第1競走 悔し涙、嬉し涙(後編)

 サラブレッドとばん馬のレースの大きな違いは、出走のローテーションだ。多くのばん馬は一開催に一度、つまり2週に一度レースに出走する。サラブレッドの約半分のペースだが、丈夫なばん馬にとって問題はない。トカチミモザも約2週に一度のペースで走り、2週連続で出走したこともある。むしろ「毎週走りたい」と担当厩務員の杉本に言い、困らせたことすらあった。

 6月上旬に2着を獲ったあの日、トカチミモザと主戦騎手である田中は、ここから成績は鰻上りだろうと考えた。しかしその後5戦の着順は全て2着か3着だった。単純に力及ばぬ時もあれば、悔しくもゴール前で残り数歩が歩けなかった時もある。上を目指す今の彼女にとって1着以外は受け入れがたい敗北だが、馬券に絡めなかった頃ならば贅沢な不満と怒っただろう。

 そうして7月が終わりを告げる頃、トカチミモザは賞金を着実に得てC1クラスに昇格したが、Bクラスはまだ遠い。

 アブラゼミの喧しい鳴き声が辺りに響く中、馬房の中でトカチミモザはサイドレッグリフトをしていた。吹き出した汗は皮膚を滑り、ぼたりと床へ落ちる。

 今までのトカチミモザは調教が終われば、大型の扇風機により涼やかな馬房でごろごろ転がっていた。強くなりたいと思うものの、「なにをしたらいいか分からない」を言い訳にサボる。杉本がトレーニングしろと叱咤しても、すぐに飽きて昼寝をする日々が常だった。杉本には複数の担当馬がおり、もっと目をかけてやりたいと思うものの、トカチミモザにつきっきりでの指導は出来ない。

 そんな日々が変わったのは、田中とコンビを組んだ3戦目の翌日だった。

 体幹を鍛えろ、しないならオレは主戦騎手を辞める――だらけるトカチミモザに田中は宣言した。普段のトカチミモザならば冗談だろうと聞き流すが、田中の真剣な眼差しに本気だと即座に理解した相棒は、背をぴっと伸ばした。

 トカチミモザが田中を尊敬する理由の一つは、可能な範囲で丁寧に指導を行うところだ。弱い理由を述べ、どう改善するかを実演し理解させる。良い動きをすれば褒め、悪い動きには理由を伝え改善案を出す。多忙な日々の中で小まめに顔を出し、相棒に目をかけた。担当厩務員の杉本も同じように指導をしてきたが、レースの目線で見る騎手とは埋め難い差がある。杉本は田中への感謝と同時に、私の話をミモは聞かなかったのに、という複雑な感情を抱いた。一緒に走るからこそ分かるものがある、それにミモは私に甘えたいんだと己を納得させ、嫉妬心を一頭と一人の前で露わにせぬよう努めた。

 ふぅっと息を大きく吐いたトカチミモザは、姿勢を崩した。ばん馬は体温が高い故に、身体は水を浴びたように汗まみれになっている。タオルで身体を拭きたいが、億劫が勝り床で寝そべった。

 トカチミモザが体幹トレーニングを始めた当初は、田中の指示とはいえ面倒だからやりたくないと思った。サボろうとした時もあるが、田中が主戦騎手から降りることが怖く、渋々続けるうちに今やトレーニングが日課としてトカチミモザに染み込んでいる。

 レースに出走する度に、走りやすくなったとトカチミモザは感じる。体幹の弱さから無駄な動きが多いと田中に指摘されていたが、トレーニングにより大分カバーされた実感が湧いていた。

 ここまでの調教の中で、1着に一生なれないとトカチミモザが癇癪を起こす日もあった。

「今まで負けた子とまた走れるようになったし、追い抜かした子は何頭もいるんだよ」

 そう杉本と田中は根気よく教え続けた。少しずつ心も身体も成長していくトカチミモザは、彼らの言葉の意味が徐々に分かるようになり、また受け入れられる時が増えてきた。

 ずっと1着になれないかも、という不安が湧き上がる時もある。だが田中とコンビを組んだことで強くなったと、きっとこれからも強くなれるとトカチミモザは信じ、不安を打ち消す。

 次こそ勝つ、という思いと共にトカチミモザは身体を起こした。


 *


 8月初めの帯広は、内地の人の想像より遥かに暑い。

 トカチミモザが出走する第7競走のパドックは夕方の5時過ぎ頃に行われるが、今の気温はほぼ30度だ。パドックを歩く牡馬の1番ニセコメルローは、暑さから黒い耳と尻尾がぐったりとしていた。出走馬9頭のうち4頭は馬体重を落とし、牡馬の6番スズマルは12キロも減っている。一方食欲の落ちないトカチミモザは体重を2キロ増やした。

 この世界において“馬に乗る”という概念はない。故に騎手という職業が日本の公営競技にあるのは、ここ帯広競馬場だけだ。

 パドックは歩く馬の横に厩務員もしくは騎手が付き添う。馬は賢い生き物だが、単独でパドックを歩かせることは出来ない。知恵があるからこそ脱走を試みるものすらいるため、ぎょす者が必要だった。

 飽きて歩こうとしない馬、跳ねて暴れる馬など個性豊かなパドックの中で、トカチミモザは大人しい部類に入る。以前は成績が振るわないことから表情はやや暗めだったが、今やニコニコする時が多い。パドック解説でも言及されるようになり、撮影を趣味とするファンからも可愛いと言われるようになった。1着を獲れずやぐされたい日もあるが、強くなったという実感がトカチミモザの中に生まれた。だからこそ前を見つめることが、己を肯定することが、不安を忘れようとすることが出来た。

 一周を終えたところで、手綱が厩務員の杉本から騎手の田中に代わる。トカチミモザの表情がぐっと引き締まった。今日の馬場水分は0.9パーセントと重い。どういう戦法で行くか分からず、聞いてもきちんと理解出来る気がしないが、田中の指示に従って走ればいいと信じている。

 今日は勝つ、とトカチミモザは唇を強く結んだ。


 ナイター用の照明が走路を照らす。コース横ではファンファーレに合わせ、十勝の春夏秋冬を模したイルミネーションが鮮やかに光っていた。

「合図がかかって、スタートしました」

 アナウンサーの声が競馬場に響く。馬具とソリを繋ぐ金属の胴引きからしゃんしゃんと鈴に似た音を鳴らしながら、ばん馬達はゲートから飛び出した。

 牡馬の3番サホロユウヅルが先行し、6番スズマルがほぼ差なく追いかける。彼らが第1障害を下りたところで、5番の牡馬イエローシャーク、牝馬の4番キタノオトメ、2番のトカチミモザがちょうど下り始めた。その後ろを7番ハナノラフロイグ、牝馬の8番ネッビオーロと9番ソラチナツヒメ、牡馬の1番ニセコメルローと続く。

 7番のハナノラフロイグが重たげに第1障害を下りる頃、先行する3番サホロユウヅルは第1障害から10メートルほど進んでいた。歩いては止まり、息を入れては歩く――ばん馬達はそれらを繰り返す。トカチミモザは刻みながら、サホロユウヅルと並ぶ位置に来た。少し離れた位置に4番キタノオトメ、5番イエローシャーク、6番のスズマルが続いた。

 彼らが歩く度に巻き上がる砂煙は、追い風と共に流れてゆく。

 前に行きたい、今日こそ勝ちたいとトカチミモザの心は逸る。しかし手綱から伝わる田中の指示に従い、もう少し歩きたくともぐっと堪えた。無視し刻まないことも過去にあったが、その時はレースの後半の辛さはいつも以上だった。田中の言う通りにした方が楽だと学んだトカチミモザは、反抗心を徐々に持たなくなった。

 先行する彼らが1・2障害の中間点を過ぎる頃、刻むたびに先頭が入れ替わった。

 ここゴール!と観客の誰かが叫んだ。このタイミングで着順が決定すると2番・6番・3番の順になるが、本当のゴールまではまだ遠い。

 何度も刻みながらトカチミモザが第2障害に辿り着いた時、内枠の3番から6番までが揃っていた。

「前半68秒、3番のサホロユウヅルが仕掛けます」

 その実況が響いたのはトカチミモザが息を入れた時だった。続いて4番のキタノオトメが黒味がかった茶色の髪を揺らし、足を踏み出す。頂上で僅かに手間取るサホロユウヅルを尻目に、するりと上ったキタノオトメが下りる姿勢に入る。

 まだ上らないの、とトカチミモザが焦りを覚えた時、行けという叫びと共に手綱で合図が出た。湧き出た焦りを力に変え、トカチミモザは足を踏み出す。

 登坂で前傾姿勢になるばん馬が膝を地につける直前に手綱を引き、身体を起こさせる――このタイミングの見極めが騎手の技量となる。田中は決して天才ではないが、騎手として十数年もの間、ばん馬と共に坂を越えてきた。どこでどうすべきか、経験の蓄積がある。何より相棒が障害力に優れるからと、あぐらをかく人ではなかった。

 トカチミモザを助けるように、姿勢が崩れる前に田中が手綱で合図をする。後ろから騎手に支えられる安心と共に、トカチミモザはまた一歩を踏み出した。田中は手綱を手首に巻き引っ張る“しゃくり”やソリの上で身体を多彩に動かし、トカチミモザを歩かせる。

 4番キタノオトメが下り切った時、トカチミモザは下りる姿勢へ変えたところだった。5番イエローシャークと差なく坂の下へ来た時、先頭のキタノオトメは10メートルほど先にいる。

 ――がんばれば間にあうし、追いぬける!

 ミモザ柄のリボンで束ねたポニーテールを揺らしながら、トカチミモザはキャンターでばんえい重量590キロのソリを曳く。砂に埋まる足を引き抜き、前へ出す。愚直にそれを繰り返した。

 スズマルが五番手でようやく下りた時、先頭のキタノオトメはゴールまで残り40メートルの位置だ。その後ろを3番サホロユウヅルが2馬身差で追いかけ、トカチミモザとイエローシャークが続いた。後続のスズマルとは差があるものの、気は抜けない。良い足で上がってきているからだ。一方7番ハナノラフロイグ、9番のソラチナツヒメ、8番のネッビオーロはようやく坂を下りたが、強烈な末脚がなければ届かない位置に居る。彼らは掲示板に入れない可能性が高かった。

 追い風に乗る砂煙がトカチミモザたち一団を包む。

 残り30メートルでキタノオトメが尻尾を振りながら、リードを3馬身に広げた。スズマルの足が鈍り遂に立ち止まるが、先行する4頭に止まる気配はない。

「二番手は3番のサホロユウヅル、じわっと5番イエローシャーク、内は2番トカチミモザ、この3頭が並んで残り20!」

 先頭をひた走るキタノオトメの足取りが鈍ったのは、残り15メートルに差し掛かった辺りだった。今までの軽快さは鳴りを潜め、息は荒い。一方トカチミモザも込み上げる苦しさを堪え歩いていたが、遂に脚が動かなくなった。意地で前に出そうとするが、努力も虚しく立ちすくんだ。即座に田中が後ろへ手綱を引き、反動で歩かせる“バイキ”が上手くいき、再び歩き始めた。しかし左隣を走るサホロユウヅルとイエローシャークは、トカチミモザが詰まる間に差を付けている。たった数メートルの距離が余りに遠く感じた。

「ミモザ焦んな! 自分のペースで歩きゃ勝てる!」

 主戦騎手の叱咤激励は、今のトカチミモザにとって折れそうな草木を支える添え木のように、心力強いものだった。つい先程詰まったとは思えぬ力強さの足取りで、田中のいと共に先行馬との差を縮めてゆく。

 サホロユウヅルが残り10メートルに到達した時だった。イエローシャークが疲労に耐えきれず、大きな息を吐きながら立ち止まった。3度のバイキを経て再び歩き始めるが、怒涛の末脚で上がってきた9番のソラチナツヒメに、あっという間に追い抜かされた。

「うーんキタノオトメ詰まった!」

 実況が無情に響く。

 同時に二番手のサホロユウヅルも、重馬場に苦しめられ遂に詰まる。追走するトカチミモザの心臓もばくばくと大きく跳ね、ここで止まりたいと、心の隙間に甘い囁きが吹き込んだ。

「あとちょっと我慢すれ! したら勝てる!」

 幾度の騎乗を通じ、ゴール前が甘くなる時があると田中は知っている。その気配を感じ取り、いながら檄を入れた。今の足なら詰まるキタノオトメを差せる確信があった。

「今日こそ勝つべ!」

 トカチミモザは大きく息を吐き、ぐっと胸を張った。

 ――そうだ、わたしはここで勝つんだ、田中さんと勝つんだ!

「ぜったいに、勝つんだぁぁああああ!」

 力強い歩みにより、590キロのソリが砂上を滑る。トカチミモザのソリがキタノオトメのソリの後端より前に出た時、キタノオトメは辛うじて歩き始めた。一方で後方から9番ソラチナツヒメが怒涛の勢いで追いかける。

 ソラチナツヒメの末脚が勝つか。

 それともトカチミモザの意地か。

 キタノオトメが抜き返すのか。

 絶対に勝つ、田中さんは間ちがってないって私が教えるの――脇目も振らずトカチミモザは足を踏み出した。

 馬と騎手が一つになった意地と意思が、ゴール間際で激しくぶつかり合う。

「トカチモミザ1着! キタノオトメ2着!」

 詰まった状態から再び歩き出すロスが響き、キタノオトメはソリ半分の差で勝利を逃した。

「そして9番ソラチナツヒメ、5番イエローシャーク!」

 トカチミモザが入線後数メートルを歩いたところで、田中が止まれと手綱を引いた。余りの疲労にトカチミモザは項垂れるが、決して座り込もうとはしなかった。実況が耳に入らぬほどレースに集中したため、勝ったかは分からない。しかし全力を出した、諦めなかったと胸を張って言える。

「ミモ!」

 厩務員の杉本が駆け寄る。耳をぴんとそちらに向けてから、顔をゆっくりと向けた。

 汗まみれの愛馬に抱き付いた杉本は、背伸びをして頭をぐしゃぐしゃと撫でる。綺麗に飾られたトカチミモザの髪が乱れたが、それに気付かぬほどに喜びを爆発させた。

「頑張った、ミモ頑張ったね! 1着だよ、ミモが一番だよ!」

 大きな目を丸くし、トカチミモザはきょとんとした表情で杉本を見た。言葉がじわじわと身体に沁み込み、意味を理解した瞬間、目の周りが熱くなった。大きな目に張られた水の膜はみるみる厚みを増し、涙として次々と溢れていく。トカチミモザはしとどに濡れた頬を拭いもせず、杉本をぎゅっと抱き締め返した。

 二人のやり取りを横目で見つつ、ソリを降りた田中は誰も気付かぬ小さなガッツポーズをすると、ソリから弁当箱を取り出した。一頭と一人がコンビを組んでから勝利までの時間は、思ったより長いような、あっという間のような、複雑な感覚だった。右手の弁当箱を左手に持ち替えると、相棒と厩務員の肩をぽんぽんと叩く。お疲れと言い白い歯を見せて笑うと、検量室へ歩いて行った。

 強く風が吹き、トカチミモザの溢した涙が宙に舞う。

 馬具を杉本に外されながら、トカチミモザは主戦騎手の後ろ姿をずっと見つめていた。

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