私にできることなら何でもします。ですからどうか……この星条界にいる間、最後まで。ダリア様とクラウディア様の味方でいてくれませんか」
そう言うクローネさんは首を限界までこちらへ向けていて、垂れ目の奥には懇願の色が浮かんでいた。
いつのまにか辺りの風景は城下町へと変わっていて、美しく整った街並みが見える。夜も更け寝静まった街の上空をふわりと飛んでいく。遠くには庭園と円形の池、そしてぼんやりと宮殿らしき影が見えた。
僕はクローネさんの目をじっと見つめ、小さく頷いた。何か言いたかったけれど、上手く言葉にできなかった。胸の奥には色々な感情が渦巻いていて、やたらと早くなった鼓動を感じていた。
「ありがとうございます」
クローネさんの口元が綻んだ。彼女はいつもの無表情を崩し、声を少しだけ上ずらせて夜空を飛び続ける。
天の星々は欠けた月を囲うように浮かび上がり、一層煌めきを増していた。
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