第1競走 悔し涙、嬉し涙(中編)

 トカチミモザを迎えにきた杉本は、馬房のドアをノックした。特に返事はないが、入るよと一声を掛けドアを開ける。

 奥行き3.6、幅3メートルほどの馬房の真ん中に寝転がるトカチミモザは、絵本を読んでいた。手袋の中に動物が住むこの絵本は、お気に入りの一冊だ。

 この世界の馬は、2歳頃には平仮名が読めるようになり、5歳になれば小学2年生程度の漢字が読めるようになる。しかし3歳のトカチミモザは漢字を多少覚えたばかりだ。読めない漢字に遭遇すると厩務員に聞くか、読み仮名を想像するかのどちらかだった。

 塩田厩舎にはマンガや本、雑誌が詰まった本棚が一つ設置されている。ばん馬のみならず、厩務員や騎手が自由に読めるが、これは塩田調教師の妻が始めたことだ。

「ミモ、田中さん来たから行くよ」

「田中さん!」

 ぴょんと起き上がったミモザは、絵本を置き馬房の入り口へ走ると、杉本の前で止まった。ドア横の壁にかけてある、子供用ハーネスに似た馬具を装着するためだ。

 人に似た姿をしているとはいえ、ばん馬と人間は性質が異なる。人間が少し驚くような些細なことでも、この世界の馬にとっては暴れるほどの驚きになる。それほどに馬とは繊細で臆病な生き物だ。暴れた馬が振り回す腕や脚の強さは想像を絶する破壊力となり、当たった人間が骨折ならまだしも、死ぬこともある。故に事故防止のため、馬が自由に一人で出歩くことは基本的に許されない。一部の愛護団体が馬の人権を守れとハーネス使用の反対運動を起こしているが、馬に適用されるのは基本的人権ではなく動物愛護法だ。法的人格を取った馬は過去にいるが、世界を見渡しても稀有である。

 馬具を身に付け、ぴょんぴょんと跳ねるように歩くトカチミモザは、厩舎を出たところで田中の姿を見つけた。ジーンズのポケットに手を入れて立つ彼は、グレーのポロシャツ姿に変わり髪も少し整えている。小綺麗にしたのは“ふつうのおじさん”とトカチミモザに言われたことが思ったより堪えたからだ。

 そんなことをつゆ知らず、尻尾をぶんっと振ったトカチミモザは田中へ駆け寄った。半ば引きずられるように来た杉本は手綱を田中に渡すと、一人と一頭の会話が聞こえない位置まで離れる。聞いても支障はないだろうが、騎手と競走馬が絆を築く邪魔をしたくはなかった。

「田中さんがわたしのしゅせんきしゅになるって本当?」

「うん、本当だ。それでオレは話をしに来たっちゅうわけよ」

 田中は近くの錆びたソリに腰を下ろし、横をぽんぽんと叩く。

「おっちゃんこしな」

 座るよう促されたトカチミモザは、耳をぴんとさせて腰を下ろすと足を揃え、膝の上に手を置いた。杉本に口酸っぱく言われた教えだ。

「杉ちゃんから聞いたかな。騎手が変わるのはミモザが嫌いとか、一緒に走りたくないとか、そういうんじゃねえんだわ。騎手はみんな馬を大事に思ってる」

 語る杉本の目は、まっすぐにトカチミモザを捉える。腹の前で軽く組まれた彼の指は、手綱をぎゅっと握っていた。

「分かるか?」

「うん」

 昨日のトカチミモザならば素直に聞かなかっただろう。しかし主戦騎手になると杉本から、そして田中から聞かされたことで、心の奥にある澱のようなものが静かに消えていく。小さく芽生えていた信頼は、日差しを浴びた葉のようにすくすくと育ち始めた。今ならば“騎手はみんな馬を大事に思ってる”という言葉を信じることが出来る。

「なんでわたしのしゅせんきしゅになるの? ほかにのる馬がいないの?」

 予想の斜め上の返事に、田中は思わず吹き出した。小さく笑うと、いやーミモザは面白れぇなと呟いた。他に乗る馬がいない、という発想は流石になかった。ばん馬との会話はいつも発見があるからこそ、田中はこうして短くとも相棒と話すことを好む。

 こいつに頼りにされなきゃな、と田中は改めて思う。競走馬としても、一頭の馬としても未熟だからこそ、トカチミモザの長所を丁寧に引き出すことを騎手としての義務と考えている。

「他に乗る馬はいるけど、オレはミモザとも走りてぇんだわ。……なぁミモザ、オレとの最初のレース覚えてるか?」

「おぼえてる!」

「オレを初めて見た時のミモザは、また新しい人かってウンザリしてたな。レースの展開も速えし、第2障害を下りた時は追いつかねえって諦めたべ?」

「……がんばってもムリだって思っちゃった」

 トカチミモザは両耳を小刻みに動かし、ぱたりと後ろへ倒した。

「この前のレース、最初はオレの指示を聞こうとしなかったべや。でも最後は頑張ったし、ゴールしたら悔しいって泣いたろ?」

 田中はトカチミモザの騎乗依頼が来た時に、過去のレース映像を見た。その上で1戦目を終えた時、主戦騎手がいないことでメンタルが安定しないタイプだと仮定した。案の定、2戦目の時は少しホッとした顔をした時もあり、また展開の絡みもあったがヤル気も見せた。障害は上手く、後はスタミナと走りを鍛えれば強くなる可能性がある――そう田中は考えた。

 黙って田中を見るトカチミモザの耳は、相変わらず後ろを向いていた。最後は頑張ったから褒められるのか、それとも一度も勝てていないと言われるのか。続きを聞きたいような、聞きたくないような、複雑な感情が胸の中で渦巻いた。

 馬の耳は感情を雄弁に語る。何を考えているかを田中は手に取るように分かるが、かといって黙る気はなかった。

「オレたち騎手はどんな馬も勝たせたいし、勝つチャンスが来たら掴むのが仕事だ。オレはお前を勝たせたいって思ったし、お前なら勝てる日が絶対に来る」

 爽やかな風が吹き、トカチミモザの長く柔らかい髪と、田中の硬めで短い髪が揺れた。一頭と一人に降り注ぐ陽射しは暖かい。

 いつか勝てると、トカチミモザは様々な人に言われてきた。だが勝たせたい、勝てる日が絶対に来る、と言われたのは初めてであり、トカチミモザがずっと欲した言葉だった。無彩色の世界がぱっと華やぐように、叫び出したいような喜びが身体の奥から湧き上がる。

「……ほんとう?」

 一方で田中の言葉を素直に信じられなかった。もしずっと勝てなかったら、いつか田中も去ったら――きっと二度と立ち上がれない。故に手放しで信じることは出来なかった。

「本当だ」

 真剣な眼差しだが、目尻の皺は柔らかな曲線を描いていた。

「田中さん、いなくならない?」

「ミモザにいらないって言われるまで、一緒に走るべ」

 田中は笑顔で手を差し出した。トカチミモザは新しい主戦騎手の顔と手を交互に見ると、恐る恐る手を出す。白く大きな手を、田中の手のひらがぐっと包む。トカチミモザより小さな手は皮膚が僅かに厚く、ざらりと乾いていた。そんな手で力強く、また暖かく相棒の大きな手を握り締める。

 杉本は遠くからその様子を見ていた。

 田中の言葉が頭の中でこだまする。

 トカチミモザの成績が今から上がるなら、12月の3歳牝馬重賞ばんえいオークスが無理でも、1月の特別競走ばんえいプリンセス賞が視野に入る。4歳牝馬重賞のクインカップだって夢じゃない。重賞を走らせたいしその力もある、だから任せてくれと調教師を通じてオーナーに直談判した――この話を杉本が知ったのは今朝だ。トカチミモザのレースに対するモチベーションが低いことは分かっていたが、引き上げることは難しいと田中と話すまで諦めていた。

 だが田中は諦めるどころか、高みを目指す。

 過去に騎乗した騎手がトカチミモザをぞんざいに扱ったわけではなく、むしろ懸命に騎乗してくれた。しかしここまで大事に思ってくれる騎手に出会えることを、杉本自身が信じていなかった。故に田中の存在は希望であり、己の不甲斐なさを突きつける現実でもあった。私は調教師じゃないから、馬主じゃないから何も言えない――言い訳をし、思考停止していたのではないか。そう思い返せば己の甘さがとことん嫌になる。

 杉本にとって、担当するばん馬は弟や妹のような存在だ。寿命が25年ほどと短い彼らとの別れはすぐに来るが、退厩の日まで心からめんこいと思う彼らを大事に世話をし、共に過ごしてきた。

 穏やかな陽射しの中で、一頭と一人が並んで座っている。

 その姿を見る杉本の目は、僅かに潤んでいた。


 *


 発走委員が手にする赤い旗が青空にたなびく。

 オッズを読み上げるアナウンサーの声が場内に響いた。

「3歳馬戦C2クラスの1戦です。出走馬10頭、全馬ゲートに収まっています」

 杉本に馬具のチェックをされるトカチミモザは、逸る心をじっと抑えるように目を閉じた。今日は田中との3戦目だ。勝てるかな、勝てるよれん習がんばったもん――胸に置いた右手をそっと下ろし、強く握り締めた。ぴたりと上半身に沿うユニフォームは鮮やかなオレンジ色に染まっている。袖の二の腕の辺りには、大きな黒で8と書かれていた。今日は7枠8番で出走する。

 一方の田中は黄色のソリに座り、隣の騎手と軽く話をしながら腹の探り合いをしていた。

 厩務員たちがばん馬を励ますと離れ、ゲートの横へはけていく。

 田中は前を向くと、厩務員の動きとトカチミモザの様子に神経を尖らせた。スターターの癖に合わせ、最良のタイミングで馬をゲートから出すのは騎手の義務と考えている。ここで楽だと思うのは、トカチミモザがゲートの中で大人しいことだ。あちこちを忙しなく眺めたり、足で地面を蹴る“前かき”を繰り返すばん馬もいる。

 前ー出ろーとスターターの声が響き、ゲートが開いた。

「合図がかかってスタートしました」

 10頭が一斉に走り出す。トカチミモザに出遅れはなかった。後頭部で纏めた髪を彩る、ミモザの髪飾りが華やかに揺れる。

「内から2番ネッビオーロ、それから1番ブランアポアルジュが上がってきました。第1障害、各馬上って下っていきます」

 8番のトカチミモザは前から4番手あたりにつけていた。横の牡馬9番キタミサファイアは大きく遅れ、牡馬の10 番アカネダイナゴンも後方だ。

 下りた直後は勢いがあるため軽快な足運びだが、数メートル進んだところで各馬の速度が落ちる。しかし田中は焦っていなかった。今日の馬場水分は1.2%で、軽すぎも重すぎもしない。先行策を取りがちな1番ブランアポアルジュがいるが、焦らずに行けばゴール付近で捉えられる――そう計算をしていた。

「前は殆ど一団、外8番のトカチミモザが上がってきました」

 ここから各馬の位置関係は変わらぬまま、第2障害へ近付いていく。この間に騎手達は細かな駆け引きを繰り広げるが、走るばん馬や観客はそれを分からなかった。

「一番後ろ9番キタミサファイアが上がってきましたが、刻みます」

 ほとんど差がない状態で、各馬は第2障害前に来た。

「前半51秒で来ています」

 前走でトカチミモザと共に走った牡馬4番ニシキゴデンが最初に仕掛け、天板に来た時点でトカチミモザはまだ坂の下で溜めていた。その時間は4秒ほどだが、トカチミモザにとって長い時間だった。ニシキゴデンの青いユニフォームが遠ざかってゆく。

 いつもならば早く行きたいと前かきをし、強引に行こうとすることもある。しかし田中と障害下で我慢強く待つ練習を何度も繰り返してきた。最初の頃は苛立ちばかりだったが、今のトカチミモザは苛立ちを少しは抑えられるようになっていた。

「行け!」

 田中が叫ぶと同時に手綱で合図を出した。トカチミモザは溜めた闘志を爆発させるように上っていく。すんなりと天板へたどり着いた時、2番手で上っていた牝馬の1番ブランアポアルジュが下り始め、牡馬の4番ニシキゴデンと牡馬の6番イエローシャーク、牝馬の2番ネッビオーロが続いて下り始めた。

 ほぼ一腰でトカチミモザが下り始めたとき、先頭の1番ブランアポアルジュとは6馬身ほどの差がある。

 ――これで間にあうのかな

 田中のことを信頼しているが、ここから追い付けると思えなかった。やっぱり好きに走ろうかな、でも田中さんの言うとおりにしなきゃ――焦りがトカチミモザの中に広がってゆく。

 ユニフォームが白い1番、黒い2番、青い4番、緑の6番の姿がトカチミモザの前にある。しかし下りた勢いを利用したキャンターで、前にいた6番イエローシャークとの差をみるみる詰めた。普段ならば歩みが徐々に遅くなる頃だが、今日はペースが崩れない。

 ――坂のまえでイライラしなかったから、いつもより走りやすい!

 ゴール前40メートル地点から30メートル続く高さ0.5メートルの砂障害が、6番イエローシャークと4番ニシキゴデンの歩みを徐々に鈍らせる。ゴールまで残り20メートルほどのところで、トカチミモザは遂に追い抜いた。ちらりと横を見ると、先に下りていた1番ブランアポアルジュと2番ネッビオーロは脚色が鈍らない。トカチミモザが差を詰められぬ間に、6番イエローシャークも負けじと追い上げ、ほぼ横に並んだ。

 抜き去ったはずのばん馬に追いつかれたことで、トカチミモザは途端に弱気になる。歩みも鈍くなり始めた、その時だった。

「ミモザ、諦めんの早ぇえぞ!」

 聞こえる田中の叱咤に、トカチミモザは耳を澄ませるように後ろへ向けた。

「まだ走れるべ! 自分に負けんな!」

 手綱で、声で田中はトカチミモザをう。ぴっと耳を前へ向けたトカチミモザは、固く唇を結び、まっすぐに前を見据えた。

 ――そうだ、田中さんとれん習がんばった!

 踏み出す一歩に力が宿る。

 トカチミモザが再び追い上げ始めたところで、2番ネッビオーロがペースを落としてゆく。今や先頭で勝利を競うのは1番ブランアポアルジュ、6番イエローシャーク、8番トカチミモザに絞られた。

 観客の歓声、コース脇にいる厩務員の声が競馬場に響く。

「1番ブランアポアルジュが先頭、残り2、3メーターやや緩んで、粘れるかどうか」

 この熱戦を観る者の大多数が、ブランアポアルジュが勝つだろうと予想した。しかしゴールまであと数歩というところで、止まりそうなほどに歩みが遅くなる。前へ進もうと力を入れる度に、彼女の編み込まれた金髪を飾る、白地に赤水玉のリボンが揺れた。詰まるかどうか、観客は固唾を呑んで見守る。

 その様子に気付かないトカチミモザは、負けたくないと歩き続ける。隣を走る6番イエローシャークも、ぜぇぜぇと大きく息をしつつも勝利を諦めていなかった。

 ――1着じゃなくても、隣に負けたくない!

 相棒の思いに呼応するように、田中は声を使いった。勝てる、お前なら勝てる、もうちょっとだ歩け――彼女が勝つには、ブランアポアルジュが詰まりそうなチャンスを逃す訳にはいかない。勝たせたいと、田中は必死でった。

「1番なんとか、なんとか粘りきった!」

 最初にゴールラインを通過した黄色いソリの後端は、詰まらなかった1番ブランアポアルジュのものだった。

「そして2着争いは!?」

 8番トカチミモザと6番イエローシャークのソリはほぼ横に並んでいる。ゴールまで1メートルもない勝負は、今のところイーブンだ。この先を決めるのは精神力となる。

「負けたくない!」

 歯を食いしばり、トカチミモザは必死に脚を前に出した。砂に沈む足を引き抜く時、筋肉が怠いと訴える。身体に食い込む馬具が重い。そうして溜まった疲れは倦怠感となり、気力を徐々に削ってゆく。

「田中さんは、まちがってないって、わたしが、

教える、のぉー!」

 自分に負けたくないと、田中が正しいと言うことが、そして後ろから鼓舞する田中の声が、今のトカチミモザを支えている。

「負けない!」

 この一歩が隣より早いかをトカチミモザは分からない。それでも今すべきは、止まらずに歩くことだ。無我夢中で前に進んだ。

 ソリの上に載る重り1個分という僅差で、粘り勝ったのはトカチミモザだ。田中はゴールラインから少し離れたところに来てから、止まるよう合図をした。そのタイミングを見計らい、右前方から厩務員の杉本が走ってくる。

「おねぇちゃん、がんばったよ! わたしがんばった!」

「うん頑張った! 頑張ったねミモ!」

 トカチミモザからみれば小さな身体の杉本がぎゅっと抱きしめ、伝わる温かさが疲労困憊の身体に染み渡る。えらかったと言われながら胴引きやかじ棒を外される中で、トカチミモザははっとした。無我夢中で走ったが故に、己が何着か分からない。

「わたし3着だった?」

「何言ってんのミモ、2着だよ!」

 そのやり取りを聞いていた田中は、手綱をハナ木というソリのカーブを描く部分に巻いて固定し、降りると馬とソリを繋ぐ胴引きをソリから外した。そしてソリの上にある、前から2つ目の箱に収納されている“弁当箱”を右手で取り出す。トカチミモザの左横に来たところで弁当箱を左手に持ち替え、相棒の左腕をぽんぽんと叩いた。

「頑張った、いい走りだ」

 かじ棒と馬具を繋ぐロープをさっと解く田中の太ももに、トカチミモザが大きく振った尻尾が当たった。

「痛てぇよミモザ」

 明るい笑顔を見せ、ぽんと二の腕を叩くと田中は検量へ向かった。その背をトカチミモザも笑って見送る。

 ――1着じゃなかったけど、2着になれた、きっとつぎは勝てる!

 肩で大きく息をするトカチミモザの胸は、希望で満ちていた。

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