STOP AND GO

ihana

第1競走 悔し涙、嬉し涙(前編)

 北海道帯広市、帯広競馬場。直線200メートルの砂地は、特殊なロープにより10のコースに区切られていた。

 砂を撒き上げながら、2メートルを超える背丈の少年少女が走る。耳は頭頂部にあり、臀部に尻尾が生える彼らは“ばん馬”と呼ばれる。人間に似た形をし、人語を理解する馬たちは、長い歴史を人間と共に歩んできた。

「9頭が第1障害に向かいます」

 実況アナウンサーの声が場内に響いた。観客はコース脇や中継を通じて固唾を飲む。馬券を握りしめる者、好きな馬に声援を送る者、我が子を見守る馬主――数多の思いが入り混じる中、砂上のばん馬に注目が集まる。

「5番キタミサファイア、内2番ホクトイシュタルが先行して1障害を下りています。3番手以下続々と、6番トカチミモザを最後にクリアしました」

 大きく上がるトカチミモザの右足は、着地すると砂へ深々と埋まった。左足を引き上げ、前へ蹴り出す。彼女が曳くソリの重さは550キロだが、先頭を走る牡馬キタミサファイアのソリは570キロだ。わたしより重くてもかんたんに歩けちゃうんだ――悔しさが、トカチミモザの胸底からぶわっと湧き上がった。どうせ今日も勝てないもん、と唇を噛み締めた時、最も近いばん馬とは2メートルほど離れていた。

「ミモザ、今は考えるな、歩け!」

 ソリの上に立つ田中渉騎手の声が、トカチミモザの意識を現実へ引き戻した。

「まずは第2障害を目指すぞ」

 田中とのコンビは2戦目だ。その前は2、3戦毎に騎手が代わり、最長が5戦だった。この人もいなくなると思えば、トカチミモザは素直に耳を貸す気になれなかった。自力で勝てる訳でもなく、騎手の言うことも聞きたくない。自ら袋小路に迷い込んでいた。

 半ばやけくそでトカチミモザが足を進める間、田中は手綱を使い止まるよう合図する。無視して歩こうとしたが、田中が全力を使って手綱を引き、止まる合図を出す。トカチミモザは渋々諦めて足を止めた。

 騎手がスタートから第2障害前の間に、馬を止めることを“刻む”と言う。これは高さ1.6メートルの第2障害をばん馬がクリアし、ゴールまで止まらず歩けるよう体力の配分を行うためだ。また騎手同士の、坂を上るタイミングという駆け引きの材料でもある。騎手は刻みを、馬の性格や他馬との位置関係を計算しながら効果的に使う。

 田中は天才ではない。リーディングジョッキーになったことは一度もなく、そこそこの成績の中堅だ。だが面倒見の良さと明るい性格から、様々な人馬に信頼されている。

「全馬1、2障害の中間を過ぎています」

 実況の声が響いた時、トカチミモザは前から5番手まで上がっていた。田中の指示がなければ気ままに進み、第2障害に着いた時には体力を大きく消耗していただろう。しかしトカチミモザに戦略を立てる能力はない。

 一方、先行するキタミサファイアは既に第2障害の手前にたどり着き、他馬が着いた時には上り始めていた。

「さあ2番手、各馬のチャレンジが始まって、じわじわっと上がっていきます」

 トカチミモザは上がり始めた息を整えるために、大きな呼吸を繰り返した。これは調教師の塩田や、過去に騎乗した騎手たちからの教えだ。勝ちたいからこそ教えを守っているが、未だ彼女の願いに繋がらない。

 ――はやくのぼらないと、はやくしないと負けちゃう。

 3番のホッカイシノノメが上り始めた。トカチミモザは逸る気持ちと共に前へ行こうとしたが、まだ行くなという声と共に、田中にぐいっと止められる。隣の7番ハナノラフロイグは登坂を始めるところだ。トカチミモザは革のブーツが膝下まで覆う左脚で、苛立ちを砂蹴りに変えた。

 ――まだ? まだ行かないの? このままじゃ、またげっぱになっちゃう!

 再び砂を蹴ったところで、田中から上れと合図が出た。力一杯手綱を引き、後退させる“バイキ”だ。この反動を使い、ばん馬の牽引力を爆発させ登坂する。一人と一頭の気合いを入れる声と共に大きく踏み出すと、馬具とソリを繋ぐ金属である胴引きから、がしゃんと音が立った。彼女を包む工事現場のフルハーネス安全帯に似た馬具が、ソリと騎手の重みで後方へ引っ張られる。だが身長201センチの筋肉質の体躯は、抗うように前進した。

 高さ1.6メートルの小さな山である第2障害を、ソリを曳いて上るにはコツが要る。バランスを崩した9番の牡馬ヒダカオーディンは、膝をつくとすぐに体勢を立て直そうとした。しかし脚は砂に取られ、また570キロのソリが枷となる。中々立ち上がれずにパニックを起こした相棒を、騎手が手綱と声を使い落ち着かせようとしていた。一方、トカチミモザは障害が上手い方だ。ぐいぐいっと腰を入れ、ソリを引っ張り上げる動きを繰り返した。身体を先に山を越えさせると、勢いを使いソリも障害を越えさせる。

 四番手で下りたトカチミモザは下り坂の勢いを利用し、キャンターという駆け足で先行馬たちを追いかける。10メートルほど走ったところでスピードが落ち、並足になった。

 ゴールまで残り30mの時点で、先頭のキタミサファイアと2番手のホクトイシュタルは4馬身の差がある。その少し後ろを3番ホッカイシノノメ、6番トカチミモザ、7番ハナノラフロイグ、4番ニシキゴデンの順で追いかけた。

 乾いた馬場の上を砂煙が舞う。今日の馬場水分は0.9%だ。砂に含まれる水分量が多いと、ソリが滑りやすくなり“軽い”となるが、この数日は晴れが続き、第2競走の時点では馬場が乾く“重い”状態だった。

 前を走る馬を抜かなければ、馬券に絡む3着になれない。トカチミモザは言葉にならない声を上げつつ懸命に歩くが、後続のハナノラフロイグ達も一つでも上の順位を目指し追いかけた。

 行け、頑張れと、コース横で共に歩く観衆の声が競馬場に響く。ミモザ頑張れ、という声が田中とトカチミモザの耳に届いた。一度も勝ったことのない馬を応援してくれる人がいる――田中は手綱で必死に走る相棒を励ます。

 残り20メートルのところで、3着を競う4頭がほぼ一線となった。騎手たちは馬がどこで足を止めそうかを瞬時に判断し、バイキを絶妙のタイミングで入れる。一旦停止した状態から歩き出すと、必要以上に体力を消費してしまう。そうならぬよう騎手はばん馬の足が止まる前に少し後ろへ下げ、推進力に変える。

 どの馬と騎手も、一つでも上の順位になるため必死に走った。追い抜き、抜かされを何度も繰り返す。

 今やトカチミモザの足は重く、心臓が早鐘のように打つ。走りたくない、負けたくない、もういやだ、負けたくない――諦めと意地が目まぐるしく心の中で入れ替わる。

「ミモザ、踏ん張りどころだぞ!」

「うぉあああああああ!」

 田中の叱咤に咆哮で応えた。踏み込んだ足が砂に沈む。砂もソリもトカチミモザの前進を阻む。それらを全て引きちぎるように、また一歩前進した。

 短かくも長い20メートルが終わる時、4頭が一線なことは変わらない。ここで彼らに差を付けるのは才能と運だ。

「3番粘ってクビくらいのリード、7番のハナノラフロイグがじわっと、じわっと差を詰めますが6番トカチミモザが上がってくる」

 最初にソリの後端がゴールを超えたのは、7番ハナノラフロイグだった。続く3番ホッカイシノノメ、6番トカチミモザは5着以内に入り賞金が出るが、6着の4番ニシキゴデンにはない。

 トカチミモザの前走は7着だった。それに比べ今日の5着で1万9千円の賞金を獲得したことは、厩舎も馬主も喜ぶだろう。しかし肩で大きく息をしながら、厩務員と騎手に馬具を外されるトカチミモザの表情は硬い。

「頑張ったな」

 “弁当箱”と呼ばれる、騎手を75キロに調整するおもりを持った田中は、空いた右手で相棒を労った。

「がんばったけど、きょうも、勝てなかった」

 唇を噛み締めるトカチミモザの目に張られた水の膜は、重力に負けて涙となる。一つ溢れれば、あとはなし崩しに流れた。

「悔しいって思ったなら、もっと強くなれるさ」

 泣く相棒の左腕をぽんぽんと叩いた騎手は、後検量へ向かう。わたしはなんで強くなれないんだろう――相棒の背中を見るトカチミモザの栗色の髪と尻尾は、吹いた風に揺られた。



 星の散る空の縁が徐々に白む頃、帯広競馬場の練習走路をソリを曳いたばん馬が歩く。朝調教と呼ばれる日課は、ずり曳きという軽いソリを1時間ほど曳かせ心肺機能を高める運動と、レースへの最終調整として騎手が本番に近いトレーニングを行う攻め馬の2種がある。

 青色のジャージに身を包んだトカチミモザにソリが装着された時、空は紺から橙色のグラデーションを描いていた。

 寝起きのトカチミモザは眠いとふてくされているが、担当厩務員の杉本美結がズリ曳きの調教を付けるのは、これで3頭目になる。

 12度ほどの気温は本州の者からすれば寒く思えるが、厩舎村で暮らす者にとっては、数か月前の極寒に比べ十分温かい。

 3歳のばん馬であるトカチミモザは、人間の17歳に相当する。しかしばん馬という種族は、成熟後も小学校高学年程度の知能にしかならない。今のトカチミモザの知能は小学校低学年程度だ。杉本はばん馬の幼さに苛立つ瞬間があるが、自ら選んだ仕事であり、またばん馬という種への愛情から平静を保つ術を得ていた。杉本の調教を待つ馬はまだおり、トカチミモザのわがままを聞く時間はない。ふうっと息を吐くと、足で地面を掘るトカチミモザの背をぽんと叩いた。

「ミモ、さっさと行くよ」

「やーだーいきたくない」

「いいから行くよ」 

 杉本はソリにひょいと乗ると、手綱でトカチミモザへ歩く合図を送った。わがままを言っても無駄だと理解したトカチミモザは、渋々歩き始めた。彼女が1分ほど歩くとやる気を出すと杉本が知るのは、担当厩務員として1年半を共に過ごしてきたからだ。案の定、駄々をこねたことを忘れたかのようにトカチミモザは上機嫌でソリを曳いている。

 朝日が姿を見せ、世界が赤く染まる中を馬たちは歩く。ソリが地面の上を滑る音、胴引きから出る金属音、人と馬の息遣い――様々な音が広大な練習走路に満ちていた。

 トカチミモザが2周のずり曳きを終え休憩スペースへ向かうと、厩務員と談笑する田中の姿があった。トカチミモザ達の姿に気付いた田中は、ポケットに入れていた右手を出して振る。

「おはようミモザ、杉ちゃん」

「田中さん、おはようございます! きしゅの服をきてないと、ふつうのおじさんなんですね」

 尻尾をぶんっと振りながら返事をするトカチミモザの言葉に、悪気は一切無い。田中は目を丸くした後、辺りに響く声で爆笑した。ぼさぼさの髪に白が大分混じり、目尻と口元には皺、服はくたびれた紺のパーカーとデニムと白い長靴だ。そこら辺の帯広市民に聞いても、普通のおじさんと答えるだろう。

「こらっミモ! すみません田中さん、うちのミモが失礼なことを」

「いいって杉ちゃん、事実だべ。オレはただのオッサンだぁ」

 田中が杉本に歩み寄ると小声で話し始めたが、トカチミモザは斜め前を凝視し気付かない。視線の先には、ニシキエンリルという牡馬がいた。群雄割拠の5歳世代でばんえい大賞典やポプラ賞で勝ち星を上げたのみならず、幼さの残る整った顔立ちとウェーブを描く金の髪の美しさからファンが多い。

 うわぁかっこいいなー話してみたいな、とトカチミモザは憧れの眼差しで見つめるが、彼が重賞勝利馬であると分かっていなかった。

「あ? 何見てんだコラ」

 ニシキエンリルは見た目に反し、気性が荒い。ひっと小さく悲鳴を上げたトカチミモザは、下を向いてごまかした。数秒後にちらっと様子を伺うと、ニシキエンリルは既にこちらを見ていない。ほっとすると、唇を尖らせながら足で地面を掘り始めた。

「ミモー、後で田中さんが話あるってー」

 ソリに乗った杉本が、手綱で歩くよう合図を出しつつトカチミモザへ話しかけた。

「お昼前に田中さんが迎えに来るから、昼寝はほどほどにね」

「田中さんが? なんで? わたしおこられるの?」

「怒んないよ。田中さんが主戦騎手になるから、その話だって」

 主戦騎手になる話はしても良いが、その先については自ら話したい――田中からそう聞かされている。ミモが強くなるきっかけになるかも、という期待を杉本は会話の中で抱いた。トカチミモザはデビューから一年を経た今、最下級のC2クラスにいる。それでも勝つチャンスは一つでも多く拾いたい、と思う愛情が杉本にある。

「しゅせんきしゅってなに? 田中さんはわたしをダメだって思ってないってこと?」

「主戦騎手ってのは、ミモにずっと乗ってくれるってこと。あのねぇミモ、何回も言ってるけど、騎手が変わるのはミモがダメとか嫌いとかじゃないの。オーナーさんの考えとか、色んなのがいーっぱいあるの。でもこれからは田中さんが主戦騎手だよ」

「田中さん! わたしのしゅせんきしゅ! ずっといっしょ!」

 ぱっと顔を輝かせたトカチミモザは、勢いよく走り始めた。ガタガタとソリが上下に大きく揺れ、杉本は振り落とされぬよう必死だ。

「こらミモ! ゆっくり走って! 止まれぇ〜っ!」

 夜は明け、世界は明るい。

 つぎのレースは勝てるかも、という希望と共にトカチミモザは練習走路を駆けた。

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