異世界なんて終わっちまえ!

@inori_

本文

 ──逃げろ!

 それが頭に浮かんできた瞬間、ようやく僕の体は地面を蹴って走り出した。振り返る余裕はない。追いつかれたら死ぬという確信があった。

「お前は、お前だけは……! 私が!」

 何を言っているのかは僕にはさっぱり分からなかったし聞いている余裕もない。それはどうでもよかった。

 僕はより一層力を込めて走った。

 声は、だんだんとハッキリと聞こえるようになっていた。つまり──追いついてきている。

 恐怖で震える足を必死に動かして前に進む。

 その時、視界が少しづつ明るくなっていることに気づいた。僕は希望を込めて前を見た。そこには柵があった。

 柵を越えればあとは村まで走るだけだ。村までの道はやや下り坂になっていることを考えれば縮まった距離を再び離すことはそう難しくない。村まで戻れれば安全は保証されるんだ。もう少し、もう少しだ。

 僕は最後の力を込めて走る。もつれそうになるのを何とか態勢を立て直して走る。止まれない。止まるわけにはいかない。

 ついに柵の前まで来た僕は、柵を飛び越えようと右足を上げた──

 僕の体が柵を越えることは無かった。

 急に全身の力が入らなくなる。 

「………な、んだ、これ」

 胸元を見ると、赤く染まったナイフの先端が顔を覗かせていた。

「これで、終わり」

 声は真後ろから聞こえた。

 ナイフが引き抜かれると同時に、僕は柵に体を引っかけてくの字のようにうつ伏せで倒れ込んだ。

 顔が思いっきり地面にぶつかるが、痛みは感じなかった。鼻からゆっくりと流れる血とは対照的に、胸から流れる血は留まることを知らず、服に赤黒い染みを作っていく。広がり続ける染みが死に近づいていることを実感させる。

「間に合わないかと思いましたが、無事殺せてよかったです」

 頭上からの一切の悪意を感じない言葉に、僕は思わず問いかけていた。

「な、ぜ……こんな、こと、を?」

 声は呆れるかのようにため息をついた。

その質問ですか。なぜって、お前は生きていてはいけない存在だからです。だから殺す。それに私が殺さなくてもお前はどの道死ぬ。それはもう決まっているんです」

 何か言っているが耳に入ってこない。

 そもそも僕は話を聞く気がなかった。聞いてから気付いたが、どうせ死ぬのに聞いてなんの意味があるのだろう。

「結局誰がお前を殺すか、それだけの違いで皆しかない。私たちはお前のことを殺すために存在しているようなものですから」

頭上から聞こえる声はまだ何か言っていたが僕は他のことを考えた。あまりに呑気で馬鹿げたことを。

 それにしても上半分は柵の外側で、下半分は柵の内側だから、これじゃ、まるでシーソー、だ……。

 ほどなくして、僕の意識は消えていった。


「ちょ……だい……ぶ? い……てる?」

 やけに近くから聞こえる声にゆっくりと目を開けると、眼前に女の子の顔があった。

「ねぇ、ホントにだいじょ……あ、良かった、やっと目開いた」

その人は安心した様子で顔を離した。

「えっと……?」

とりあえず体を起こしてから、改めてその人を観察してみる。

短くまとめられた薄赤色の髪に、どこか幼さを感じるぱっちりとした目元。綺麗と言うよりも可愛いと言う表現が似合うタイプだ。うん、やっぱ知らないわこんな人。

「いやーそれにしてもびっくりした」

そんな僕の心情を知る由もないその人は、何かざるのようなものを抱えると立ち上がった。偶然倒れているところを助けてくれた、とかそういう感じだろうか。それにしても──。

辺りを見渡す。

「ここは、どこだ…?」

視界いっぱいに広がる緑色。点々と並ぶ木と草原。見覚えのない景色だった。

「まあでも、気をつけてよねー」

立ち上がったその子はそう言って僕の方を振り返った。薄赤色の髪が揺れる。

「気をつける?」

さっきから全く会話が成立していない気がするのは僕だけだろうか。

「にしても凄いよね。あんなことあるんだね」

 そんな僕の疑問を気にする様子もなく目の前の彼女は話を続ける。

「あんなこと? いや、そもそもあなたは僕のことを知って──!」

 突如、刺すような痛みが頭の中に走った。思わず顔を歪めるほどの痛みだった。

「大丈夫!?」

 駆け寄ってくる。透き通るような琥珀色の瞳で不安そうに僕を見た。

──ああ、そうか。

 その時になって、僕はようやく気付いた。記憶喪失とやらになってしまったのかもしれない、と。


 ◇

 彼女に経緯を聞いてみたところ、二人で歩いていたところにどうしてか超鋭利な石が超丁度いい角度で頭頂部に当たってちょっとの間意識を失っていたらしい。

 ……普通に考えてそんなチェケラな事ある? とは思ったが、否定する気にはならなかった。深層心理とか言うのか分からないが、それが本当だと身体が覚えているような、そんな不思議な感覚だった。

「──じゃあそろそろ行こっかな」

 一通り話し終え、その人は立ち上がった。何かしている途中だったのだろう。そう言えば彼女の手にはざるが抱えられていたんだった。

「うん、ありがとう。僕はもう少しここにいるよ」

 記憶の回復には安静も必要だ。だからそう言ったのだが──どういうわけか彼女は驚いていた。

「は? 何言ってるの?」

「え?」

 驚く意味がさっぱり分からなかった。

「……サボるつもりなの?」

 そう言って恨めしそうに睨む。

 様子から察するに、僕たちはその仕事をしていたところだったということだろう。

「目の前に記憶喪失の人がいたらさ、安静にしておくべきだって思わない?」

「思わない☆」

 彼女は即答してニッコリ笑った。

「思わないかー……」

 あーなるほど、こいつやべえかも。

「確認なんだけど、記憶喪失って分かる?」

「うん分かるでも思わない☆」

「めっちゃ早口で言うじゃん……」

ブラック企業大賞受賞社の方?

「いいから、ほら早く!」

「ええ……」

 彼女はどうしても僕を連行するつもりらしい。諦めて立ち上がる。まあでも、考え方によってはその方がいいのかもしれない。記憶の回復には会話が有効だと聞いたことがある。それが仲の良い相手であれば尚更。

 僕は──少なくとも今の自分は、誰にでもタメ口で話すようなタイプではない。それでも彼女に対しては自然とタメ口で話しているし、その事になんの違和感もない。まあ要するに、僕にとってこの人はそれなりに仲のいい相手だということだ。

「で、さっきまで何の話してたんだっけ?」

「んー? なんだったっけなー。えっとーたしか──」

 ふと違和感を覚える。

──この人、おかしくないか。いや、普通すぎないか。何と言うか、もうちょっと動揺してもいいと思う。 

「──で、なんか今朝この村の入口で倒れてた女の子がいたってAliceアリスが言ってたんだー」

 ……まずい、ほとんど聞いていなかった。

「へーそうなんだー。一体どんな人なんだろうねーその人は」

「あ!」

 立ち止まる。ちょっと適当だったか──。

「すーぐそうやって女の子に興味示すんだから! このたらしさんめー! 殴っちゃうよ?」

「……ん?」

 どうやら適当に答えたと思われたわけではないらしい。が、このままだと殴られるらしい。何年前のヒロインかな?

「あーいやーそのーそういう意味じゃなくて。ほら! だってその、倒れてたってなかなかある事じゃないから」

 何とかその場しのぎでやり過ごす。と言うか、実際人が倒れてたって割とやばいことな気がする。

「なんだ、そういうことか」

 彼女は回していた腕をようやく止めた。実はさっきから僕が焦っていたのはこれが理由だった。

「じゃあもし男の人だったらどうだった?」

「んーそうだなー」

 大袈裟に腕を組んで目を閉じる。どうでもいいことすぎて実際には全く考えていない。

「まあ興味ないかなー」

「ほらそうじゃん! 結局そういうことなんでしょ!」

「冗談だって冗談」

「ほんとかなー?」

 こうして話せば話すほど、僕とMashaマーシャは長い付き合いなのだと確信できる。こんなクソ寒すぎるやり取りは、仲が良くないとできないはずだ。いや、仲が良くてもできないか? それよりも、今──。

「マーシャ……?」

 そう口にした瞬間、まるでそれが記憶を取り戻す呪文だったかのように僕の記憶は蘇った。うねる洪水のように脳内に記憶が流れ込んでくる。


 僕は今から約一年前、俗に言う、異世界転移によってこの村にやってきた。

 しかし、この世界にはお約束の魔法もなければ、親の顔より見た俺TUEEEEなチートもなかった。どこぞの格闘漫画なら『オイオイオイ』『死ぬわアイツ』とか言われてそうなぐらいに残念な世界だった。

 そんな、炭酸の抜けたコーラみたいな異世界にあるこの村で、数少ない同年代の友人の一人が、今目の前にいるマーシャというBBSな女の子だ。BBSとは、バカで暴力的でサイコパスなガールのことを指す(適当に考えた)。

 今になって思うと、マーシャなら記憶喪失になった人を気にかけなくてもおかしくない。むしろそれが正常とも言える。

 ──それにしてもこんな、まるで安っぽい小説の世界観説明みたいな体験をすることになるとは思わなかった。ま、何はともあれ思い出せてよかったよかった。めでたしでめたし。

 ~完~


「どうしたの急にスッキリした顔して。あ、イった? もしくは逝った?」

 隣に立つ人物──マーシャはニヤッとしながら僕を見た。

 そんなドヤ顔されてもそのボケ絶対中学生ぐらいまでに賞味期限切れしてるやつだし、中学生でもそれ言ってたやつクソ寒い目で見られてたから。

「何その目? もしかして私の才能に嫉妬してる?」

 僕は諦めと呆れの意味を込めて溜め息をついた。

「いや、単純にだんだん思い出してきたってだけ」

「え!?」

 マーシャは驚いた様子で大声を上げた。

「まだ忘れてたの!? 一旦殴ってみる?」

「スタバ行く? ぐらいのノリで殴ろうとしてくるじゃん」

 どうやら記憶喪失だったことを忘れられていたらしい。殴った方がいいの自分では?

「で、今日は何しにこっちの方に行ってるんだっけ?」

 マーシャは冷ややかな目で僕を見た。

「え、なに?」

「それも覚えてないの? いつも通り使えそうな薬草とか取りに来てるんじゃん。もう歳なの? 老いた害なの? 死ぬの?」

 とりあえず頭にチョップをくらわせる。

「ぐへっ」

 痛そうに頭を抑える。もちろん痛いわけは無い。こういう部分がマーシャらしい。

「あ、置いてかないでよー」


 作業を終えた僕らは帰路に着いた。

 僕は収穫してきた薬草が乗ったざるを両手で抱えるようにして持っている。マーシャは何も持っていない。

『記憶なくなってた罰として、これぐらい持ってよね』

 というのはどこかのバカの言葉だ。まさか記憶をなくすと罰があるとは思わなかった。

 村の入口につく。いつものようにマーシャが門を両手で押し開けるのを横で眺めながら、ふと思った疑問を口にしてみる。

「これ門作ってる意味ある?」

「さあ? まあ今更じゃない?」

「確かにそうだ」

 この村の周りは柵で囲まれており、何箇所かにある門からしか出入りが出来ない仕組みになっている。が、所詮その柵は乗り越えられないような高さでもない上に木製だし、門だってただ押すだけで開けられる。

 ハッキリ言って防衛としての機能はほとんど期待できない。だがこれで問題がないのがこの村である。そもそもこの地域──merhaマーハ地方は、昔からこんな感じらしい。

 門が軋むような音を立てて開いていく。

 記憶を失っていたせいか、まるで初めてこの村に入った時のような気分になり、どこかワクワクしながら僕は村全体を眺めた。

 点々と並ぶ家々と、大きな二階建ての建物が一つ。それから井戸、畑、倉庫──

「変わるわけもない、か……」

 そこにあるのはいつも通りの景色だった。変わるわけもない。そんなことは分かりきっていた。

 変わらない風景、変わらない日常。ここでの日々は、まるで時間が止まっているのかと思うほどに緩やかだ。魔法の無い異世界と言うのはこれほどまでに面白みのないものなのかと痛感する。

 と言っても不満があるわけでは無い。生活はそれなりに楽しいし、何よりラクだ。ただ贅沢を言うなら、物足りなさのようなものを感じる時があるというだけで。

「いいのか悪いのか……」

 独り呟きながら、大きな建物へと向かう。ドアを開けて中に入ると、そのまま二階に上がっていく。何度もやってきたことだ。

 建物の二階は、ずらーっと十数個の部屋が並んでおり、僕もその部屋の一つに住ませてもらっている。部屋には、テーブルとベッドが一つずつあるだけで、この二階はイメージとしては、ホテルよりは寮に近い。それでも、ここでの生活を気に入ってこの建物で暮らしている村の人は結構多く、実はマーシャもここで暮らしている。と言ってもマーシャは気に入っているからここに居る訳では無いけど。

 ちなみにそのマーシャはと言うと、門を開けるや否や、僕の手からかごを取り上げると、

『納品ついでにアリスに会いに行くから!』と言って消えた。

 二階はこんな感じだが、一階はまた様子が違う。建物の一階には、村長の部屋と食事をする場所、風呂場といったものがある。なぜ一階に村長の部屋があるのかと言うと、この建物が元々客人用の部屋兼村長の家だったからだ。まあそれもかなり昔のことらしい。


 階段を上がり、一番奥にある部屋のドアを開ける。ここが僕の部屋だ。

 ベッドで仰向けになりながらさっきのマーシャの言葉を思い浮かべる。

『村で一人だけの男なんだから頑張ってよ?』

 そう言われるまで、僕はそのことを忘れていた。まだ僕には欠けている記憶があるのかもしれない。

「一人だけ、ね」

 俗に言うハーレム。喜ぶのが普通の反応だ。

 僕はため息をついた。これまでの日々を振り返ると、ため息が出るのも無理のないことだった。

 テンプレ潰しのこの散々な異世界に残されている唯一の希望でありテンプレ、ハーレム展開。でもこの村においてその常識は通用しない。なぜならマーシャ含め、ここには癖がある人が多いと言うか、ボケ全振りというか、何か変な人が多いからだ。ハーレムというのはあくまで可愛いヒロインに囲まれてキャッキャウフフするものであって、奇人変人に囲まれるのはただの百鬼夜行でしかない。もっとも、それだけでは無いけど。

「──む!」

 色々残念な現実を思い出したせいか、くしゃみが出そうになる。僕はスタンバイモードに入る準備をした。

 説明しておこう。読み飛ばす事を推奨する。

 スタンバイモードとは言わずもがな、体を起こし、ティッシュを片手にいつでも来いという気概(ここ大事)で最大時速320kmをも超える豪速球をティッシュというキャッチャーミットに収める準備をすることである。気持ち作りも含め、これらが完了してはじめてスタンバイモード完了と呼べるのだ。

 ちなみにくしゃみをティッシュに受け止めることを、豪速球をミットに収めるキャッチャーとして考えるか、あるいは打ち返すバッターとして考えるかの争いは紀元前から存在しており、人類が戦争を始めたきっかけもこれだ。エビデンスはコンセンサスでアグリーでアライアンスでオールライト! ってネットに書いていたから絶対に本当の事だ。

 論拠が足りないと思った人にはここで残念なお知らせだ。これが本当だと、あのディベートという単語が大好きな三浦みつうらくんも言っていた。三浦くんは、授業中も、食事中も、休み時間も、数学のテストで赤点をとった時も、国語のテストで赤点を取った時も、化学も歴史も……その他全ての科目で赤点を取っても、いつもディベートと言っていた。そんな彼が言うことだ。まず間違いない。

 

 スタンバイモードが完了し、閉じていた目を開く。

 気合い十分、準備万端、臥薪嘗胆、千差万別、焼肉定食、ついにその瞬間が──

 その時、どこからか現れた羽虫がズボンの中に侵入した。

「な!?」

 追い払おうとズボンの中を必死に探るも、視覚という情報がない上に、いるのかいないのかも分からないぐらいに小さな虫だ。なかなか捕まらない。

 僕のくしゃみは、もうすぐそこまできていた。

 格闘すること数秒、羽虫を追い出すと同時に鼻から豪速球が放たれる。

「ふぅ、危ないところだった」

 スタンバイモードのおかげでなんとかキャッチャーミットティッシュに受け止めることに成功する。ちなみに僕はキャッチャー派だ。

 その瞬間、ガチャという音と共にドアが開いた。

「ほれ、ここが今日からあんたの部屋だ」

 入ってきたのは、この村の長であるCavezaカベッサさんだった。カベッサさんはマーシャの祖母にあたる人物で、マーシャはそれでここに住んでいた。

 そのカベッサさんはかなりの男嫌いということもあり、初めはあまり歓迎されていなかったが、なんだかんだあって、仕事をするという条件でここに住むことを許してくれた。悪い人では無いけど、良い人とも言い難い。それが僕のカベッサさんに対する印象だった。

「ノックぐらいしてくださいよ、カベッサさん」

「何言ってんだいあんたは。ノックもしたし、だいたいこんなボロい建物なんだから誰か来てるのは足音でわかるだろ?」

 言われて気付く。確かにそうだ。どうやら自分で思っていたよりも集中していたらしい。

「ちょっと、気が付きませんでした」

「何をそんなに集中することがあるのやら──」

 言いながら僕の方を見たカベッサさんの表情が固まる。それから一秒も経たずして、表情筋が引退してるのかってぐらいにはいつも無表情なカベッサさんの眉がピクリとつり上がった。

 こんなにカベッサさんの表情が変わるのも珍しい。何かあったのだろうか。

「だからノックにも反応がなかったわけかい……あんたこんな昼下がりによくもまあ……」

 カベッサさんの目と声色から軽蔑の意思を感じ取った僕は、自分を見た。

 右手に持った、数枚まとまったティッシュには粘性のある白い液体鼻水。左手は薄い布の中。

 自分が何だかえげつない誤解を受けている可能性に気付く。

「あ……」

 空間を無が走る。

 僕とカベッサさんはほぼ同時に開口した。

「いやいやいやいや!」

「あーわかったわかった」

「これはちょうどくしゃみが出て!」

「そうかいそうかい。つまりあんたはそんなやつなんだね」

「エー〇ール!? じゃなくて、つまりこれは鼻水なわけでアレがアレで……えーっと、わかりますよね?!」

「これは考え直した方がいいのか……」

 カベッサさんはやれやれと頭を抑えると、僕を無視してドアの後ろ──廊下の方を向きながら言った。

「これ以上待たせるわけにも行かないし、とりあえず入りな」

「入りな? え、いったいどういう意味──」

「ど、どうも、です」

 部屋に入ってきた少女は、ぺこりと頭を下げて俯いた。僕はその人の、言いようのない美しさに目を奪わていた。

 色白い肌に、背中まで伸びた透明感のある銀髪。下を向いていてもどこか気品溢れるその姿は、どこぞの国の姫だと言われても納得してしまいそうだと思った。十歳、いや十二、三ぐらいだろうか。

「──で何でそんな人がここに?」

 そう聞くとカベッサさんは呆れたように溜め息をついた。

「仕方ないねえ、アンタは。愚かだよ全く。愚か者だ。ほんとに脳内どうなってんだい」

「これこっちのせいなことあります?」

「いっぺん死んだらいいのに」

「僕専属のアンチ?」

 一通り罵倒して満足したのか、カベッサさんはようやく説明し始めた。こんな老人にはなりたくないと僕は思った。

「紹介しておく。この子はEmilyエミリーだ。今日からこの部屋で生活する……つもりだったんだけど──」

 カベッサさんの眼差しが痛い。 何でこんな面倒なことになったんだろう。

「僕はただくしゃみをしただけなのに……ティッシュを捨て損ねただけでこんな面倒なことになるんだったら、そりゃスマホ落としたら映画にもなるわけだ。…………は?」

 ……僕は何を言ってるんだ? 

 自分で言っていてよく分からなくなってきた。これがゲシュタルト崩壊か。多分違うけどそういうことにしておけば許されるみたいなところあるしそれでいい。

 よし。カベッサさんにあとは託そう。村長だし。だって村長だもん。どんな状況にも柔軟に対応ができなきゃ村長なんてやってられるわけないから。

 救いを求め、見つめた先では、今にも『は?』と言わんばかりの冷たい表情をした老人がこちらを見ていた。

「は?」

 実際に言っていた。

 もうこの空気をどうにかすることはできないのか? 助けはないのか?……そうだ。ここには可愛らしい銀髪の少女がいたんだった。きっとその可愛さでなんかいい感じに──

「は?」

「……え?」

 思いもよらぬリアクションに一瞬思考が停止する。

「あ! いえ! 何かそういう流れなのかなって!」

 なんということだ。この少女、僕より笑いのセンスがあるらしい。メスガキには負けてなんぼと言うのは日本でも有名なことわざだが、さすがにギャグ線で負けるのは話が違う。

「このメスガキが……! 」

 全力で睨みつける。これがメスガキに負けた時の礼儀だと教わった。

「え、ご、ごめんなさい?」

「うじうじぐちゃぐちゃ茶番にこの子を付き合わせるのは勝手だけど、そろそろいいかい?」

 横から見ていたカベッサさんが耐えかねたように言った。そういえばまだ説明が終わっていなかった。

「結局どういうことなんですか」

「はあ……。もう一回だけ言うけど、今日からこの部屋で二人で生活してもらう。以上だ」

「いやだからその経緯とかを──っていないし……」

 気が付くと、このばあさんはあのばあさんになっていた。ジャンプのスポーツ漫画ぐらい消えるのが早かった。

「あ、あの……」

 声のした方に目を向けると、そこには気まずそうにモジモジしている少女がいた。

「ご、ご迷惑をおかけします。エミリーといいます。よろしく、お願いします」

 少女──もといエミリーさんはそう言って申し訳なさそうに頭を下げた。

 よろしくお願いします、と適当に返すと跳ねるようにもう一度ペコリとお辞儀をしてくる。

 カベッサさんがいなくなったせいか、二人きりになったせいか。理由はともかくどうやら緊張しているらしい。僕はそんなエミリーさんに対して、ハムスターとかモルモットとかの、小動物を見ているような気分になった。それよりも──

「エミリーさんはどうしてこの部屋で生活することに?」

 エミリーさんは少しビクッとしてから答えた。

「えっと、実は私この村の前で倒れていたらしくて。村長さんが、しばらくここで暮らしていいって言ってくださって、それで」

 僕はその説明を聞きながら、マーシャとの会話を思い出していた。

『で、なんか今朝この村の入口で倒れてた女の子がいたって』

 あれはエミリーさんの事だったのか。

「なるほど──」

 僕はそう言いながら窓の方に目を向けた。

「あ、そう言えば用があるんだった。少し出てきますね」

 適当なことを言って僕は部屋を出た。

 あれ以上話すことはない。無言で二人であの部屋にいるよりは外にいる方がマシだと思った。もちろんそれだけが理由では無い。半分──の1.8倍ぐらいはそれが理由だけど。

 ──さて。ついでにあの人の所にでも行くか。正直聞きたいことが死ぬほどある。時間帯からして今はあの場所にいるはずだ。

 階段を降りて廊下を進む。その先にある調理場を覗くと、目的の人物はそこにいた。

 目的の人物──カベッサさんは手際よくキャベツを切っていた。トントントントンという子気味よい音が響く。

 隣の大きな鍋には火がついており、蓋の隙間から湯気が上がっていた。今日の夕食だろう。それはさておきだ。

「どうして僕の部屋なんですか? 確かにエミリーさんの事情は分かりましたけど、別に他の部屋でも問題ないはずです。よりによって僕の部屋にする意味が分かりません」

 カベッサさんは淡々とキャベツを切り続けながら、口だけを動かして答えた。

「そりゃ空いている、と言うより人が住んでいない部屋はあるさ」

「じゃあどうしてですか」

「どれも物置部屋になってるんだよ。つまり部屋として使えない。それと、どうして他の人の部屋じゃなくてあんたの部屋なのかってのには深い理由はない。前にも言った通り、構造上あんたの部屋が他の子の部屋より広く出来てるから。それだけさ」

「なるほど……」

 そういえば僕の部屋は角部屋だからちょっとだけ他の人より部屋が広いんだったか。

 それにしても──どんだけ切ってるの?

 カベッサさんは既に細かく切り刻まれたキャベツを更に切っていた。千切りキャベツはよく聞くがあれはまるで億切りキャベツだ。昨今は色んなものに親を殺される世の中だが、キャベツに親を殺された人がいるとは思わなかった。

「まだ質問があるかい?」

 そう聞かれて我に返る。キャベツに気を取られて目的を忘れかけるところだった。

 僕はもう一つ質問があった。

「じゃあ僕はどこで寝ればいいんですか?」

「はあ?」

 カベッサさんは手を止めて、心底わけが分からないという顔で僕を見た。そのぽっかり開いた口にアンパンでも投げ込んでやろうか。

 わけが分からないのはこっちだし、そんな絶妙にイラッとする表情で僕を見られても困る。引退したはずの表情筋はどうした。

 カベッサさんはさも当然のように言った。

「そりゃあんたもあの部屋で寝るに決まってるじゃないか。 他に使える部屋は無いって今言ったばっかだろ?」

「そう、なんですか?」

 僕は一瞬、カベッサさんの言っていることの意味を理解できず疑問形で応答していた。

 言われてみればそれが当然ではあった。カベッサさんの言うように部屋は空いていない以上、それしか選択肢はない。それでも僕は聞いていた。

「ちなみにそうしなかった場合ってどうなります?」

 カベッサさんは、んーと少しだけ考えてから言った。

「そりゃあさっきも言ったけど、まあ物置で寝ることになるだろうね。埃まみれの」

 ……埃まみれ?

「古いアルバムの1ページ?」

「……」

「俺たちはまだちっぽけで?」

「…………」

「この手の平の中には何も無いけど?」

「うるさいね! 倉庫に住みたいのかいアンタは! それ以上喋るならこのキャベツみたいに千切りにするよ!」

 カベッサさんは我慢の限界とでも言うようにキャベツを切っていた包丁を勢いよく僕の方に向けてきた。鋭い先端がギラリと光る。

「そんな……! そ、それってつまり……キャベツ太郎……ってコト?!」

「……はあ。ったくこのバカは」

 カベッサさんは呆れた様子でため息をつくと、包丁を向けるのをやめた。せっかく小さくて可愛い生き物みたいな声で言ったのに無視なんてひどい。

「──で、どうすんだい?」

 その言葉に促されるように、改めて考えてみることにする。倉庫に住むのか、同棲をするのか。と言っても結論は考える前からほとんど決まっていることだ。なぜなら倉庫は、とてもじゃないけど人が住むような場所ではなかったはずだからだ。

 ……まあ仕方ない、か。僕の部屋は今日で終わりらしい。

「向こうがそれで良ければそうします。けどカベッサさんはいいんですか? さっきのこともあるのに」

 さっきの様子だと未だに酷い誤解をしているのは明白だ。最悪僕が手を出すと思っている可能性すらある。──と思ったが返答は意外なものだった。

「まだ気にしてたのかい?」

「でもさっき『こんなことがあったあとじゃね〜』とか言ってましたよね」

「それあたしの真似だとしたらぶん殴ろうと思うんだけど、それはさておき──」

 どうやら似てなかったらしい。もっとひねくれてそうな喋り方にするべきだったか。

「そもそもあんたがくしゃみだって言うからあたしは何にも疑ってなかったよ」

 平然とそう言った。僕にはそうは思えなかった。

「疑ってなかったって……最初からですか?」

「ああそうさ」

 当然、とでも言うように頷いてみせる。

「でもそれにしてはあの茶番長かったような気がす──」

「あ?」

 睨まれた。これが圧迫面接か。

「とにかく、用が済んだらさっさと戻った戻った。あんたと話してると無駄に時間が過ぎていくんだよ。あたしゃ忙しいってのに」

 そう言ってまたキャベツを切り始めた。

「……それ言うほど忙しいか?」


 僕は自分とエミリーさんの部屋になってしまったあの場所に戻る事にした。エミリーさんに今の話を伝える必要もあるだろう。

 ドアを開けて部屋に入る。

「えっと……?」

 エミリーさんは変わらずそこにいた。それどころかボクが部屋を出る前と立っている場所が一ミリも変化していなかった。

「それどういう方向性のボケ?」

 エミリーさんはキョトンと首を傾げ、『また俺なんかやっちゃいました?』みたいな顔をした。どうやらなろう系主人公だったらしい。これから無双していくのかは気になるところだが、今はそれよりも先に聞いておくべきことがある。

「僕もこの部屋で生活することについては大丈夫ですか?」

「……え?」

 エミリーさんから疑問の声が上がる。どうやらエミリーさんも知らなかったらしい。

 どこぞの村長の適当さに呆れながら僕は言った。

「さっきカベッサさんも言ってましたけど同棲するということらしいです。まあいやだったら僕は出ていきますから正直に──」

「あ、いえ、そういうことではなくて」

 僕にはその言葉の意味が分からなかった。この話を知っていて疑問に思うことがあるようには思えなかった。

「 私は明谷さんの部屋を奪うような事をしているので、そんなことを言うなんておこがましいにも程があるんです」

「えーっと……?」

 イマイチ話が見えてこない。

 どういうことか考えているとエミリーさんは続けた。

「だからそもそもそんなことを聞かれると思ってなかったと言うか、むしろ、明谷さんはいいんですか? 私なんかと同棲することを許してくれますか?」

「え?」

 僕は言葉を失っていた。まさかそんなことを言われるとは欠片も思っていなかった。

 僕は正直、なんで僕の部屋が僕と僕以外の人の部屋にならないといけないのかとずっと思っていた。それに、どうせこの少女も自分が人の部屋に住み着くことを当たり前だと考えているんんだろうと思っていた。

 でもそれは違っていた。彼女はちゃんと分かっていた。ちゃんと考えていた。僕の想像よりも、遥かに、そして誠実に。

 僕はエミリーさんの方を向いた。

「僕なんかでよければ、これからよろしくお願いします」

 表面上仕方なくではなく、本心からの言葉だった。この人となら同棲生活を送ることに何の不満も、何の懸念も無かった。

 エミリーさんの顔がぱあっと明るくなるのを見て僕は思った。僕よりも歳下とは思えないほどに大人っぽいところがあるかと思えば、こうして年相応に純粋な感情表現をすることもあるエミリーさんは、とても不思議な存在だと。

 ともあれこれで正式に双方合意の元ということだ。出会って一日目で同棲──そんな経験を自分の人生ですることになるとは思ってもみなかった。

 同棲。その言葉が、まるで暗い部屋にランプの光が灯るように、いつか読んだ、わずか数時間で発売中止された幻の雑誌『Another Horizontal Organization』──通称『AHO』のお便りコーナーに書かれていたことを思い出させた。

『Q.同棲は、結婚か食べ物かで言うとどちらですか?

 A.非常に僅差ですが、結婚です。』

 同棲が僅差で結婚と言うなら、出会って一日目で同棲は結婚以外の何物でもない。

 それに今のやり取り自体、改めて考えてみると結婚する男女のやり取りみたいだった。むしろそれにしか思えない。 つまり──

「婚約成立か!」

「急に大声……」

 僕が見るとエミリーさん、では無くて彼女は絶妙に微妙な表情でこちらを見つめ返していた。表情を例えるなら困惑というのが一番近い。おそらく照れているのだろう。

「とりあえず式はいつにします?」

 笑顔で聞いてみる。将来のことは笑って話した方がいいに決まっている。

「なんで笑ってるんだろ……こわい……」

 一方、彼女、では無くて花嫁は何か呟きながら怯えていた。どうやら照れているらしい。 ここは年上としてリードしてあげるべきか。

「とりあえずエミリーさんは今日からそこのベッドを使ってください。僕は床で寝るので」

「えっと、あの、よく分かりませんけどそれは絶対ダメです! 部屋主を床で寝させるわけにはいきません! 私が床で寝ますから明谷さんがベッドを使ってください!」

「くっ……なかなかやりますね」

 さすが新婦。花婿に床で眠らせるなんてことはさせないつもりらしい。だがそれは逆も然り。花嫁に床で眠らせるなんて新郎としてあるまじき行為。

 散々愛を誓っておいて離婚する大人は多いが、その理由がようやく分かった。この議論のせいだったらしい。

「でもダメです。エミリーさんのようなロリにそんなことをさせるわけには絶対にいかないんです」

 ロリをペロペロする者たち──通称、ロリペロニスト。世の中には厄介な人種は多数存在するが、その中の一つが彼らだ。ロリコンというだけでも厄介がられる昨今で、その上を行く、ロリコンという枠にはもはや収まりきらなくなった者たちの成れの果て。それこそがロリペロニストである。そこら辺のやれ女性軽視だとかやれ男女差別だとか言っている集団とは比べ物にならない。彼らが本気になれば全人類をロリコンにすることはそう難しくは無いだろう。

「でも……!」

 正直なところ、床で寝るのかベッドで寝るのかという議論に、僕はそれほど興味は無い。重要なのはエミリーさんの意見を通さないことだ。

 エミリーさんが、相手のことを考えられる人だというのはここまでのやり取りで十分に伝わってきた。つまり気を使える人だ。過剰な程に。それは間違いなく良いことだ。でも同時に僕と彼女の関係においては望ましくないことでもある。

 その対策として、無理にでもそうさせない。力技で気を使わせない。そうやって関係を円満に保つ。それこそが──夫だ。

「でもじゃないです。それができないなら同棲は無しです」

「そ、そんな〜……」

 ……あれ? ていうか名前教えたっけ?

 そんな疑問ごと吹き飛ばすかのような勢いでドアがバカ!(効果音)と開けられる。僕はドアの方を見る代わりにため息をついた。どうせどこかのバカな子だというのは見るまでもなく分かった。

「ちょっと太郎! ばあばから聞いたけどどういうつもりなの! 女の子連れ込んで同じ部屋で寝るだなんて!」

 なんだか面倒な誤解を受けているような気がしたが、今マーシャの相手をするのは面倒だ。──よし。

「エミリーさん、無視しましょう」

「え、でも……」

「無視? え、今無視って言った? なんで? 私なんかした?」

 困惑した様子で僕とマーシャを交互に見るエミリーさん。この人にそういうのも厳しいか。

「……分かった。説明するよ」

 僕は仕方なくマーシャに話すことにした。そもそもマーシャが何を聞きに来たのかが分からないぐらいにはシンプルな話だ。

「で、そもそもマーシャはカベッサさんから何て聞いたの?」

「え、私が聞いたのは今日から太郎が女の子と同棲することにしたからって」

 僕はため息をついた。

「それでどうして僕が女の子を連れ込んでるって話になった?」

「いや、だってそうなのかなって。な、なんでそんな目で見るの!」

 僕が哀れみの目をしていることに気づいたらしい。哀れみと言うよりはもはや諦めに近い。何をどうしたらそういう変換がされるのだろうか。

「そもそも前提として僕たちだって半ば強制的にこうなってるんだ。ですよね、エミリーさん」

「え? えっと、そうですね」

 話を振られると思っていなかったのか少し驚いてからエミリーさんは頷いた。

「え、そうなの?」

 ポカンとした顔でマーシャが聞いてくる。

「だってそもそも今日突然カベッサさんが決めたことだし」

「そういえばそんなこと言ってたような……」

 ……忘れることあるかそれ?

 内心呆れながらも説明を続ける。

「それで僕の部屋が他の部屋よりは広いから消去法でここになった」

「そうなんだ。分かった。分かったけど……何かなあー」

 説明を終えてもマーシャはなぜか不満げな様子だった。

「そんな顔してもこればっかりは仕方ないよ。僕だってまだ戸惑っている部分はあるんだしさ」

「うーん、そうだけどさ〜……」

「こっちは今後の結婚生活の話で忙しいと言うのに……」

「「え?」」

 僕の言葉の直後、僕除く二人は全く同時に全く同じ反応をしていた。

「どどど、どういうこと?!」

 そのまま僕に詰め寄ってくるマーシャ。

「どういうことも何もそのまんまの意味だけど。ね? エミリーさん」

「え? なになになに?! 相手エミリーちゃんなの!?」

 今度はエミリーさんの方に詰め寄っていくマーシャ。

「合意って? 嘘だよね? ね!?」

「え、えっと、えっとえとととと」

 そのまま両手で肩を前後にグワングワン(語彙力)され、マイワイフは目を回している。可哀想な事に『え』と『と』しか言えなくなったらしい。

「あ、ごめん!」

 ようやくマーシャがそれに気付いて手を離す。

「あ、いえ……大丈夫、です」

 まだ余韻が残っているのかフラフラとしながらエミリーさんは答えた。

「それで、えっと、多分なんですけど……」

 エミリーさんは戸惑っている様子だった。その状態ですら様になるのはさすがワイマイフと言わざるを得ない。

「マーシャさんの思っているのとは違います。えっと、だから──婚約はしてない、です」

  僕はエミリーさんの言った言葉の意味が理解できなかった。

 聞き間違えか? 出会って一日目で同棲は結婚だ。それはそうだ。でも今エミリーさんは『婚約はしてない』って言った。……どういうことだ? 知識を総動員させろ。直線の方程式はy=ax+bよって織田信長=明智光秀が成立するつまりいい国つくろう鎌倉幕府は嘘だと仮定できるのでこれがn=tの場合について成立することを仮定してn=t+1の場合も証明すれば……そうか。

 つまり──婚約は成立していない。ただ同棲しているだけだ。

「弄ばれたのか。純粋な心を……」

 立つ気力もなくなり、膝から崩れ落ちた。

「え待って何怖い。助けて」

「私もどういうことか……私の、せい……?」

 なぜこんなことになった。僕はいったいどこで間違えた。僕は──

「あーーー! もうわけわかんない! こんなとこにいたら頭おかしくなる!」

 クシャクシャと頭を搔くマーシャ。

「とにかく──!」

 何か言いながらマーシャが部屋から出て行くのを、呆然と見送った。


 同棲と婚約が別の話だというのは冷静になれば当然のことだった。はじめての同棲のせいで変なスイッチが入ってしまっていたのかもしれない。

「あ、あの…………」

 そんなことを考えていると、エミリーさんの声がして僕はそちらを向いた。

「どうかしましたか?」

 気まずいのか、エミリーさんは何となくソワソワした様子だった。

「その、メンタル……強いですね。なんて言うか、恥ずかしくは無いんですか?」

「……ん?」

 一瞬その言葉の意味を考える。結論はすぐに出た。

「煽ってる?」

「いえいえいえいえ!」

 エミリーさんはこれでもかというぐらい両手を振って違うことをアピールしてきた。煽っていないらしい。でもそれならなぜそんなことを聞いてきたのだろう。

「その、こんな間違いしちゃったら私なら恥ずかしくて一日はベッドから出られないし、ましてや本人と話すなんて暫くはできないんですけど、その……」

 ピキりそうになるのを抑えながら可能な限り笑顔で聞いてみる。

「煽ってるよね?」 

「いえ! 私には行動力が無いから、そういう……行動力、というか活発さ、みたいなのが見てて凄いなと思って。私と違って」

 エミリーさんはそう言うと力なく笑った。

 どうやら褒められていたらしい。修飾語がデカすぎる気はしたが褒められたから考えないことにした。

「エミリーさんにはエミリーさんの良さがあると思いますけどね。行動力って言ってもマーシャみたいにただ動き回ればいいわけじゃないですから」

 何となくしゅんとした様子に見えたのでありふれすぎている言葉をかけてみたが、意外と本人にとっては嬉しかったらしい。

「そう、ですかね? ありがとうございます」

 地味に初めて笑顔を見たな、なんて考えつつ、ふと思った。

「マーシャと言えば──」

 さっき出ていく時何か言っていた。まあどうせ大したことは言ってないだろうけど。

「さっきマーシャが言っていたこと、エミリーさんは聞いてました?」

「え、あ、マーシャさんの言ってたこと、ですか……」

 覚えてはいるけど躊躇っている、とでもいう様子だった。マーシャにしてはまともな事を言っていたのだろうか。いや、それなら躊躇う理由はない。いったい何を言ったのだろうか──

「えっと……変なことしちゃダメだからねって言ってました」

「へ?」

 拍子抜けして間抜けな声が漏れる。続いて呆れの感情が湧いてくる。

「何言ってんだか……」

 そんなテンプレ過ぎるセリフを言う人の方が今どき珍しい。それに、変なことも何も起こるわけがない。相手は少女だ。日本なら多分中学生ぐらいだ。高校生の僕が中学生に手を出すのは、多分ギリ犯罪だ。

 とにかく、やはりマーシャはマーシャということらしい。

「わざわざそんなしょうもないこと聞かせてもらってすみません」

 馬鹿なことを言っている。だいたいエミリーさんのような人がその言葉の意味を知っているわけもない。そう思い笑いかけると──

「い、いえ。その……なんて言うか、あはは……」

 目の前の少女の頬は赤く染まっていた。俗に言う美白なエミリーさんの肌がより赤色を目立たせている。いや、そんなことは今どうでもいい。

「えっとー……」

 想定外のリアクションに僕は困っていた。どうやら態度から察するに『変なこと』の意味を知っているらしい。

 こんな気まずい空気になるなら聞かなければよかったと後悔しているところに、ノックの音がした。

 コンコンと、丁寧にドアを叩く音に僕はすぐさま立ち上がった。誰でもよかった。この空間から救ってくれるなら誰でも。

 僕は希望を込めてドアを開けようとした。しかし、僕がドアを開くことはなかった。勝手にドアが開いたからだ。

 マヌケ~(効果音)という音を立てながらドアがゆっくりと開く。どこかのマヌケな子が来たことはすぐに分かった。

「あたしだけど入るわよ」

 そう言って部屋に入ってきたのはアリスだった。肩まである金髪の髪に気の強そうな目元は、分かりやすく性格を体現している。

 マーシャもそうだが、アリスも間違いなく美少女と言うべき容姿をしている。マーシャとアリス以外にも、そもそもこの村にいる人は全員、美人の部類に入らない人はいない。容姿だけは。無駄に。

 僕はため息をついた。この村に来てからため息をつくことが増えた気がするのは気のせいだろうか。

「ちゃんとした礼儀を知っている人はいないのか、僕の周りには」

 アリスは僕がまるで不思議なことを言っているかのように首を傾げた。

「礼儀? ちゃんとノックもしたし、入るとも伝えたじゃない」

 冗談かと思ったがどうやら本当に分かっていないらしい。

「いや、勝手に開けるならノックする意味ないし──」

「ん?」

 アリスが再び首を傾げるのを見て僕は諦めた。

「まあそれでもマーシャに比べればましか……」

「そりゃそうよ。あんなポンコツと一緒にしないでちょうだい」

 アリスは褒めてもいないのに自慢げな顔をしていた。なんでそんなドヤ顔ができるのだろう。

「──ってそんなことはどうでもいいのよ。話は聞いたわ。その件について提案をしに来たの」

 そう言うとアリスは、まるでドラマのワンシーンかのように優雅に髪を手で流した後、勢いよくエミリーさんの方を指さした。エミリーさんは急に指をさされてびっくりしていた。

 妙に芝居がかった動きだったので、どうせ練習したんだろうなあ、と僕は思った。アリスを見ると案の定と言うべきか、めちゃくちゃドヤ顔をしていた。小声で「決まった……!」とも言っていた。

「そこの貴方。エミリーで合ってるかしら? 私の部屋を貸してあげましょうか? 男の人と同じ部屋で過ごすなんて色々と大変でしょう?」

「あ、えっと──」

 エミリーさんとは少ししか話していないが、どう答えるかは何となく分かった。

「お気持ちありがとうございます。でも私はそんなこと気にしません。それに、私はそんなこと言える立場ではないので、大丈夫です」

「そうよねそうよね、分かるわよ、嫌よね、そうよねー…………え!?」

 数秒遅れて、アリスは驚いていた。

 随分とわかりやすいリアクションだが、それがアリスらしくもあった。

「え!! 気にしないって言った!?」

「はい、えっと……なにか?」

 エミリーさんはよく分からないといった様子でアリスを見ていた。

 エミリーさんにとってはそもそも今の提案は提案ですらなかったのかもしれない。彼女にとっては、この部屋で同棲すること以外の選択肢なんて存在しているようには思えない。エミリーさんはエミリーさんで、やはり変わっていると僕は思った。変な人が多いこの村にエミリーさんが来たのは、幸か不幸か、運命的なようにも思えた。

「でも絶対気を使うこともあると思うし、あなたにとっても得だと思うんだけど!!」

「え、えっと……」

 ズイズイとエミリーさんに詰め寄っていくアリス。よほど予想外の事だったのか、語尾にビックリマークが二つ付いていそうな喋り方になっていた。

 僕はそのやり取りを終始静観していた。と言うよりもこの件はエミリーさんに対してアリスが提案しているわけで、僕が言うことは特にない。何か面白いことになりそうだから放置しておこうなんて考えは、まったく、とても、ある。

 しかし、僕は静観することをやめた。と言うのも、僕の方を見るエミリーさんの目が助けを求めているように見えたからだ。

「アリス、話を遮って悪いけど、それってアリスの家にエミリーさんが行くってこと?」

「ん?」

 僕が質問すると、アリスはようやくエミリーさんに詰め寄るのをやめた。エミリーさんはホッとしていた。心なしか壁が凹んでいるようにすら見えた。あの勢いだと部屋の壁と一体化していたかもしれないと思うと、エミリーさんが助けを求める気持ちもよく分かる。

「──ああ、そうね。もしエミリーがそうするんだったら親の許可はこれから得るつもりよ」

「そもそも許可とってないんかい……」

 なんてアリスらしい欠陥のある提案なんだろうと僕は思った。

「その場合どうなるの? アリスの部屋で二人で寝るのは厳しいんじゃないの?」

 僕の言葉にアリスは胸を張って言った。僕はなんだか嫌な予感がした。

「それなら簡単よ! その場合はあたしがこの部屋で生活するだけよ。まあつまり、入れ替わるって感じだと思ってくれていいわ」

「──入れ、替わる!?」

 そう聞いた瞬間、僕の全ての思考は消滅し、その言葉以外は考えられなくなっていた。

 神が告げた。歌いなさいと。いくら何年も前のネタで、なおかつ散々使い古されていて飽きられている寒いネタだとしても一応お約束として歌わなくてはならないと。

 いいだろう。それが神からの挑戦だと言うなら僕はそれを超えてみせる。この想いを──皆の願いを──この歌に乗せて!

「君の前前前世から僕は〜君をさが」

「殺すぞ」

「……!?」

「で、エミリー。さっきの話だけど──」

 僕をよそ目に、アリスはエミリーさんの説得を再開しはじめた。まだ諦める気は無いらしい。僕は暇つぶしにアリスと同棲した場合についてシミュレーションしてみることにした。

 朝起きてすぐ近くにアリス。昼一人でぼーっとしたい時にアリス。夜安らかに眠りにつこうとしてもアリス。……なんか違う。

 エミリーさんよりも慣れているから気を使わなくていいというのはメリットだ。でも何か嫌だ。なぜだろう。アリスがバカだからだろうか。そう思い、アリスを見た。

「ほら、アタシの家に住んだらアタシみたいに金髪になれるから! どう?」

 あ、バカだ! バカで詐欺だ!

「えっと、それが本当だったらそれはそれで怖い、と言うか……」

 対するエミリーさんの反応は至極当然のものだった。確かにそんなミステリーハウスに行きたい人なんてまずいない。嘘にしてももう少しマシな嘘をついてほしい……。

「太郎! 何よその目は! バカにしてるの!」

 いつの間にか僕の方を見ていたアリスに怒られる。

「言っとくけどちゃんと意味はあるわよ?! あたしはアンタとの関係がこの子よりは圧っっ倒的に長いからアンタと同じ部屋でも気にはしないけど、この子は今日出会ったばかりじゃない!」

 鼻息荒く説明するアリス。珍しくまともなことは言っていた。

「話は分かったけど最終的に決めるのはエミリーさんだから」

 あーそっか、と言ってアリスはエミリーさんの方に向き直る。

「というわけなんだけど、どうかしら?」

「そうですね……」

 アリスの提案に対してエミリーさんはすぐには答えなかった。それから三千年の時が流れた……。

 というのは嘘だが、十秒近く経ってもエミリーさんは下を向いていた。

「えっとー、エミリーさん?」

 エミリーさんは下を向いたままアリスの話を真剣に考えていた。変に真面目なのはエミリーさんらしくもあるが、僕には考えることがあるようには思えない。色々言っても結局、アリスの言っていることははじめから何にも変わっていない。つまり、さっきと同じ回答をするのが自然のように思える。

 その時、エミリーさんがようやく顔をあげた。

「あ、すみません。色々考えてはみたんですけど、やっぱり私はこのままで大丈夫です。お気遣いありがとうございます。ヘレ、じゃなくてアリスさん」

 エミリーさんはそう言ってアリスに微笑みかけた。

 ヘレ、というのが言い間違えなのか何なのかは分からないが、僕にはそれよりも気になることがあった。それはアリスの反応がないことだった。

「あ、そういう……」

 隣にいるアリスは固まっていた。エミリーさんが長考していたこともあって期待していたのかもしれない。完全に思考停止してしまったらしい。立ち姿、表情、指先といったアリスを構成する全てが、まさしく唖然そのものを体現していた。あの有名な芸術品である『考える人』にも今なら匹敵するかもしれない。残念ながら、それを確かめるのは今は無理らしい。

「あれ、私は……」

 どうやら衝撃で記憶すら飛んでしまったらしい。

「このまま入れ替わらなくて大丈夫って」

「あ、そ」

 改めて教えると、アリスは興味無さそうにそう言った。てっきり、またエミリーさんに詰め寄る所から再放送でも始まるのだろうと思っていたため、僕はアリスの反応にかなり驚いていた。

「まあそうしたいなら好きにすればいいわ。後悔するだろうけど」

 アリスはそのまま負けゼリフランキング31位ぐらいのセリフを吐くと、すんなりと部屋を出ていった。僕はそれがただの見栄だったと知ることになる。具体的にはそう──一秒後に。

「完璧だと思ったのにぃぃぃぃぃ!!」

 廊下を走り去っていく音と大声が部屋にいても分かるぐらいハッキリと聞こえてくる。

「本音出すのはやすぎるて……」

 やはりアリスはアリスだった。せっかく物分りよく退場した意味が無さすぎる。せめてこっちの聞こえないところで叫べばいいものを……。


 色々あったが、ようやく同棲生活一日目が終わり、就寝時間となる。

 僕は布団に入り、目をつぶった。床で眠るのはいつぶりのことか、今となってはもう思い出せない。

 今日の出来事が脳内で反芻される。とにかく今日は疲れた。本当に一日だったのかと疑いたくなる程に。

 記憶喪失になって、カベッサさんに誤解を受けて、バカ二人が騒いで、それから──。



「ん……?」

 違和感で目を覚ます。

 外は暗かった。部屋の中も見えないほどに。少なくとも今が深夜であることは間違いない。

 それで──僕の上に跨っているのは誰だ?

 僕が目を覚ました要因、それは一言で言うと、体に感じる重さからだった。僕はそれは、誰かの体重だと確信した。そうでなければ誰かの息づかいが目の前から聞こえるわけもないし、こんな甘い香りがするわけもない。

 目が馴染んでくる。その輪郭が、色が、だんだん鮮明になってくる。やがて正体を理解した時、僕は自分の目を疑った。

「どういう……ことですか」

 そう問いかけると銀色の髪が揺れた。知る限りでたった一人しかいない銀髪が。

「エミリーさん。いったい何を?」

「何って……嫌でしたか? 明谷さん」

 エミリーさんは自分の唇に指を当てて挑発するように笑った。どう見ても僕の知っているエミリーさんとは違っていた。

 ……何が起きている? この人は、本当にエミリーさんなのか? いや、でも、どう考えても──

「──!」

 思考を奪うかのように唇を塞がれる。唇同士を押し潰すような強引なキス。唇の感触が直接伝わってくる。力を入れて押しのける。

「はぁ、はぁ……何を、考えてるんですか」

 呼吸が荒いのは、唇を塞がれたことによって呼吸ができなかったからなのか分からなかった。

「キスしたくなったからしたんですよ? 明谷さん……お兄ちゃん、も興味あるでしょ? そういうこと」

 エミリーさんは甘ったるい声で鈍くなった思考を更に鈍化させてくる。

「とにかく一回、落ち着いてください」

 努めて冷静に言うも、内心は冷静ではなかった。目の前の存在は、一挙一動何をとっても自分の知っているエミリーさんとはかけ離れていた。いっそ別人と言われた方が納得できそうなほどに。

「じゃあ落ち着くために、私の火照りを治める手伝い……してくれませんか?」

「……手伝い?」

「嫌……ですか? お兄ちゃん?」

 ねだるような声で僕を上から見下ろす彼女の目は完全に座っていた。

「ねえ、お兄ちゃん?」

 そう言うとエミリーさんは、両手で僕の右手を包むようにして持ち上げた。

「何を──」

 瞬間、手のひらに伝わってくる感触。ふわりとしているのに、それでいてしっかりと形が分かる。

 形容できない、知らない感触だ。こんな感触のものを触ったことがない。

「な……」

 僕の手は、わずかに膨らんだエミリーさんの胸の上にあった。

「聞こえますか? 私こんなことになっちゃってるの」

 ドクンドクン、と飛び出しそうに脈打つエミリーさんの心臓の音が手を伝わってくる。

 僕はその手を振り払った。

「もういいんですか?」

 エミリーさんはそんな僕の様子すら楽しむように笑った。

「奥手ですね、お兄ちゃん。恥ずかしいですか? でも遠慮してたら勿体ないですよ? じゃあそろそろ──」

 エミリーさんは体を倒してベッタリと密着してくる。痛いほどに高鳴っている心臓の鼓動を感じ、触れる箇所全てが熱く火照るような錯覚を覚える。それでも、離れるどころかそのまま顔を耳元に近づけてくる。吐息が、頬に、耳にあたる。思わず体が震えてしまう。

「手伝い、してくれますよね?」

 その囁きは、悪魔のようでもあり天使のようでもあった。


「──!」

 身体を起こして部屋を見渡す。

 窓からは日差しが差し込み、ベッドでは心地よさそうに寝ているエミリーさんがいる。

「そりゃそうか……」

 あんなもの夢以外ありえないと分かっていながらも不思議とそうは思えない自分がいた。そう思うにはあまりにも生々しい感触を僕は覚えていた。跨られていた腹部も、胸に触れた右手も、キスされた唇も、全て。

 いや──考えるだけ無駄なことか。

「ふわぁ〜……」

 眠たそうにあくびをする声に僕はベッドの方を見た。どうやらエミリーさんも目が覚めたらしい。

「あ、明谷さん。おはようございます〜」

「あ、えっと……おはようございます」

 夢のことが頭をよぎって、僕はエミリーさんを直視できなかった。

「早起きなんですね〜」

「あー、まあ偶然目が覚めて……」

 幸い、寝起きということもあって今はまだエミリーさんは僕の態度の変化に気づいていないようだった。

 早く忘れなくては。そう思えば思うほどに、夢の中のエミリーさんの姿が浮かんでくる。

「ちょっと顔洗ってきます」

 とにかく今は対面するべきでは無い。部屋を出ようとドアノブに手をかけた時、エミリーさんは呟いた。

「──それにしてもあの夢なんだったんだろ?」

 僕はその場から動けずにいた。

 予感がした。同じ夢を見たのではないか、という予感が。

 エミリーさんの方を振り返る。

「変な夢でも見たんですか?」

「え? あ、その何だかおかしな夢を見て……」

 エミリーさんは困惑した様子だった。至極当然の反応だ。普通は出ていくのをやめてまで聞くようなことでは無い。僕の行動は不自然に思われているかもしれない。それでも僕は聞かずにはいられなかった。

「おかしな夢っていったいどんな?」

 エミリーさんの次の言葉は、僕の予感をより確かなものにした。

「もしかして……明谷さんも同じ夢見てました?」

 ここまで来ればいやでも確信する。

「やっぱりエミリーさんも、ですか」

 二人が同じ夢を見るなんてことは、現実においてゼロに近い。それでもゼロではないと思うが、それも内容による。あんな内容の夢を二人が同時に見るというのはゼロと言いきって良い。つまりあれは夢では無いということだ。

 エミリーさんは頷いた。

「──怖い、ですよね」

「……え?」

「え?」


 ◇

 話を聞いたところ、やはりエミリーさんは僕とは違う夢を見ていた。

 エミリーさんが見た夢の話は、ざっくり言うと、突然視界が真っ暗になってそのまま自分の存在すら分からなくなっていく、という感じのものだったらしい。

 怖さの方向性が独特な事はさておき、実際にそんな夢を見たら『怖い』という表現が出てくるのも当然のことだった。

「それにしても、どうして僕も同じ夢を見ていると思ったんですか?」

「それはその……明谷さんが凄く私の夢の話に興味を持っていたので」

 どうやら僕は夢の内容が気になりすぎるあまり態度に出てしまっていたということらしい。確かにあれだけ気にされれば同じ夢を見たのかもしれないと考えるのは無理もない。

「──ところで明谷さんはどんな夢を見ていたんですか?」

 興味津々といった様子で僕を見る。

 流れからして気になるのは分かる。でもそれを説明するわけにもいかない。

「あー……それはまた今度でいいですか? 朝食の時間に間に合わなくなっちゃうので」

「あ、ほんとですね。ごめんなさい。つい長々と話してしまってたみたいで。確か、遅れるとよくないんですよね」

「僕が聞いたことですから。それより急ぎましょう。最悪、食い意地張った誰かさんに食べられるかも」

 この建物に住む人は全員が揃って食事をするようになっており、遅れるとカベッサさんにガミガミ言われて面倒なことになる。これは僕が昨日、エミリーさんに教えたことだった。

 僕とエミリーさんはすぐさま食事場へ向かった。

 この会話が、無意味なものではなかったと知るのはまだ先のことだ──。


 さて、今日の予定はなんだったか。

 食事を終えて部屋に戻った僕は手帳を開いた。

 こんな世界と言えど、働かざるものなんとやらでタダ飯は食わせてくれない。現実はビターだ。他の人がどうなのかは分からないが、少なくともこの建物で生活している人は、掃除、洗濯、食事の支度といった家事全般と、薬草や作物なんかの収穫作業をやることが義務づけられている。

 僕がこの手帳を見ているのは、それらのやること全般がこの手帳に全て記されているからだ。週の初めにカベッサさんにこの手帳を渡すと一週間分の作業内容が書かれて返ってくる。もっとも、渡さないという選択肢はないわけだが……。手帳に書かれていることの他にも、たまにカベッサさんに口頭やらメモ紙やらで指示されることもあるが、それは本当に稀だ。つまり、この手帳さえ見ておけば良い。

 一見、手帳にびっしりとやることが詰まっていて大変のように思えるが、実際そんなことは無い。今日も何にも書かれていないし、基本的にやることはあっても一つか二つ程度だ。働かざるものここ掘れワンワンとは言ったが、つまるところほとんど何もしなくても良いのがこの異世界だ。こういう所は何と言うか、異世界っぽいと僕は思った。結局、現実はスウィートだ。普通に生きていてこんなことはありえない。だからこそ主人公たちはこぞって転生やら転移やらをしたがるんだろう。

「いてて……」

 余計なことを考えたせいか、あるいはこれ以上メタ発言をさせるのはまずいという何者かの都合か、頭痛がし始める。思考を閉じると同時にパタンと手帳を閉じて、窓から外の景色を眺めることにする。

「何もしなくていいというのも暇だよなあ……」

 どこまでも続く緑、緑、緑。よく言えば自然豊か、悪く言えば超田舎。こういう場所はたまに来るからこそ良いのであって、年中過ごす場所では無いと僕は思う。まあそれも今更だ。

 緑色から逃れるように視線をさまよわせていると、エミリーさんとマーシャの姿が目に入る。 そう言えば食事の時に何か話していた。昨日の今日でもう仲良くなったのだろうか。

 僕は、暇つぶしついでに身振り手振りから会話の内容を想像してみることにした。


『エミリーちゃん! 探検に行こう!』

『た、探検ですか……?(いい年して何言ってんだこいつ)』

『じゃあちょっとばあばに話してくるね!』

『は、はい……(めちゃくちゃ勝手に話進めるじゃん)』


「──まあ、さすがにそれは無いか。マーシャだっていい年だし」

 一人首を振って再び窓の外を見ると、そこには明確に違和感があった。何かがおかしいというか、何かが足りていないというか。 具体的に言うと──マーシャがいない。

 階段を爆速で駆け上がって来る音で嫌な予感がするも、時すでに遅し。勢いよく部屋のドアが開く(破壊)。

「たのもーーーーー!!」

 『CHALLENGER APPROACHING

 挑戦者が現れました』

 いつか遊んだどこぞの格ゲーのメッセージウインドウが脳内で再生された。今日も今日とてそのイかれっぷりは絶好調らしい。

「今日、太郎って予定ある?」

「いや特にないけどな」

「じゃあ行こ!」

 いつの間にか目の前に来ていた挑戦者に強引に手首を掴まれる。

「いや行くってどこに?」

「探検だよ! エミリーちゃんに村を案内してあげるの!」

「えぇ……」

 絶望的な回答に辟易とする。さっきの想像での会話はあながち間違えではなかったらしい。もしかするとドンピシャだったのかもしれない。それにしたって、こんなにも当たってて嬉しくない事がこの世にあるだろうか。パジェロとは言わないから、せめてこの強制連行してくるやつを退ける権利が欲しい。

「分かった。分かったからとりあえず手は離して」

「そう言って逃げるつもりでしょ? 離さないよー?」

 マーシャは余計に僕の腕を掴む手に力を込めた。

「痛いから! そういうのじゃなくて腕が痛いから!」

 冗談抜きで腕が痛い。この人もしかして握力でリンゴ潰せる系女子?

「待ってこれ腕ちぎれてない? ね、一旦離そ?」

「もーだーめだってー」

 だめなのはてめえの頭だよこのタコ、と言いたい気持ちを抑え込む。余計なことを言ったら腕を握り潰されかねない。

 結局エミリーさんの待つ場所に到着するまで腕は掴まれたままだった。腕にはマーシャの指の形が赤くくっきりと残っていた。

「ひえっ……」

 改めてパワー系のパワーをパワフルに感じる(適当)とともに恐怖すら感じる。

「よーし! じゃあ行くぞー! エイエイオー!」

 当の本人は気にすることも無く、楽しそうに拳を空に向かって突き出していた。あの拳の先に人がいたら死んでいたかもしれないと僕は思った。

 こうして探検が始まった。


 探検(強制)開始からそれほど経つこと無く、僕たちは村の中をおおよそ周り終えていた。これは、案内がスムーズに進んだからではなく、単に案内するような場所が無いだけだった。当然だが、こんなごくごく普通の村に特別凄い建物があるわけも無い。

 案内するような場所はあと一箇所。それがここ、食料庫だ。

「ここが食料庫だよー。ちなみに──」

 マーシャはそう言って、ズズズッとエミリーさんに顔を近づけた。 エミリーさんは若干困っていた。 何か重要なことでも言うのだろう、そう思ったが──

「──ここのもの、勝手に食べちゃダメだからね。ばあばがすっごい怒るから」

「は、はい……」

 絶対だよ、と念を押すマーシャにエミリーさんは苦笑いしながら頷いた。

「そんなことか……」

 期待した自分が馬鹿らしく思えてくる。と言うよりは悔しい。一瞬でもこんなやつが重要なことを言うのではないかと思うなんて。

「何か言った?」

 マーシャが僕の独り言に振り向く。

「いや何も。さすがに経験者は貫禄があるな、と思って」

「な、何言ってるの太郎! 私、そんなことしないもん! 知らないもん! 怒られてないもん! ご飯食べたことないもん!」

「そうですか……」

 逆にここまで分かりやすいというのもどうなんだろうという心配すら湧いてくる。あからさますぎる嘘だし、どこぞのマスコットキャラクターですらそんなにもんもん言わないんだもん。まあせっかくだし、さっきの手首のお礼でもしてあげるか。

「あ! そういえば──」

 恐ろしくわざとらしい演技、マーシャじゃなきゃ見破られてる。

「え! なになにどうかした?」

 マーシャは、見破るどころかむしろ興味津々に食いついてきた。

「いや、大した事じゃないんだけど今の話でカベッサさんがこの前、食料庫の食べ物が急に減ってたせいで買い物に行く日を早めたって言ってたのを思い出して」

「へ、へぇー。そうなんだー。それはー、なんて言うか、大変だねー」

 マーシャの目が泳ぎはじめる。

「心当たりがあるか聞かれた時は知らないって言ったんだけど、実は心当たりがあってさ」

「こ、心当たり?」

 マーシャは不安そうに上目遣いで僕を見た。

「うん。て言うのも赤い髪の毛が落ちててさ。確か赤色の髪の人って一人しかいなかったような気がするんだけど……どうだっけ? マーシャ?」

「え、あ、う……」

 動揺に動揺を重ねたマーシャの目は、今やプロ水泳選手にも勝てるかもしれないぐらいに泳いでいた。我ながら意味は分からない。

「チョー気持ちいい!」

「それほんとにあるやつ」

 どういうわけか他人の名言が飛び出したところでからかうのはやめることにする。

「言わないから大丈夫だよ」

「え、そうなの? よかったー」

 マーシャはホッと息を吐いた。その、心底安心していそうな表情を見ているとなんだか無性におかしくなって僕は笑っていた。

「え、ちょ! なんで笑うの!?」

「いや、ほんと、なんでもない」

「なんでもないでそんなに笑わないでしょー!」

 同じ気持ちだったのか、一連のやり取りを見ていたエミリーさんも笑っていた。

「あ! エミリーちゃん笑った! ひどいー!」

「いえ、その、ふふっ、ごめんなさい」

「そんな子はこうしてやる! こちょこちょこちょー!」

「ふふっ、く、くすぐったい、ですって、ちょ、マーシャ、さん」

「ほれほれほれ〜」

 たまには、こんなくだらないじゃれあいも悪く無いのかもしれないなと、柄にもなくそんなことを思った。

 食料庫をぐるりと見渡す。

「──こんな場所あったんだなあ」

 僕は自然とそう呟いていた。


 「さて、じゃあ村の中は全部見終わったわけだけど、エミリーちゃんは何か他に気になることとか行きたい場所とかある?」

 食料庫から出た時、マーシャがそう提案した。

 忘れかけていたが、これはエミリーさんのためにしていることだ。つまり彼女がNOと言えば終わるのが必然だ。それにも例外はある。

「えっと……い、いえ。特には……」

 エミリーさんは視線をさまよわせながらそう言った。どう見ても気を使っている。

 そんなエミリーさんにマーシャは無邪気に笑いかける。

「なんか遠慮してない? 気を使わなくていいんだよ? 私も楽しいし!」

 これまでで嫌という程に分かったことだが、マーシャには遠慮がない。それは良くも悪くもだが、遠慮がない──つまり裏表がないというのは純粋に尊敬できる点であり、長所だと思う。特にエミリーさんのようなタイプにはこういう風に言えなければ距離はなかなかつまらない。ある意味真逆とも言える二人だが、むしろ相性はいいのかもしれない──

「えっ、と……」

「ん?」

 チラチラと視線を上下させるエミリーさんに対して、マーシャは急かすでもなく、ただ優しく笑って続く言葉を待っていた。

「それならあっちの森とかちょっと、見てみたいかも、です」

 森の方角を指さしながら、窺うように弱々しく言葉を絞り出す。

 多分、同じことを僕から言っていてもこうはなっていない。マーシャだからエミリーさんの本心を引き出せた。

「うんうん! じゃあ行こう! 途中までなら行ってもいいことになってるから!」

 マーシャは随分と嬉しそうに笑っていた。いったい何が嬉しいのやら。──いや、それはわかっていることか。エミリーさんがはじめて自分の気持ちを優先した。それが嬉しいんだ。マーシャとはそういう人間だ。

「いいやつ、なんだけどなあ……」

 小さく呟く。聞こえないように、小さく。

「それにしてもエミリーちゃん、森に行ってみたかったの?」

「は、はい。何となく興味があったんですけどダメ、でしたか?」

「ううん、そんなことないよ! 森と言えばなんだけどね──」

 楽しそうに会話をする二人。そんな微笑ましい光景を前に僕は思った。こんな尊い場にという不純物がいていいのだろうか、と。

 僕は百合が好きだとか、そういった感情は持ち合わせていない。どちらかと言えば好き、ぐらいだ。多分。それでも謝るのは百合好きを不快にさせないためと、今は亡き彼への配慮のためだ。

 人類史上最も百合を愛し続けた男、ユリイガイ・ゲラウト──通称、ユリ・ゲラーの話。ちなみに『ー』の部分がどこから来たのかは誰も知らない。数々の逸話を残したゲラーだが、中でも有名なエピソードがある。

 ある日彼は、百合の間に挟まろうとしている男を見かけた。どういう意味かは分からないけど、とにかく百合の間に挟まろうとしていたらしい。それを見た彼は憤慨し、その者の男としての尊厳を破壊し、女性として生きる道を強制した後、殺した。彼がいなければ性転換という言葉は今頃存在していなかったと言っては過言である。

 『これで百合とかオタクくんキモすぎ〜』という意見もあるだろう。だがゲラーに言わせればこれも百合だ。

『女の子が二人いればそこには常に百合の可能性と百合でない可能性が共存している』

 これこそがかの有名な、百合ディンガーの百合理論である。 

「──百合は百合という認識がないからこそ尊い、か」

 僕は、ゲラーの最期の言葉を呟き、静かに頷いた。こうして声に出してみて改めて思う。至言だと。彼にしか、いや、彼だからこそ言えるこの言葉の意味が分からない人間なんて果たして存在するのだろうか。いるとしたら多分どうしようもなくバカなやつぐらい──

「太郎、さっきから何独りでボソボソ訳わかんないこと言ってるの? キモイんだけど」

 どうしようもないバカは目の前にいた。


「あーもうここまで来たんだー。じゃあこれでだいたい全部回ったかな」

 マーシャの言葉に促されるように前を見ると、そこには腰ぐらいの高さの柵が広がっていた。柵には『立ち入り禁止』という紙が貼られている。

 柵の奥は見える限り背の高い大木が続いており、それで光が遮られているのか、柵の中と外では明暗がハッキリと分かれていた。まるで境界線のように。

 この先に何があるのか僕は知らない。ただ何かがあるということだけは分かる。それだけの雰囲気が柵の奥にはあった。

「こ、この先って何かあるんですか?」

 エミリーさんはどこか怯えながらマーシャに言った。何度も見ている僕でさえ何となく不安になる場所だ。初見であれば当然の反応だろう。

「あーそっか。そう言えばエミリーちゃんはここに来たばっかりだから知らないか」

 エミリーさんが怯えていることを理解してかマーシャは得意げに笑った。

「ふっふっふっ……ここの奥にはね、こわーい幽霊が出るから行っちゃいけないんだよー」

 いわゆるお化けだぞポーズ(?)をしながら怖がらせようとしている。今どきそんなので怖がる人がいるとは思えないけど。

「そ、そんな……う、嘘ですよね? 明谷さん?」

 エミリーさんは震えながら僕を見てきた。もちろん嘘だが──

「さあどうでしょうね?」

 僕は肯定も否定もしなかった。怖がらせたいとか、そういう意図があったわけではなく、何となくだった。

「ど、どういう、意味ですか、それ……」

 結果的にマーシャの役に立ってしまったらしい。震えるエミリーさんの横でマーシャが僕に親指を立てていた。

 それにしても、エミリーさんがこんなことで怖がるとは思ってもみなかった。もしかすると、僕が思うより普通の少女なのかもしれない。

「まあともかく、カベッサさんに禁止されているんです。だよねマーシャ?」

「そーそー。わたしも詳しくは知らないけどねー」

「そ、そうなんですね……もしかして本当にお化けが出たりしません、よね?」

 不安そうに上目遣いでマーシャを見る。その様子に、マーシャがニヤリと笑った。かわいそうに。

「さあーどうだろうねー。エミリーちゃんがそんなに気になるなら確かめてみたら良いんじゃない? お化けに会えるかもよ?」

 その言葉でいよいよ恐怖心がピークに達したのか、エミリーさんは叫んだ。

「え、え、えひぃ!」

「……えひ?」

 ……前言撤回。やはり普通の少女では無い。普通の人は、驚く時に『えひい』なんて言わない。そう言えば昨日も『ヘレ』だったか、訳の分からない単語を言っていた。小学校の成績表で全科目独創性だけ◎がついていたタイプだろうか。

「ほらエミリーちゃん、お化けだぞ〜」

 そんな僕とは対照的に、マーシャはお化けだぞポーズでエミリーさんのリアクションを楽しんでいた。怖がらせ方のバリエーションが一通りしかないことは気になるが、それでもエミリーさんは永遠に怖がっていた。

 改めて柵の向こう側を見る。

 ほとんど何も見えない。この先に何かあるのか、あるいは何も無いのか、この景色はどこまで続いているのか。何も分からない。

 冗談半分で呟く。

「入ってみようかな、なんて」

 ──それが思わぬ反応を招いた。

「絶対ダメ!」

 その大声の先ではマーシャがいつの間にか僕を見ていた。どことなく目つきも怖い。そのあまりにも唐突な変化にエミリーさんも驚いていた。

「え、マーシャ、さん……?」

 僕は半笑いで返す。

「マーシャ? どうした? 冗談だよ冗談」

「……あ、冗談ね! もう! 本気で言ってるのかと思ったよ!」

 その表情はいつものマーシャだった。一秒前までの面影は全く感じられない。どうやら僕の冗談を本気に受け取ってしまっていたらしい。

「ごめんごめん。それにしても急にマーシャが大声出すからびっくりした」

 僕の言葉にエミリーさんもうんうんと頷いた。

「あ、そうなの? 太郎が突然わけわかんないこと言うから反射的に大声出しちゃったみたい。エミリーちゃんもごめんね?」

「いえ、そんな! 謝ってもらうようなことじゃないですから」

「それにしたってそこまでなるかね」

「もー! どーしてそういうこと言うかなー。エミリーちゃんはこんなに良い子なのに。だいたい太郎がそんなこと言うから悪いんだよ? 分かってる?」

「はいはい」

「絶対適当じゃん」

それから僕たちは村へと戻ることにした。


 村へと戻る。そのはずだった。にも関わらず僕は一人、柵の前に立っていた。二人はここにはいない。理由をつけて先に帰ってもらった。

 なぜだろう。こんなにもこの先に何があるのか気になってしまうのは。

 改めて見ても何か興味をそそるものがあるようには思えない。それでも気になるのは、多分、単なる好奇心だ。でもそれだけならここまでのことはしなかった。マーシャの言葉、反応。それが拍車をかけた。

「あんなダメって言われるとね……」

 どこかで読んだが、人間はダメだと言われるほどにかえってやりたくなってしまう生き物らしい。今の僕を突き動かすものも、おそらくそれだ。

「──さて、行くか」

 あまりゆっくりしていると二人がもどって来ないとも限らない。それに陽が沈むまでそんなに時間が無い。

 僕は柵を跨いで中へ入った。


 何分経っただろう。一分か、十分か、それも分からない。

 柵の中はほとんど暗闇に包まれている上に同じ景色が続いていて、時間の感覚も、進んだ距離も無限に感じられた。

「結局、何もなかっ──」

 そろそろ戻ろうかと思っていたその時、突然それは現れた。

「……なんだ、ここは……」

 十数歩先といったところだろうか、正面には一本の大木があり、その大木から少し離れた所には同じ高さの木が右に左に、と何本もあった。僕が驚いていたのはそこではなかった。そもそもなぜそんな鮮明に景色が見えるのか。つまり──

「──なんでこんなに明るい?」

 そこは、日差しも差し込んでいないにも関わらず明るかった。まるでさっきまでとは別の場所のように。

 ふと思う。ここは──本当に柵の中なのかと。

 後ろを振り返るとやはりそこには先ほどまで僕がいた暗闇が広がっている。僕は再び前を向いた。

「……どういうことだ?」

 もう僕の思考は完全に止まっていた。どう考えても異常なことが起きている。分かることはそれだけだった。

 そして更に異常な事態は起きる。

「君はこんな所で何をしているんだい?」

「──!」

 僕は顔を上げて周囲を見渡した。しかし、誰もいない。

「こっちだよこっち」

 声は続けてそう言った。僕はその声の元を辿ろうとして、それでもやはり見つからない。

「あーそうだった。君には私は見えないんだった」

 僕はようやく声を出した。異常な事態の連続に完全に言葉を失っていた。

「誰ですか? どこにいるんですか? それにここはどこで──」

 分からないことが多すぎて僕の口からは疑問しか出てこなかった。

 声は少し笑って言った。

「本当は私が君に質問していたんだけど……その様子だと、君の質問に答えないことには話は始まらないようにも思えるね。いいよ、教えよう」

 声は妙に落ち着いていて、知性を感じる話し方だと僕は思った。

「それで、君は今、私に三つ質問をしたね。まずはそれについて答える。私は……そうだね。君とは同じ世界を生きているようで生きていないとも言える。私は君を観測できるが、君は私を観測できない。それが私だ。まあ精霊とでも言っておこうか」

「精霊……?」

「それで、どこにいるのかと言うと、君の目の前にいる。でも君には私を観測することはできない。だが、例えば──」

 突然、目の前に人が現れる。僕はそこにいる人物に驚きを隠せなかった。

「どうして、僕が」

 目の前にいたのは、自分だった。

 目の前に立つ僕は言った。

「こうして君の姿を模することはできるんだ。そうした時、君は私を観測できる。どうだい? 少しは精霊という言葉の意味が分かってきたかな?」

 目の前の僕は精霊で、能力で僕を模したと言う。

 人間、あまりにも理解できないことが続くと考えるのを止めるらしい。僕はもう全てを受け入れることにした。

「最後の質問だけど、それは僕にも分からない」

「分からない……?」

 僕はさっき自分が言った言葉を思い返す。僕が言ったのは──

「ここがどこなのか、と君は聞いた」

 僕が思い出すよりも早く、精霊は答えをくれた。

「私にとってここは私の家だ。だから──こんなこともできる」

 そう言って精霊が指を鳴らすと、一瞬にして辺りが暗闇に包まれた。後ろの景色と同様に。

 再び指を鳴らすと、明るさが戻る。つまり、この不自然な明るさは、精霊の能力ということらしい。理屈は分からないし、もう考える気もなかった。

「君にとってここはどこなのか、それは私には分からないよ。これで君の先ほどの質問には答えたけど、他に質問はあるかい?」

 精霊は僕を見た。今更だけど自分と話すのは何とも言えない気持ち悪さだ。

「他に質問……」

 考える。

 少し前までは疑問だらけだった。でも全てを受け入れたからなのか、この精霊の答え方が的確だからなのか、僕の中での疑問は無くなっていた。

「特に無いようだね」

 そんな僕の心を悟ったかのように精霊は言った。

「それじゃあ私の質問に答えてもらいたいんだけど、君はこんなところで何をしているんだい?」

 僕は、それに答えようとしたが、何にも言葉が出てこなかった。僕はいったい何をしに来たんだ?

「なぜ私がこんなことを聞いているか分かるかい?」

 精霊の言葉に顔を上げる。

「それはね──ここに来た人間は君以外にいないからだ」

 それが何を意味するのか分からなかった。それなのになぜだか背筋に鳥肌が立った。

「僕以外……いない?」

「つまりここは、君にとって、いや君たち人間にとって通常たどり着く場所ではない、ということじゃないのかと私は考えている」

 精霊は的確かつ冷静に言って僕を見た。僕は何も言えなかった。罪悪感? 恐怖心? 分からない。とにかく言葉は出てこなかった。

「だとすれば、だ。君が目的もなくここに来るというのは不自然だ。だから私は聞いたんだよ。君はこんなところで何をしているのか、ってね」

 精霊は再び繰り返した。どこまでも冷静で、どこまでも論理的だった。対する僕は考えに考えてやっと出てきた言葉はシンプルなものだった。

「好奇心、だったと思います」

「好奇心?」

 精霊が興味深そうに繰り返す。僕は頷く。

「僕はこの場所の近くにある村に住んでいて、その村ではここは立ち入り禁止になっています。正直僕もそのことを忘れていました。でも今日、村に新しく来た人に案内することになって──」

「その時にその事を思い出して、興味が湧いた、と」

「そうです」

 精霊は少し考えて言った。

「それは……本当に君の好奇心かい?」

「──?」

 目の前の精霊の言うことがどういうことか、僕にはまったく分からなかった。

「君は今、案内することになって思い出したから興味が湧いた、そう言ったね?」

「そうです。実際、それで今ここにいるわけで──」

「それはおかしいんじゃないか? いや、悪い。妙にもったいぶった言い方をしてしまっているね、すまない。私も久しぶりの会話でうまく話せていないらしい」

 精霊はそう言うが、僕には全くそうは思えなかった。むしろこれでうまく話せていないとしたら、僕はどれだけ無駄の多い話し方をしていることになるのだろう。

 精霊は続けた。

「通常、しばらく見ていなかったものをもう一度見たからと言って興味は湧かない。そうなるには条件がある。それは元々興味があった場合だ。しかし君の話だとそういった理由ではなさそうだった。これが私がおかしいんじゃないか、といった理由だ。そして今の前提において興味が湧くはそれだけだが、興味が湧くはそれだけではない。本当に君の好奇心か、と言ったのもこれだ。理由、それは──外的要因によって興味を持たされることだ。その印象が強ければ強いほど、興味という感情は刺激される」

「それって、つまり……?」

 僕は心拍数が上がっていくのを感じた。いつの間にか、喉はカラカラに乾いていた。不安からか、水分を満たすためか、唾を飲んで言葉を待つ。

「君は何者かに興味を持たされてここに入った。つまり──誘導されたんじゃないか、ということだ。と言ってもあくまでこれは可能性の話で──」

 僕はもう精霊の言葉は届いていなかった。ただ音という空気の波が僕の耳に入って抜けていくだけで、それを情報として受け取っていなかった。何も声に出せず、ただ目の前の自分の姿を見ていた。

 ──誘導された。その言葉を聞いた瞬間、僕はある出来事を思い出していた。

『絶対ダメ!』

 マーシャはあの時、一瞬マーシャらしくなかった。精霊は言った。印象が強ければ強いほど興味という感情は刺激されると。つまり──

 突然、視界が真っ暗になる。

 顔を上げると、目の前にもう僕はいなかった。

「……精霊? あの、明かりが」

 僕の声は震えていた。応答は無い。

 段々と声が大きくなる。

「あの! どうしたんですか!」

 精霊の反応は無い。

 呼吸が安定しない。悪寒がする。明かりが欲しい。どこでもいいからとにかく明るい場所にいたい。暗闇がこんなにも人を不安にさせるものだということを知らなかった。

 恐怖でおかしくなりそうな頭で僕が唯一考えられたのは、とにかくここから出ることだけだった。


「まったく、なにが精霊だよ。そもそもそんなファンタジー要素がこの世界にあったことが驚きだ」

 僕は独り呟きながら柵のあった場所を目指して歩いていた。何か言っていないと正気を保っていられなかった。 ──その時、異変を感じた。

 僕の歩く道の先、十数本程度のところに何かがいる。違う。何かじゃない。誰かがいる──。

 全身には鳥肌が立っていた。忘れようとした言葉が勝手に浮かんでくる。

『君は何者かに興味を持たされてここに入った。つまり──誘導されたんじゃないか』

 僕は首を振った。何度も何度も。

「違う……そんなわけない」

 一歩、更に一歩と近づいてくる。後ずさる。それでも近づいてくる。

 やがてその人は、僕の目の前に立った。

「どう、して、ここに、──エミリーさんが?」

 そこにいたのがマーシャではないと分かった瞬間、僕は言い表せない安心感に包まれていた。崩れ落ちそうになるのを堪えて話しかけた。

「エミリーさん。すみません。実はさっきのは嘘で、本当はその、ここに入ろうと思っていて──」

 聞かれてもいないのに勝手に早口になる。とにかく喋りたい。誰でもいいから誰かの声を聞きたい。

 僕はその時、気づいた。

 ──エミリーさんが一言も喋っていないことに。

「あの、エミリーさん……?」

 エミリーさんはようやく声を出した。しかし、それは僕の思っていた言葉ではなかった。

「こっちには行っちゃダメって……言われてましたよね?」

「え、あ、そうですね。すみません」

 怒っているのだろう。確かに嘘をついていたわけだし、当然だ。

 エミリーさんは下を向いていて表情は読み取れない。でも怒っているにちがいない。

「マーシャにも謝らないとなー」

 僕は言いながら自分の体が震えていることに気づいていた。本当は怒っているわけじゃないことも気づいていた。

 だって、どう見てもこの人は──エミリーさんではない。

 姿、形、声、全てエミリーさんだ。でも違う。エミリーさんじゃない。

 そう思った時、僕は走り出していた。何でかは分からない。今はただ、逃げる。逃げなくてはいけない。

 無我夢中で走って振り返るとエミリーさんは未だにそこに立っていた。その姿がかなり遠くなっているのに気づいた時、僕の口角はなぜか上がっていた。安心かはたまた違う感情か、それも分からない。

 僕は乱れた呼吸を整えるため、立ち止まった。エミリーさんはまだそこに立っていた。その目が、僕を見ていた──。

 エミリーさんが僕の方に向かって走り出した。僕はそれを他人事のように見ていた。それがどういうことなのか理解できていなかった。

 ──逃げろ!

 それが頭に浮かんできた瞬間、ようやく僕の体は地面を蹴って走り出した。振り返る余裕はない。追いつかれたら死ぬという確信があった。

「お前は、お前だけは……! 私が!」

 何を言っているのかは僕にはさっぱり分からなかったし聞いている余裕もない。それはどうでもよかった。

 僕はより一層力を込めて走った。

 声は、だんだんとハッキリと聞こえるようになっていた。つまり──追いついてきている。

 恐怖で震える足を必死に動かして前に進む。

 その時、視界が少しづつ明るくなっていることに気づいた。僕は希望を込めて前を見た。そこには柵があった。

 柵を越えればあとは村まで走るだけだ。村までの道はやや下り坂になっていることを考えれば縮まった距離を再び離すことはそう難しくない。村まで戻れれば安全は保証されるんだ。もう少し、もう少しだ。

 僕は最後の力を込めて走る。もつれそうになるのを何とか態勢を立て直して走る。止まれない。止まるわけにはいかない。

 ついに柵の前まで来た僕は、柵を飛び越えようと右足を上げた──

 僕の体が柵を越えることは無かった。

 急に全身の力が入らなくなる。 

「………な、んだ、これ」

 胸元を見ると、赤く染まったナイフの先端が顔を覗かせていた。

「これで、終わり」

 声は真後ろから聞こえた。

 ナイフが引き抜かれると同時に、僕は柵に体を引っかけてくの字のようにうつ伏せで倒れ込んだ。

 顔が思いっきり地面にぶつかるが、痛みは感じなかった。鼻からゆっくりと流れる血とは対照的に、胸から流れる血は留まることを知らず、服に赤黒い染みを作っていく。広がり続ける染みが死に近づいていることを実感させる。

「間に合わないかと思いましたが、無事殺せてよかったです」

 頭上からの一切の悪意を感じない言葉に、僕は思わず聞いていた。

「な、ぜ……こんな、こと、を?」

 声は呆れるかのようにため息をついた。

その質問ですか。なぜって、お前は生きていてはいけない存在だからです。だから殺す。それに私が殺さなくてもお前はどの道死ぬ。それはもう決まっているんです」

 何か言っているが耳に入ってこない。

 そもそも僕は話を聞く気がなかった。聞いてから気付いたが、どうせ死ぬのに聞いてなんの意味があるのだろう。

「結局誰がお前を殺すか、それだけの違いで皆しかない。私たちはお前のことを殺すために存在しているようなものですから」

頭上から聞こえる声はまだ何か言っていたが僕は他のことを考えた。あまりに呑気で馬鹿げたことを。

 それにしても上半分は柵の外側で、下半分は柵の内側だから、これじゃ、まるでシーソー、だ……。

 ほどなくして、僕の意識は消えていった。


「──!?」

 布団から飛び起きる。

 ひどい頭痛がする。それに気分も悪い。何かすごく嫌な夢を見ていた気がする。でも中身は出てこない。あるのは、思い出そうとすればするほど遠ざかっていくような、もどかしい感覚だけだ。

「あ、明谷さん。おはようご──ってどうしたんですか?! なにか嫌な夢でも見ましたか?」

「え?」

 遅れて起床したエミリーさんは僕の目、ではなく体を見ていた。その目線に促されるように自分の体を見て、違和感に気付く。

「なんだ、この汗は……?」

 僕はまるで相当な距離を全力で走ったかのような、いやそれ以上の汗をかいていた。エミリーさんが驚くのも無理はない。

「あの、大丈夫、ですか……?」

 改めて心配してくれる。

「あはは、まあちょっと嫌な夢を見たのかも……でも大丈夫です、多分」

 僕のハッキリしない表現にエミリーさんは首を傾げた。

「見たかも……? 内容は覚えていないんですか?」

「そう、ですね」

 自分でももはやよく分からなくなっていた。寝起きの時にはあったはずの嫌な夢を見たという感覚が、今ではもうほとんど無くなっていた。

「よく分かりませんけど、えっと……よくある階段から落ちる〜みたいなやつじゃないですか? 私もたまに見ます、怖いですよね……えひえひ」

「そうかもしれません」

 相変わらずえひってるのはさておき、『落ちる〜』の言い方が可愛かったからそう思うことにした。どうせ考えて出てくる事でもない。気にするだけ無駄だ。何よりも今はこの汗をどうにかすべきだろう。

 僕は一階へと向かった。


 ◇

 一日の始まりは予定を確認する事から始まる。

「森の方で作業がある、か。その前に昨日のことについてカベッサさんに話しておくか」

 昨日のことと言うのは言わずもがな────何だ?

「っ!」

 突如、割れるような頭痛に襲われ、思わず膝をつく。呼吸が苦しい。

「僕は昨日、何をしていた……?」

 そして、まるで記憶が再生される。


「まったく、なにが精霊だよ。そもそもそんなファンタジー要素がこの世界にあったことが驚きだ」

 僕は独り呟きながら柵のあった場所を目指して歩いていた。何か言っていないと正気を保っていられなかった。 ──その時、異変を感じた。

 僕の歩く道の先、十数本程度のところに何かがいる。違う。何かじゃない。誰かがいる──。

 全身には鳥肌が立っていた。忘れようとした言葉が勝手に浮かんでくる。

『君は何者かに興味を持たされてここに入った。つまり──誘導されたんじゃないか』

 僕は首を振った。何度も何度も。

「違う……そんなわけない」

 一歩、更に一歩と近づいてくる。後ずさる。それでも近づいてくる。

 やがてその人は、僕の目の前に立った。

「どう、して、ここに、──エミリーさんが?」

 そこにいたのがマーシャではないと分かった瞬間、僕は言い表せない安心感に包まれていた。崩れ落ちそうになるのを堪えて話しかけた。

「エミリーさん。すみません。実はさっきのは嘘で、本当はその、ここに入ろうと思っていて──」

 聞かれてもいないのに勝手に早口になる。とにかく喋りたい。誰でもいいから誰かの声を聞きたい。

 僕はその時、気づいた。

 ──エミリーさんが一言も喋っていないことに。

「あの、エミリーさん……?」

 エミリーさんはようやく声を出した。

「ここって柵の奥、ですよね? どうしてこんなところに……?」

 キョロキョロと辺りを見ながら言うエミリーさん。僕に対してと言うよりも自分自信に対して言っているかのようだった。

 僕は改めて安堵の息を吐いた。間違いない。エミリーさんだ。僕が知っているエミリーさんだ。

「えっと、それで……なんでこんな所に?」

 どこか戸惑っている様子のエミリーさんに僕は怒られること覚悟で事情を説明したが、エミリーさんはまったく怒ることは無かった。それどころか僕の心配をしてくれていた。


「それから二人で村に戻って──そうだ」

 目的を思い出す。

「あの時のエミリーさんのことを話そうと思ったんだった」

 カベッサさんの部屋へと向かう。頭痛はもう無くなっていた。


 ダメだった。ほんの少し間に合わなかった。支配がもう少し早ければ……。

 今回は何とかしてくれた。と言っても完璧には修正できないらしく、実際あの男もどこか違和感を感じている様子だった。しかし、それをしてしまうと世界のルールに反するから無理だとか何とか……。

 だからもう×すのはダメだと言われた。次はおそらく修正すら難しくなるらしい。

 そんなことは私の知ったことじゃないし、別に問題は無い。

 私はただ、自分のためにやるだけ。

 チャンスは──あと二回。


 エミリーさんは昨日、気がついたらあの場所にいたらしい。僕にはあの場所が立ち入り禁止なこととそのことが何か関係がある気がしてならなかった。何より、このまま放っておいてはいけないことのように思えた。カベッサさんはあの場所を封鎖した張本人だ。何か知っているに違いない。

 ノックしようとドアに近づいた時、中から話し声が聞こえてきた。どうやら誰かと話しているらしい。

「誰かと話してるわね」

「そうだね、また今度にするか……って──!」

 驚いて振り向くと、いつの間にか隣には金髪の残念な子がいた。

「なんだアリスか……ビックリさせないで」

 金髪は冷ややかな視線を僕に向けてきた。

「いやアンタが勝手にビックリしてんでしょ? アタシは別に驚かせようとしたわけじゃないし。それにこんなんで驚くなんて雑魚すぎでしょ」

 アリスは僕の一言に尋常ではない量のカウンターパンチをかましてきた。昨日、探検に連れて行ってもらえなかったことをまだ怒っているらしい。と言ってもアリスは昨日は仕事があったから無理だったわけで、つまり八つ当たりだ。

 アリスの煽りに心を痛めた僕は、口をすぼめてできる限り低い声で言った。

「アリスたんの煽りマジエグすぎて拙者のハートがインディペンデンスデーなんだがw 江口の爆盛り半チャーハンセット三杯は余裕だはw」

「なんだこいつ」

「冷たいアリスたんも最高だおw やっぱりインディペンデンスデーすぎるw 江口の爆盛り半チャーハンセット五杯は余裕だはw」

「いや二回言われても分かんないから。独立記念日にすぎるも何もないし江口の爆盛りってなに? 人間が皿に盛られてるの? 何で二杯増えてんの?」

「まあまあ、アリス氏もそこまで言わんくてもw」

「何であたしがなだめられてんのよ。ていうかなんでずっと笑ってんだこいつ」

 アリスはため息をついて話を変えてきた。

「……で? アンタは何してたわけ? こんなとこで盗み聞きなんかして」

 素で煽ってくるのはともかくとして、エミリーさんのことを他の人に話すべきではないと思った僕は、とりあえず適当に流すことにする。

「まあちょっと用があって。アリスは?」

「へ?」

 特に深い意味もなく聞き返すと、アリスはぽかんと口を開けた。

「あーあたし? あ、あたしはまーなんてーいうかー? 歩いてたらここにいたって言うかー気がついたらここにいたっていうかー? 廊下歩いてたらアンタが見えたから何となく来たとかじゃなくて」

 どっかのバカマーシャみたく目を泳がせているバカ金髪の無茶苦茶な嘘に、今度は僕がため息を吐いた。

 要するに僕の姿が見えたから何となく近づいてきたということらしい。

「今かわいそうなものを見る目をしたわね!?」

「……それどういうセンサー?」

 それにしてもまた心が読まれるとは。さては能力者か(適当)。

「だが今はこんなのに構っている暇はない。なんせ時間がない」

「心の声ダダ漏れなんだけど」

 アリスがわけの分からないことを言っているが無視する。

「なぜなら心の声が漏れるなんてそんなわけはないのだ」

「いやだから漏れてるのよ」

 それにしてもさすがにこのままにしておくのもかわいそうだ。アリスがいくらそういう属性のキャラクターだとしても限度がある。ここは一つ、アドバイスをしておくべきだ。そう思った時、天啓のようにある言葉が思い出された。

『肩に手を乗せて何か言えばそれっぽくなるんだよ! この税金泥棒が!』

 これは酔っ払いのおじさんが夜中に警察に取り押さえられながら叫んでいた言葉だ。捕まってまでこれを伝えたかったんだと思うと感動すら覚える。

 アリスを見る。なんだコイツって顔で僕を見ていた。やはり馬鹿だ。でも、だからこそアドバイスする必要がある。そうだよね、酔っ払いのおじさん。

「アリス」

 名を呼びながら両肩に手を乗せる。そのまま目をじっと見ると、アリスはなぜか顔を赤くして動揺した。

「え!? なに急に? も、もしかしてき、ききき、キ──」

「──一寸の虫にも五分の魂」

 その言葉と共に深く頷いてから、肩に乗せていた手をゆっくり離す。

「…………へ?」

 僕の言葉が心に響いたのか、アリスは十秒ほどぽかんと口を開けていた。

 そして我に返った直後、叫び声が廊下に響いた。

「バカにするなあーーー!」

「だめか」


 その後、アリスを何とか振り払い目的の場所に着いた。

「あ、おはようございます」

 僕の存在に気づき、その人は振り向いた。腰まで伸びた黒髪がふわりと風になびく。

 外見からしておおよそ20代だろうか。包容力のある優しそうな顔をしていて、お姉さんという言葉がよく似合うと思った。

「カベッサさんから聞いてるかもしれませんが、今日は二人での作業よろしくお願いします。私はHelenaヘレナと言います」

「ヘレナ……?」

 その名前を聞いたのは、はじめてではないような気がした。

「えっとー、どうかしました?」

 ヘレナさんは不思議そうに僕を見ていた。

「あ、いえ。明谷太郎です。今日はお願いします」

「明谷太郎くんね。ん? 太郎……?」

 僕の名前に何か引っかかるのかヘレナさんは意味深に名前を繰り返した。

 そんなに珍しい名前だったのだろうか。確かに今どき『太郎』は正直適当すぎると言うか二宮金次郎の友達か? みたいなところはあるけど──

「あ、やっぱりそうだ!」

 ヘレナさんはそう言って頷いた。

「マーシャが言っていた太郎って明谷さんのことだったんですね!」

「え?」

 どうやら、僕の名前が三秒で思いつきそうな件についてではなかったらしい。これ何かのタイトルでありそうだな。ところで──

「マーシャが言っていたっていうのは?」

「あ、勝手に盛り上がっちゃってすみません。太郎って聞いて『太郎はこの森のプロだから!』ってマーシャが言っていたのを思い出して」

 ヘレナさんはその時のことを思い出してか、楽しそうに笑った。誇らしげにマーシャが胸を張って言っている様子が鮮明に浮かび、僕はため息をついた。ここ最近、マーシャかアリスが関係すると必ずため息をついている気がするのは僕の思い違いだろうか。ため息で幸せが逃げるという話が本当なら幸せが全て逃げてもはやマイナスまでいっていてもおかしくない。

「森のプロなんですよね? 今日はお願いします」

 ニコッと笑いかけてくる。一瞬煽りかと思ったが、そういった雰囲気はない。どうやら本気で僕のことを森のプロだと思っているらしい。そもそも森のプロってなんだ。僕が知らないだけで実はめちゃくちゃ有名なワードなのだろうか。少なくとも僕は自分のことを森のプロだと思ったことはない。

「全くそんなことはないです」

「え? そうなんですか?」

 ヘレナさんは驚いていた。そもそも森のプロが意味不明なのにどうやったら驚けるのか僕にはまったく分からなかった。

「マーシャの言うことなんて90割は嘘なので当てにしない方が良いですよ」

「割合!? パーセントじゃなくて!?」

 その驚きぶりは、僕のボケたい欲(適当)を刺激してきた。

「え……? 知らないんですか……?!」

「なんでそんな驚いた顔してるの!? 知らないって何!? パーセントってついに100超えたの!?」

「……?」

「なんでそんな変な人を見るみたいな目してるの!? 言い出したのって明谷くんだよね?!」

「いいえ?」

「いいえ!?」

「そんなことより早く始めませんか?」

「何か私が悪いみたいになってるぅー!」

 落ち着いていて何となく話しにくそうだという第一印象はいつの間にか完全に消え去っていた。ヘレナさんはめちゃくちゃ元気で面白い人だった。



 作業に取り掛かりしばらくした頃、ふと疑問が湧いた。

「そういえばマーシャとは関わりがあるんですね」

「ん?」

 隣で薬草の採取をしていたヘレナさんは手を止めると、僕の方を向いた。

「……そう、ですね。マーシャに限らず多分この村の人とはだいたい関わりがあると思います。何か変ですか?」

 ヘレナさんは首を傾げる。

「僕も同じことを思ってたんです。でもヘレナさんと僕って今日はじめて会いましたよね?」

「あーなるほど!」

 そこでようやく僕の言葉の意図を察したのか、ヘレナさんは仰々しく手の平をポンと叩いた。それ本当にやるやついるんだ……。

「じゃあ今日こうして会う機会をくれたカベッサさんには感謝感謝! ですね」

「美味しいヤミー?」

「えっ、と?」

「しまった、罠か……!」

 ヘレナさんは困惑していた。なんならちょっと引いていた。

「ところでなんですけど、ヘレナさんって僕よりも何歳か年上の方……ですよね?」

「え? はい。そうですね。それが?」

 実は僕は、この人に会ってからずっと気になっていたことがあった。というのもシンプルな話だ。

「僕みたいな年下に敬語で話すのって何か疲れませんか?」

 すると、ヘレナさんは僕に言われるまでその事を自覚していなかったようで『あ、そういう事か。フムフム』という表情で納得しているようだった。

「あ、そういう事か。ヘムヘム」

 思っていたよりちょっとだけ忍者のたまごだった。

「フフ、優しいんですね」

 優しく微笑む顔を見たその日、人類は思い出した。姉という存在の包容力、そして、姉みという単語の存在を(スキップ推奨)。

 姉みとは何か。姉みと似たような言葉にバブみやママみといったものがある事は誰しもが知ることだろう。姉みとは、たった一言。読んで字のごとく、姉を持たない全ての人類にとって理想の姉であると判断された状態のことである。その判断は、全256項目の条件をクリアした後、国際会議によって決められる。全世界の姉好き一億人の中から選ばれた、平均年齢95歳の全世界の姉好き達による伝統的な国際会議、その名は──

 『お姉ちゃん! 将来ぜったい結婚しようね!』──通称『おねショタ』である。

「あのー、明谷さん?」

 ちょんちょんと指先で肩に触れられ我に返る。ウッキウキペディアのことを思い出すのに夢中になっていた。

「やっぱり無理してますか?」

 どうやら僕がウキキのことを考えている間に何か話していたらしい。

「えっと……すみません。と言うのは?」

「私が敬語を使わないことです。なんだか考え込んでいたようなので無理してるのかなって思って」

「あーいえ! そんなことは!」

 どうやらヘレナさんには僕がいやいや言って悩んでいるように見えたらしい。

「なんて言うか、その、僕はタメ口で話してもらった方がしっくりくるんですけど、それをヘレナさんに強要するのは違うなーって考えてて」

 咄嗟に思いついた言い訳を口にする。

「あ、そういうことだったんですね。やっぱり優しいですね」

 ヘレナさんはそう言って微笑んだ。

 優しいと思われているのは少々心苦しいが、どうやら他のことを考えていたのは誤魔化せたらしい。

「よし、じゃあ分かりました。あ。じゃなくてえーっと。分かった! タメ口で話すね? 早速間違えちゃったけど」

 そんなテンプレ過ぎるやり取りの後、再び作業へと取りかかる。


「はー終わったー!」

 ヘレナさんは座ったままグーっと背伸びをする。ずっと座っての作業だったこともあり、僕も何となく背中が痛い。

「明谷くんのおかげでだいぶ捗ったよー。ありがとね」

「僕の方こそヘレナさんのおかげで助かりました」

 ヘレナさんは僕よりも仕事慣れしていて、仕事量で言うと僕の二倍はこなしていた。それでもこういう言葉が自然と出てくるのは、ヘレナさんの性格の良さを表していると思った。

「よし、じゃあ帰ろっか」

「ですね」

 僕は薬草を入れたカゴを、ヘレナさんは木の実を入れたカゴを抱え、それぞれ立ち上がる。

 その時、右足に重みを感じた。

「ん?」

 僕の右足の上には、そこには何とも気持ち悪い生き物が乗っていた。例えるなら、ピンク色の蛙みたいだった。

「うわ! なにこれ!?」

「あ! 明谷くん! ダメだよ刺激しちゃ」

 ヘレナさんの言葉を聞く余裕もなく、とにかく気持ち悪いその生物を払いのけるために足を振り回すと、意外にもすんなり足から降りた。そして、鳴き声をあげた。ヤギと牛を混ぜたような、そんな気持ち悪い鳴き声は、まるで何かの前兆のようだった。

「あ、まずい。逃げないと──」

 すると突然、その生物は体からピンク色の煙を噴出した。ボフ と勢いよく噴出された煙ですぐさま辺りが包まれる。

 絶対に吸ってはいけない色だ。どう考えても危険な色をしている。──そう思う頃には僕はもう、煙を十分に吸っていた。

 頭に靄がかかったかのように意識がボォーっとする。例えるなら徹夜した日の朝のような、脳が働いていない感覚だった。それに体が妙に熱い。これはいったいどういう効果の煙なんだ? 確かヘレナさんが何か言ってて──

「──そう言えばヘレナさんは!」

 煙の中姿を探すと、わずか数歩先にその人はいた。

「はあ……はあ……はあ……」

 ヘレナさんは息を荒らげ、どこか苦しそうに顔を赤くしていた。その様子はどうにも僕よりも強くこの煙の効果を受けているように見えた。

 僕が追い払ったあの生物は煙を出す瞬間、ヘレナさんのかなり近くにいた。つまり、ヘレナさんは僕よりもこの煙を吸ってしまっている。

「大丈夫ですか?」

 すぐさま近づく。仮にこの煙が有毒だった場合、すぐさま村に連れていかなくてはならない。

「あ、明谷……くん」

 ヘレナさんはゆっくりと僕の方を見た。ヘレナさんの目はトロンとしていた。それになんだか吐息が熱っぽい。やはり有毒な煙の可能性が高い。

「この煙のこと知っているんですよね? 吸っても大丈夫なものなんですか?」

「はあはあ……いや、大丈夫、だよ……害は、ないから」

 ヘレナさんは相変わらず吐息をこぼしながら言った。僕はその様子が、何と言うか妙に色っぽいと思った。

「でも苦しそうじゃないですか」

「うん。心配、ないから。苦しいん、じゃ……ないの。それより、あついね……」

 ヘレナさんの首元を汗が伝っていく。汗は首から下へとゆっくりと滑っていき、やがてその先にある谷間の中へと消えていく。

「はあ、はあ……服、邪魔かも……」

 改めて見るとすごい汗だ。元々薄着だったせいか、ヘレナさんの服は体にピッチリと吸い付いており、胸が否応なしに強調されていた。この煙のせいか、半ば無意識にその豊満な胸元を僕は見ていた。

 次の瞬間、首筋をザラザラとしていて柔らかい感触が撫でた。

「ヘレナ、さん?」

「ふふっ。汗、舐めちゃった」

 目の前にいるヘレナさんは舌を出して挑発するようにそう言った。

「ねえねえ、明谷くん?」

 そんな思考をかき乱すように、ヘレナさんは僕の目を見ながら細い指を絡ませてくる。

「代わりに──」

 媚びるように首元を突き出すと、上目遣いで僕を見た。その目は潤んでいた。

「私のも舐めて?」


 目を開けると、さっきまで作業をしていた森の中だった。陽は沈みつつあった。

 夢だろうと思ったが、隣にいるヘレナさんを見て現実だと確信する。

 隣で眠っているヘレナさんの服は汗でピッチリと肌に吸い付いており、呼吸をする度に胸が上下に揺れるのがハッキリと分かる。……そうじゃなくて。

 どうやら僕とヘレナさんはしばらく意識を失っていたらしい。さっきまで真昼の青色だった空が今は少しだけオレンジ色に染まり始めていた。

「あれ? 寝ちゃっ、てた……?」

 ヘレナさんは眠たそうに身体を起こした。

「あ、目が覚めたんですね」

「あれ、明谷くん……? 確か収穫をしてて、それで作業が終わって……それから……」

 ゆめうつつで呟いていたヘレナさんの顔が突然真っ赤になる。

「夢だよね!?」

 勢いよく振り向いてヘレナさんは言った。完全に涙目だった。夢だと思いたくなる気持ちは僕にも分かる。

「多分……違いますね」

「えっと、明谷くんは、そのことを覚えてない、みたいな?」

 僕はヘレナさんがあまりにも不憫でどちらとも言えなかった。正直僕がヘレナさんだったら恥ずかしすぎて死にたくなるかもしれない。ヘレナさんは諦めるように笑った。

「あはは、まあそうだよね」

 僕の沈黙からヘレナさんは察してしまったらしい。あるいは、はじめから分かっていたのだろうか。「あーーーー」

 ヘレナさんはバッと両手で顔を覆った。今どんな感情が渦巻いているのか僕には想像がつかなかったけど、ただとてつもなく何か、すごく、大変だということは分かった。

「ごめんちょっと待って……恥ずかしすぎて明谷くんの顔見れない。どうしよう。ちょっと待って。私やばい。どうしよう」

 ヘレナさんは顔を隠したままスーハーと深呼吸を繰り返していた。めちゃくちゃ呼吸しにくそうだった。

 僕は罪悪感のような感情から声をかけていた。それが慰めにならないとしても。

「でもヘレナさんが悪いわけじゃないですよね。あの何か蛙みたいなやつのせいなんですよね?」

「そうだけどさあー」

 ヘレナさんは体をバタバタと動かす。その様子がなんだか駄々をこねる子どもみたいで、どこか愛らしかった。

「あれって何なんですか? と言うかあれってよく出てく──」

「そうだ! そう言えば!」

 ヘレナさんが突然叫ぶ。驚いてヘレナさんの方を見ると、その両手はもう顔を覆っていなかった。

「明谷くん、本当にドロイトサクローのこと知らないの?」

「え、どろいとさ、何ですか?」

 ヘレナさんは繰り返した。

「ドロイトサクロー。さっきのピンク色のやつの名前。ほんとに知らないんだ……」

 ヘレナさんは何か真剣な表情で考えていた。

「それが何かまずいんですか?」

「知らないのは絶対おかしいってわけじゃないんだけど、明谷くんってこの森に入るのははじめてじゃないよね?」

 質問の意図は分からないが、とりあえず頷く。

「ドロイトサクローは普段はもう少し奥の方にいるし、そんな頻繁には出ないんだけど、逆に言うとそれなりには出てくるんだよね。わたしも見るのは今日で四回目か五回目ぐらいだと思う。だから多分、この村でまだあれを見たことないのって明谷くんぐらいじゃないかな」

「なるほど……それは運が良いと言うか悪いと言うか」

 僕がそう言うとヘレナさんは気まずそうに笑った。

「良いんじゃないかな。少なくとも今日みたいなことにはならないわけだし」

 その頬はまた少し赤くなっていた。



 村に帰る途中、ドロイトサクローについて話を聞いた。

 ドロイトサクロー。群れで見かけることはなく、刺激を与えると煙を出す。人がその煙を吸うと、害はないものの極度の興奮状態になってしまう。

 ──ということらしい。何だそのエロ漫画みたいな設定。あいつこの村で一番チートしてない? 主人公?


 かごを食料庫に運び外に出る。

「じゃあまた機会があればお願いします」

「うん。またね明谷くん。それと──」

 ヘレナさんはそこで人差し指を口元に当てた。

「──あのことは二人だけの秘密ね?」

 そう言って僕にウィンクをすると去っていった。

 僕はその背中を見ながら考えていた。リアルでそんなモーションする人いるんだ、と。おそらく意識してはいないであろう。アニメでおなじみ、一話の終盤の別れ際に思わせぶりなヒロインが主人公をドキッとさせるアレ的なソレをヘレナさんはやっていた(早口)。

 もっとも、ヘレナさんのような綺麗な人がやるから許される所作であり、ちょっと顔がよろしくない人がやれば即射殺ものだ。

「──はっ!?」

 この『はっ!?』は尻尾が九本ある狐を体に宿したオレンジ髪主人公のアニメの次回予告の時の『はっ!?』ではない。詳しくは本家を見てほしい。これはとんでもない事に気付いてしまったという『はっ!?』である。

 間違いない。あんなアニメでしかしないモーションをする人が実在するということは、つまり──オタクに優しいギャルは実在する。



 ◇

 翌朝、僕はカベッサさんの部屋に向かっていた。昨日は結局話しそびれてしまった。

「カベッサさーん、ちょっと良いですか」

 ノックをするとすぐにドアが開いた。

「なんだい、こんな時間に」

 いつも通り死んだ表情をしている。元気そうだ。

「あんた今失礼なこと考えてないかい」

「いえ、別に」

 早速、それとなく聞いてみることにする。

「森の奥に立ち入り禁止になってる場所ってあるじゃないですか? あそこって一体何で禁止になってるんですか?」

 カベッサさんは僅かに顔を曇らせた。

「……どうして急にそんなことを?」

 試すように聞いてくる。知らない、とは言わなかった。

「別に深い意味は無いです。一昨日エミリーさんに村を案内したんですけど、その時にふと思って」

「……とりあえず中に入りな」

 促されるようにして部屋に入る。

 久しぶり……いやいつぶりだ? カベッサさんの部屋に入るのは。

 当然と言えば当然だが、カベッサさんの部屋は僕の部屋のような、貸出の部屋よりは広い。

 部屋を見渡すと、ベッド、机と椅子、それに本棚が一つ。それだけだ。壁にお気に入りのアイドルだかアニメだかのポスターが汗臭いほどにびっしりと貼っているなんてこともなければ、かと言って時計すらない。必要最低限。まさにそんな感じだ。

「いつまでジロジロと人の部屋を見てんだい」

 その言葉に視線を向けると、カベッサさんが不愉快そうな顔で見ていた。

「あ、すみません。つい久しぶりだったので」

「それで? まさかとは思うけど入ってはいないだろうね」

 カベッサさんは椅子にこしかけると確認するように言った。この態度からして正直に入ったと言うべきでは無いと僕は思った。

「もちろんです」

「そうかい。まあそれなら良いんだけどね」

 そう言うとカベッサさんは深く息を吐いた。

 そんなカベッサさんに自分が感じている疑問をぶつけてみることにする。

「あの場所には呪いや祟りなんかがあるんですか」

 瞬間、露骨に目つきが鋭いものへと変わる。睨むような目が僕を捉えた。

「……どういう意味だい? あんた入ってないって言ったよね?」

「いえ、と言うのも実は──」

 僕は、柵の奥に入ったということだけを隠して、エミリーさんの様子がおかしかったことを伝えた。

「そうかい……それは少し変だね……」

 カベッサさんは顎に手を当て、難しい表情を浮かべる。そして考えながら小さく呟いた。

「あれは嘘じゃなかったのかい……」

「え? なんて」

「それであんた、この話を他の人にしたかい?」

 カベッサさんは僕を見て言った。その目はいつものカベッサさんとは違っていた。どう違うのか表現できないが、何となくいつもよりも余裕がないように見えた。

「誰にも話してませんけど、それが」

「いいかい? とにかくこのことは忘れな。それからあんたは二度とあの場所に近づいちゃいけない」 カベッサさんは一方的に話を進める。

「急に何ですか。何か知っているなら納得出来る理由を教えてくださいよ。そうじゃないと」

 こちらの言葉を待つことなく首を振る。

「ダメだ教えられない」

「どうしてですか。何かおかしいですよ、カベッサさん」

「おかしくてもいいさ。あんたがあそこに近づかないならそれで」

 どうやら本気で話す気はないらしい。その目は僕を見ていなかった。

 相手にされていないんだと思うと僕は感情的になる自分を抑えられなかった。

「そこまでして隠して! それほどの何かがあそこにあるんですか? それは僕が知っちゃいけないことなんですか! だいたい! あそこには別に──!」

 勢いでこぼれそうになった言葉をギリギリのところで飲み込む。

「別に、何にも無さそうに思えます。どうして……何がそんなにダメなんですか」

 カベッサさんはもう何も言わなかった。

「……分かりました」

 これ以上話しても無駄だと察した僕は部屋を出ることにした。

 その時、カベッサさんは感情のない声で言った。

「──そうしないとあんたは最悪な目に遭う」

「……今なんて? 最悪な目に遭う?」

 口にして思わず笑った。そんな馬鹿げた話があるだろうか。あの場所に行けば良くないことが起こると言いたいらしい。荒唐無稽にも程がある。

「脅しにしては随分大胆なことを言いますね」

 カベッサさんはそんな嘘をついてまで何かを秘密にしようとしている。そのことを今確信した。

「脅しじゃない。ただ──」

「──カベッサさん、ちょっといいですか」

 ドアをノックする音と声が続く言葉を妨げた。この声は……ヘレナさんだろうか。まあ誰でもいいか。僕のやることはもう決まった。

「ちょうど来客が来たようなので戻りますね」

 僕はドアノブに手をかけると、カベッサさんは先ほど言いかけていた続きを口にした。

「ただひとつだけ信じてほしい。あたしはあんたの為に言ってる。そしてあたしの為でもある。だからあそこには間違っても近寄っちゃいけない」

 僕は何も答えなかった。特に聞いてもいなかった。カベッサさんにしては弱弱しい声だ、なんて他人事のように思いつつ、ドアを開けた。

「え!? うわっ! とっとっと!」

 スッテンコロリンドンドコドーン

 たまたまドアに体重を預けていたのか。おにぎりではなくヘレナさんが滑るように転がり込んできた。

「あ」

 ……そういえばいたの忘れてた。


 ヘレナさんに謝罪をして部屋を後にした僕は、いつものように自室で予定を確認した。

「今日も特に予定はなし、か」

 話を聞いて分かったのは、カベッサさんがあの場所について何か知っていることがあって、それを隠しているということだけだ。結局エミリーさんのことについては手がかりを得ることは出来なかった。

 つまり、謎が増えただけだ。

「それにしても何であそこまでする?」

 見た感じ、死ぬという嘘をついてまで隠したいことがあるようには思えない。

 答えが出ないことに苛立ちを感じつつ僕は部屋を出た。


 僕は再び山の奥にある柵の前に来ていた。

 あれだけ言われてまたここに来る僕は愚かかもしれない。でも何も教えてくれないことには何にも分からないのも事実だ。カベッサさんが教えてくれないなら自分で探すしかない。

 とりあえず柵を乗り越えてみたものの、手がかりも何にもない。ひとまず適当に散策してみることにした。


 歩いてみて唯一分かったのは、ここに生えている木はよく見るとそれぞれ微妙にサイズが異なっているということだった。 中には葉は枯れ、しぼみかけている木もチラホラあった。要するに、何にも収穫はなかった。こんなのは当たり前のことだ。何か他に──

「そうだ、精霊──」

 どうして今の今まで思い出さなかった。あの精霊なら何か分かるかもしれない。少なくとも僕が自分で考えるよりは余程マシだ。それにそもそもこの前は急にいなくなっていたし──

 一度思い出すと、次々に疑問が湧いてくる。僕は自然と早足であの場所へと向かっていた。


 精霊の家に着くと、今日も明かりがついていた。

 ──いる。そう確信した。

「精霊、いますか?」

 少しだけ大きな声で言ってみる。

「──やあ、こんにちは」

 応答があって、間もなく僕の前に僕の姿をした精霊が現れる。そういえばそうしないと姿が見えないんだったか。いやそれよりも──

「前回はすまなかったね」

 僕が言うよりも早く精霊は言った。

「君の前から突然いなくなってしまった」

「あれはなんだったんですか」

 精霊は相変わらずどこか余裕のある様子で軽く笑った。

「いやなに、単純な話さ。私は君とは同じ世界を生きているわけではないという話はしたよね」

 僕は頷いた。

「だから、僕の姿をしないと僕からあなたは観測できないって言ってましたよね」

「そう。まあ厳密には君が知っている君の世界の存在であることが私を観測できる条件で、一番確実なものが君そのものというだけなんだけど」

 精霊は、またよく分からないことを言っていた。僕は半分聞き流していた。

「それはさておきだ。簡単に言うと、私が君と会うことには制限時間があるんだ」

「時間制限、ですか。それで前回はその制限時間を過ぎたから突然いなくなったと?」

「端的に言うとそうなる。厳密には、私はあの時ここからいなくなっていたわけではないし、明かりが消えたわけでもない」

「どういうことですか」

「ただ君は私に干渉できなくなってしまったから君の世界ではそうなっていた。つまり私の時間制限と言うよりは君の時間制限なんだ」

「なるほど……?」

 僕は聞いてから後悔した。いったい何回同じミスを繰り返すんだろうか。聞いてもどうせ分からない。

「私もそんなルールがあることを忘れてしまっていてね。君には申し訳ないことをした」

「それは、まあ、何となく分かりました。それは別にいいんです」

 要するにいつまでも話していることはできないということらしい。突然消えたことは正直疑問の一つではあったが、今の僕の中ではそこまで大きな疑問ではなかった。それよりも聞きたいことはある。時間がないなら尚更だ。

 精霊はわずかに驚いた様子だった。

「てっきり君が今日この場所に来たのはこのことなのかと思ったのだけど……他にあると?」

「はい。前回、僕が近くの村に住んでいるという話はしたと思います」

「そうだったね。そう言えば、私の勘は当たっていたのかな」

「そのことにも関係があります」

 前回、誰かに誘導されたんじゃないか、と精霊は言った。結局それは違っていた。だがあの日、別の疑問が生まれた。

「そうか……」

 精霊は少しだけ考えてから言った。

「つまりあの日、誘導されたわけではなかったが何か別の不可思議なことが起きた、と」

 本当にこの人には全てお見通しなのかもしれない。僕はもう驚きよりも感心が勝っていた。

 僕は頷いて説明した。エミリーさんのこと、そしてカベッサさんが何か隠していること。その何かが分からないこと。全て。

「──なるほど、そうなったか……」

 精霊は顎に手を当てて何か呟いていた。顔を上げて僕を見る。

「つまり君は、柵の中にある謎を解きたいと考えている、ということでいいのかな」

「そうです。あなたは僕よりもどう見ても賢い。だから何かアドバイスみたいなものをもらえないかと思ったんです」

 僕の言葉に、精霊は再び顎に手を当てた。考える時の癖なのだろう。顔を上げた精霊は申し訳なさそうに言った。

「君が私のことを評価してくれていることはありがたい。だが私は探偵でもなんでもないよ。君の世界のことをまったく分からない私が君の求めるような回答を提示することはできない」

 僕はそう言われてはじめて、それが当たり前だということに気がついた。そう言われるまで思いもしなかった。僕は勝手に、この精霊ならこの場所の秘密を解き明かしてくれると期待して、いや確信していた。たったこれだけの情報で、しかも手がかりという手がかりはないのにどうやって解き明かすというのか。

「すみません、僕はむちゃくちゃなことを言っていました」

 幼稚な考えをしていた自分が無性に恥ずかしくなって僕は半ば無意識に謝っていた。やっぱり自分で探してみるしかない──

「──だからこれはあくまで一般論に当てはめた考えだけど」

 僕は顔を上げた。精霊は続ける。

「視野を広げてみるべきじゃないかな。君は、この場所をある程度散策して何も見つけられなかった。そうだよね?」

 僕は促されるまま頷いた。視野を広げる? どういう意味だ?

「仮にだ。君が警察か、あるいは探偵だとしよう。ある住宅で殺人事件が起きた。凶器は不明で、その家のどこを探しても凶器が見つからない。君はどうする?」

 考えてからすぐに答えが出た。そもそも答えは一つしかない。誰だって同じことを言うに違いない。

「それは……他の場所を探すか、凶器以外の手がかりを見つけようとする」

「その通り」

 精霊は満足そうに頷いた。僕の答えは間違っていなかったらしい。

「じゃあどうしてそうする?」

 僕には質問の意図が分からなかった。この精霊にしては珍しいほどに、あまりにもばかげた質問ですらあった。

「だってそんなの、見つからない場所を探したってしょうがな──!」

 僕はようやく精霊がどうしてこんな問答をしたのかを理解した。

「視野を広げるという言葉の意味が分かったようだね。と言ってもこれはあくまで汎用的な考え方に過ぎない。君の力になれないことを申し訳なく思っているよ」

 ここまでして、それでも精霊は力になれないと言う。本気でそう思っている。やはりこの精霊は僕なんかとは比べ物にならないほどに優れた存在だ。こんなにも分かりやすく、かつ納得できるアドバイスを提案できる存在が他にいるとは思えない。わざわざ回りくどい言い方をしたのも、僕が自分で理解しないと意味がないと思ってのことだろう。

「さて、そろそろ時間かな」

「その前に一つだけいいですか」

 僕はどうしても伝えたいことがあった。伝えたいと思っていた。

「その、ありがとうございます」

 精霊は少し驚いてから軽く笑った。

「別に私は大したことはしていないよ。君はいずれ同じことをしていたはずだ。それが少し早まっただけに過ぎない」

「それでも……すごく助かりました。また、来てもいいですか」

 精霊が頷くのを最後に明かりが消える。そこにはもう精霊はいなかった。

 僕よりも遥かに賢くて、それでいて親切にしてくれる精霊。はじめは感情を感じない冷酷さのようなものを感じて何となく話しにくかったけどそれは勘違いだった。精霊は冷酷でも何でもない。僕と同じ、感情を持った生き物だ。僕は、精霊とのこの時間が好きになりつつあった。


 村へ戻りながら考えてみる。

「視野を広げてみる、か」

 その意味は分かった。つまりあの場所に固執するのではなく他の場所を探してみる必要があるということだ。だけど具体的にどうすればいいのか分からない。

「分かりそうで分からない……どうしたものか──ん?」

 後ろを振り返るも誰もいない。

「ま、気のせいか」

 視線を感じるなんて、もしかしたら今更厨二病を患ってしまったのかもしれない。包帯と眼帯と喋り方と人間関係と画数の多い漢字には気をつけなくては。


 部屋に戻るとエミリーさんがいた。

 エミリーさんも今日は休みだったらしい。エミリーさんの隣にはもう一人いた。

「太郎! なになに暇なの?」

 僕はため息をついた。こっちは考え事に没頭したいのに。

「あ、邪魔だったら私たち外に行ってましょうか? 行こ、マーシャちゃん?」

「ヌッ!」

 マーシャに対してタメ口になっているという素晴らしい出来事について20000000時間ぐらい語り明かしたい衝動を抑えつつ僕は言った。

「あ、気にしないでください」

 それよりこのまま出て行かせるのは申し訳ない。もちろんマーシャではなくエミリーさんに。

 それに、ちょうどいい。

「それよりちょっと聞きたいことがあって」

「なに? 珍しいね、太郎がそんなこと言うなんて」

「ちょっとね。視野を広げるにはどうしたらいいと思う?」

 言ってから僕は気付いた。

 この経緯をどう説明する? 事実は話せるわけがない。だから──

「急に何の話?」

 マーシャが聞いてくる。二人からすれば何のことやらという感じだろう。

「あー、ちょっとクイズ出されてて」

 僕は咄嗟にそう答えた。嘘は言っていないし、即席にしてはまずまずだ。

「クイズ、ですか……」

 エミリーさんは疑問に思っている様子はなく、僕は何とかなったと安心したが──

「誰が? アリス?」

 マーシャが興味津々にそう聞いてくる。当然の質問だ。この質問が何よりも難しい。適当に存在しない人の名前を言ってマーシャが知らない人だった場合、確実に疑問を持たれる。かと言って、例えばアリスのように、すぐに聞ける相手を選んでしまうと、本人に確認された時に嘘だとバレる。そうなればなぜこんな嘘をついたのか話さなければならない。それだけは絶対に避けないといけない。

 つまり、すぐに聞ける相手ではなく、それでいてそういう事を言ってきそうな人物──浮かぶ人物は一人だけだった。

「カ──」

 カベッサさん、と言いそうになってやめる。カベッサさんがそんなことを果たして言うだろうか。僕の周りにいる人で一番そんなことを言うとしたらカベッサさんだ。でもそれは消去法に過ぎない。カベッサさんも言わない。でもそうなると他に人なんていないし──

「太郎? どうした?」

「いや、今のは実は嘘なんだ」

「え? なんでそんな嘘──」

 マーシャが疑問の声をあげた。

「──実は本に書いてたんだ」

 人じゃなく物に言われたことにする、それなら誰にも聞かれずに済む。問題なのは一度嘘をついた理由を何て説明するかだ。

「その本に、答えは書かれてなかったんですか?」

「実は書かれてなくて……」

 我ながらかなり苦しい。でもこう答えるしかない。そうでなければそもそも聞く意味が無くなってしまう。

「ところで太郎」

 マーシャは疑問の表情で僕を見た。答えが分かると言うよりは、もっと違う何か──

「それって買ってもらったの? ばあばにお願いしたとか?」

「え? なんで?」

 何かおかしいのか?

「だって買い物に出かけてるのってばあばだけだし、そのくせ買い物について行くの絶対許してくれないから。買ってもらったんだったらお願いして買ってきてもらったのかなって」

 瞬間、全身を一本の電流が突き抜けた。あまりにも盲点過ぎて忘れていた。

「そういう事か!」

 思わず声に出していた。

「ん? え、なに? どういうこと?」

「わたしも何が何だか……」

 二人はさっぱり分からんという様子で顔を見合わせていた。でも説明している暇は無い。

「じゃあ僕は用事出来たから!」

 部屋を飛び出して一階に向かう。

 なぜ気づかなかった? 視野を広げる上で村の外に出ることほど分かりやすいものは無い。村の外に出て、例えば図書館なんかに行けば何か分かる可能性はいくらでもある。気付いてしまえば本当に不思議だ。どうしてこれまでこんな当たり前のことに気が付かなかったのかと思うほどに。

 僕は、今日二回目のノックをその部屋にした。

「こんにちは、カベッサさん」

 ドアを開けて相変わらず気だるそうに僕を見る。

「何だい? あたしゃ今から出かけるところなんだ。急ぎじゃないなら今度にしてくれ」

 僕は内心でガッツポーズをした。

「僕もついて行っちゃだめですか、それ」

「同行? 何でさ」

 カベッサさんはわずかに目を細めた。突然言い出したことを怪しく思っているらしい。

「今まで一回も村の外に行った事が無いんですよ? さすがに一回ぐらい良いじゃないですか」

「ダメだ」

 カベッサさんはすぐさま否定した。カベッサさんはこれまで一度も買い物を他の人にさせたことがない。マーシャに言われて僕はそのことを思い出したけど、今思うとこれはかなり異常なことだ。何か手がかりがあるような気がしてならない。

「それにカベッサさん一人だけで村の買い物全てやってるんですよね? それってとても大変なんじゃないですか? 僕だったら荷物持ちにしても他の人よりも力になれると思うんですけど。一応男なので」

 あえて強調して言ってみる。

「そうさ。アンタはこの村唯一の男……」

 カベッサさんはどこか遠くを見ながら僕の言葉を繰り返した。

「じゃあ──」

「それでも、とにかくダメなもんはダメだ」

 期待したのも束の間。やはり折れる気は無いらしい。今朝のやり取りで分かったけど、カベッサさんは基本的に意見を変えない。

「はあー……」

 やれやれ。これだから老人は頭が固い人が多くて困る。老人なんてほとんどはどうせ歳取ったら偉いとか思ってるんだろうし無理もないか。

「なんかすごい失礼なこと考えてそうな顔だけど……とりあえずあたしはもう行くからね」

「そうですね。これ以上時間を取らせるわけにもいきませんから」

 そう言って、買い物用のかごを手に建物を出るカベッサさんの背中を、僕はしっかりと見送った。


 ◇

 村の外、木々に囲まれた道を僕は歩いている。僕の少し先にはカベッサさんがいる。

 カベッサさんは一度ダメだと決めたことはダメとしか言わない。であればどうすれば良いか。簡単なことだ。こっちもやりたいようにやる。つまり尾行だ。これまでのやり取りを通して、カベッサさんが理由もなしにただダメだと言っているわけではないというのは分かる。何か意味があってそうしているのは分かる。だけどやっぱり僕は、説明も無しに納得はできない。

 視界が開けると、そこには果てしなく続く平野と──

「──街だ」

 街の規模はさほど大きくない。むしろ小さいと言うべきだろう。特にこれといった特徴もなく、RPGにだいたい一個はあるような、ちょっとしたセーブポイントとアイテム補充ができるぐらいの街だ。それでも僕は、はじめて見る村の外──そこに広がる街に、期待が高まっていくのを感じずにはいられなかった。

 そんなことを考えている間にも、僕の視界の先ではカベッサさんは街の中を進んでいく──ことはせず平野に出るとその場で立ち止まった。

「出てきな」

 思わず心臓が跳ねた。

 バレていた?いやでもそんな様子はなかったはず……。

 僕はそのまま様子をうかがってみることにする。気のせいだったと思い直すのではないか、そう期待したが──

「出てきな」

 カベッサさんは、今度は後ろを振り返って言った。まるで木の後ろに隠れている僕が見えているかのように。やはりバレている。

 それでも僕は出ていくつもりはなかった。ここで出ていけばきっと帰れと言われる。ここまで来てそれは困る──いや、そうでもない。これで場所は分かった。次はカベッサさんが居なくとも一人で──

「別に、帰れなんて言わないさ」

 カベッサさんがそう言った時、僕はカベッサさんの前に姿をさらしていた。

 ……なぜだろうか。その言葉が、その仕草が、とても悲しそうに見えたのは。出ていかないのは何か、してはいけないことのように感じたのは。

「やれやれ、やっぱり着いてきたんだね」

 呆れた様子でこそあれ、驚く気配は全くない。

「どうして分かったんですか」

 ここに来るまでまったく気づいていた素振りはなかった。なぜ分かったのだろう。理由はあまりにも呆気なく単純なものだった。

「あたしなんかただの老いぼれだからね。うまいこと尾行されてたら気付くわけもないよ。まあつまり……あんたは下手すぎる」

 何となくショックだった。

「いつから気付いてたんですか?」

「んー、そりゃ街に着く少し前ぐらいかね。そもそもはじめから気づいてたら追い返してるに決まってるだろ?」

 それもそうだ。どうやら惜しくも気づかれてしまったしい。何がいけなかったんだ。

「ま、とにかく。着いてきたからにはしっかり仕事してもらわなきゃ困るよ」

「もちろんです」

 最初からそれぐらいは覚悟していたことだ。むしろ荷物持ちをするぐらいでこの件が許されるのなら安い。

 カベッサさんは満足そうに頷くと、歩き始めた。

「じゃあ着いてきな」

 街の中はさっき思った通りの景色で、店と家が一体になったような二階建ての小さな建物が何個かあるだけだった。出店でよく分からない果物が売ってるなんてことはない。そもそも出店が存在しない。まして図書館なんてあるわけもない。と言うかそもそも図書館なんてこの世界にあるのだろうか。

「ここだよ」

 カベッサさんの言葉に視界を目の前に戻すと、そこも他の建物と同じ、店と住居が一体になった建物だった。

 ドアを開けて中に入るカベッサさんに続いて、僕も店内に足を踏み入れた。


 あたしは嘘をついた。

『んー、そりゃ街に着く少し前ぐらいかね』

 なぜこんな嘘をついたのかよく分からない。はじめから知っていたのに。

 なぜ言わなかった。なぜ村に帰さなかった。

 今までの全てを無駄にするのか、また過ちを繰り返そうとしているのか、あるいは──解放されようとでも言うのか。どうやったって消えないこの苦しみから。

 から。

 いや、違う。そんなことではない。ただ、あの子が柵の奥に入ったのを見たから、あの子がもう殺されるから、だからこんなことをしている。

 罪滅ぼしでもなんでもない。これはただの自己満足だ。


 店内には野菜や果物といった食材が並べられており、スーパーの野菜コーナーを彷彿とさせる。

 僕がこうして店内を観察している間にも、カベッサさんは慣れた様子で買い物をしていた。慣れているというかもはやノールックに近かった。あまりの速さに、食材が動いているのか手が動いているのか、はたまた地球が動いているのかすら分からなくなってくる。なわけあるか。

「──やあ、カベッサさんかい?」

 そんな事を考えていた時、店の奥から女性の声がした。これだけ買い慣れてることを考えれば当然とも言えるが、どうやら店員とはそれなりに面識があるらしい。

 階段を降りる音から少し遅れて女の人が姿を見せる。

「ああ、やっぱり」

 大人っぽくもありつつ不思議と若さも感じる人だった。くっきりとした目元に整った鼻。右の目の下には特徴的な泣きぼくろがあり、綺麗に伸びた茶色っぽい黒髪がとても似合っていた。

 半袖の薄着を着たその女性は僕の方をちらりと見ると、首を傾げた。

「おや? その子は?」

「勝手に買い物に着いてきた荷物持ちさ」

 カベッサさんの嫌味な言い方からして、まだ許されてはいなかったらしい。

「へー、じゃあその子が村で一人だけの男の子?」

「そう。前に話したやつさ」

「なーるほどー」

 そう言いながらどんどん僕に近付いてきて──

「よーしよしよし」

 大人っぽさはどこへやら、わしゃわしゃと頭を撫でてくる。

「ちょっ、なんですか急に」

 僕のことを犬と思っているのかもしれない。

「恥ずかしいの? 思春期かな? おいおい〜」

 今度は頬をツンツンと人差し指で軽く押してくる。酔っ払いだろうか。

「あの、カベッサさん……どうにかしてください」

 こ隣でこのやり取りを眺めているカベッサさんに助けを求めてみる。

「その子は子どもが好きでね。ほとんど関わる機会がないってのもあって、子どもがいるとそんな感じになっちゃうのさ」

「いや説明はいいんで」

 その人は、僕とカベッサさんがこうして話すのも気にせず、ツンツンしてきていた。性別が違ったら百パーセント捕まっている。

「まああんたが勝手についてきたからこれぐらいは仕方ないこと……と言いたいところだけど」

 このまま放置されるのかと思ったが、幸いカベッサさんにも人の心はあったらしい。

「ほら、そろそろいいだろ? Rachel《レイチェル》」

「えー何? 今いいところなんだけど」

 ……いいところ? どこが?

「ほら、その子も嫌がってるから。嫌われる方が嫌だろ?」

「えー。まあそうだけど」

 渋々といった様子でレイチェルという名前の人は僕の頬を突くのをやめた。人生でこんなに頬を突かれることがあるとは思わなかった。

「私はレイチェル。君は?」

 僕は少しだけ驚いた。

 僕のことを知っている様子だったからてっきり名前ぐらい聞いていると思ったが、どうやら知らないらしい。

「僕は明谷です。カベッサさん、言ってなかったんですか?」

「この子にあんたの名前を言ってどうすんだい? あたし以外買い物に行かないんだから。こうして会うことになるなんて、全く、これっぽっちも、想像してなかった」

 部分的に強調して言ってくるあたりキレていることは確実だ。話を逸らさないと。

「えーっと、ところでレイチェルさんはさっき音だけでカベッサさんが来たって分かったんですか?」

「ん? そうだね。カベッサさんの歩いてる時の音で分かるんだ。いっつも街に来た時にはここに来てくれてるし、まあなんていうか……慣れ?みたいなやつだね」

「そうだったんですか。じゃあカベッサさんは毎回街に来た時はここに来てるってことですか?」

「ん? 今同じこと言った? いや気のせいか」

「気のせいですね」

 僕は真顔で言った。

 とにかく気を逸らさなくてはならない時に、小さな泉の構えた文章、通称──小泉構文は非常に役に立つ。この小泉構文は全く同じことをさも真剣な顔で繰り返すことで、会話をしているようで実はまったく意味も中身も無い時間を相手に強要させられる。ちなみに多用しすぎると、思考能力と言語能力に大きな障害を残し、自分が何を言っているのか分からなくなるため注意が必要だ。


 そんなこんなで、小泉構文でその場は乗り切ったものの、結局えげつない量の荷物を持たされた。

 帰り道に聞いて分かったことだが、この世界には図書館はないらしい。少なくともカベッサさんはその存在を知らなかった。つまり、僕はこの日、ただ重い荷物を持たされただけだった。


 翌朝、目を開けるとカベッサさんがいた。僕はすぐに理解した。

 ──なるほど。

「悪夢か」

「シバくぞこのガキ」

 頭を叩かれる。痛い。ということはつまり夢じゃない……?

「何であたしがいたら悪夢になるのさ」

「……え?」

「なんだいその『逆に違うのか』みたいな顔は。それより……これ」

 手に持った紙切れを差し出してくる。これを受け取れ、ということらしい。

「……なんですかそれ?」

 メモ紙程度のサイズの紙切れには両面にビッシリと文字が書かれていた。

「まさか昨日のこと忘れたわけじゃないよね?」

 なんだか急に嫌な予感がしてきた。受け取りたくない。

「受け取らないならこの三倍の量の仕事やってもらうけどいいんだね?」

「くっ……なんて卑怯な……それが大人のやることか……」

 泣きながら受け取ると、カベッサさんは即座に部屋を出ていった。

「ふっかつのじゅもんかな? ははーん。さてはカベッサさん、大のRPG好きだな〜ゲーム大好きっ子め〜」

 言っていて虚しくなる。これを収穫してこい、あれを手伝え、と言った内容が両面合わせて何十個も書かれている。

「おはよう太郎! 街のこと聞かせてよ!」

 呆然としている所に、入れ替わるようにマーシャが部屋に入ってくる。

「あーはいはい。そのことね」

 忘れていなかったか。マーシャのことだから一日も経てば忘れると思ったんだが甘かったらしい。

 昨日、村に戻った後、マーシャは街のことをしつこく聞いてきた。村の外に出たことがないマーシャにとって外のことはとても興味があるんだろうと思ったが、僕はどうしようもなく疲れていたので、また今度ということにした。

「……悪いけど、今日は忙しいからまた今度にしてくれる?」

「えー! 昨日もまた今度って言ってたのにー! どうせ明日になったらまた今度って言うんでしょ! 分かってるんだからね!」

 ……くっ、バレたか。

「いや、今日はほんとに急用ができたんだ」

「ふーん。ほんとかなー」

 ふと、マーシャの目線が僕が持つ紙に向けられる。

「ところでその紙どうしたの? すっごい何か書いてるけど」

「これが急用。カベッサさんにさっき渡されたんだ。ほら」

 紙切れを手渡してマーシャにも見せる。

「どれどれ? うっわ、すごい量」

「そこまでのことなのかね……」

「まあ、ばあばはそういうの超厳しいからねー。ドンマイ!」

 確実に語尾に(笑)がついてるが今はツッコむ時間すら惜しい。

「まあそういう感じだから、じゃあ」

「あ、そうだ。今日特に用事ないし私が手伝ってあげようか? それ」

「……なんて?」

 僕は思わず振り返った。今マーシャがマーシャらしからぬことを言ったように聞こえた。

「何その顔。手伝ってあげようかって言ったんだけど」

 現実逃避による幻聴ではなかったらしい。そうなるとやることは一つ──

「ありがとうございます神様女神様マーシャ様大天使ミカエル様阿弥陀如来像様」

 媚びろ! 媚びろ! 全身全霊をかけて媚びろ!! Let's 媚び! GOMASURI  is  SAIKOU!

「もう何言ってるかわかんないし後半誰!? 分かった分かった、手伝うから。全くーそんなのしなくても手伝うのに……」

「Oh my God……」

 こんなにうまい話があっていいのだろうか。と言うかマーシャってこんないい人だっただろうか。僕のデータにない。

「でもひとつお願い聞いてくれる?」

 ……なるほど。やっぱりそういうことか。

「っ……! 男の人っていつもそうですね!」

「いやそもそも私男じゃないしなに急に」

「私たちのことなんだと思ってるんですか!?」

「意味分からないし何でそんな声高いの」

 マーシャは呆れた様子でため息をついた。

「とりあえずお願い聞いてくれるなら手伝うけど、どうするの?」

「……右腕だけムキムキに鍛えるとかは嫌なんだけど」

「何そのイカれたお願い。そもそも誰に需要あるのそれ」

「いやそうしないと弱そうに見えるじゃん。……にわか?」

「なんで私が悪いみたいになってるのか分からないけど……とりあえず難しいことじゃないから安心してよ」

「それならいいけど」

「よし! じゃあコーショーセーリツね! やるぞー!」

 マーシャがやけに張り切っているのが不安だったが、なるべく考えないようにした。


 日が沈み出した頃。あれだけ大量にあった仕事も残すところあと一つとなっていた。

「──と、まあそんな感じかな」

 その仕事というのが畑の収穫作業という比較的楽なものということもあり、作業ついでに街でのことを話した。それほど大した話はなかったが、それでもマーシャはずっと話を聞いていた。よっぽど興味があったんだろうというのはその態度で分かった。

「へー、そんな感じなんだ」

 聞き終えたマーシャは遠くを見つめて村の外に思いを馳せていた。

「マーシャはさ、村の外に出てみたいの?」

「みんな出てみたいと思ってるんじゃないかな。でもばあばに禁止されてるから」

 諦めた様子で笑う。

「カベッサさんはなんで禁止するんだろ。そんな危険そうにも見えなかったけど」

「それは私も知らない。だけどもし勝手についてきたらこの村から追い出すって言ってた」

 マーシャは、平然とそう口にした。

「……え?」

 追い出す? でもそんな話──

「あ、大丈夫。太郎は追い出されないよ。だって理由があるから」

 マーシャはそう言って安心させるように笑った。

「理由?」

「太郎は知らなかったんでしょ? その事」

 そう言われてみると、言われた記憶は無い。覚えていないだけかもしれないけど。

「多分。他の人はされてるの?」

 マーシャは頷いた。

「 この村に来た時にはそういう話を最初にばあばからするのが決まりだから。それがこの村で暮らす条件みたいな感じ。エミリーちゃんもされてたし。多分、されてないのは太郎ぐらいじゃないかな」

「僕だけが……どうしてなんだろう」

 何か意味があるのかと考えていると、マーシャが言った。

「多分そんな意味はないよ。太郎、最初ばあばにすごい嫌われてたでしょ? それでタイミングを逃しちゃったんじゃないかな。普通は最初に話すからさ」

「そう言えばそうだったか」

「あの時はどうなるかと思ったけどね」

 マーシャはそう言って笑った。あの時のことを思い出しているんだろう。

 偶然に救われたと言うべきなのか。もし知っていたら──一歩違っていたら村から追い出されていた。

「ばあばも正直、こんな罰みたいなことはする必要ないと思ってる。でも何も罰がなかったら他の人が同じことをしちゃうかもしれないでしょ? だから仕方なくやってる。それに酷いなって思われるぐらい厳しくしたら誰も太郎を責めないようにもできる」

 僕はカベッサさんという人を誤解していた。カベッサさんは僕の知らないところで、ちゃんと村長としての責務を果たしていた。村のためでもあり、何より──僕のために。

 柵の奥のことを話さないのも僕のためなのではないか。ふとそんな考えが浮かんだ。

 僕はカベッサさんが何か後ろめたい隠し事をしていて、それを隠そうとしていると思った。それをあばいてやろうと必死だった。でももしも、そうではなくて僕のために隠しているとしたら──僕がしていることは最低なことだ。しばらくは柵の奥にはいかないでおこう。それが今の僕に唯一できることだ。

「教えてくれてありがとう。それはカベッサさんが言ってたんだよね?」

 言ってから気付く。そんなことは聞くまでもないことだ。しかし、マーシャは不思議そうに首を傾げた。

「いや? ばあばは何も言ってないよ。ただなんか見てたらそんな感じがしたから」

「凄いなそれ」

 そうなると今のはマーシャの、言ってしまえば妄想ということになる。でも僕にはそうは思えないどころか、そうに違いないと確信すらしていた。その理由は分からないけど。

「なんて言ったって孫ですから!」

 ドンと胸を叩くマーシャ。なぜか誇らしげなその表情が無性におかしくて、僕は笑わずにはいられなかった。

「そっか、孫だからか、なるほど」

「ちょ! ちょっとなんで笑ってるの! 殴るよ!?」

「いや、ごめんごめん。もしかしてそれで朝、部屋に来たの? はじめから手伝ってくれるつもりで」

「……へ?」

 突然マーシャの動きが止まる。

 今の話がカベッサさんから聞いたわけじゃないとなると、マーシャはこうなると分かっていたということになる。

「い、いや〜別にそういうつもりじゃないって〜やだな〜」

「嘘つけないって可哀想……」

 話していて思い出す。

「そう言えばお願いってなんだったの? そろそろ教えてくれてもいいんじゃない?」

 ここまでしてもらった以上、全力でそのお願いを聞こう。そう決めていたが、マーシャのお願いは、僕の思っていたものとは全く違っていた。

「んーえっとー実は答えて欲しい質問があってさ……」

「質問? ホントにそんな事でいいの? そんなことならいくらでも答えるけど……」

「うん……でもまあ、一個でいいよ」

 マーシャにしては珍しくハッキリしない態度だった。下を向いて目も合わせてくれない。

「よしっ!」

 気合いを入れるかのように頬を叩いてからマーシャは深く息を吸った。頬が赤くなっているのは今叩いたからだろうか。

 そんな事を考えながらぼんやりとマーシャを見ていると、マーシャが顔を上げた。

「た、太郎はその! き、気になってる女の子っていますか!?」

「……はい?」

 それがマーシャのしたかった質問……なのか? 

「うわー言っちゃったどうしよ恥ずかし……」

 マーシャは小声でボソボソと言っていた。よく分からないけどそれがお願いと言うのなら答えるまでだ。

「特にいないけど……えっと、これで良かったの?」

「ほ、ほんと!?」

 嬉しそうな顔をするマーシャ。

 ここまで露骨だとさすがに疎い僕でも分かる。いや薄々分かってはいた。マーシャの質問は、つまりそういうことだ。鈍感系主人公なんてのは物語上の都合でしかないと実感させられる。

「そ、そうなんだ。え、えっと……」

 マーシャはモジモジしながら上目遣いで僕を見ていた。あの問答無用で思ったことをすぐ言うマーシャのこんな姿を見たのははじめてだった。それだけで今言おうとしていることが特別なことだと分かる。

「わ、わ、わた……ワタタタタタタタタ!!」

 その時、マーシャ百裂拳(0.5秒で考えた)が炸裂した!

「やっぱりなんでもないや! じゃ、じゃあね!」

 凄まじい速度で走っていった。その背中を見ながら僕は、正直──ホッとしていた。

 マーシャがもしも続きを言っていたら、僕はそれに答えないといけなかった。それはつまり、この白でも黒でもない永遠の時間を終わらせることだ。他でもない、この僕の手で。僕はその瞬間がどうしようもなく怖い。


 部屋に戻るとエミリーさんが話しかけてくれた。朝、部屋にいなかったことからしてエミリーさんも仕事だったのだろう。

「あ、お疲れ様でした。村の方から聞いたんですけど、なんだかすごくたくさんの仕事があったんですよね?」

「そうなんです。これでもマーシャのおかげで予定より早く終わったんですけどね」

 正直、あまり話は聞いていなかった。僕の頭の中はさっきのことでいっぱいだった。エミリーさんがそう言うまでは。

「そうなんですね。あ、そう言えばマーシャちゃんが明谷さんを探してましたよ」

「……マーシャが?」

 自分から帰っておいて探してるって何なんだ。まあマーシャらしくもあるけど。

「どこにいるか分かります?」

「はい。確か、村から森に行く途中にある開けた場所にいるって言ってたような……」

 ……なるほど、あそこか。

「分かりました。ありがとうございます」

「いえ、私はただ伝えただけなので」

「じゃあちょっと出てきますね」

「はい。お気をつけて」

 見間違えだろうか。部屋を出る瞬間──エミリーさんが笑ったように見えたのは。


 僕は内心覚悟しながらその場所に向かった。あの続きを言うつもりだろう。マーシャは永遠の時間を終わらせようと──先に進もうとしている。僕は……どうする。

 エミリーさんが言っていた場所は抽象的だったが、僕にはハッキリとどこか分かっていた。いや、マーシャと僕には、と言うべきか。

 かくしてその場所にマーシャはいた。地面に座り空を見上げている。

「やっぱりここにいた」

 森の中で唯一、遮る物も無く空も良く見える、いわゆる絶景スポット。考え事をする時にはマーシャは必ずと言っていいほどここに来る。

「え! あ、あれ!? 太郎? どど、どうしてここに!?」

 こちらに気付くと、分かりやすく動揺する。いや、呼んでおいでなんだその反応……。

「僕に何か用があるんだって? エミリーさんから聞いたよ」

 その言葉を聞いて、マーシャはゆっくりと口を開き、話し始める──のではなく、目をパチパチさせた。まるで、何が何か分かっていないとでも言うように。

「マーシャが僕を探しているってエミリーさんが言ってたけど……」

 マーシャは冗談ではなく本当に状況が分かっていないようだった。

 違和感という名の不安が僕の背筋を走った。

「マーシャ、確認なんだけどエミリーさんにここに来るって伝えた?」

 僕は、ゆっくりと、慎重に確認した。嫌な予感はもう確信に変わってきていた。答えてほしくないとさえ思った。

 マーシャは、僕の様子に少し困惑しながら言った。

「ここに来る途中にエミリーちゃんに会ったから、考え事しにちょっと外に出るって言ったけど……」

「つまり、どこに行くかは──」

「言ってないよ。それがどうかした?」

 僕は言葉が出なかった。僕はただただ思い出していた。

 部屋を出る時のエミリーさんの横顔……あれはやはり笑っていた。それが何を意味するのか分からない。分からないけど何か良くないことが起ころうとしていて、僕たちは既に巻き込まれている。その実感だけはあった。

「太郎? 大丈夫?」

 マーシャが心配そうに僕の目を覗き込んでくる。記憶喪失になったあの日みたいに。

 マーシャは変わらない。あの日も、今日も。そう思うとなぜか少しだけ冷静になれた。

「ごめん、大丈夫……」

 ……とにかくここにいるべきではない。

「マーシャ、ちょっと聞いてくれる?」

「うん? なに?」

「 とりあえず僕の言う通りにしてほしい。理由はあとでせつめ」

 ──その時だった。頷くマーシャの後ろで人影が動いた。

「……どうして向こう側に?」

「何て? それより──」

 追いかけなくては。

「ちょっと! どこ行くの?」

 マーシャに腕を掴まれて我に返る。

「どうしたの? さっきから変だよ?」

「今向こうにエミリーさんがいたんだ」

 先程人影がいた場所、すなわちマーシャの後ろを指さす。一瞬だったがあれは間違えなくエミリーさんだった。

「え、そんなわけ……」

 マーシャの表情に不安の色が表れる。僕の様子から冗談で言っているとは思っていないようだった。

「そう。そんなわけないんだ、普通は。つまり普通じゃないことが起きている」

「普通じゃない、こと……?」

 あの日の柵の奥での出来事を思い出す。あの時エミリーさんは気が付いたらここにいた、と言っていた。つまり、エミリーさんは何者かによってあそこに連れて行かれたんだ。例えば──今みたいにして。

「僕もよく分からないけど、とにかくエミリーさんをあのまま行かせちゃいけない。マーシャは先に戻ってて」

 こんな暗い中だ。あまり距離が空いたら見失ってしまうかもしれない。急がないと。

「待って。私も行くよ」

「……分かった」

 色々と言いたいことはあるが、今は時間が惜しい。とにかく──

「追いかけよう」


 エミリーさんを探し始めてから少しして、前方にその姿を捉えた。やはりと言うべきか、あの立ち入り禁止の柵のある場所に向かっていた。あの場所に何があるのか。辿り着いたからどうなるのか。全て不鮮明だが、柵にエミリーさんが辿り着くことはゲームオーバーを意味する気がした。

「ねえ、太郎。もし柵の向こう側にエミリーちゃんが行った時のことだけど」

 隣を走るマーシャがふと口を開いた。

「私だけで探すから太郎は絶対入ってこないで」

「どうして? 手分けした方が良くない?」

「それは……ほら。もし何かあった時に助けを呼べる人がいた方がいいから」

「それは確かにそうだけど、それならマーシャがその役をやった方がいい。それに」

「──とにかく絶対ダメ。約束して」

 さすがはカベッサさんの孫だ。こうなれば何を言っても聞きはしないことを僕は知っている。

「はあ……分かった。マーシャがそこまで言うなら」

「ありがと」

 マーシャはそう言うと、いつものように笑った。


 僕とマーシャは柵の前にいた。結局、柵に辿り着く前に止めることはできなかった。エミリーさんの足は思っていたよりも早く、距離が縮まりはしたものの追いつけなかった。

「じゃあすぐ戻ってくるから!」

 マーシャは元気よく柵を乗り越えて行った。

 その背中を見送ってから、僕は思い出していた。さっき言いかけた言葉を。

『それに、危険だ』

 暗いことがじゃない。あのエミリーさんがだ。あれは、人を殺すことすら厭わない。そんな妙な確信があった。

「ごめんマーシャ。やっぱり一人にはできない」

 僕は柵の奥に足を踏み入れた。無事でいてくれ……マーシャ。

 マーシャの後を追って勘で進んで行く。暗すぎて、ほとんど何も見えない。こんな中を探すなんて改めて現実的じゃない。

「ん?」

 数分は経っただろうか。ふと後ろに何かの気配を感じた時には、僕は既に地面に倒れ込んでいた。殴られた? そう実感するのと意識が遠のくのはほとんど同時だった。僕が最後に見たのは──。


 あと一回。これが最後だ。今日失敗することは許されない。

 計画に抜かりは無い。

 二人を引き合せる。姿を見せて後ろから追わせる。柵の奥に入る。ここまでは確実に成功する。

 マーシャが一人で柵の奥に入る。これも決まっている。

 唯一の賭けは、あの男がそれに従うかどうかということ。もしも従わずに足を踏み入れたなら、その時──計画は完遂される。


「大丈夫?」

 ぼんやりと声が聞こえる。

「おーい? 大丈夫って聞いてるんだけど?」

 頭が痛い。視界が何となくぼやけている。

「大丈夫じゃないの? どうなの? 殴ってみた方が早いかな」

どこか既視感のある光景の中、段々と記憶が蘇ってくる。

そうだ。確か追いかけていて……

「エミリーさんは!?」

「いたっ!」

 持ち上げた頭が何かとぶつかる。

「……は?」

「こっちのセリフなんだけど! なに急に頭突きしてきてるの!?」

 目の前には額を抑えるマーシャがいた。それにしても何か顔の距離が近くないか? いやそれより。

「エミリーさんは? っていうかなんで僕は倒れて」

「ねえそれより私の膝枕はー?」

「……膝枕?」

 その言葉で僕はマーシャに膝枕されていたと知った。床に寝ているにしては固くないと思ったけどそういうことだったのか。

 マーシャはぽんぽんと僕の頭を叩いた。感想を言えということだろうか。

「そうだなー。プニプニで柔らかい太ももが心地良すぎてまじ最高すぎるのにその上顔近くて視界のやり場に困る頃にはユニバーサル大回転マシャマシャの舞しながらベッドの上で暴れていると思うので率直な一言もらってもいいですか?って感じかな」

「へ、へぇ〜そうなんだあ〜」

 感想を聞いてきた張本人様は、髪の色が移ったかのように顔を赤くしながらニヤついていた。

 これで喜ぶマーシャが僕は逆に怖くなった。

「頭おかしい……」

「う、うるさい! そんなの言われたら嬉しくて照れちゃうに決まってるじゃん! 馬鹿なの!? 少しは察してみたら!? だからモテないんだよ! この童貞!」

 あまりの理不尽さに全米と全童貞が泣いた。

「嬉しいかね、これで……」

 僕の『嬉しい』という言葉にマーシャは自分の口を抑えた。勢いで言ってしまったらしい。

「え? あ、えっとー! そ、そんなことより! 何でこうなってるかって話だったよね!」

 マーシャは目を泳がせまくっていた。あからさまな話題転換にも僕は何にも言わなかった。ちょうど聞きたいことでもあったからだ。

 何度か深呼吸してからマーシャは言った。

「──エミリーちゃんは見つからなかった。戻ってきたら太郎が柵の手前で倒れてて……」

「見つからなかった?」

 僕はその言葉に違和感を覚えた。

「うん。探したんだけど……」

「それで戻ってきたの?」

「そう、だよ……? ごめん、怒ってる?」

 マーシャは罪悪感からか目を伏せた。

「いや怒ってるんじゃないよ。それで戻ってきたら僕が柵の手前で倒れてたと?」

 僕は怒っているわけではなかった。ただ、マーシャらしくないと思っただけで。

「そうだよ。ここまで運んでくるのも大変だったんだからねー」

 ……そんなはずは無い。だって僕は確かに柵を乗り越えた。マーシャを追って。

 今の話で僕の中である確信が生まれつつあった。分からないのは、なんでそんなことをしたのかだ。

「どうしたの太郎?」

 体を起こして僕はマーシャを見た。

「マーシャ。正直に教えて欲しいんだけど、僕に嘘ついてない?」

 マーシャは静かに僕を見た。そして──ゆっくりと笑った。

「私ね、太郎のことが好き……好きだったよ、前からずっと……」

 僕はマーシャが何を言っているのか理解できなかった。マーシャは僕を押し倒すと、そのまま跨った。

 困惑している僕の頬に手を当てて艶っぽい声でマーシャは囁いた。

「好きで好きでしょうがないの。太郎がいるだけで嬉しい。太郎に会うだけで顔が赤くなっちゃいそうになる。太郎に褒められたら胸が熱くなる。太郎になら何をされたって嫌じゃない。好きなの。ねえ好き。好き。大好き」

 僕を見下ろすマーシャの目は完全に潤んでいた。好きな人がいるかを聞いてきたマーシャの影はない。僕を押し倒しているのは、純粋無垢なマーシャという固有名詞ではなく、ただの一人の女という名詞だった。

「マーシャ……どうしたの? 何かおかしくない?」

「私ね、ずっとこうしたかったんだよ? 太郎を押し倒して、独り占めして──」

 マーシャに僕の言葉が届いていなかった。マーシャは夢の中にでもいるかのように一人呟いていた。

「──それから」

 瞬間、唇に柔らかい感触があった。

「こうやってキスだってしたかった。だから、ね? 私と二人だけの内緒、しよ?」

 糸を引く口元。潤った目。熱っぽい視線。火照った頬。甘い声。すべてが思考を乱してくる。

 僕は頷いてマーシャの服に手をかけた──だろう。マーシャのことが好きだったとしたら。いや……それは違うか。こんな状態のマーシャに手は出せない。僕は友人としてマーシャのことが大事だから。

「マーシャ──何で泣いてるの?」

 マーシャの頬には一筋の涙が伝っていた。

「え?」

 マーシャは驚いて自分の頬に手を当てた。

「マーシャ、よく分からないけど無理してるんだよね? どうし」

「違うの!」

 マーシャは言葉を遮って首を振った。

「私がしたくてしてることなの! だから太郎は黙ってされるがままになってよ!」

「違う。したくてしてるなら何で泣くの?」

「それは……」

 僕はずっと疑問に思っていた。なぜマーシャが、僕が柵の外で気を失っていたなんて嘘をついたのか。なぜマーシャがエミリーさんを見つけないまま戻ってきたのか。なぜ無理やりこんなことをしようとするのか。

「マーシャ、これは誰かの命令なの?」

「──!」

 マーシャが目を見開いて僕を見た。その反応が僕にとっては答えも同然だった。

「ち、違うの! 私は──!」

「なんで!」

 その声は、僕の声でもマーシャの声でもなかった。声の聞こえた方を見ると、その人は木の影から姿を現した。なるほど、黒幕はこの人か。

「エミリーさん。あなたがこれを仕組んだんですか」

「なんで! お前は私の計画通りに動いた! それなのに! 何でお前は!」

 エミリーさんは僕の話を聞くことなく一人怒り狂っていた。

「──抱かない!?」

「……マーシャ、もういい? この人には聞かないといけないことがある」

 マーシャは力無く頷いて跨るのをやめてくれた。

 エミリーさん、いや、エミリーの方に近づいていく。脱力したように地面に座り込んだエミリーは何か独り言を言っていた。

「ぜんぶおわりだ。私はまたやらないといけない。何がいけなかった何が」

「それで? どういうことか説明してくれるんですよね?」

 僕が目の前に立つとエミリーは憎悪が込められた目で僕を睨んだ。

「お前が……お前でさえなければ……」

「マーシャに何か吹き込んだのもあなたの仕業ですよね? 正直怒ってますよ。人の気持ちを利用したあなたに」

 僕の言葉にエミリーは笑った。

「利用した? お前は何か勘違いしているみたいですけど、私はただ提案しただけです。従ったのはマーシャの意思です」

「そんな言葉遊びに興味はないんですよ」

「──違うよ、太郎」

 いつの間にか隣に来ていたマーシャが言った。

「エミリーちゃんの言ってることはほんとのことだよ。私は自分の意思でやった」

「説明してくれる?」

 マーシャは頷いた。


 エミリーちゃんを追って、私は柵の奥に来た。はじめて入ったけど何となく不気味だ。早く見つけないと。

 今、視界の先にほんの一瞬だけど何かが動いたように見えた。私はほとんど何も見えない中、その影を追った。

「エミリーちゃん」

 そこには何にもせずに立っているエミリーちゃんがいた。まるで私を待ってるみたいだった。

「マーシャ」

 エミリーちゃんは私の名前を呼んだ。私はその様子に違和感を感じながらも話しかけた。

「帰ろ? こんなとこいても危ないよ?」

「お前は、明谷太郎のことが好き。そうですね?」

 私は心臓が跳ねた。なんでそのことを、いや、それより、お前って言った? エミリーちゃんが?

「明谷太郎はここに向かってきています。それがなにを意味するか、お前も分かっていますよね?」

 太郎がここに? それは絶対ダメだ! 止めないと……!

 戻ろうとする私を引き留めるようにエミリーちゃんは言った。

「もう遅いです。あの男は柵の奥に入ってしまっている」

 入っている? じゃあもう太郎は──。

 私は泣きそうになるのを抑えてエミリーちゃんに聞いた。聞くと言うより独り言に近かった。

「でも……じゃあどうしたら……!?」

 そんな私にエミリーちゃんは笑った。

「一つだけ方法があります。明谷太郎とヤるんです」

「やるって……何を?」

 エミリーちゃんは怪しく微笑んだ。

「愛を確かめる行為ですよ。つまりは──セックスです」

「せっ──!?」

 恥ずかしげもなく言うエミリーちゃんの言葉に、私は顔が赤くなった。意味は分かる。多分……やり方も。でもよく知らないし、それに──

「それしか助かる方法はありません。幸い、あいつのことが好きなお前には抵抗はないはずです」

 エミリーちゃんは淡々と告げる。その様子が、本当のことを言っているのではないかと思わせた。

「それで、本当に太郎は助かるの?」

 エミリーちゃんは頷いた。もうこのエミリーちゃんが私のまったく知らないエミリーちゃんであることはどうでも良くなっていた。太郎を助けられるなら、それで。

「今から私があの男を気絶させに行きます。柵の手前までは何とか持っていくので、あとはお前が運んでください。ここでの会話をあの男に知られないようにしてください。悟られてもいけません」

 エミリーちゃんは必要最低限のことだけを言って暗闇の中に消えていく──

「どうして太郎を気絶させる必要があるの?」

「はい?」

 エミリーちゃんの呆れるような表情で私は自分が馬鹿なことを言ったんだと思った。それでもできれば傷ついてほしくない。

「じゃあ逆に聞きますけど、お前は今から『セックスしましょう』とでも言うつもりですか? あの男は私を連れて帰るまで多分諦めませんよ? そうなれば、タイミングが無くなる。違いますか?」

「ごめん……」

「それと、私の事は心配しないでください。お前はただ、あの男を助けることだけに集中してください」

 そう言うと、今度こそエミリーちゃんは暗闇の中に消えていった。


 話を聞き終えて、僕は自分でもよく分からない感情になっていた。なんて馬鹿げた話なんだと笑えばいいのか。だからマーシャの様子がおかしかったのかと納得すればいいのか。それとも恥ずかしがればいいのか。話を聞く前にあったはずの怒りという感情はとうに忘れていた。

 ただ、一つ分からないのは──

「なぜあなたがそんなことをする?」

 この、いまや茫然自失で独り言を言っているエミリーの目的だった。エミリーは何にも答えない。今のところ、彼女がしたことは僕を助けようとしただけだ。でもこの様子から助けようとしていたとは考えにくい。そもそもこの人が柵の奥にさえ行かなければ──

「そういえば柵の奥に入るとどうなるの?」

 マーシャの話だと柵の奥に入った僕を助けるためにしようとしたことだったということだ。それはいったい──

「あれは嘘ですよ」

 僕の言葉に返したのはマーシャではなくエミリーだった。

「どういうことですか」

「何にもないんですよ、別に」

 素っ気なくエミリーは言う。しかし、そんなはずはない。エミリーは何か嘘をついている。

「もう嘘はやめてください。それが本当だとしたら、あなたは僕とマーシャにセックスをさせるためにこんなことをしていたということになるんです」

 そんなわけが無い。なぜこの後に及んで隠している? 何を隠して──

「そうですよ」

 エミリーはハッキリと僕を見て言った。

「私の目的はそれです」

 短くそう告げる。

 僕は言葉が出なかった。この人は何を言っている?

「それはどうし」

「ねぇ、太郎?」

 しばらく喋っていなかったマーシャは突然僕の名前を呼んだ。その声はいつもより少し低く感じた。

「マーシャ、少しだけ待っていてくれない? 今はこの」

「太郎は、私を選んでくれないってこと?」

 話す隙もくれない。

「選ぶ……?」

 僕はマーシャを見た。マーシャの琥珀色の瞳は僕を見ているはずなのに僕を映してはいなかった。

「私はこんなに太郎を好きなのに、太郎のために色々したのに、太郎は私を好きじゃないってこと?」

「マーシャ、それより今は」

「あーそっか。分かった。私は選ばれないんだ。そっかーあはは」

 乾いた笑い声にまるで感情を感じず、僕は無意識に全身に鳥肌が立っていた。

「じゃあさ、死んで?」

 勢いよく伸ばされた両手が掴んだのは──僕の首だった。首を絞める手には躊躇が一切感じられなかった。

「マー、シャ……?」

「ねえ私を選んでくれるよね? 私を選んで? 私を選べ? じゃないと殺さないといけない」

「え、選ぶ……って何の、こと……?」

「分かんないの? 私たちの中から選ぶんだよ? それでその子と結ばれる。そしたら」

 突如、言葉が止まる。同時に首を絞める力が弱まった。マーシャを見る。

「……え?」

 マーシャの首には、赤色でコーティングされた包丁が刺さっていた。その包丁の持ち主は──

「芽生え始めていたか」

 軽く舌打ちするとナイフを引き抜いた。首から血が吹きでて服に付いても彼女は表情一つ変えなかった。

「ころし、た?」

 僕はパニックで言葉が出なくなっていた。

「何を混乱しているんです? マーシャを私が殺した。それだけですよ」

 僕はふらついて地面に倒れた。

「何が、起きて……?」

「そして、お前も──!」

 その言葉を最後に意識が消えた。次に目を開けた時聞こえてきたのは──

「おはよう! 太郎!」

 どこまでも元気でうるさくて、僕のよく知っている人の声だった。

「マーシャ!?」

「うわびっくりした。何その目? 太郎が全然起きないって言うから起こしに来てあげたのに」

 マーシャだ、いつもの。

 僕とエミリーさんの部屋で寝ていた僕をマーシャが起こしに来た。それだけだ。何も変わらないいつもの朝だ。……それなのにどうしてこんなに落ち着かない?

「大丈夫? 太郎、なんかおかしくない?」

 マーシャが首を傾げ僕を見る。

「もしかして熱でもあるんじゃ──」

 伸ばされた手を僕は叩き落としていた。

「あ、ごめん……」

 なぜ振り払ったのか自分でも分からなかった。でも何か、この手にされたような気がして反射的にそうしていた。

「あ、その……私も、なんか……ごめん」

「いやーその、マーシャのことだから首でも締められるのかと思ってさ」

 そう言って笑ってみる。気を紛らわすための冗談で言ったものの、まさにそんな気がしていた。

「な、なんだあ! 私嫌われたのかと思って焦ったよ」

 マーシャはホッと胸を撫で下ろすと僕の言葉を思い出してか軽く睨んできた。怒っているらしい。

「ていうかそんなことするわけ無いでしょ! 殴られたいの?」

「結局暴力振るうんじゃん……」

「じゃ! 私先行ってるから! 早く来ないと太郎の分も食べちゃうからね!」

 元気を取り戻したマーシャは不穏なことを言って部屋を出て行った。

「なにその宣言……」

 それにしても何か変だ。何か引っかかる。僕は、何かを忘れている──?

「っ!」

 不意の頭痛に襲われ、頭を抑える。痛みと共に僕の中では昨日の記憶が再生されていた。


 ◇

「こうやってキスだってしたかった。だから、ね? 私と二人だけの内緒、しよ?」

 糸を引く口元。潤った目。熱っぽい視線。火照った頬。甘い声。すべてが思考を乱してくる。

 僕は頷いてマーシャの服に手をかけた──だろう。マーシャのことが好きだったとしたら。

 その時、少し離れた場所の草が揺れた。そして姿を現したのは──

「い、いえ、あの、こ、これはチガクテ」

 顔を赤くしたエミリーさんだった。

「えっと、二人がそ、その……き、きき、キスとかしてたので出ていきにくくてそれで……」

 人差し指同士をチョンチョンしながら気まずそうに話すエミリーさん。

 ──ボフッ!

 恥ずかしさで顔が赤くなった時の効果音が聞こえたと思ったら隣の人からでした。

「エミリーさん、いつからそこに?」

「えっとー、多分少し前?だと思います」

 自分でもよく分かっていないような言い方だ。

「多分?」

「そのどうしてここにいるのか覚えてなくて……」

 柵の奥で言っていたことと同じだ。やっぱり何者かがエミリーさんの意識を操っている、とでも言うのか……? そいつはどうしてこんなことをする?

「それより二人はここで、その……えっと、どうしてき、キスを?」

「それは、なんというか」

「そ、それよりお腹空いたなああああ!!」

 その時、急に大砲でも撃ったかのような大声でマーシャが叫んだ。あまり詳しくはないけどこれが流行りのASMRだろうか。大砲ASMRははじめて聞いた。それにしてもASMRというのはすごい。鼓膜が消し飛ぶんだから。

「あ! そ、そうですね! はい! あはは」

 聞いておいて恥ずかしくなったのか、エミリーさんも顔を赤くしてなぜか笑っていた。テンションが変なやつしかいないらしい。 

 ちなみにこの日の夕食はきすだった。


「──これが昨日のこと……?」

 僕には、どうしても何か違うような気がしてならなかった。例えるなら、偽の記憶を植え付けられているような違和感。

 部屋のドアが開いた。そこにはエミリーさんがいた。そういえば僕が起きた時にはもう部屋にいなかった。呼びに来てくれたのだろうか。

「お目覚めですか」

 話し方にわずかに違和感を感じながら僕は答えた。

「はい。少し寝すぎてたみたいですけど」

 笑いかけると、エミリーさんはまったく笑っていなかった。

「無理もないです。修復には時間がかかりますから」

「修復……?」

「お前の記憶です。多分、二回目は完全には修復できない。今お前は自分の記憶に違和感を感じている、違いますか」

 僕は驚いて、エミリーさんを見た。

「……どうして分かったんですか」

 エミリーさんはいつもと違う様子だったが、それよりも僕は自分の記憶の違和感の正体を知りたいと思っていた。

「お前の正しい記憶を取り戻す手伝いをしてやります。その代わり、答えてほしいことがあります」

「本当の、記憶……」

 エミリーさんは語り始めた。僕の知らない、僕の正しい記憶を。


「まあ、そんなわけです。思い出しましたか?」

話が終わる頃には、僕は完全に思い出していた。思い出した僕は、気持ち悪い感覚に包まれていた。僕の中には、二つの記憶が共存していた。そのどちらもが真実のようで虚偽であるようにも思えた。

「思い出しはしました、ただ……」

釈然としない様子の僕にエミリーは言った。

「ああ、記憶が二つあることですか。そのうち正しい方に上書きされて消えますから気にしないでください」

エミリーは経験したことがあるような言い方だった。

「次はお前が答える番です」

何か答えてほしいことがあると言っていたのを思い出す。記憶を取り戻した今、僕の中にはいくつもの疑問が湧いていた。あの時のマーシャのこと、この人の目的、柵の奥に何があるのか、何個もある。でもまずはそれに答えるべきだ。

「分かりました、それでなんですか」

「お前はどうして、あの時セックスしなかった」

「そのことですか……」

僕は少し考えた。

「単純に、マーシャのことが好きじゃなかったからです。そんな相手に手を出すのはよくないと思うのは普通のことですよね」

「嘘です。じゃあヘレナとは?」

「ヘレナさん?」

少し考えてから、あのドロイトサクローの煙に巻き込まれた時のことを言っているのだと理解する。

「あれも、大した理由はないですよ。何か普通じゃないなっていうのは思ったので」

「嘘です」

何を説明してもエミリーは納得してくれる様子がない。それほど変な理由ではないはずなのに、何か僕が言っていることが嘘だと確信しているようだった。

「そう言われてもこれが本当のことで」

「──じゃあ、どうしてお前は一度も勃起すらしていなかったんです」

「ぼ──!?」

この見た目でなんてことを言うんだ。

「あの状況で、手を出すか出さないかはともかく、性的興奮を覚えないわけがない。ヘレナの時は、ドロイトサクローの煙も浴びていた。お前の意思がどうかではなく、生理現象として勃起するんです。目の前に発情した女がいたらそうなるように男はできている」

僕の話を嘘だと確信しているようだったのはこれが理由か。

……まあこの人になら話しても問題はないだろう。誰にも話したことのない、誰も知らない僕の本心を。

「正直なことを言います。あなたはどっちですか? 無償の愛を信じるか、信じないか」

「なんです急に?」

 エミリーは怪訝そうな顔をした。

「僕は信じません。だからです」

「……だから? それだけなわけがない。だいたい、それは理由として成立していません」

 エミリーは納得していないようだった。さすがにこれだけでは言葉足らずか。

「単純な話です。例えば、僕はマーシャに何かしましたか? マーシャに好かれるようなことを一つでも」

「……どういう意味ですか」

 エミリーは目を細める。まだ分からないらしい。

「僕は何もしていない。それなのに僕が愛される。これが無償の愛以外のなんだと言うんですか」

「それは……お前が気づいていないだけで、お前はマーシャに好かれるようなことをして、だからマーシャはお前を好きになった。それだけで」

 エミリーは当然のことを言った。でもそれは僕にとってではない。

 僕は首を振った。

「それは違いますよ。どれだけその人にとって僕を好きになった理由があると言っても、僕が何かしたつもりがない以上、それは無償の愛でしかない。僕を好きになる理由にはならない」

「それだと……お前にとっては全て無償の愛でしかないということになる。そんなこと本気でお」

「思ってますよ」

「……だとしたらお前はまともじゃない」

「それは違います。まともじゃないのは無償の愛を信じている人です。僕はまともです。だからこそ、どうしてそれを受け入れられるのかが分からない。無償の愛の本当の名前を知ってますか?」

「本当の名前……?」

「気まぐれです。無償の愛なんてのはただそれを美化しているだけで、誰かを愛しているという嘘をつくための体のいい言葉でしかない。だから僕は無償の愛を信じない」

 エミリーは何も言わずに理解できないものを見る目をしていた。

「別に無償の愛に限らない。僕は他人から向けられる好意の全てが理解できない。何にもしていないのに向けられる好意ほど怖いものはない」

「だからお前は一度たりとも勃起どころか興奮すらしていなかった……そもそもお前にはそんな感情がない……」

 エミリーは、納得するように、あるいは諦めるように呟いた。

「と言っても普段からこんなことを考えているわけじゃないですよ。根拠のない好意を向けられている時にそう思うだけで、それ以外の時は至って普通です」

「お前のようなやつを、私ははじめて見ました……」

 僕の心は傷ついてはいなかった。理解されるわけもないことだというのは分かっている。説明の必要があったからしただけで、そもそも共感を求めてはいない。だから僕は他の人にこのことを言わない。

 話してみて思ったのは、僕の心は思っていたより冷静ということだった。その証拠に、僕は既に他のことが気になり始めていた。

「それより、ヘレナさんの件もあなたの仕業だったんですね」

 エミリーは面倒くさそうに言った。

「そうですよ。私があの場所にドロイトサクローを置いた。興奮状態にさせるために。それと、お前が多分夢だと思っているのも私です。あの時に気づいていれば……いや」

 エミリーはそこで自嘲するように笑った。

「無理ですね……どうせお前は」

 僕は率直に疑問に思っていたことをぶつけた。

「あなたの目的は何なんですか。僕に誰かとセックスしてほしいんですか?」

 言っていてひどい質問だと思った。こんなことを言う日がくるとは思いもしなかったし、したくもなかった。でも、この人は本気でそのために動いていた。冗談ではなく。

「まあいいです。それぐらいのことは教えてあげます。私はお前を殺そうとしていたんです。それが私の使命だから」

 僕はどうにも会話が噛み合っていないような違和感を感じた。

「殺す? でも、あなたがしていたことはそんなことじゃなかった。殺すことなんて何回でもできたはずです」

 エミリーはイラついた様子で舌打ちした。

「そうできたらそうしてるんですよ……とにかく私から言えるのはお前はセックスしたら死ぬ、それだけです」

「だから殺すためにそうしていたと?」

 僕の言葉にエミリーは頷いた。本気で言っているわけはない。でも──

 死ぬ? セックスしたら? そんなことがあるのか? 

「お前がどう捉えようと勝手です。それと、昨日お前を殺そうとしたマーシャは別人だと思ってくれていいです。その証拠にマーシャは昨日のことを覚えていません。どういうふうになっているかは分かりませんが、くれぐれも昨日のことを掘り返さないでください。それは多分、芽生えさせることになりかねない」

「どういうことですか? 芽生えさせる?」

 エミリーは淡々と、一方的に話を進めていく。まるでこれが──最後の会話とでもいうように。

「お前が殺せなかったことだけがが、残念で仕方ないです」

 その言葉は弱々しく震えていた。

「お前でさえ、なければ……」

 そう言って力無く項垂れる。まるで電源が切れたかのように──

「……あの」

 近寄って肩を揺さぶる。反応がない。そんな……そんなことがあるのか? まさか、死──

「どうしたんですか! ちょっと!」

 焦る気持ちを誤魔化すように必死に体を揺すっていたその時、ゆっくりと顔が上がった。良かった、死んでなかった。だがその様子は僕の思っていたものとはまったく異なっていた。

「あ、あれ? 明谷、さん?」

「さっきのは何だったんですか? 突然動かなくなって」

「え? どういう……こと、ですか」

「そんな演技はもう良いんです」

「演技……? えっと」

 なおも分からないという様子のエミリー。僕は薄々気づいていた。これはエミリーというよりエミリーさんではないかと。

「太郎! 早く降りてこないとごは……あれ? エミリーちゃんもここにいたんだ。て言うか──」

 部屋に入って来たマーシャの目が僕とエミリーを交互に見た。

「何してんの? 告白?」

 そういえば肩に手をおいたままだった。


 僕は今、おぼんに朝食を載せて、ある部屋に向かっていた。

 結局、朝食の間も、エミリーはエミリーだった。そこで僕は一つの仮説を立てた。これまでエミリーさんとして、そういうキャラクターを演じていたわけではなくて、そもそも二つの人格があって、今はもうエミリーとしての人格が消えてしまった、という仮説を。何だかそう考えるのが一番自然なような気がして、僕はエミリーさんとして接することにした。

 カベッサさんの部屋の前に立つ。

 カベッサさんは朝食の場には来なかった。と言うのも体調が悪いらしい。僕はお礼と言うか罪滅ぼしと言うか、そんな諸々を込めて食事を持っていくことにした。

 部屋をノックする。物音から少し遅れて声がした。

「……誰だい?」

 ドアを開けたカベッサさんが僕を見て──止まっていた。

「あんたは……どうして……?」

 カベッサさんは明らかに動揺していた。

「え、あの、カベッサさん?」

「あ、あんた……だって、あんたは──」

 いつもは気だるそうにしている目は開き、口元は震えていた。体調が悪いと言うよりも、カベッサさんはまるで何かに怯えているようだった。

「え、あの、ほんとに大丈夫ですか」

 唇を震わせながらカベッサさんは言った。

「──死んでいるはずだろ……!?」



 ◇

「ああ、悪いね」

 全身が震えるほどに動揺していたカベッサさんに肩を貸して椅子に座らせる。

「カベッサさん、それで今のはどういう意味で」

「──二日前」

 カベッサさんは僕の言葉を遮って言った。

「あんたは柵の奥に何があるのかって聞いたね」

「え、はい……」

「これもあたしの罪、か……」

 カベッサさんは小さく呟くと、顔を上げた。

「あの場所に何があるのか、あたしがあんたに何を隠していたのか、それを、今から話す」

 それは僕が知りたいと思っていたことだった。そのはずだった。それなのに僕は、興味よりもまったく別の──言い表せない恐怖を感じていた。

 カベッサさんはゆっくりと口を開き、語り始める。

「あの場所には呪いがある。遙か昔から続く呪いが」

「呪い……?」

「あんたはこの村に他に男がいないことに何も思わなかったかい?」

「それは……」

 言ってから思う。僕は何にも考えず、異世界テンプレのハーレムだと思って、そう受け入れてこれまで過ごしてきた。でもそれは本来普通のことでは無い。

「昔はこの村にも男はいたんだ。あたしが村長になるよりもずっと昔は、半分ぐらいは男だったらしい」

「じゃあ何で」

「──それが呪いさ」

 カベッサさんは短くハッキリとそう言ってから続けた。

「昔この地域ではある病が流行った。その病はかなり凶悪なもので、かかったら最後、ほとんど死ぬというものだった。しかもその病には近くにいる人に感染するという特性があった。村全体がパニックになった」

 かかってしまえば死ぬ病気で尚且つ空気感染、混沌とする村の様子が容易に目に浮かんだ。

「でもそれはただの始まりに過ぎなかった」

 カベッサさんの言葉は嫌悪に満ちており、これから話す内容を予感させた。

「ある時、病気にかかるのは女だけではないかという噂が流れはじめる。実際、感染する対象は男も含まれていたものの感染源は必ず女で、つまりその噂は本当のことだった。そんな中、男の誰かが言い始めた。『女は村を出ていけ』と。混乱している村の中だ。その考えは瞬く間に広がって、女は村から出ることを余儀なくされた。それでも出ていくなんて簡単にできるわけない。村に残る選択をした。何とか解決する方法が無いのかと、話し合おうとした。この時から、村で男と女は完全に分断して対立するようになった」

「別々に暮らすようになったってことですか」

「そう。女は今のこの場所、そして男は──柵の奥でね。暫くは」

 柵の奥。その言葉がついに出てくる。いやそれよりも気になるのは──

「暫くは、ですか」

 それが意味することが、少なくとも悪いことだと言うのはカベッサさんの表情で分かった。

「ある日、一人の女が姿を消した。誰にも何にも言わずに。女はみんなでその子を探した。だけどどれだけ探しても見つけられなかった。数日経った頃、どんだけ探してもいなかったその子は、すんなりと見つかった。その子は、村の入り口にいた」

 カベッサさんは悔しそうに唇を噛んだ。

「──その子の指はなかった。手も、足もすべて」

 僕は息を飲んだ。嫌な汗が背筋を伝った。

「裸で、血だらけで倒れているその子からは鉄臭さ以外にもほかの匂いがした。むしろその匂いの方が強かった。生臭くて濃い匂いが。その子は──犯されていた。それも多分何十回も」

 僕は寒気を通り越して吐き気すらするのを堪えた。僕は意味もないことを言っていた。認めたくなかった。

「そんな、そんなことがあるんですか」

 そんな人道に反することが本当にあるというのか……?

「あるよ。本当のことだ。男からすれば病気の元になる存在がのうのうと村にいることが許せなかったんだろうね。それにあの時は多分誰も冷静じゃなかった。だから仕方ないことなのかもしれない」

 カベッサさんは冷静だった。淡々と、まるでそう言わされているかのように言った。まさか何も思っていないのか?

「──それでも」

 カベッサさんの言葉に僕は顔を上げた。

「それでも私は……やっぱり許せない……」

 カベッサさんは怒ると言うよりもまるで嘆くようにそう言った。力無く握られる拳がその空虚さを物語っていた。

「すまない、話がズレたね」

 そう言ってカベッサさんは話を続けようとした。

「ちょっと待ってください。これで話は終わりじゃないんですか」

 今の話なら確かに呪いがあってもおかしくないのかもしれないと、そう思った。それに僕はもう耐えられなかった。この話はまだ終わらないのか……? まだ続くのか……?

 願いも虚しく、カベッサさんは頷いた。

「それから村では女がいなくなって、しばらくして村の前に捨てられていることがよく起きるようになった。男たちは段々とそうやって痛めつけることに抵抗がなくなったのか、死体はどんどん惨いものになっていった。中には子宮を抉られたものもあった」

 僕は気がつくと口元を抑えていた。反吐が出ると、比喩じゃなく思ったのははじめてだった。

「ある時、それは突然終わった。村の男が全員死ぬという形で」

 あまりにも唐突な幕引きに僕は理解が追いつかずにいた 。

「なんで、そんなことが……?」

 カベッサさんは首を振った。

「あたしも詳しくは分からない。なんせそれ以上記録は残ってない。ただ少なくとも当時は、神さまの救いだって考えられていたみたいだよ。でもそれは──救いじゃなくて呪いだった」

 呪い。カベッサさんはその言葉を再び口にした。

「柵の奥に入った女は、取り憑かれたように男を憎み、殺すようになった。あの場所で犯され、殺された女の憎しみなのか分からない。エミリーの様子がおかしかったっていうあんたの話も多分これの影響だ。柵の奥の呪いが多分エミリーをあの場所に向かわせたんだと、あたしは考えてる」

 柵の奥に入った女は、取り憑かれたように男を憎み、殺す。あの時のマーシャ、そしてエミリーの姿が頭によぎった。

「女はまだ良かった。呪いは男にもあった。男は女と交わると死ぬようになった。それだけじゃない。柵の奥に入った男は、かつて女がそうされていたかのように、姿を消して数日後に惨い状態で発見されるようになった。女の方の呪いは絶対ではなかったけど男は絶対にそうなった。一人の例外もなく」

 僕は心臓が跳ねた。他人事だと思っていたことが突然自分の事になった瞬間だった。

「あたしははじめ、あんたを村から追い出そうとしていた。男が嫌いだって言って。それがあたしにできることだと思った。でもそれは無理だった。あんたはすぐに村のみんなとも打ち解けて仲良くなっていった。マーシャなんかいつもあんたの話をするようになってさ。そんなあんたを追い出すのは……何にも悪くないあんたを追い出したくないと思ってしまった」

 そんな……そんなことって……全部、全部僕のために……?

 僕は何も言えずに膝から崩れ落ちた。そんな僕にカベッサさんは力無く笑った。

「だから全部、あたしのせいなんだ。ごめんよ」

 その声は震えていた。

「違う……違います! だって全部、僕のために悩んでくれていて──!」

 何度も首を振って全力で否定する。とにかくそうすることしかできなかった。カベッサさんはなんにも悪くない。優しいだけなんだ。そう伝えたくて伝えたくて、他にどうしようもなかった。

「あんた、って子は……」

 その時突然ドアが開いた。

「今の話本当なの……?」

「……どうして」

そこにはマーシャがいた。青ざめた顔をして。

「ねえ、嘘だよね!? 太郎が、死ぬなんて!」

 カベッサさんは口を噤んでいた。僕も何も言えなかった。

「本当、なんだ……」

 そのまま僕の方に向かってくると──マーシャは僕を抱きしめた。

「ごめん! ごめんね太郎……! 私のせいで……! 私がもっとうまくやってたら……」

 痛いほどにマーシャは僕を抱きしめた。僕の存在を確かめるように。

「マーシャのせいじゃないよ。僕が悪いんだから」

 マーシャは僕の胸に顔を当てながら何度も首を振った。

「ごめん……ごめんね、言えなくて……あの場所のこと秘密にしててごめんね……でも言っちゃダメだったからどうしようもなくて……」

「秘密に……? 言っちゃダメ……?マーシャは、このことを、知ってたの……?」

 言った瞬間に思い出す。昨日エミリーを追いかけていた時のマーシャの様子、村を案内した日の柵の前での様子。

 全部、僕を遠ざけるためにしてくれていた。マーシャは全部知っていたんだ……。

「あの呪いは太郎が知っても発動するの。だからどうしても言えなくて……」

 全て納得した。今になって思えば、カベッサさんがこのことを隠していたのもそれが理由だったんだ。

「ありがとう、マーシャ」

「ねえ太郎、何言ってるの……そんな、いなくなるみたいなこと言わないでよ」

 カベッサさんはただ静かに、慈しむように僕とマーシャを見ていた。

「他の人はこのことって知ってるんですか、カベッサさん」

 カベッサさんは驚いて僕を見た。確かにこんなことを聞かれるとは思っていなかっただろう。

「いや、知らないよ。マーシャも、全部は知らない」

「それだったら、僕はどこかに行ったとでも言っておいてください」

「いや、いやだよ……いやだよ、こんなの……! どこにも行かないでよ……」

 僕は今、不思議な気持ちだった。

 妙に冷静で、自分で自分を見ているような感覚で、少し前まであったはずの恐怖は感謝に変わり果てていた。いなくなる、とカベッサさんは言った。凄惨な死に方をすると。それなのに全く不安はなかった。こんな最後なら悪くない、そう思った──。


「やあこんにちは」

 目を開けると、そこには僕がいた。いや、違う。これは僕の姿をした──

「精霊……?」

 目の前の僕はなぜか頷かなかった。代わりに謝罪の言葉を口にした。

「悪いね、今まで黙っていて」

 僕は最後に考えていたことを思い出した。『いなくなる』、『凄惨な死に方をする』、つまりこれは。

「あなたが僕に凄惨な死に方をさせる、と?」

「私は、簡単に言うと呪いの具現化のようなものでね。精霊なんてものじゃないんだ。そもそも私がここで何をしているのか疑問に思わなかったかい?」

 相変わらず落ち着いた様子で精霊、ではなく呪いの具現化は言った。改めて考えると、確かにただここにいるというのは異常ではあった。

「君をここに移動のもこの呪いの能力のようなものでね。使える対象は柵の奥に入った男──つまり君だけなんだけどね。そもそもここは君のいる世界の時間軸ではないんだ。君はあの柵の奥にこの場所があると思っていたようだけど、それは違う。そう見えるようにしていただけで私と君が話している時には君はあの世界にはいないんだ。君に時間制限があると言った本当の理由はこれだ」

「でも実際柵の奥にこの場所はありました。あなたと話せなくなった後も」

「ああ、説明不足だったか。あれは入口のようなもの、いや面会室のようなものと言う方が正しいね」

 面会室というイメージは僕にはまったく分からなかった。

「あの場所と、この場所の景色は同じだ。だが私と君が今話している時、そこは君の世界ではないということだ。まあ簡単に言うと、君があの場所に来ることでも、私の世界に来る機会を得ることができるということだ。それは私の意思で選べる」

「だから面会室、ですか。入口ではなく」

 満足そうに頷いた。

「……柵の奥に入ったらどうなるか、知ってたんですか」

「知ってたよ」

「僕にアドバイスしてくれたのはどうしてですか」

「暇つぶしさ」

 拳に力が入る。

「僕は……僕はあなたと話す時間を楽しみにしていました。何者かよく分からないけど、でも不器用なで優しくて、ちゃんと心を持った存在なんだって思ってました。でも実際、あなたにとって僕はどうでもよくて、あなたはここから僕があれこれあがくのを眺めて笑っていて、僕はただ騙されていただけだった」

 唇をかみしめる。悔しくて、何より悲しかった。

「──私は、ずっと前からここで役割を全うして来た。今すぐここで君の目玉を取り出すことなんて造作もない。だが君のような存在に出会ったのははじめてだった」

「……え?」

「この村にいた男は全員死んだ。大多数は女と交わることで死に、残りの少数は君のように、柵の奥に入ったことで死んだ。だが誰一人、この場所の秘密を知ることはなかった。知ろうとしていなかったというのも勿論あるが、何よりも入ってからに死ぬからだ」

 僕は一瞬、その言葉の意味が理解できなかった。二日以内? 僕がはじめて柵の奥に入ったのは──

「カベッサがどうして今朝君が死んでいると──いなくなっていると思ったか分かるかい?」

 カベッサさんは二日前に見たと言っていた──

「そうか。カベッサさんが見てから今日で二日……だから」

「君が今朝起きた時点でリミットとしては二時間もない。それに二日というのは限度の話で、二日以内の全ての瞬間に等しく死ぬ可能性は存在している。仮に一時間に一回、君に死ぬ可能性が生じるとすれば、君があの時点で生きている確率は、2/48、つまり約95%の確率で君は死んでいるわけだ。もっとも、そこまで彼女がそこまで考えていたかは分からないがね」

「でもそうなるとおかしい。だって僕は──」

「そう。君がはじめて柵の奥に入ったのはその更に二日前。つまり四日前ということになる」

「そうです。でもそれだとその話と矛盾する」

「君は、他にも私にとってはじめての点があった。エミリーが君に夜這いをしたあの時の反応で、既に私は君に興味が湧いていた。それもあって私はあの日、君の面会を受け入れた。私が見てきた限り、ああいう時、男は自分がその相手に好意を抱いているかの有無に関わらず交わる。仮に否定するにしてもそれは建前でしかない。だが君はまったく違っていた。君は他人から向けられる好意が怖いと心から思っていた」

 呪いはどことなくいつもより饒舌に、熱のある話し方をしていた。

「おっと、つい長くなってしまったか。つまりだ。私は君を呪わないことにした」

「……呪わない?」

 何を言ってるんだ? 呪わない呪いなんてあるのか? だいたいそんなことできるのか。

「君を呪いで殺すなんてことはもったいない。今日はそのことを伝えるために君を呼んだんだ。殺す為ではなくてね。君を向こうに戻す。それじゃあ」

 温度差の激しさに置いて行かれているうちに、気がつけば柵の奥の暗闇の中にいた。

「どういうことなんだ、あれは……」

 よく分からないままに村へと戻った。柵の外に出ると、照りつけるような太陽が今がまだ昼時だということを嫌というほどに教えてくれた。


彼は本当に面白い。ここまで興味を持った人間が他にいただろうか。彼ならば──私の描いたシナリオを叶えられるかもしれない。そこで彼がどう絶望し、どう朽ちるのか、楽しみで仕方がない。

彼は私に優しさを感じていると言ったが、それは違う。こうすることが私の中ではじめから決まっていた。それだけだ。

明谷太郎。その名前を、君は恨むかい?


「え……太郎……?」

 村に帰る途中、マーシャの姿を見つける。そこはマーシャが考え事をする時に来る場所だった。

 僕のことを考えてくれていたのかは分からないけど、あんな別れ方をしたあとだ。気恥ずかしさもあって、僕は何て言うべきか分からなかった。

「何か、大丈夫だったみたい」

 不器用に僕がそう言った瞬間、マーシャは全力で駆け寄ってくる。目元は赤くなっていた。

「太郎……! 太郎だよね……!? 夢、じゃないよね……?」

 僕の体を何度も触って存在を確かめる。

「大丈夫。呪いが許してくれたんだ」

 話が早すぎてよく分からなかったけどそれだけは間違いない。やっぱり良い人だったんだ。

「許した? どういうこと……いやなんでもいい。太郎が戻ってきてくれたならそれで」

 マーシャが僕の胸に顔を埋める。幸せそうに何度も頭を擦る。

「太郎、ちゃんと生きてる。心臓の音、聞こえるよ?」

 よくもそんな、恥ずかしいセリフを平然と……。

「あれ? 心臓の音早くなったね、ドクンドクンって」

「……うるさい。いいから離れて」

 こんな恥ずかしいことを言えるのはマーシャぐらいなものだと僕は思った。



 マーシャに事情を説明して、僕とマーシャは村へと戻った。幸いだったのは僕がいなくなったことは明日話すつもりだったということだった。もう一人の今回の事情を知る人物であるカベッサさんは、驚いて、それから優しく笑って受け入れてくれた。

 疲れていた僕は、部屋に戻ってから少し仮眠をとった。


 ◇

 夕方頃、目を覚ました僕はカベッサさんの部屋に向かった。特に理由はなかったけど、何だかカベッサさんの手伝いをしたいという気持ちになっていた。一生で今後思うことのないであろう気持ちを抱えつつ部屋をノックしてみるも、カベッサさんの反応はなかった。よく見たらドアが少しだけ開いていた。僕は隙間から部屋の中を覗いた。

 やはり、カベッサさんはいなかった。そして部屋は少し荒れていた。

 何か探し物でもしていたのだろうか。棚の本が何冊もそのまま床に放置されていた。

 僕は次に調理場に向かった。夕食の準備はいつもカベッサさんがすることになっているからだ。しかし、調理場にはカベッサさんではなくヘレナさんともう一人女の人がいた。

「あれ? 明谷くん。どしたの?」

 大きな鍋をかき混ぜながらヘレナさんが振り向いた。どうやらヘレナさんが今日の食事当番だったらしい。

「実はカベッサさんに用があって探してるんです」

「あ、カベッサさんなら街に出かけたよ〜。遅くなるかもしれないって」

 答えたのはヘレナさんではなく、ヘレナさんの隣で野菜を切っていた人だった。横からひょこっと顔を出してそう言った人物に僕は見覚えがあった。ヘレナさんとよく一緒にいる人だ。名前は……忘れたけど。どうやら今日は二人が食事当番らしい。

「そうそう。だから私たちが夕食担当することになったんだ」

 続けてヘレナさんがそう言った。珍しいと思ったが、確かにそれならカベッサさんが夕食を作るのは難しい。

「ねーねー、明谷くんだっけ」

 ヘレナさんの隣に立つ人は、なぜかニヤけながら僕を見た。なんだコイツ。

「はい、そうですけど……?」

「知ってる? ヘレナが最近君のことを考えながら──」

「──なに言おうとしてるの!?」

「あっつ!?」

 ヘレナさんは何か言いかけた隣の人の口を、かき混ぜていたお玉で強引に塞いだ。いったい何を言おうとしていたのだろうか。

「あ! ごめん! つい!」

「つい!? え、ここで殺す気?!」

 その人はヤバいやつを見る目をヘレナさんに向けながら口元を手で大事そうに撫でた。実際、そんなことしてくる人はヤバいやつではあるから正しい反応だと思った。

 ヘレナさんが僕の方を向いて言った。心なしか顔が赤かった。

「と、とにかく明谷くん。そういうことだから!」

「あー……ありがとうございます」

 その場を後にした僕は、カベッサさんの帰りを待つことにした。しかし、夜になってもカベッサさんは帰らなかった。



 翌日、その日は大雨だった。

「この村から消えろ」

 それが、目を覚ました僕が聞いた最初の言葉だった。

「え、どういうことですか。消えろ? 冗談にしてはひど──」

「消えろ」

 カベッサさんは僕の言葉を無視して再びそう言った。その目は今まで向けられたことの無いほどに冷えきっていた。まるで僕を人間とすら思っていないかのように。

「何を言ってるんですか? というかいつ帰ってきたんですか。みんな心配してましたよ?」

 目の前にいるはずのカベッサさんは何も答えない。

「さすがに意味がわかりませんよ。ね? エミリーさん──」

 言いながら振り向いて、エミリーさんがいないことに気づく。エミリーさんが先に起きていることは珍しくない。そのはずなのに、なぜか不安になった。

「邪魔だから消えなって言ってんのが聞こえないのか?」

 カベッサさんは再び言った。

「さすがに嫌がらせにしても度が過ぎませんか、カベッサさ」

 その時、開いたドアから見える廊下をマーシャが通りかかるのが見えた。

「あ、マーシャ! カベッサさんがおかしいんだよ」

 マーシャは僕の姿を目視して、そのまま近づいて──こなかった。

「え……?」

 気がつくと廊下には、アリス、ヘレナさん、それにエミリーさんもいた。それだけじゃない。普段関わりのない村の人も何人かいた。

「出ていかないんだね……それなら──!」

 瞬間、頭に衝撃が走った。視界が上下に揺れ、僕はそのまま地面に倒れ込んだ。何が起きたか分からずカベッサさんを見ると、その手には棍棒が握られていた。

 不意に泣きそうになった。ずっとここで楽しく暮らしてきた。それなのに……なんで……。

「僕が何かしたなら謝ります。だからもうこんなことや──」

 無慈悲に振り下ろされた一撃が再び頭を揺さぶり僕は意識が遠のくのを感じた。

 消えゆく視界の中見えたのは、僕を無感情に見下ろすみんなの姿だった。

「どう……な……に」

 誰かが何か言っていた。それが僕の声なのか、他の人の声なのかすら分からなかった──。


 ◇

 顔に当たる雨粒で、僕は目を覚ました。目を開けると、そこはいつか見た平原の真ん中だった。少し離れたところには街が見える。街、か……。

 いつかカベッサさんと街に行った思い出が、今では遠い昔のように感じられた。

 それにしても寒い。いったいどれぐらいの間、僕はここで雨に体を打たれていたのだろう。

「とにかく……帰ろう」

 鉛のように重たい体を何とかして起こすと、頭痛が走った。それと同時に、思い出したくないことが勝手に浮かんでくる。何度も言われた消えろという言葉。僕を冷たい目で見下ろすみんなの姿。殴られた頭。

 ……村には、戻れない。とりあえず、街に行こう。

 僕は重たい身体を引きずって街へと歩いた。視界はやけにぼんやりとしていた。


 どれぐらい歩いたか。ようやく街に辿り着く。いつからか身体の震えが止まらなくなっていた。歯が自分の意思とは関係なくカタカタと音を立てている。

 とにかく雨が当たらない場所に行こう。屋根のある場所に……。

 歩き出したその時、体が何かに当たる。

「あ、ごめんね……って──」

 女の人の声がした。どうやらぶつかってしまったらしい。何だか視界が霞んで顔も見えやしない……困ったな。

「僕の方こそ、ごめんなさ」

「──どうしたの!?」

 突然、体が何かに包まれる。何でこんな、暖かいんだろう。それに、いい匂いもする。

「冷たっ……! このままじゃ……どうしよ……」


 ガラス戸を叩く雨の音で僕は目を覚ました。知らない天井だった。ここはどこだろう……?

 身体を起こして部屋を見渡す。机と椅子。そして収納棚がひとつ。それ以外には何にも見当たらない。なんというか、普通の部屋だった。窓の外を見つめると、雨は先ほどよりも酷くなっていた。止む気配はない。

「とりあえず起き上がるか」

 まだボーッとする頭で最初に思ったことはそれだった。

 布団をのけると、どうやら一枚じゃないらしく、まだ布団があった。更に布団をのける。まだあるらしい。のける。のける。のけるのける。……どんだけあるの?

 積み重なって芋虫みたいになった布団の隙間から何とか這い出る。

 まだ記憶がハッキリとしない。それでも、忘れたいことだけはハッキリと覚えていた。

「……なんだこれ」

 僕は半袖のダボダボな白シャツを着ていた。ズボンのサイズはそれほど違ってはいなかった。何となく動きにくい気がしたのはこれが理由だったらしい。

 ドアが開いた。

 そこには僕の知らない女の人が立っていた。少し下にズレた黒縁のメガネから覗く柔和な目に、細い眉毛。少し白い肌色。背中まで伸びたロングウェーブの茶髪に、何よりも──未だかつて見た事のないほどに豊かな胸が特徴的だった。

「もう起きて大丈夫なの!?」

 僕が起きていることに気づくと、その人は近づいてきた。どんどん。どんどん。

「え、ちょ」

 その人の額が僕の額に触れる。文字通り目の前に顔があった。

「んー少しは体調良くなったのかなー? でもまだ熱があるっぽい……? てことは、まだ寝てなきゃダメダメ!」

 額を離すとその人は、ズカズカと僕をベッドに押し戻した。完全にスタート地点まで戻されてしまった。

 その人はベッドの横に椅子を置いて腰掛けると、安心した様子でホッと一息ついていた。

「あの、ありがとうございました。介抱してくれてたんですよね」

 多少、記憶が曖昧とは言え、雨の中ぶつかった相手がこの人だというのはさすがに僕でも理解できた。

「何とかなって良かったよ〜。ボクどんだけ抱きしめても冷たいままだったから本当にどうしようかと思って。アセアセだったよ」

 ……アセアセ? え? アセアセって口で言った? 擬音じゃなくて? 

「そうだったんですね、ありがとうございます」

 何かちょっと変わった人なのかもしれないけど、とりあえず良い人だということは間違えなさそうだった。

「それでとりあえずボクをうちに運んで、着替えさせて、とにかく暖かくなれーって思って家にある布団全部持ってきて」

 道理でサイズが合わないと思ったら、この人の服だったらしい。主に胸の部分が。ところで気になるのは──

「そのボクって、僕のことですか」

 自分を指さしながら聞いてみる。

「ん? ボクはボクだよ?」

 当たり前のようにその人は首を傾げた。なんだそれ哲学か?

「それでボクは何してたの? あんなところで」

 何をしていたか、と聞かれると正直どう答えたらいいのか分からなかった。僕自身、状況を理解できていない。あんなの、どうやったって理解できるわけがない……。

「あ、ごめんね! 言いたくなかったかな……?」

「え……?」

「その、ボク何だか辛そうな顔してたから。ごめんね? 余計なこと聞いちゃったね」

 頭を撫でてくる。気持ちが顔に出ていたらしい。何歳だと思われてるのかは分からないけど、その心遣いは正直ありがたかった。

「それでボクの服だけど、もうすぐ乾くと思うからそれまでは──」

「──Ainaアイナ、居る?」

 その時、下から声がした。今更だが、どうやらここは二階だったらしい。

「あ、来たみたい。私の事呼んでる」

 部屋を出る直前、その人──アイナと呼ばれた人は僕の方を振り返った。

「じゃあボクは大人しく寝ててね? ベッドから出たら……め!だからね」

 注意するように人差し指を立てて部屋を出ていくアイナさんには、もしかしたら僕が幼児ぐらいに見えているのかもしれない。そう思わずにはいられなかった。


 アイナさんが階段を降りてから少しして、話し声と共に階段を上がってくる音が聞こえてきた。

 ドアが開く。

「──や、調子はどう?」

 そこにはレイチェルさんがいた。

 また犬のような目(そんなものは無い)に遭うことを覚悟していたが、レイチェルさんは思いの外落ち着いた様子だった

「レイチェルちゃん……どう? やっぱり知り合い?」

 遅れて入ってきたアイナさんがレイチェルさんを見て言った。やっぱりという言葉が引っかかった。

「ああ、そうみたい」

「そっかー」

 二人の話していることがよく分からず、僕はただことの成り行きを見ていた。

 レイチェルさんが僕を見た。

「アイナから話を聞いた時そうかもって思ったんだけど……やっぱり君だったね」

 そう話すレイチェルさんの顔は、どこか悲しそうに見えた。まるで僕じゃないことを望んでいたようでもあった。

「それにしても君も感謝しなよ? アイナがここまでしてくれてなかったら本当に死んでたかもしれないんだから」

「布団という布団をかき集めたからね!」

 アイナさんが隣で胸を張って言った。それに合わせて胸が勢いよく揺れた。

「あ、ああ……そう……みたいだね」

 レイチェルさんは何重にも積まれた布の山を見ながら苦い顔をした。

「それにしても最初は焦ったよ〜。本当にどうしようもないぐらいに冷たかったから。ヒヤヒヤだったよ〜」

 どうやら擬音を口にするのが好きらしい。色々とキャラ設定盛られてるな、この人……。

「じゃあ、ありがとねアイナ。この子はウチで預かるから」

「そっか。そういう話だったもんね。ボクもう行っちゃうのか」

 預かる? そういう話?

 僕を置いてどんどん話が勝手に進んでいく。

「よーし。じゃあ最後に──」

 アイナさんがゆっくりと近付いてくる。何だか嫌な予感が──

「ぎゅうううう〜」

 アイナさんは思いっきり僕の顔を自分の胸に押し付けた。本人は抱きしめているつもりなのだろうか。とにかくでかい。柔らかい。そして呼吸が、でき、ない。これはなんて言うんだろう。殺しの技? あ、これ、息ができない……これが僕の最期……?

「よし! これで元気チャージできたかな?」

 死ぬかと思ったその時、呼吸を阻むものが無くなる。僕は思いっきり息を吸った。

「あれ? 顔が赤くない? それに息も荒いよ? もう少し休んで行った方がいいんじゃ──」

「──呼吸ができなかっただけです!」

 僕は荒い呼吸を整えながら言った。

 こういう人をなんて言うんだろう。天然? いや天然で済ませていいのだろうか。

「ほんとにー?」

 アイナさんはまだ疑っている様子で、首を傾けながらそう言った。

「本当にもう大丈夫です」

「まあそう言うなら良いけどね。あ、そうだ。ボク、名前はなんて言うの?」

 思い出したようにアイナさんが言った。そう言われて僕はまだ自己紹介すらしていなかったことに気づいた。見ず知らずの人にここまでしてくれていたアイナさんは、改めて考えるとなかなか異常だ。でもそれに僕は助けられたんだ。

「明谷太郎です」

 僕は感謝の意味も込めつつ、アイナさんの目を見て自分の名前を口にした。それはもう十二分に感謝をして。

「そうなんだ。じゃあ元気でね、ボク」

「あ、はい……」

 そんな想いは一ミリも届いていなさそうだった。隣でレイチェルさんはくすくすと笑っていた。アイナさんは何で笑っているのか分かっていない様子だったが、まさか自分のことだとはこれっぽっちも考えていないということが僕には分かった。

 その後、服とズボンを受け取り、お礼を言ってから僕はレイチェルさんについて、家へと向かった。


 ◇

「とりあえず……私の部屋にでも行こうか」

 家に着いたレイチェルさんはそう言った。

 階段を上っていくレイチェルさんの後ろをついて行きながら思う。今日のレイチェルさんは、はじめて会った時からは想像もつかないぐらいに落ち着いている。

「何にもないけど、まあ入ってよ」

 促されるようにして部屋に入ると、前にいたレイチェルさんは振り向いて──

「え?」

 僕は突然のことに反応ができなかった。二、三秒経ってから僕は状況を理解した。自分が抱きしめられていることを。

「とりあえず、はなしてくだ──」

 引き離そうとしたレイチェルさんの肩が震えていることに気づいて僕は手を止めた。

「辛かったね……」

 僕の中で全てが繋がった瞬間だった。やけに落ち着いた様子だったのも、今日はなぜか頭をわしゃわしゃ撫でてこなかったのも、全部。

 この人は──知っていたんだ。

「なぜ知っているんですか?」

 警戒しつつ僕は聞いた。

「大丈夫。怖がらなくていいよ」

 レイチェルさんは答えない。

「いや、そうじゃなくて……」

「いいんだ。何も言わなくて」

 レイチェルさんはただ優しく抱きしめてくるだけで僕の質問に答えない。

「急に追い出されて辛かったんだよね」

 ……この言い方、やっぱり知っている。

「吐き出していいんだよ」

 レイチェルさんの声はとても落ち着いていて、包み込むような優しさがあった。

「安心していいんだ。私は君の味方だから」

 そのせいか、僕はなぜかレイチェルさんの腕を振り解けないでいた。

「君は悪くない、悪くないよ?」

 なぜこの人の言葉はこんなに心に入り込んでくるんだ。なぜこんなに……苦しくなる?

「僕は──」

 考えないようにしていた。そうしないと耐えられなかった。だから、なるべくいつも通りの自分を演じた。それなのに、こんな言葉をかけられてしまったら──。

「言っていいんだよ。ここには私しかいないから」

 後押しするような言葉に、僕は自分の本当の気持ちを言葉にしていた。

「辛かったです。苦しかったです」

「うん。そうだよね」

 あやされている。そう分かっていても言葉は止まらなかった。一度溢れ出してしまった僕の心は、吐き出す以外の選択肢を失っていた。

「何も……してないのに」

「そうだね」

 レイチェルさんが頭を撫でる。犬を撫でるようにではなく、ゆっくりと丁寧に。その手からレイチェルさんの優しさが伝わってくるようだった。その手も、その声も、全てが言いようのない幸福感を僕に与えた。

「どうして僕があんな目に遭わないといけないんですか。僕が何をしたって言うんですか。どうして誰も助けてくれないんですか……」

 僕は気がつくと泣いていた。

「私がいるよ。なにも心配しなくていいんだよ」

 どれだけ僕がみっともなくてもレイチェルさんは優しかった。

「それで──」

 レイチェルさんが口を開いた。頭を撫でながらゆっくりと。

「君はどうしたい?」

 どうしたい? その言葉の意味が分からずにいると、レイチェルさんが教えてくれる。

「私とこのまま……ここで暮らすのは、ダメかな」

 僕を見つめるレイチェルさんの目には強制する意思は感じられず、ただ僕の答えを待ってくれていた。

「……レイチェルさんと二人で、ですか?」

「うん」

 そう言うと、レイチェルさんは僕の耳元に顔を近づけた。

「君がここに居てくれるなら、どんなことだってしてあげる」

 触れるか触れないかという距離でそう囁く。

「だからもう……あんな場所に戻る意味なんて無いよね? ここで私と暮らそう?」

 その言葉に僕は頷いた。レイチェルさんの言うことは正しい。村に戻るよりここで暮らす方が幸せだ。辛かった村でのことは、全部忘れよう。

「そう……ですね。分かりました」

 今ハッキリした。僕はどうしたいのか。

「うん。じゃあどうしたいか、ちゃんと教えてくれる?」

 答えは決まった。僕はレイチェルさんの目を見て言った。涙はもう止まっていた。

「僕は──村に帰ります」

 僕の答えに、レイチェルさんは数秒遅れてから驚いた。想定していなかった答えだったとでも言うように。

「帰る、って、どうして……?」

「帰って本当のことを聞きます」

「本当のことも何も、君はあの村から追放されたんじゃ……」

「そうです。だからどうして追い出したのかを聞きます。そして困っているのなら救います」

「救う?」

「はい」

 僕は迷うことなく頷いた。救う、なんて仰々しいと我ながら思う。それでも僕は、そうしたい。

「それは自分勝手な考えだと思わない? 君が本当に救いたいのならやるべき事は一つだよ。あの村に関わらないこと。そうでしょう?」

 レイチェルさんはまくし立てるように早口でそう言った。実際その通りで、それが賢明な判断だ。それでも僕の心は動かなかった。

「そうですね」

「だったら──!」

 レイチェルさんが僕の肩を掴んだ。

「だったら、ここで一緒に暮らすことがみんなにとっての幸せだと思わない?」

「思います」

「ならどうして──?!」

 そういう暮らしだって悪くない。本当に皆が幸せになると言うのなら。

「聞こえたんです。声が」

「声……?」

 レイチェルさんはまるで分からないという表情で僕を見ていた。僕も分からなかった。ついさっきまでは。

 意識が消える寸前。あの時、僕にはハッキリと聞こえていた。でもそれを理解したくなくて、分からないフリをしていた。記憶に蓋をしていた。

「受け入れられたのはレイチェルさんのおかげです。レイチェルさんが僕の心を引き出してくれなかったら、多分僕はずっとそれに気づかないふりをして、忘れていたと思います」

 レイチェルさんに二択を迫られて、ここで暮らすことを想像した時、僕の脳裏に過ぎったのは、この街の光景なんかではなく、村での想い出でもなく、意識が消える直前の光景だった。『どうしてこんなことに』と、消え入るような、救いを求めるような声で言うカベッサさんの姿だった。

「それに今のレイチェルさんとの会話で確信しました。昨日カベッサさんが来てたんですよね」

「それは……」

 レイチェルさんは言い淀んだ。やはりそうらしい。

「その時、僕を助けてあげるように言われた。大方そんな感じじゃないですか?」

 レイチェルさんは何も言わず、じっと僕の目を見つめていた。肯定も否定もせず、ただ、僕の中に何かを見出すかのように。

「本当に、君はそうするの? それを選択する覚悟がある?」

「はい」

 レイチェルさんは少しの沈黙の後、僕の体を抱きしめるのをやめた。それを、僕を送り出してくれているようだと思うのは都合のいい解釈だろうか。

 レイチェルさんは軽く息を吐いて口を開いた。

「君の予想しているように、昨日カベッサさんはうちに来た。いつものように買い物をしにね。そして店を出る前に『明日あの子を追い出す事にした』って言った。それだけ言ってカベッサさんは帰って行った。私が引き止めるのも無視して」

 レイチェルさんの話に僕は違和感を感じた。

「カベッサさんはいつここに来たんですか」

「お昼過ぎ……いや夕方ぐらいだったかな」

 やっぱり──

「おかしい」

 思わずそう声に出していた。

「おかしい?」

 レイチェルさんの言葉に僕は頷いた。

「カベッサさんは昨日帰ってこなかったんです。少なくとも深夜になる前には」

 レイチェルさんは僕の言葉の意味を理解したらしく、僕が感じている疑問と同じことを口にした。

「どれだけ遅くても夜には村に着くはず……なのに村には帰っていない、か」

 カベッサさんが夜までここにいたというのなら何も不思議ではなかった。ただ、すぐに帰ったとなると遅くとも夜には村に着くはずだ。一度、街までついて行ったからそれは間違いない。それなのにカベッサさんは帰ってこなかった。

 それとは別に、僕には今の話で新たに疑問が湧いていた。

「じゃあどうして、レイチェルさんやアイナさんは僕を助けてくれたんですか?」

 レイチェルさんは僕の言っていることがよく分からないというように軽く首を傾げた。分からないというのか?

「だってカベッサさんに頼まれたわけじゃないんですよね」

 レイチェルさんが事情を知っていることが分かった時、僕は、カベッサさんに頼まれて手を貸してくれたんだと思った。だってそうじゃないと、それは無償の行動になる。それは僕の中ではありえないことだった。

「そんなことか」

 なぜかレイチェルさんは笑った。母親が子どもに向けるような優しい笑顔だった。

「可愛いね君は。それだけの行動力はあっても、まだ子どもだ」

 頭を撫でられる。今度は犬のようにわしゃわしゃと。

「頼まれたからするんじゃない。そうしたいからそうするんだよ。それは別に変な事じゃない。君だってそうだよ」

「……僕が?」

「君はどうして帰ろうとしてる?」

 その言葉で考える。どうして帰ろうとしているのか。そう、それはきっと──

「君がそうしたいから。違う?」

 僕は思わずレイチェルさんを見た。

 レイチェルさんが言ったことは、僕の思っていたことそのものだったからだ。

「でも正直自信がない?」

 そう言って微笑むレイチェルさんに、僕は驚きから言葉が出なかった。それも僕が感じていることだった。

 僕の中では二つの感情があった。一つは、苦しんでいるなら助けになりたいという感情。一方で、これはただのエゴだ、都合よく解釈しようとしているだけだという感情。だから僕は、ああは言ったものの、正直なところ、心の中ではずっと悩んでいた。消えるはずのない悩み。答えは誰にも分からない。

 それなのに──その人は、当たり前のように確信して言った。

「君のやろうとしていることは正しいよ。自信を持っていい。絶対に間違ってない」

 僕が顔を上げるとレイチェルさんはまた微笑んだ。レイチェルさんは、嘘でも慰めでもなく本心からその言葉を言っていた。

「私も今でも考えるよ。あの選択は正しかったのか、この選択は正しいのかって。でもね、正しい選択なんてない。選択することは捨てることだから。どう生きたって人は心に後悔を残して死ぬ。だったら、やりたいようにやって後悔した方がいいって私は思う。だから君は間違ってないんだよ」

 レイチェルさんの話し方には迷いも、躊躇いも、その一切が無かった。こんなことを言える人を、自分なりの生き方を持っている人を見たのははじめてだった。

 僕は、圧倒されて言葉が出なかった。

「それに──これは私の勝手な想像だけど、カベッサさんは昨日、悩んでいて村に戻る気になれなかったんじゃないかな」

「どうしてそう思うんですか」

 僕の問いにレイチェルさんはニコッと笑った。

「まあ私の店の唯一のお得意さま、だからかな」

 その笑顔が、僕にはまるで晴天に浮かぶ太陽のように見えた。

 外ではまだ、雨が降り続いていた。


「私はきっと、君を止めることが役割だと思うんだ」

 別れる直前、レイチェルさんはポツリと呟いた。

「多分カベッサさんもそうしてほしくて、昨日私のところに足を運んだんだと思うんだ。だから私はそうしようとした。もちろん君と暮らすって適当に言ったわけではなくて、それならそれで良いと思ってはいた。だけど──」

 レイチェルさんは顔を上げると僕を見た。

「君はあまりにもあっさりと選んだ。楽な選択をしないという選択を。だから止められなくなった。止めたくないと思ってしまった。君がどうなるかも分からないのに」

 レイチェルさんは弱弱しく言った。悪いと思っているのだとしたら、それはとんでもない勘違いだ。

「ありがとうございます」

 僕がお礼を言うと、レイチェルさんはキョトンとした顔で僕を見た。

「君は……なんて言うか、そういうところが子どもだ──」



 ◇

 あれから、あの朝からどの程度時間が過ぎたのだろう。一日か、あるいは二日は経っているかもしれない。雨は止むことなく降り続けていた。

 村の入口が見えてくる。そこに一つの影が立っていた。雨のせいもあってかよく見えない。

 僕は村へと歩き始める。影との距離は近付いていく。ほとんど目の前まで行った時、ようやくそれが誰かに気付いた。いや、本当は分かっていたような気がする。

 この大雨の中、傘もささずにその人はそこにいた。

「何しに来た?」

 睨みつけられても僕は怯まなかった。そんな覚悟でこの場所には来ていない。

「僕はただ自分の居場所に戻ってきただけです。本当の事を知るために。カベッサさんはどうしてここに?」

「そりゃあ簡単さ。怪しい男がいつこの村を襲うとも分からないからね。警戒してるのさ」

 そう言うとカベッサさんは手に持った棍棒の先を僕に向けた。

「話は以上だ。早く消えろ」

 ここから先に進めば攻撃するという予告だろう。やはりそう簡単には行かないか。

 僕は前に進んだ。同時に棍棒が僕の腹部にめり込んだ。まるで躊躇がないその攻撃に握っていた傘を手放してしまう。それも無視して僕は前に進んだ。

「カハッ!」

 再び腹部を棍棒で殴られ、口から声が漏れた。それでも前に進む。

「ぐふっ!」

 歯の隙間から声が漏れる。腫れているのだろう。殴られた箇所が焼けるように痛む。それでも前に進む。

「う……!」

 次は背中を殴られる。

 腕、足、腹、頭、顔、何度も、何度も殴られた。 一撃毎に飛びそうになる意識を必死に掴んで手繰り寄せた。

 ──どれだけ時間が経ったんだろう。

 気がつくと僕は、声を出す度に痛みを伴うようになっていた。何度目か顔面を殴られた時に左目は見えなくなった。腕は青紫色に腫れていた。背中とかお腹にも同じような腫れがあることは何となく分かった。

「い、て……」

 雨の中に僕の呻きと棍棒の乾いた音だけが響く。これだけ雨は降っているというのにカラカラに枯れた声しか出なかった。

「あぐっ……」

 殴られる度に視界が点滅する。立ち上がる度に全身を貫かれたような痛みが走る。

 それでも、僕は確実に村に近付いていた。五メートルほど進んだ。村までがだいたいあと二十メートルぐらいだから……何千発か耐えれば村に入ることができる? それとも何万発か?

「あが!」

 その時、今までの痛みを遥かに越える衝撃が足に走った。骨が皮膚に刺さっていることが感覚的に分かった。そんなことはどうでもいい。

 僕は前に進んだ。一歩動く度に折れた骨が皮膚に沈み込み、内側から体を叩かれているような痛みに脂汗が出た。

「あんた──どうやら本物のバカらしいね?」

 いつの間にかほとんど見えなくなっていた視界のせいで、これが本当にカベッサさんが言っているのかよく分からなかった。これは幻聴で、現実の僕はもう倒れているのかもしれない。

「あんたの目的は村に帰る事なんだろ? 他に入る場所なんていくらでもある。それなのにそんだけボロボロになってもまだ正面から入ろうとしている。それかバカじゃなくて何だって言うんだい?」

 現実のカベッサさんが言っているとしたら、おもしろい事を言う。

「……なにが面白い?」

 どうやら僕は無意識に笑っていたらしい。でもそうだろう?

「ぼ、くは……この、むら、の、にんげ、んです」

 どうしてかうまく口が開かない。それがもどかしくて仕方がなかった。

「いり、ぐ、ち、から……むらに、はいる……のはふつ、のこと、だ」

 カベッサさんは驚きで目を見開いていた。

「違う! あんたはもうここの人間じゃない! いつまで寝ぼけてるんだい?!」

「そ、れ、に……そんな、こと、したって、いみ、ない」

「邪魔なんだよ! これだけ言ってもまだ分からないのかい?!」

 手に持った棍棒が振り下ろされる。痛い。それでも。

「こんな村捨ててほかの生き方があったはずだ! そこまでしてどうしてここに執着する!?」

 ほかの生き方……確かにあった。でも僕はそれを捨てたんだ。だって──

「あな、た、がたすけ、もと、めてい、るように……みえ、た、から」

「──!」

 棍棒を握る手が弱まったように見えたのはきっと都合のいい幻覚だろう。

「だから……いみ、ない、ん、です」

「ありえない……」

 カベッサさんは怯えるように首を振っていた。

「自分がどういう状態か分かってるのかい!? 片目は潰れ、口は切れ、顔中腫れて。顔だけじゃない! 体だってもうボロボロのはずだ。服に何ヶ所も血が滲んでいる。骨が折れて刺さっている証拠だ!」

「ああ、やっぱり、おれてた、のか」

 僕は笑った。道理で痛いわけだ。カベッサさんはそんな僕に震えながら必死に棍棒を両手で握っていた。その様子が鬼を怖がる子どもみたいだな、と僕は思った。

「そこまでなって……あたしにただ殴られ続けて、その理由が私を助けるため!? そんなこと誰が頼んだ?! 誰が言った?!」

 少しづつ痛みが引いてきたらしい。さっきよりは口が開く。いや、麻痺してきただけか。何にせよ、この方が喋りやすくて助かる。

 残った目で真っ直ぐにその人を見た。僕はもう、自分のやることが間違っているかもなんて考えない。それでいいって、教えてくれたから。

「だから、言ってるじゃ、ないですか。それ、が本当かどうか、を確かめに、来たって」

 カベッサさんは静かに言った。

「……そうかい」

 カベッサさんが下を向いてから少しばかりの静寂があった。

「じゃああたしからのお願いだ。あたしの前から……消えてくれ……お願いだから」

 弱々しい言い方だった。カベッサさんとは思えないほどに。

「できま、せん」

 僕は即答した。カベッサさんは分からないという顔で僕を見る。

「あんたはあたしを助けに来てくれたんだろう? そのあたしが消えろと言ってるのに聞けないと?」

「それは、あなたの本心じゃない」

 睨むように僕を見るカベッサさんは焦っているようだった。

「本心じゃない、だって? あんたにそんなことが分かるわけ」

「──こうしてあってみて、確信、しました。僕の予想は、間違っていなかった、って」

「何を寝ぼけたことを」

「──じゃあ、あなたはどうしてあの朝、あんなことを言ったん、ですか」

 動きが止まる。

「『どうしてこんなことに』って言って、ました。それに、カベッサさん。あなたの、その目、ですよ。あの時も、今も、どうして、そんな目をしている、んですか?」

「くっ……! うるさい!」

 カベッサさんは再び棍棒を握るとそのまま振り下ろした。

「ッ……!」

 稲妻が駆け巡ったかのような痛みに全身が焼かれる。

「なんで倒れない!? どうして立ち上がってくる!?」

「言わないと、分かりませんか」

 どこか苦しそうな顔で振り下ろすその人をハッキリと見上げる。

「くっ……! 早く倒れろ! 倒れろ! 倒れろおおお!」

 振り下ろしては振り上げ、そしてまた振り下ろす。その度に身体中がビリビリと痺れ、脳を直接揺らされているような感覚になる。

「とっくに、分かっている、んでしょう?」

「な、なにを……何を言って……」

 カベッサさんは、自分の気持ちを落ち着かせるかのように力強く棍棒を握った。

「殴り、たければ、殴ればいい。だけど──」

 フラつきながらも立ち上がる僕に、カベッサさんは怯えるように後ずさった。

「あなたが本当の事を言うまで、僕は倒れない。絶対に」

 ハッキリ言って虚勢だった。もってあと一発、いや、もうとうの昔に体は限界を超えていた。気を抜けば意識は今にも飛んでいきそうだった。それでも倒れるつもりはなかった。

「そんな、そんなわけ……! ありえない……」

 カベッサさんは理解できない様子で首を振った。棍棒を持つ手は震えていた。

「それでも、あたしは……!」

 そう言って振り上げられた棍棒が振り下ろされるまでのわずか一秒にも満たないはずの時間が僕には永遠にすら感じられた。死の直前、人は全てがゆっくりに見えると言う話を思い出す。

 不規則に体が震える。それが、僕の体の限界を直感させる。もう絶対に耐えられない。それがハッキリと分かる。

 でも耐える。そうしないとこの人を救えないのなら、そうするしかないから。

 しかし──どれだけ経ってもそれが振り下ろされることは無かった。僕は顔を上げた。

 血と雨で湿ったからか。木でできた棍棒はへしゃげて折れてしまっていた。

 カベッサさんはしばらくの間、無言で棍棒を見つめていた。その表情が何を思い、その目が何を写しているのか、僕にはまったく読み取れなかった。ただ今は、意識を保つので精一杯だった。

「──ついてきな」

 カベッサさんは冷たくそう告げると歩き始めた。

 雨はまだ、止まない。


 体を引きずってカベッサさんについて行くと、そこは村の中──ではなく、何度も来た柵の手前だった。

「この先だ」

 カベッサさんは平然と柵を越えて進んだ。呪いがあるのにすんなり入って大丈夫なんだろうか。それに、どうしてここに僕を連れてきたんだろうか。

 ぼんやりする頭でそんなことを考えながらついて行く。

 カベッサさんが一本の木の前で立ち止まると、その場に膝をつき、まるで何かを探すかのように地面をさすった。そして、手を地面の中に入れると

「これは、いったい……」

 ギギギギギと重い音を立てながら地面が開くと、そこには下へと続く階段があった。

「ここだ」

 カベッサさんはそう言って僕の方を見ることなく階段を降りて行った。何が何だか分からないまま、僕はその後を追った。



 薄暗い静かな空間に足音だけが反響する。

「この地下室の存在は、代々村長だけに教えられてきた。今はあたし以外に知る人はいない」

 カベッサさんは階段を降りながらそれだけ言うと、あとは何も言わなかった。この地下室な空気が妙に生ぬるいからか、僕はそれに不穏な空気を感じた。それにしてもさっきから何だろうか、このむせ返るような濃い匂いは。階段を降りるほどに濃くなっている気がする。

 考えているうちに広い空間に出た。

「……座りな」

 無言だったカベッサさんが口を開いた。

 僕は室内を見渡した。部屋には机と棚があるだけだった。色々なものが置かれてはいたが、どれも何に使うものなのかよく分からなかった。唯一分かったのは、壁に立てかけられるようにして並ぶ棍棒がカベッサさんの持っていたものと同じだということだった。

「座る場所なんてどこに──」

 まるで主役かのように真ん中に置かれた椅子の存在に気づく。なぜ気付かなかったのか。いや気付いていたが拒否したのだろう。だって、これは椅子というにはあまりにも──汚れ過ぎている。

「かつてこの村で流行った病についての話はしたよね」

 カベッサさんの言葉に顔を上げる。

「男と女は別々に暮らすようになって、男たちは女を凄惨な目に遭わせることで追い出そうとしたことも」

 なぜだか僕の心拍数はどんどん上昇していた。

「女は今の村の場所で、男たちはこの、柵の奥で暮らしていた」

 僕は自然と唾を飲んでカベッサさんが次に言う言葉を待っていた。額を嫌な汗が伝う。

「男たちはどうやってそんなことをしていたと思う」

 それはほとんど答えだった。

「──ここは、その時に使われていた場所だ。つまり拷問部屋のようなものだ」

 僕は血の気が引くのを感じた。このむせ返るような匂いがその匂いだったと理解した瞬間、気持ち悪い感覚が全身にへばりついてくるような錯覚を覚える。一秒たりともこの場所にはいたくないと思わずにはいられなかった。

「ところであんたは、だるまって知ってるかい」

「だるま……?」

 僕にはカベッサさんの質問の意図が分からなかった。だるまなら分かる。でもなぜそれを今聞いてくる?

 続けてカベッサさんは言った。

「今のあんたがこの村にとってどういう存在か分かるかい?」

「どういう存在も何も、僕は別に」

「──危険なんだよ。この村に悲劇をもたらす災い。それが、あんただ」

 悲劇をもたらす災い……? 僕が?

 僕にはカベッサさんの言っていることが理解できなかった。

「つまり、アンタが危険じゃないと判断できれば解決することなのさ」

「危険じゃない……?」

 でもそんなのどうやって──

「簡単なことさ。その人間が絶対に何もできないようにする。つまり、手と足を無くす。そうすれば」

 なんと言った? 手と足が無ければ……? それはまるで──

「だるま」

 理解した僕は意味もなくそう口にしていた。

 カベッサさんのそれを肯定するような頷きに、僕は想像してしまった。自分が手首も、足も失い、血まみれで床に座る姿を──。

「ヴッ……!」

 逆流した胃液が口の端から漏れた。 そんな僕を気にすることもなく、カベッサさんは至って冷静だった。

「だけど生憎、そこまでの道具はここには無い。あくまでいたぶるための場所だからね。そこまでのものは必要じゃなかったんだろう。あんたにはその代わり、指を全て失ってもらう。よほどマシだろう?」

 そう言って笑う。その笑いは邪悪以外の何物でもないなかった。

 両手を広げて指を見る。10本ある。当たり前だ。これが全て無くなる……。指の先の丸みが無くなり、ようかんの断面みたいに綺麗な長方形になる。断面からは行き場を失った骨や血管が覗いていて、そして──

 僕はその場に体内のものをぶちまけた。腕や足ごと切断される方が想像ができない分、マシなようにすら思えた。止まっていたはずの体は再び震えていた。

「これは選択だ。あんたがどうしてもこの村に関わろうって言うのならそれぐらいはしてもらわないと困る。だけど強制はしない。あんたが今後二度とこの村に関わらないって約束するならそんなことする必要は無い。ただでさえ、そんだけボロボロの身体だ。悪いことは言わない。もう」

「──早くやりましょう」

 僕は口の端を拭ってからそう言った。カベッサさんの眉が上がる。

「……なに?」

「そんなにやめさせたいんですか? やけに喋りますね、カベッサさん」

「……やるなら早く座りな、その椅子に」

 僕は椅子に座り肘置きに腕を乗せた。

「言っておくけど途中で死ぬかもしれないよ? ただでさえあんたは血を流しすぎて」

「──早くしましょう」

 僕の言葉に、どこかイラついた様子でカベッサさんは言った

「どうやら後悔はないらしいね? あたしはもう止めない。あんたがどれだけ泣きわめいて、何と言っても」

 僕は何にも言わず、肘置きに取り付けられた穴あけパンチのような道具に指を入れた。上のハンドルを下ろす時の圧力で切断するという仕組みだというのは見た目から容易に想像がついた。

 カベッサさんがハンドルに両手のひらを乗せた。そのまま勢いよく──ハンドルが下ろされた。

 痛い!? いたい! いたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたいいたい!

 視界が赤く点滅した。意志とは無関係に白目を剥きそうになるのを堪える。痛み以外何も考えられなくなり、呼吸のやり方すら分からない。

 突然──痛みが消えた。

 ……あれ? 

 僕は指先を見た。そこには僕の指があった。断面からは本来指の先に送られるはずだった血が行き場を失い、流れていた。

 指が、切れた。

 そのことを理解した瞬間、呼吸ができなくなった。痛みに体が対応できずパニックを起こしかけていることは何となく分かった。

 風船かしぼむように弱い呼吸を繰り返して何とか意識を保つ。

「はあ……はあ、はあ……」

 どうやらかなり力が必要だったらしく、カベッサさんは肩で息をしていた。

「あと手のゆび九本、足のゆび十本、ですか? 急ぎ、ましょう」

「あんた、あんたおかしいよ! 痛くないのかい? 怖くないのかい!?」

「痛くも、怖くも、ない、ですよ」

「そんなわけ──!」

 カベッサさんは僕の方を振り向いて動きを止めた。

「痛くも、怖くも、ない」

 自分でもわかるほどに声が震えていた。平静を装わなくてはと思うほどに震えが止まらなくなる。

「な、なんで……そこまでして何の得があるんだ」

 僕は涙で前が見えなくなっていた。指を切られると言われた時、僕は考えないことにした。痛みも、不安も、全て虚勢で上書きしようとした。でも、もうそれも限界だった。

「正直……痛いし、怖い、です。怖く、ないわけ、ないです」

 嗚咽が漏れる。目から涙が止まらなかった。それが痛みからなのかも分からなかった。カベッサさんが僕を見て叫んだ。

「じゃあなんで──!」

「でも……このまま、あなたを助けられずに死ぬほうが、もっと怖かった」

「──!」

「そうなるぐらいなら、死んだ方が、マシ、です」

 カベッサさんは目を見開いて僕を見て──その目から、涙が零れた。

「なん、で、なんでそこまで……してくれるんだ」

 泣いていた。あのカベッサさんが。どんな時でも一度も涙を流さなかった人が。

「だからもう……苦しむのはやめてください」

 カベッサさんは膝から崩れ落ちた。

「あんたを……あんたを散々殴った。散々酷いことも言った。あたしのせいであんたは今死にかけてる。全部……全部あたしのせいだ。あたしは最低な人間だ。だから」

「──許します。全て。だからもう良いんですよ。無理をしなくて」

 カベッサさんの目からは涙が止まらなくなっていた。お互い涙だらけでぐちゃぐちゃだった。

「ごめん、ごめんよ……ありがとう……ごめんよ……」

 カベッサさんは僕を抱きしめると、消え入るような声でたったそれだけ呟いた。でもそれだけで僕には十分だった。カベッサさんがどれだけ辛かったのか、どれだけ感謝しているのか、どれだけ助けを求めていたのか。その全てが痛いほどに伝わってくるから。

「──それより!」

 抱きしめていた体をカベッサさんは突然離した。

「早く止血しないと!」

「あぁ……大丈夫ですよ」

 ……不思議だ。さっきまであんなに熱かったのに、今は寒い。それに、なんだかすごく眠い。

 僕の体は、指先から全ての熱が流れ落ちてしまったかみたいに冷たくなっていた。自然と瞼が閉じかける。

「ちょっと……! 大丈夫かい!?」

 カベッサさんに体を揺すられ意識が戻ってくる。そうだった。聞かないといけないことがあったんだった。僕がここに戻って来た目的を。

「それより、あの朝のことを教えてください」

「そんなのより今は──!」

「どうしても、今聞きたいんです。だからお願いします」

 真剣に言っていることが伝わったのか、カベッサさんは少し考えると頷いた。

「……分かった」

 僕には、どうしても今聞かないといけない理由があった。


『誰も部屋を出るな』

 カベッサはそう言って出かけた。おそらくあの男が来たのだろう。『この村に悲劇をもたらす災い』が。

 エミリーが窓の外を見た。ガラス戸を叩きつける雨は未だ止む気配が無い。

 ふと、エミリーの視界に一瞬何かが映る。雨の中、傘もささずに森の方に向かう人影が、一つ……いや二つあった。よく見えないが、あの男とカベッサだろう。それ以外に外を歩いている人間がいるとは思えない。

 どこに行くつもりだろうか。あっちに何かあるとは思えないが……まあどうだって良いか。

 エミリーは部屋の中に視線を戻すと、落ち着きなく部屋をウロウロしはじめた。突然あんな理由であの男を追い出すなんて言われて困惑しているんだろう。ただ追い出す理由としては十分過ぎるものだから何かしたくても何にもできない。そんなところだろう。

 そんなエミリーの心情に微塵も興味が無い私は、先ほどの窓の外の光景を思い出していた。

 ……それにしても、なぜあの男はあんなにぐらつきながら歩いていたのだろう。

 部屋をノックされる音と同時に私は考えるのをやめた。誰も部屋を出るなと言われていたはずだが、誰だ?

「エミリーちゃん、ちょっといいかな?」

 声からしてマーシャなのは確実だった。でも私は本当にマーシャなのかと思った。私が知る限り、マーシャはがこんなに丁寧にノックをして、しかもこちらが開けるまで待つような性格ではなかったはずだ。

 エミリーが駆け寄ってドアを開ける。そこには、いつもの元気溢れる様子──ではなく真逆と言ってもいいほどにおとなしいマーシャがいた。

「マーシャちゃん、部屋を出ちゃダメなんじゃ……?」

「そうだけど……太郎に謝りたくて」

 落ち込んでいるのか、悲しんでいるのか、そんな表情でマーシャは言った。

「謝る、ですか?」

 エミリーの言葉にマーシャは頷く。

「あの時はパニックで受け入れちゃったけど、やっぱり私、信じられないよ。太郎がそんな酷いことするわけない。エミリーちゃんもそう思わない?」

「私も……そう、ですね。それは、正直……」

 エミリーが同意を示すと、嬉しそうにマーシャは跳ねた。

「そうだよね! あたしばあばに言ってくるよ。こんなのおかしいって」

「言ってくるってどうやって?」

 声はマーシャの後ろ、廊下からした。珍しく言っていることはその通りだった。

「──アリス!」

 マーシャが後ろを振り向いて嬉しそうに笑うとアリスは呆れたようにため息をついた。

「ったく、部屋を出ちゃダメだって言われてたでしょ? 何やってんのよバカマーシャ」

「それはそうだけどさ〜……っていうかアリスもそうしてるじゃん」

「え? あ、あたしは別に。たまたま通りかかったらあんたの声が聞こえただけよ」

「えー? ほんとー?」

 マーシャの悪態をついたアリスがマーシャにカウンターを食らう。いつもの光景だった。私は何度も見てきた。

「えっと、それって結局、部屋を出てるってことになるんじゃ……?」

 エミリーの的確な指摘にアリスは口をパクパクさせていた。それを見てマーシャは小馬鹿にするように笑っていた。

 呆れるようないつもの茶番もほどほどに、アリスはようやく本題へと移った。

「それより……どうするのよ? 村長はどこかに出かけたんでしょ」

 アリスの言葉に二人は頭を悩ませた。

「うーん……行先も分からないし、ばあばが帰って来るまで待ってようか」

 マーシャの提案は現実的に妥当なものだった。この状況でなければ。

「そ、そうですね。きっと話せば分かって貰えます」

「そうよ、あいつがそんなことするわけないんだから!」

 アリスの言葉に二人は何度か頷いた。待つという方向性で話がまとまったらしい。

 ……やはりエミリーには見えていなかったか。

「──それじゃあ遅い」

「「え?」」

 私の言葉に、マーシャとアリスは同時に感嘆の声を漏らした。様子の変化に驚いているのだろう。私はそんな二人の様子には構うことなく続けた。

「だからそれじゃあ遅いんですよ。あの男はもう村の中にいます」

 私は少し考えてから言った。

 ……あれは、多分──

「──おそらくですが、あの男は殺されます」

「え? エミリーちゃん……?」

「そ、そんなことよりどういう意味よそれ!」

 マーシャはまだ私の変化に驚いていた。アリスは基本的にはバカなキャラクターだが、こういう時には重要な情報が何かを判断できるだけの冷静さは持ち合わせていた。

「さっきあの男とカベッサが森の方に歩いていくのが見えました。あの男の様子は、なんというか不自然でした」

 あれはまるで……屍が死んだ体を動かしているみたいだった。

「じゃあ追わなくちゃ!」

 私の言葉にマーシャが突然叫んだ。

「どこに行こうと言うんです、マーシャ」

「追わなくちゃ! そうしないと、太郎が──!」

 マーシャは動揺しているのか聞く耳を持たなかった。混乱した様子で走り出そうとするマーシャの腕をアリスは掴んだ。

「冷静に考えなさい。そんな闇雲に探して見つかるものでもないわ。どこに行ったか分からないのよね、エミリー」

 私が頷いて肯定すると、マーシャは相変わらず動揺した様子で言った。

「で、でもこのままじゃ太郎は死んじゃうかもしれないんでしょ?」

「それに第一、見つけられたところで解決にはならない」

「どういうことよそれ」

 アリスが私を見た。

「この村の人は皆あの話を信じきっています。それをどうにかしなくてはあの男がこの村に戻ってくることはできない」

 ──と言っても一番の問題はそこではない。仮にあの男を見つけて、村の人を説得できたとして、カベッサの説得ができなければ全て無意味だ。あの男を追い出した時のカベッサの目は本気だった。今更私たちが何か言って揺らぐものとは思えない。それに、もしあの男が死んでしまったら手遅れだ。……まあ考えても仕方ない。今できることをやるしかない。

 私はアリスとマーシャを見て、二人に指示を出した。

「アリスとマーシャはまずヘレナの部屋に向かってください。そしてヘレナと少しでも多くの村の人を説得してください」

「ヘレナねえと?」

「そうです。ヘレナは確実に私たちと同じ考えです。彼女のような大人がいないとあなたたちだけでは説得力に欠ける」

「まあ何か言い方は気になるけど……分かったわ。それでエミリー、あんたは?」

「私は二人を探しに行きます。もしある程度説得ができたら私を追って森の方に来てください。二人は森のどこかにいるはずです」

 私はそれだけ伝えるとアリスとマーシャを残し、足早に階段を降りて外へ向かった。ふと思った。

 ……私は何をしている? 傍観していれば終わったことなのに。どうして抗おうとしている?

 私は無性にイライラしながら森の方へと向かった。気持ち悪い感覚だった。


「──あんたが呪いから許されてここに戻ってきたあと、あたしは部屋にある記録を探した。あんたのようなイレギュラーが過去にも存在したのか気になってね」

 カベッサさんはそう切り出した。

「マーシャが呪いのことを知ったのも、あたしの部屋にあるその記録を偶然目にしてしまったからでね。と言ってもあの子には多分、あそこに書かれていることはほとんど理解できてないと思うけどね」

 カベッサさんはそう言うと軽く笑った。確かにマーシャは分からないだろうな……。

「それで何冊目かの記録を読んだ時、気になることが書かれているのをあたしは見つけた。内容は、ある男が村の女十六人を惨殺するというものだった。でも気になったのはその中身だった。その男には、殺した記憶がなかった」

「記憶がなかった……?」

 そんなことがあるのだろうか。それではまるであの呪いみたいだ──

「結局原因は分からず、死んだ男たちの怨霊がそうさせたということになっていた。この話の重要なのはここからだった」

 カベッサさんは改めて僕を見た。

「その男は何度も柵の奥に入っていたのに、死ななかった」

「それって……」

 僕と同じだった。僕も何度も柵の奥に入ったけど生かされている。

「だから、そうなるかもしれないと思って僕を村から追放することにした……」

 僕はカベッサさんが頷くと、そう思った。だが、カベッサさんの反応は違った。カベッサさんは肯定も否定もしなかった。

「……それなら、良かった……」

「どういう、ことですか」

「その男の名前は、明谷太郎。つまりあんたと同じ名前だった」

「──」

 僕は言葉を失った。僕と同じ、名前……?

「名前でも違っていれば、あんたは違うかもしれないって思えた。でも……でもそこまで同じだったらもう……どうしようもなかった」

 その声は絶望的なまでに重く、噛み締めた唇には血が滲んでいた。

「だから村に帰ってこなかったんですか」

 カベッさんは頷いた。

「あたしは村長として、村を……村のみんなを守らないといけない。だから、少しでも早く、あんたがそうなる前に決断しないといけなかった。それでも、あたしは……どうしても決められなかった」

 握られた拳は震えていた。

「それでも、私情で村のみんなの命を危険には晒せない。だからあの日の早朝、全員を呼び出してそのことを話したんだ。でも──」

 カベッサさんの目の端には再び涙が溜まっていた。

「あたしは半端者だった。結局弱音を吐いて、それであんたはここに戻ってきて。そんなあんたを追い出すこともできなくて……。あたしがしたことはあんたを殺そうとしただけだったんだ。だから」

「──カベッサさんは優しいですね」

 カベッサさんが不思議そうな顔をして僕を見た。だってそうだろう?

「そもそも追い出すよりも最初から僕を殺した方が話は早かったはずです。それなのにあなたは追い出した。その上、僕が行く場所まで用意してくれていた。それに、そんなに苦しそうな顔をしているあなたが優しくないわけがない」

 僕の言葉に自嘲するようにカベッサさんは笑った。

「……あたしはただ、覚悟がないだけさ。誰かを殺す覚悟も、誰かの死を背負う覚悟もあたしには無いんだ」

 どこか遠くを見つめるその目が僕には悲しそうに見えた。

「あたしはあんたを殺せない。あんたが村の人みんなを殺すかもしれないのに。あんたを殺したくない。あたしは……村長失格だ」

 カベッサさんはやっぱり優しい。

「それだけ村のことを想っているあなたは、立派な村長ですよ。安心してください」

「はっ、何を急に偉そうなことを言ってるんだか」

 カベッサさんは少し照れた様子で笑っていた。

 僕は、ずっと前から──棍棒が折れるよりも遙かに前から、自分の命が長くないことに気づいていた。それがもうどうしようもないことにも。

 僕はたった一言、その瞬間だけを待ち望んできた。それだけが僕の体と意識を繋ぎ止めていた。

「カベッサさん。僕はあなたを、救えましたか?」

 我ながら陳腐な質問だと思った。

 カベッサさんは僕の言葉に少し驚いていた。突然こんなこと言われたら誰だってそうだろう。

 それでもカベッサさんは迷わず答えた。笑いながら、涙を流して言った。僕がずっと聞きたかった、その言葉を。

「──救われたよありがとう


 目を開けるとそこはベッドの上だった。

 窓から見える空は青みがかっていて、陽は昇りきっていなかった。朝と言うにはまだ少し早い時間らしい。

 身体を伸ばした時、右手の親指に包帯が巻かれていることに気づく。

「なんだこれ?」

 と言うかどうしてベッドで寝ているんだ? ベッドはエミリーさんが使っていたはずだけど……。

「う〜ん……」

 足元から声がする。そう言えば何か足が異常に重たい。

「もう……無理、です」

 足元にエミリーさんが寝ていた。

 机に突っ伏して寝るみたいに、僕の足を机替わりにして寝ている。

「もー無理だって」

 足元から今度は違う声がした。そこにはエミリーさんと同じようにして寝ているマーシャの姿があった。ガッツリヨダレを垂らしていること以外は。

「だから無理だって、言ってるじゃない」

 また違う声がした。今度は声の聞こえる場所が違っていた。

 枕の横を見る。そこには椅子に座ったまま眠るアリスがいた。口からヨダレが垂れていた。なんというか……。

 言いたい事は山々だったが、なるべく起こさないようにして部屋を出ることにした。せっかく気持ちよさそうに寝ているし起きたらどうせめんどくさいことになるから



 顔を洗いに一階へと降りる。それにしてもなんでマーシャとアリスはあの部屋で寝てたんだ? それにエミリーさんもベッドで寝てないし。

「──あんた……起きたのかい」

 振り返るとカベッサさんが立っていた。いつもの無表情な顔、じゃない?

 カベッサさんは驚いているような、泣きそうな表情をして僕を見ていた。

「良かった……目が覚めて」

 目が覚めて……?

 僕は全てを思い出した。この指に巻かれた包帯の意味も。アリスとマーシャが部屋にいた理由も。

 ……でも変だ。あれだけの事があったにしては傷が全く残っていない。この指以外は。

「僕はどれぐらい寝ていたんですか」

 数日か、それぐらい寝ていてもおかしくないはずだ──

「だいたい一日ってところかね」

 僕は驚いて聞き返した。

「たった一日……?」

「あたしも驚いてるよ。そもそもあんたは目を覚ますかすら怪しい状態だったんだ。それがたった一日で起きてきたんだから」

 カベッサさんはどこか嬉しそうに笑った。ここまでこの人の表情が変化するのを僕ははじめて見た。これが本当のカベッサさんなのかもしれないと、何となく思った。

「──ところで、聞かせてもらってもいいですか」

 疑問はあるが、僕には、それよりも聞いておくべきことがある。

「……あたしの部屋で話そうか」

その言葉に黙って頷いた。


「それで? 聞きたいことってのは」

 カベッサさんは椅子に座ると改めて僕を見た。

「──どうして僕はこの村にいるんですか」

 あのことを村のみんなが知っている以上、僕がこの村にいられるとは思えなかった。僕は突然村の人を殺し始めるかもしれなくて、それは、誰にも……僕にも分からないことだ。そんなやつを残すという考えにどうやったら至るというのか。それが分からなかった。

 カベッサさんは特に表情を変えることは無かった。そう聞かれることが分かっていたようでもあった。

「そりゃあ、あんたが危険じゃないって皆が認めたからさ」

 皆が認めた……? なるほど──

 僕はその言葉の意味をすぐに理解した。

「何かしてくれたんですね、カベッサさんが」

 僕にはそれしか考えられなかった。しかし、カベッサさんが言ったのはそれ以外の答えだった。

「いいや、あたしは特になんもしてないよ。元々そういう流れができてただけでね」

「流れ? どういうことですか」

「あの子たちが色々と頑張ってくれてね。まあつまり、あんたが感謝する相手はあたしじゃなくてあの子たちってことさ」

 あの子たち──というとあの、無理無理言いながら寝ていたゆとり三姉妹のことだろうか。

 意外なような、でもどこか想像できるような気がした。マーシャたちのおかげで僕はここに残ることを許された。そのことに感謝せずにはいられなかった。

 これで一つ片付いた。

 レイチェルさんとのやり取りを思い出す。あの続きを。



 ◇

「私はきっと、君を止めることが役割だと思うんだ」

 別れる直前、レイチェルさんはポツリと呟いた。

「多分カベッサさんもそうしてほしくて、昨日私のところに足を運んだんだと思うんだ。だから私はそうしようとした。もちろん君と暮らすって適当に言ったわけではなくて、それならそれで良いと思ってはいた。だけど──」

 レイチェルさんは顔を上げると僕を見た。

「君はあまりにもあっさりと選んだ。楽な選択をしないという選択を。だから止められなくなった。止めたくないと思ってしまった。君がどうなるかも分からないのに」

 レイチェルさんは弱弱しく言った。悪いと思っているのだとしたら、それはとんでもない勘違いだ。

「ありがとうございます」

 僕がお礼を言うと、レイチェルさんはキョトンとした顔で僕を見た。

「君は……なんて言うか、そういうところが子どもだ。だけど……だからなのかな」

 レイチェルさんはそう言うと、僕の方に近づいて来て──僕の手を握った。

「私は、なんで君が村から追い出されたのかは分からない。多分何か深い事情があるんだと思う。だから、無理だったらいつでもここに戻ってきて」

「ありがとうございます」

 僕はそう言って、村へ向かおうとしたが、レイチェルさんはまだその手を離さなかった。

「けど、もし君が村に戻ることができたらその時は一つ、私のお願いを聞いてくれる?」

「お願い……分かりました」

 レイチェルさんが今から何を言おうとしているのかは僕には検討もつかなかった。それでもここまでしてくれたレイチェルさんに何か返せるのならそれぐらいはするべきだと、そうしたいと思った。

「カベッサさんは過去に何か大きなトラウマがある。それを解決してあげてほしい」

 レイチェルさんのお願いは、自分のためではなく、カベッサさんのためのものだった。

「一度だけ、カベッサさんに聞いたことがあるんだ。『どうして毎回一人で来るのか、若い人にやってもらった方がいいんじゃないか』って。そしたらカベッサさんは怒ったんだ。だから私は一人で買い物に来るのが好きな人なんだって思ってた。でも、君がこの前ついてきた時に確信した。カベッサさんは本当は誰かと一緒に出かけたいと思ってるって」

「どうして分かるんですか? それも勘ってやつですか」

 レイチェルさんは首を振った。

「だって、あんなに楽しそうなカベッサさんを、私ははじめて見た」


「カベッサさんは、どうしていつも一人で街に出かけるんですか」

 カベッサさんはずっと一人で街に出かけていた。僕はそこに理由があるのだろうと心のどこかで思ってはいたものの、いつの間にか気にしなくなっていた。レイチェルさんに言われるまで。

「……その話かい」

 寂しさ? 悲しさ? 懐かしさ? 色々な感情が入り乱れていて、カベッサさんの心が何を思っているのか、僕にはとても読み取れなかった。ただ、それだけの何かがあるのだということだけが確実だった。

「何か、事情があるんですよね。良ければ、教えてくれませんか」

 僕の言葉にカベッサさんは下を向いて何も言わなかった。数秒が経とうかという頃、呟くように言った。

「……本当につまらない話だ。どこにでもいる家族のね」

 そう前置きして、カベッサさんは話し始めた。



 ◇

 平和な村で、両親に囲まれて平和に暮らしていた少女がいた。その子は一人っ子だった。その子の家は裕福ではなかったけど、とても幸せだった。なぜならそれも気にならないぐらい優しい両親に恵まれたからだ。

 七歳かいくつかになる頃、その子ははじめて母親について行って街に出かけた。

 路地に並ぶ出店は色々なものを売っていて、それが何かは分からないけどその子は何だかワクワクした。

 子供というのは無垢なもので、危険も分からない。だから大人が普通ならこうしないってことも平然とやってしまう。

 気が付けば、その子は母親とはぐれ、人気の無い路地裏にいた。困っていると、数人の男が近づいてきた。娘は逃げようとした。しかしその必要はなかった。男たちは娘が思うような悪い大人ではなかった。男たちは母親を探すのを手伝ってくれた。

 しばらくして、母親が娘を見つけた。母親は男たちにお礼を言っていた。はぐれた自覚のない娘にはどうしてお礼を言っているのか分からなかった。それから少し男たちと話して、家に戻った。

 帰り道に母親は娘の頭を撫でながら言った。

「今日のことは誰にも言わないようにね」

 娘にはその意味が分からなかった。

「どうして?」

 母親は不思議そうな顔をする娘を見てニコッと笑った。

「あのね、本当はさらわれていてもおかしくなかったんだよ? そんな話したらみんな心配しちゃうでしょ? それに、街でママとはぐれちゃったなんて言ったらパパきっと怒るよ〜? 嫌でしょ? だから、ママとの二人だけの秘密、ね?」

 娘は元気よく頷いて、誰にも言わないことにした。父親に怒られるのが嫌だったというよりも、何より秘密という言葉にワクワクしたからだった。

 その次の日から、母親はある時間になると用事でどこかに出かけるようになった。

 それから数ヶ月が経過したある朝のことだった。その日、娘は心地よい鳥の鳴き声でいつもより早く目を覚ました。

 目の前には大好きな母親の姿があった。

「ママ?」

 娘がそう呼ぶと、母親は必ず笑って返事してくれた。その時だけは何も言ってくれなかった。

 母親の顔を見て、娘は納得した。

「あ、まだ寝てたんだ」

 母親の目は閉じていた。

 その時、ふと娘は思った。いつもは隣の部屋で寝ているのにどうしたんだろう。それに、何で立って寝ているんだろう、と。

 よく見ると、首に紐が巻かれていた。紐の繋ぎ先を辿るように上を見上げると──それは天井に繋がれていた。

「──」

 娘はその光景を茫然と眺めていた。母親は立っているんじゃなくて、浮いていた。首に紐をかけて浮いていた。その意味が理解できなかった。

 何度呼びかけても母親は答えない。目覚めない。ある単語がよぎった。一度湧いてきたそれは脳内にじわじわと広がっていった。やがて単語は一つの文章になった。

 ──ママは、死んでいる?

 そう思った瞬間、不意に涙が溢れた。

 とにかく泣き叫んだ。何も考えないために。現実を拒絶するために

 その声で目を覚ました父親が部屋に入ってきた。父親は何も言わずに娘を抱きしめた。



 そんな悲しみを背負いながらも、父と娘二人で暮らしてから、数年が経過した。

 娘は十歳ほどになった。初めのうちは来る日も来る日も泣き続けていた娘だったが、徐々に母親のいない日常を取り戻していった。母親への何とも言えないモヤモヤした気持ちを常に抱えながら。

 ある日、娘は父親から一枚の紙を手渡される。それは、自殺した母親が残した手紙だった。

 父親から渡された手紙を見て、娘がまず思ったのは、文字が滲んでいる箇所が多いということだった。涙の跡だと直感的に思った。

 読んですぐになぜ父親が今までこの手紙を見せなかったのか理解した。その手紙に書かれていたことは、知らないことだらけで、それに、数年前に読んでいたら多分、耐えられなかった。

 あの日、自分が誘拐されていたこと。返す条件として毎日あの男たちの所に来るように言われていたこと。 でもそれを心配させたくなくて秘密にしていたこと。そんな日々に耐えられなくなって自殺という道を選んだこと。手紙にはそれが綴られていた。

 その苦しみ、悲しみ、怒り、罪悪感は凄まじいものだったことは、文字のひとつひとつから痛いほどに伝わってきた。

 娘は言葉が出なかった。自分の軽はずみな行動が招いた事態の重さに目眩がした。

 最後の一文が目に留まる。

『悪いのは私。こんな母親でごめんね。二人とも、愛してる。』

 その一文を読んだ瞬間、目の前が見えなくなった。母親の笑顔が浮かんでくる。いつも優しくて、時々おっちょこちょいで、大好きな母親の姿が。

 父親は力強く娘を抱きしめて言った。

「守れなくて、ごめんな」

 その声は震えていて、泣いていることは顔を見なくても分かった。娘も力強く抱きしめ返した。

 その日以降、娘は前向きに生きていこうと決めた。しかし、罪悪感という名の鎖はいつまでも心を縛っていた。どうやっても消えることはなかった。


 僕は少しの間言葉が出なかった。何を言えばいいのか、何を言っても違う気がした。

 今の話がカベッサさんの過去だと言うのは、聞くまでもなく分かった。その時の罪悪感がこの人の根底にあり、だからこそ他の人が村の外に出ることを認められないということも。

 だから、僕は思ったままのことを言った。

「いいお母さんだったんですね」

 カベッサさんは目を丸くしていた。カベッサさんがそのお母さんが大好きだったことは話を聞いていれば分かった。特別なことを言ったわけではない。そもそも僕なんかが尤もらしいことを言えるとも思っていない。

「良ければもっと話、聞かせてもらえませんか」

 僕にできるのは、これぐらいだ。

「あんたってやつは……」

 カベッサさんは小さく呟いて話し始めた。

「いつだったか大雪が降った時のことなんだけどさ──」

 カベッサさんははじめはぽつりぽつりと思い出を語ってくれた。しかし、気がつくと前のめりに話していた。僕は笑ったり、驚いたりしながらカベッサさんの話を楽しく聞いていた。

「それでさ──って、そろそろ朝食の支度しなきゃいけない時間だ」

 いつの間にかかなりの時間が経っていたらしい。カベッサさんは慌ただしく立ち上がった。

「すまないね。ちょっと準備してくるよ」

 部屋を出る直前、振り返った。

「あんたに──話してよかった」

 そう言って笑うカベッサさんの表情はどこか無邪気な感じで、まるで少女だった頃のカベッサさんがそこにいるようだった。



 ◇

 部屋に戻ると、未だにグースカピーと眠る二人とは違い、既に起きて窓の外を見つめるエミリーさんがいた。

「あ、明谷さん!」

 ドアを開けた瞬間、よほど心配してくれていたのか、飼い主を見つけたペットみたいに近寄ってきた。これだと僕がエミリーさんを飼ってるみたいで良くないか。どちらかと言うと飼われたいし。

「もう起きたんですね!」

「はい、お陰様で」

 ある程度は想像がついてはいるが、ついでに聞いておくことにした。

「それで、いつからこの部屋は四人一部屋になったんですか」

「あぁ、それは……えっと、皆が明谷さんが起きるまでお世話したいって言って……」

 お約束のあれだったらしい。だとしたらあそこで人のベッドを水没させようとしている人と床を水没させようとしている人は何なんだ?

 僕の視線の意味に気づいたのかエミリーさんは軽く笑って言った。

「その、二人もすっごく心配してました。昨日も夜遅くまで起きてて、だから多分疲れてる……んだと思います」

 苦笑いするエミリーさん。まあ心配してくれるのは嬉しいんだけど……。

「ところで、そんなに重症だったんですか」

「はい……。だから、皆すごく心配してて……」

 エミリーさんは暗い声で言った。さっきのカベッサさんの様子といい、実際のところ割と深刻な状態だったらしい。まあそれもそうか。我ながらあれで死なないとは思ってなかった。と言うか有り得ない。

「おかしい……」

「え? おかしい?」

 エミリーさんは不思議そうに僕を見ていた。心の声が漏れてしまっていたようだ。

「あぁ、すみません。独り言です。最近演技の練習してるんです」

 適当に笑って誤魔化そうとした時、ベッドから声がした。

「……とり?」

 ようやく起きたのか、と思ったが寝ていた。寝言らしい。

「そうなんですね。私はよく分かりませんけど、でも今のはうまかったと思います」

「……うま?」

 今度は椅子の方から声がしたが、やっぱり起きている様子は無い。寝言らしい。

「ありがとうございます。舞台に立てるように頑張ります」

「「ぶた?」」

 今度は二人が同時に言った。なんだこの邪魔な合いの手。

「そう言えば、こうして僕がベッドで寝るのも久しぶりで、起きた時ちょっとびっくりしました」

「「うし?」」

 ……なるほど、ルールは分かった。

「エミリーさん。今からちょっと演技の練習してもいいですか」

「えっと、はい……?」

 エミリーさんは何がなにやらといった様子で了承してくれた。了承が必要なことなのかは分からない。

「どうしてもぶたれたくないので斗真とうまという子を養子に取り手取り足取りかさぶたの取り方を申し訳なさそうにとことん教えた」

「「ぶた! うま! うし! とりとりとり! うし! とん!」」

「凄いなこいつら」

 ていうかとんも拾うのか。応用効きすぎでは。

 エミリーさんが、生まれて初めて自分と異なる生命を見た時の顔をして二人を見ていた。もう完全に『はあ?』と言う準備万端の口になっていた。

 さすがにそろそろこの子たちを起こすか。さもないと水没してしまいかねない。

「さて、そろそろ朝ごはんでも食べに降りるかー」

「朝ごはん!?」

 ガバッと顔を上げるマとア食い意地チャンピオンたち。食い意地張りすぎでは? もしかして夢の中でも何か食ってた?

 ツッコみたいことは山々だったけど、とりあえず──

「ヨダレ拭いてくれない?」


 朝食を終えた後、僕は柵の奥に向かっていた。

 どう考えても僕が一日で起きるというのはありえない。目が覚めることももちろんあるが、あれだけの負傷をしていて何の跡も残らず完治することも普通に考えて有り得ない。そんな不可能をどうにかできる存在がいるとすれば──

「待っていたよ」

 いつものように、いや、いつもよりどこか嬉しそうな様子の呪いが言った。

「君の疑問に思っていることは概ね分かる。だけどその前にまずはお礼を言わせてくれ」

「……お礼? あなたが僕にお礼なんて珍しいですね。何もしていませんけど」

「そんなことはない。君は十二分に活躍してくれた。そのおかげで私はようやく自由になれた」

 呪いの言っていることは僕には分からなかった。相変わらず。それにしても──

「自由に?」

「そうだ。君が私の描いたシナリオをクリアしたことで、私は自由になった」

 僕は何となく不穏な空気を感じた。呪いは笑った。しかし、それは邪悪なものではなかった。

「ああ、勘違いさせる言い方をしてしまったか。別に君に危害を加えようというわけではないから安心してくれ。むしろその観点では良い変化とも言える。まあ君にとって何かが変わると言うよりは私の中での変化というべきだろう。それで本題だが──君に何かお返しをしたいと思っている」

「いや、そんな何もしてないので──」

 そう言いかけて思い出す。

「そう言えば、この体のこともあなたが何かしてくれたんですよね? だったらもうこれだけで十分です」

「いや、それはお返しではない。私がしようと思っているお返しは多分君も気に入ると思うんだ。私からのお返し、それは──」

 呪いは想像もつかないことを口にする。

「──君を、元の世界に返すこと。文字通りのお返しだ」

「元の世界に返す……? いやそんなこと……と言うかどうして……?」

 予想外すぎる呪いの言葉に僕は軽くパニックになっていた。

 呪いは相変わらず冷静に言った。そして更に追い打ちをかけるようなことを言ってきた。

「君の反応を見ていれば、この世界の外から来た存在だということは容易に分かった。それに君のような存在──仮に、転移者とでも名付けよう。転移者は君だけじゃない」

「僕以外にも……?」

 確かに複数人が転移するような作品があることも知ってはいる。そこに対しての驚きはさほどない。でもそうだとして、一度も出会わないなんてことがあるのか……?

「ところで、君は一人でここに来たかい?」

 僕は混乱したまま呪いの言葉に顔を上げた。

「……どういう、意味ですか」

「いや、まあ分からないのならいい。仕方ないか」

 僕には何が何だか分からなかった。呪いには何が見えているというのだろう。

 呪いは軽くため息をついてから短く言った。

「──許可」

 すると、僕の隣には──

「エミリーさん……?」

 その時、呪いがいつだかここが面会室だと言っていたことを思い出した。

 ……そうか、呪いには見えていたんだ。エミリーさんの姿が。

「それで、君は何をしに来た?」

 呪いは動揺することなくエミリーさんにそう告げた。その様子は僕と話す時よりもどこか冷たいような気がした。

 エミリーさんはその声に顔を上げた。僕はその時、自分の隣にいるのがエミリーではなく、エミリーだということに気づいた。

「あなたは──神ですか?」

 エミリーは冗談かと思うようなことを口にした。そのはずなのに、僕はまったく笑えなかった。

「君はそれを知ってどうする? だいたい君程度の質問に私が答えると思うかい? 君をここに通したのは」

「──もう一度だけチャンスをくれませんか!?」

「……なに?」

 そう言う呪いの表情には明らかに怒りが感じられた。

「私の話を聞かずに遮っておいて、自分の失態を見逃してくれと、君はそう言っているんだよね?」

 その口調は、いつもと同じように淡々としているのに、まるで上から押しつぶされるような圧力を感じた。

 それでもエミリーは引き下がらなかった。

「ごめん……なさい。でも──!」

「言っておくが、君は無能だ。君は彼とは立場が違う。私が君をここに通したのは余計なことをさせないためだ。君は自分がしてはいけないことをしたという自覚はあるのか? 私がそれを気づかないとでも思ったのか?」

「それは……私もなんでか分からなくて……」

 エミリーの声ははじめよりも明らかにしぼんでいた。呪いはその様子にわざとらしくため息を吐いた。こんな姿を見るのははじめてだった。

「君は君のために私に従う。私は私のために君に従ってもらう。それだけが私たちの関係だ。単なる利害の一致であってそこに私情が入る余地はない。つまり、君の要望は受け入れられない」

「そんな……」

 エミリーは泣いていた。涙なんか見せたことのないエミリーがこんなに呆気なく。

「それと最後に一つだけ言っておくけど、君は勘違いしているね。君は222回だと思っているようだけど、私が言ったのは2222回だ」

「──」

 その言葉に絶望したようにエミリーは膝から崩れ落ちた。

「あと……二千と、にひゃく、にじゅうにかい……?」

 エミリーは怯えるようにそう言って膝を抱えて震えていた。

 いったい二人が何を話しているのか正直まったく分からなかった。

「それじゃあ君とはここまでだ。また」

「──ちょっと待ってください」

 僕は自然とそう言っていた。呪いが不思議そうに僕を見た。確かに僕が割り込むようなことではない。それは分かる。分かっている。それでも──

「エミリーの願いを叶えてください」

 その言葉にエミリーは顔を上げて僕を見た。その目は赤くなっていた。

 呪いはまるで何を言っているのか分からないという表情をしていた。僕はそれがなぜだか心地よかった。

「ちょっと待ってくれ……君が言っていることが理解できていない」

「あなたが言ったことです。あなたはさっき僕にお返しをしてくれようとしていましたよね。僕を元の世界に返すことが本当にあなたにできるのなら、それだけのことができるのならこの人の願いも叶えられるはずですよね」

「ありえない……君は……何を言っている?」

 説明したのにまだ分からないのか。呪いらしくもない。

「君が言っていることはつまり、この赤の他人のためにせっかくの機会を無駄にするということだ。そんなわけが」

「──その通りです」

 呪いの言葉を遮って僕は言った。ようやく分かってくれたらしい。

「君は……」

 呪いが言い淀む。

「君はどうするつもりだ? 君はその後どうする?」

「分かりません」

「意味がわからない。それにそれは……君がしていることは、君が嫌う無償の善意ではないのか!?」

 呪いは普段の冷静な姿からは想像もできないほどに取り乱していた。対して僕は、笑っていた。まるで立場が逆転したかのようだった。

「そうみたいですね」

 僕はいつからか、無償で他人のために何かするような人間になっていたらしい。僕が最も理解できず、恐怖すら感じたことを、僕もしていた。いつからだろう。村を追い出されたあの時からか? 不思議と悪い気分ではなかった。

「でも、するしかないですよね? あなたが言ったんですから。『私情が入る余地はない』って」

「こんな……こんなことが……?」

 呪いは理解できない様子で目を見開いていた。無理もない。僕ですら自分のしたことが理解できていないんだから。

 僕はなぜこんなことをした? なぜこんな、何の得もないことをした?

 エミリーがここまで泣いている姿をはじめて見た。ここまで悲しみ、絶望する姿をはじめて見た。それだけの何かが、そこまでして叶えたいことがあるんだとそう思った。だから──いや……違うな。僕は単に、この人がここまでボロクソに言われているのが胸糞が悪くて、それが気に食わなくて、そう思ったら口を挟まずにはいられなかったんだ。エミリーは多分僕にとって敵で、呪いの言うことは正論で、それでも僕はそれが許せなかった。そんな幼稚な理由だ。

「──分かった」

 呪いが短くそう告げた時、遅れて話を理解したエミリーが叫んだ。

「ちょっと待ってください! どうしてお前がそんなこと──!」

 僕はエミリーに一言だけ言った。

「さよなら」



 あれからも僕は変わらずこの村で暮らしている。結局エミリーが何を願っていたのかは分からない。それでもまったく後悔はないから不思議なものだ。

「ふわぁ〜……おはようございます」

「おはようございます」

 エミリーさんとは今もこの部屋で一緒に生活している。

 あの時、呪いは僕の他にも転移した人はいると言っていた。エミリーという人格はそれだったのかもしれない。であれば願いの内容はやっぱり元の世界に戻ることだったのだろうか?……まあそれも、事が解決した今となってはどうでも良いことだ。



 朝食の後、予定がなかった僕はカベッサさんの部屋に向かった。あの日以来、こうしてやることがない日に部屋に行っては話を聞くことが、僕とカベッサさんの間で日常になっていた。

 ドアが開き、中からカベッサさんが姿を見せた。あれからだんだんとカベッサさんは表情豊かになっていた。

「来たかい」

 そう言ってカベッサさんは微笑んだ。この時間をカベッサさんも楽しんでくれていることが僕にとっての楽しみでもあった。

 部屋に入ると机にノートが置かれていた。横にはペンも見える。何か書いていたのだろうか。

「ん? ああそれかい」

 カベッサさんは僕がそれを見ていることに気がつくとそう言った。

「まあなんて言うか、ちょっとしたメモみたいなものさ。後世に正しい記録を残しておこうと思ってね」

 そう言ってはにかんだ。少しづつ前に向かっている。そう思うとなんだか嬉しくなった。

 その日も色々と話していた。

「──で、まあその子がエミリーみたいな子でね」

 そう言ってカベッサさんは止まった。

「カベッサさん?」

 カベッサさんは突然暗い表情をした。

「あんたがあたしのせいで瀕死になった日、あっただろ」

「別にそんなこと思ってませんよ? それより、それがどうかしたんですか?」

 どうして今更になってそれをカベッサさんが言うのか僕には分からなかった。

「あの次の日、あんたはあたしに言っただろ? どうしてまだこの村にいられてるのかって」

 僕は頷いた。そのことはよく覚えている。

「あの時、あたしはあの子たちが色々してくれたって言ったよね」

「確か、流れができていたから自分は何もしてないって」

 僕の言葉にカベッサさんは頷いた。

「あれは、実は嘘なんだ」

「……どういうことですか」

「実は、口止めされていたんだ。ああ言うように、エミリーから。あたしはずっとそれでいいのか悩んでたんだけど」

 エミリーさんに口止めされていたというのは分からない。ただこれで、どうしてさっきエミリーって言った時に止まったのかは分かった。

「──エミリーって言った時にそれじゃダメなんじゃないかって思ったと」

「まあ、そういうことだね」

 そう言うとカベッサさんは話し始めた。

「あの後、あんたが意識を失って、

 戸惑っていたあたしの元にエミリーが来た」

「あの地下室にですか」

「ああ。それであんたを早く運び出せって言われてあの子と二人で運んだんだ。その後、合流したヘレナと二人で村まで運んだ。あとは村の皆があんたを拒否しないように説得するように言われてそうした。と言っても元々ある程度は説得していたみたいでうまく収まったよ。だから、あたしは本当になんにもしちゃいないんだ。全部あの子がしたことと言ってもいい」

 僕はある程度確信した上で聞いた。

「様子はおかしかったですか?」

 カベッサさんは再び頷いて肯定した。

 やはりエミリーだ。エミリーが僕を助けた、ということになるのか……? そんなことがあるのか?

「それでエミリーに言われたんだ。『もうすぐ元のエミリーに戻る。だから呪いのことは心配しなくていい。それと、この一件は全てカベッサがやったことにしろ』って。本当に凄かったよ、あの時のエミリーは。だから感謝を言うなら一番はあの子なんだ。なのにそのことをあんたが知らないってのがどうにも納得できなくてさ。と言っても今のあの子は覚えちゃいないみたいだけどね」

 そう言ってどこか残念そうに笑った。

 もはや疑う余地もない。あの人は僕に知られないように僕を助けてくれた。僕がした選択は間違っていなかったんだと改めて思えた。

 強いて心残りがあるとすれば、このことに対する感謝を直接伝えられないことぐらいだろう。

 カベッサさんが立ち上がって言った。

「──そうだった。そろそろ出かけなきゃいけないんだった」

 出かけると言うとまた買い物だろうか。

「はい。お気を付けて」

「あ?」

 ヤンキーこわ……このまま慰謝料請求とかされるんだろうな。請求されるとして何に対する慰謝料になるんだ? 肩もぶつかってないし──

「あんたも行くんだよ? 用事ないんだろ?」

「え?」


 結局僕はよく分からないまま街について行っていた。

「だいたい何で忘れるかね。昨日言っただろ」

「……言ってましたっけ」

 言われた覚えがない。

「まあ言ってないとしたら言われてないあんたが悪い」

「ねえ、もうすぐキレるよ」

 理不尽すぎて憤怒の子になりそうだった。

「──ところで、どうしてこのポンコツさんも一緒に?」

「だ!れ!が!よ!」

 あの日から変わったことの一つがこれだ。あれから買い物にカベッサさん一人で行くことは減り、こうして何人かで行くことが増えた。これは、カベッサさんにとって、そしてこの村にとって大きな変化だと僕は思う。

「それで、今日はアリスと僕が付き添いというわけですか」

「まあそういう事だね。本当はエミリーとアリスの二人だったんだけど、昨日の夜になってエミリーがやっぱりやめとくって言い出してね。アリスだけだとちょっと……ね」

 カベッサさんはアリスをチラ見して言った。

「なるほど。代理として呼ばれたわけですか。確かにアリスだけだとちょっとアレ、ですね」

「アレだよねぇ……」

 僕とカベッサさんは今確実に通じあっていた。

「へ?」

 当の本人だけがなんの事やら分かっていなかった。そういうとこや。

 カベッサさんとアリス、この二人が揃ったことで、僕は今かなり困っていた。

「ということで! 第一回! チキチキ! 色んな呼び方やってみ隊!」

「は?」

「あ?」

 ルールが飲み込めていない二人は各々疑問の声を上げた。分かっていないらしい。……仕方ない。

「カベッサさん、僕のこと呼んでくれますか?」

「なんだい……? あんた、だけど」

「はい次アリス」

「えっと、アンタ?」

 やはりそうだ。この二人はどっちも僕のことを呼ぶ時『あんた』と言う。平仮名とカタカナの違いはあれど、正直どっちが喋ってるか分かりにくいし、もしかしたらカタカナにし忘れているところもあるかもしれない。とにかく、 書き分ける技術力が無いからどうにかして呼び方を変えてくれ、と誰かが言っているような気がした。

「もう分かりましたね」

 僕の言葉に二人は顔を見合せて疑問の表情を浮かべていた。

「つまり、色んな呼び方をしてみて差別化しようということです」

「何で? それにアタシ、あんた以外の呼び方したことないんだけど」

「あたしも」

「オーマイ……」

 そう言えばこの二人、一人称まで同じなのか……。

 何でこんな被らせた? さすがに適当にキャラ付けしすぎてない? とりあえず今回は二人称だけ頑張ろう。

「ルール説明!」

 元気よく叫ぶと、二人はびっくりしていて、なんなら引いていた。結果発表とルール説明は大声で言えって聞いてたんだけど。

「二人はこれから『あんた』という単語を禁止します。その条件下で、順に二人称を一個ずつ言って貰います。先に無くなったり被ってしまった方が負けです」

「負けたらどうなるのよ?」

 アリスが緊張感のない様子で言った。これから恐ろしいことになるとも知らず……バカなヤツだ……。

「アンタなんで笑ってんのよ」

「負けた方は今後『あんた』という呼び方をすることを禁止します」

「なん……だって……!?」

 カベッサさんが驚愕していた。まるで靴を左右逆に履いたまま900年経ってたぐらい驚いていた。どういうことだ?

「仕方ない。ここは本気出すしかないね」

「え、なんでそんな乗り気なの村長」

「それではぁ〜〜ファイッ!」

「誰も話聞かないし」

 熱い。あまりにも熱すぎる闘いのゴングが(心の中に)鳴り響いた。

「君」

「あなた」

「そなた」

「お主」

 かくして、カベッサさんの先制攻撃でこのバトルは始まった。このまましばらく続くかとのように思われたが、すぐに事件が起きた。

「えっとえっとー……きみ! あ!」

「審判!」

 カベッサさんが勢いよく僕を見た。その顔は真剣そのものだった。僕は無言で頷いた。

 そう、呼ばれずとも分かっている。『君』という単語は最初に言っていた。

 僕は考える。君、きみ、キミ──

「──セーフ!」

「な!? こんなの不正じゃないか!」

「いいえ。確かに今『きみ』という単語は言いました。しかし、これは君ではなく黄身でした。イントネーションが完全に違っていた。そうですね?」

 僕はアリスをまっすぐ見た。

「え、あ、そ、ソウデス」

「いや、でもこの子さっき『あ!』って言ってたんだけど。それに黄身なんて二人称聞いたことが」

「──イエローカードです。次文句を言ったら殴ります」

 カベッサさんはフッと笑う。

「なるほど……そういうことかい」

「何でなんか分かったみたいな顔してるの。ただ暴力予告されただけなんだけど」

「……そういうことです」

 僕は意味ありげに頷いた。この人は何を言っているんだろう。頭がおかしいのだろうか。

「じゃあ第2ラウンドと行こうか、アリス」

 それから数時間に渡る戦闘が続いた。体感時間は3秒ぐらいだったけど多分数時間経っていた。人間の体感時間なんてそもそも当てにならないことは経験則で分かる。

「そち」

「えっとー、あー、アンタ」

 こうして勝敗は決した。こいつルール聞いてたか? と思ったが、街が見えてきたのでそれどころでもなくなった。

「あ!」

 アリスはいぼくしゃは今起きたことをすっかり忘れて目の前の景色に夢中になっていた。目をキラキラさせていた。

「大げさだね……あんな喜んで」

 カベッサさんはアリスを見て笑っていた。

「まあはじめて村の外を見たら、あんな感じになるのも何となく分かります」

「……あたしが、それを奪っていたんだよね」

 カベッサさんはそう言って軽く唇を噛んだ。後悔しているようだった。でもそれは違うと僕は思った。

「奪っていたんじゃなくて守っていたんですよ。そして今与えているんです」

 カベッサさんは僕を見た。

「……ったく、あんたは……」

 そう言ってまた笑った。


 帰り道のこと。

「──ところでさっきの話なんだけど」

 アリスがそう切り出した。

「さっき? レイチェルさんのこと?」

「あの頭わしゃわしゃしてくる人の事じゃなくて、二人称がどうたらって話よ」

「あぁ、それ」

 完全に忘れていた。

「カベッサさんはどう思います?」

「別にあたしはどっちでもいいと思うけどね。ただ──」

 カベッサさんはそう言ってアリスの方を向いた。

「名前で呼んでみたらどうだい?」

「名前で……?」

 アリスがボソッと繰り返す。それにカベッサさんは頷いた。

「アリス、あんたはマーシャのことはマーシャって呼ぶだろ?」

「うん」

「他の人だって名前で呼んでる。なのに一人だけ名前で呼ばないってのも変な話じゃないかい?」

「そ、そうだけど」

「それにこの子はアリスって呼んでるのにあんたは呼んでないわけだ」

「そ、そうだけど……」

 アリスはモジモジしていた。カベッサさんはアリスの方を向くのをやめた。

「ま、どっちでもいいさ。あたしはそうしてもいいんじゃないかって思っただけさ」

「えと、じゃあ……」

 突然、アリスが立ち止まり僕の方を向いた。顔を赤らめ、恥ずかしそうに目線をチラチラ動かしている。告白シーンかのような緊張感だった。ただ名前を呼ぶだけなのに。

「た、太郎……」

 小さい声でそう言うとアリスは下を向いてしまった。

「ただ名前呼んだだけだよね? そんな赤くなる?」

「う、うるさいうるさい! このバカ! 誰が顔を赤くなんて……!」

 カベッサさんのクソデカため息が聞こえて、そっちを見るとなぜか冷たい目をしてカベッサさんが僕を見ていた。

「あんたは本当にバカだね。共感能力皆無か」

「ナンデ・ソンナ・コト=イウノ」


 村に帰ってくると、マーシャが待っていたかのように走って出迎えに来た。いや実際に待っていたんだろう。

「おかえり! 街はどうだった? すごかったでしょ!」

 買い物について行くことが許されるようになってから最初について行ったのがマーシャだった。アリスと色々話したくてうずうずしていたと顔に書いてあった。こういう時、なんやかんや仲がいいんだなあと思う。

「なんであんたが自慢げなのよ。まあ凄かったわね、思ってたよりは」

 アリスはなぜか上から目線で言っていた。

「よく言うよ、あんだけはしゃいどいて……」

 カベッサさんの言う通りだ。なんならちょうど同じことを言おうと思っていたぐらいた。

「いや、それは太郎が! あ……」

 アリスはまた顔を赤くした。

「太郎?」

 マーシャが首を傾げた。まあ当然の反応だ。

「なになに、ようやく太郎って呼ぶ気になったんだ〜」

「からかうな! バカマーシャ! あたしは……別に……」

「ふーん……?」

 ニヤニヤとしながらアリスを見るマーシャ。

「まあ詳しく聞かせなよ〜悪いようにはせんから〜」

 そのままアリスは連行されて行った。

「ったくマーシャはほんと……」

 カベッサさんがため息をついた。まあ気持ちは分かる。相変わらず元気と言うか、子どもっぽいと言うか──

「かわいいねえ」

 ……あ、ただの孫バカだ。先帰ろ。


「で、なんでここにいるの?」

 部屋に戻ると、どういうわけかこの部屋の人じゃない方が二人もいた。

「お、太郎」

「お、じゃなくて。何でマーシャとアリスがここにいるのって聞いてるんだけど?」

「えー良いじゃん別に。減るもんじゃないんだし。ねー、エミリーちゃん?」

「いや確実に部屋の広さと僕の平和な時間は減るんだけど」

「なにうまいこと言ってる雰囲気出してんのよ。細かいこと気にしてる暇があったら茶と菓子でも出しなさいって話よね、エミリー?」

 うまいこと言ってる雰囲気も何も事実……と言うかさっきからどんだけエミリーさんに話振るの? 流行ってるのか? 僕もやってみよ。

「まあ分かったよ、好きにして。僕はどっか行ってるから。ね〜? エミリーさん」

「はあ……?」

「きっしょ」

「キモ」

 流行ってなかったらしい。

 とにかくあのまま部屋にいるのも嫌だったので、何となく部屋を出る。しかし、どこに行くか……別に目的も無いし。

 とりあえず廊下を歩いていた時、部屋から声が聞こえてきて立ち止まる。

「あ……くん……」

 誰かが呼んでいる……? いやそんなわけないか。

 歩き始めようとした時、また声が聞こえた。声はちょうど僕が立っている場所の横の部屋、つまり、ヘレナさんの部屋からだった。

「あか……く、ん……そこは……」

 耳を澄ましてみる。

「はぁ、はぁ……あかや……くん」

 ヘレナさんは間違いなく僕の名前を呼んでいた。

 ……息を荒らげて、いったい何をしてるんだ?

「はあ、はあ、はあ、ん……!」

 声が止まった。

「やばい……これ癖になっちゃう……汗かいちゃった。シャワー浴びなきゃ」

 ドアノブが回る。

「……え」

 隠れる暇、なんてものは当然なかった。

「え!? あ、明谷くん!?」

 部屋からヘレナさんが出てきてしまった。顔を赤くし、ぴっちりとした服装だ。そうまさにトレーニングウェアのような……トレーニングウェア?

「え、あーもしかして筋トレとか、ですか?」

「ん? うん。ちょっと最近太ってきちゃったから痩せなくちゃと思って」

 ヘレナさんは不思議そうに首を傾げて言った。

「それよりなんでここに?」

「廊下歩いてたら何か僕の名前を呼ばれたような気がして」

「あ、やっぱり聞かれてたんだ……実は明谷くんに無理やりさせられているってイメージしながらやってるの。そうするとなんだかすごく捗るんだよね、 不思議と」

「あ、そうですか」

 変態だ。そういえばヘレナさんもこの村の住人だったということを忘れていた。

 どうやら、この変態の中では僕は無理やり筋トレさせて喜ぶ変態ということになっているらしい。まさにHENTAI in the HENTAI de TAIHENだ(訳:意味が分からない)。

「──ところでヘレナさん」

「ん? どうかした?」

「ダンベル何キロ持てる?」


 あの後、ヘレナさんに『ちょっと話したいことがある』と言われて僕は呼び出された。その内容は──

「エミリーさんの様子がおかしい?」

 ヘレナさんは僕の言葉に頷いた。

「昨日、私とエミリーちゃんで畑の収穫をしてたんだけど、突然ボーッとして話しかけても反応しなくなることが何回もあって」

 そう言ってヘレナさんは髪の毛を手で流した。風呂上がりのヘレナさんからはいい香りがした。

「なるほど……」

 それにしてもそれは確かに変な話だ。僕といる時はそんな様子はなかったけど──

「ところでどうして僕にその話を?」

「明谷くんなら同じ部屋だから何か知ってるかなって思って」

 何か特別な理由があるのかと思ったがそういうわけではないらしい。

「そういうことですか……。すみません、僕も特に心当たりは無いんです。そもそもそんな話自体知らなかったので」

「そっかー。何か悩んでるのかな?」

 心配そうにヘレナさんは言った。やはりお姉ちゃんキャラとしては見過ごせないのだろう。

「ちなみに変だったっていうのは昨日だけですか?」

「私が知ってる限りでは……そうかな」

 昨日、か。そう言えば昨日の夜に街に行くのを断ったってカベッサさんは言っていた。何か関係があるのかもしれない。

「分かりました。僕もちょっと気をつけてみます」



 ◇

「それで──君らいつまでいるつもり? 何でこんな部屋暗くしてるの?」

 部屋に戻っても相変わらず二人はいた。変わっていたのは部屋の状況だった。電気も消し、カーテンは閉められ、真っ暗の中にロウソクが一本立てられていた。ロウソクの光だけが部屋を照らしていた。

「あ、太郎!ちょうど良かった」

 ヌンッとマーシャが暗闇から現れる。

「……なにやってんの」

「何って見て分からないの〜 ? 怖い話してるんだよ」

「見て分からないの、って」

 反発しようと部屋の中を見ると、ガクガク震える金髪とブルブル震える銀髪がいた。今日からガクブル金銀コンビとでも名付けようか。

「それにしてもこんな夕方からやるかね普通。雰囲気も何も無いでしょ」

「まあまあそう言わず座りなよ〜」

 ニヤニヤしながら背中をグイグイ押してくる。何かウザかったけど僕は促されるまま座った。

「じゃあ太郎も来たからもう一回最初からね」

「え」

 信じられないというように金さんと銀さんは目を合わせた。

「も、もういいって……ね、エミリー?」

「は、はい。あれはもう……」

 二人はひどく怯えていた。僕にはそんな怖い話をするマーシャが想像できなかった。

「これはある人から聞いた話なんだけど……」

 お決まりのセリフでマーシャが語り始める。

「ヒィッ!」

「怖くない怖くない……」

「…………早過ぎない?」

 はじめてヤラセをやった人のモノマネ? テレビ番組なら初回で終わってるけど大丈夫か?

 とりあえずマーシャの話を聞くことにする。

「その女の人は、夜の街を歩いていたら声をかけられたの。『ねー姉ちゃんオレとええ事しねーか?Yo』って」

「ところどころ韻踏んで話しかけてきてるのがもう怖い」

「ひぇ〜……下手すぎて寒いです」

 ん? 何か違うくない……? いやまだ分からないか。

「そう言うと男は、無理やり手を掴んできた。何とかその手を振り払って家まで帰った次の日。また街を歩いていると声をかけられた。それは昨日の男だった。男は言った。『Yo 昨日の借りは今日の勝ち(←)のための仮の貸し(←)になりカミ(←)ナリ(←)が鳴り響くぜYEAH』って」

「昨日よりうまくなってて怖い」

「割と上手くて好きです〜」

 ……片方好き言うてるけど? 怖さはどこいった?

「でもその日、雷は鳴っていなかった……」

「ひっ!」

「雷なっていないのに韻踏むためだけに組み込んでくるなんて外道過ぎて怖いです……」

 ……楽しそうだなこの人ら。

「そう言うと男はまた腕を掴んできた。どこに行くのかと聞いても答えない。そのままなんやかんやで気付けば人気のない丘の上まで連れて来られていた」

「なんやかんやで連れてこられるなんてありえなさ過ぎて怖いです〜」

「被害者ヅラしてついて行ってるの怖すぎ……」

 ……なんて言うかツッコんだら負けな気がする。

「そして男は言った。『実はここで俺、死んだんだ』」

「突然ホラーすぎる」

 思わずツッコんでしまった僕は視線を感じた。二人が『邪魔すんな』みたいな目でこちらを見て沈黙していた。なんだコイツら。

「その後男はこう続けた。『なんてね! どう面白いっしょ?』

 終わり」

「ギャアアア!!」

 アリスがついに叫び声を上げた。

「クソ寒いギャグの上にその喋り方怖すぎ……しかもこんだけ話しといて何のオチもないなんて有り得ない、やばい怖い……」

 アリスの横ではエミリーさんも怖がっていた。

「ひえ〜い! ヒエヒエ!」

 さっきのラップの影響受けてそうに感じるのは気のせいだろうか。

 エミリーさんは付け足すように言った。

「自分のこと面白いと思ってそうなのが寒すぎます……だから三流ラッパーなんです。ひえ〜」

 取ってつけたような雑な『ひえ〜』も気になるが、それよりも僕は今更になって気付いた。

「怖い話ってそういう感じね……」

 話し終えたマーシャがエミリーさんを見て笑いかけた。

「少しは元気になった? エミリーちゃん」

「……え?」

 エミリーさんがマーシャを見た。

「何だか昨日から元気がなさそうだったから少しでも元気になってくれたらなって思って」

 マーシャはそう言ってまた笑った。あの日、はじめて村を案内した日のように。

 ……そう言えばあの日もエミリーさんを怖がらせてたっけ。妙な縁と言うかなんと言うか。ともかく──

「だからここでわざわざ話してたんだ」

「アリスと話して元気づけてあげようって決めたんだー。ね?」

「べ、別に私は……!」

「出たな元祖ツンデレ」

「あーもう! うるさいうるさい! 太郎は黙ってろ!」

 やたらエミリーさんに話を振っていたのもそれだったのか。分かってはいたけど、やっぱり根は良いやつらだ。


 夕食を終え、部屋に戻る。

 僕は単刀直入に聞いてみることにした。

「エミリーさん、何かあったんですか?」

 僕はエミリーさんを見る。正直、僕には様子が違うのかまったく分からない。改めて思う。マーシャやヘレナさんはすごい。同じ部屋にいる僕が気づかないようなちょっとした変化に気づいていたんだから。

「困っていることがあれば言ってくださいね?」

 僕は在り来りな言葉をかけることしかできなかった。こういう言葉をかけられる方が逆に話しずらいんだとしても、僕には何か気の利いた言葉が思いつかなかった。ただ、自分は味方だということを伝えたかった。

 エミリーさんは何か話そうと口を開けては閉じ、また話すかのように口を開けては閉じるのを繰り返した。最終的には一言だけだった。

「あの、ありがとうございます」

 きっとこれがエミリーさんの選択なんだろう。何も言わないということが。だったら僕がこれ以上言えることはない。

「──実は僕は一つだけ後悔していることがあるんです」

 なぜこの話をしようと思ったのかはよく分からなかった。同じ過ちをしてほしくなかったのかもしれない。

「……後悔、ですか?」

 エミリーさんは突然の話に水を差すことなく僕の話に耳を傾けてくれていた。

「僕はある人に命を狙われていました。その人の目的は、僕を殺すことだったんだそうです。その人はすごくエミリーさんに似ていました。もしかしたら同一人物なんじゃないかって思うぐらいに」

「私に……」

 エミリーさんは少しだけ戸惑いながらも話を聞いてくれていた。

「でも僕が命を落としそうになっていた時に、その人は僕を救ってくれたんです。そのままにしておけば確実に死んでいたのに。そしてその人は助けたことを隠したまま居なくなってしまったんです。僕はその人に一言、お礼を言いたかった。でももうその機会はなくなってしまった。言えなくて後悔するのは、言って後悔するより辛いことだって、僕はそうなってはじめて知りました。だから──」

 ふと我に返る。ついこんな話をしてしまったけど怪しまれていないだろうか。

「何か長々と変な話しちゃってすみません。気にしないでく」

「──もしも」

 被せるようにしてエミリーさんは声を発した。

「もしもその結果、相手が不幸になると分かっていても明谷さんはそうしますか」

 エミリーさんの表情は悩んでいるようでもあり、どこか諦めているようでもあった。僕は少し考えた。答えはすぐに出た。

「そうする──と言うべきなのかもしれませんけど、僕だったらしません。不幸になると分かっていてそうするなんて嫌がらせ以外の何ものでもないですから」

「じゃあやっぱり……」

 エミリーさんは小さくそう呟くと、再び下を向いた。

「でも、その仮定はそもそも成立しないと思います」

「え?」

 エミリーさんは目を丸くして僕を見た。

「だって誰も他人の事なんて分からないんですから。だから不幸になると分かっているなんてのはただの勘違いです。僕に今エミリーさんが考えていることが分からないように、エミリーさんにだって僕の考えていることは分からない。それを判断するのは自分じゃない。相手が決めることです」

「でも……じゃあどうすれば……」

「簡単ですよ。あとはあなたが話したいかどうか。それだけです」

「迷惑、じゃ……ないの?」

 上目遣いで僕を見るエミリーさんはなんだかひどく寂しそうに見えた。

「それは僕が決めることです」

「不幸に、ならない?」

 エミリーさんの声は震えていた。その目の端には涙が浮かんでいた。

「言ってくれないと分かりません」

 エミリーさんは抑えていたものを吐き出すように、少しづつ言葉を紡いだ。

「じゃあ……私を──」

 僕は薄々気づいていた。でもそれを心のどこかで拒否していた。信じようとしていなかった。でも気付いてしまった。もう分かってしまった。

「──助けてください」

 僕は何も言わずに頷いた。それは言うまでもないことだった。だから代わりに言った。

「また会えて嬉しいです──エミリー」

 僕の言葉にエミリーさん、いやエミリーが驚いて僕を見た。その瞳は涙に濡れていた。

「どう、して……?」

「僕だって確信があったわけではありませんでした。でもやっぱりそうなんですね」

 どうしてまだ彼女が、という疑問はもちろんあるが、そんな事は今どうでもよかった。

「私が必死に隠してたのにそれを先に言うなんてお前はホントにバカです。デリカシーがないです」

「会えてよかった」

「ひどいです……言おうとしてたことが無くなったらもう、泣くしかないじゃないですか……バカ……」

 エミリーはそう言ってただ泣いていた。

 少しして、落ち着いてから聞いてきた。

「どうして分かったんです?」

「確証はなかったですよ。発端は様子がおかしかったという話でした」

「昨日のことですか……」

 エミリーはそう言って笑った。その笑いは乾いていた。

「私は、とにかく疲れたんです。この日々に」

「疲れた?」

「──っ!」

 突然エミリーさんが頭を抑えた。痛むのだろうか。苦しそうな顔だ。

「大丈夫ですか」

 駆け寄る。

「別に……大したことはありませんよ」

「そんなわけ」

「──それより、他には何かあったんですか?」

 どうやら聞かれたくない何かだということは分かった。

「それに街に行くのも断ってましたよね」

「それで確信したと?」

「いえ、違和感はありましたけどまさかそうだとは少しも思ってもいませんでした。その可能性を考え始めたのはついさっきです」

「……ついさっき? 私、何かしました?」

 僕は首を振った。正直、こんなことで可能性を考える僕もどうかしているのかもしれない。

「怖い話をされている時、『ひえ〜』と何度も言っていましたね」

 エミリーはよく分からないというように首を傾げた。

「ええ、言いましたけど……」

「前にエミリーさんが怖がっていた時は、『えひえひ』言っていたんです。特徴的だったので覚えています」

 エミリーは目を丸くして驚いた。

「そんなこと……よく覚えてましたね」

「マーシャがエミリーさんを怖がらせているのを見てあの時の光景が浮かびました。と言ってもこれで確証とは言えませんでしたけど」

「じゃあどうして分かったんです?」

 どうして、か。僕の話を聞くエミリーさんの表情が他人事とは思っていなさそうだったから。悲しそうな表情をしていたから。色々ある、つまり──

「勘、です」

 僕は笑っていた。

「勘? そんな言葉お前から言われるとは思っていませんでした」

 エミリーの言う通りだった。僕もそんなことを言う日が来るとは思ってはいなかった。

「──本題に入ってもいいですか」

 こんな会話を続けるのも悪くは無いが、僕たちにはもっと重要な話がある。

「どうして私がここにいるか、ですよね」

 それが一番重要な事であり最大の疑問だった。

「私に起きたことを全て話します」

 そう前置きしてエミリーは話し始めた。エミリーだけが知る、あの後のことを。

「私はあの日、お前に着いて行って柵の奥まで行きました。そして神様と話してそれから──」

 一瞬チラリと僕の方を見た。その頬はわずかに赤くなっていた。

「お前が私を元の世界に返す、とか言い出して」

「──それであの人はそれを了承した、ですよね?」

 そこまでは僕も覚えている。そこからが本題だ──

「私もそこまでしか分からないんです。翌朝、目を覚ますとエミリーの意識は消えていた」

「どういう……ことですか」

 エミリーさんの意識が消えていた?あの次の日から? でもそんな雰囲気は少しも──

「あの日から今日までエミリーを演じてきたんです」

「演じてきた……?」

「私はエミリーになっていたんです。でもこれは本来起きうる事ではない」

「本来起きうることではない……?」

「そうです。お前の言うエミリーを主人格とするなら私エミリーは副人格のようなものなんです。だから私は一度に数時間程度しか出てこれないんです」

 僕はそう言われてどこか納得していた。改めて考えると、エミリーが数時間以上、動いていたことはなかった。

「だからなのか、時より頭が痛くなることがあるんです。まあ大したことではありませんけど……」

「それでさっき……」

「でもそうして演じることに疲れてしまったんでしょうね。結果としてお前や周りの人に違和感を与えてしまった」

 エミリーはそう言って自嘲するように笑った。さっき言っていた言葉を思い出す。

『余裕が無かったと言うか、ただもう疲れたんです』

 さっきのはそういう意味だったのか。つまりこの状況が意味することは──

「──私の願いは叶わなかった」

 僕の考えていたことをエミリーは言った。

「やっぱり叶えられていないんですね」

 つまり、エミリーの願いは概ね僕の予想通りだったらしい。

「そうです。やっぱり私が願いなんて抱く資格が無かったのかもしれません」

「……とりあえず行きましょう。それが一番手っ取り早い」

 正直エミリーに聞きたいことは山ほどあったが、今はとにかく呪いの所にいかなくてはならない。なぜ願いを叶えていないのかを問いただす必要がある。


 日は沈み、もう辺りには夜の帳が下り始めている。

 何とか村の人の目をかいくぐり、僕らは森へと向かった。そして今、再び柵の前まで来ていた。

 暗い。元々この場所は暗いが夜になると一段とそれは増す。こうなるとある程度は感覚で進むしかないだろう。

「──手……握ってください」

 柵の奥に行こうとした時、エミリーが手を差し出してきた。

「じゃないと最悪の場合、お互いがどこにいるか分からなくなるかましれませんから」

「なるほど……確かに」

 エミリーの言うことはもっともだった。これだけ暗いとそうならないとも言えない。

「分かりました」

 僕がエミリーの手を握ると、エミリーは少しだけ強く握り返してきた。僕はエミリーの手がこんなに小さかったのだとはじめて知った。

「お前の手……なんか、暖かいですね」

 逆にエミリーの手は冷たかった。でもそれが僕にはちょうど良かった。


 そのまま僕たちは柵の奥へと向かい、やがていつもの場所に辿り着いた。しかし──どれだけ待っても呪いと話せることはなかった。



 ◇

「私がいるからダメだったのかも」

 村に帰る途中、エミリーはぽつりと呟いた。

「何がですか」

「会えなかったことです。私がいたからなのかもしれません。私に資格が無いから……だから、もういいです」

 エミリーはそう言って僕を見た。

「もういい?」

「さっきは気が動転して『助けて』なんて言っちゃいましたけどやっぱりいいです。改めて考えると私が助かるなんてそんなこと考えるのが間違っていたんです。私は対価を払う事だけ考えていればそれで……」

 僕は立ち止まった。

「どうかしたんですか?」

 エミリーも立ち止まって僕を見た。僕はさっきからずっと気になっていた。

「……気に食わないんです。そういうの」

「そういうの、ってなんですか」

 エミリーには僕の怒りの理由が分かっていないようだった。

「あの時だってそうです。どうしてそんなに下手に出るんですか。どうしてそんなに自分を卑下するんですか。だいたい、対価だとか、必要なんですかそんなもの──」

 僕の言葉にエミリーの眉が上がる。

「そんなもの……? お前に何が分かるんです!? 私はそれだけを支えに! それだけを願って今まで生きてきました! その苦しみが……お前に分かるんですか?!」

「分かりませんね 」

「──っ!」

 エミリーは僕を睨んだ。その瞳は、明らかな怒気を孕んでいた。

「やっぱり助けてなんて言った私がバカでした。お前なんかに期待した私が……」

「そこまでして叶えたい願いがあるならどうして自分で叶えようとしないんですか。呪いに頼ること以外にも手段はあるはずです、きっと。だから」

「──しましたよ……! でもできなかった」

 エミリーは力無くそう言った。その肩は震えていた。

「これまで何百、何十回もやってきました。でも無理でした。いや、絶対に無理なんです。本来叶うはずのない願いなんです。だから私は対価として……」

 泣きそうな目で悔しそうにエミリーは言った。僕はその表情を見て、自分がとんでもない誤解をしているのではないかと思った。

「ちょっと待ってください。あなたの願いはこの世界から抜け出すことなんじゃ──」

 エミリーは、首を振った。

「単純です。私の願いは──」

 続くエミリーの言葉に僕は何も言えなくなった。

「私という存在が消えることです」

……消える……? 消えるってなんだ……? この人は、何を、言っている……?

「皮肉なものですよね。私はエミリーの中にいた偽物だったはずなのに、私がエミリーとして生きることになったんですから。これじゃ願いと真逆です。だからきっと私には資格がないんですよ。そんなことを願った罰なんです、これは」

ある考えが頭をよぎった。

「それを叶えようとしたってまさか……」

「私は何度も何度も死のうとした。いや正確には死んだんです。自殺だったり他の人に殺させたり、色々やってみました。それでも絶対に死ねない。絶対に目を覚ますんです。何の怪我も無く」

「何で、そんなことを……いや、それに死ねないっていったい……」

「簡単ですよ。それがこの世界のルールなんです。お前も死にそうな怪我をしたのに一日で治りましたよね? あれはこの世界の仕組みでそうなったんです。お前も、私も死ねないんです」

平然と話すエミリーの目には感情が無く、それが、いったいどれだけの痛みを感じてきたのかを表現していた。死ぬ経験は僕も一度だけした。今でも忘れられないのにそんなことを何回も? しかもそれが消えるため? 辛い、苦しい、そんな言葉では言い表せないほどの絶望。いや、それすらもぬるい。

「……あなたはそんな願いを叶えるために今まで」

「──221回」

エミリーさんが言った。あの時も言っていた言葉だった。何の回数を示しているのか──

「私がこの村に来た男を殺した数です。それが対価でした。私が消えるための」

「対価……殺した? 221回……?」

僕の理解が追いつかないままに、エミリーは話を続けた。

「この際なので全部話します。私が何者で、どうしてお前を殺そうとしていたのか、そして──ということも、全部」


 私は目を覚ました。いや、目を覚ましたというのは適切ではない。なぜなら私の体は私の意思を無視して勝手に喋っているし勝手に身体は動いている。言うなればその人の目を介して外を見ているだけの存在、それが私でした。自分が何者かも分からないし、この今喋っているは何者なのかも分からなかった。

 その時、私が見ているの名前はアリスだった。村には男が一人だけいて、はその人のことが好きだった。でもその人はマーシャという名前の人が好きで、二人はある日結ばれた。

 そして──世界が終わった。

 それが一度目の終焉だった。

 私はまた目を覚ました。の目の前には男が倒れていて、は慌てていた。その男は村でたった一人の男で、ちょうど二人で歩いていた時に石がぶつかった衝撃で軽く記憶が飛んでいた。その時のの名前はマーシャだった。はその男のことが好きだった。でもその男はどうやらアリスという名前の女の子が好きだったらしく、やがて二人は結ばれた。そして、再び世界は終わった。

 私はまた目を覚ました。その時のは街で商売をしていた。名前はレイチェルだった。ある日私の元に少年が現れた。その子はいつも買い物に来ているカベッサという人の村の子で、はその男の子に一目惚れをした。

 それから、その少年は何度か買い物に来るようになって、ある日、はその少年に告白された。二人は結ばれ、世界は終わる。

 そしてまた私は目を覚ます。はある村の前で倒れていて、エミリーという名前以外何も覚えていなかった。カベッサという名前の村長に拾われ、村で暮らすことになった。

 その村には男が一人だけいて、はその男の人と同じ部屋で暮らすことになった。少しして、はその人が好きになった。しかし、その人はヘレナという女の人が好きで、やがて二人は結ばれた。そして世界は終わった。

 ある時、私は気づく。ということに。たった一つ、男が違うことを除いて。

 それが分かったところで、私はどうすることもできなかった。ただを見ていることしかできない。

 そう思っていたある時、変化が起こった。私は何十回も繰り返すうちにがこれから何を言うのか分かるようになってきていた。どうせ次はこう言うんだろう。そう思って見ていた。ふと違和感に気づいた。その言葉は、ではなく私から出ていた。私が喋っていた。

 それが、はじめて私の意思でを動かした瞬間だった。そして動かせたり動かせなかったりを繰り返しているうちに、そこにはルールが存在していることに気づいた。

 それは、の性格とそう離れていないことだった。性格上がやりそうなことなら動かしやすく、逆に離れていけばいくほど動かすのが難しかった。

 ただ、私がを動かせたところで何も変わらなかった。男は誰かと結ばれ、世界は繰り返した。

 私にできることはたった二つだけだった。の中で傍観して繰り返すか、を動かして繰り返すか。百周近くそれを繰り返した時、私はもうそれに耐えられなくなった自殺を決意したのはその時が最初だった。しかし、ルールがある以上、それも簡単なことではなかった。の性格を理解して、周りがどう動いて、次に何が起こるのか、それを計算しつくして、ようやく私はを殺すことに成功した。成功したはずだった。

 でも、死んだはずのはまるで何も無かったかのように目を覚ました。

 それから何度も、何度も何度も何度も、数え切れなくなるほど死んだ。それでもは必ず目を覚ました。私は絶望した。私はどうやっても死ねないようになっているんだと知った。

 しかしらそんな私が唯一希望が持てる瞬間があった。それは、世界が終わる瞬間だった。景色全てが黒に包まれ、何もかも見えなくなって意識が消える瞬間、もう目覚めなくなるんじゃないかと、そう思えた。

 だから私は、村に来た男が誰かと結ばれるように努力した。そうすれば世界は終わり、私は眠りにつけた。悠久の眠りに。

 ある時、問題が起きた。その男は、どうしても誰とも結ばれることがなかった。このままでは早く終わらないと思った私は焦り、何よりも苛立ち、その男を殺した。しかし、その男は。そんな時だった。神の声が聞こえたのは。

『面白いことをしているね。君の願いを叶えてあげようか? もちろん対価は伴うけどね』と声は言った。私はそれを神からの救いなのだと思った。この苦しみから逃れられるように助けてくれたんだとそう信じて疑わなかった。

 神の提示した条件は、2222回、この世界を終わらせること──つまり2222人の男が結ばれるように誘導することだった。神が一周に与えたチャンスは四回だった。

 それから私はとにかく世界を終わらせることに集中した。その過程で、私はいくつかのことを知った。

 一つは、世界が終わる条件は結ばれることではないということだった。結ばれることに意味があるのではなく、セックスすることが、そしてそれによって男が死ぬことが世界が終わる本当の条件だった。ただ、結局のところ、これは意味のない情報だった。あることを思い出すまでは。

 私は、この、死んでも生き返る世界で、かつて生き返らなかった男がいたことを思い出した。その時、私が男を殺した場所は、だった。私はとにかく早く世界を終わらせるために必死だった。私は、柵の奥で別の男を殺した。その男も生き返らなかった。そして確信した。なぜか柵の奥で死んだ男は生き返らないことを。

 それからは、柵の奥で殺すか、セックスさせることで男を殺し続けた。


「──気がつけば私は221人を殺していた」

 エミリーはそう締めくくった。

 あまりにも壮絶すぎる過去、信じられない世界の真実に、僕は何も言葉が出てこなかった。それでも──全てを差し置いても、僕は言わなければならないことがあった。

「──ごめんなさい。あなたのことも知らずに、勝手なことばっかり言いました」

 それが何よりも心苦しかった。勝手に自分の正義感を押し付けていた自分が、偽善を振りかざすだけの悪であるように思えた。

 エミリーはもう怒っている様子はなく、むしろ僕よりも落ち着いているように見えた。

「別に謝る必要はありませんよ。誰もこんなことがあるなんて想像できるわけないんですから」

 建前でもなく、本心からそう言っているようだった。

「僕はあなたが理解できませんでした。人を殺すことを使命だと言うあなたが怖かった。すがろうとするあなたを見るのが嫌だった。あなたの苦しみも、分からずに」

 どうしてか、話しながら気持ちが込み上げてきた。怒りなのか、悲しみなのか、分からない感情が溢れてくる。

「お前の言うことは正しい。私なんか、ただの殺人鬼です」

「でも……それでも……」

 苦しい。胸が痛い。

「だいたい、何でお前が泣いてるんですか?」

「え、泣いてる? 何を言って──」

 僕は自分の顔に手を当てた。僕の目からは涙が流れていた。それが理解できなかった。

 どうして僕は泣いている……? 自分のことでもない、他の人のことで。

 言葉は止まらなかった。

「あなただって……本当はこんなことしたくなかったはずなんです……!」

 どうしてこんな辛い……? なんでこんな胸が苦しい?

「……それは……そんなのお前に……」

 エミリーが顔を伏せる。

「なんであなたがこんな目に会う必要があるんですか……! こんな世界間違っている!」

「……そんな……そんなの……」

 エミリーは泣いていた。

「お前にそんなこと言われたら思っちゃうじゃないですか……私だって……ずっと思ってますよ! 何で私が……! こんな目に……って。でもそれを考えたら……考えはじめたら! 止まってしまう……今まで殺してきたことが間違っていたって認めることになる……だから! 考えないようにしてきました。いつか神様が助けてくれるから、そのための対価だから仕方ないって。それなのに……」

 エミリーが顔を上げて僕を見た。

「もう私は……殺せない」

 力が抜けたように膝から崩れ落ちる。顔から零れた雫が地面を濡らしていく。

「……ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。殺してごめんなさい。自分のために勝手なことしてごめんなさい。ごめん、なさい……」

 涙で顔を濡らし、どうしたらいいか分からない子どものように、誰にでもなくただただ謝り続ける。

 僕はそんなエミリーを見ているとどうしようもないほどに胸が痛くて、苦しくて辛くて悲しくて、そうせずにはいられなかった。

「殺さなくて良いんです。もう誰も」

 僕はエミリーを抱きしめていた。

「どう、して……?」

「僕が絶対にあなたを助けます」

「でも私ひどいことをたくさんしました。お前にも」

「──でもあなたは僕を助けてくれた。それだけのことがあったのに。それだけ辛い目に遭ってきたのに。それで優しさを失わない人なんて、僕は見たことがない」

「そりゃ……私みたいな境遇の人なんていませんよ」

「違います。そういうことじゃないんです。あなたは誰よりも優しい人なんです。僕は、あなたに助けられたんです。だから……ずっと伝えたかった」

 僕はエミリーの目を見て言った。

「──ありがとうございます」

 エミリーは何も言わなかった。ただの僕の背中に手を回して──抱きしめた。強く、更に強く、抱きしめてくる。まるで僕の存在を確かめるかのように。

 胸に顔を埋めてエミリーは言った。

「ねえ、どうしてお前はそこまでしてくれるんです?」

 どうして、と言われると本当に分からない。でもそれ以外の選択肢が考えられなかった。

「……分かりません」

「なんですかそれ。かっこいいセリフの一つぐらい考えてないんですか? まったく」

 かっこいいセリフ。そんなものを考える余裕なんてなかった。ただただ放っておけなかった。どうしても抱きしめたかった。

「もう神なんか信じないでください」

「神なんか、って神ですよ? それを信じるなって」

 エミリーは少しだけ笑った。この人には笑っていてほしい。悲しそうな顔なんてしてほしくない。だから、あれが果たして呪いなのか神なのか、そんなことはもうどうだっていい。ただ僕は──

「対価がなければ願いを叶えない、そんなのは絶対に認めない。僕は対価なんて無視して願いを叶える。だからエミリー、お願いがあります」

「なんですか?」

 エミリーが顔を上げた。すぐ近くにエミリーの顔がある。そんなことに、僕はなぜだか幸せを感じた。

「僕とこの世界を抜け出しましょう」

「むちゃくちゃすぎです……それに、そんなこと願ってません」

「そうですね。でも僕はあなたの神じゃない。だからあなたの願いは叶えません。僕は僕のやりたいようにやる。消えるなんて許さない。だから勝手にあなたと一緒にこの世界から抜け出すんです」

「本気ですか」

 僕を見つめるエミリーの目は赤くなっていた。そこにエミリーがいる。そのことが幸せだった。目の前にエミリーがいる、たったそれだけなのに、どうしてかそれに喜びを感じずにはいられなかった。

 ……ああ、そうか。これが──

「さっき、どうしてそこまでするのかって聞いてましたよね。あなたが助けてほしいって言ったから、あなたに助けられたから、色々あります。でも一番は──あなたが好きだからです」

 言ってみてはじめて、僕は自分の中のその気持ちに気づいた。妙な納得感すらあった。エミリーが好き、一度そう口にすると、それしかありえなかった。それ以外にあるはずもなかった。

 エミリーは拗ねたように言った。

「そんなの……ずるいです」

「ずるいんですか?」

「ずるいです──」

 エミリーの唇が僕の唇と触れた。そのことを僕は少しの間理解できずにいた。エミリーとの二回目だのキス。そのはずなのに、僕はまるではじめてキスしたような感覚だった。

 唇が離れる。

「分かりましたか? 私も……お前のことが……」

 エミリーは言い淀んだ。

「何ですか?」

「分かってるくせに……」

 エミリーは上目遣いで僕を見て、もう一度キスをしてきた。ついばむように何度も何度も。

「私だって、お前のことが……好き、です……」

 そう言って頬を赤く染めるエミリーが愛おしくて、僕たちはそれからしばらく抱きしめあっていた。


「あの……」

 帰り道、エミリーの言葉に僕は振り向いた。

「敬語、やめてください。それと、さん呼びも」

「どうしてですか?」

「なんか嫌なんですよ! 分かるでしょ?」

 分からない。分からないけど従うことにした。これが女心というやつなのかもしれない。

「エミリー。これでいい?」

「ダメです」

「え?」

 即否定された。何がいけなかったのだろう。顔がキモかったのだろうか。その場合どうすればいいんだろうか。

「私はエミリーじゃないです。だからその呼び名はやめてください」

 そういうことらしい。しかし、そう言われても……いや、もしかして── 

「僕に名前をつけろと?」

「そうです」

 エミリーは当然のように頷いた。そんな話があるかだろうか。ムチャクチャな彼女だ。

「じゃあ……Limeyライミーっていうのはどう?」

 Emilyを並び替えただけのシンプルなものだ。でも意外とそれっぽい名前にはなっていると僕は思った。僕は。

「ライミー。……何か嫌ですね。英国水兵って感じがして」

 何を言っているか分からないけど、エミリーは気に入らなかったらしい。

「じゃあ……Limリムって言うのは?」

「リム……良いですね。気に入りました。私に合います」

 エミリー、ではなくリムは何度もその名前を口にして頷いていた。後ろのeとyを消しただけなんだけど気に入ってくれたらしい。

「じゃあ呼んでください」

「え」

「いいから早く」

 エミリーは急かしてきた。どうしても呼ばせたいらしい。

「何で呼ぶ意味が?」

「ほら、そうしないと締まらないじゃないですか、何となく」

 仕方がない。……なんだろう。いざ呼ぶとなると何か恥ずかしい。

「えっと、リム……」

 呼ばせた本人は満足そうな顔をしていた。僕は今どことなく、あの時のアリスの気持ちを理解した。

「て言うかそっちは敬語直さないの」

「そっちじゃなくてリムです」

「いやそういうのいいから」

「私はこのままでいいんです。私のキャラはこれなんです」

 もはや理屈も何も無いことを言っていた。

「じゃあせめて、名前ぐらいは呼んでくれてもいいんじゃないの?」

 僕だけ呼ばされて、リムが呼ばないのは何だか理不尽だと僕は思った。しかしリムはそれを拒否してきた。

「よ、呼びません。私はお前呼びがしっくり来てるんです」

 そう話すリムの横顔は赤くなっていた。

「照れてる? 人に言わせといて」

「て、照れてません! 殺しますよ!」

 照れていた。

「じゃあどうやったら呼んでくれるの」

「ありえませんね。絶対呼びません」

 呼んでくれることは期待できなさそうだった。やっぱりツンデレ系はなかなか難しいと僕は思った。



 ◇

 ベッドではリムが心地よさそうに寝ている。その寝顔を見ながら考える。

『二人でこの世界から抜け出す』という言葉は、半ば反射的な言葉に近かったが、それでも本気ではあった。もし今後、呪いに会えなくなるとしたら僕たちは自力で解決策を見つけなくてはならないことになる。それでも二人なら何とか出来るような気がする。何の確信もない。だけどそう思えた。

 だから今日は、今日ぐらいは、この幸せな気持ちに身を任せていよう。

 僕は目をつぶった。明日に希望を抱いて。


「──分かった」

 呪いが短くそう告げた時、遅れて話を理解したエミリーが叫んだ。

「ちょっと待ってください! どうしてお前がそんなこと──!」

 僕はエミリーに一言だけ言った。

「さよなら」

 しかし、呪いは──笑った。

「明谷太郎。私は君に感謝している。君のおかげで私はこの単調な世界に楽しみを見出すことができた」

 ……何を言っている?

 呪いは続けて言った。

「すまないが君の願いを叶える事はできない。この世界から消えることができるのは、君だけだ」

「できない? どういうことですか」

「その子が勝手に言っているだけで私は全知全能の神なんかではない。君も知っているだろう? 私はこの村の呪い。私はただこの歯車であり、登場人物ではない」

 呪いの言っていることはよく分からなかった。ただ──

「じゃあどうして分かったと言ったんですか」

「明日からエミリーの意識を同調させる。つまりその子がエミリーになる」

 エミリーを指さす。

「何を言っている?」

「そして君たちがもしも互いを好きにならずに22日経過すれば、その時は君たちの願いを叶える方法を教えよう。それが私にとって最大限の譲歩だ」

「叶えられないんじゃないんですか」

「あくまで叶えることはできない、と言っただけだよ。叶えられないとは言っていない」

 呪いらしいと言うか、何と言うか。

「でもそれを教えてしまったら簡単にクリアできる気がしますけどいいんですか」

 呪いは笑って頷いた。その様子はどこか楽しそうでもあった。

「何を話しても問題ない。なぜなら君たちはこの会話を覚えていないのだから」

「どういうことです」

「私は自由になったと、君に言ったと思う。あれの影響とでも言うのか、君たちの記憶を封印する程度のことであればできるようになった。あとは君の世界にあるこの場所で話すことができるようになった。つまり、これで時間制限がなくなった。喜ばしいことだと思わないかい?」

 僕は嬉しそうに話す呪いを睨んだ。

「……あなたは僕に危害を加えないと言ったはずです。あれは嘘ですか」

「危害は加えていない。違うかい? それにこれは何も単なる嫌がらせでは無い。君たちにもリターンはあるはずだ。それも莫大なね」

 確かに元の世界に戻る方法があるのだとすれば、それはかなり大きなリターンとも言える。決して悪い話ではない。そう思ってしまうのがこの呪いの巧妙なところだ。 「君たちの中でここの記憶を封じておく。そしてあるトリガーを引くまでは絶対に思い出すことは無い」

「なるほど。話は分かりました。それで? もし達成できなかったらどうなるんですか」

「簡単だよ。その時は君を私が殺して、そして世界は繰り返す。何も変わらない。しかし、そうだな……失敗した瞬間に終わりというのは味気ない。死ぬまでの余韻として──」

 呪いは指を二本立てた。

「二日あげよう」

 呪いは、まるでそうなることが分かっているかのように話を進めた。

「次に君たちに会うのが22日後であることを願っているよ」

 嘲笑するように呪いは言った。


 ◇

「──!」

 なんだ今のは? 夢か? いや、夢と言うには妙にリアルすぎる。それに何より悪質すぎる。

「──お前!」

 いつの間にか起きていたリムが僕の手を握った。……なんでそんな悲しそうな顔をしている?

「二日で終わりって……ほんとですか」

 リムの言葉で嫌でも確信する。あれは、信じたくないがあれは……現実だ。

 呪いは、達成できないことが分かっていたんだ。だからあんな余裕そうだった。だから二日という猶予を設けた。

 僕たちは、失敗した。


 あと二日で死ぬ。そう思うと気が気で無かった。何を考えて、何をどうしようとしても考えずにはいられなかった。常に死という存在が肩に手を置いているようだった。

 二日という猶予を与えた意味がよく分かる。この二日間は、地獄そのものだ。意味なんてものはない。ただただ生気を失っていくだけの期間。それがこの二日間だ。

 焦り、苛立ち、不安、悲しみ。それ以外の感情なんて浮かばない。

 リムもそれは同じだ。いや、同じと言うのは違う。僕は消えるとしてもリムはまた繰り返すしかない。リムとしてではなく、また誰かとして。僕よりも辛いはずだ。死ねる僕よりも。

 僕が何か励ましの言葉でもかけてあげるべきだ。分かっている。分かっている……! でも……そんな余裕は今の僕には無い。

 こうして一日目は終わった。



 ◇

 夜になった。

 結局一日、リムとはほとんど会話することはなかった。リムだけじゃない。誰とも会話する気になれなかった。どうせ死ぬと思うと何をやるのも億劫で仕方がない。全ての行動は生きるためにするものだ。食事も風呂も……会話も。何もかも。死ぬと分かるとどうでも良くなる。誰に何を思われても。だって死ぬんだ。

「お前……起きてますか」

「リム?」

 リムは僕の布団に入ってくると、僕の身体に腕を回した。リムの暖かさが身体から伝わってきた。

「もう一日終わっちゃいましたよ?」

「そう、だね」

「たった二日間で別れるカップルなんてそうそういません」

「ほんとだね」

「……わたし、今日一日考えて決めました」

「うん?」

「もう誰も殺しません」

「なんで……そんなことしたら」

「──お前が教えてくれたんじゃないですか」

「僕が?」

「お前は自分ではなく私を元の世界に返すって言ってくれました」

「あれも何となくで……それにリムだって僕を助けてくれた」

「私も何となく……いや、違いますね。多分私はあの時からお前が好きになり始めていたんだと思います。だからお前が死ぬって思うと何だか無性に怖くなって……嫌だった」

「そんな優しいリムが助かるのは当たり前のことだ」

「違いますよ。お前はエミリーじゃなくて私だって見抜いてくれました。それで、こんなにひどいことをしてきた私を助けるって言ってくれた。元の世界に帰ろうって言ってくれた。あの瞬間から私の世界にはお前しか見えなくなったんです。お前のこと以外考えられなくなって……だから私は決めたんです。これから絶対にあんなことはしないって」

「でもそれじゃリムは──!」

 リムは優しく首を振った。その表情は悲しさよりも決意に満ちていた。

「私はもう一生分の幸せを感じました。もういいんです。お前との記憶さえあれば……だからお前も約束してください」

「約束?」

「私を……忘れないでください」

「──」

 不安しか無かった。死ぬことしか考えられなかった。暗くて、怖くて、それ以外の感情なんてなかった。なのに──なのになんでこんなに明るい? なんでこんなに一つのことしか……リムのことしか考えられなくなる?

 僕は抑えられない気持ちを言葉にした。何度言っても足りなかった。

「リムが好きだ」

「私もです」

「忘れるわけない」

「……私もです」

 抱きしめる。離さないようにしっかりと。リムもそれに応えるように抱きしめてくれた。

 リムが好きだ。例え明日で全てが終わってもリムが好きだ。こんな僕を好きだと言って、僕に救われたと言ってくれるリムが好きだ。

 好きだ。好き。足りない。好きで仕方がない。

 ……ああ、こんな時間がずっと続けば良いのに。そうしたら、それ以外は何も望まないのに。

 たった一つ──それだけが叶わない。


 目を覚ますと、目の前にリムがいた。僕とリムは昨日抱きしめあったまま寝ていたらしい。

「ありがとう、リム」

 髪を撫でるとリムは心地よさそうに微笑んだ。眠っているリムを起こさないようにして部屋を出る。

 そして一通の手紙をカベッサさんの部屋の前に置いて、始まりの場所──柵の奥へと向かった。

「やあ、待っていたよ」

 今日はどうやら通してくれたらしい。この呪いとの会話もこれで最後か。ふとそんなことを思った。

「待っていたってなんですか」

「いや……君ならここに来るんじゃないかと思ってね」

 呪いはやけに上機嫌だった。今にも踊り出しそうなほどに。

「僕は、あなたとの賭けに負けました。でも不思議と、あなたを恨む気にはなりません」

 呪いは少しだけ目を細めて下を見ていた。悲しんでいる……のだろうか。いや、そんなわけはない。

「あなたはいつも合理的で、冷静で、僕はそれが頼もしくもありました。あなたが呪いだったことを言われた時も、僕は別に怒る気にはなりませんでした。それにあなたは今日まで僕を呪わなかった。本来であればあの時死んでいた命でここまで生かされていたと思うと、感謝しています」

「君は……」

 僕の本心だった。リムにひどいことを言っていた時も、僕と取引をした時も、決して理不尽ではなかった。だからこそ恨む気なんて湧くはずもなかった。

 そんな僕を見て、呪いは────爆笑した。

「アハハハハハハハ!」

 呪いは未だかつて見たことのない表情で笑っていた。その笑い声は明らかに邪悪なものだった。僕には、目の前の光景が理解できなかった。

「ありがとう! 私の期待通りに動いてくれて! 君を信じて良かった! 君が絶望せずにここに来てくれて良かった!」

 呪いはそう言って天を仰いだ。僕にはもはや目の前の光景が現実なのか分からなかった。

「……おっとすまない。混乱させたようだ。説明させてくれ」

 途端にいつものように冷静になって呪いは言った。その不安定さが逆に僕には恐ろしかった。

「前編と後編しかないこの世界のその先に君が辿り着くこと。それこそが私の願望であり、目的だった。そして私は自由になることができた。いや、神になることができた」

「……神、だと?」

 神なんて本気で言っているのか? その為にあの時、僕を生かしたと言うのか?

「君も知っての通り、この世界は転移してくる男の死によって繰り返されている。しかし、全てを知ってしまった君が死ぬことはどうやったって無い。それはつまりこの世界の崩壊を意味する。世界はそれを回避しようとする、そう考えた。案の定、世界は私に権限を与えた。男が死ぬためのルールを追加する権限を」

「そんな、むちゃくちゃな……」

「私もそう思ったよ。しかし厄介なことに何でもルールが追加できるわけではなかった。例えば、食事をしたら死ぬ、というのは許されないし、簡単に起きうることを条件とすることは認められなかった。あくまでこの世界のルールに基づいて、なおかつ理不尽なもので無い必要があった」

「それで、あなたはルールを追加した。元の世界に返すっていうのもそれだったんですね」

「はじめはそのつもりだった。『君が元の世界に戻りたいと願う』というルールを追加する予定だった。しかし、あの子が現れたせいで予定が変わった。君はあの子の願いを叶えるよう私に言った。そこで急遽私は、『君が誰かを愛していると自覚してから二日後に死ぬ』というルールを追加することに変更した」

 そして僕は、その思惑通りになった。なるほど、どうやら僕は本当に死ぬらしい。

「前置きはこれぐらいでいいだろう。そろそろ本題に入ろうか」

「前置き……?」

 これ以上の何かがまだあると言うのか。

「まず、君はこの世界に来てから一年も経っていない」

「何を言っているんですか? 実際、僕は一年前にこの村に来て」

「その通り。約一年前からここで暮らす君が気を失って倒れていたところから物語は始まる。言わばとも言える」

「それは矛盾しています」

 一年前からここで暮らしていると言いながら、一年も経っていないと言った。これは明らかな矛盾だった。しかし呪いは僕の指摘には触れずに話を進めた。まるで答える価値すらないことだとでも言うように。

「記憶を取り戻した君は、目の前にいる知らないはずの存在をマーシャと呼び、知らないはずの村で知らないはずの人と仲良く暮らす。それに違和感すら抱かない」

「いや……そんな、何を言って」

「記憶定着の過程で転移者にはある症状が訪れる。それは記憶の混濁だ。偽りの記憶に馴染むための期間とも言える。その症状は、突発的な記憶の想起、非常識的、或いは不可解な言動など。君にも心当たりがあるはずだ」

 僕は考えたくなかった。考えて、もし本当だったら、そう考えると怖かった。それでも、呪いは逃避を許さなかった。

「あれは一日目だったか……くしゃみが出そうになった時があった。君は普段からあんな行動は取らないはずだよね?」

「あの時は」

 そう言いかけて止まった。答えようにもどうしてあんなことをしていたのか、その理由がまったく分からなかった。僕は、くしゃみをする時にあんなことを考えたことはなかった。

「それから同棲と聞いて、君は結婚と言い出した」

「あれは……」

 あれも緊張からのものだと思っていた。いや、絶対にそうだ……単に理由付けして混乱させようとしているんだ。

「君の記憶が偽りのものである証拠は他にもあるよ。君は村に入る時、はじめて見るような気分になって村を眺めた、そんなことがあったはずだ」

『記憶を失っていたせいか、まるで初めてこの村に入った時のような気分になり、どこかワクワクしながら僕は村全体を眺めた。』

 僕はあの時、確かにそんなことを思った。でもそれは記憶喪失だったからで──

「食料庫で、君はまるではじめて見たかのようなことを呟いた」

『「──こんな場所あったんだなあ」

 僕は自然とそう呟いていた。』

 考えたくないと思えば思うほどに勝手にその時のことが思い出されてくる。

「まだ認められないかい?」

 呪いはそう言って軽く笑った。

「では聞こう。君は、今まで食料庫にいった記憶があるかい?」

「何を言ってるんですか、そんなの──」

 僕は言葉が出なかった。どうして思い出せない……! 行っているはずだろう!? 

「──あるわけがない。なぜならそれらは全て初期設定として与えられているものに過ぎないからだ。君がその場所に関する思い出も、記憶だと思っているものも全て、与えられたものなんだよ」

「君が納得しないならいくらでも教えてあげるよ。君は、倉庫が住める場所ではないと判断しから同棲することに決めた。ならば倉庫がどこで、どんな感じなのか思い浮かべられるはずだよね?」

 倉庫? そうだ、あの場所は人が住めるような場所ではなくてそれで──それで何だ?

「浮かべられない。なぜなら行ったことがないんだから。そもそも、君はあの日目を覚ますよりも前の記憶があるかい? 何か一つでも、どんなに些細なことでも何か思い出と言えるものがあるかい?」

 呪いは僕の言葉を待つことなく断じた。

「──無い。そして何より、一番の証拠は君がこの村に来る前の記憶が無いということだ」

「……え?」

 僕は記憶を探った。元の世界の記憶、僕が何をしていて、どういう生活をしていたのか。それが──分からない。

「君の元の世界での記憶は、ここに来た時点で奪われている。そして、そのことを自覚しないように定着させられている。だから君は今はまでそのことを考えもしなかったし気づくこともなかった」

「でも、僕は元の世界の記憶に基づいて話しています! それはどう説明するんですか!?」

 僕は必死だった。理性で認めそうになるのを気づかないようにした。

「元の世界での記憶は全て排除される、と言っても記憶だけは完璧に無くすことはできない。そうしてしまえば君という人格を失ってしまうからね。断片的に君が元の世界の知識や経験に基づいた言動をすることもある。だがそれは無意識で行われるものだ。現に君は、私に言われるまで元の世界の存在を認識していなかったんじゃないか?」

 もう認めるしかなかった。僕の記憶は偽りのもので、全て言う通りだということを。それでも僕にはどうしても疑問があった。

「でも……それならどうして村の人は普通に接してくるんですか。それが、僕が一年前からここにいる何よりの証拠なんじゃ──?」

「──あれは、人形だ」

 呪いは冷たく、そう告げた。その声に、言葉に、背筋が凍りそうになる。

「人形……?」

 普通に話していたし、みんなちゃんと心があった。個性があった。そんなわけがない。

「と言っても君の思う人形とは違う。実際に彼女たちは生きていて、心を持っている。あれは神が作った人間だ。故に人形。だから君が一年前からいないとしても何の疑問も抱くことはない。それに、君があれだけの怪我をして倒れて、次の日に目が覚めることに疑問を抱かないなんておかしいと思わないか?」

 僕はそれに答えることはできなかった。確かに、そうだ。僕は気にしなかったけど改めて考えると異常なことだった。

「彼女たちは都合がいいように動く。そういう役目だ。その中でも、マーシャ、アリス、ヘレナ、レイチェル、そしてエミリー。この五人は君と恋をするために生まれていて、君を好きになるように予めプログラムされている。エミリーの中にいるあの子は、多分繰り返す過程で生じたバグのようなものだ。私はそれを芽生えと呼んでいる。いつだったかマーシャが君を殺そうとしたのもおそらく同じような症状だ。ただあれは、選ばれなかったことへの憎しみが芽生えのきっかけとなっていたみたいだったが」

「どうしてそんなことをする必要が……いやそもそも、この世界は……なんなんですか」

 僕は諦めるように言った。もう混乱で頭が痛くて仕方なかった。何も考えたくなかった。

「簡単さ。前編と後編があると私はさっき言った。この世界は、用意されたシナリオに沿って進んでいる。前編は、君が誰かと交わることで死ぬか、もしくは柵の奥に入り、呪いのことを知るかという分岐がある。そして呪いに殺されることなく、村に戻る。それが後編のはじまりでもある。君はその後、君と同じ名前の人物が過去に起こした惨劇の記録を見つけたカベッサに村を追い出される。後編の分岐は、村に戻る選択をした君がカベッサに殺される。もしくはレイチェルと暮らすことを選んで、いずれレイチェルと交わって死ぬ」

「……待ってください。それだとどっちを選んでも死ぬことになる」

「そうだよ。だからこの世界には後編までしか必要がなかったし存在していなかった。だからこそ、私は前編と後編しかないこの世界のその先に君が辿り着くことに興味が湧き、それを目的とした。……話を戻そう。どうして人形がこの世界に必要なのか、それはシナリオだけがあっても役者がいなければ物語は成立しないからだ」

「つまり、はじめから、僕は死ぬことが決まっていた、と言うんですか」

 言っていて意味が分からなかった。死ぬために僕はこの世界に転移した? 強制的に? 

「君には同情するよ。それにしてもこの世界は皮肉だ。男が一人、周りには美少女か、美女がいてしかもその人たちは自分のことを好きになるようにできている。それで交われば死ぬ。死なないためには誰とも結ばれず、一切の興味も持たず、やがて朽ちていくしかない。それはもはや死んでいることと変わらない。君はさっきこの世界はなんなのかと言ったが、この世界は君が死ぬためだけの世界だ。君を殺すためだけに存在しているとも言える」

 僕を殺すために存在している世界。それがここだと言う。つまり──はじめからこの世界は僕を殺しに来ていた。

「柵の奥で殺せば死ぬのは設計者の慈悲か、あるいはエラー処理の一つとして用意したのか……ともかくこの世界の設計者は何のためにこの世界を創ったんだろうね」

 その物言いに僕は違和感を感じた。

「さっきから他の人がやったかのように言いますが、この世界はあなたが創ったものじゃないんですか」

 僕は途中からそう思っていた。そうでなければこれだけ知っていることの理解ができない。

「違うよ。僕はこの世界の観測者さ。今回のようなエラーに対処するために造られた存在。それが私だ。私には実体はない」

「最後に一つ、確認させてください。僕があなたを殺せばどうなるんですか? 幸いにもここは柵の奥だ」

 呪い、ではなく観測者は笑った。

「そうか……なるほど。残念だがそれは無理だよ。今言ったように私には実体がない。それにここには──」

 そう言って観測者は一歩前に出ると、手を前に出した。そこには見えない壁があった。

「君と私を分ける境界がある。不可侵の壁がね。しかし……なるほど君が何を最後に考えてここに来たのかと思えば、それが君の希望か」

 僕は地面に膝をついた。屈伏するように。

 この観測者の役割になれば何か変えられるんじゃないか、僕とリムを蝕むものから開放されるんじゃないか、そう考えた。それはあまりにも愚かで不可能な考えだった。

 そんな僕を見下ろす観測者は笑っていた。笑い声はどこか遠くから聞こえるようだった。

「そうだ! それが見たかった! どうやっても諦めない君が見せる絶望! それを私がどれだけ望んでいたか! はじめて後編に辿り着いた君が見せる絶望にこそ価値がある!」

 ──だが、僕のやることは何も変わらない。

「──この世界は繰り返す」

「……何か、言ったかい?」

 僕は立ち上がった。

「それがルールなんですよね」

「そう、それがルールだからね」

「それは、何者であっても変えられない。変えることを許されない。そうでしたよね」

「ああ。でも君はもう」

「──たとえ、あなたであっても」

 瞬間、顔つきが変わった。

「……何を言っている?」

「いえ、ただルールを言っただけです」

「余計なことはしなくていい。君はもう死ぬ。消え去るんだ」

 観測者は早口で言った。

「自分で分かっているじゃないですか。何を焦っているんですか? こんなもうすぐ死ぬだけの存在の何が怖いんですか? 神であるあなたが?」

「二日なんて無しにして今すぐにだって君を消すことが私にはできる! 愛する人の顔を見なくていいのか?」

 僕は笑った。

「なぜ君は笑う……?」

 観測者は僕の様子に戸惑っていた。

「あなたにそれができるんですか。いや──できないはずです。何者であってもルールに反することはできない。それはあなたであっても。あなたは二日後に死ぬと定めたんです。そのルールを変えることはできない」

「そんなことは」

「──それならやってみればいいじゃないですか」

 観測者は、冷静そうな振りをしていた。だがそれが動揺を隠すための演技だということは容易に分かった。僕は妙に落ち着いていた。……いや、それははじめからか。ここに来た時点で、たとえ何を言われても僕のやることは決まっていた。

「なぜそんな余裕がある? 君は今すぐ死ぬかもしれないというのに」

「死にませんよ」

「どうして」

「あなたは僕が死ぬように二つのルールを追加したと言いました。『誰かと両想いになると二日後に死ぬ』というルールを。あなたは隠しているが、実はルールの追加には条件がある」

「……条件?」

「元々ある二つのルールもそうだ。

『柵の奥で殺されると死ぬ』というルールは、そもそも柵の奥に行くことが禁止されていて、その上そこで殺されなくてはならない。『誰かとセックスすれば死ぬ』と言うのも、簡単に起こることではないから成立している。逆に柵の奥でなければ死なないのは、これがあまりにも広い条件だから故の反動ではないかと僕は思った」

「だとしてもそれとなんの関係が」

「元々ある二つに比べてあなたの作った条件は軽すぎる。だから、そのルールには応用が効かない。おそらく二日というのも、気まぐれではなく、このルールを成立させるために必要な対価なんでしょう。だから絶対にこれは二日後と決まっている。違いますか?」

 神様もどきは顔を歪ませていた。それがこの仮定が事実だということを示していた。

「ところで、あの時言っていた『願いを叶える方法を教える』という話は、本当のことですか」

 神様もどきは少しだけ考える素振りをしてから言った。

「……嘘だ。君が『誰かを愛していると自覚してから二日後に死ぬ』というルールを満たすことがあの記憶を思い出すためのトリガーだった。つまり」

「──どうやっても僕は死ぬ以外には無かったと」

 観測者は頷いた。

「どの道ここはそういう世界だ。君が死なない限り終わらない」

 そうか……ならば仕方がない。僕は──

「この世界を崩壊させます」

 観測者が驚いて僕を見た。

「何を言って……そんなことができるとでも!? それにそんなことをさせると」

 動揺を隠すことなく話す観測者に僕は言った。

「──あなたはもう一つ隠していることがある」

 僕の言葉に観測者は動きを止めた。

「この村にある呪い、あれはそもそも嘘だ」

 観測者は目を見開いていた。そう、観測者だ。

「……何を、言っている?」

「あなたは自分を呪いじゃなくて観測者だと言いました。それにあなたが話したシナリオの中の死には『呪いで死ぬ』というルートはなかった。あなたは当然のように、後編に入るための前提条件として『呪われずに村に戻る』と言った。あなたにしては初歩的なミスだ。余裕があり過ぎて忘れていましたか?」

「……それなら、村のことはどうなる!? 仮に私が呪いではないとしても、それは記録として残っていて──!」

「この世界は繰り返す。シナリオに沿って。それはあなたが一番分かっているはずだ。僕が目を覚ました瞬間にこの世界ははじまり、僕が死ねば終わる。それならどうしてそんな記録がある? あれはつまり設定として存在しているだけだ」

「そんなことどうやって証明する?」

「確かに僕が観測者でもない限り、それは証明することはできないでしょうね。そんなことどうでもいいんです」

「じゃあ何のために君はその話をした?」

「要するにあなたが手出しできないと分かればそれでいいんです。今のあなたの反応と、それにこれの存在で確信しました」

 僕はそこにある、見えない壁に触れる。

「あなたは直接的に影響を与える権利を持っていない。あなたはさっきこの壁を不可侵の壁だと言いました。僕とあなたを分ける境界だと言いました。それは違う。これはを分ける境界なんですよ」

 あなたはそこで見ていればいい。これから起きることを。

「それがわかっていたとして何をするつもりだ? 君に何ができる?」

「柵の奥で死んだものは死ぬ。これはルールです。それは僕だけじゃない」

「何を言って──」

 観測者の表情が変わる。

「まさか……!?」

 どうやら察したらしい。だがもう遅い。それに何もできないことはもう分かっている。

「僕は──この村の人全員を殺します」

 僕が残された時間で必死に考えた案がこれだった。これを取引材料として元の世界に戻る手段を聞き出す。それには二つ条件があった。一つは、そもそもその手段が本当に存在していること。あの間は、明らかに何か隠している間だった。そしてもう一つは、観測者側から何も干渉できないこと。そうでなければ取引として成立しなくなる。

 条件は、たった今全て満たされた。

「やめろ……そんなことをしたらどうなるか……世界が繰り返すことができなくなるかも──!」

「だからやるんですよ。言ったじゃないですか、この世界を崩壊させると」

「本気で言っているのか……? 何の得がある? それに君がそんなことをするとは思えな」

 僕は冷静に言った。

「──じゃあ聞きますけど、どうして僕は殺されないといけない?」

「それは……」

 言い淀む。

「お互い理由なんて無いでしょう?今朝、村の人全員でここに来るようにという手紙を置いてきました。仮に全員来なくても少しでも殺せれば僕はそれでいい。世界が崩壊しようがしまいがどうせ僕は死ぬんです。それなら少しぐらい爪痕を残したい」

「バカげている……そんなの……」

「バカげていても僕は本気です。どうして長々とあなたとここで話していたと思います? 時間稼ぎですよ、ここに村の人が来るまでのね」

 そう言って、ポケットにしまっていた刃物を取り出す。観測者の目には、明らかにこれまでとは違う動揺の色が見て取れた。仮に観測者が今決めなくても、決断するまで僕は何人でも殺すつもりだった。リムの為なら殺せる。それでリムが救われる可能性があるなら──

「分かった。元の世界に戻る方法を教える。だからやめてくれ……頼む……」

 懇願するように力無く言った。ここまで余裕がない姿を見たのははじめてだった。

「なんだ、本当はあるんじゃないですか。最初から言ってくださいよ」

「だから、少しだけ待っていてくれ」

 そう言って消えた観測者は数分ほど経って戻ってきた。そして、笑った。

「──すまない。あれは嘘だ。そもそも、そんなものは存在していない」

「なにを……言ってる?」

 僕には言っている意味が分からなかった。

「じゃあ、この世界が崩壊しても構わないと言うんで──!?」

 その時、僕の首が締められる。力強く一切の躊躇がなかった。

 ……この人は何もできないはず……なのに、どうして……どうなっている?!

「間に合ったか」

 やはり観測者は壁の向こう側にいた。じゃあ誰が、どうしてこんなことを──?

「やはり君は余計なことを考える。手を打っておいて正解だった。まったく恐ろしいことを考えるよ君は。もしそんなことをされたら確実にこの世界は終わっていた」

 振り返る。そこにいたのは──リムだった。どうして。なんでリムが。僕の首を締めているリムには一切感情がなかった。

「確かに君の言う通り、私は干渉できない。だが命令することはできる」

「命、令?」

 締められたまま僕は言った。

 リムの手はまったく緩むことがない。

 目の前のリムにはまるで光がない。感情を暗い海の底に置いてきたようにリムは無感情だった。

「操って、いる、のか?」

「操るなんてことはできないよ。そもそも私の声は本来、言動にさほどの影響も与えられないようになっている」

『神の声が聞こえた』と、リムが話していたことを思い出す。

「その子はイレギュラーだ。この世界で私の声をハッキリと聞くことができる唯一の存在。おそらくバグだからだと私は考えているけどね」

「リムに、なに、をした……?」

 あくまで冷静に観測者は言った。

「私はその特徴を生かして、万が一彼女が私の制御が効かなくなった時のために洗脳しておくことにした。彼女ですら認識できない潜在意識に語りかけ、私の言うことを聞くようにね。洗脳に対する拒絶反応で頭痛を起こすこともあったがね」

 僕は怒りでどうにかなりそうだった。リムは洗脳されていて、さっきのは、洗脳したリムがここに来るまでの時間稼ぎだった。

「リム!」

 必死に呼びかけるも、虚ろな目のまま反応は無い。

 観測者は言った。

「無駄だよ。私のそれは洗脳なんて言葉で表せるほど安いものじゃない。膨大な時間をかけ、緻密に調整し、意思なんて不純物が介入しないようにしてきたんだから」

「り……む!」

「君は死ぬんだ。君の愛した人の手でね」

「リム!」

「ところで、さっきから君のそれはなんだ? リム? 誰だそれは?」

 バカにするな。僕の大好きな人の名前を。くそ……意識が……!

「リム……は、リム、だ……! 僕の、大好きな!」

「そうか」

 神様もどきは興味無さそうに言って僕から視線を外した。もう死ぬことが確定している僕に興味を失っていた。

「リム! リム……!」

 これ以上は意識が保てない。もう、このままでは──

「そろそろ、か。しかし君も余計なことをしなければ自動的に死ねたのに。残念だよ」

 消えそうな意識を紡いで。無くなりそうな自我を保って。何度でも呼ぶ。呼ばなくちゃならない。その名を。僕の大好きな──

「──リム!」

 僕の首を絞める手の力が一気に無くなる。

「……なに?」

「ゲホッ! ゴホッ! ゲホッ!」

 僕は苦しみから解放され、激しく咳き込んだ。

「ごめんなさい! 大丈夫ですか!?」

 僕は何も言わず、力いっぱいリムを抱きしめた。

 観測者は後ずさった。理解できないと、恐怖していた。

「そんな馬鹿な……!? ありえない……あれだけの時間をかけて……それがこんな……ただの愛情なんかで……!?」

「いいえ、違います」

 僕には分かっていた。こうなることが。ただの愛情なんかでと観測者は言った。

「──ただの催眠なんかで愛情に勝てるわけがないんですよ」

「……そんな、バカな……」

 観測者は膝をついた。僕がはじめて観測者を見下ろす瞬間だった。

「くだらない……! くだらないくだらないくだらない。私がもっとも嫌いなものがその矮小な感情だ……!」

 落ち着きも一切なく、ただただ怒り狂っていた。これで僕たちの──

「ごめんなさい……」

 リムの手が僕の首に触れ、そして──締めた。

「リ、ム……」

「ごめんなさい。私、もう……制御、できそうに……」

 その疑問に答えるかのように観測者は叫んだ。まるで取り憑かれたかのように狂気に満ちた笑顔だった。

「そうか! やはり催眠は解けていなかった! 精神が解放できたとしても肉体までは逆らえないのか……やはり完璧だったんだ!」

 愛情さえあれば、感情論で何とかできると、本気でそう思っていた。悔しさが込み上げてくる。

 結局僕はどうすることもできないのか!? どうしようもないのか!?

「──聞いてくだ、さい。昨日の夜言ったこと、覚えて、いますか」

 苦しそうに顔を歪めながらリムが言った。今もきっと衝動に抗って、ギリギリのところで話しているんだと分かった。

「昨日、の、夜?」

「ほら。私が言った、あれ、です」

「あれはでも……!」

 だってあれはあまりにも無謀すぎる。

「このまま、じゃ、私は、お前を、殺して、また世界は……繰り返して、しまいます。それは……いや、です」

「でも──!」

 嫌だ。そんなことしたくない。

「時間が……あり、ませ、ん」

 分かっている。僕の意識だけじゃない。リムが正気でいられるのも長くはない。でも。

「お願い、です。私、にまた、殺させる、んですか?」

「!──」

 それはいやだ。それは絶対に……でも──!

「わた、しを……外の世界に……連れて、行っ……て、くれるん、でしょう?」

 リムが笑った。その目からは涙が流れていた。手に入る力が強まる。リムも限界が近い。決断しなければならない。

「私を──」

 僕は、リムを──

「──殺して」

 僕は頷いて、ナイフを握った。目から涙が溢れてくる。

 ぐちゃぐちゃになった視界で僕は、力いっぱい握ったナイフをリムの首目掛けて振り下ろした。ナイフ越しに肉が裂ける感触が伝わってくる。僕が、僕の大好きなリムを殺している。そう思うと手が止まりそうになった。それでも僕は、力を緩めずにリムの首にナイフを突き立てた。

 リムの首を貫いたナイフが、僕の首に刺さった時、リムの手がだらんと空を切った。

「や、ったよ……リム」

 僕はこう言った。でも本当に言えているか不安だった。だってただの風が通り過ぎるような音しか出やしない。

 リムを見ると、その口元が動いていた。何か、言って、いる……?

「だ、いすき、で、す。太郎」


「ねえお前。もしも。もしもですよ?」

 僕の胸に顔を埋めたままリムが言った。

「うん?」

「もしも柵の奥でお前が私を殺したらどうなると思います?」

「どうなるって……」

 意外と難しい質問に僕は頭を悩ませる。考えたこともなかった。

「ルールに基づいて考えるなら……死ぬ?」

「その場合私ってどうなるんでしょう」

「消えることになる、のかな。よく分からない」

「ふーん。じゃあもしも。もしものもしもですよ?」

「うんうん」

「もしも柵の奥で私がお前を殺したらどうなります?」

「それはまあ……死ぬでしょ。僕が」

「ふーん」

「何その反応」

 さっきからなんのゲームだこれは。

「じゃあもしも、もしものもしものもしもですよ」

「うんうんうん」

「私がお前を殺す瞬間にお前が私を殺したらどうなると思います?」

「……新しいボケ?」

「だーかーらー私がお前を殺す瞬間にお前が私を殺したらどうなると思いますか? って言ってるんですよ」

「いやそのまま二回言われても」

 普通そう言うのって一回目で伝わらなかったら言い換える努力しない?

 その状況を考えてみる。同時に死ぬ。自分を殺した相手と自分が殺した相手が同時に。

「僕もリムも死ぬ?」

 そのまま考えるとそうだ。しかしリムは納得していないようだった。

「本当にそうなんでしょうか」

「と言うと?」

「私とお前は違います」

「身長とか?」

 殴られた。

「立ち場が違うんです。私は繰り返す立場でお前は繰り返さない立場です。つまり私はこの世界にとって必要不可欠な存在なんです。だからもし柵の奥でお前が私を殺しても私は生き返るかもしれないし生き返らなければならないはずなんです。でもその場合、お前が死んで世界が再構築される時に私は死んでいるはずなのに再構築できることになってしまう。そうすると、お前が殺したという事実は無視されることになる。それなのにお前を殺したはずの存在はもう死んでいるとなるとお前は自殺したことになって、でもそれらは共存できるものじゃないので世界の再構築にかかる負荷にプラスしてそれがかかるとなると」

「は?」

 蹴られた。

「つまり可能性は三つあります。

 一つはお前が死んで私も死ぬ。もう一つはお前は死ぬけど私は死なない。そして最後に、お前は死ななくて私は死ぬ」

「でも三つ目はルール上、有り得ないんじゃ」

「その通りです。なので基本的には二つのどちらか」

「基本的には?」

「なぜならあの柵の奥でなくても、そんなことが起きたことは無いからです。と言ってもまず有り得ないでしょうね」

「へえ」

 適当に相槌を打つ。よく分からない話はまずは相打ちに限る。

「ですがこの全てにおいてある問題があるんです」

「問題が!?」

「お前、次適当なこと言ったら殺しますよ」

 ちょっと攻めすぎたか。

「どちらの場合でも必ずこの世界が繰り返す上で問題が起きるんです。分かりますか?」

 よく分からないけど考えてみる。

「えっとーリム、というかエミリーさんが死んだ場合、この世界の繰り返していた流れが壊れてしまう。でもリムが死ななかった場合この世界のルールに反することになる。的な?」

「そうです」

 合っていた。適当に言ったんだけど。何でも答えてみるもんだなあ。たろを

「ざっくり言うと、そうなった時に何が起きるか分からないんです。三つ目のような可能性だけじゃない。世界が繰り返せなくなる。繰り返すこの世界が繰り返せなくなるということはこの世界の終わりを意味します。そうなれば私たちがこの世界から抜け出せる可能性だってあるんです」

「世界から抜け出せる可能性……」

 後半はあまり言っている意味がわからなかったけど、その言葉はあまりにも魅力的なものだった。でも──それだけじゃない。危険が多い。

「だいたいそれは同時じゃないとダメなの?」

「ダメではないかもしれませんがその可能性は高いです。世界が再構築される瞬間に二つの相反する事実が共存することで世界は本来あるべき安定した形を失って、それで調整できなくなることで」

「あーーーーーーー」

 意味のわからない授業を聞いている気分だ。意図的に分からなくさせようとしているんじゃないだろうか。

「要は、同時だと」

「そうですね」

 リムは頷いた。

「じゃあ嫌だな。あまりにも現実的じゃない」

「そりゃそうですけど」

「それに僕はリムと居たい」

「それは……私も……でも」

「だからまあ他の案を僕が考えるよ。ありがとう」

 頭を撫でる。サラサラしていて心地よい感触だった。

「またそうやって誤魔化して……ずるいです、お前は」

 リムはそう言いながら僕の胸に顔を埋めた。

 僕たちは最後の夜をこうして終えた。

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異世界なんて終わっちまえ! @inori_

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