不穏の風

第1話

 その日は暑い夏の晴れた日だった。まだうら若い男女が、建てたばかりの平屋の中で幼い子供を抱いていた。真っ白な顔についている青い双眸は、まるで夏の空のように澄んでいた。不作の年であったにも関わらず不思議と肉付きのよいその子供は、リリィと名付けられた。


 お淑やかな母に似ず、リリィは男勝りな少女に育っていった。農村で生まれた彼女の両親は、他の村人たちと同じく農民だった。朝早くから畑に出かけ、昼に飯を食べに家に戻る。そうしてまた畑に出かけて行った。

 彼女がそうして日々を過ごす村は、イースと呼ばれる小さな村だった。ほとんどの住人が農業を営み、ほんの少しの村人だけがちょっとした貿易業のようなことをやっていた。村の裏手には岩が剥き出した無骨な山があり、村と山の間には古びた教会が建っていた。信心深い村人たちは、休日になると教会に集まって祈りをささげた。だが、神を信じなかったリリィはよく集会をさぼり、両親に叱られた。


 彼女が生まれてから六年がたつ頃、弟のシオンが生まれた。リリィは初めてできた弟をとても可愛がり、農業で忙しい両親の代わりに面倒を見た。おしめも替えたし、ご飯も食べさせた。他の住人から譲り受けた絵本を広げ、膝にのせたシオンに読み聞かせてやったこともあった。二人はときどき喧嘩をしながらも仲良く育っていった。


 この頃リリィ達が暮らす村を含むイートリオ王国に、小さな病の芽が生まれていた。イースの村からずっと東にある王国とその城下町で発生した病は、小さく、だが確実に王国を蝕み始めていた。


 病に悩まされることになるであろう張本人達はそんなことはつゆ知らず、そのまま二十年ほどの月日が過ぎた。


「姉さん、また集会さぼったろ」


 古びた平屋の一室で、リリィは椅子に座っていた。二十五歳になった彼女は見目麗しく成長していた。澄んだ空のような大きな瞳は健在で、金色の髪を肩に流している。農業の手伝いをさぼりがちなせいか、農家の娘にしては色白だった。青色のワンピースにエプロンをつけ、足には茶色のブーツを履いている。


 机に広げていた本にしおりを差して閉じると、リリィはパッと椅子から降りた。


「あーあ、バレたか!」

「バレたか、じゃないよ。父さんも母さんも呆れて、怒りすらしてなかったよ?」


 そう言ったのは弟のシオンだ。十九歳になった彼はリリィと双子のような少年に育った。身長はリリィと同じくらいで、金色の髪は耳にかかるくらいの長さに切ってある。長い前髪は横に流し、その下からはリリィと似た青い瞳がのぞいていた。

 少し上質な黒のズボンと、あまり汚れの目立たない白シャツを着ているシオンを眺めて、リリィは言った。


「なに、これから勉強?」

「そう。今からロスさんのところに行ってくる」

「いってらっしゃい」


 つっけんどんに言うと、リリィは再び椅子に腰を下ろした。彼女の態度を見て、シオンははあっとため息をついた。


「何度もいってるけどさあ、仕方ないだろ? 姉さんは女なんだから、学校にはいけないって。そもそもそうやって文字を読めること自体、結構珍しいんだよ。この村には文字を書くことはおろか、読むこともできない人がいっぱいいるんだから」

「文字が読めるんだから満足しろって?」リリィは大きなため息をついた。「私が男だったら、もっといろんなことを勉強できたのになぁ。もしかしたら、王都の学園にだっていけたかも」


 そんなセリフを聞いて、シオンはプッと吹き出した。だが、鬼の形相でこっちを睨みつけてくる姉に気づき、すぐに真顔に戻った。


「僕らは農民だ。父さんも母さんも、僕が少しでも金を稼いでくれたらいいと思って僕に学問をさせてる。でも結局行き着く先は一緒。僕だって農民だよ。僕がもし天才になったって王都になんていけやしない。そもそも僕の存在なんて認知もされないさ」

「そんなの、分かってるよ」

「そう? それは良かった。なら父さんと母さんが早く姉さんに嫁入りして欲しがっているのも、分かってるよね?」

「うっ。それはまた、別の話でしょう」

「ーーそう?」


 にや、とシオンは笑った。


「ま、もし誰ももらってくれなくても心配しないで。僕が農業をきちんと学んで姉さんくらいは食わせていけるようになるからさ」

「失礼しちゃうわね! 私だって、弟に食わせてもらわなくても大丈夫なんだから」

「農業の手伝いさえサボるのに?」

「うっ」

「ほら、もう行きなよ。あんまり父さんを怒らせると面倒だしね。また朝から夜まで監視されるよ?」

「それは勘弁かも。はーあ、いいところだったのになぁ」

「本ならいつでも読めるじゃない」

「もっと沢山よみたい本があるの」

「マイクが本を持ってくるのは、どうせずっと先だろ」

「言わないで、この村がまた嫌いになるから」

「そんなことばっかり言うなって。村長に目をつけられると面倒なんだから。ほら、そんなことは良いから立った立った!!」


 弟に促されるままリリィは椅子から立ち上がり、項垂れたまま部屋を出ていった。一緒に家を出たシオンは、村の中で一番学があるとされているロスの元へと向かった。

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