第11話 逃亡者


 追っ手は来ない。体力——つまりはフィジカル――には自信がないけど、窓際の愚人だったころからこの辺りの地形は頭に入っていた。


 それが功を奏し上手く巻いたようだ。安心を感じられると、ほっと息が出た。


「だ、旦那様……」


 モーリスの顔をふと見ると、火が浮き出ているように真っ赤な顔をしていた。


「力強く手が……ハァ……ハァ……」


 無我夢中のあまり忘れていた、私はずっとモーリスの手を握りっぱなしだった。

 もう済んだので手を放す、モーリスは茹で上がった顔を冷ますために両手の頬をくっつけた。高身長な彼女が身を小さくするとは。


「……ふふ、旦那様の温かみ、旦那様の匂い、旦那様の汗……」


 どうやら私はモーリスの変態スイッチを押してしまったらしい。それにしてもさっきの照れ状態から、一分も経たずしていつものモーリスに戻るなんて。


「何しているのですかお二人とも」


 急に聞こえた馴染みの声と共に、目の前の影からゴッホが飛び出してきた。

 本当なら安らぐはずなのに、彼女の姿を見ると言葉にできないマイナスの感情をを覚える。


「何してたんだテメェのせいで大変な目に遭ったんだからなコッチトラ‼」


 ここぞとばかりに捲し立てるモーリス。変態スイッチは消えたと思う。

 ゴッホにも今まで起きたことを要約して話した。静かに聞いているゴッホと、横から文句を飛ばすモーリス。


「なるほど、理解いたしました」


 話を終えると、ゴッホは正座する。


「昨晩はこの町で起きたことに独自で調査しておりました。それが原因で皆様に迷惑をかけたことはお詫びいたします。しかし、護兵とスピルバーグが襲い掛かってきたことは私のせいではありませんので、モーリス先輩の言っていることに整合性が合いません」


「うるせぇバーカ! ウチの恋路も邪魔しやがって」


「手を繋いで盛っていただけですよね」


 ゴッホの冷たい視線がモーリスを殺しにかかる。

 モーリスはたじろぎ、負けに反発するかのようゴッホに背を向けた。イライラしている姿勢が胡坐と腕組み、そして表情から分かる。


 私はそれよりもゴッホに聞きたいことがあった。


「独自調査って、具体的に何をしていたの?」


「町を改めて捜索して、周囲の状況に変化が無いか調査していました」


「あんな、暗い中で?」


 あの暗さはどう考えても調査に適していない。冷静沈着のゴッホがそのことを加味していないとは思えない。


 そのことを問うと、ゴッホは呆れると言わんばかりの小さなため息を吐いた。


「実際には昼中だけです。あまりにも調査が遅くなってしまったので、破れた世界で静かにしていました」


 破れた世界とは御影族が暮らしている、もう一つの世界のこと。反物質の世界になっていると聞いている。


「……それで家には帰れないの?」


「影潜りも体力は使いますから、動かない賢明な判断を下までです」


 語気を強めて反論してきたゴッホに気おされ、私は「そうだね、ごめんね」と一言だけ応えた。


 やっぱり彼女の行動は最近おかしい。天才にしてはあるまじき『整合性が取れていない』行動をしている。

 以前までのゴッホなら昼までに終えて夜中には帰ってきていたはず。彼女の考え方が変わっていないのもこれまでの同棲で分かった。


 悪い考えが頭をよぎる、今度は頭を振らなかった。


 そのとき、腕が千切れるほどの半端ない力で引っ張られた。


 張本人は森の中へ突き進む。足は前のめりの体幹に追いつこうと必死に回す。


「どうした⁉ モーリス⁉」


「そうですよ! このままじゃ体が――」


「説明はあとで! とにかく今は逃げること!」


 こちらに一瞥もせずただひたすらに、道なき道を通り抜ける。

 気になり後ろを振り返ると、光景に映ったのは無数の同じ軍服を着た人の姿だった。


 ゴッホも後ろを振り返ると即座に手を離し自らの足で逃げる。私もそうすることにした。

 一瞬で危険だということを予測した。そうすれば覚束無かった足が、不思議とスムーズに前へ出る。


モーリスの小刻みな息遣いと枝の折れる音、そして後ろからの足音だけが耳に入ってくる。

とにかく必死に逃げるしかない。


「そもそも何で分かったんですか、私たちの場所。完璧に隠れていたはずですし、来た時は誰もいなかったはずです」


「知らねぇよ! 急に向かいから突進してきたんだから‼」


 そんな事が本当にあるのか? まるで最初から居場所がわかっていたような感じがする。


 走れど走れどまだ追っ手は諦めない。川も抜けたのにそれでも追ってくるなんて、気持ちが悪いほどの執着心だ。


 さすがに息が限界になってきた。肺が締め付けられ、足が裂けるように痛い。

 これ以上していると捕まるのも時間の問題だった。


「旦那様!」


 モーリスの声に振り向くと、汗を垂らしながら『あっちに行け』のハンドサインを出していた。


「あいつらぶっ倒して来ますから。とにかく逃げてください‼」


 もう一度振り返る。モーリスなら何とかなるかもしれないが、そんな危険な真似を見過ごす理由にはいかない……


「モーリ――」


――ジャックドール!


 モーリスは短剣と己の肉体一つで、剣とライフルを構えた敵の渦へと勇敢に飛び込んでいった。


 彼女以外の人の姿が、周りの木々に叩きつけられた。

一人、また一人と痛みに悶えながら呻き声を上げる人が増えていく。中には出血している者もいた。


「早く逃げてください、オルフェ先輩。ここは、私とモーリス先輩で食い止めますから」


「いや、だけど……」


「後ろから敵が増えてきているのは分かっています。今は良けれどきっとこの先、先輩だけでは太刀打ちできません」


 ゴッホは影の中から鎌を取り出し、これからの戦闘を覚悟するように息を吐いた。


 戦う勇気もなかったが、それでも自分だけ生き残ろうと思う考えもない。

 

 ゴッホは指をパチンと鳴らすと、私と彼女たちの間にガラス張りの壁が出現した。

 叩けど何しどもびくともしない。


「大丈夫です! 軍人ですから!」


 ゴッホも同意するように頷く。軍人? 彼女が?


 ゴッホほど聡明な人間であれば国の政治機関の中枢に携わってもおかしくないと思うが、それは職業選択の自由として本人が選ばなかっただけか?

 私はしばらく怪しげな目でゴッホを見ていたのかもしれない、鋭い睨みを聞かせてモーリスと同じハンドサインを出した。


「貴方のために身を投じています。無駄なことをさせないでください」

 そうだ、彼女たちはこんな私のために自分の命を差し出そうとしている。


「先輩!」


「OK‼」


 二人が戦闘態勢に入ったのを確認して、私は一人奥へと逃げだした。

 それが彼女たちにできる唯一の務めだと言い聞かせて。

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