力への遺志

ささまる

プロローグ

 「鯉素」と彼女が呟いた時、楠戸鞠くすのきとまりは何かが始まるのを予感した。

 いや、ほとんど確信だった。

「リソ? リソって何?」

「手紙のことよ」

 彼女――緋簾葦ひすいは涼やかに言う。実際、彼女の手には手紙のようなものが握られている。手紙と言うよりは、何らかの招待状のようにも見える。郵便受けに入っているのを彼女に渡したのは戸鞠だが、確か紅茶のようないい香りがした。実にお上品な手紙だ。

 それにしても、手紙なら手紙と言えばいいのに。どうして鯉素なんて言い方をするのだろう? 尋ねる前に、緋簾葦の方が続けて言う。

「鯉庭二〇周年記念パーティーですって……」

 また聞き慣れない単語がつらつらと並んだ。

「リテイって?」

「建物の名前よ。鯉の庭と書いて鯉庭」

「ふーん。変わってるな」

「趣味が悪いのよ」

 言いながら、緋簾葦は何らの容赦もなく、それを真っ二つに破く。勿体無い。少し厚めの高そうな紙だったのに。

「パーティーか。せっかくのゴールデンウィークなんだし、行けば良いんじゃないか? 気晴らしになる」

「何を言ってるの? 元より出席のつもりだけれど」

 緋簾葦がアンティークの椅子から、音も立てずに立ち上がった。太陽がタイミングを見計らいでもしたかのように、日差しが強くなる。四月ももう終わる。いい具合に春だ。

 けれど、緋簾葦の顔は浮かない。とてもパーティーを楽しみにしているようには見えない。憂いを帯びた横顔は新月を間近にした三日月のように、静かにぽっかりと浮いている。その口元が、溜息を吐く。

「……はぁ。面倒ね」

 何が始まるんだろうか。戸鞠はじっと、彼女を見つめた。


 数日分の宿泊準備をしろと言われたので、その通りにした。迎えが来るそうなので、緋簾葦と共に自宅で待っていると、黒光りしたリムジンがスッと到着した。まあ緋簾葦といればこんなこともあるかと納得し、現在はそのリムジンにて移動中である。どこに行くのか緋簾葦は説明してくれないため、場所はよくわからない。ただ、周囲には棚田と呼ばれる階段状の田園が見渡す限り広がり、溜まった水に晩春の日光がキラキラと反射している。運転手が一瞬でも操作を間違えようものなら、崖下へ真っ逆さまなくねくねした山道だけれど、なかなかどうして、来て良かった。

「うひょー、きれー、すっげー!」

「黙ってくれないかしら。恥ずかしいから」

 緋簾葦が冷ややかに言う。少し珍しいくらいに不機嫌だ。こんなにも美しい田園風景を前にして、どうしてそう居られるのだろう? 運転手の話によれば、ガイドブックに載ったこともあるらしい。

「車酔い? 薬あるけど」

「酔ってない」

「じゃあなんで怒ってる」

 心底不思議に思った戸鞠が尋ねると、緋簾葦は無表情に怒りを滲ませたような目で睨んだ。なんでわからないのかとでも言いたげだ。

「わたくしはね――『どうしてあなたがここに居るのか』そう思っておりますのよ」

 いつも以上に丁寧なお嬢様言葉で緋簾葦が言う。些かも揺れない視線が戸鞠を捉えて離さない。

「どうしてって……緋簾葦あるところに僕あり、だから」

「わたくし、ついて来るなって言いましたよね」

「『三日ほど留守を頼むわ』とは聞いたけど」

「……なるほど」

 緋簾葦が戸鞠から顔を外し、「よろしい」と小さく呟いた。独り言のような言い方だ。

 緋簾葦の見ている窓の外には、戸鞠の居る側と違って、黒、茶、黄等の山肌しか広がっていない。彼女が地層学者か何かなら面白味もあるだろうが、生憎とそうではない。座席を交換してやっても良いが、すげもなく否定されて終わりだろう。

 体感でもわかる勾配の坂道をリムジンはするすると登って行く。お世辞にも綺麗に舗装されているとは言えない曲がりくねった道だ。電波はまだ届いているけれど、いずれは文明すら隔絶してしまいそうな雰囲気が漂っている。こんな場所で、ご令嬢が呼び出されるようなパーティーをするのか。本当に?

「どうなっても知らないから」

 不意に、背中から声が聴こえた。

 緋簾葦の声だ。

「どうなってもって……」

 戸鞠は緋簾葦を見つめる。その顔がまた、溢れそうなほどの憂いを閉じ込めているように見えた。覆水盆に返らず、という言葉が瞬時に脳裏に浮かぶ。何故だろうか?

 その時、運転手が明るい声で言った。

「あと十分ほどで到着しますよ!」

 運転手が言う通り、ちらほらと民家が散見され始める。麓の市街地から車で一時間ほど、山の中腹を過ぎたあたりなのだが、随分と中途半端な場所の人里だ。住めば都なんて言うけれど、不便には違いない。農家だろうか、腰の曲がった老人がこじんまりとした畑で土いじりをしているのとすれ違った。やはり、先祖代々の土地をもつ人々が住み続けているのだろう。それにしても限界集落間近だろうが。

「鯉庭、でしたっけ? 山の頂上にあるんですか?」

 斜め前方の運転手に尋ねる。ウルフカットが特徴的な二十代半ばくらいの女性は、快活ながら丁寧に答えてくれる。

「ええ、そうですよ。山と言っても、そう大きくはありませんが」

「どうしてそんな場所に? インフラの整備とか大変そうですけど」

「もともと住むための屋敷ではありませんから。集落の象徴として建てられたものなんです」

「象徴?」

「この地域では、二百年ほど前から錦鯉の生産が盛んなんです。その伝統を象徴するものとして」

 交流会館とかPRセンターみたいなものなんだろうか。集落そのものが山中にあるから、建物も自ずとそうなったと。

「とは言え、今回のパーティーのために、電気水道ガスWiFiもきちんと手配させていただきましたから、その点は安心してもらって構いませせんよ」

 運転手が朗らかに笑って言う。緋簾葦が「数日は滞在することになる」と言っていた時点で、まさか原始時代の生活をさせられるとも思ってはいなかった。けれど、こうして太鼓判を押されると安心する。

「お金持ちはやることが違うなあ。楽しみです」

 きっとこの風景に負けない絢爛豪華な館がお目見えするに違いない。何しろ牡丹のような彼女が招かれているのだ。

 運転手はバックミラー越しに戸鞠に微笑みかけた。若いのに運転が上手いのか、リムジンが揺れることは無い。

「ふふ、それは良かったです――緋簾葦さまも、そろそろご機嫌を直してくださると、ありがたいのですが」

「は?」

 突然話題に出されたからか、緋簾葦が威圧的な声を出して凄む。

「その不機嫌、屋敷に持ち込まないでくださいね。緋簾葦さまが最後のご到着ですから」

「何よその言い方……いいえ、それより、わたくしたちが最後なの?」

 緋簾葦の物言いが、心なしか嫌そうになっている。

「他の方々はちょうどお近くに滞在なさっていたのです。緋簾葦さまが一番遠かったので」

「ふーん……他の方々って、具体的には?」

九朗くろうさま、燕治えんじさま、麻衣華まいかさま、翠華すいかさま、それに芧鏡とちかがみ教授です」

 聞き取るのも厄介な名前の連続の中に、一つだけ覚えのあるものがあった。

「翠華も来ているんですか?」

 戸鞠が尋ねると、運転手は不思議そうにうなずく。

「ええ……お知り合いで?」

「もちろん。自慢の後輩です」

 胸を張って戸鞠が答えるも、隣の緋簾葦が意味深に「自慢ねえ……」と呟いた。

「なんだよ。良い奴じゃないか、翠華。文句でもあるのか?」

「文句じゃないわ。けれど、自慢とは思えないわね」

 緋簾葦は小さく嘆息する。

「そう、あれも来ているのね……出来の悪い愚妹が」

 もしかして姉妹仲が悪いんだろうか。そう言えば緋簾葦の口から翠華について聞いたことが無かったと思い至る。それにしても「出来の悪い」は辛辣過ぎるけれど。戸鞠の中で、翠華も緋簾葦も出来の良すぎる人間だった。まさしく、住む世界が違うとでも言うような。

 まあいい。もし姉妹喧嘩中なのであれば、この楠戸鞠が仲裁になってやろう。何しろ戸鞠は、緋簾葦も翠華も大好きなのだ。早速にして滞在中の大目標ができた。戸鞠は内心で意気込む。

「それにしても、爛道らんどうは?」

 緋簾葦がまた聞き覚えの無い名前を言う。誰だろう?

「爛道さまももちろん。主催者ですから」

 どうやら緋簾葦を呼び出した張本人らしい。恐らくだが、とんでもなく偉くてすごい人だ。どんな人物なのか、考えるだけで戸鞠は身震いする。

「あ、一応ですが父も居ますよ。緋簾葦さまに会えるのを、それはもう楽しみにしていました」

「あっそ」

 緋簾葦がつれなく返答すると、運転手は小さな子供の粗相を見守るみたいに、くすりと苦笑した。

 戸鞠は頭の中で人物の整理をする。確か最初に言っていた人間が五人で、追加で二人。この車に乗っているのが三人だから、全部で十人の人間が、鯉庭という屋敷に集うことになっているようだ。パーティーと言うから大掛かりなものを想像していたのだけれど、思っていたよりこじんまりとしている。緋簾葦が知っている人物たちであろうことを考慮すると、もしかしたら親戚の集まりみたいなものなのかもしれない。翠華に会えたら細かい事情を聞かせてもらえるだろうか? 緋簾葦は全く説明してくれない。

 だが親戚の集まりと言っても、戸鞠の実家やおおよその人間のそれとは、大分趣が違うのは確かだ。戸鞠のこれまでの人生で、緋簾葦以上の人間を知らない。全ての意味で、緋簾葦以上の人間に出会ったことが無いのだ。

「あっ! 見えましたよ!」

 運転手がドライバーから片手を離し、前方を指差す。

 そこには、校舎ほどもある泰然とした館が、優美に佇んでいた。


 想像を超える巨大な邸宅が、数百メートル先に見えた。

 いや、正確な距離はわからない。比肩する建物も存在しない山の頂上では、ただ大きいという感想しか抱くことができなかった。主観は客観の中で正確性を得る。

「緋簾葦さまは、確か久々のご来訪ですよね」

 運転手が、蛇行する道を緩やかにドライビングしながら言う。

「そうね……何年ぶりかしら」

「私は今回が初めてですので何とも」

「あなた、来たこと無かったの?」

「お嬢様がたの別荘に、使用人一人が来るはず無いでしょう?」

 運転手の問いに、緋簾葦はひっそりと黙り込んだ。二人の思い出話には、戸鞠はただただ部外者である。と言うか、結構仲良さそうだな、なんて思わなくもない。初対面だろうが、やや尊大な態度をとりがちな緋簾葦は、ともすれば対人コミュニケーションに問題ありと言わざるを得ないはずなのだけれど。使用人、という単語が耳に残る。

 戸鞠はトントンと緋簾葦の肩を叩いた。気安く触るなと言わんばかりに緋簾葦が睨む。

「なに」

「この人って誰?」

 運転手には聞こえないように声を潜めて尋ねる。

 が、どうやら聞こえてしまったらしい。イタズラっぽい目をした運転手が、バックミラー越しに戸鞠を見た。

「先祖代々、堯家に遣えている使用人でございます♪」

「先祖代々って……」

 緋簾葦が呆れたような声で呟いた。なんだか嘘くさい、というか、煙に巻かれたような気がする。

 そうこうしているうちに、屋敷への一直線の道に車が躍り出た――やはり、大きい。小学校程もある建物だ。門が張り巡らされているため横の全長は見て取れない。しかし高さは、窓の配置からして恐らく三階建てである。公共物ならともかく、個人所有の建築物でこれだけの規模は初めてだ。思わず感嘆の声が漏れ出る。

「すっげー……」

「こんなの虚栄心の賜物でしょ」

 緋簾葦は冷ややかに述べ、更にはふんと鼻を鳴らした。さすがだ。

「……あら?」

 ふと、運転手が不思議そうな声を出した。何だろうと思っていると、戸鞠にも、事情はすぐに分かった。

 門の外に、二人の人間が立っている。どちらも男性だ。一方は髪が短く、中肉中背、年齢は二十代くらいの作業着。もう一方は如何にもな燕尾服を着ている四十から五十くらいの男だ。遠目にも揉めているように見える二人が、こちらに気付いたのかスッと横にずれる。戸鞠たちはその横を通り過ぎる。

「なんでしょうね――ともあれ、到着です」

 その通りだ。戸鞠たちはもう、門の内側に居る。

 鯉庭――空を遮るような建物が、眼前に広がっていた。

 その大きな影さえも、足元に。


 黒のリムジンが乗った時同様、音も無く流麗に止まる。

 緋簾葦より先に降りたかった戸鞠は、なるべく急いでドアを開けた。足元には均整の取れた石畳がびっしりと、門から玄関まで続いている。その玄関は、チョコレートを連想するような昏めの茶色で、重厚な両開きのものだ。

 見惚れないうちに反対側に回って、緋簾葦が降りられるよう執事よろしくドアを開ける。運転手が座席から下りて、少し苦々しく戸鞠を見た。仕事を取られたと思ったのだろう。だが生憎と、緋簾葦の世話を取られたくないのは戸鞠だって同じだった。いや自分の方が、その気持ちは強いに決まっている。

 艶々の革でできた翡翠の靴が、石畳の上に降り立つ。こつりと硬い靴裏が、石畳を小気味よく鳴らした。次いで、クリーム色のフリルが謙遜気味に揺れる。

「少し寒いわね」

 緋簾葦が自身を抱きかかえるように、両肘に触れた。確かに、山の上だからか冷気が漂っている。春とは思えぬ肌寒さで、布に触れていない部分から鳥肌がサーッと立った。

「地上と比べると標高が高いですから」

「わかっているけれど」

 緋簾葦が苛立ち気味に言う。運転手は肩をすくめた。

「さ、早く屋敷に入りましょう。荷物は私が運びますから」

「え? いや僕がやりますよ」

 車に乗る時だって、自分たちの荷物は全て戸鞠が持ち込んだ。それに、女性に運ばせるのは心が痛む。

 しかし運転手の方も譲る気が無いようで、彼女はスーツを着ている腕で力こぶの仕草をしてニッコリ笑う。

「いえいえ、堯家のメイドたるもの、鍛えてますから」

 堯家のメイドにどんな凄味があるのかイマイチ理解できないが、言い返されると曖昧に頷くしかなかった。

 何しろそんな言い合いをしているうちに、緋簾葦が玄関へ足を進めている。荷物を持つ気がハナから無い。彼女らしい。コツコツと響く靴音が、まるで軍靴みたいだ。

 堂々とした足ぶりの緋簾葦に……ふと思うことがある。そう言えばどうして彼女はここに来たのだろう? 静寂と秩序を好む彼女が、パーティーなんて浮ついた代物に惹かれたとはとても思えない。そうでなくとも、彼女ずっと、憂鬱そうにしていた。

 何か来なければならない、あるいは来るべき理由があるのは間違い無い。そればっかりは彼女に直接尋ねるしか無いだろう。宿泊部屋に落ち付けたら、色々と事実確認をする必要がある。

 緋簾葦の前に回り込んで、重そうな玄関の扉に触れる。冷たいが、それよりも特筆すべきはその形だ。ノブが金色に光る魚の頭なのだ。きっとこれは鯉だろう。洒落ている。錦鯉記念館は伊達じゃないみたいだ。中にガーゴイルとかあったらどうしよう? なんて思う。ワクワクする。

「そのニヤけた顔、わたくし以外に見せないでちょうだいね」

 緋簾葦が窘めるように言う。緊張感を持てと言うことらしい。戸鞠は静かに「了解」と返し、口元をキッと結んだ。緋簾葦の忠実な従者たるもの、これぐらいできなくてどうする?

 緋簾葦が館に一歩踏み出し、それから戸鞠も続いた。後ろから運転手が、緋簾葦たちの荷物を一生懸命運んでいる気配がする。

 そして館の内部は――。

「ようこそ、鯉庭へ」

 緋簾葦が悠然とした微笑みで、戸鞠に振り返っていた。

 彼女の口元が揶揄うように、それでいて上品に上がっている。その表情を見るだけで、戸鞠は心の奥が爛れるように燃え上がるのを感じた。そうだ……緋簾葦のそう言うところが、戸鞠はたまらなく好きなのだ。

「あらあら、緋簾葦さまがそんなことなさらないでくださいよ。そういうのは私の仕事じゃないですか」

「あなた来るの初めてなんでしょ?」

「この三日、屋敷の整備をしたのが誰とお思いです?」

 緋簾葦がむすっとした顔になって、明後日の方を見る。

 それにしても、外観からわかっていたが美しい邸宅だ。高級ホテルに近いかもしれない。玄関ホールは二階までの突き抜けになっているようで、見上げるとシャンデリアが燦然と輝いていた。二階に続いているであろう視界中央の階段は緩やかな螺旋を描いている。その全てが大理石でできているようだ。目に眩しい。

「これ本当にただの記念館なんですか? めっちゃ豪華ですけど」

 象徴として放置しているのは勿体無い気がする。

「時々ですが、商談に使われることがあるとは聞いています。それには、視覚的な効果が必要であると、父が申しておりました。父は爛道さまについて、ここに何度も足を運んでおりますので」

 また「爛道」という名だ。一体誰なのか尋ねようとするも――その前に、運転手が口を開いた。

「そういえば、自己紹介がまだでしたね……わたくし、父共々堯家に仕えております専属メイド、くいなと申します」

「くいな、さん?」

「ええ、平仮名でくいなですわ。堯家のことならわたくしに何でもお任せ下さいませ」

 くいなはそう言って、芝居っぽくドレスの裾を持ち上げる仕草をする。パリッとした黒スーツを着こなし、ここまで数時間の運転をものともしなかった彼女だから、正直メイドという感じはしない。どちらかと言うと女性の執事という感じがする――ああいや、そういう事か。

 戸鞠は既に閉じられている玄関に目をやった。正確には扉の向こうに居た燕尾服の男性を思い出していた。あの人が、くいなの父親なのだろう。スレンダーなくいなと比べると、少し小柄でどんぐりみたいな体型をしていたが彼が執事なら、くいなの佇まいにも納得が行く。

「執事の子は執事ってか……」

「くいなは執事ってたまじゃないでしょう。敬語、似合ってないわ」

「だからメイドですって……じゃなくて」

 くいなが不満そうに、緋簾葦に対して口を尖らせた。

「緋簾葦さまが出て行かれてから、結構大変だったんですよ。お父さんったら、本当の本当に厳しくて……」

 くいなが言いながら、ぶるっと身震いをする。花嫁修業ならぬ、メイド修行というものか。この一年と言うことは、それ以前はメイドではなかったのだろう。しかし、だとするなら緋簾葦との関係性が掴めない。

 その時、玄関の扉が外から開かれた。噂をすれば執事のご登場である。

「ああ、緋簾葦さま。お出迎え出来ず申し訳ございません」

「構いませんよ」

 言葉の割にはツンとした態度の緋簾葦か「それより」と話を変える。

「それより、先程の方は?」

「ああ、緋簾葦さま。それは……」

 執事は疲れ切っているようで、少し息を整える。見かねたのか、くいなが間に入って説明し始めた。

「最近よく来ている地元の方ですね。伝統派と革新派の対立が起きていて」

「対立? 爛道に抗議でも?」

「まさしくその通りで」

 執事が眉根を寄せて言う。この人が連日手を焼いているのが、目に浮かんだ。

 それにしても、そろそろ爛道が誰なのか聞きたいところである。戸鞠は緋簾葦の袖を指先でくいくいとひっぱった。緋簾葦の瞳が猫のように戸鞠を睨む。

「なによ」

「爛道って誰?」

 緋簾葦が溜息を吐くと同時に、くいなと執事が驚いたように戸鞠を見た。

 それから執事が、緋簾葦に向き直る。

「あの、緋簾葦さま。この方は?」

「連れ」

 緋簾葦がそっけなく答える。それだけで得心が行くわけはない。しかし追求しにくいのか、執事は口をパクパクさせた。身の上を説明すべきか、しかし緋簾葦が言わないのを、自分が言うのもなあという気がする。別に特別な事情があるわけでは、一切無いが。

 ああいや、それより知りたいのは爛道と言う人物だ。

「あのさ、それで爛道って?」

「わたくしの父」

「……えっ?」

 時間停止技でも食らったみたいに、戸鞠は硬直する。今とんでもない単語が聞こえた。

 緋簾葦は大仰に溜息を吐くと、もう一度繰り返す。

「爛道、堯爛道。わたくしの父よ。そして鯉庭という、この屋敷の主でもある」


 玄関で立ち話なんてはしたない、と緋簾葦が言ったので、胸中のモヤモヤを余所に、部屋に案内された。道中、「本当にご存じなかったんですね」と執事が憐憫の目を向けてきた。どうやら爛道と言う人物を――緋簾葦の父親を知らないのは、ここいらでは珍しいことらしい。

 ホテルじみているのは玄関ホールだけではないようで、二階の客室に現在は腰を落ち着けている。翡翠は廊下最奥、戸鞠の隣の部屋だ。すぐそばに非常階段も設置されていて、デザイン性だけでなく安全性、機能性も追及されているらしい。この手の山奥や孤島の館と言うと、建築基準法を無視している可能性があったが、そんなことは無かった。冬は雪が大層積もる地域らしく、防寒設備も整っている。備えあれば患いなし。ちょっとやそっとの災害では、数か月は生き残れそうな施設だ。

 シルクのような光沢のあるカーテンをサッと開けてみる。すると、見えたのは中庭だった。高木が生き生きと新緑を伸ばし、所々に花々が咲いている。人工と自然の狭間とでも言おうか。よく手入れされていながら、やり過ぎではない美しさである。

 だが、それよりももっと目を引いたのは――大きな池だ。モネを思わせる淡い群青色の水。中でゆらゆらと動いているものは、当然ながら錦鯉である。

「きれー……」

 本当に美しいもの、感動的なものを見た時、人は言葉を失ってしまう。揺れる心で、一体何が生み出せるものか。美しい、素晴らしい、綺麗。赤、白、黒で構成された揺らめく生物は、まるで神の最高傑作を思わせるほど優麗である。

「――どうやら、お気に召したようね」

 後ろから緋簾葦の声がして、戸鞠は危うく叫びそうになった。前のめりになった顔が窓にぶつかって、鼻先が少し潰れる。痛い。

 戸鞠が鼻をさするのも気に留めず、緋簾葦は池の鯉のように悠然と歩み寄ってきた。戸鞠の隣に並ぶと、先ほどの戸鞠と同様に、下方へ目を向ける。

「あなた、あれが一体、どれだけの価値をもつか知っている?」

「……いや」

 戸鞠はもう一度、池を見た。池の鯉は、全部で三匹。それぞれ模様と色が違う。一匹が赤と白の二色。もう一匹が赤と白と黒の三色。そして最後の一匹が、輝くような黄金だ。

「錦鯉はね、ものによっては億の値が付くの」

「お、億⁈」

 高そうだとは思っていたが、さすがに億だとは思わなかった。だって生きている魚だ。

「そう……あの三匹も、全部そうなの。毎年ある品評会で、最高評価を得た」

「ま、マジか……すっげえな。思ってたよりすっげえよ」

「そうね。あなた一人より余程価値のある生き物よね」

「何かを称賛するのに何かを下げるのは良くないんだぜお嬢さん」

「そうね。言語化せずとも自明の理だものね」

「マジで良くない」

 部屋にあった腰掛けに緋簾葦が座る。全体的にダークブラウンで統一された部屋の中で、緋簾葦はお姫様のような存在感を放つ。

「爛道のこと、聞きたいのでしょ? でもおあいにくさま。わたくし、言うつもりはありませんから」

「え、なんで?」

 サラリと言ってのける緋簾葦に、意地悪さは見受けられない。そもそも、軽口や悪戯はすれど、悪意ある行為を彼女からされたことは無い。だからと言って彼女の性格を良いと評するつもりは無いが。

「人から人への評価を宛にするなんて、己の審美眼を蔑ろにするようなものでしょう。自分の価値を、易々と無くしてはいけない」

「それ、本心?」

「わたくしを嘘つき扱い?」

 緋簾葦は微笑んで、「まあ良いけれど」と嘆息するように言った。実際、彼女はあまり正直者ではないと、戸鞠でさえ思う。だから尋ねたのだ。

「ともあれ、父についてはあなたが、あなたの目で確かめなさい。その方が手っ取り早いでしょうし」

「手っ取り早い?」

「わたくしがあれこれ父について断じたところで、疑念が生じるでしょうから」

「なるほど。合理的に行こうってことだな」

 オーケー、と戸鞠は納得を示す。こういうのは折れたほうが賢い。

 けれど、それとはまた別件で、一つ疑問が増える。

「ところで、なんで僕のところに来た?」

 緋簾葦がすっとぼけるように、怪しく笑う。

「僕の顔を拝みに来たわけじゃないだろ」

「あら、よくわかってるじゃない」

「わかりたくないことではあるけどね」

 苦々しく戸鞠は言い、緋簾葦の出方を待つ。

 ここのところ、どうもキナ臭い事柄が多い。緋簾葦が何かしらの狙いを持っている可能性が頭にチラつく。

 けれど、戸鞠の予想に反し、緋簾葦は足を組み替えながらこう言った。

「中庭、気に入ったんでしょう? くいなが案内するって」


 廊下に出ると、くいなが若干の営業スマイルのようなものを浮かべて立っていた。相変わらずメイドというより執事なスーツを着こなしている。身長が一七〇後半はあるだろうか? ウルフカットの髪型と切れ長の目も相まって中性的だ。男装の麗人という言葉が脳裏に浮かぶ。

「緋簾葦さま、すみません。お使いみたいなことさせてしまって」

「本当よね」

 緋簾葦はプイっと横を向くも、ここから居なくなる気は無いようだ。くいなの案内に、同行するつもりなんだろう。一緒に中庭に行けるのは悪くない。

「まあ本当なら私より、父が案内したほうが良いのでしょうけど、父は忙しいようで」

 申し訳ございませんと、くいなが頭を下げる。くいなは三日ほど前に初めて来たと言っていたか。ならば確かに、父親の方が妥当ではある。観光客が観光客を案内するようなものだ。

「別に構いやしないわ。芸術品というものは、言葉を添えるほど陳腐になるのだから。むしろ、あなたの方が丁度良くてよ」

「そう言ってもらえると助かります。さすがは緋簾葦さま」

「今しがた、言葉を添える必要は無いと言ったのだけれど」

 緋簾葦がくるりと踵を返し、先んじて中央階段への廊下を歩いていく。

「……ま、緋簾葦なら、さもありなんって感じですね」

「緋簾葦さまは相変わらずみたいですね」

 くいなが肩をすくめる。高そうなスーツはシワ一つつかず、窮屈そうに肩について行く。


 おいて行かれないうちに緋簾葦の後の続く。よく考えると、くいなより緋簾葦の方が案内には適任ではなかろうか。何しろここは、彼女の父の屋敷なのだから。

 しかしまあ、緋簾葦がそんな殊勝な真似をするわけもなかろう。戸鞠は一人密かにフッと笑う。彼女が他人のためだけに動くなんて。情けは人の為ならずという言葉はあるが、緋簾葦はそれを信じていない。徹頭徹尾、己のために。それが緋簾葦のモットーなんじゃないかとすら、隣の戸鞠は思っている……常々。

 一階への階段を、くいなと降りる。くいなはその最中、鯉庭の構造について説明し始めた。

「鯉庭とは――すなわち、鯉の庭、なわけです。ですから、その名を冠すこの屋敷は、鯉の居る中庭を中心としています」

「中庭を中心として、屋敷が存在しているというわけですか?」

「ええ。屋敷は中庭を取り囲むように存在しています。中庭にとって、屋敷は鎧のようなイメージ、とでも申しましょうかね」

 くいなが良いことを言ったと自負するように、くすりと微笑んだ。

「そういうわけですから、中庭へ通ずる扉も東西南北に四枚存在します。どこを通っても構いませんが、戸鞠さま方がお泊まりになっているのは南館ですから、南口――本当は朱雀門というのですけど――を使うことになるでしょう」

 玄関で見た時から予想は着いていたが、中央階段の下に、南門がある、何故に不死鳥っぽい生物のステンドグラスなのだろうと疑問だったが、どうやら朱雀門を表していたらしい。

 ステンドグラスの赤い扉を、くいなが開ける。冷たい外気が頬を舐めた。その瞬間、網膜に暖かな陽射しが届く。

「うわあ……っ!」

 上から見るのとは別格な、生き生きとした草花と暖かな光彩が感覚を支配する。

「喜んでいただけて何よりです。さ、どうぞもっと中へ」

「い、いい、いいんですか??」

「そんなところじゃ草しか見えないでしょ。あなた何を見に来たのよ」

 緋簾葦が少し先で、呆れたように言う。その通りだ。ここからじゃ、億の値がつく魚は見えない。その上、光の下の彼女は美しい。

「じゃ、失礼して……」

 そっと足を踏み出す。柔らかな土の匂い。感触が靴裏をふかふか撫でている。

 大きくて深い池だ。一歩下がっても視界に収まりきらない。

「鯉は池の大きさによって、体の大きさを変えるんです。大きな池で飼うのは、より大きくて立派な鯉に育てるためなんです」

「えっ?? それ本当ですか?」

「鯉がというより、魚全般がそうでしょ。そんなことも知らないわけ?」

「だって飼ったこと無いし。アクアリウム標準装備の家と一緒にするな」

「ふーん……」

 緋簾葦は意味深にそう言うと、先を歩いた。草がそよいで風をまっている。

 中庭に実際立って分かるのは、鯉の実際的な巨大さだ。優に一メートルは超えている。人間の子供のほどに成長した赤白黒、そして黄金色の生物は、誰に気兼ねすることも無く、水の中を揺らめき続ける。まるまるとした身体の上に着いたちょこんとしたヒレが、水面を優雅にざわめかせた。鱗の一枚一枚に、太陽は異なるほほ笑みを見せる。

 一瞬として同じ景色は無い。鯉も同様、どんな刹那も異なる輝きを見せてくれる。だからいつまでも、囚われるように魅入られてしまう。

「――戸鞠先輩」

 だから、戸鞠はその人物が北門を通って中庭に入って来たことにすら、言われるまで気づかなかった。

 果たして、戸鞠の後輩であり、緋簾葦の妹――翠華が、呆然と戸鞠を見ていた。

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