第5話

 教会から戻ったリリィはいつものように畑へ行き、母の畑仕事を手伝った。晴れていた空はいつの間にかどんよりとした黒い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうだった。「変な天気だし早めに切り上げましょうか」という母に従いバスケットや鋏、木箱などを整理してから畑を出た。


 リリィと母テスは畑の横に伸びる道を歩いていた。すると、村の中央を横切る太い道に荷馬車が停まったのが見えた。脚の短い馬が退屈そうに地面を蹴っている。


「あら、ルオルさんのところの馬車ね」テスが言った。


 ルオルというのは商家の男だった。商人として売買を行えるのはルオルの家とマイクの家しかおらず、荷馬車は共同で使っていた。彼らは近隣の村を回ってはイースにない食品や道具を買い付けてきてくれる。スパイスなどはこの村では採れないので、彼ら商人が買い付けてくれるものが頼りだった。


 馬車から降りた禿げ頭の男がルオルだが、彼は息子に何か言いつけると、村の中心に向かって駆け出した。返ってきたルオルを出迎えようと集まってきた村人たちに出会うと、ルオルは身振り手振りを加えながら何かを伝えているようだった。話を聞いていた村人たちは驚いた様子で顔を見合わせた。


「なんか、様子が変じゃない?」

 

 リリィの言葉に、テスも頷いた。


「ちょっと様子を見に行ってみましょうか」


 二人は畑の間の道を通ってルオルの方に向かった。彼女たちが着く頃には村人たちはさらに増えて、深刻そうな顔をして話し合っていた。


「ねえ、どうしたの?」


 リリィがそう尋ねたとき、村人たちはやっと二人が来たことに気づいた様子だった。ルオルは脂汗をかきながらこちらに近づいてくるなり言った。


「なんでも、隣町のモメでついに鱗病が出たらしい」

「――えっ!?」リリィは驚いて声を上げた。

「大丈夫、俺は城下町の方へ先に行ったからモメには寄ってない。ただ、この村に比較的近い場所でもついに鱗病が出てしまった――」

「鱗病ってそんなに広まってたの?」

「噂には聞いていたが、かなり患者が増えているとか」

「薬は? さすがに王都なら薬もあるんでしょ」

「いや、まだ……。ちゃんとした治療法も無いみたいだ。でもきっと大丈夫だ。モメは川を挟んだ向こうの土地だし、少し距離がある。俺たちもしばらくモメには行かないようにするから、この村には来ないさ」


 ほっとしたのも束の間、村人の中から誰かが言った。


「そんなの分からないじゃないか」


 村人たちの中に広がりつつあった安心感がさっと引いていくのが分かった。人々は顔を突き合わせて、この村には医者がいないとか、薬がないのにどうしたらいいのかと口々に言い合った。不安の種はだんだん大きくなり、その向き先がルオルに向いた。


「お前、本当にモメにはいってないんだろうな?」

「そもそも王都は本当に安全なのか?」


 怒りの矛先が突然自分に向けられたことに戸惑ったルオルは、たじろいで黙り込んだ。その様子が村人の不安を更に煽った。


「ちょっと――」


 ルオルを庇おうとしたリリィの視界を、黒いローブが遮った。いつの間にか村に来ていたらしいディアス神父が彼女の前に立っていた。教会であったときとは異なり、ディアス神父は黒いローブを羽織り、豊穣の女神を象ったモチーフが下げられたネックレスを着けていた。靴とズボンの裾についていた土は綺麗に落とされ、さっきまで雑草抜きをしていた男とは思えない。


「まあまあ、落ち着きましょう」


 ディアス神父はにこやかにそう言った。さっきまで混乱していた村人たちは、彼の様子を見て少しだけ落ち着きを取り戻したようだった。


「皆さん、あの裏山のことをお忘れですか?」

「裏山?」


 頭の上にちょっとだけ残った白い髪の毛をなでながら人々の中から出てきたのは、この村で最年長の老爺だ。腰が丸く曲がり、古い杖を片手に持っている彼はイースの村の村長で、トラブルが起きるとその諍いを収めるために度々顔を出す。 


「ええ。悪鬼が住むというあの裏山です。あの山には悪鬼が住んでいるのに、この村は病から守られ、ここ数年大きな飢饉にも見舞われていない。それはきっとこの村が豊穣の女神に愛されているからでしょう」

「そりゃあ、そうかもしれないが」

「今までだって守ってくださったのですから、急に我々を見捨てるようなことは、神はしません。神を疑うようなことをしてはいけませんよ」

「……」


 村人たちは申し訳なさそうな顔でお互いを見合うと、ディアス神父の方へと向き直った。


「それもそうかもしれないな。悪かった。最近は鱗病の噂を聞かなくなっていたんで、少し不安だったんだ」

「いいんです。不安なのは仕方がありませんから。でも、こういう時こそ悪鬼に負けてはいけません」

「そうだな! おい皆、この話はこれで終わりだ!」


 村長がそう叫ぶと、さっきまでの雰囲気がまるで嘘だったかのように村人たちの顔がぱっと明るくなった。彼らは「なんだ、驚いた」と談笑しながら散り散りに去っていった。


 ディアス神父の話を聞いて安心した母テスも、リリィに向かって「帰りましょうか」と優しく言った。頷いて母についていく途中でふと後ろを振り向くと、去っていく村人たちを見つめているディアス神父の背中が見えた。彼のことが何となく気になってしばらく見ていたが、黒い雲に覆われていた空からついに雨がぽつぽつと零れだし、リリィは母と一緒に慌てて家へと帰っていった。


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