第二話

 青年は首を鳴らして、小さく伸びをした。


 始業から時間が経ち、集中力が切れ始めていた。もうすぐお昼。そう思うだけで少し気分が晴れた。現実が変わることはなかったが。


 肩を叩かれ、青年は溜め息を零した。同僚がよくふざけて遊んでくるが、自分のことを考えてくれないのは困った。不機嫌そうな顔を隠さずに青年は振り向いた。上司だったと知り、青年は急いで笑みを繕った。上司は青年を注意深く見ていた訳ではなかったので、それに気付くことがなかった。


「ちょっと来てくれるかね?」


 そう上司に言われ、青年は立ち上がった。上司のお願いは最初からお願いではなく、命令でしかなかった。ただそれを言うつもりはなかった。言った所で何の役にも立たないからだった。


「はい」


 と、青年は母鳥に付いて行く雛のように、背後にくっ付いた。


 ふと顔を上げれば、前に座る同僚が何故か不安そうな顔を向けてきた。青年は頭上にはてなマークを浮かべながらも、誰にも詳しく聞くことが出来なかった。上司に導かれるがままに、空いている会議室に入った。


 会議室には誰もおらず、テーブルの上にパソコンが一台置かれているだけだった。上司に指を差され、青年はパソコンの前の椅子に座った。何をされるのか分からなかった。このようなことがあると誰かも言われたことがなかった。


 だが、少し考えてから思い出した。何人もの先輩が数日おきに顔色が悪くなっていた時があった。朝は調子が良かったのに、午後に再度見た時はすっかり青くなっていた。青年は一気に居心地が悪くなり、ソワソワした。


 上司は対面に座ると青年に笑みを浮かべた。だが、青年はすぐに社会人の作り笑いだと知った。目が笑っていなかった。それはいつ見てもどのホラー映画より恐ろしく、冷たかった。


「君はある噂を知ってるかね?」


 青年は頭を傾けた。


「……噂ですか?」


 噂など知らなかったし、聞いたことがなかった。上司は目を細めながら、口角を上げた。どこまでも胡散臭い狐のようだった。


「知らないなら良いよ。見て欲しい物があるだけだから。……再生してみて」


 青年は困惑しながらも、パソコンの画面に表示されていた動画を再生した。どこかの建物の裏のようだったが、薄暗くて正確には見えなかった。何もない平らな所で取られているようにも見えた。性能が悪い防犯カメラのようで白黒だった。


 光が当たっている所以外は、画質がガビガビになっていた。光がある所も何とか見えているだけだった。数秒は何もない静寂が続いた。だが、すぐにどこからか足音がした。黒いコートを来た男が現れた。男は無表情な顔で防犯カメラを一瞥した。


 青年はカメラ越しに目が合ったように感じ、どきりとした。そのようなことがあるはずがないのに。


 男はおもむろに拳銃を取り出すと、頭を撃ち抜いた。スイカ割りのスイカのように、頭が破裂していた。顎から上が消し去られていた。男はそのまま地面に倒れ込んだ。


「え?」


 と、青年は戸惑い声を上げた。


 状況が理解出来なかった。気持ち悪さの余り、青年は口に手を当てた。不愉快で気色悪い。このような物を上司が見せると思わなかった。どのように考えても、非常識過ぎた。上司は無言で青年を見下ろした。青年のことを最初から見ていなかった。


「続けて見なさい。それが新人の通過儀礼

だ」


 青年は縋るように上司を見たが、上司が表情を変えることはなかった。拳を強く握り締めながら、唇を噛んだ。画面に視線を移せば先程の出来事が嘘だったかのように、最初と同じ所に男が立っていた。男はまた拳銃を取り出すと頭を撃った。青年はループ再生かと思い、震える手で画面を確かめたが全て一本の動画がまだ再生されていた。青年は怯える目で上司を見た。


「何なんのですか、これは? 何故このようなことを見せるのですか?」


 非人道的で非常識でしかなかった。このような映像を見たいがために、大学を出て公務員になった訳ではなかった。もっと人々の笑顔のために頑張っていた。たとえ英雄のようにはなれないとしても、少しだけでも英雄のようになれば良かった。


「通過儀礼と言っただろ。……まぁ、良い。この男も能力者だ。憐れな狂った能力者だ。こういう奴もいることを忘れるな。忘れてはならない。英雄は輝かしい者達だけではない」


 と、上司は虚ろな目で吐き捨てた。


「何故自殺しようとしているのを止めないのですか? 何故このままなのですか?」


 青年は上司に噛むように反論した。上司は青年を見た。そして、口を開いた。


「自殺? この男は生き返っているだろ? 死なない者が死のうとしても、自殺にはならない。憐れだから。可哀想だから。正義のために助けよう、か? まだ若い」


 上司はそう言うと部屋から出て行った。一人取り残された青年は愚痴を零したが、すぐに洗面に急いだ。胃が空になるまで吐き続けたが、気分が良くなることはなかった。その上、昼も食べ損ねたのだった。




 一方、自分の席に戻った上司は、机に置かれていた真っ黒なコーヒーに口を付けた。エグ味と苦味を含んだ独特な好まない味が、喉を通り最後に腹から体を黒く染めていた。顔を歪めながら飲み切ると、上司は小さく息を零した。


「青い」


 上司から言わせば今の若者はどうも青かった。表舞台だけの目立っている英雄だけしか知らず、幼稚な子供のように英雄になろうとはしゃぐ。なれる訳がない英雄を夢見て、届くことのない背中を我武者羅に追いかける。


 夢が叶えられないと気付いた時に勝手に絶望し、勝手に世の中のせいにする者を何度も見てきた。人が本来持てないはずの力が、そんな無償で得られる訳がない。上司は実際にあの死にたがりな男と会って、話をした。あの青年のように、新人で何も社会のことを知らなかった時に。


 本当の現実というのを嫌ほど知らされた。だから、上司は通過儀礼を作った。ファンタジー世界のアニメのキャラクターのように英雄を見ている、子供の大人の目を覚ますために。


 英雄はとても社会のために奉仕し、貢献してくれている。子供の尊敬する人、なりたい職業ランキング一位に圧倒的な投票数で躍り出るだろう。英雄は今では人々を魅了するエンターテイナー。人々の暇を潰す娯楽。何よりもスリルと刺激と楽しさがある、新しい薬物。いつまでも大衆を魅了する劇物と言える。


 だが、それもそうであるはずだった。無表情のまま、上司は口角を上げた。何故なら、考えなくても当然の話だった。あれほどの暴力をある日突然使えるようになる人々が現れる、というのに誰もそれに怯えた。怯えないように仕向けられているから。全ては膨大な資金と政治力を費やした、国際英雄協会の仕業だった。彼らは非常にプロパガンダが上手かった。永遠の夢を人々に見せている。


 それは必要なことだった。でなければ英雄は恐怖の対象となる。神にも等しい力を持つ集団を、無力な人間が恐れない訳がない。正義のために尽くされるその力が、自分達に襲ってくる可能性もあるのだった。


 上司は何も評価をしようとしてる訳でも、批判するつもりもなかった。ただ人々の目を少しでも覚ますことにした。表世界が壊れた日には、何も残らないと思われたからだった。自分達は英雄ではない。公務員である。英雄の仕事は英雄に任せれば良い。自分達は一人間として、国民のために尽くす。それを忘れさせない必要があった。また、何の犠牲の上で立っているかを。


 あの防犯カメラの映像は、幽霊スポットと今は言われている場所で撮影した物だった。すぐにあそこで現れるという噂を聞き、数十年ぶりかに会った。向こうは当然上司のことを覚えていなかった。ただ新人の教育のために防犯カメラを付けたいと言えば、男は表情を変えずに承諾した。叶わない死への儀式は、見られても困る物ではないからだった。


 それほどまでに男の感覚は麻痺していた。上司はその時思ってしまった。やはり、今の世の中では男を変えることは出来ないのだった。


 上司は録画した映像を何度も見た。表情がいつまでも暗い、男が自殺を成功しようと失敗する。幽霊を見ようと遊びに来ては、野生動物の動きに悲鳴を上げる若者。花火を上げて音楽をかけながら、笑顔で楽しむ者。日中は不登校と思われる中学生、高校生がぽつんと一人で来る。日が暮れると暴走族が集合して、どこかに走っていく。同じ場所だというのに、誰もが他人の事情など知らない。その場所は世の中の縮図のようだった。

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