第10話

 男は虚空を見つめていた。目の下には黒い隈ができ、虚ろな瞳をしている。切り株に腰かけて背中を丸めたまま、ぼうっと宙を見ていた。少し伸びた髪は絡まったままで、紐で結っていたような跡が残っていた。男の瞳に少しだけ光が宿ったのは、朝焼けの中を走ってくるリリィの姿が見えた時だった。


「ーーライアン!!」


 彼女がライアンを呼ぶ声は怒りに満ちていた。目をぎらつかせながら駆け寄ってきたリリィはライアンの目前までくると、ぜいぜいと息を切らせながら立ち止まった。それから二、三回大きく呼吸をして息を整えてから言った。


「生贄のこと、知ってるの?」


 彼女の言葉には期待が込められていた。だがライアンはその期待には応えられなかった。


「ああ、知ってる」


 そう応えたとき、リリィが失望したのが分かった。だが、彼女の顔に再び怒りが満ち、次の瞬間平手が飛んだ。バチンと大きな音がした。ライアンは怒る訳でもなく、項垂れたまま黙っている。


「知ってるならどうしてこんなところでボーッとしてるの!? あんたのお父さんを説得するなり、パネラの側にいるなり、いっそのこと一緒に逃げるなりしなさいよ!」


「ーーそんなこと、できる訳ないだろ」ライアンは失笑した。「知ってるか? こういった祭事で生贄や代表を決める時は俺の一族が弓を射るんだ。天高く飛んだ矢を神が操って、一番適した人間のところに矢を落とすと言われている。今回の矢は俺が放ったものだった。皮肉だな。初めての仕事で、まさか俺の婚約者のところへ矢が落ちるなんて」


 リリィは絶句した。だが必死に言葉を探して言った。


「仕事とか、どうでもいいじゃない! こんなところで卑屈になってないで、さっさと行きなって!」


 そう言ってライアンの背後に回ると、大きな背中を全力で押した。ライアンは嫌嫌立ち上がると、はあっとため息をついた。


「どんな顔で会いにいけばいいんだ、俺は。君を生贄に決めたのは俺だよ!って言いにいくのか?」

「ウジウジウジウジうるっさいわね。村とパネラ、どっちが大切なの!?」

「それは……決められない。俺は村長の息子なんだ。自分勝手なことはできないよ」

「大人ぶってんじゃないわよライアンの癖に」

「癖にってなんだ」

「あんた達ずっと長い間恋人やってたじゃない。最近になってやっと婚約が認められたんでしょ? どっちの家が渋ってたのか知らないけどさ。それをこんな下らないことでダメにしていいの? 今後パネラより好きな女と出会えると思ってるの? パネらの親友の私に言わせたら、あんな気立のいい子と出会えることなんて今後一生ないからね!!」


 リリィが言い終えるよりも前に、ライアンの顔がくしゃっと歪んだ。と思うとボロボロと泣き出した。突然ライアンが泣き始めたので、リリィは動揺してしまった。


「俺だってこんなの嫌に決まってるだろ。でも俺たちは村でしか生きていけない。村のしきたりに従うしかないんだよ。もし村を逃げたって、農業と弓しかできないような俺たちが、どこで生きていくっていうんだ」

「ーーエオニオ共和国」

「エオニオ? それはなんだ?」

「本で読んだことがあるの。この村よりずっと西、海を挟んでさらに西の国よ。エオニオ共和国はこことは違って肥沃な大地が広がっていて、農業だけじゃない、畜産なんかも盛んなんだって。そこにいけば、農家の仕事もあるかもしれない。なくても家さえどうにかなれば生きていけるかも」

「そんな国が、あるのか」

「汚いわね鼻水ふきなさい」


 そう言ってリリィはポケットから取り出したハンカチをライアンの顔に押し付けた。


「私の部屋に地図があったはずだからそれをあげる。コンパスは持ってる?」

「狩の時に使うから、一応」

「よかった。それなら港まではなんとか行けそうね。船代っていくらなのかな……。私いくらか持っていたかしら」

「ちょっと待ってくれ」鼻水を拭きながら言った。「まだ逃げるとは決めてない」


 片眉をぴくりと上げる。リリィの顔がまた怒りに満ちていった。


「へえ、ここまできてまだパネラを見殺しにする気」

「もし仮に外で生きられるとしよう。でも、どうやってこの村から逃げ出すんだ? パネラの家にはもう住人が集まりだしてる。パネラを立派な生贄にするために、今頃は仕立ての良い服やアクセサリーで着飾らせているはずだ。そんな中でパネラが消えたらすぐにバレるし、捕まるはずだ」

「それはーー」


 顎に手を当てて、リリィは考えた。ちら、と東の空を見ると太陽がすっかり地平線から顔をだしていた。急がなければ時間が無い。


「私がパネラと入れ替わるわ」

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