第8話
聞き間違いかと思った。シオンの口から出た言葉はリリィの頭の中を真っ白にした。ぽかんと突っ立ったまま何も言わないリリィに不安になったのか、シオンは彼女の細い肩に手を置いて、ゆっくり言った。
「黒い鱗が顔中に生えていた。あれは紛れもない鱗病だよ。だから姉さん、近づかないで。僕も帰るから、母さんを連れて一緒に家に戻ろう。父さんのところへもすぐに話が伝わるはずだ。だから僕たちだけでも先に帰らなきゃ」
「――うん」
「きっと大丈夫だよ」
「誰だった?」
「え?」
「誰が鱗病になったの?」
「……わからない。鱗でよく見えなかったけど、多分イースの村人じゃない。どこから来たのか知らないし、もう聞くこともできないんだ。息をしてなかった」
「……そう。わかった。とりあえず、母さんが不安がってるから迎えにいかなきゃ」
「僕もいくよ」
リリィとシオンは静かにその場を離れ、母を迎えに行った。事情を知った母は酷く怯えていたので二人は母を両脇から支えながら家に連れ帰った。しばらくすると父ルースも魚を携えて帰ってきた。いつもなら獲れた魚を見て喜んだが、今日ばかりは皆静かに父の帰りを出迎えた。父ルースは既に村人から事情を聞いていたらしく、「大丈夫か」とだけ言った。
パネラの婚約話で浮き足立っていた村は突如として失意の底に突き落とされた。皮肉にも空は快晴で、まるで何もない平和な一日のようだった。だが村人たちは農業を放って家に引きこもり、病を恐れて子供ですら外に出なかった。異様な静けさに包まれたまま夜を迎えた。
テスとリリィが夕餉の支度をしていると、家のドアを誰かがノックした。父ルースが扉を開けると、そこには隣人が立っていて何かをルースに囁いた。ルースはこくりと頷き、リビングを横切って母テスのところへ向かうと小さく何かを囁いた。テスはエプロンで両手を拭き、「ちょっと会合に行かないといけなくなっちゃった。リリィ、あとはお願いね」と言った。
またこんな遅い時間に出かけるのか、と文句を言いたくなったがやめた。母の顔がいつもよりも深刻で、わがままを言えるタイミングではないと悟ったからだ。リリィは黙ったまま頷いた。両親は着の身着のままで家を出ていった。
「――どうして急に鱗病なんて」
温めたばかりのスープを口に運びながらリリィが言った。
「病ばかりは、どうにもならないよ」とシオン。
「裏山の悪鬼……」
「姉さん、あんな噂話が本当だと思ってるの?」
「でも姿を見た人がいるって!」
「仮にそうだとしても、騎士でもない僕たちに何かできると思えない」
「そうだけど……。皆で武器を持っていけば!」
「武器って言ったって、鋤? 鍬? それともフォーク?」
「……」
「わかってるよ。何かしなきゃって気持ちは僕だって一緒。でも、本当に山に悪鬼がいたとして姉さんに何かあったら父さんも母さんもひどく心配するよ。それにさ、まだ病が広まったって訳じゃない。ただ鱗病の患者がうちの村にたどり着いただけだ。きっと大丈夫だよ」
「そうだといいんだけど……」
夜は次第に更けていく。両親は結局帰ってこず、二人は陰鬱な気分のまま床に就いた。
夜も更けたころ、大きな家から一人の若い男が出てきた。村人に見守られる中で男は家屋の屋根に上り、手に持っていた弓を構えた。矢は三本。矢の先を天高く向け、弦を引く。さっきまで月明かりに照らされていた村が、雲で遮られて薄暗くなる。いつまで経っても雲は消えない。
「ライアン、さっさと放て!」
父の声に驚いたライアンが弦から指を離すと、矢は夜空高くに舞い上がり、ゆるやかな弧を描いて村に落ちていった。
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