第2話
黒く変質した肌に、浅い呼吸。路傍に打ち捨てられた年老いた男を、行き過ぎる人々は蔑む目で見下ろした。革の鞄を持ち胸ポケットに聴診器らしきものをぶら下げた男も、彼の姿を悲しそうな目でみるだけで、立ち止まろうともしなかった。年老いた男はぼうっと空を見上げ、自分の最期を待つばかり。
一方、イースの村の畑では、橙色に熟した果実をもぎ取るリリィの姿があった。土で汚れた木箱の上に乗って、二メートルを超える樹木に成った果実をもぎ取っては、腕にぶら下げたバスケットの中へと入れていく。甘い香りを漂わせる果実を一つもぎ取ると、顔の前に持ってきてじいっと見つめた。艶がありとても美味しそうだ。
「つまみ食いしちゃ駄目よ」
近くの木の裏からひょっこりと顔をのぞかせたのは母のテスだ。やや乾燥した金色の長い髪を三つ編みにしている。着古した深緑のワンピースに、同じく古びたエプロンを着けていた。
「はあい。ねえ、今日で全部収穫するの?」
リリィはうんざりした顔で言った。
「そんな顔しないの。今収穫しておくのが一番美味しいんだから」
「はあ、こんなにミコの実ばっかりあっても飽きちゃうよ」
「他のお家にもお裾分けするのよ。果実と交換で小麦も貰いたいの。それに、来週の市にも出す予定だわ。だから果実に傷をつけないでね」
「はぁい」
「来週の市は手伝ってね、リリィ」
「えぇー!? だって市って朝早いじゃん!」
「そうなの。だから母さんたち体がついていかなくてね。お願いよ」
「シオンにやらせればいいじゃん!」
「あの子は勉強も忙しいからね。それに、あなたお姉ちゃんでしょう」
「都合のいい時ばっかりそうやってお姉ちゃんお姉ちゃんってさぁ……」
「あら、何か言った?」
「なんでもないでーす! ……あっ!」
「どうしたの? 大丈夫?」
「実に傷つけちゃった。どうしよー」
母テスは苦笑して「仕方ないわね、一つだけよ」と言った。リリィは嬉しそうに二ヤッと笑うと、甘い香りのする果実にかぶりついた。じゅわ、と口の中に広がる果汁。甘さが疲れた体に沁みた。
「おーい、またサボりか!?」
どこからともなく男の声がした。ミコの実を頬張りながらそっちを見ると、同じ村のケインという男が畑の向こうで手を振っていた。ケインはリリィの一つ年上で、幼馴染として一緒に育ってきた仲だった。男勝りなリリィとは何度も殴り合いの喧嘩をしたが、お互い成人すると自然と口喧嘩だけになり、異性として適切な距離を取れるようになっていた。
昔はリリィと同じくらいの背丈だったケインも、今となってはリリィより頭一つ分の背丈に成長し、牧畜や農業に勤しんでいることもあり腕も脚も立派な筋肉に覆われている。
「どこがサボりに見えるっていうのよー!?」
リリィはそう叫んだ。口の端から果汁が溢れ、慌てて手の甲でぬぐう。
「どう見てもサボりだろうがー!」
「うるさいなあ、仕事中なの! あんたもさっさと働きな、このごくつぶしー!」
「こら、姉さん」
声の方を見ると、今度は弟のシオンが木の陰から現れた。
「シオン。もう勉強は終わり?」
「ああ。今日は早めに終わったから手伝いに来たんだ。それより、またケインと喧嘩してるの? よく飽きないね」
「違うよ! 向こうがいつも喧嘩売ってくるの! ほんとムカツク」
「放っておきなって、あんな筋肉馬鹿」
「おーい、シオン! 相変わらずシスコンやってんのか!?」
遠くからケインが叫ぶ。シオンは振り向いてケインに笑顔で手を振ると、前に向き直るなり真顔に戻った。
「あいつ、親に言いつけてやる」
「子供みたい」
リリィは笑った。
「こ、子供みたいなのはケインと姉さんだろ!」
「だって親に言いつけるって、弟ってかんじ」
「ちょっと年下だと思ってそうやって馬鹿にして……」
「はいはい。ごめんね」
「ほら二人とも、いつまで話してるの」手に持った果実をバスケットに入れながら、テスが言った。「暇ならシオンも手伝って。できるだけ今日収穫を終わらせたいの」
「はあい」
気の抜けた返事をすると、シオンはシャツの袖を捲った。それから周囲を見渡して適当な木箱を見つけると、それを持って手近な樹木の下に置く。からかうのに飽きたのか、ケインは両手を首の後ろで組みながら歩いて行った。
それから日が暮れるまで、三人は黙々と収穫作業をつづけた。足元には果実が山積みになったバスケットがいくつも並んだ。空が橙に染まり始めると、地面に置いていたバスケットを家屋の横にある倉庫へと運んで行った。そうしてやっと一日が終わるころには、リリィはへとへとになっていた。
宵闇が村を包み、夕食の香りも遠のいた。部屋には小さなランプの明かりと、青白い月明かりが灯る。今日も代わり映えのしない退屈な一日だった。リリィが自分の机で頬杖をつきながら窓越しに星降る夜空を見上げていると、窓の外に突然黒い人影が現れた。
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