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意識が浮き上がっていき、足が地面の感覚を捉える。瞼の裏まで届いていた光が消えていく。ゆっくりと目を開けば、そこは広い部屋だった。
ベッドにクローゼット、本棚、テーブルと椅子にソファ、ドレッサー。多くの家具はどれも茶色を基調とした品のあるデザインで、高級感があり周囲の白い壁ともよく合っていた。備え付けの窓は大きく、レースカーテンの隙間から太陽の淡い光が差し込んでいる。
シンプルだけど豪華な部屋、といった感想が一番に出てきた。これがクラウディアさん——勇者の住んでいる部屋か。
さて、まずは何より変装が先だ。もし誰かが来たら大変だからな。クローゼットを開き、服を取って急いで着替える。チョイスしたのは、白のシャツに黒のズボンというシンプルな格好。可愛い系の服しかなかったらどうしようかと思っていたが、僕でも普通に着れそうなものばかりでよかった。シャツからはちょっとだけ女の子特有の柔らかな良い香りがして、ドキドキしてしまう。
靴も履き替えて、ドレッサーの鏡で自分の姿を確認した。瞳の色は魔法が効いたのかすっかりエメラルドグリーンに変わっており、髪型も金髪ポニーテールになっている。どこからどう見ても、完全にクラウディアさんだった。
「うわ……」
あまりの激似っぷりに自分でも引いた。瞳の色や髪型を除けば、顔自体は特に変わってないことを考えると余計にだ。
本当に僕って女顔なんだな。いやよく言われてはいたし、自覚もしてたけどさ。僕の男としてのプライドが粉々になっていくのを感じて、がっくりとしてしまう。すごすごと元々着ていたTシャツとジャージの短パンを畳んだ。
「うわー! スゲェなツバサ! そっくりじゃねぇかオマエ!」
ビルスの大声に肩が跳ねた。鏡を見れば、いつのまにかビルスが僕の頭上を飛んでいる。ああびっくりした。いきなり声を掛けるのは心臓に悪いのでやめてほしい。
それにしてもどうしてビルスは僕の名前を知ってるんだ? さっき話していた時はいなかったはずなのに。確かダリアさんがどうせ全部聞いてたとか何とか言ってたけれど、ビルスってクラウディアさんに呼ばれて飛んできてたし、離れたところにいたんじゃないのか?
「安心しろクラウディア! これなら確実にバレねぇぞ!」
「えっ?」
何でクラウディアさん? ここにいるのか? 慌てて辺りを見渡すが、当然のごとく誰もいない。だけど明らかにビルスはクラウディアさんと会話しているようで、頭の中がハテナで埋め尽くされた。
「ん? ……あー、そうだ! まだツバサはオイラの加護を受けてなかったな!」
ビルスは僕の頭上から額へと移動する。そして小さな手をスッと出し、僕の額の真ん中に手のひらを押し当てた。ごつごつとした爪にむにゅっとした独特の感触。ちょっとクセになりそうなこれはまさか肉球というやつだろうか。ドラゴンにもあったのか?
するとポゥッと音が鳴り、一瞬僕の視界を緑色の光が覆った。なんだこれ! と慌てた僕はよたつくが、ドレッサーの角と椅子に捕まって何とか事なきを得た。
「おいおい、大丈夫かー?」
「あ、うん。だ、大丈夫だけど……何かした?」
(安心して。これはビルスの加護……要するにビルスの魔法の恩恵を受けられるようになったってことだから)
「なっ……!?」
突然上から声が聞こえて、驚いて天井を見上げた。ホログラムのような映像にクラウディアさんが映っていて、笑顔でこちらに手を振っている。SF映画で出てくるような光景に、僕は目を丸くするばかりだ。
「えっ? えっ? クラウディアさんですよね?」
(うん、そうだよ。ビルスの力のおかげで、こうして離れたところにいても話せるんだ)
「そうさ。オイラが魔法で出す特別な風に声を乗せれば、離れたところにいるヤツにもそれが届くんだ。こうやって顔だって映せるぞ! オイラの加護を受ければ常にその風を纏うことになるから、オイラが側にいなくても声を届けられるんだぜ!」
なるほど、つまりビルスが使う風の魔法の力がテレビ電話に似た役割を果たしてるってわけか。それは凄いな。
(この声はビルスの加護を受けてる人……私とダリアと……あとクローネさんにしか聞こえないし、顔もそれ以外の人には見えないよ)
「クローネさん?」
(ダリアの侍女さんだよ)
そういえば侍女がいるって言ってたな。そういう名前だったのか。
しかし、風の通話なんてものがあるとは。こうやってクラウディアさんとダリアさんも連絡を取り合っていたんだろう。この方法なら他者にはまずバレないだろうし。
(もちろん、意図的にこの声をこの人に届けよう! ってしなければ届かないから。風の力も無限じゃないから、ずっとは使えないし)
「わかりました」
(でも何かあったら遠慮なく使ってね! 全然大丈夫だから)
「ありがとうございます」
俺がぺこりと頭を下げれば、クラウディアさんが指で丸を作る。
「それにしても便利ですね。これが魔法か……そういうの、全然知らなくて」
上空のホログラム映像をしげしげと眺めながら言うと、ビルスが驚きを隠せない口調で、
「えっ、ツバサ魔法知らねぇのか? 魔力とかも?」
「うん。僕のいた世界には、魔法とか、魔力とかそういうのなかったから」
「へぇー! 珍しいな! オイラのいた世界にだってあったのに!」
ビルスが目を丸くする。クラウディアさんも驚きの表情を浮かべていた。魔法がある世界ってそんなにあるものなのか。ない方が珍しいのか?
(魔力っていうのは、星条界に暮らす人なら誰でも持ってる、魔法を使うための力だね。これが多ければ多いほど強い魔法が使えたり、魔法を連発できたり、使える魔法の種類が増えたりするんだよ)
「なるほど……」
「ちなみにこの星条界で魔法を使う時は、魔法陣を描くのが基本だぞ! 一つの魔法を使うにつき一つ出す感じだな。使う魔法によって魔法陣の色や見た目が変わるんだぜ。あとは…………そうだ! 強力な魔法を使うには杖が必要なんだ。そうじゃねぇと魔法のコントロールができないからな!」
ビルスはうんうんと唸りながら、自分の持っている知識を一つ一つ教えてくれた。ありがたい。それにしても魔法陣といい杖といい、正にファンタジーといった単語ばかりだ。ワクワクしてくる。
「……ま、でもオイラの魔法はこの星条界の魔法と使い方違ぇんだけどな!」
ペロッと舌を出しながらそう言うビルスに、ガクッと来てしまう。そこまで説明しておいて違うのかい、と言いたくなったが、よく考えればビルスも僕と同じ、違う世界からここに召喚された身だ。星条界の魔法と違うのはまあ、当然ではあるのだろう。
(私の召喚魔法も、他の魔法とはだいぶ違うんだよね)
「そうなんですか?」
(うん。魔力はすっごく消費するし、失敗することも多いよ。おまけに一度使ったらしばらく使えなくてね……)
肩を落とすクラウディアさん。流石に召喚魔法の連発は無理なんだな。しかも失敗もあると。そりゃあそうか、こんなとんでもない魔法が連発できて、何でもかんでも召喚できたらもう無敵だろうしな。使えるだけでも凄すぎる。
「ほら、見ろよツバサ! オイラの風はスゲェんだぞ~! 離れたところの音は拾えるし、こうやって飛ぶスピードも上げられるんだぞ!」
ビルスは背中の羽を広げて、猛スピードで部屋中を縦横無尽に飛び回る。そうか、さっき僕の名前を既に知っていたのは離れた場所の音を拾う力があったからか。それならダリアさんの全部聞いていたという発言にも納得だ。風を司るドラゴンだと言っていたけれど、まさかこんなに便利な能力だとは。思わず舌を巻いた。
「凄いんだな、ビルス」
(でしょでしょ! すっごいんだよ、ビルスってば!)
「そうだぞ! もっと褒めてもいいんだぞ!」
声色といい、表情といい、二人ともとても嬉しそうだ。人間とドラゴンのはずなのに、笑い方が似ている気がして、なんとも微笑ましい気持ちになる。
しかし僕の影武者になることへ対する抵抗の様をずっと聞かれていたとは。必死だったとはいえちょっと恥ずかしい。頬を掻いていると、ゴンッ! という大きめの音が鳴って、何かが高いところから落ちた音がした。
「いっでぇー! ぶつかった!」
地面にうつ伏せで転がっているビルスは、頭を押さえて目をつぶっていた。翼がへにょんと垂れ下がっている。
(ビ、ビルス! 大丈夫!?)
クラウディアさんが焦った声を上げる。僕は急いでビルスに駆け寄ると、床からビルスを拾いあげてベッドへ運んだ。
「いてててて……もーしばらく飛ばないぞ……」
痛そうに顔を歪めて、へにょへにょの声を出すビルス。何にぶつかったのかと確認すると、そこには額縁に入って壁に掛けられた世界地図らしきものがあった。
地図のほとんどを占めているのは楕円形の大きな大陸で、そのちょうど半分くらいの辺りに真っ直ぐな横の太線が引かれている。
これがこの世界、星条界の地図なんだろうか。確かダリアさんが大陸の上半分には人間が、下半分には魔族が住んでいると言っていたけれど、この太線が上下の基準なんだろうか。国境みたいなものなのか?
気になって近づけば、見たことのない記号や文字がびっしりと書かれている。記号の方はよくわからないけれど、文字の方は読める。都市の名前らしきものが多い。時折地図上に現れる青い丸は……泉なんだな、これ。
そういえばこの星条界の言語、普通に読めるんだな。思えばダリアさんやクラウディアさんとも初めて会った時から普通に会話できてたし。召喚魔法の効果なんだろうか。何にせよありがたい話だ。
「ん~? 地図に興味があるのか?」
(あ、ビルス。まだ無理しない方が……)
ビルスがふよふよと飛んで僕の隣へとやってくる。まだぶつかったところが痛むのか、両手で頭を押さえていた。クラウディアさんはそれを心配そうに見守っている。
「気にすんな~クラウディア。大丈夫だ」
(そう? ならいいけど……あ、翼。何か質問ある? 探索しながらになるけど、まだ話してられるし。聞きたいことがあるなら答えるよ)
「あ、本当ですか? じゃあ……この太い線は何ですか?」
地図に書かれた大陸を分断している太線を指差し、聞いてみる。クラウディアさんより先にビルスが答えた。
「ああ、それは魔術障壁だぞ」
「魔術障壁?」
「昔……確か二十年前か? いや、実際に始まったのは十八年前だっけか。合ってるか?」
(うん、合ってるよ。その頃に人間と魔族が最初に戦争したんだよね)
「えっ!」
嘘だろ、人間と魔族の間で戦争が起きてたのか。結構前ではあるけれど、まさかもう既に一度あったなんて。
「戦争が起きた当時の魔族軍が、人間の侵攻を抑えるために魔法で造ったのがこの魔術障壁だ。地上でも空の上でも地下でも関係なく、一切の侵入を防ぐスゲェ壁なんだぞ」
「そんなものが……」
壁自体の性能も相当だが、こんなに広い大陸をくっきり半分に割れるくらい長い壁を造れるとは。魔術って凄まじいな。
(人間側も一応壁は造ってるんだけど、魔族と違って完全に魔法のみで造るのは無理みたい。しかもまだ未完成だしね)
よく見ると、太線の魔術障壁に沿って途切れ途切れの細い線が描かれている。それは上半分の中にあり、人間側が作った壁だと読み取れた。
「こっちの壁を造ったのは人間の方の軍ってことですか?」
(……いいや、それを造ったのは『
守護兵団とは、また聞き覚えのない単語が出てきた。でもさっき地図を見た時、そう読める文字が色んなところに書かれていた気がする。
(……人間側に属する各国から兵士を集めて結成された、国際的な組織だよ。モンスター退治を中心に、魔族側の監視とかの防衛も担ってるの)
「各地から出るモンスターの出現報告に対応して、守護兵団の兵隊が派遣されるんだぞ。あそこの地図に載ってる黒い四角が守護兵団の駐屯所の場所だ」
ビルスがさっき見ていた壁掛けの地図を指差す。見れば確かに大陸の上半分、人間側の土地にはいくつも黒い四角形が描かれていた。
へぇ、この星条界にはそんな組織があるのか。しかもこんなにたくさん駐屯所があって、色んなところに分布してるなんて。関心する僕だったが、説明してくれるクラウディアさんの声のトーンが少し下がっていたのを感じて首を傾げる。気のせいだろうか?
「…………ああ、そうだった! これもツバサに言っとかなきゃな。クラウディアは今、守護兵団に属してる。今住んでるこの部屋も貰ったものなんだぜ。食事も出てくるし、服なんかも支給されてる」
クラウディアさん、守護兵団所属だったのか。確かにやっている事業的には勇者が所属しててもおかしくはなさそうだけど。おまけに衣食住全部提供されているなんて! めちゃくちゃ良い待遇じゃないか。流石というべきか。
「地図で言うなら、今いる場所はどこら辺なの?」
「これだぞ」
ビルスが指差したのは、守護兵団を示す黒い四角形の記号の中でも、一際大きい四角だった。
「これが守護兵団の本部。今オイラたちがいるのはここだ」
「え、ここが!?」
家を与えられたとかじゃなくて、本部に直接住む形だったのか!? それは凄いな。クラウディアさん強いし、何かあったらすぐに派遣できるようにとか、そういう感じなんだろうか。
「でも本部の割に、静かだね」
そういう場所って、たくさん兵隊さんが出入りしてそうなイメージあるのに。たまにガチャガチャという足音らしき音が遠くで聞こえるけれど。
「仕方ねぇよ。なんせ三日前だったか、どっかの村でとんでもねぇモンスターが現れたらしいぜ。なんかスゲェでかい蛇みたいなやつで、頭が八つくらいあったって。牧場が寝てる間に襲われて、牛が大量に死体で見つかったらしいぞ。鋭い牙で全身を引き裂かれたんだってよ」
「うわ……」
頭が八つくらいある蛇って、そんなヤマタノオロチみたいな奴がいるのか!? 想像したらぞっとして、鳥肌が立った。そんな高難易度ダンジョンのボスみたいなの、絶対に出会いたくないな。
「牧場の近くの村に住んでるヤツらが震え上がって、守護兵団に来てもらうよう頼んだみたいだぞ。最近のモンスター被害の中でも類を見ない酷さだったから、本部にいる精鋭部隊も緊急招集されたらしいぜ」
「そんなことが……」
どうりで人が少ないのも納得だ。そんなやばいモンスターがいるなら、そりゃあみんなそっちに行くだろうな。
あれ、そういえばクラウディアさんは、勇者は呼ばれてないんだろうか? 勇者なわけだし、精鋭どころか最大の戦力でもおかしくないだろうに。休暇中だからかな?
「守護兵団は魔族と人間が最初に戦争を起こした時——よく『魔人戦争』って呼ばれてるんだが、それが終わった少し後に人間側で結成された組織なんだぞ」
魔人戦争か、これまた安直な名前と思ったけれど、世界史を思い出す限りこっちも大概だった。十八年前だっけ、魔人戦争が起きたのは。それくらいの頃から守護兵団もあるってことなんだな。
「…………今から三ヶ月と、少し前だったか。ちょうどオイラが召喚されて間もない頃に、クラウディアが守護兵団にスカウトされたんだ。召喚魔法が使えるからってさ」
「へぇ、スカウトだったんですか! 凄いですね」
国際的な組織にスカウトされるなんて、やっぱり勇者って凄いんだな。クラウディアさんの方を見れば、笑顔でありがとうと言っていた。けれどその表情はどこか硬い。さっきからずっとそうだ。ビルスを褒めた時にはあんなに嬉しそうにしていたというのに、態度が全然違う気がする。口数も随分少なくなってるし……どうしたんだろう?
「……召喚魔法は今、この星条界でクラウディアにしか使えない魔法だからな」
「えっ!」
ビルスの言葉に目を丸くする。召喚魔法ってそんなに貴重な魔法だったのか。
でも考えてみれば、クラウディアさんは召喚魔法を『自分の願いを叶えるために必要な存在を異世界から呼び出してくる魔法』って説明してたけど、相当やばいよな。要するにどんな願いでも叶えてもらえるってことじゃないか。だって僕もそうだけど、その願いが叶うまでは召喚された方は帰れないわけだし。
「貴重な召喚魔法も使えて、国際的な組織にも所属してるんですか。しかもスカウトで。本当に凄いですね、尊敬します」
聞けば聞くほど素晴らしい経歴だ。RPGとは違って聖剣こそ抜いてないけれど、特殊な魔法が使える選ばれし者。まさに『勇者』の称号に相応しい。
影武者とはいえ、そんな人としてこの場にいることがどうにもむず痒いような、嬉しいような、複雑な気持ちになる。
(…………あはは、翼はたくさん褒めてくれるね。ありがと。でも私は、そんな大した人間じゃないよ)
眉を下げ、困ったような笑顔でクラウディアさんは言う。よく見ればビルスも表情が曇っていた。会話が途切れ、辺りは静寂に包まれる。場の空気が明らかに重くなったように感じて、僕は目を瞬かせた。
何か自分は、言ってはいけないことを言ってしまっているのだろうか。もしそれならば謝りたいし、また口に出さないよう気をつけるのだけど。でも一体何が二人を微妙な反応にさせるのだろう? 知りたいが、あまり何かを聞ける空気ではない。それに根掘り葉掘り聞くのは失礼だろうか。
僕が悶々と考えていたその時、上空のホログラムからクラウディアさんの奇声が響き渡った。
(あびゃああああっ!?)
耳をつんざくようなそれに肩が飛び跳ねる。見れば、クラウディアさんがおでこを押さえて涙目になっていた。
「だ、大丈夫ですか!? どうしたんですか?」
(いひゃい……ぶつけた……)
「け、怪我ですか! 待ってください、何か……」
焦って辺りを見渡すも、特に何もない。というかそもそも、テレビ電話なのだから僕が向こうにできることなんて何もないのだ。それに気がついて手が止まる。
「…………ったく、まーた前ちゃんと見てなかったな? クラウディアのヤツめ」
ビルスが両手を広げて、頭を振る。困ったもんだと言いたげな様子だ。
「考え事に集中すると周りが見えなくなる癖、直ってねぇな。こうして話しながら探索するなんて、オマエには向いてないぞ。ただでさえおっちょこちょいなのによ」
(……! ち、ちちち違うし! 前見てなかったんじゃないし! 暗くてよく見えなかっただけだし! おっちょこちょいとかじゃないし!)
クラウディアさんは顔を真っ赤にして、大声で否定する。痛みはまだ引いてないのか、両手はおでこに添えたままだ。
「どっちにせよそろそろ気をつけなきゃいけないゾーンに来てるってことじゃねぇか。ほら、探索に集中しろ。もう切るぞ。足元ちゃんと見とけよ」
(あっ、ちょっと! 私まだ翼に……!)
クラウディアさんの言葉は最後まで続かず、風のテレビ通話は切られた。浮かんでいたホログラム映像は綺麗に消え去り、ただの白い天井に戻っている。
「だ、大丈夫なの? クラウディアさん……」
「アイツおっちょこちょいで、よく怪我するヤツなんだよ。全く、無理やりにでも包帯と傷薬持たせて良かったぜ」
やれやれといった様子のビルスに、僕は苦笑する。まるでクラウディアさんの保護者みたいじゃないか。
「悪りぃな、ツバサ。今アイツがいる場所は地下迷宮でな、真っ暗であんまり足場が良くねぇんだよ。あの調子だとまーた怪我しそうだから、切らせてもらったぜ」
「あ、うん。それは大丈夫なんだけど……地下迷宮って何?」
そんな場所にクラウディアさんがいたなんて初耳だ。神話の秘宝を探しているという話だったけど、地下迷宮にあるものだったのかそれ。
「『聖神の迷宮』だ。この星条界に古代から存在する、神の造った迷宮って言われてるヤツだな。その迷宮にある、四六時中風の吹いている部屋こと『風の間』に眠っている秘宝、『聖神の石』を求めてアイツは今探索してる」
「聖神の……迷宮……」
風の間だの、秘宝の聖神の石だの、ますますゲームっぽさが増してきた。今やってるRPGの重要アイテムにも、〇〇の石という名前のやつあったな。
本当にダンジョン探索みたいなことをやっているのか。ゲームでは散々やってきたけど、それをリアルでやるなんてとても想像できない。床に穴とかあいてないだろうかと心配になってしまう。
「オマエがさっきまでいたのも、聖神の迷宮なんだぞ? クラウディアとダリアが一緒に探索してた最中に、オマエが召喚されたんだ」
召喚された直後の光景を思い出す。ごつごつとした周囲の壁に、明かりも付いておらず窓もない、昼だというのにやたら薄暗い場所。確かに、地下迷宮だと言われれば納得できる。
しかし、聖神の石とは。そんなものでどうやって人間と魔族間での戦争を防ぐ気なんだろうか。ゲーム的に考えれば、石に奇跡を起こすとか、誰かの願いを叶えるとか、そういう効果があったりするんだけど——。
コンコン。
突如、ドアをノックする音が部屋に響いた。僕は思考を止めて、ビルスと顔を見合わせる。
「お食事をお待ちしました、クラウス様」
落ち着いた声の男性が、知らない名前を呼んでいる。クラウスって誰のことだ? と首をひねる僕へ、ビルスは小さい声で耳打ちする。
「……すまねぇ、言い忘れてた。クラウスっていうのは、クラウディアの勇者としての名前だ。実際は女だが、表面上は男ということにしてるんだぜ」
「えっ!」
性別を偽っていたのか、それは初耳だ。でも確かにあの甲冑に身を包んだ姿は、男性と言われれば信じられる。僕の身長は百七十ちょうどだけど、クラウディアさんもそれくらいあったし。普段から兜で顔を隠しているなら尚更だ。
「基本人前に出る時は喋らないか、薬で声を変えてたんだ。変えた時はちょうど今のツバサみたいな声だったぞ」
そうか、だからウィッグとか瞳の色とかは変えたけど、声は特に変えなかったのか。まさか顔だけじゃなくてそんなところまで似てるなんて、本当びっくりだ。
それにしても、何でクラウディアさんは男ってことにしてるんだ?
「……あのー? クラウス様? どうかなされましたか? もしかしておられない?」
ドアの向こうの男の人の声に困惑と心配の色が混じり始めた。これ以上出ないと不審に思われるかもしれない。
「とりあえず出てくれ。食事を受け取るだけで大丈夫だぞ」
「わかった」
耳打ちするビルスに小声で返事する。急ぎ足で部屋の入り口へ向かい、鍵を開けてドアを開く。甲冑を着た若い男の人が白い布の掛けられたトレーを持って立っていた。
「ああ、よかった」
無事僕が出てきたからか、ほっとした顔をしている。甲冑はクラウディアさんが身につけていたものとよく似ていて、胸元に紋章がついていた。動物の顔っぽいものが書かれた紋章だけど、何の動物かはいまいちわからない。
「本日の朝食です。中にアレも入ってますから」
男の人がトレーをこちらに差し出してくる。アレって何のことだ? と思いながらもとりあえず受け取ると、
「ピューイ! ピューイ!」
聞いたことのない、甲高い鳴き声をあげるビルスが僕の眼前へと飛んできた。男の人へ向けてにこにこ笑顔を浮かべながらふわふわと飛んでいる。
「相変わらずペットのビルス様はお元気のようですね」
「えっ、あ、ははは……」
ペットってどういうことだ、召喚獣じゃないのかと喉まで出かかったが、何とかぐっと呑み込んだ。乾いた笑いでごまかす。
「では私はこれで。本日もごゆっくりお過ごしください」
そう言って一礼し、男の人は帰っていった。ドアを閉めてトレーをテーブルへ置き、ベッドへ直行し体を投げ出す。思っていたよりも柔らかくなくてしょぼんとしてしまった。
「あ~緊張した……」
初めて勇者として、人と会話した。影武者をやっている以上当たり前なのだが、めちゃくちゃ緊張するな、これ。
「悪りぃなツバサ、そっちも先に説明しておくんだった」
ビルスが申し訳なさそうな顔で枕に顔を埋める僕の横へと降り立つ。
「オイラはクラウディア……いや勇者クラウスが召喚したってことにはなってるけど、位置付けとしてはペットってことにしてるんだ。オイラが実はスゲェドラゴンってことがバレると、色々と面倒くさいことになるからな」
さりげない自慢を混ぜながら、小声でビルスは語り始める。ペットって、そんな扱いでいいのかとは思ったが、よく考えればビルスはクラウディアさんとダリアさん、勇者と魔王が裏で戦争を止めるために手を組んでることを知ってるし、協力もしてるもんな。
「他の人から警戒されないためにペットってことにしてる、みたいな?」
「まあ、大体そんな感じだ。おかげで人前じゃ話せねぇから、テキトーに鳴き声あげてるんだ。けっこー大変なんだぞ!」
「それは確かに大変だね……ははっ」
「おい笑ってるだろ! 先輩に対して失礼だぞ!」
あの甲高い鳴き声を無理して出しているビルスを想像したらちょっと笑ってしまった。頬を膨らませてぺしぺしと肉球で殴ってくるビルスにごめんと謝る。この感触、やっぱり癖になるな。
「……まあとにかく、大きい組織に属していると色々と面倒が多いんだ」
ビルスは殴るのをやめると、どこか遠い目をしながら言う。手足の動きが止まり、尻尾も項垂れているようだった。
「クラウディアが男ってことになってるのもその一つだ。そうじゃないと、この組織でやっていけなくてな」
「…………そっか」
もう少し深く事情を聞きたい気持ちはあったけど、ビルスの表情を見てやめた。
もしかして、さっき守護兵団の話をしていた時にクラウディアさんのちょっと様子が変だったのは、そういう複雑な事情があったからだったんだろうか。思えば、ドレッサーの中の服がどれもシンプルで女性感のないものばかりだったのも、そのためだったのかもしれない。
そう考えると、僕の発言は無神経だったな。申し訳なさで肩が落ちた。これからは気をつけないと。
「…………まあ、嫌な話はここまでにして、そろそろ朝メシでも食おうぜ! ツバサもハラ減っただろ?」
「へ?」
ビルスの発言に心の中の反省会は一瞬で終わった。ご飯なんてあったっけ。あっ、いやさっきの男の人が持ってきてくれたトレーがそうだったか。テーブルの上に置いたままだった。
「オイラは先に食うぞ~、いっただき~!」
ビルスがトレーに掛けられていた白い布を取ると、ふわりといい香りが辺りに漂った。
「おお……!」
二枚のチーズトーストにグリーンサラダ、ミネストローネに似たスープ、コーヒー。メインの皿には綺麗な楕円形のオムレツが乗っている。ケチャップの照りが美しく、添えられたソーセージも美味しそうだった。
思えば、召喚される前からずっと今日は何も食べていない。腹の虫がぐぅと鳴いているのが聞こえる。
「オイラはこっちなー!」
ビルスは小さな小瓶を抱えている。見ると、中にはピーナッツが入っていた。もしかして、これを受け取る時に男の人が言ってた、アレも入れておいたってのはビルスのご飯のことか? ほんとにペットだと思われてるんだな。
ビルスは小瓶を開き、中のピーナッツを口の中に流し込んでいる。そろそろ僕も食べるか、とフォークを取った。
オムレツを切り分け、口に運んでいく。ちょうど良い柔らかさで、ケチャップとの相性が抜群だ。チーズトーストのチーズも良い具合にとろけていて、耳はサクサクしていた。
「どうだー? ツバサ! 美味いか?」
「うん、美味しいよ」
ミネストローネ風のスープを飲んで、ほうと息をつく。昔、こんな朝食を食べた覚えがある。
思い出した。母が中学の定期テストの朝に、いつもこんな食事を作ってくれていた。テストで頑張れるように、豪華な朝食を作って、笑顔で送り出してくれた。
——今は、そういうこともなくなってしまったけれど。
懐かしさと、仄かな悲しみが渦巻く胸を押さえて、僕は切り分けたオムレツをまた口に入れた。
「なんか慣れてんなー。ツバサのいた世界でもこういうメシ食ってたのか?」
両頬にピーナッツをパンパンに詰めながら、ビルスが首を傾げる。その姿はドラゴンというよりハムスターで、ちょっと笑いそうになってしまった。
「そうだね、僕のところでも朝にはこんな感じのものを食べてたかな。こんなに豪華なものは早々ないけど」
「……まぁ、メシ自体はそこそこ豪華だよな。聖神水は流石に使ってねぇけどよ」
「え? 聖神水?」
知らない単語だ、初めて聞いた。目を瞬かせる僕に気づいたのか、ビルスは急いで口の中のピーナッツを噛み砕き、一気に飲み込む。ちょっと詰まったのか咳き込んだので、慌てて背中を撫でてあげた。
「……そっか、オマエ聖神水も知らねぇんだったな。一番重要なのに、すっかり説明するの忘れてたぜ」
「一番重要? その聖神水って言うのが?」
「ああ。だってクラウディアとダリアが探し求める神話の秘宝——『聖神の石』は、その聖神水を無限に精製することのできるものだからな」
「え!?」
ビルスの発言に僕は目を丸くした。神話の秘宝って、聖神の石ってそんな効果だったのか!? 水の無限精製だなんて、そんなにその聖神水とやらが特殊なものなのか。
頭の中がはてなマークだらけの僕にビルスが説明したことをまとめると、大体このような内容だった。
聖神水は古代の神によって作られたと言われる星条界では知らぬ者のいない伝説の水であり、飲むと体力や魔力を一時的に増幅させることができる。用途としては魔法武器の稼働や、通常の治療薬が効かない重い病や深い傷の薬としての使用が主らしい。稀であるが、高級料理に使われることもあるのだとか。
戦闘において体力や魔力の回復のために飲むこともあるそうだが、人間は魔力をあまり持っていない人も多いし、魔法武器に使った方が効率も良いのでそちらの方が基本のようだった。
また聖神水は、『聖神の泉』と呼ばれる特別な泉でしか湧かないもののようだ。おまけに一日に一定の量しか湧かないので、非常に貴重なものとなっている。そのため現在の星条界において人間側にある聖神の泉は、全て守護兵団によって厳重に管理されているらしい。
「そんな水があるんだ、凄いな……魔法武器なんてものもあるの?」
「そうだぞ。従来の武器に魔法の効果を付与した特殊な武器だ。数は少ねぇけど、威力は絶大だってよ。モンスター退治には必需品だな」
「なるほど……だけど、その聖神水がなんで人間と魔族の戦争を防ぐ手立てになるの?」
神話の秘宝こと聖神の石さえ手に入れば、戦争を防げる。そういう話だったはずだ。僕の質問にビルスは少し顔を伏せて、
「……今、人間側の聖神水がどんどん不足してるんだ。一日に湧く量がどんどん減ってるんだってさ」
「えっ!? 湧かなくなったって……何かあったの?」
僕の質問に、ビルスは首を振る。
「それがわからねぇんだよ。色々調査してるらしいが、未だに原因不明だってさ。前からずっと減り続けてたんだが、近年になって更に減ったらしいぜ」
そこの原因もわかってないのか。原因不明では対処のしようがないじゃないか。
「このままいけばいずれ聖神水は完全に湧かなくなって、枯渇しちまうんだってよ。そうしたら魔法武器も使えなくなるし、重い病気のヤツらへの薬もなくなっちまう」
「えっ、そんなことになったら……!」
「ああ。日頃からモンスターが各地で湧き出るこの人間側で、魔法武器が使えないのは死活問題だ。モンスターと戦って、酷い重症を負ったヤツらへの治療もできなくなるしな。だから魔族側が保有する聖神水を奪おう、そのために戦争を起こせっていう声が高まってるんだぜ」
「なっ、それで戦争を……!? 魔族から水を分けてもらうとか、貿易するとか、そういうことはできないの?」
「無理だな。魔術障壁ができてから、人間側と魔族側は完全に分断されてる。おまけにお互いの関係性は最悪だ。魔族側が人間たちに水を分けるなんて、絶対にねぇんだ」
きっぱりと言い切るビルス。人間と魔族の関係性が悪いとは聞いていたけれど、そこまでなのか。
「……っ! だけど、戦争したって勝てるとは限らないんじゃ。負けたらもっと酷いことに……」
「かといって何もしなければ、モンスターにやられちまう。そうなるくらいなら戦争を起こした方がマシだって意見が、人間側じゃ主流なんだぜ。クラウディアみたいなヤツは全然いねぇ」
「ええ……そ、そんな……」
僕は絶句し、俯いていた。ビルスの表情も暗く、部屋の空気がどんどん重くなっていくのを感じる。食べていたオムレツの最後の一切れが喉につかえる感覚がした。
戦争なんてことになれば、みんな死んでしまうかもしれないのに。それが主流の意見だなんて信じられない。
しかもクラウディアさんが反対だって言ってるのに、それに同意してくれる人が全然いないなんて。勇者って人々から人気あるはずだよな。その影響力が効かないなんてよっぽどじゃないか? 確かに僕も熊のモンスターに襲われた時はとても怖かったけれど。それにしても——
「うわあああああああ!!!!」
刹那、窓の外から耳をつんざくような悲鳴が響いた。
僕とビルスは同時に顔を上げ、窓に目を向ける。いつのまにか太陽は隠れており、暗澹とした雲が空を覆っていた。今にも雷が鳴り出し、嵐が起きそうなそれに胸騒ぎがする。これから何か、大変なことが起きてしまうような。
その予感は、見事的中した。
「襲撃だ! 守護兵団本部のすぐ近くで大量のモンスターが湧いた! ヤツらは十時の方向からこちらに向かっている! 残っている兵士は全員外に出ろ! 魔法武器もありったけ用意だ!」
ガンガンという鐘の音と共に、兵士と思われる人の金切り声の命令が響き渡った。
僕とビルスはその場で固まり、顔を見合わせる。ビルスの目は限界まで見開かれ、その表情は青ざめているように見えた。
つい先程まで静かだった守護兵団本部は急変し、怒号と罵声、悲鳴がそこら中から噴出する。四方八方を兵士たちがバタバタと走り回っていた。
「おい! バケモノ共はどこまで来てる! まさか建物の中まで入られたのか!?」
「いえ! まだです! ですが数が多く……! 今いる人数では抑えきれず、裏門の敷地内に入られたようです!」
「一匹一匹の力はそこまでですが、こうも集まられると!」
「クソッ、精鋭部隊が招集されてるってのに、こんなタイミングで出るかよ!?」
「魔法武器だって精鋭共がバカスカ持ってっちまった! おい、残りはどこだ! さっさと出せ!」
「人が足りねぇ! 動ける奴はとにかく外へ出ろ!」
部屋のドアの前を兵士たちが猛スピードで走り抜けていった。武器や甲冑による金属音と床を蹴りつける音が鳴り響き、ドア越しでもわかる切迫した空気と迫力に体が震えた。非常ベルを思わせる鐘の音は延々と止まることがなく、むしろどんどん激しくなっている。
とんでもないことが起きたと、否が応でも理解できた。途端に焦りの感情が湧き上がる。
これもしかして、いやもしかしなくても、僕も、勇者も戦わなくちゃいけないんじゃないか?
休暇中とか言ってる場合じゃない、事件はもう目の前で起こっているのだ。しかも先日起きた別のモンスター騒ぎで精鋭部隊が出払ってるなんて最悪の状況で、勇者が動かなくていい理由なんてあるわけがない。
着替えた時に見たが、クローゼットの中には剣が入っている。クラウディアさんが持っていたのとほとんど同じデザインのようだったから、おそらくスペアなんだろう。
あれ、取ってきておいた方がいいんだろうか。そう思ったが、足は動かなかった。だって僕は剣なんて使えない、使えるわけがない!
どうする? さっきみたいに誰か兵士さんが入ってきて、勇者様も来てください! なんて言われたら。いや絶対来るだろ、この状況だぞ。でもそうなったら僕もモンスターと戦うのか? 戦わなくちゃいけないのか?
頭の中で色んな言葉がぐるぐるする。どんどん呼吸が荒くなっていく。
「ビ、ビルス……!」
熊に似たモンスターに遭遇し、死を覚悟した時のことを思い出して全身の毛が粟立った。震える声でビルスを呼ぶと、ビルスはハッとした様子で、
「…………クラウディア! クラウディア! 聞こえるか! ゴフッ、ゴホッ!」
焦ったのか、咳き込みながらビルスは風を使ってクラウディアさんに呼びかける。
(……もごもご、はふっ。はーい、どうしたの? 今腹ごしらえに焼き芋食べてたとこ……)
「芋食ってる場合じゃねぇぞ! 敵襲だ! モンスターが本部に攻め込んでる!」
(…………ええっ!? そんな!)
クラウディアさんの声色が一気に変わる。顔色がさぁっと青くなった。
(……ま、まず詳しい状況を教えて!)
「あっ、は、はい!」
確か悲鳴は外から聞こえていた。僕は窓へと走ると、その下を覗き込む。
そこに広がっていたのは、想像を絶する光景だった。
モンスターだ。大量のモンスターがいた。漆黒の体躯に、八本の足。頭から突き出た触覚。その背中には人間のような目が一つだけついており、ぎょろぎょろと周囲を見渡していた。その数といえば、どんどん増えていき、窓から見える地面を全て埋め尽くさんばかりの勢いだ。
「なっ……!」
ぎょっとして窓から離れる。何だあれ、気持ち悪い。見た目は蜘蛛に似てるけど、大きめの犬くらいのサイズはあるし、何よりあの背中の大きい目玉はなんだよ! あんな気持ち悪いモンスターがいるなんて、しかもこんなにたくさん!
目玉をぎょろぎょろとさせながら蠢くその様はグロテスクで、あの無数の目が一斉に自分に向くような想像をしてしまい頭がくらっとした。
(翼、どうしたの? 大丈夫!?)
「い、いや、何でもないです……!」
何とか堪えて、よくよく辺りを見渡す。守護兵団の兵士たちも次々と武器を取り、蜘蛛たちとの戦闘に入っている。斬撃音、刺突音、銃声。閉まった窓を貫通して、あらゆる音が混ざり合い響き渡る。眼下で繰り広げられる苛烈な戦いに、僕は恐れおののくばかりだった。
「蜘蛛型のモンスターが守護兵団の敷地内を埋め尽くしてる。兵士たちが戦いに出てるが、数が多すぎてまだ対応しきれてねぇ!」
「…………あ、あの、そして大きな大砲を兵士さんが出してます……!」
ビルスに加えて自分も何とかクラウディアさんに情報を伝えようと、視界の端に映ったそれを口に出す。言葉の節々の震えはとても隠せなかった。
(大砲……ってことは、地下保管庫に置かれてる予備の魔法武器か。うそ、もうそんなの出さなきゃいけないくらい攻め込まれてるってこと!?)
クラウディアさんの顔色が一層青くなる。手を口に当てて、冷や汗をかいていた。
「ギャアアアアア!」
誰かの悲鳴が聞こえて、窓下に視線を戻す。兵士の一人が蜘蛛のモンスター複数に囲まれ、襲われていた。四方八方から吐き出される蜘蛛糸に体の動きを封じられ、身動きが取れなくなっているうちに腕に齧り付かれている。甲冑が砕け、大量の血が吹き出るのがくっきりと見えた。
「うっ……!」
初めて人が、あんなに血を流すのを見た。
限界だ。思わず口を押さえて、窓から飛び退く。顔からどんどん血の気が引いていくのが自分でもわかる。僕の足は生まれたての子鹿のように震えていた。
「ツバサ!」
(大丈夫!?)
心配する二人の声もどこか遠く聞こえる。喉奥から迫り上がってくる胃液を抑えるのに必死で、頷くことすらできなかった。
「……っ、クラウディア! まずいぞこれ! 今にも本部の中に入って来そうだ! もしこっちに来たら……!」
(ビルス、魔法でなんとかならない!?)
「無理だ! オイラ攻撃魔法は使えないんだぞ! 転移魔法でツバサを移動させるのも手だが、万が一守護兵団のヤツらにいなくなったことがバレたら……!」
(~~~~~っ、だよね、わかった!)
クラウディアさんは目を閉じ眉間に皺を寄せ、髪の毛をぐしゃぐしゃと掻き回していたが、やがて覚悟を決めたように目を見開いた。
(ビルス、転移魔法の起動お願い! 私帰る! そっちにワープさせて!)
「いいのか!?」
(翼に何かあったら大変だもの!)
「わ、わかった! じゃあちょっと待ってくれ!」
辺りに響くビルスとクラウディアさんの声を聞きながら、僕は目を見開いたまま虚空を眺め、立ち尽くしていた。体は動かなくて、思考回路も止まってて。何度も何度も、さっきの光景が頭の中でリフレインする。蜘蛛に襲われたあの人はどうなったのだろう。考えてはいけないのに、考えてしまう。
——この世界では、こんなことが日常なのか?
いつ襲いかかってくるかわからないモンスターと隣り合わせの日々。それが牧場であろうが、守護兵団であろうが関係なく、突然こうして襲撃されるのだ。そして誰かが傷つき、時には殺されることだって当たり前にあるのだろう。
——こんなの、戦争と大して変わらないじゃないか。
いいやむしろ、相手が対話できない怪物なことを考えるともっと酷いかもしれない。魔法武器が使えなくなれば、聖神水が枯渇すれば、これに蹂躙される未来が待っているというのか。想像も絶する方法で殺されるかもしれないのか。
「ひっ……うっ……はぁ、はぁ」
怖い、怖い、怖い。呼吸が苦しくて、肩で息をする。体の震えは全く止まる様子はなく、むしろ酷くなっていくばかりだ。ゲームとは違う、本当の現実でのモンスターとの戦いを目の当たりにして、僕は恐怖とショックで使いものにならなくなっていた。魔族と戦争した方がマシだという意見がなぜ、人間側での主流なのか。その理由の一端を見た気がした。
——クラウディアさんは、こんな状況を何とかしようとしてるのか。
ふっと思い出すのは、熊のモンスターから僕を助けてくれた時のこと。恐怖をものともせず剣を振るう姿は、今も鮮明に思い出せる。
そして今、迷宮探索と形を変えて、彼女はこの星条界に暮らす人々を守ろうとしている。聖神の石を手に入れ、聖神水の不足を解消すれば戦争も防げるという算段なのだろう。
——事態は刻一刻と悪い方へ向かってる。早く何とかしないと、戦争が始まっちゃう。それだけは絶対に嫌だし、止めなくちゃ。
そう言っていたクラウディアさんの思い詰めた表情と、拳を震わせる姿が頭に浮かぶ。詳しい事情を聞いた後だと、その言葉の重みが一気に増した。
いつモンスターに襲われるとも限らない世界で、その対抗手段である聖神水も枯渇していて。戦争を起こすのも致し方なしという意見が主流の中で、それに逆らって真に皆を守るために動く彼女がどれほど勇敢なのか。
——これが、この世界の『勇者』か。
その名の重圧がぐっとのしかかってきたような気がして、僕は気が遠くなりそうだった。
(ツバサ!)
クラウディアさんに呼びかけられ、首だけを上空のホログラム映像に向ける。
(待ってて、今すぐそっち行く! 大丈夫、君を危険な目には合わせないから!)
真っ直ぐ僕の目を見て伝えるクラウディアさんはとても真剣な表情で。エメラルドのような瞳には強い光を宿していた。
——ああ、なんて頼りになるんだろう。
こんな状況であっても、彼女は僕を助けようとしてくれている。あの時と同じだ。
それに比べて僕と来たら、顔は同じでも雲泥の差だ。何が影武者だ、全然できてないじゃないか。今にも腰が抜けそうだし、気を抜いたら泣いてしまう。情けない。カッコ悪い。そんな言葉ばかりが頭に浮かんでは沈んでいく。自分の全てが嫌になった。
せっかく必要としてもらえたのに。憧れの称号を貸してもらえたのに。
僕はまた、失敗して——
「ちょっと、入るわよ!」
突如響いた、女の子の大声。
聞き覚えのない声だ。高音で気の強さを感じさせるそれは、僕の思考を割って強制的に現実へと引き戻していく。
風のテレビ電話が切れる。転移魔法の準備をしていたビルスも慌てて中断し、声のした方を凝視していた。部屋のドアの前に誰かが立っている。
一拍置いて、勢いよくドアが開かれた。声の主が靴音を鳴らしながら姿を現す。
可愛い女の子だった。
僕より一回り以上小さい、中学生ぐらいの女の子。鮮やかなピンクの髪をサイドテールにして左へ纏めている。ネイビーを基調としたワンピースにはレースがあしらわれており、同じ色のケープにはいくつもの勲章が光っていた。海を思わせる青い目は僕とビルスを捉えている。
誰だ? 突然現れた謎の女の子に、驚きで涙が引っ込む。見ればビルスも呆けた顔をして固まっており、知ってる娘ではないようだった。
じゃあ一体誰なんだ、この娘は!? 守護兵団の人にしては雰囲気が違いすぎるけれど。
「……あーら。もしかしてクラウス様? 勇者の」
首を傾げて僕を見つめる女の子。僕の、いやクラウディアさんのことを知ってるのか。
「え、あっ、は、はい」
まさか話しかけられるとは。目を泳がせながら、慌てて頷く。
「ふーん、こんな顔だったんだ。いつも兜つけてるから、顔はよく見えなかったのよね」
女の子はつかつかと靴音を鳴らして僕と距離を詰めると、背伸びしてぐいとその顔を近づけてきた。
な、なんだこの娘!? 急な展開に思わずたじろぐ。青色の大きな瞳に僕が映っているのが見えて、少し気恥ずかしくなった。
「まあでも、挨拶は後ね。あの雑魚どもをさっさと片付けに行かないと」
ふん、と不敵な笑みを浮かべる女の子は、サイドテールをかき上げて踵を返す。部屋の窓に手をかけ、勢いよく開いた。
この部屋の窓は大きく、開けば途端に部屋中へ風が入ってくる。しかし今はそれだけではない。外で戦う兵士たちの大声が、剣の音が、モンスターの鳴き声が。その全てがはっきりと聞こえる。時折聞こえる爆撃音は、あの魔法武器の大砲の音だろうか。激しい戦闘で舞い上がる土埃が硝煙のように漂い、部屋へと入ってくる。鼻腔をくすぐる鉄の匂いに、僕はまた口を押さえた。
「あらあら、やってるわね」
激化する人間とモンスターの戦闘を眺めながら、女の子はやれやれといった様子で溜息をつく。
「あーもう。せっかく守護兵団入団を断ろうと思ってわざわざ本部まで来たのに。本部長様がいないだけじゃなく、モンスターの大群まで来てるなんて。ほんっと最悪」
そう言うと、女の子は懐から細い棒を取り出し、軽く一振りした。すると女の子の周囲にいくつもの魔法陣が浮かび上がり、光を放ち始める。
「……はあ。目が腐る景色ね。まあ、戦争の方がもっと嫌だけど」
ボソリと、近くにいた僕しか聞こえないくらいの声。呆れた口調で首を振る。また溜息をつくと、女の子は窓に足を掛けた。
まさか、飛び降りる気なのか! はっとして我に返った僕は、急いで窓際に駆け寄る。
「ちょ……!」
「予想通りだわ。ここからなら中央に突っ込めそうね」
手を伸ばしたが、遅かった。女の子は勢いよくジャンプし、窓の外へと飛び降りていく。サイドテールが風でぶわりと靡いていた。
「おいおい、何だアイツ!? モンスターのとこに突っ込むなんて、死ぬんじゃねぇか!? 大丈夫かよ!」
ビルスもやっと我に返ったようで、窓の方へと急いで飛んで来た。僕も続けて開いた窓から恐る恐る顔を出す。
目玉のついた蜘蛛の数は先ほどより減ってはいたが、それでも敷地のほとんどは未だ黒く染まっていた。魔法武器である大砲の轟音が鳴り響くたび辺りに爆風が舞い上がり、蜘蛛の肉片や内蔵らしきものが飛び散る。だが蜘蛛は逃げることも恐れることもなく、口から大量の糸を吐き出し次々と兵士たちに襲いかかっている。倒れた兵士が蜘蛛に踏みつけられているのが見えて、僕は反射的に目を閉じた。
無理だ、見ていられない。こんな状況であの女の子を探せるような余裕は、僕にはなかった。
(…………おーい! ビルス! 翼! 聞こえてる? どうしたの!? 転移魔法は!?)
風のテレビ電話がまた繋がり、クラウディアさんが焦り声で呼びかけてくる。
「わりぃクラウディア、転移魔法の起動に失敗した! 知らねぇ奴が部屋に入って来ちまって」
(はぁ!? 知らない人ぉ? 何それ、なんで!?)
「そ、それがわからなくて……! クラウディアさんはわかりますか? ピンクの髪で、勲章たくさん付けてる女の子なんですけど……」
(…………えっ!? それって……)
クラウディアさんの声が途切れた、その瞬間のことだった。
天に、一筋の光。
黄色の魔法陣から放たれたそれは間断なく空を、大気を、真二つに裂いていく。目が潰れるほどの光を湛えたそれは、瞬く間に蜘蛛たちの元へと堕ちていく。
刹那、爆音と爆風。大地の悲鳴のごときそれは、土埃どころか草木すらも巻き上げた。地は揺れ、窓は悲鳴を上げるかのごとく大きく震えていた。
一瞬の間を置いて、静寂が場を支配する。先刻が嘘のように喧騒は途絶えた。悲鳴も怒号も、斬撃音も銃声も、鐘の音さえも。時が止まったみたいに忽然と消えうせた。
——一体今、何が起きた?
僕より先に、ビルスが動いた。ふらふらと飛んで、窓の下を覗き込む。僕もそれについていった。
窓の外、守護兵団本部・裏門の敷地内は、無数の魔法陣で覆われていた。紫のそれらは十重二十重に辺りを取り囲み、淡く光を放ちながらその存在を主張している。
数え切れないほどの魔法陣を目に映して、思い出すのはビルスの台詞。この星条界では、魔法を使う時には魔法陣を描く。一つの魔法を使うにつき一つ出す。そういう話だった。
だったらあの魔法陣の量は、一体なんだ?
「なんだ、あの魔法陣の数……! あんなにたくさん魔法を同時起動させたのか!? 一体誰が!?」
そこまで言って、ハッとしたビルス。僕も同じことを考えていた。
——彼女だ。
目に映るのは、無数の魔法陣の中央、そこにいるピンク髪の女の子。細い棒、いやきっとあの形状は——杖だ。それを片手に構え、腰に手を当てて仁王立ちしている。
(そうだ! 前に村で、新聞で見たよ! ピンクの髪で、服に勲章いっぱい付けてる貴族の女の子! 大きい記事になってた!)
魔法陣がぽつぽつと消えて行く。剥き出しになった地面が放射状に焼け焦げているのを見て、あの光の正体が雷だと理解した。
鼻をつく異臭。地割れのような焼け跡の上には、どろりとした青い液体が撒き散らされていた。
初めてモンスターに会った時のことを思い出す。クラウディアさんに斬られ、モンスターの体からは青が流れ出ていた。きっとあれが血なのだろう。焦げた地面がやたらと黒いのは、目を凝らせばすぐにわかった。最早原型を留めていないほどに燃やされた、モンスターたちの死骸だ。
(……そうだよ、十三歳で人間の魔法使いの頂点、『黄金魔導師』になった娘!)
僕の視線は女の子へと吸い寄せられていた。未だ動くことのないその娘は、サイドテールをかきあげ、立ち続けている。その手に持つ杖の先端は、天地を裂いた燦然たる光と同じ輝きを放っていて。先ほどの雷を放ったのが彼女であると証明していた。
倒したのか、あの一撃で。地面を覆い尽くすあの蜘蛛たちを、断末魔すらあげさせずに。信じられない。たくさんの守護兵団の兵士たちがいても、魔法武器の大砲を使っても、あの蜘蛛が一瞬で全滅するなんてことはなかったのに。けれど雷光が、大量の魔法陣が、無数の死骸が、血煙が、全てを語っている。
強い魔法を使う時は杖が必要だと、ビルスが言っていたのを思い出す。全ての魔法使いの頂点、黄金魔導師。飛び降りてでも敵陣の中央に突っ込む度胸。威風堂々たるその出立ちと、戦慄するほどの強さ。離れたところから見ていただけなのに、背中がびりびりと痺れるのを感じた。
(その名は!)
「その名は?」
「……その名は?」
僕とビルスがほぼ同時に言う。
知りたかった。あの娘の名前は、一体なんだ?
(その名は……………………)
クラウディアさんのうわずった声がピタリと止まる。沈黙が一時、僕たちを支配した。
(………………………………忘れた)
物凄く小さい声で、ボソッと言った。僕とビルスはずっこける。
「おいクラウディア! なんで一番肝心なところ覚えてねぇんだよ! 新聞見てたんだろ!?」
(いや私、見出ししか見てないから! ちゃんと見てたのは隣に載ってた、貴族の間で新しいオヤツが流行ってるって記事の方で)
「オマエー! いい加減にしろー!」
(いいじゃん! たまにはお芋以外のオヤツ食べたかったんだもん!)
ぎゃんぎゃんと言い合うビルスとクラウディアさんの横で、僕は部屋の床に何かが落ちているのに気づいた。
勲章だ。確か、これはあの娘のケープについていた。裏を見れば、何か文字が刻まれている。もしかしてこれは、名前だろうか。
「…………リアンナ」
窓の外へと視線を戻せば、もうそこには誰もいなかった。地面の放射状の跡と、焼け焦げた匂いだけが残っている。
いつのまにか暗雲は晴れていて、青い空が顔を覗かせていた。少し高く登った太陽が見え、柔らかな風が肌を撫でる。
脳裏をよぎるのは鮮烈な記憶、圧倒的な力を持つ女の子の姿。
僕は勲章を握りしめたまま、しばらくの間誰もいない外を眺めていた。
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