第16話 生きて、生きて。
「お前が……お前が悪いんだぞ、サトラ!!子供なんて身篭りやがって……!!俺を裏切ったお前が全部悪いんだ!!!」
状況が読み込めない。
どこから帽子を被ったこの男は現れた?
どうしてサトラは泣いている?
どうして……どうしてクライスは地面に倒れている??
どうしてクライスは——刺されている?
視界がぐにゃりと歪んでいく。
何が起きたのか分からない。処理速度が間に合わない。
ただ分かるのは。
「——エクター。」
震える声で俺は、相棒の名前を呼んだ。
「あの男を……捕まえろっ!!!!」
怒りと憎しみで思考が焼き焦がれそうだった。
それでも何とか理性で押し込んで、俺はエクターに向けて叫ぶ。
「……う、うん……!」
エクターは俺の言葉に一拍遅れて反応し、神術を使って謎の男を気絶させた。
気を失う間際、男はサトラの名前を呼んでいた。
憎しみに駆られ、全てを憎悪に蝕まれた声で。
その声に同情する事は出来ない。
たとえ誰かを憎む事でしか生きる目的を得られないとしても、この男は捨ててはならないものまで捨ててしまったのだから。
急いで俺とエクターはクライスの元に駆け寄る。
「クライス!!」
靴が、クライスから流れ出る液体で深紅に染まる。
クライスの身体は既に体温が下がり始めており、脈も弱まっている。
「どうしよう、ニカル……このままじゃ、クライスが……!!」
カタカタと小刻みに肩を震わせ、エクターは今にも泣きそうなか細い声で俺の名前を呼ぶ。
クライスの意識は無い。懸命に呼吸をしようとしてはいるが、吸い込む酸素があまりにも少なすぎる。
——考えろ。焦るな、俺……!今出来る、最善の行動をしろ!!
俺は、今にも意識を失いそうな状態のサトラの名前を呼んだ。
とりあえず今は、やるべき事を見つけなければ。こうして放心状態になってしまうのが、一番悪手だ。
「サトラ。家の中にタオルはあるか?なんでもいい、できるだけ長い布を持ってきてくれ。」
瞳孔が開きっぱなしで、焦点があっていなかったサトラは、俺の呼びかけにやっと自我を取り戻す。
「——はっ、……は、い……!!」
俺はクライスの胸部に耳を当てる。何とかまだ、心臓は動いているようだった。
ただ、このままにしておくと出血多量で命を落とすかもしれない。
サトラは俺の指示で自分の家の中に向かう。その足取りは覚束無いもので、彼女がどれほど焦りを感じているのかが、見て取れた。
その間俺はエクターに頼み、出来るだけ多くの酸素をクライスの口の中に入れるようにして貰った。
方法は至って簡単だ。神術で風を操り、クライスの周りに見えない膜を作った。その中に一定量の空気を送り込む。
そうしている間に、サトラは自分の家から数枚のローブを持ってきた。
そのローブを急いで繋ぎ合わせ、出来た布をクライスの腹部に巻き付ける。
出来るだけ力を込めて、圧力で出血を抑えられるように。
布で腹を巻き付ける度、クライスの悲痛な呻き声が聞こえてくる。
それに耐えきれなくなったのか、サトラはクライスに突き刺さった刃物を指さした。
「……あ、あの、この刃物は抜いてはならないのですか……??そうすれば痛みも軽減されるのでは……。」
「ダメだ。それだと寧ろ逆効果になる。抜いたら傷口からさらに出血して、血が足りなくなる可能性があるからな。」
俺とサトラで何とか応急処置を済ませる事が出来た。
この貧民街では、医者を呼びたくても難しいだろう。
ここは、一番得策な道を選ぶべきだ。
俺はゆっくりと立ち上がり、エクターに質問を投げかける。
「エクター、まだ神術は使えるか?」
「うん、何とか。」
ただでさえ、神経をすり減らすような神術の使い方をしているのに、これ以上無理をさせる事に引け目を感じながらも俺はエクターに頼む事にした。
こういう時、いつだってエクターは無理だとか、無茶だとか、やりたくないだとか、そういう事は言わない。
それを知っている上で頼む俺は卑怯な奴なのだろう。
「今からクライスを別荘まで運んでくれないか。俺は先に行って、使用人達に事情を説明してくる。」
「そういう事なら、任せて。」
「ああ、頼む。」
エクターならクライスの別荘の場所を知っているはずだ。
風で浮かせて運ぶのなら、人間が担いで運ぶよりも振動は少なく、その分ダメージも軽減できる。
俺はエクターにクライスとサトラの事を任せて、一人夜の街を奔走した。
汗だくでクライスの別荘に向かうと、夕方の侍女や門番が居た。
俺は屋敷の皆んなに事の経緯を説明し、医者を呼ぶようにと声をかける。
事の重大さも相まって、深夜だというのに屋敷の中は騒がしく、忙しなかった。
玄関で皆んなのバタつき用を見ながら次の行動を考えていると、執事長が俺の為に水を用意してくれた。
「どうぞ、ニカル様。」
「あっ、ああ、ありがとう。」
海辺の夜とはいえ、全力でここまで走って来たのだ。
ありとあらゆる穴から汗は滝のように流れ、疲弊しきった身体には水分を補給する事も大切だ。
貰った水を一気に飲み干すと、渇ききった喉が潤っていくのを感じる。
それから十分ほどして、ダールトン家専属の医者が到着した。
白衣も来ておらず、額には汗が滲んでいる。
かなり急いでここまで来たのだろう。
「クライス様は!?」
「まだこちらに向かわれている最中です。」
「とにかく、すぐにベッドの準備を!それから清潔な布をありったけ!」
医者がやって来て、より一層屋敷は騒がしくなる。
俺は医者に、事の経緯とクライスの容態を話した。
医者は俺の話を真剣に聞いたあと、玄関の時計を見る。
数秒黙り込んだ後で、医者は執事長とその場にいた者たちに聞こえるように告げた。
「——最善は尽くします。ただ、最悪の場合を想定してすぐに本邸に連絡を取れるよう、準備をなさってください。」
その言葉に、俺の心臓は跳ね上がる。
そうか。あの時時計を見たのは、刺されてからここに運ばれるまでの時間を計測していたのか。
もしも。ここに来るまでの間にクライスが息絶えていたら。
もう二度と目を開けなかったら。
そう考えるだけで、胸がぎゅっと苦しめられる。
……ダメだ、そんな事を考えるな。マイナスな方向に思考を持っていくな……!しっかりしろ、生きているという望みに賭けるんだ……!!
自分の自我を保とうと、必死に感情を押さえつける。
シャンデリアの眩い輝きが、心の中の不安という闇すらも消してくれないだろうか。
なんでそんなことを考えていた時、玄関の扉がばたんと勢いよく開いた。
現れたのは、俺が待ち焦がれた人物達。
医者が現れてから待っていた時間は凡そ十分ほどだったのに、その十分が永遠の時間のようにも思えた。
「——ニカル!おまたせ!!」
その声は、俺の心を軽くしてくれる。
いつだってエクターは、俺を支えてくれる存在なんだ。
そんなエクターの後ろにはサトラ。そして、寝そべりながら宙に浮くクライスの姿があった。
「エクター!待ってたぞ!」
「傷付けないように慎重に運んでいたら、思ったよりも時間がかかっちゃった……。」
クライスの痛々しい姿に、屋敷にいた全員が絶句する。
それでも、俺はこいつの図太さを信じている。
昔からずっとその生命力の高さでこいつは窮地を脱してきた。
だから、今日だってきっと……。
「急いでクライス様を二階に!!」
そこからは医者の指示の元、手早い処置が施された。
エクターの神術でクライスは二階にある自室に運ばれ、そこで医者による緊急処置が行われた。
その間、屋敷の使用人含め俺達は部屋に入る事を許されなかった。
ただ神に祈るように、その重く暗い扉が開かれるのを待つのみ。
手術は二時間ほどかかった。
その間、客間に通された俺達はサトラから事情を説明して貰った。
「クライス様を刺したのは、私のお客様です。常連のお方だったのですが、段々と私に対する要求が増えていき、出禁になっておりました。それからというもの、嫌がらせが始まったのです。最初は変な噂が流れたり、店に落書きをされたり程度だったのですが日を追う事に嫌がらせは酷くなり……。これは後に店長から伺ったのですが、あの日薬を入れ替えるように指示を出したのもあの方だったそうです。」
つまり、全ての元凶を作ったのがあの帽子男だったという事か。
今日、あの場に現れたのも偶然では無くずっと前からサトラの家に張り込んでいたのだろう。
そして、サトラが幸せになる事を決して許せなかった。
ましてや、自分以外の男を選ぶなんて以ての外だったのだろう。
とは言っても。
「——身勝手すぎるよ。そんなのただの逆恨みじゃん!それでクライスがこんな目に遭うなんて……そんなの、やるせないよ……。」
エクターの怒りは最もだ。
俺だって、同じ気持ちを抱いている。決して態度にも言葉にも出さないけれど。
こうしてサトラの話を冷静に聞いていられるのは、俺の代わりにきちんと腹を立てて、感情的になってくれるエクターがいるおかげなのだろう。
「クライス様は私を庇って下さりました。私のせいで……私が……!」
対面に座るサトラの瞳は揺れていた。
膝の上に置かれた拳は小刻みに震えている。
彼女の苦しみは、きっとサトラにしか分からない。
ただ、自分のせいで大切な人を傷付けてしまう事の痛みは、俺もよく分かる。
だからこそ、自分を責めるサトラに言わなくてはいけない。
これから先、俺みたいな人間にならないように。
「——それは違うぞ、サトラ。」
その声にサトラは静かに俺の方を見る。
もしかしたら俺は今、酷い言葉を彼女に送っているのかもしれない。
人間としてここは励ます事が正解なのだろう。そんな事ないと言ってあげるべきなのだろう。
でも、そんな取り繕った上辺だけの慰めではサトラは救われない。
だから今俺が口から吐く言葉は全て、サトラに向けた怒りだ。
これはきっと俺にしか言えない事だから。
「自分のせいだと思っているのなら、それは身の程知らずにも程がある。いいか、よく聞け。クライスはお前だから自分の命を賭けてでも守ったんだ。お前と、そしてお前の中にあるもう一つの命の為に。自分のせいだと己を責めるなら、それはクライスの行動を全て否定する事になる。お前は、自分を愛してくれた男の全てを否定するつもりか?だとしたら、何様きどりだ、お前。」
もっと別の言い方があったかもしれない。
でも、わりいなサトラ。俺はこういう性分でさ。回りくどい言い方は好きじゃないんだよ。
サトラは俺の言葉に口をぽかんと開けていた。
鳩が豆鉄砲を食らったかのように目を丸くさせていた。
そして数秒経った後で、静かに微笑む。
「……そうですね。……ええ、ニカルさんの言う通りです。私は危うく、クライス様の勇敢さを無下にしてしまう所でした。『私のせいで』ではありませんね。——『私の為に』クライス様は身を呈して下さったのですから。」
その顔は、俺の言いたかった言葉を全て理解したような笑顔だった。
あんなに正面から殴るような発言を、彼女はしっかりと受け止めた。
その細身の身体から、守られるだけの女だと思っていたがどうやらそれは俺の見当違いだったらしい。
なら、言うべき言葉は一つだけ。
「なら……クライスが目を覚ましたら、あいつに伝えてやれよ。自分の言葉でちゃんと、な。」
サトラは、はいと笑ってみせた。
クライス。前にお前に向けた言葉は全て撤回するよ。
——お前、女を見る目があるんだな。
だから、そんなサトラの為にも絶対に死んだりするなよ。
そして、客間の扉がゆっくりと開かれる。
現れたのは執事長だった。彼は深々と俺達に頭を下げる。
「先程処置は終わり、クライスが目を覚ましました。クライス様のご希望で、皆様をクライス様の元までご案内します。」
その言葉に俺達は一斉に執事長の元に駆け寄る。
「本当ですか!?」
サトラの安心と喜びに満ちた声が木霊する。
やっぱりあいつは図太い奴だ。
こんな時だって生きてやるという意思だけで、窮地を脱してみせるんだから。
「なら、今すぐ会いに行こうよ!」
エクターの弾む声に、俺とサトラも頷いてみせる。
けれど執事長は俺達の声に応える事はなかった。
そして、執事長はそのまま顔を上げる事無く淡々と俺達に告げた。
「——クライス様は、持ってあと三時間だそうです。皆様、ぜひクライス様の最期を見届けてあげて下さい。」
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