第八節 罪悪感(ティウィ視点)

 オレはティグリニャの屋敷で、『悪性魔法による環境汚染が200年後の農業を破綻させる』ってニュースを載せた新聞を見た時、「じゃあ生活の中で使う魔法を選んだ方がいいのか?」って思って、でも結局、何も変えなかった。

 オレは何も変わらなかった。


 今までの生活が便利で、今までの生活で満ち足りていて、今までの生活に不満が無くて、何よりオレが変わらなくても何も問題が無かった。

 誰も変わらないオレを責めなかった。

 じゃあ、そのままでいいやと思った。


 オレはずっとそういう人間だった。


 父の真似をする。

 当たり前を守る。

 これまで通りを続ける。

 それがオレの人生の全てで、それでいいと思っていた。


「我々貴族が変わる必要などない。これまでずっとそうして来たのだ。そうだろう、ティウィ」


「はい、父上」


「平民なぞ、貴族のような幼少期からの教育を受けていない、考える力の無い豚よ」


「はい、父上」


 父は、昔ながらの貴族の姿を残す男だった。

 だからこそ苦しんでいた。

 年々平民が国に及ぼす影響力は高まっていく。

 国を回す要職に平民が増えていく。

 昔のように、貴族と平民が違う生き物である考え方をする人間は、どんどん減っていた。


 父は祖父の真似をして生きてきた。

 それが父にとっての当たり前だった。

 その当たり前が当たり前で無くなっていくことに、父は摩耗していった。


「我々はこれまで通りの生活を続けようとしているだけだ! 何も欲張ってなどいない! 今ある日々が続いてほしいと願うことの何が罪なのだ!? 何の罪も無い我々が、欲深い平民どものせいで脅かされるなどというあってはならない理不尽、神は決しては許しはしないぞ……!」


 その年の冬は領民が46人死んだ。

 歴史的な大寒波があった冬だった。

 父は当たり前の対応をした。

 だから人が死んだ。


 父が普段から仲悪くしていた南の肥沃な大地を持つフリウリ家にプライドを捨てて頭を下げに行っていれば、もしかしたら領民は誰も死ななかったかもしれない。

 けれど、父は下げなかった。

 ずっとそうしてきたからだ。


 父が死なせた領民の中には、オレがうんと幼い頃に、オレにパンをくれた農民の一家が居た。

 暖かくて美味しい、忘れられないパンだった。

 優しい施しだった。

 たぶん、もう食べられない。


 父は生き方を変えられないみじめな貴族だ。

 オレもそうだ。

 オレもそんなみじな貴族の1人だった。

 それ以外の生き方なんて知らなかった。

 同じ状況になれば、オレはきっと、父と同じ選択をして領民を死なせるはずだ。


 それ以外の生き方ができるとは思ってない。

 だけど、この生き方が正しいとも思ってない。

 なのに、それを間違いだと思いたくない。

 自分がずっと間違いながら生きてるだなんて事実に、オレは絶対に向き合えない。


 オレは正しい。

 オレは間違ってない。

 貴族が上だ。

 平民が下だ。

 貴族の命は重い。

 平民の命は軽い。

 そう思わなければ、父が死なせた領民46人の命なんて、どうやったら背負える?


 『オレがあの時に父を全力で諌めていたら誰も死ななかったかもしれない』だなんて思ってしまえば、オレはもう、罪悪感で何もできない。


 ダメだ。

 余計なことを考えるとダメだ。

 立っていられない。

 してはならないのに、貴族なのに、事あるごとに平民に額を地につけて謝りたくなってしまう。


 つくづく思う。


 オレは貴族には向いてない。






 ディプル学園初日。

 やることは決めていた。

 父のように、適当な平民を捕まえて痛めつけて、貴族と平民の立場の違いを思い知らせる。

 そして存在感を示すのだ。


 罪悪感は無い。

 無いはずだ。

 オレがそんなものを感じるはずがない。

 絶対にないはずだ。

 平民がどんなに苦しもうが、死のうが、オレが罪悪感など感じるわけがない。


 だが、平民を捕まえようとしたオレの手を掴み、ねじり上げる男が居た。


「その辺にしておいたらどうだ。我の視界の中で目障りなことを繰り返すな。夏の夜の害虫のように叩き潰したくなるだろう?」


 知らない男だった。

 制服に家紋を付けていない。

 つまりは平民だ。

 瞬時に、侮りの感情が奔った。


 何故かは分からない。

 だが、その男の言葉は、よく響いた。

 指摘は耳に痛く、語る言葉には誇りが宿っており、威風堂々とした声には圧力がある。

 周りで見ている人間が、オレが発言し、その男が返答する度に、その男の言葉に徐々に惹かれていく空気が肌で感じられた。


 そう、そうだ。

 平民を庇い、暴虐の輩に立ち向かい、媚びも見せず弱さも見せず、威風堂々と自分の信念を貫き、自ら前に出る姿。

 これだ。

 姿───オレは今、何を考えた?


 だけど、なら。

 その『暴虐の輩』は、オレなのか……?


「思考を止めて父の真似をする愚かな操り人形よ。生き方が分からず父の猿真似に走る人生は楽しいか? 貴様、実際は対して平民を見下す性格でも無かろう。だが父の真似をする以外の生き方を知らないからそうしている。貴様の傲慢と侮蔑には中身が無い。空っぽだ」


「───」


 『違う』と思いたかった。

 反射的にそう思うオレで居たかった。

 なのに『何故わかる』と思ってしまった。

 思ってしまったらもう終わりだ。

 オレはオレから逃げられない。


 オレがオレから逃げ続けた先に待つ断崖絶壁であるかのように、その男は現れた。

 まるで、逃げ続けたオレへの裁きであるかのようだった。


「不安なのだろう、ティウィ・ティグリニャ。我には貴様の心根が手に取るように分かる。入学を果たし、自分で選択しなければならなくなり、自分でどう生きるかを決めることが、たまらなく怖いのだろう? それを見抜けぬ我ではないぞ」


「───死にたいのか、平民」


 認められなかった。

 認めるわけにはいかなかった。

 その言葉を受け入れた瞬間、オレの今の人生が終わる……そんな、確信があった。


「貴様に我は殺せんよ。奴隷に倒せる我ではない。家畜を辞められない貴様では無理だ」


 何の信念もなく、父の真似をしてるだけの自分を煽られたこともなく、ただ無為に『当たり前のこれまで』を続けるだけだったオレに強い理性などなく、煽られればすぐカッとなる。


 そのくせ、カッとなって今すぐ殺してやろうとする自分を必死に抑え、冷静さを保ち、「決闘が始まるまで待て」と己に言い聞かせて踏み止まった。

 それもオレの弱さだった。

 傲慢に振る舞っていても、それはただの真似。

 空っぽの傲慢。

 空っぽの侮蔑。

 平民を見下す言葉すら中身が無い。


 空っぽなオレはいつだって、物真似だけの自分を冷めた目で見ていて、『皆がそうしてるからそうする』だけのオレに、空虚を感じている。


 言葉を重ねる度に気付かされる。オレは、アルダ・ヴォラピュクのようになりたかったのだと。


 こんな偽りだらけの自分になりたくなかった。

 父の真似をするだけの自分は嫌だった。

 敵意と悪意を模倣する度にみじめだった。

 そんな自分に気付かないように逃げ続けた。

 本当は。


 本当は、アルダ・ヴォラピュクのように、自分の信念に殉じて生きる、何一つ嘘偽りのない人間のように生きて、人を守ってみたかった。


 そして、至極妥当に負けた。


 戦うことすらできなかった。


 月を思わせる偉大な光。

 一日の半分、夜の支配者の証。

 天地創造を成したという力の断片。

 月天の初代聖王そのものの力。

 何より、光の合間から見えた、自分の勝利を揺るぎなく信じるアルダ・ヴォラピュクの緑の瞳。


 オレの弱い心は、圧倒的な力を目の前にして千々に砕け、一瞬で負けを認めていた。


「敗北を認めるかね、ティウィ・ティグリニャ」


「……は、はい……」


 真理を見抜き、真理に生きる、虚偽の一粒も混じらない生き方を貫いた男にのみ許された聖なる光───それが、オレの心に巣食っていた仄暗い闇の全てを、打ち払ってくれた。


 そんな、気がした。






 決闘が終わって知り合いに聞いたところによると、オレ以外の貴族の多くは、あの男……アルダ・ヴォラピュクを知っていたようだった。


 腐った父親の模倣に執心し、流行りの話題にも興味を持たず、アルダ・ヴォラピュクの髪を見ても初代聖王を連想できず、身の程知らずに喧嘩を売って返り討ちにあった愚かな貴族。

 それが今のオレだ。

 笑えてくるじゃあないか。


 心の中はぐちゃぐちゃで、数え切れないほどの気持ちが渦巻いていて、だけど何故か、混沌としているのに、前より心が軽かった。

 オレは自然と、あの男を探していた。


「何か用か、ティウィ・ティグリニャ」


 噴水の横で、あの男を見つけた。

 男は夕日を背にしていた。

 まるで、国宝の宗教画のようだった。

 美しかった。

 綺麗だった。

 力強かった。

 月天を髪に宿し夕日を背にしたアルダ・ヴォラピュクは、まるで空そのものに愛されているようで、オレはただ、飲み込まれるような気持ちだった。


 傍らには、話に聞いたアルダ・ヴォラピュクの妹の姿。赤と橙の髪……『夕焼』、か。

 王族の『晴天』に並ぶ格を持つ、夕の空と夜の空に選ばれて生まれた兄妹。

 はっ。……オレと違って……本当に特別な奴らって感じだ。

 見てるだけで、眩しく思える。


「用など……あるものかよ」


「いや、あるはずだ」


「は? 何言って……」


「あるはずだ、ティウィ・ティグリニャ。用が無いと思っているのは貴様だけだ。貴様は今、我に用がある。そのために此処に来た」


 『何言ってんだ』と言おうとした。

 なのに、オレの心は『そうだ』と叫んだ。

 そもそもオレがアルダ・ヴォラピュクを探し回ってたのはなんでだ?

 オレは何故ここに来た?

 オレは。

 オレは?


「初代聖王の仲間の1人は罪人だったそうだ。かつての自分を悔い、これからを生きる人々の未来のため、贖罪のため、新たな自分へと変わるため、聖王に同行し、魔皇を討つ刃として貢献を果たした」


「魔皇……」


 もしも本当に、こいつが初代聖王の再来なら。世界の危機に応じて抜ける聖剣が抜けたっていうのなら。こいつがしようとしてることは……?


「次の伝説が始まる。初代聖王の子孫が魔皇を討ち倒し、魔獣の類が全て消え果て、世界に平穏が戻る、世界で最も新しい伝説がな」


 この男が。


 敗者であるオレに求めるものは?


「貴様に世界を救わせてやる。その代わり、メンツを捨てろ。今日貴様が絡んだ平民の女に謝罪をすることを皮切りとし、これまでの貴様を全て捨て去れ。言いたいことは分かるな?」


「───」


「貴様が変わりたいと願うなら。重荷に感じる『今』を捨てたいと願うなら。我に膝を屈する理由を探してみろ。我がそれを気に入れば、貴様を連れて行ってやる。貴様の苦悩が無い場所までな」


 水底から泡が浮かぶように、心の奥から、自然と言葉が浮かび上がった。


 この男と、世界を救う伝説を歩んでみたいと。


 心が全力で叫んでいた。


「貴方の光を見た時、オレは……恐ろしいと思って……こんなものに勝てるわけがないと思って……思い上がっていた自分がなんと愚かしかったのか自覚して……でも……それ以上に……心の底から、魅入られていたオレが居ました」


 もしかしたら、この人こそが、オレにとっての月天だったのかもしれない。


 夜の闇に迷い、今自分がどこに居るかも分からなくなって、自分がどんな風になっているのかさえ見えなくなっても、見上げればいつだってそこに在ってくれる、オレを導いてくれる光。


「強い。ただ強い。何よりも強い。そして、その強さに美しさが伴っていた。『王道』を感じました。オレは負けて、観戦席を見て、そこに貴方が庇った平民の女が大喜びしているのが見えて……『ああ、これほどに強い力を守るためだけに使っているのだな』と思ったら……貴族の威厳なんてもののために平民虐めなんてしてる自分が、ひどくみじめな生き物に感じて……」


 オレは、この光を、王にする。


 この光に灼かれたから、もう間違えない。


「オレに、道を示して下さい。もう二度と間違いたくないんです。どうか、光差す道を、オレの前に示して下さい」


「ああ、我について来い。死ぬほど働かせた後に、伝説に残してやろう。そしてそれでもなお貴様が間違った道を選んだ時は……殺してやろう」


「ありがたき幸せです」


 もう二度と、自分に嘘をつかない。

 絶対に自分を偽らない。

 この人のように生きるんだ。


 嘘偽りの無い、光り輝く王道を。











 一日経った。

 腹は括った。

 プライドは置いてきた。

 16年積み重ねてきた無駄な自尊心。

 こいつを捨てられるかどうかで全てが決まる。


「あ、アルダさぁーん! 聞いた!? 今日クラス分けのテストがあるそうなんよ! 全然自信無いんよー! ほらこれこれ、美少女の懐で温めた上靴! うちのおなかで温めといたんよ! アルダさんの足も温めてくれるんよ! へ、へへ……これが手土産ってわけじゃないんだけどもアルダさん頭良さそうだしテスト中にうちにだけ分かるように答え教えてくれたらいいなってイヤイヤこれはカンニングとかそういうのではなく」


「諦めろ」


「そんなぁー!」


 食堂から声が聞こえる。

 深呼吸。

 深呼吸。

 オレは今日、ここから変わるんだ。

 変わらなきゃならない。

 変われ。


 オレは、今まで通りじゃない明日が欲しい。


「アイカナ様、ほっぺたにご飯粒が付いてますわ。ボクが取って差し上げますわね」


「ありがとー」


 勇気をもって、踏み出した。


 あの女……オレが絡んだ女……ピピル・ピアポコの前に跪き、両手をついて、全力で額を食堂の床に叩きつけた。


「すまなかった」


 生まれて初めて、平民に土下座した。

 『なんでオレが』とは思わなかった。

 『するべきことだ』とは思った。

 彼の言う通りに謝罪した瞬間、反意ではなく、納得だけが胸を満たしていた。


「あ……アルダさぁーん! 昨日の貴族野郎がいきなり土下座してきたんよ!? なにこれ!?」


「半分はピピルに無礼を働いた謝罪。半分は我の手を煩わせた謝罪だ」


「あっこれうちへの謝罪だけじゃなくてアルダさんへの謝罪も込みなんよ!?」


「すまなかった!」


「謝罪二周目入ったんよ!?」


「本当にすまなかった!」


「三周目入ったんよ!?」


 父は、謝ったら負けだと常々言っていた。

 オレもそれに倣っていた。

 だけど、そんなオレじゃダメなんだ。

 オレが悪かったと、示さないといけないんだ。


 彼がどうしてこんなことをオレに命じたのか、なんとなく分かる。公衆の面前でオレが平民ピピルに謝罪すれば、それは周囲への『示しを付ける』ことになる。

 もし今後、横暴な貴族が平民を痛めつけようとしても、「アルダ・ヴォラピュクが来るぞ」の一言でそれが止まるようになるかもしれない。


 だから、やるんだ。

 オレがこの娘にしたことを、今後この学園で他の奴がやりにくくなるように。

 オレがやったことの責任を取るために。

 貴族の傲慢によって平民が虐げられる事件を、もう起こさないようにしてるこの人のために、オレはとことんみじめで情けない貴族でなくちゃならないんだ。


 それが、オレがこの娘を痛めつけようとした選択の、責任の取り方なんだ。


「ティウィ・ティグリニャは我の傘下に入った。これで手打ちとする。ピピル、これで許せ。貴様がそれで許すなら、貴様への貸しも帳消しとする」


「あっ命令なんよ!? まあいいけども……元々アルダさんが助けてくれたからうちは何の迷惑も受けてないんよ。切り替えてこ!」


「そうか」


「ほらティウィさんも顔上げて! うち、気にしてないんよ。謝ってもらえたら許すのが普通のことなんよ。一緒に仲良くごはん食べるんよ! ほらほら、ティウィさんはどのごはんが好き?」


「……あ、えと、オレは……」


 ……お、オレは。

 これだけ寛容な女を捕まえて、痛めつけようとしていたのか……?

 『平民なら誰でもいい』という理由で……?

 バカな……!


 死んだ方がいいぞ。


「アルダさん! フリジア生徒会長! アイちゃん! このフレアリザードの軟骨唐揚げとかめっちゃめっちゃ美味そうなんよ! 頼んでみんなで1つずつ摘むんよ!」


 明るい。

 陽気だ。

 肌身に感じて分かる。

 この子は、本当にオレのことを恨んでない。


 ああ、クソ。

 死にたくなってきた。

 この子を鍛えた魔法で痛めつけて、父のようになって、それからオレは……どうしたかったんだ?


 彼の顔が見える。

 喜も怒も哀も楽も無い。

 ただただアルダ・ヴォラピュクは、『分かったか?』と無言の意思を伝えてくる。


「どうだ、ティウィ」


「……主様。オレは……」


「気分はどうだ? おそらく最悪だろうが」


「……はい」


「自分が悪いと思っていない人間を叩きのめしても、痛み以外何一つ与えられないだろう? その感情を噛み締めろ。これが罰だ」


「……ありがとうございます。これはたぶん、オレに必要なものです……」


 耳が痛い。

 胸が痛い。

 握り締めた拳が痛い。

 ありがとうございます、主様。


 自分を偽り続ける限り人は苦しみ続ける。

 それが分かっただけでも幸運でした。

 オレは、これからは貴方のように……新しい自分を包み隠さず生きていきます。


 うんと幼い頃、平民の家族に暖かいパンを貰ったあの日のことを、絶対に忘れないように。


 この願いと共に、生きていきます。



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