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 高校二年生、夏休み真っ只中。僕こと八雲翼やくも つばさは、今日も自室のベッドに寝転びながらゲームをしていた。

 やっているのはレトロなRPG。選ばれし者にしか抜けない伝説の聖剣を引き抜き、勇者となった男の子が、魔王を倒して世界を救うというシンプルな内容だ。

 今は魔王を弱体化させられるという神話に伝わる秘宝を求め、とあるダンジョンを攻略していた。つい先ほど最奥へ到達して、ボスとの戦闘に入っている。カチカチと画面横のボタンを押し、パーティーの一人一人に指示を出していく。勇者と武闘家は攻撃、魔法使いはボスの弱点の炎魔法を。僧侶には全体回復魔法を唱えてもらう。安定の布陣で敵の攻撃を受け流しつつ、ダメージを与えていく。

 何度か同じルーティンを繰り返した後に、ついにボスが倒れた。決め手は勇者の会心の一撃だ。聞き慣れた勝利BGMが流れる。レベルアップもしたようだ。

 これで無事秘宝も手に入るだろう。僕はふうと息をついて、伸びをする。しばらくゲームに夢中だったからか、喉がカラカラになっている。水でも飲んで来よう。そう思って、勝利画面を映すゲーム機をベッドに置いて自室を出た。

 ふああと欠伸をしながら廊下を歩き、キッチンへ到着する。コップに汲んだ水道水を飲み、辺りを見渡す。

 今日も家にいるのは僕一人だ。父は仕事が忙しくて帰って来ないし、母は……多分、またどこかに一人で出かけたのだろう。いつ行ったのか、いつ帰ってくるのか。相変わらず僕に何か言うこともなく、書き置きの一つもない。

 無視されるのはもう慣れた。僕が高校受験に失敗したあの日から、母の中での僕の存在価値は無になったと言っても過言ではないのだ。

 ——あんたには失望した。あんたはもう『天才』なんかじゃない。そんなあんた、もう知らない!

 頭の中で響いた母の声。不合格が決まったその日、大声で言われたその言葉。僕の十五年を一瞬で否定したそれにコップを持つ手が震える。いけない、またあのことを思い出してしまった。せっかくの夏休み、ゲームも楽しんでいるというのに、嫌な記憶を思い出したくはない。リビングに向かい、気晴らしにとテレビを付けた。映ったのはクイズ番組の再放送で、小さな男の子がクイズに正解したらしく笑顔でガッツポーズしている。見たことのある顔だ。確か子役で、色んなドラマに出ている——『天才』子役と名高い、男の子。

「…………はぁ」

 また余計なことを思い出して、僕は溜息をつきながらテレビを消した。少し足音を大きめに立てながら自室に戻り、ベッドに寝転ぶ。視界の端に映るのは本棚で、端から端までノートが詰まっている。全部勉強で既に使い終わったもので、空白など一ページもない。僕が勉強ならば右に出る者のいない、『天才』だと呼ばれていた頃——小学校から中学三年生の終わりまでの産物だ。

 第一志望の高校に落ちて、自分から『天才』という称号が消えてから。母から必要とされなくなり、この家で僕の居場所が消えたから。もう二年が経った。

 ——今の僕は、一体何者なんだ? 僕の存在価値って何なんだ?

 時々、そんなことを思う。『天才』というアイデンティティを失った僕は、それから何の称号も得ていない。誰にも必要とされないまま、ずっと抜け殻のように日々を過ごしている。

 今や勉強する時間よりも、ゲームをしている時間の方が長いくらいだ。今やってるRPGだってもう二周目だ。机の上に置いたままのゲーム機に視線を移す。神話の秘宝を手に入れ、ストーリーも終盤に突入した。勇者パーティがラスボスの魔王と戦う日も近い。

 ごろりと寝返りを打って、目を閉じる。頭の中で踊るのは、『勇者』と『魔王』の二文字。あのRPGをやっていて毎日のように見るその称号に、いつしか僕は羨望の眼差しを向けていた。

 伝説の聖剣を抜いた選ばれし唯一の者であり、世界を救わんと動く勇者。

 全てのモンスターの上に君臨する絶対的強者であり、世界を我がものにしようと動く魔王。

 ——きっと彼らは、自分が何者かなんて考えたこともないんだろう。

 あのRPGでの『勇者』や『魔王』は、揺るぎのない称号だ。途中で消えることもなく、誰かに奪われることもない。片や人間に求められ、片やモンスターに求められる。アイデンティティや存在価値を失う苦しみとは無縁だろう。

「…………いいよなぁ。なってみたいな」

 ボソッと呟いて、寝返りを打とうとしたその時だった。

「……え?」

 硬い床の感覚に襲われ、思わず声が漏れた。間違いなくベッドの上に寝ているはずのに、何だこれは? ベッドから落ちた覚えはないし、そんなに大きく寝返りを打ったつもりもない。何事かと思った僕は目を開き、体を起こして周囲の状況を確認した。

 そうしたら——全てがなくなっていた。

 本棚も、クローゼットも、勉強机も、自分が寝ていたベッドさえも、何もかもが消えていた。明かりも付いておらず窓もないその場所では、昼だというのにやたら薄暗く、ごつごつとした周囲の壁がぼんやりと光っているだけだった。

 目の前の光景が信じられない。間違いなく自室のベッドで寝ていたはずなのに。夢でも見てるのかと思って自分の頬をつねってみるが、ヒリヒリとした痛みが残るだけだった。夢じゃない。なら幻覚だろうか? 暑さでついに頭がどうにかしてしまったのだろうか。とりあえず洗面所で顔でも洗ってくるかと立ち上がり、振り返った。

 しかしそこにあるはずのドアはなかった。代わりに見えたのは怪物だった。

 自分より数メートル離れた先に立つそれ。見た目は熊に似ており、全身が傷ついている。体をふらふらさせながら、口から涎を垂らしている。鋭い牙を見え隠れさせながら、血走った目がこちらを見据えていた。

 ひゅっと息を呑んで、目を見開く。全身の毛穴から汗が噴き出る。声が出ない。何も考えられない。ただ自分に死が迫っているのだけは、本能的に理解できた。

 怪物が雄叫びをあげてこちらへ向かってくる。振り上げた毛むくじゃらの手には、鋭い爪が光っていた。

 腰が抜けて、その場に勢いよく尻もちをついた。痛さは気にならなかった。ざらりとした床の感触。体を伝う汗は冷たかった。

 嘘だろ。なんで、どうして。そんな言葉ばかり頭をぐるぐるする。十七年間の思い出が、走馬灯となって駆け巡っていく。

 風を感じ、強い獣臭が鼻をついた。もう怪物は眼前まで迫っているようだ。全てを諦めた僕は目を閉じてその瞬間を待つ。

 ああ、僕は結局、何者にも————

「——危ない!」

 耳に飛び込んできた、凛とした声。それに被せるようにして怪物が一層大きく叫ぶ。ザシュ、と何かを切り裂く音がして、轟音が響いた。

 一瞬間を置いて、辺りは静寂に包まれる。風は止まり、獣の匂いが薄くなった。明らかに空気が変わったのを感じて、僕はおそるおそる目を開く。

 女の人だった。

 甲冑に身を包み、背中まで伸びた長い金髪をポニーテールにしている。片方の手に剣を、反対の手にはランタンを。美しいストレートの金髪は、薄暗い中でも淡く光っていた。細長い剣には血のような青い液体がべっとりとついている。その足元には先程僕を襲った怪物が倒れていた。

 女の人は肩で息をしており、剣を持つ手は小刻みに震えている。彼女の薄い呼吸音が、耳の奥で響いていた。

「…………あ、あの……だ、大丈夫ですか?」

 少し経って、声をかけられた。ランタンに照らされてぼんやりと彼女の姿が浮かび上がる。兜の隙間からエメラルドのような目をこちらへ向けていた。

 思ったことはたくさんある。一体誰なんだとか、助けてくれたのかとか。細身の女の人なのにあの怪物を倒すなんて、しかも剣で! と驚く気持ちもあった。だがその全ては、甲冑を外した彼女の顔を見た瞬間にどこかへ飛んで行ってしまった。

「……え、は、え…………」

 僕の目は限界まで見開かれ、口は半開きに。やっと絞り出した声はか細く、震えていた。それくらい信じられない光景だったのだ。

 彼女は、僕とそっくりの顔をしていた。

「えっ……え……!?」

 彼女もぎょっとした表情を浮かべ、目を瞬かせてその場に固まっている。しばらく無言で見つめ合う僕たち。先に動いたのは彼女の方だった。

「えっ、ちょっ……まさかアレが……!? ほんとに? 来てくれたの? えっ? えっ?」

 僕から目を逸らすと、頭を抱えて何かぶつぶつ言っている。一方僕の方は未だ動くことも声を出すこともできず、ただぼんやりと彼女を見つめることしかできなかった。

 髪色は違うし、目の色も違う。だけど顔の造形は本当によく似ていた。僕は昔から母親似だと言われていたし、どちらかといえば女っぽい顔をしているのは自覚している。それにしても、こうして自分とよく似た女の人と出会うとは思わなかった。

 一体この人は誰なんだ?

 一瞬親族を疑ったが、僕は一人っ子だし、親戚の集まりでも金髪に緑の目をした女の人は見たことがない。僕も親戚もみんな日本人だし、当然黒髪黒目だ。しかもこんな細い剣で怪物を倒せるくらい強い。こんな人いるわけがない!

「おーい! 凄い音が聞こえたぞ! 大丈夫か!」

 よく通るはつらつとした声と共に、地面を突き刺すようなヒール音が猛スピードでこちらに近づいてくる。

「何だ? どうした? 何か見つけたのか?」

 到着した声の主は未だ固まっている目の前の彼女の背中からひょっこりとこちらへ顔を出す。

 また女の人だ。

 鮮やかな真紅のショートヘア。レースのあしらわれた黒スーツ。長い黒マントが背中で小さく揺れていた。髪と同じ色の目が僕を捉えた瞬間、赤髪の女性はハッとして口に手を当てた。

「おお、これは……!」

 薄暗い中でもわかるくらい赤髪の女性の目が輝いた。顔は紅潮し、声にも興奮が滲み出ている。確かにこれはある種興奮してもおかしくはないかもしれない。けれど僕にはそんな余裕はなかった。

 ——赤髪の女性も、僕と同じ顔をしていた。

 同じ顔ではあるけれど、メイクが施されている分彼女の方が派手目ではある。何より違うのはそのおでこ。真ん中から一本の黒い角が真っ直ぐ生えている。

 自分とそっくりの女の人が一人出てきただけでもにわかには信じがたい状況なのに、更にもう一人やってきたのだ。しかもおでこに角がついている。もう何がなんだかわからない、状況が全く掴めない。ああもう、頭がくらくらしてきた。だれかこの状況を説明してくれ!

「おい! 何をボーっとしておる! 早く紹介せんか! 来たんだろう!?」

 赤髪の女性が、金髪の彼女の肩を掴んで揺り動かす。ずっと固まっていた彼女もそれでようやく気づいたのか、顔を上げて僕へ向き直った。

 自分とよく似た顔の女性が二人、並んで目の前に立っている。僕は床に座り込んだまま動けなかった。

 一体この二人は何なんだ。そもそも一体ここはどこなんだ。僕はただ、自分の部屋で寝転んでいただけなのに。声にならない疑問が頭を渦巻いている。

 少しの間を置いて、金髪の彼女が咳をしながら重々しく口を開いた。

「えー、あー、ごほんごほん……初めまして、私の名前はクラウディア、魔法で貴方をこの世界に召喚した者です」

「へっ? し、召喚!?」

 突然聞こえたファンタジックな単語に驚く。クラウディアと名乗った金髪の彼女はゆっくりと頷いた。

「この世界の名前は星条界アステラです。貴方のいた世界とはきっと違う場所……異世界、ということになりますね」

 星条界、聞き覚えのない単語だ。クラウディアさんの目はとても真剣で、嘘を言っているようには思えない。

「そんな……まさか……」

 異世界召喚というのは聞いたことがある。最近アニメや漫画で流行っているようだったし。だけどそれが現実に、しかも自分の身に起きたとは信じ難い。けれどもしそれが事実だとすれば、僕の部屋が突然知らない場所に変わったことも、彼女たちの日本人離れした出立ちにも説明がつく。ついてしまう。なぜかちゃんと言葉は通じてるけど。

「クラウディア、大事なことを言い忘れてるぞ。ほら、自分が何者なのかも言うがよい。大事だろう?」

 赤髪の女性はクラウディアさんの肩をポンと叩いて首を振る。そして僕と目が合うと、にこっと笑いながら、

「ああそうだ、自己紹介を忘れていたな。余の名はダリア・ヴァン・ローザリオン! 星条界の半分を統べる魔族の王、通称『魔王』である。気軽にダリアと呼ぶがよい。よろしくなっ!」

 一つウインクして、とんでもないセリフを言い放った。

「ま、魔王……!?」

 魔王ってまさか、あの魔王か!? いやモンスターじゃなくて魔族の王だから、今やってるRPGでの意味とはちょっと違うかもしれないけれど。けれどまさかそんな単語をこんな状況で聞くことになるなんて。想定外、いや想定できるわけがない!

 混乱して目を回す僕を見て、ダリアさんは、

「ふふふ。余の美しさに目が眩んだか、異世界からの協力者よ? 愛い奴め。太陽の輝きとは程遠いが、それでも意識した甲斐があるというもの」

 赤い髪をさらりと掻き上げ、満足げに鼻を膨らませる。

 いくら他人とはいえ、自分とそっくりな顔をした人のナルシスト発言を間近で聞くことになるとは。ちょっと、いやかなりむず痒い。クラウディアさんも思うところがあるのか、顔を赤く染めて微妙な顔をしていた。

「そしてこの娘の方だが……もがもが」

「ちょっと! いいから、わかったから! ちゃんと自分で言うから」

 クラウディアさんは焦ってダリアさんの口に手を当てると、僕に向き直りまたコホンと一つ咳をして、

「え、えっと……その、私は……こ、この星条界では『勇者』って言われることが多いです。よろしくね……い、いやよろしくお願いします」

 ぺこりとお辞儀する。かなり落ち着かない様子だ。

 僕は何も言えなかった。思考回路が停止している。自分がクラウディアさんによって異世界に召喚されたという事実すらまだ完全に飲み込めていないのに、間髪入れず二人が勇者と魔王でしたなんてトンデモ情報を突っ込まれてはもうお手上げだった。

「緊張しすぎだぞ、クラウディア。もっと肩の力を抜け」

「ちょっと、余計なこと言わないでよっ……! こういう場面では丁寧で落ち着いてる方が勇者っぽいでしょ」

「うーむ、そなたのそういう態度はどうもむず痒くてな……しかし喋らんな、異世界からの協力者よ。大丈夫か? 具合でも悪いのか?」

 ダリアさんがしゃがみ込み、僕の顔を覗き込む。髪から漂うふわりとした甘い香りが鼻腔をくすぐり、心臓が跳ねた。

 いくら僕と顔が似てても、やはり彼女たちは女性なのだ。昔から女性との関わりは少なかったので、こんな状況ではあるがちょっとドキドキしてしまう。

「しかし性別は違うようだが、顔は本当に余たちにそっくりだな。まあ、あの願いを受けてきたのだから当然かもしれぬが」

「私たちみたいな偶然は二度も起きないでしょ、今回はどっちかというと必然だよ」

「え?」

 勇者と魔王の顔が似てるのは偶然って、そんな偶然ありかよ! だとしたらとんでもない奇跡だなと思ったけれど、それよりも僕は必然ってどういうことだ? 僕と二人の顔がそっくりなことと、僕が異世界召喚されたことに何か関連があるのか? その疑問を察知したのか、クラウディアさんが口を開いた。

「その……私は、召喚魔法という特殊な魔法が使えるんですが。簡単に言うと、『自分の願いを叶えるために必要な存在を異世界から呼び出してくる』みたいな魔法なんです」

 召喚魔法ってそんなものなのか。ん? ということは僕が呼び出されたのはクラウディアさんの願いを叶えるためなのか?

「召喚魔法の説明より、何のために呼び出したのかを先に言った方が良いんじゃないか? 余ならそっちの方が気になるぞ」

 僕の疑問を先回りして、ダリアさんがクラウディアさんに問いかける。この魔王ことダリアさんは、結構ズバズバものをいうタイプらしい。実際僕としてもそっちの方が気になるので助かるのだけれど。

「…………はいはい、今説明しようと思ってたところですぅ~」

 クラウディアさんは一瞬口を尖らせかけたが、僕が見ているのに気づくとすぐに顔を元に戻して、また咳をした。あ、ダリアさん笑ってる。

「……ごほん。あー、えっと、その前に。まず貴方のお名前をお聞かせいただいてもよろしいですか?」

 そういえばまだ言っていなかったか。怒涛の情報量に押されて言う暇もなければ、ショックでほとんど喋っていなかったし。

「あ……は、はい。八雲翼、です」

「ヤクモ、ツバサ? どれが名前ですか?」

「翼の方です」

「わかりました。確認ですが、私と同じ人間で合ってますか? 血の色は赤ですか?」

「え? まあ……は、はい」

 何の確認なんだろう。よくわからないけれど、間違いなく人間ではあるし、血も赤いので頷きながら言う。ダリアさんが少しほっとしたように見えたのは気のせいだろうか。

「では翼さん、貴方にお願いです」

 クラウディアさんはそう言って、ダリアさんに目配せする。

「私クラウディアと、そこのダリア……両方の影武者に、交代でなっていただけませんか」

「はい?」

 思わず声が出た。今何て? 交代で、影武者?僕が、この二人の?

「…………あの」

「はい」

「それって、つまりその……僕にお二人の影武者として、勇者と魔王に交代交代でなってほしいってことで合ってますか? そのために顔が同じ僕を召喚した……?」

 恐る恐る聞いてみると、クラウディアさんとダリアさんは顔を見合わせ、僕に向き直り、

「はい、そうです」

「そういうことになるな。理解が早くて助かるぞ」

 同時に頷き、きっぱりと言った。

「無理です!!!!」

 反射的に言ってしまった。二人は目を丸くしている。思っていたよりも大きい声が出たので、自分でもびっくりした。

 いやでも、これはどう考えても無理だとしか言えない。右も左もわからない異世界に召喚されたというだけでもいっぱいいっぱいなのに、一人二役の影武者を頼まれて。おまけにその相手は勇者と魔王ときた。異世界召喚に憧れる人は数多くいれど、これですぐにオッケーできるような人はいるのだろうか? 少なくとも僕は絶対に無理だ。確かに僕は勇者と魔王の称号に憧れてはいる。けれど、影武者とはいえ実際にやるのとでは話が別だ!

「その、すみません。ご期待に添えなくて。でも無理なので、誰か別な方を召喚してください……」

 さっきとは打って変わって声が小さくなっていくのを自分でも感じる。二人の顔は見られなくて、下を向いていた。

「すみません、僕適当に帰るんで、はい」

 二人の視線を強く感じ、いたたまれなくて早口になった。背中の汗がじんわりと染み出していくのを感じる。

 しんと辺りが静まり返った。場の空気が重い。何か言おうとしたが、何を言えばいいのかわからなくて、溜まった唾液を飲み込むしかなかった。

 しばらくの沈黙の後に、話し出したのはクラウディアさんだ。

「…………ごめんなさい。今すぐには帰れないと思います」

「えっ! そ、そんな!」

 顔をバッと上げれば、沈痛な面持ちのクラウディアさんが見えた。ダリアさんは何か考え込んでいるようで、顎に手を当てている。

「その……召喚された者が元の世界に帰るには、魔法を使用した人間……つまり私の願いが叶えられてからじゃないと無理なんです」

 クラウディアさんの願いってことはさっき聞いた僕が召喚された理由と多分一緒だよな。え、じゃあつまり——

「……まさか、僕が影武者をやらないと……」

 そもそも帰ることすらできないのでは? もしかして、最初から僕に拒否権などないのでは? あまりの嫌な予感に顔をヒクつかせながらクラウディアさんを見れば、彼女は目を泳がせて言った。

「帰れないと思いますね……多分」

 予感的中、死刑宣告を受けた気分だった。自分の異世界生活が、しかも勇者と魔王なんて両極端な二人の影武者になることまで確定してしまったのだ。頭がくらくらするなんて通り越して、今すぐ倒れそうだった。誰か嘘だと、こんなの夢だと言ってほしい。夏休みの、うだるような暑さの中で見た夢だと思いたい。

 ああもう! 大体、いくら同じ顔だとはいえどうして一人で二人の影武者なんてやらなくちゃいけないんだ。しかも勇者と魔王役。どちらか一人でも身に余る大役なのに、その両方なんて! 確かになってみたいと、そうは言ったけども! 

 いやそもそも根本的に、何で勇者と魔王が一緒にいるんだ。その二人って普通敵対してるんじゃないのか? この世界では違うんだろうか。

「————ごめんなさい」

 僕の思考は、謝罪の言葉に遮られた。クラウディアさんが僕に向けて頭を下げている。見ればなんと、隣のダリアさんもだった。

「勝手に呼んじゃってごめんなさい。勝手に必要として、勝手に巻き込んでごめんなさい」

「余からも謝らせてくれ。とはいっても、もう遅いが」

 え、ちょっと、嘘だろ? 勇者と魔王、その二人が並んで僕に謝っている。そんな今の状況が信じられなくて、目を白黒させた。

「え、いや……その……」

 僕が異世界に召喚された段階で、影武者をやらない限り元の世界に帰れないのは今までの話から確定しているのだ。だから今更謝られても、という感情は正直ある。

 けれど、それ以上になぜという感情が強かった。勇者だってもちろんだが、よりにもよって『魔王』が直に謝るなんて。魔王に対するあらゆるイメージからかけ離れた言動と行動に僕は目を瞬かせる。そこまでするくらい僕の、影武者の存在が重要だというのか。

 そして何よりクラウディアさんの台詞。出てきた『必要』という単語に、心臓が高鳴るのを感じた。

 ——僕が必要だなんて。そんな言葉を貰ったのは、一体いつぶりだろうか。

「………………あの、すみません。二つ聞きたいことがあるんですが」

 静寂を破り僕が質問すれば、二人はゆっくりと頭を上げて僕の目を真っ直ぐに見つめる。

「はい、何でしょうか」

「まず一つ。どうやって一人で二人の影武者をするんですか? 一日ごとに交代するみたいな感じなんですか?」

「……いえ、違います。私はまだしも、ダリアは王としての仕事があるので……」

「そうだな。余の……魔王としての仕事がある間は翼には頼めぬ。頼むとしたら夜だけだな」

「私の方はその逆、朝から夕方までをお願いしたいです」

「えっと、つまり……一日のうち、朝から夕方までは勇者の影武者として、夜は魔王の影武者として過ごすって認識で合ってますか?」

 僕の発言に二人が頷く。思っているよりもずっと忙しくて驚いた。こんなこと、本当に可能なのか?

「私の暮らしてるところとダリアのいる宮殿は距離があるので、交代する時は転移魔法を使って移動する形になります。それならすぐに着くので」

 なるほど、転移魔法か。そういうものがあるなら、この詰まったスケジュールもなんとか強行できるのか。いやでも、それにしてもめちゃくちゃだとは思うけど。

「……あの、私は最近勇者として、大きい仕事を終わらせてまして、今はちょうど休暇中なんです」

「え? そうなんですか?」

「はい。だから私の影武者といってもこれといってやることはなくて、部屋でゆっくりしててもらうとか……そんな感じになると思います」

「余もそうだぞ。夜することなんて夕食と、寝ることくらいしかないしな」

「夕ご飯と、寝ることですか。それだけでいいんですか?」

「そうだ。安心せよ、何か特別しなきゃいけないことがあるとか、そういうわけではない。服や髪色、瞳の色だけ合わせて、ただその場に『いてくれる』だけで良いのだ。それに余の方には頼れる侍女がいる。身の回りの世話も、ボディーガードだってお任せあれだぞ」

 少し変装して、部屋にいる。あとはご飯食べたり寝たりするだけ。確かにそれなら、僕でもできるかもしれない。しかも魔王側には侍女さんもいてくれるようだし、一人じゃない。

 少し心が揺れたが、堪えた。だってまだ重要なことを聞けていない。

「……ではもう一つ、影武者が必要な理由はなんですか?」

 切羽詰まっている、とさっきクラウディアさんは言っていた。一体何がこの二人を、勇者と魔王を突き動かしているのか、それが知りたかった。

「それは…………」

 言葉に詰まった様子のクラウディアさん。何か言いにくい事情でもあるのだろうか。

「この世界を救うためだ」

 僕と彼女の間に割り込むようにして、ダリアさんが言った。

 えっ、世界を救うため!? とても『魔王』の名を冠する人から出てくるセリフとは思えず、僕はぽかんと口を開けるばかりだった。

「翼、余が魔族で、クラウディアが人間って話は覚えているか?」

「あ、はい。さっき、自己紹介の時に言ってらした……」

「そうだ。その話の続きだが……星条界には非常に大きな大陸があり、そこの上半分には人間が、下半分には魔族が主に住んでいる。そして現在、人間と魔族は敵対関係にあるのだ」

 やっぱりそうだったのか! 勇者と魔王が敵対関係にある、RPGのお約束はここでも有効のようだ。だけどじゃあ何で一緒にいるんだ? バレたらまずくないか?

「人間と魔族の関係は悪くなる一方だ。どちらからも戦争を起こせとの声が噴出している。だが、余とクラウディアはそれを望んでいない。誰彼構わず襲うモンスターも闊歩するこの星条界で、人間と魔族で戦争なぞ起こせば、どれほどの犠牲者が出るか。それだけは避けなくてはならん」

 この世界にはモンスターもいるのか。いや、多分一回会ったな。召喚直後に僕を襲ってきた、あの熊に似た怪物。あれがきっとモンスターなんだろう。RPGでもあんなモンスターとよく戦っていた覚えがある。

 けれどダリアさんの口ぶりから見るに、RPGと違って魔王がモンスターを支配しているわけではないらしい。人間、魔族、モンスターでちゃんと独立しているようだし、モンスターは人間も魔族も構わず襲う、と。治安の悪さはゲームとそう変わらないな。

「……つまり、お互い戦争を起こさないようにするために、こっそり裏で手を組んでるみたいな感じなんですか?」

「そういうことだ。隙を見ては連絡を取り合い、協力していた」

 ダリアさんが大きく頷く。なるほど、そんな状況だったのか。

「どうやって戦争を防ぐか。その方法は決まっているし、そのために動いてもいる。だがそろそろまとまった時間が欲しくてな。立場上仕方ないのだが、お互い見張りが多くて堪らんのだ」

「それで影武者が必要ってことですか」

「そうだ。だがこんなこと、外部に知られるわけにはいかない。誰かに頼むのはまず無理でな」

「だから私が召喚魔法を使いまして……」

 それで僕が呼ばれたってわけか。合点がいった。

「……事態は刻一刻と悪い方へ向かってる。早く何とかしないと、戦争が始まっちゃう。それだけは絶対に嫌だし、止めなくちゃ」

 クラウディアさんの固く握られた拳が小刻みに震えている。思い詰めた表情といい、口調といい、その様からは本気で戦争を防ぐという気持ちを強く感じ取れた。ダリアさんもそんなクラウディアさんの様子を見て、口を真一文字にして頷いている。

「……もう一ついいですか、すみません。その時間っていうのは、どれくらい必要なんでしょう。僕はいつまで影武者をしていればいいんですか?」

「ううむ、明言はできんが……上手くいけば二日三日で終わるかもしれんぞ」

「えっ!」

 意外な発言に目を丸くする。まさかそんなに早いとは思わなかった。

「今、余たちは神話に伝わる秘宝を探し求めている。長らく探索を続けていたのだが、つい最近になってやっとその尻尾が掴めたのだ」

「し、神話に伝わる秘宝を……」

 さっきやっていたRPGと同じ状況じゃないか。僕はゴクリと唾を飲み込む。

「その秘宝が手に入れば、戦争を防げるんですか?」

 僕が聞けば、二人は顔を見合わせ、少しの間を置いて頷いた。

 RPGではラスボスの魔王を弱体化させられたけど、こっちでは戦争を防げるのか。神話の秘宝ってどこの世界でも凄いんだな。

「いよいよ私たちの探索も大詰めと言ったところでして。影武者をしてもらって時間が取れるなら、きっと長くはかからないと思います。万が一ということがあるので断言はできませんが、それでもなるべく翼さんが早く元の世界に戻れるよう努力します」

 約束します、とクラウディアさんは続けた。

 正直言って、怖い。いくら短い期間とはいえ、ゲーム上ではなく現実にモンスターが存在する世界にいるというのは恐ろしいし、召喚直後に襲われかけたことを思い出すと今でも体が震えてしまう。

 けれどそんな僕を、クラウディアさんは助けてくれた。そもそも僕を召喚したのは彼女ではあるけれど、それでも恩義は感じている。剣を振るいモンスターを沈めた姿、仄かな闇の中に浮かび上がる銀の背中、その輝きは今も目に焼き付いていた。

 何より、この二人は僕のことを必要としてくれている。久しぶりに聞いた、もう言われることがないとすら思っていたその言葉が嬉しくて、ずっと頭の奥で反芻していた。

 ——ごく短い間、特別なことはせず、ただその場に『いる』だけ。それでいいのなら。

 一つ息を吐いて、顔を上げた。クラウディアさん、ダリアさんの目がよく見える。静かに、それでいて強い光を宿していた。

「…………わかりました、やります」

 二人を真っ直ぐに見て、言う。ちょっと声は震えていた。

 戦争のことは歴史で習ったくらいでよく知らないけれど、それでもとても酷いものだったというのはわかるし、そんなことになるのを止めたいという気持ちは理解できる。もちろんやらなければ帰れないというのもあるが、初対面で、しかも『勇者』と『魔王』なんて立場にいながら、こんな僕に頭を下げてまで頼み込む二人を見て、これ以上嫌がることなどできなかった。

 腹を括ろう——そんな気持ちだった。

「ほんとにっ!? ありがとう! すっごく嬉しい!」

 クラウディアさんの大きな声に驚く。その目はキラキラと輝いていて、笑顔が溢れていた。急なテンションの上がりようにびっくりしていると、クラウディアさんも気づいたのかすぐに真顔に戻った。そしてかなり大きな咳をして、

「うぉっほん、ごっほん! えー…………あ、ありがとうございます。嬉しいです。改めて、どうぞこれからよろしくお願いします」

「無理するな、クラウディア。そんな落ち着いてる性格じゃないだろ? 翼にだってもうバレてるぞ」

「~~~~~~っ! ダリアってば……!」

 顔を赤くし、ダリアさんに詰め寄るクラウディアさん。一方ダリアさんは全く気にしていない様子でからからと笑っている。開いた口から尖った八重歯がちらりと見えた。

「……あ、あのー、大丈夫ですよ、無理しなくて。言葉遣いとか気にしませんし、名前も呼び捨てで構わないので」

 こちらこそよろしくお願いします、と続ければ、クラウディアさんがさっきより顔を赤くしてぷるぷる震え始めた。

「……え、あっ……あー、う、うん! よ、よろしきゅね、翼!」

 泳ぎまくりの目で言うクラウディアさん。しかも肝心なところで噛んだのに気づいて、更に顔が赤くなる。もう茹で蛸のようだ。

「はははははっ! 良いぞ良いぞ! お転婆でおっちょこちょい、それでこそクラウディアだ!」

「うっさい! だまってろダリアぁ!」

 手を叩いて笑っているダリアさんに掴みかかるクラウディアさん。おそらくこっちが素なんだろう。こうして見ると勇者と魔王の関係にはとても思えない、微笑ましい光景だった。

「まあまあ落ち着け……そして翼、余からも改めて、これからよろしくな」

「よろしくお願いします」

「うむ」

 ダリアさんは満足げに頷き、暴れるクラウディアさんを片手で防ぎながら辺りを見回す。

「さて、そろそろビルスを呼んだ方が良いんじゃないか? どうせ今の話もずっと聞いていたのだろう?」

 ビルス? この場にまだ誰かいるのか? 僕も同じように周囲を見てみるが、それらしき姿は見当たらない。

「あー、もう! 今呼ぼうと思ってたの! ちょっとビルスー! 来て!」

 その瞬間、僕の耳の横を何かが高速で横切った。あまりの速さ、首元の皮膚がびりびりと痺れてしまうほどだ。思わず手で首を覆い、目を白黒させる。今一体、何が通ったんだ?

「いつ呼ばれるかとずっと待ってたぜ~! おっ、コイツが召喚されて来た奴か? ならオイラの後輩だな!」

 小さい男の子を思わせる、ちょっと高めの声。見れば声の主はクラウディアさんの頭上を飛んでいた。

 透き通るような水色の体に翼が生えており、臀部には長い尻尾が見える。首は少し長めで、手足には鋭い爪が生えていた。くりくりとした大きな目はクラウディアと同じ鮮やかな緑で、その瞳孔は縦に細長い。

「オイラの名前はビルス。同じくクラウディアに召喚された、風を司るドラゴンだ! よろしくなっ、ツバサ!」

 先輩って呼べよ? と胸を張るドラゴンことビルスは、確かに外見こそゲームでよく見るドラゴンだった。今やってるRPGにも似たようなのが出てくる。

 けれど、小さいのだ。びっくりするくらい小さい。ペットの犬や猫よりも小さい。ハムスターよりはひと回り大きいくらい、といったところだ。こんなミニサイズのドラゴンなんているのかと驚く僕に気づいたのか、

「あー! 今オマエ、オイラのこと本当にドラゴンか? って思っただろ! 今は小さくなってるけど、ほんとはもっとカッケェ姿なんだぞ!」

 ビルスは頬を膨らませ、抗議するかのように手足をバタつかせる。クラウディアさんが手を伸ばしてビルスの頭を撫でた。

「星条界の奴らが使えねぇ転移魔法だって、透明化の魔法だってオイラは使えるんだ! 小さくてもスゲェんだぞ!」

「そうだね、ビルス。今は目立つから小さくなってもらってるだけだもんね」

「なに、気にすることはないぞ。見た目がどうあろうが、ビルスが凄いことに変わりはない。翼だってそのうち気づくさ」

 今転移魔法って言ったか? しかも星条界の人たちは使えないって、そんな貴重な魔法だったのか。それは確かに凄い。ということはつまり、このドラゴンことビルスの魔法で勇者と魔王間を行き来することになるのか。

「翼、影武者生活の間はビルスと一緒にいて。何か困ったことやわからないことがあったらビルスに聞けばわかるから。もちろん私やダリアもこまめに連絡するし」

「何でも答えてやるぞ! 先輩だからな! 初めての後輩だし、特別にタメ口でも許してやるぞ?」

 キリッとした表情で胸を張るビルス。ドラゴンにせよ何にせよ、誰かが一緒にいてくれるのはありがたい。影武者未経験で一人でいるのは流石にキツいし、まだ色々と聞きたい話もあった。

「さて、まだ色々と話したいことはあるが……そろそろ夜が明ける。急がなければな」

「あっ! もうそんな時間か!」

 今は夜だったのか。それもそうか、みんなが寝た後じゃないとこっそり活動するなんてできないだろうし。

「翼、今日はまず夕方まで私の代わりをしてくれる? ちゃんとビルスも一緒だから」

「はい、わかりました」

「んじゃ、転移魔法起動するぜー! まずはダリアからな!」

「うむ、頼むぞ」

 ビルスが手から光の球を出し、宙へ浮かべた。何だあれと目を瞬かせていると、ダリアさんは迷いなくそれに近づいていく。

「翼、また後でな! 夜になったら余のところに来るがよい!」

 笑顔で僕に手を振った瞬間、強い光がダリアさんの全身を覆った。眩しくて目を細める。少し間を置いて光が晴れると、ダリアさんの姿はもう消えていた。

「き、消えた……」

「王宮に戻ったんだよ。転移魔法は連続して使えないから、翼はちょっと待ってて」

 王宮って、そうか魔王だからか。しかし本当にこんなのでワープできてるのか? 光の球が浮いていた場所を眺めながら、僕は首を傾げる。

「もうちょっとしたらさっきみたいに、ビルスに転移魔法で私の暮らしてる部屋まで移動してもらうから、服とかは適当に置いてあるものに着替えて。身長は同じくらいだし、入ると思う。あとはビルス、できる?」

「おう! やるぜ~!」

 何をする気なんだ、と思って瞬間、ビルスの手から光が迸った。ビームのようなそれは一直線に僕へ向かい、直撃する。

「ひえっ!?」

 思わず目を瞑ったが、痛くも痒くもなかった。恐る恐る目を開けば、クラウディアさんが手を合わせてごめんのポーズをしていた。

「ごめんね! 驚かせちゃった。一声かけるべきだったね。今のはビルスの魔法で、目の色と髪型を変えるやつなの。効果が出るのにちょっと時間がかかるけど、待っててね」

「な、なるほど……わかりました」

 そうか、影武者やるならそこも合わせなきゃな。しかしこんな魔法で変わるなんて、便利だなぁほんと。

 やがて瞳の色と髪型が変わり、クラウディアさんがこれなら大丈夫と言ってくれた。ビルスはスゲェだろ? と得意げだ。

 頭はずいぶん重くなったし、歩くたびにポニーテールが揺れるのを感じる。初めての感覚だ。瞳の方はそんなに綺麗に変わってるんだろうか。見てみたいけれど、鏡がないのでわからない。クラウディアさんの部屋に行ったらあるかな。

 ともあれ、服装や髪型、瞳の問題もこれで解決した。いよいよだ。緊張のせいか脈が速くなっていくのを感じ、落ち着かせようと胸を撫でた。

「よーし! 次の転移魔法の準備できたぞ! いつでもいけるぜ!」

 ビルスが先程同様手から光の球を出し、宙へ浮かべる。眩い光を放つそれは、辺りが薄暗いのも相まってまるで太陽のようだった。

「あの光の球に近づいて! そうしたら私の部屋までワープできるから!」

「は、はい!」

 クラウディアさんに見送られ、僕は光へと歩を進める。近づくと目の前が白く染まり、温かなものに体が包まれていくのを感じた。手を振り続けるクラウディアさんが見えなくなっていく。何か言っているようだったが、よくは聞こえなかった。その声も少しずつ遠くなっていき、やがて完全に聞こえなくなった。

 この星条界がどんなところなのか。一体これからどんなことが起こるのか。

 心臓の音は大きく、緊張はまるで薄れる様子がない。胸の奥では怖さとワクワクが同じくらいの比率で混ざり合っていた。

 影武者とはいえど、今、僕は。長らく何者でもなかった僕は。あの称号を手に入れた。『天才』とはまるで違う、途中で消えてしまうこともなく、誰かに奪われることもない、多くの者に求められる特別な称号。

 ——『勇者』であり、『魔王』になったんだ。

 やがて僕の意識も薄れていく。手も足も、全ての感覚がなくなって、意識すらも途切れて光の底へと沈んでいく。

 ここからが僕の、影武者生活の始まりだ。

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